「はあ。橙子さんの人形作りは、外国仕込みなんですね」
明らかに場違いな質問に、そうだよ、と橙子さんは真面目に頷いた。……ダメだ、冗談も通じない。
橙子さんの独り言を聞くのはいいのだけれど、その意味が解らないのは聞き手として申し訳ない。だからこういう話は式か鮮花にしてほしいのだが、熱に浮かされた橙子さんはさらに話の難解さのギアを上げてしまったようだ。
「私が人形作りに取りつかれたのはね、完璧なヒトの雛型を通して「 」に到達する為だった。
ヤツは反対に肉体ではなく魂、ようするに測定できない箱の中の猫のような「有る」が「無い」ものを通して「 」に到達しようとしていた。肉体は明確な形があるが故に|透《と》けこめない。だが形のない魂は透けている。どこぞの心理学者が唱えた集合無意識に似ているな。その連鎖を辿っていけば中心があると考えたのだろう。
ああ、ようするにだ。私もヤツも原作を求めていたんだ。大元になる|一《いち》、人間のオリジナルとでもいえばいいのかな。今の人間は分かれすぎて、すでに測定不可能なほどの属性と系統になってしまった。だから大元に到達できない。属性と系統。言い換えれば宿命か。数式と同じで、そういう能力と役割を与えられて、そうした結果を出す人生。そうした結果しか出せない人生。当たり前だ、|遺伝子《せっけいず》にはそういった能力しか付与されていないんだから。それを宿命だというのなら宿命だろうさ。
|霊長《わたしたち》は複雑になりすぎた。万能を求めるあまり、色々な能力を付属させた結果だ。人間を構成する情報である遺伝子は、たった四種類の塩基にすぎない。けれどその四種類の塩基が折り重ねる単純な螺旋が、計測不能なまでに積み重ねられる事によって計測不可能になる、なんていう矛盾に陥ってしまった。故に解析する事はできない。大元に辿り着く事は、現代の人間からでは不可能なんだ。
だから―――――私は自分で造るしかないと考えた。結果は無惨だったがね。どう死力を尽くしても、できるのは完璧な私ばかりだ」
薬が効いてきたのか、橙子さんの顔に赤みが戻ってきた。
宙を睨む瞳も、段々とぼやけていく。
「だが―――ヤツはまだ続けているのだろう。
ヒトの“起源”を見るヤツは、魂の雛型を求めて師から破門されたという話だからな。……まったくなんて因果だ。今になってこんなモノに関わってしまうなんてさ。
いいかい黒桐。君はぬけているから予め注意しておく。何があっても、|写真の男《その坊主》には近付くな」
最後の力を振り絞るように言うと、そのまま橙子さんは目を閉じてしまった。
小振りな胸が上下して、静かに呼吸を繰り返している。きっと薬が良く効いて眠ったのだろう。
僕は橙子さんの額に乗ったタオルを取り替えると、彼女の眠りを妨げないようにと部屋を後にした。
隣の事務所には誰もいない。
ただこのビルの周囲にある工場から、甲高い音が響いてくるだけだ。
その残響を肌で感じながら、独り呟いた。
「―――近付くなって、駄目ですよ橙子さん。だって僕はその人と、二年も前に知り合ってるんですから」
けれどその事実がどんな意味合いを持つものなのか、自分に分かるはずがなかった。そもそもあの時自分を助けてくれたのが印画紙に写っている人物だったかも定かではない。
僕の中ではあの写真の人物は不確かで、熱に冒された橙子さんの話もパズルのピースみたいにバラバラだった。
不確かな物が不確かな言葉を呼び出した。ただそれだけの事なのに、さっきまでの平穏な空気が薄れて酸欠になりそうだ。
言葉にできない不安だけが、背中を震わせていた。
/6
(螺旋矛盾、2)
一夜明けて十一月八日の昼。
天気は昨日とさして変わらない曇り模様で、電灯のない事務所は廃墟みたいに薄暗かった。
この事務所は僕と橙子さんだけでは広すぎる。机だってちゃんと十人分は並べられているし、来客を接待するためのソファーだってある。あいにく床はコンクリート打ちっ放しという荒々しさで、壁には壁紙さえ張っていないが、人数さえ揃えばそれなりの職場に見えるはずだ。
