驚く俺とは逆に、両儀は冷静にああ、と頷く。
「なら話は早い。落ち込んでる時はな、意味がなくてもいいからそいつらに面倒を押しつけちまえばいいんだよ。その場しのぎでもけっこう楽になるぜ。こっちの悩みなんてほっといて、くだらない話をするだけでいいんだ」
「―――今はいない。遠くへいった」
少女の言葉に、俺は何も言えなくなった。両儀の声がひどく淋しそうに聞こえてしまって。
けれどそれは俺の気のせいだったのか、両儀はダン、とベッドを殴りつけて独りでに怒りだしてしまった。
「だいたいあいつは勝手だ! 好きかってうちにやってくるかと思えば、オレに教えるのは電話番号だけときた。夏の時だって一ヵ月も寝込みやがって、なんだってそんな事でオレが苛々しなくちゃいけないんだ!」
ばたばた、と暴れる音がした。
今度こそ、ほんとうに、信じられない。
あの両儀が、ベッドの上で手足をばたつかせて暴れている―――。
いや。実際はそんな生易しいものじゃなくて、枕にナイフでも突き刺しているのかもしれない。何しろ音がバタバタからザクザクというものに変わりだしている。
真偽を確かめるのが恐くて、俺は両儀に振り返るのだけはやめておいた。
少々暴れると両儀は静かになった。
ともあれ、両儀をここまで狂わす友達とやらが羨ましい。
俺は、そいつの事を聞きたくなった。
「なあ両儀」
「……………」
まだ機嫌が悪いのか、両儀は答えない。俺はかまわず続けた。
「その友達ってどんなヤツだよ。高校の知り合いか?」
「――ああ。高校の知り合いで、詩人みたいなヤツ」
感情が空っぽな呟きで両儀は答える。
どこらへんが詩人みたいなのか、同い年なのか男か女なのか、なんて事は訊かない事にする。俺が知ってもさしたる意味はあるまい。
「で、おまえが夜出歩くのって、そいつが原因なのか」
両儀は少しだけ考え込んだ。
「違うよ。夜歩くのはオレの趣味だし、殺人衝動もオレ一人のものだ。誰も関係はない。問題はオレ個人のものだから、今の自分がどんな状態なのかも分かってる。
……ふん。ようするにさ、おまえを不安にさせるぐらい、今のオレは地に足がついてないってコト」
淡々と、まるで他人事のように両儀は言う。
「不安って―――別に俺は不安になんか……」
「オレに殺されると思ったって、言ったクセに」
綺麗な声が、首の後ろにかけられる。
……冷たい蛇が首をなぞっていくような感覚。
俺は自分の背後で寝そべる相手が本当に人間なのか、ほんの一瞬だけ、疑問に思った。
「ほら、今もそう思った。でもそれは見当違いの不安だよ。オレが殺人をするのは生きてる実感が湧かないからだ。おまえは対象にならない」
……どういう意味だろう。俺――臙条巴を殺しても、両儀は楽しくないって事なんだろうか。
「でも―――そうだな。やっばりおまえは新しい隠れ家を探すべきだ、臙条。オレは生きてる実感が湧かないだけだけど―――きっと、両儀式は人殺しが好きなんだ」
ぽつり、と告白するような神妙さで両儀は呟く。
落ちた声のトーン。心情の不安を吐露する、とぎれそうな声。……ちくしょう。ただでさえ遠い女が、よけい遠くに感じられちまった。
それで悟った。俺はこいつを怖れているのと同じぐらい―――いや、それ以上に惹かれているんだって。
「―――ばかヤロウ、そんな事あるか」
とにかく両儀の言葉を否定したくて、言葉を繋げる。
「おまえは情緒不安定なだけだ。さっさと友達とやらを呼びつけて、無理難題でもふっかけやがれ。友人なんてのはその為にいるんだし、そうしないと離れていっちまうものなんだからな―――――」
そこまでまくしたてて、言葉を切った。さっきの両儀と同じだ。感情にまかせて思いを口にして、気が付いてはいけない事に気が付いてしまった。
「―――そういう事だ。俺は寝るぞ」
苦虫を噛み潰すように吐き捨てて、床に寝そべった。
両儀が何か言っていたが、俺はそれを無視して眠る事にする。
今夜はこれ以上、両儀とまともに話が出来る自信がない。
……理由は簡単だ。自分の言葉に胸を衝かれた。
そう、どうしたって。
俺には、その友達の役がまわってこない。
/4
(矛盾螺旋、4)
その日、俺は両儀と初めて出会った路地裏にいた。