なのに、今ここには自分を含めて三人しかいない。
窓際にある所長の机に、橙子さんの姿はない。昨日の薬が効いたのか、今朝になって風邪が治ると何処かに出かけてしまったからだ。
所長のいない事務所の中、僕は来月から始まる美術展の会場作りの、資材の発注や価格調べなんかをやっていた。橙子さんの設計図を片手に、工程に見合うような資材を安価に購入する為である。あの人は出来ればいい、という人なので、こういった面倒で地味な努力はしてくれない。結果、社員である僕がやるしかない訳だ。
資材屋のリストとにらめっこして、これはという所に電話をかけて交渉し、また次の資材屋に移る。忙しいんだか充実しているんだか分からない僕の他には、あと二人の人物がいた。
一人は、来客用のソファーに腰を下ろしてぼんやりとしている着物の少女。いうまでもなく両儀式で、彼女は何をするでもなく行儀正しい姿勢で座っている。
もう一人は、僕とは一番離れた机に向かってなにやらやっている、黒い制服の女学生。式とは対照的な長髪を背中に流しているそいつは、黒桐鮮花という。
名字が僕と一緒という事は紛れもなく肉親という事で、妹である鮮花は高校一年生だ。妹は体が弱く、十歳の頃都会の空気は体によくない、と親戚の家に預けられ、それからはたまにしか会わなかった。たしか最後に会ったのは僕が高校にあがった後の正月だったと思う。あの時は幼さを残した年相応の女の子だったのだが、今年の夏に再会した鮮花にはちょっとびっくりした。久しぶりに対面した妹は、うちの遺伝じゃないんじゃないか、と思うほどのお嬢様ぶりだったから。
やっぱり生まれた家と環境が違うだけで、人間というのは綺麗に育ってしまうらしい。物腰も凛としていて、以前の弱々しさはまったくない。十歳から十五歳という成長期に居合わせなかった事も原因だろうけれど、僕はしばらくこいつが妹の鮮花だと実感できなかったぐらいだ。
ちらりと遠くの机に向かった鮮花を見る。
広辞苑より厚い本を何冊も重ねて熱心、かつ静かに写し書きをしている。……橙子さんが去りぎわに鮮花に残した課題だ。
昨日の橙子さんとの重い会話も心持ちを陰鬱にさせてくれるのだが、目下の所、僕にとって最大の心配事はコレなのかもしれない。
“兄さん。私、橙子さんに弟子入りしてますから”
何を思ったのか、ひと月前に鮮花は僕にそう告げた。もちろん反対はしたけれど、妹は頑として聞き入れなかった。
……まったく。どうして当たり障りのない平凡なうちの家系から、魔法使いなんておかしなものが出現しなくちゃいけないんだろう?
「鮮花」
電話が一段落ついたので、対面の机に向かう妹に話しかける。
鮮花は写している文章を最後まで書き留めてから、さらりと黒髪を揺らして顔をあげた。勝ち気なくせに物静かげに品のある瞳が、なんでしょうか、なんてふうに行儀良くこちらを見る。
「学校が創立記念日で休みなのは知ってる。けど、なんだってこんな所にいるんだ、おまえ」
「兄さん、たまには家に顔をだしてね。学生寮は火事にあって、今は閉鎖中なの。実家が近い生徒は出来うるかぎり一時的に寮から退去をしてほしい、と学園側からの要請があった話、母さんなら知ってるから」
高校時代の委員長を思い出させる、落ち着いた声と瞳で言い返された。
「火事って――――寮が全焼するほどの?」
「東館だけです。一年生と二年生の宿舎の半分が焼かれたの。学園側でもみ消したからニュースにはなってないでしょうけど」
あっさりとした調子で、鮮花はすごい事をいう。
たしかに有名なお嬢様学園である礼園の学生寮が焼かれた、なんて事は真偽を問わずスキャンダルになる。大学並みの敷地を誇る礼園なら、たしかに火事を秘密裏に処理する事ができるかもしれない。
しかし、学生寮が火事になるなんて物騒な話だ。今の鮮花の口振りからそれが放火―――しかも生徒によるものだとは容易に想像できた。
「―――兄さん。余計な事、考えてません?」
こちらの心を読むように、鮮花はじろりと睨んできた。