昼間だというのに人通りもなければ、街が持つ様々な雑音すら届かない。あの時の血の跡も綺麗になくなったそこで、俺はひとり白い息を吐いて立っていた。
がちがちがちかち。
十月も終わろうとしている。俺が家も仕事も、何もかもを捨てて逃げ出してから一ヵ月が経過しようとしている。
なのに、警察が俺を捜し回っている気配はなかった。そればかりか毎日律儀にデパートに通ってはテレビのニュースをチェックしているというのに、俺がやった殺人事件は報道されていないのだ。新聞だってそれなりに目を通しているが、やはりそんな記事は見当たらない。
あの事件は、そんじょそこらの通り魔事件とは系統が違う。間違いなくテレビの視聴者受けする話題なんだ。だから簡単に事故として処理されるはずがない。
「――まさか―――まだ、発見されてないのか」
呟いた自分の声に、俺は胃の中のモノを吐きそうになる。
あんな奴らどうだっていいのに―――ただ、死体のまま一ヵ月も見つからずに放置されている光景を思っただけで、ひどい憂欝に襲われた。
見に行ってみようか――――いや、それこそ無理だ。そんな勇気はないし、警察が見張っているかもしれない。
どちらにせよ、俺にできる事はこうやって外から様子を見るだけなのだ。
―――ただ一回。
一回でいいからテレビで事件として報道されれば、俺もケジメがついて両儀の前から消えられる。臙条巴が殺人犯として世間に知れ渡れば、両儀に迷惑をかけるから―――俺は未練を断って、この街を離れられるのだ。
「くそ、なんだって、俺は―――」
両儀から、離れられないのだろうか。
がちがちがちかち。
風が強くなってきた。冷たい北風に追い立てられるように、俺は路地裏から歩み出た。
そのまま街を歩いていると、遠くの横断歩道に両儀の姿を見かけた。着物姿に革ジャンなんていうスタイルは、あいつの他にはありえない。
俺はそれを遠くから見ていて―――見覚えのある顔を見付けた。
俺と両儀が会った夜、その原因を作った連中の一人だ。そいつは慣れた足取りで、ごく自然に両儀の後をつけていた。
かち、がちがち、がち。
―――なにか、やばい。
俺は人込みに紛れながら、両儀を尾行する男を尾行する。
そいつはしばらく両儀を付けまわすとどこかに行ってしまった。その後、交替役としてあの時のメンバーの一人が両儀の尾行を引き継いでいく。
連中は両儀をどうにかするつもりではなく、ただ尾行しているだけのようだ。それにしても―――あいつらにしては、舌を巻くほど動きが組織的で無駄がない。
一時間も連中を監視していて、俺は交替して去っていったヤツが何処に行くのか知るべきだと気付いた。
ちょうど両儀にハイキックを食らって悶絶した野郎が、尾行を終えて去っていく。
早足で迫いかけるとヤツは―――さっきまで俺がいた、あの路地裏へと入っていった。
――――罠だ。
何の為にかは知るものか。それでも、これは間違いなく不吉な意味合いを持っているに違いない。
俺は路地裏へ続く、細い線のような道の入り口で立ち止まると、その奥を凝視した。連中が何をしているか、ここからなんとか探れないか。
目を凝らすと、誰かが立っていた。
ワインレッドの、長いコートだ。
スラリとした長身の人影は男性だろうか。髪は長く、金色をしていた。遠目からでも、人を見下すようなキザったらしい顔立ちが判る―――。
それで―――あいつは誰だったか。
「■■■■■■――――――――」
耳元に流暢な発音が流れていく。
ハッとして振り返っても、そこには誰もいない。
急いで路地裏に向き直ると、コートの男も消えていた。
冷たい北風が吹く。
がたがたと、体が震える。
俺は、臙条巴の意思とは無関係に震える体を抱いて、
訳もなく泣きだしそうになる気持ちを必死に堪えて、
秋の終わりと、俺そのものの終わりを感じていた。
◇
夜になって、俺は両儀に尾行されている事を教えてやった。あの夜の連中が本格的におまえを監視しているんだ、と。
けれど、両儀の答えはいつも通りの簡潔さだった。
「へえ、そう」
それで? と濁りのない瞳が問いかけてくる。
俺も、今度ばかりは理性の|箍《たが》が外れた。
「それで、じゃねえだろ。監視してるのは連中だけじゃないんだ! 赤いコートの外人とかに覚えはないか?」