……夏の一件から、妹は黒桐幹也が厄介事に首をつっこむ事を嫌っている。こうなるとしばらく無言の暗闘が続いてしまうので、会話を切り替える事にした。
「それより。おまえ、何やってるんだ」
「兄さんには関わりのない事です」
こちらの言いたい事が解っているのか、鮮花はにべもない返答をする。
「関わりはあるぞ。実の妹が魔法使いをめざしているなんて、父さんになんて説明すればいいんだ」
「あら、家に顔を出してくれるんですか?」
……う。こいつ、こっちが両親と口ゲンカして絶縁状態にある事を知ってるくせに。
「それにね、兄さん。魔法使いと魔術師は別物です。橙子さんの下にいるのに聞いてないの?」
そういえば、橙子さんはときたまそういう事をいう。便宜上、素人さんには魔術師より魔法使いといったほうが希望通りのイメージが伝わりやすいから名乗るだけだが、この二つの呼称はまったくの別物なんだ、とかなんとか。
「ああ、たしかに聞いた事はあるよ。けど大差なんてないだろ。どっちもあやしげな魔法を使うんだから」
「魔法と魔術は違います。
魔術っていうのは、たしかに常識から乖離した現象よ。けどあれは、たんに常識で可能な事を非常識で可能にしているだけなの。たとえば、そう―――」
鮮花は橙子さんの机まで歩いていくと、そこにあるペーパーナイフを持ち出した。銀製の、細工もすばらしい橙子さん愛用の逸品だ。
鮮花は不要になった書類を見付けると、そこにナイフでなにやら書き込む。途端――――書類はぶすぶすと煙を吐巷出して、ゆっくりと燃え尽きてしまった。
「…………………」
僕は声もなく、その一部始終を眺めていた。以前、橙子さんも似たような事(あの時は規模がもっと大きかったが)をしたけれど、実の妹にそういう事をされると何と口にしていいか分からなくなる。……いや、橙子さんに弟子入りするっていうのはそういう事で、自分なりに想像はしていたんだけど。
「――勘弁してくれ。それ、種も仕掛けもないのか」
「もちろんあります。知らない人にはそう見えるだけで、実際は大した事じゃないから、どうって事ないわ。だって、今はこんな業は芸にもならない。物に火をつけるのなら百円のライターで事足ります。ライターでしようが、指先でしようが、火をつけたという事実は変わらない。そんなもの、全然神秘じゃないでしょう? いいこと兄さん。魔術っていうのは、こういう事よ」
淡々と鮮花は続ける。
魔術とは、ようするに文明の代用品みたいなものらしい。いや、鮮花曰く追い付かれてしまった、というほうが正しいのか。
「例えば雨を降らせるにしたって、魔術も科学も同じ事でしょう。ただ方法が違うだけで、その為にかかる苦労は同じなの。魔術は一瞬で行なうように見えて、その前の下積みと準備はたいへんなものなんです。時間と資金で換算するのなら、科学的に雨雲を作る事とまったく同じ。
たしかに、一昔前ならそれは奇跡の類だった。けど現代では奇跡でもなんでもない。かつては町一つを灰にする魔術師は魔法使いともてはやされたけど、今はお金さえあれば誰だって出来てしまう。ミサイルをちょっと飛ばせばいいんだから」
むしろそのほうが遥かに効率的で早いでしょうね、なんて事を鮮花は付け足す。
「魔術は今できる事を、個人の力で気が遠くなるぐらいの時間を費やして可能にする事にすぎない。学問として見てもそうでしょうね。真理を得る為に何十年と瞑想するのなら、月にいって瞑想したほうが至るのは早いかもしれない。
残念だけど魔術は秘儀、禁忌の類であれ奇蹟にはなりえない。―――奇蹟っていうのは、人間の手では出来ない事を言うんでしょう? 今の地球上でいかなる資力をつくしても出来ない事。それを可能にするのが魔法使い。つまり魔法という事ですね」
人間にはまだ出来ない事。それが魔法と呼ばれる事なのだと、鮮花は言った。
「じゃあ、昔は魔術師より魔法使いの方が多かつたんじゃないのか。昔の人はライターもミサイルも持ってなかっただろ」