「そんな愉快な知り合いはいないよ」
両儀はそれきり、この話には反応しなくなった。
興味をなくしたのだろう。こいつは両儀式本人にどんな影響を与える出来事でも、両儀本人がつまらない事だと認識すれば何だって放っておくのだ。
冤罪で殺人犯にされても気にしない。大事なのは外の評価ではなく自分の気持ちだけだろうから
……ああ、俺だってそうであろうと望んでいたし、それが自然ですらある両儀を気高いと思っている。だが今回ばかりは例外だ。
あいつらは―――いや、あいつは本物だ。
俺や連中のようにニセモノ、作り物の危険性じゃない。両儀と同じ、混ざり気のない衝動を持っていたんだ。
「話を聞け! これは他人の事じゃない。他ならぬおまえ本人の事なんだぞ! 少しは心配する俺の気にもなってみろ!」
怒鳴る俺が|煩《わずら》わしくなったのか、着物の少女は器用にベッドの上であぐらをかいて見上げてきた。
この時、俺は、本当にムキになっていたと思う。 両儀があんまりにも無関心だからじゃない。理由は、もっと単純だ。それは――――
「うん。そりゃあ確かに他人の事じゃなくてオレの事だ。なのになんで、臙条がオレの事で心配するんだ?」
だから、それは―――
「この馬鹿、心配するに決まってんだろ。俺はおまえに死んでなんかほしくないんだ。俺は――おまえに、惚れてるから」
鬩ぎ合っていた空気が、ぴたりと止む。
……言った。もうじき消えるべき俺が、口にしてはいけない事を口にしちまった。
この言葉は何より―――俺自身の為に、形にしてはいけなかったのに?
両儀は不思議なものでも見るような目で、俺を見ている。
数秒ほどたって、着物の少女は笑いだした。
「ははは、何いってるんだ臙条! おまえがオレに惚れるなんてあるもんか。その赤いコートの男に催眠術でもかけられたか。よく記憶を確かめてみる事だ、きっとおかしな音がまざってるぞ!」
両儀―――式は、笑って相手にしない。
どのような確信があるのか、彼女は本当にそんな事はないと断言した。
俺は、もちろん―――そんな事は認めない。
「違う! 俺は本気だ。おまえを見て、初めて人間を美しいと感じたし、ようやく近い人間に会えたと思った。おまえは本物だ。俺はおまえの為なら、何だってやってやる――――」
座り込んだ両儀の肩を掴んで、俺は両儀を睨む。
両儀は笑うのを止めて見返してきた。
「ふうん、そっか」
乾いた声。
両儀の手が俺の襟元を掴む。と―――俺はくるん、と紙にでもなったみたいな軽さで回転して、ベッドに仰向けに倒れこんでしまった。
その上に、ナイフを手にした両儀がいる―――。
「なら、オレの為に死ねる?」
喉元に、刃が触れる。
両儀の目は、どうという事はない。
いつも通り無関心にナイフを下ろして、無関心に俺を殺すだろう。
両儀は自分の為に何かをやって死ねるか、と聞いているんじゃない。
自分の快楽の為に殺すよ、と言っている。今のはそういう意味の言葉だ。
―――こいつは、そんな事でしか愛情を知れない。
死ぬのは恐い。今も身動きできないほど恐ろしい。けど、自分はどうせ長くないのだ。人殺しをした俺は、いずれ警察に捕まって二度とこちら側に戻ってくる事はない。なら――――
「いいぜ。おまえの為に死んでやる」
言った。
両儀の目が、人間らしい色を帯びていく。
「好きにしろ、どうせ先は短いんだ。俺は親殺しだからな。下手すりゃ死刑さ。それなら――――絞首台より、おまえのほうが巧そうだ」
「親殺し?」
ナイフを俺の喉元で止めたまま、両儀が繰り返す。
俺は今まで隠していた記憶を、殺される直前に語りだした。それはきっと―――死ぬ前に、一度ぐらいは懺悔の真似事をしてみたかったからだろう。
「ああ、俺は両親を殺したんだ。ダメな親でさ、俺の目を盗んで借金しては遊びまわる。俺もいいかげん面倒みきれなくなって、何度も何度も―――何かの間違いで死にそこなわないように何度も―――包丁で内臓をかきまぜた。
俺の家は暖房もねえからな。あの夜は寒かっただろ? 吐く息も白くてさ、人の臓物のほうがあったかいんだ。人間のハラん中から湯気がたちのぼるなんて、一生に一度見れるか見れないかだぜ!
へへ、まったく―――何もかも痺れて俺は馬鹿になってたんだろうよ。指は包丁を放さねえし、腕はいつまでもハラワタァかきまぜやがる。そのうちさ、俺は親を殺す為に刺したのか、ハラをかきまぜる為に刺したのか分からなくなっちまって、それが人間だったかどうかさえ分からなくなっちまった」
泣くかな、と思ったが涙は出なかった。
むしろ妙な清々しささえある。俺はあの不出来な親を殺して、本当に自由になったんだ、と。
「―――巴。おまえ、どうして殺したんだ」
目の前の女が、尋ねた。
考える。俺はどうして殺したんだろう。
憎かったのか。煩わしかったのか。違う、そんな綺麗な感情じゃない。
俺は―――――恐かったのだろうか?
「俺は、恐かった。夢を―――見るんだ。
仕事から帰ってきて、布団に入る。しばらくすると隣から母親と父親の言い争う声が聞こえて、襖が開く。父親が血塗れになっていて、母親が立ってた。母親はそのまま俺を刺し殺すと、自分の喉を刺して死ぬ。
初めは、俺はそのまま死んだかと思った。でも違う。朝になって目が覚めれば、そんな事はない。俺はきっと、両親を殺したくて、でも出来なくて、そんな夢を見たんだろうよ。それから――その夢を毎晩見た。
毎日毎日、その夢を繰り返した。夢といっても毎日だぜ。いいかげん耐えられなくなる。俺は、俺が殺される夜が恐かった。もうあの夢を見たくなかった。だから―――もう見ないように、殺される前に殺しただけだ」
そうだ。あの夜。何かの用事で襖を開けた母親を、隠していた包丁で滅多刺しにした。何度も殺されたんだ。今までの鬱憤を晴らすように、念入りに殺してきた。
俺は自由だ。あんな不出来な両親にも、あんな不気味な夢にも、もう縛られる事はない。
くそ、なんて―――汚れた、自由。
「―――罵迦だな、おまえ」
本気で両儀は言う。その遠慮のなさは、逆に俺をスカッとさせた。
本当に、まったくその通りだ。俺は頭が悪いから、それ以外の逃げ道を考えつかなかったのだ。だが後悔はしていない。結果として警察に捕まるにしても、あの日々よりは幾分はましだろうから。
……ただ、ひとつ。自らの罪を口にして気がついた。
俺は自分の事だけを決めてきた人間だ。そんなヤツがたとえ本当だとしても。他人に惚れているなんて口にしてはいけなかった。……そんなシカクさえない。両儀が笑って相手にしなかったのも当たり前だ。けど……こいつを守りたいという気持ちだけは本物なんだ。ニセモノだった俺にある唯一の本物なのに。薄汚い人殺しの俺では、その思いさえ汚れている。―――悔やむといえば、今はそれが後悔だった。
それが判ってしまった途端。さっきまで俺を激情にかりたてていた熱病は、新品に取り替えられて捨てられた旧型のテレビみたいに、急速に冷めていった。
「それでも―――」
俺は、あの殺人を後悔などしていない。
あの殺人はしなくてはいけない事なのだと、心の底で巴が言っているんだ。
両儀は遠い|眸《ヒトミ》をしていた。
臙条巴という俺の中心を見透かすような、一点の曇りもない観察。
「―――ひどい間違いだ。我慢するのがおまえの長所だったのに、結局、辛いほうを選んだんだな。初めて会った時、|臙条巴《おまえ》は臙条巴をないがしろにしていた。未来をなくして空っぽになったおまえは、今みたいに死にたかったのか」
……俺を気紛れで殺そうとする少女。
……俺が殺されてもいいと思った少女。
そのふたつが問いかけてくる。
……どうだろう。
あの夜、俺は俺をどうでもよく扱っていた。相手を殴り殺してもいいと思ったし、逆に殴り殺されてもいいと思った。けど、死にたくもなかった。あの時は、そう……ただ生きるのが難しかっただけだ。