「そうね。だから過去において魔法使いは怖れられたのだし、職業として成り立った。けど今は違うでしょう? はっきりいって必要ないのよ、魔術なんてもの。現代においては、魔法そのものも少なくなってきている。人間に不可能な事なんて、もう数えるほどしかないでしょう? なんでも今じゃ魔法使いは五人ぐらいしかいないんですって」
……なるほど。たしかにそういう意味なら、魔法使いと魔術師は別だろう。今の人類にできない事といえば、時間とか空間を操る事ぐらいだ。未来視も過去視も完全ではないが可能になりつつある時代なんだから、不可能な事なんて本当に数えるぐらいしかない。
いつか―――人間は魔法そのものを排除してしまうだろう。幼い頃、不思議に思えた様々な出来事に惹かれて科学者になった青年が、研究を重ねるうちにその不思議自体をただの現象に引きずり下ろしてしまうみたいに。
「ふうん。そうなると最後の魔法っていうのは、みんなを幸せにする事ぐらいになっちゃうな」
うん。よくは、わからないけど。
「―――――――――」
鮮花は、なぜか黙ってしまった。
意外なものを見るような顔でこちらを見ていたと思ったら、とたんに顔を背けてしまう。
「……魔法は、到達できないものだから。それに私は魔法使いになりたいわけじゃない。あくまで目的の為に魔術を習っているだけです」
「そっか。魔法はダメだけど、魔術なら習えるって事だもんな。今、鮮花がやったみたいにさ」
結論に達したのでそうまとめると、鮮花はいえ、と首を横に振った。
「何を聞いてたんですか、兄さん。
魔術だってかつては魔法だったんです。ただ、簡単に人類の文明に追い付かれてしまうものだから、努力すればなんとか習得や使用が可能になるだけ。
……悔しいけれど、私には魔術師の家系のような積み重ねた歴史がありません。魔術師という人達は、血と歴史を積み重ねる家系なんです。彼らだって初めの人はただの学者だった。彼らは学んだ神秘、得てきた力を次代の子孫に伝える。子孫はさらに研究を重ね、さらに子に伝える。―――そうして魔法に近付こうとして、果てのない繰り返しを行なうのだとか。橙子さんは六代目らしいんですけど、三代目の跡継ぎがものすごい天才だったとかで、掘りあててしまったとか。ですから橙子さんの才能も血の濃さ故のものだと思います。私のように、これから魔術を学ぶ者はそう簡単に魔術師には至れません」
「ふうん。なんかタイヘンそうだね、色々」
うん、なんとなく納得できた。
血の濃さ―――血族の力。
たしかにそれはどんな家でも同じだ。僕らにとってそれは親類の多さだったり、受け継がれた財産だったりする。
けど、それって、ようするに――――
「おい。それじゃおまえは何してるんだ。うちは普通の家だぞ。誰も魔術はおろか仏教にはまった事もないんだ。魔術なんて身に付かないんじゃないのか?」
「それはそうですけど、才能はあるそうです。師に言わせると、発火の組み立ての巧さは希有のものだと」
拗ねるように鮮花は言う。
……ったく、火がつけられるからどうしたっていうんだ。案外、学生寮の火事っていうのもこいつが原因なんじゃないだろうか。
「あのな、一代かぎりの才能はダメだって自分で言っただろ。なら何をやっても無駄じゃないか。魔法使い―――じゃなくて、魔術師を目指しても仕方がない。まともな道に戻らないと、働き口がなくなるぞ」
それでなくとも、昨今の就職事情は厳しいんだ。
鮮花はすぐに反論してこようとする。
その前に―――より攻撃的な台詞が、足音と共に事務所に飛び込んできた。
「いや、就職率はいいぞ。鮮花の歳でそれだけの事が出来るのなら、あと二年もすれば引く手|数多《あまた》だ。表向きだって一流のキュレイターとして雇用される」
ばたん、とドアの開く音とともに、橙子さんが帰ってきた。
◇
病みあがりの橙子さんは、それを感じさせない確かな足取りで所長の机まで歩いていく。
上着をかけて椅子に座ると、自分の机を見て眉をよせた。ペーパーナイフの位置がさっきとは違うせいだろう。
「鮮花。人のモノを使うなと言ってるだろう。道具に頼ると腕が|鈍《にぶ》るぞ。大方黒桐の前で失敗するのが嫌だったからだろう、ええ?」