目的もなく生きている、ニセモノみたいな自分が無様だった。死にたいと思うクセに自殺もできない自分が醜くて、居たくなかった。
こうして両儀に自らの罪を明かしている今だって死ぬのは御免だ。
―――でもどうせ、人間は最後には死ぬ。
俺はそれが人より少し早くて、人より無様で、人より価値がないだけだ。……そうか。それが、きっと耐えられない。
無価値な、つまらない死に方。
そんなふうに死ぬのなら、いっそ――――
「―――おまえの為に死んだほうが、よっぽど本物らしくていい」
「お断りだ。おまえの命なんて、いらない」
ナイフが外れた。
興味をなくしたネコのように、両儀は俺から離れていく。
何処に行くというのだろう。両儀は革ジャンを手にとって出かける支度をする。
俺は、それを見つめる事しか出来なかった。
「なあ臙条。おまえの家って、どこだ」
両儀の声は、初めて出会った時のように冷たい。
……俺の家は借家を点々と渡り歩いた。半年もすれば家賃を払えなかったり、借金の取り立てがひどくて追い出されたからだ。俺はそれがイヤで―――子供の頃からイヤで、普通の家がほしかった。
「聞いてどうする。どこぞのマンションの405号室だよ」
「そういうことじゃない。おまえの帰りたがってる家の事だ。わからないのならいいさ」
両儀が部屋のドアを開ける。
去りぎわ、少女は振り返らずに言った。
「じゃあな。気がむいたらまた使え」
両儀は消えた。
一人だけ残されるとここは殺風景すぎて、色が白と黒しかないみたいだ。
俺はなにもかもモノクロづいた、錆びついた心の有様で一ヵ月過ごした部屋を見つめ、去ることにした。
/5
(螺旋矛盾、1)
冬が来た。
僕にとって今年の夏が短かったように、街そのものにとって今年の秋は短かったようだ。
事務所の窓から見渡せる街並みは、今にも雪が降りだしそうな寒空をしていた。例年にない異常気象は、四季の四文字の中から秋という言葉だけ抹消してしまったのかもしれない。そう思わせるほど、日々に秋の面影は残されていなかった。
そう。九月の終わりから十一月七日である今日までのわずかな期間、秋は生き急ぐ競走馬のように走り抜けた。
その間の僕はというと、十月の初めあたりから親戚が経営している自動車免許の教習所に通っていた。この教習所は長野の田舎にある寮制の学校で、生徒を三週間ほど合宿させて一般の教習所の課程を手早く済ませてしまうというものだ。
一ヵ月近くこの街を離れる事に、僕は気乗りしなかった。けれど親戚の勧めは断れず、職場の所長である橙子さんもこの合宿には賛成だ、という事で止むなく合宿に行く事になった。そうして教習所なんだか収容所なんだかワカラナイ三週間が終わって、僕は生まれ育った街に帰ってきたわけである。
「……ええっと。氏名は、黒桐幹也」
手にした免許証を、意味もなく読み上げてみる。
キャッシュカードより小さい免許証には、きちんと僕の名前が印刷されていた。その他には本籍、生年月日と今の住所、おまけに顔写真まで付いている。本当に最小限のパーソナルデータを記しているだけなのに、一個人が所有できる身分証明書の中では一番汎用性に富んでいるという一品だ。―――そのあたりが、どうにも不思議で仕方がない。
「この免許って何の資格なんでしょうね、橙子さん」
同じ部屋の片隅、ベッドの上で眠っている橙子さんに話しかける。もちろん、答えなんて期待していない。
「―――契約書だろ、それは」
なのに、橙子さんは律儀に反応してくれた。
この人は質の悪い風邪にかかってもう一週間近く寝込んでいたりする。さっきまで三十八度の熱に負けて寝込んでいたのだが、たった今目を覚ましてしまったみたいだ。
理由は―――たぶん、お腹が減ったからだろう。
だって、時刻は正午に差しかろうとしているんだから。