「―――はい、その通りです」
橙子さんの詰問に、鮮花は頬を赤らめながらもきっぱりと答えた。……そういう所は妹であろうと尊敬してしまう。
「で、めずらしい話をしていたじゃないか。黒桐は魔術に関心はなかったんじゃないのか?」
「そりゃあないですけど…………あの、橙子さん。昨日の事覚えてます?」
あん? と眼鏡を外した橙子さんは首を傾げた。
……そもそもの原因である昨日の意味不明な会話を、言い出した本人が覚えてはいなかった。
橙子さんは煙草を口にして一服する。
「しかしな、鮮花。なんだって黒桐にそんな話をしたんだ。隠す事、隠匿することが魔術の大前提だぞ。……まあ黒桐相手なら問題はないだろうが」
「僕が相手なら何がいいんですか」
「言っても解らないだろ。秘密が漏れる事もない。おまえは相手によって話す内容を選ぶからね、まっとうな人間にこんな話はしないさ」
「それはそうですけど―――やっぱり他人に知られるとまずいんですか、魔術師って」
「そりゃあまずいさ。社会的にはどうでもいいがね、魔術のキレが落ちる。黒桐、ミステルの語源を知ってるか?」
橙子さんは机に身を乗り出して尋ねてきた。
「ミステルって、その、ミステリーの事ですか?」
「そうだよ。別に推理小説じゃなく、神秘という意味のミステール」
「はあ。もとはギリシャ語ですよね、英語なんですから」
「……まあそうだな。ギリシャ語で閉ざすって意味。閉鎖、隠匿、自己完結をさす。神秘はね、神秘である事に意味があるんだ。隠しておく事が魔術の本質だ。正体の明かされた魔術は、いかなる超自然的技法を用いていたとしても神秘にはなりえない。ただの手法になりさがる。そうなるとね、とたんにその魔術は弱くなるんだ。
魔術とて、もとは魔法だった。つまり源である根源から引いている決められた力には違いない。浮遊する神秘、というものがあるとするだろう? これには十の力がある。知っている人間が一人だけなら、十の力全てを使える。けれど知っている人間が二人なら、これは五と五に分けられて使用される。ほら、力が弱くなった。言い方は違えど、この世のすべての基本的な法則だと思うがね、これは」
橙子さんの言う事の全体像は相変わらず掴めないが、言いたい事はなんとなく解る。
隠すこと、閉ざすことが魔術というものの在り方だというのなら、魔術師という人達が人前で魔術を披露しないのも頷ける。
「じゃあ、人目につかない所では好き勝手やってるんですね、橙子さんは」
「いや、やんないよ」
じゅっ、と煙草の火を灰皿でもみ消しながら言った。
「魔術師同士の戦いになったら仕方がないが、それ以外では一人の時でも使ったりはしない。次の段階に進む為の儀礼、儀式の時ぐらいしか魔術的な技法は持ち込まない。
中世の頃からか、学院と呼ばれるものが出来た。連中の取り締まりがまた病的でな。学院は早くから魔術師が衰退する事を予期していた。彼らはその組織力をもって魔術そのものを決して明かされないモノにした。目に見える神秘を、誰も知らない神秘にまつりあげたのさ。
結果、社会から神秘は薄れていく事になる。
これを徹底する為に学院は様々な戒律を作り上げていった。
例えば、魔術師が一般人を魔術的な現象に巻き込むと、その魔術師を殺す為に学院から刺客がくる。魔術師という群体に害をなす一要因として抹殺する為だ。……魔法使いが一般人に正体を見られると力を失う、という逸話のもとはこれだろうな。
学院は隠匿性をより強固にする事で魔術の衰退を防ごうとし、その結果、学院に属する魔術師は滅多やたらには魔術を行使しなくなった。
その律を嫌って野に下る魔術師も多いが、学院が所有する書物や土地は莫大なものだ。魔術師が魔術師として生きていく為に必要なものは、大方学院が制圧している。学院に所属しない、という事は村八分にされるのと同じ事さ。実験をしようにも地脈の歪んだ霊地は学院が所有しているし、魔術を学ぼうにも、教科書が押さえられているのでは学びようがないだろう? 故に学院に所属しない魔術師は、したくても魔術の実践が出来ない。組織の力だな。そのあたりは大したものだと称賛できる」
「あの、橙子さん。そうなると私も学院に所属しないといけないんでしょうか……?」
おずおずと口を挟む鮮花の声は、どこか不安げだった。
「しなくてもいいが、したほうが便利だぞ。別に学院に入ったら出られないというワケでもない。あそこは止めるのは自由なんだ。大義名分として支配者ではないと称しているからな」
「それでは隠匿性を死守する意味がありません。学んだ者を外に出しては、魔術が広まってしまいます」
もっともな鮮花の意見に、ああ、と橙子さんは頷いた。
「そうだね。事実、学院に留学してから力をつけ、野に下ろうと考える輩も多い。けれど十年も経てばそんな考えはなくなるのさ。なぜって、魔術を学ぶのなら学院は最高の環境だからだ。魔術師として最高の環境が揃っているのに、わざわざ何も無い野に下るなんて馬鹿な行動は起こさない。魔術師は魔術を学ぶのが最優先事項。学んだ知識や力を使おうなんて事は考えない。そんな時間があるのなら、さらに上の神秘を学ぼうとするだろう。だが鮮花は初めから目的が私達とは違うからな、学院に入ってもあそこの毒に冒される事はない。上を目指したいのなら一度は足を踏み入れるべきだよ」
鮮花は困ったように眉を下げる。どうも、本人にその気はまったくないようだった。妹がそんなワケのワカラナイ所に留学するのは御免被るので、鮮花のためらいは僕としてはありがたい。
「……一つ訊くけど。その学院の中でも秘密は守られているってコト?」
その時。唐突にソファーから声がした。
そこにはさっきから黙って座っている式がいる。彼女は興味のない会話にはまったく参加しない性格で、今まで窓の外の風景を眺めているだけだったのに。
「―――そうだ。学院の中でも魔術師は自分の研究成果を誰にも明かさない。隣り合った者達が何を研究して、何を目指して、何を得たのかも謎だ。魔術師が自己の成果を打ち明けるのは、死ぬ前に子孫に継承する時だけだからな」
「ただ自分の為だけに学ぶくせに、自分の為に力は使わない。そんな在り方に何の意味があるんだ、トウコ。目的が学ぶコトなら――――その過程も学ぶコトか。最初と最後しかないのなら、そんなのはゼロと同じじゃないか」
……相変わらず、式は細く透き通る女性の声で、男のような喋り方をする。
式の辛辣な追及に、橙子さんは微かに苦笑いをしたように見えた。
「目的はある。だが、おまえの言う通りでもあるな。魔術師はゼロを求めているんだ。初めから無いものを目指している。
魔術師達の最終的な目的はね、“根源の渦”に到達する事だ。アカシックレコードとも呼ばれるが、渦の一端にそういう機能が付属していると考えたほうがいいだろう。
根源の渦というのはね、たぶんすべての原因だ。そこからあらゆる現象が流れだしている。原因を知れば終わりもおのずとはじき出される。有り体にいえば“究極の知識”か。は、究極なんて基準を作って結局有限なものにしているから、この呼び方も正しくはないのだがね、一番解りやすいからそういう事にしているのさ。
もともと世界に流布しているあらゆる魔術系統は、この渦から流れている細い川の一つにすぎん。各国に類似した伝承や神話があるのはその為だ。もとの原因は同じもので、細部を脚色するのは“川”を読み取った者の民族性だ。
アストロジー、アルケミー、カバラ、神仙道、ルーン、数え上げたらきりがない研究者達。彼らは元が同じだからこそ、結局同じ最終目的を胸に抱く。なまじ魔術という根源の渦から分かれた末端の流れに触れてしまった彼らは、その先――――頂点にあるものが何であるか、想像できてしまったからだ。
魔術師の最終的な目的は真理への到達に他ならない。人間として生まれた意味を知る、なんて俗物的な欲求もない。ただ純粋に真理というものがどんなカタチをしているかを知りたがる。そういったものの集合体が彼らだ。