今、僕は会社の事務所にいる。
正確には事務所のあるビルの四階の、普段は滅多に入らない橙子さんの私室だ。僕は窓際に椅子を移動させて取ったばかりの免許証を眺めており、橙子さんはというとベッドに横になっている。
……これは別段色っぽい事情ではなく、単に橙子さんが風邪をこじらせて寝込んでいるだけだった。合宿から帰ってきた僕を待っていたのは無言で何かを非難してくる式と、風邪でダウンしてしまった会社の所長だった訳である。
この二人は僕がいない間により親しい仲になったというのだが、式は橙子さんの看病はきっぱり断って、あまつさえそのまま脳が蕩けてしまえ、とまで言ったらしい。……相変わらずの冷血ぶりを発揮する式は、僕とは高校時代からの友人だ。フルネ―ムは両儀式。性別は女の子。口調が乱暴なので勘違いする人がときたまいる。
一方、目の前で額を濡れタオルで冷やしている女性は蒼崎橙子という人で、僕が勤めている会社の所長だ。社員は僕しかいないので、会社と口にするのは少し抵抗がある。
この人は天才肌の人間で、そういった人の例に漏れず知人が少ない。風邪を引いても何もせず、一日中寝ていたのだそうだ。本人日く、今年の風邪に対する免疫が今の体にないのだからどうしようもない、と開き直っていたらしい。
……免疫がないのならそれこそ眠っている場合ではないと思うんだけど、魔法使いである橙子さんはお医者さんの世話になる気はないのだろう。きっと、プライドあたりが邪魔をしているに違いない。
そういった事情があって、僕は一ヵ月ぶりにホームに帰ってきたというのに式とはあまり会えず、橙子さんの看病をするはめになっていた。
契約書、と気のない答えを返すと、橙子さんは枕元の眼鏡を手に取った。
背中までの黒髪はいつも頭に結っているのだが、今日は病人らしく伸ばしたままだ。普段は険が強すぎて美人である事が判らないが、風邪でまいっている今の橙子さんは別人かと思うほど穏やかで、綺麗だった。
まだ眠りから目覚めきらない意識を明瞭にする為だろう、橙子さんは話を続ける。
「あれはね、運転技術を習得しましたっていう契約書なの。大事なのは学んだ事なのに、目的が入れ替わっちゃってるでしょ、この国って。学んだ結果で資格を得るんじゃなくて、資格を得る為に学んでる。だから資格を手に入れた時点で、学んだ事の意味が消えちゃうの。これだけ学びましたっていう証拠になりさがった資格なんて、契約書みたいなものでしょう」
意味による堂々巡りの閲ぎ合いよね、なんて事を付け足して橙子さんは体を起こした。
「でも、資格ってそういうものなんじゃないですか。誰だって目的があって勉強するわけですし」
「もちろん逆もあります。堂々巡りなんだから目的と結果、行動と過程は背離するものです。免許をとってしまったから車に乗るようになった人もいるでしょう。自動車免許をとる時、教習所に行かずそのまま試験を受けにいくだけの人だっているわけですし」
眼鏡をかけている橙子さんは優しい口調になるのだが、今日は風邪引きという事でさらに親切な言葉遣いをしていた。
余談ではあるが、この人は唐突に試験センターにいって学科試験と技能試験で文句のつけようのないほどの成績をだし、試験官に睨まれながら自動車免許をとったという。
「教習所に通わないで免許をとれるって事は聞いてましたけど、橙子さんはぶっつけ本番ですか。……そうですね、所長が教習所に行ってる姿なんてとても―――」
―――恐くて、想像できない。
呑み込んだ言葉の後が気に障ったのか、橙子さんは細い眉を寄せてこちらを睨んできた。
「失礼ね幹也くん。その頃の私はまだ学生だったから、教習所にいっても場違いなんて事はなかったわ。そこらへんにいる大学生みたいなものです」