自己を透明にし、自我だけを保った者達―――永遠に報われない群体。世界は、これを魔術師という」
淡々と語る橙子さんの眼差しは、今までのどんな時より鋭い。琥珀色の瞳が、火がついたように揺らめいている。
……なんだけど、申し訳ない事に僕には話の半分も理解できなかった。
解ったのは一つだけだったので、とりあえずそれを尋ねてみる事にする。
「あの、いいですか? 目的があるんなら学ぶ事にだって意味があるでしょう。報われないなんて事は……って、そうか。まだ誰も辿り着いていないんですね?」
「辿り着いた者はいるさ。行った者がいるからその正体が解ったんだ。現在にまで残されている魔法だって、辿り着けた者達が残したモノさ。
だが―――あちら側に行った者は帰ってきてはいない。過去、歴史に名を残すような魔術師達は到達した瞬間に消失した。あちら側はそんなに素晴らしい世界なのか、それとも行ってしまったら帰ってはこれない世界なのか。それはわからない。行ってみない事にはな。
だが、そこに辿り着く事は一代程度の研究では不可能だ。魔術師が血を重ね、研究を子孫に残すのは自己の魔力の増大が目的だ。それはいつか根源の渦に到達できる子孫を作り上げる為の行為にすぎない。魔術師はね、もう何代も根源の渦を夢見て死に、子孫に研究を継がせ、その子孫はやはりまた子孫に継ぐ。果てがないんだ。彼らは、永久に報われない。仮に到達できる家系が現れたとしてもおそらくは不可能だろう。―――邪魔者が、いるからな」
憎むような口調とは裏腹に、橙子さんはくすりと乾いた笑いをこぼした。その―――邪魔者という人がいる事を喜ばしく思っているような、そんな仕草で。
「ま、どっちにしたって無理な話という事だ。現代の魔術師には渦に到遠して新しい秩序―――新しい魔術系統を作る事はできない」
これで長い話は終わりだ、とばかりに橙子さんは肩をすくめて言った。
僕と鮮花はそれで何も言えなくなったけれど、式だけが無遠慮に橙子さんの話の矛盾を追及した。
「ヘンな奴らだな。無理ってわかってるのにどうして続けるんだ、おまえ達は」
「そうだな。魔術師を名乗る連中は大半が“不可能”なんて混沌衝動をもって生まれたか、あるいは諦めの悪い罵迦ばっかりなんだろう」
あっさりと肩をすくめて橙子さんは答える。
それに、なんだ分かってるじゃないか、と式は呆れて眩いた。
◇
話が終わって一時間もすると、事務所はいつも通りの静けさを取り戻した。
時刻も午後三時になろうかというので、一服とばかりに人数分のコーヒーを掩れにいく。鮮花の分だけは日本茶にして配り、自分の席に着いた。
仕事も全体の目処がつきそうだし、この分なら今月の給料は安泰だな、と安心してコーヒーに口をつける。
静かな事務所に、飲み物をすする音が響く。
そんな平穏な静寂を破るように、鮮花はとんでもない事を式に向けて言った。
「―――ねえ。式って男なんでしょう?」
……カップを落としそうになるぐらい、それは地獄的な質問だったと思う。
「―――――――」
それは式も同じで、手に持ったコーヒーカップから唇を離して、不愉快そうな、けれど悩んでいるような顔をしてしまう。うちのばか妹に対する反論は、今の所ない。
それを勝機とみたのか、鮮花はなお続ける。
「否定しないっていう事はそうなのね。あなたは間違いなく男なんだわ、式」
「鮮花ッ!」
しまった、たまらず口を挟んでしまった。
こういう質問は無視するに限るのに、事が事だけについ気が動転してしまったんだ。
勢い立ち上がってしまったものの、気の利いた台詞も浮かばずに僕は無言で椅子に座りなおす。……なんだか敗残兵のような気分だった。
「つまらない事にこだわるな、おまえ」
ものすごい仏頂面になって、式はそう言い返す。片手で額を押さえているあたり、怒りを堪えているのかもしれない。
「そう? すごく重要な話よ、コレ」
外見はあくまでクールな式と同じように、鮮花もあくまでクールに応える。机の上に両肘を立てて指を組んでいる姿は、議事をすすめる委員長みたいだった。
「重要な話、か。オレが男だろうが女だろうが大差ないだろ。鮮花には何の関わりもない。それとも何か、おまえオレにケンカうってんのか?」
「そんなの、初めて会った時から決まってるでしょう」
二人はお互いの姿を見ていないのに、睨み合っているようだった。
……僕としては何が決まっているのかが知りたいのだが、今はそれを問いただせる雰囲気じゃない。
「……鮮花。なんで今になってこんな言葉を繰り返さなければいけないのか不思議なんだけど、最後になる事を祈ってもう一回だけ言うよ。あのね、式は女の子だよ、ちゃんと」
とりあえず、そうとだけ言った。
鮮花の無礼をかばいつつ、式の不機嫌さを収めるはずの会心の一言は、なぜか二人の神経を逆撫でしてしまったみたいだ。
「そんなのはわかってます。兄さんは黙ってて」
わかってるならなんでそんな事訊くんだ、おまえはっ。
「私が聞きたいのは肉体面での性別じゃないんです。精神面での性別がどちらなのか明確にしたいだけ。まあ見たかぎり、式は男の人のようですけど」
ですけど、のドの部分を強く発音して鮮花は式を流し目で見る。
式はますます不愉快になっていく。
「体が女なら性格がどちらでも変わらないだろ。オレが男だったらどうするっていうんだ、おまえ」
「そうですね、礼園の友人でも紹介しましょうか?」
――――あ。
鮮花のもはや皮肉でもなんでもない、ただの挑戦状になった台詞を聞いて僕はようやく呑み込めた。
鮮花のやつ、まだ二年前の事をひきずっているのか。
高校一年の正月、僕は式と初詣にいって、その帰り、式を家に招いた事がある。ちょうど田舎から冬休みの間だけ帰ってきていた鮮花は、式と対面して軽いショック状態に陥った。それも当然で、あの時の式は織というもう一つの人格を持っていたのだ。今の式より元気があって少年そのものだった式の仕草と口調に、鮮花はまる一日寝込んでしまったという始末だ。
に、しても今のは言い過ぎだ。式に殴られても文句は言えない。
「鮮花、おまえね」
再度立ち上がって鮮花を睨むのと、式がソファーから立ち上がるのは同時だった。
「お断りだ。礼園の女にはろくなヤツがいないからな」
式はふん、と鼻をならして言うと、そのまま事務所から立ち去っていった。
藍色の着物が、音をたてて視界から消えていく。
その後を追おうか迷ったが、それはかえって式の不機嫌さに油を注ぐ結果になりかねない。
僕は何事も起こらなかった奇蹟に感謝して椅子に座り、冷えてしまったコーヒーを一気に飲んだ。
「残念、結局はぐらかされたか」
ち、と舌を鳴らして鮮花は姿勢を崩す。あいつも今まで臨戦状態だったようで、背もたれに体を預けて伸びをしていた。
……いつも思うんだが。どうして鮮花は式と話す時だけ態度がガラリと変わるんだろう?
これは、ちょっと言ってやらなければなるまい。
「鮮花。今の、なに?」
「何って、式と兄さんがはっきりしないからでしょう。それとも考えた事がないの? 両儀式が女として兄さんと付き合っているのか、男なのに兄さんと付き合っているのか」
口調こそきっぱりしているくせに、鮮花は顔を赤らめている。そのアンバランスさのおかげで、妹の言わんとする事が解ってしまった。
「鮮花、そういうのを下衆の勘繰りって言うんだ。式が男だろうが女だろうが、僕らが話題にする事じゃないだろ。だいいち式は初めから女の子なんだから、考え方が男性のものでもあまり大差ないじゃないか」
鮮花はキッと目を細めて睨みつけてくる。
「―――そう、兄さんは女であるのなら他の問題は瑣末だというのね。つまり、転ずると同性同士の繋がりはおかしいと思ってる。なら答えてもらおうじゃない。
ここに性転換して男になった女の人と、性転換して女になった男の人がいるとするわ。この二人が本気で兄さんが好きだっていう場合、兄さんが相手をするのはどっち?
見かけは女性だけど心はずっと男の人と、見かけは男だけど心はずっと女の人。さあ、答えてみてよ」
……鮮花の質問は、難しい。
よく考えれば考えるほどどちらも選べない状況になってしまう。