不満だ、とばかりに目を閉じて橙子さんは言う。
……なるほど。言われてみれば、橙子さんだって十代の頃があったんだ。まだ学生だったという彼女の愛らしい少女像を想像して、僕はつい息を呑んでしまった。それが、心臓が締め付けられるぐらい強力な精神攻撃だったからだ。
「……そっちの方が遥かに異次元めいてますね、所長」
「―――病人が相手だと本音が出るのね、キミは」
もちろん。普段いじめられているんだから、こういう時ぐらい反撃しておかないとバランスが悪くなる。
タオルでも交換しようと席を立つと、橙子さんはおなかがへった、と実にストレートな欲求を示してきた。困った事に作り置きのお粥は今朝で底をついている。
「店屋物でも取りましょうか。|昏月《こんげつ》の月見うどんとか」
「だぁめ、食べ飽きちゃいました。ねえ幹也くん、なにか作ってくれない? 一人暮らしなんだからたいていのモノは作れるでしょう?」
……一人暮らしだから自炊できる、というのは一体どこの誰が撒き散らした通説なんだろう。橙子さんの期待のこもった視線に肩をすくめながら、僕はいささか残酷な事実を、しかしきっぱりと宣言した。
「すみません、僕が作れるものは麺類だけです。最低ランクがカップにお湯をそそぐ、最高ランクがパスタを茹でるという調理ですね。それでいいなら台所を借りますけど」
予想通り、橙子さんはあからさまに嫌な顔をしてくれた。
「じゃあ今朝のお粥はどうしたの? コンビニものとは思えない味だったけど」
「あれは式ですよ。本人は滅多に料理はしないんですけど、和風のご飯ならすごい腕前なんです、なぜか」
へえ、と橙子さんは意外そうに目をしばたたく。その意見には僕も同感なのだが、本当に式は板前さんも真っ青なぐらい料理上手なのだ。両儀の家は名家なので、式はもともと舌が肥えている。本人はなんでも食べるのだが、それは自分が作っていないからどんな味でも許せる、というものらしい。式が料理する、という事は本人が納得するレベルの料理をするという事で、結果として調理の腕前が上がるのは当然といえば当然なのだ。
「―――驚いた、式が私に何かしてくれるなんて。でもまあ、そっか。刃物の扱いは慣れてるものね、あの子。……仕方ない。机の上に錠剤の入った壜があるから、全部持ってきてくれない?」
食事にありつけないと知って、橙子さんはまたベッドに横になる。
橙子さんの机には三つの薬壜があって、それを手に取る時―――一枚の写真が目に入った。
外国の風景だろうか。石造りの道と、映画にでも出てきそうな時計塔。今日のように今にも雪が降りだしそうな曇った空の下、三人の人物が並んでいる。
二人の男性に、一人の少女。
男達はどちらも長身で、一人は日本人のようだった。もう一人は地元の人間らしく風景に溶け込んでいて、違和感がない。いや―――日本人の男性があまりにも強すぎるのだ。昏い表情で佇む日本人の存在感は、強烈すぎて風景から浮き彫りにされている。……胸が苦しくなるほどの重苦しさ。それを、僕は以前間近に感じた事がある。
あれは、そう。忘れようのないあの時の感覚ではなかったろうか。それを確かめるために写真を凝視すると、それ以上に印象的なモノを見てしまった。
黒い和服のようなコートを着た日本人の男性と、赤いコ―トを着た金髪碧眼の美男子。
その二人の間に少女はいた。
黒い、日本人の男が着ているコ―トが薄く見えるほどの黒檀の黒髪。腰より下まで伸びている髪は、長髪というより何か別の、美しすぎる飾り物のようだ。
まだ十代のあどけなさを残した静かな面立ちは、
一言でいうと|玲瓏《れいろう》だろうか。少女は、写真越しにでも魂を抜き取られそうなほど、華麗すぎた。―――日陰の花めいた美しさをもつ日本の幽霊と、外国の童話に出てくる妖精が融け合えるとしたら、こんな人間になるんじゃないだろうかと思うほどに。
「橙子さん、この写真――――」
知らず、僕は呟いていた。
横になった橙子さんは眼鏡を外しながら答えた。
「うん? ああ、それは昔の知り合い達だよ。顔を思い出せなくなったんでね、アルバムからひっばりだしたんだ。―――ロンドンにいた頃の、ただ一度の不覚というヤツさ」
眼鏡を外した橙子さんは、その口調が豹変する。
以前、友人である両儀式はどこか曖昧な二重人格者だったが、蒼崎橙子という人は本当に人格が力チリ、とスイッチが入ったように切り替わる。本人に言わせると人格ではなく性格を切り替えているだけ、という話なのだが、僕からみればどちらも大差ない問題だ。
眼鏡を外した橙子さんは、一言でいうと冷たい人間だ。
冷たい言動、冷たい思想、冷たい理論―――それらで象られた人間像が、眼鏡を外した橙子さんなのだ。
「さて、何年前の話だったかな。妹が高校にあがろうとしていた頃だから、かれこれ八年以上前か。人の顔を覚えるのは得意なんだか、思い出すのはどうも苦手だ。無駄な行為だから、カタチよく整理する気にもなれない」
橙子さんは横になったまま、物思いにふけるように喋っている。……橙子さんが自分の昔話を口にするなんて、ちょっと考えられない。風邪というものを引いたのは初めてだ、というのは本当みたいだ。こういうのを鬼のかくらんと言うのだろう。
「ロンドンって――その、イギリスの首都ですよね」
三つの薬壜を橙子さんの枕元に置いて、近くの椅子を引っ張りだしてベッド脇に座る。橙子さんは薬壜から錠剤を取り出して呑み込むと、やっぱり横になったまま話しだした。
「そうだよ。当時、祖父の元から飛び出してしまった私には住みかがなかった。一から工房を作れるほど技術も資金もなかった新米魔術師は、大きな組織の下に入るしかないと打算したのさ。大学と一緒だ。機構自体は古び、磨耗し、衰退しているが施設そのものに罪はない。大英博物館の裏側には古今東西の研究部門があった。流石は現在の魔術師達を二分する協会だ。アレは、私が望む以上の秘蔵量だった」
熱に浮かされたように独りごちる橙子さんの顔色は青くなる一方だ。
さっきのクスリは薬ではなく毒だったのではないか、と危惧する僕を、橙子さんは毒じゃないぞ、と言って止めた。
「いい機会だからもう少し話をさせろ。
……まだ二十歳そこらの小娘が学院に留学するのは難しい。なおかつアオザキは異端者扱いだったからな。入る為に私はルーン魔術を専攻する事にした。当時、ルーンは人気もなく学ぶものが少なかったからね。協会側も研究者は欲しかったんだ。そうしてあちらでルーン文字を安定させるのに二年、トゥーレ協会にあるオリジナルに近付けるのにもう数年。それでようやく自分の研究室を持てた頃だったか。
目的である人形作りに没頭していたある日、私はその男に出会った。もとは台密の僧だという変わった遍歴の持ち主で、地獄のような男だった。強い意志、鍛え上げられた自己の殻は、一途なまでに燃え盛る業火に似ていた。
……地獄のような、というのはね、黒桐。もし地獄という概念が意志をもって人間としてのカタチを持ったとしたら、という仮定だ。それほどにヤツは他人を受け入れず、ただその苦しみだけを吸い続けていた。魔術師としての能力は穴だらけだったが、ヤツの自己の強さは何音をも凌駕していた。
―――私は、そんな不器用なヤツが気に入っていた」
自ら語る思い出の男性を睨むように、橙子さんは目を細める、それは憎しみとも哀れみともとれる、難解な眼差しだった。
話の内容もよく解らず、そうですか、と僕は相づちをうつ。病人には逆らわないのが看病のコツだと思う。