たしかに、さっと考えるのなら元々女性として生まれついた人になるけど、性別が男に変わってしまってるなら、性別が女性の人を選ぶ。けどその人の心は男のままなんだから、つまり男として男性である黒桐幹也を好いている事になる。
恋愛に性別は関係ない、なんて達観を、僕はまだ得ていない。でもそれじゃあ僕は外見の性別だけで男女の区別をしているわけで、なんかひどく自分が醜く思えてしまう。それにそもそも、同性同士の結びつきがダメなら、男の人が男の人として黒桐幹也を好いているのはダメなんだ。そうなるとあくまで女の人として好いてくれる前者になるんだけど、その人の性別は男性なわけで―――ああ、なんでこんな事で悩みこまなくちゃいけないんだっ!
……いや、待てよ。これ、なんか前提からして矛盾してないか? 同性同士の恋愛を認めないクセに、どちらを選んでも同性という落とし穴があるんだから。
それに気がついて顔をあげると、橙子さんだけが愉快そうに笑いを噛み殺していた。
「―――汚いぞ、鮮花。これって『同時に真と偽が成立している命題』じゃないかっ!」
「ええ、そうです。有名なエピメニデスのパラドックスね」
「そうだな、黒桐にとっては致命的な矛盾の追求だ。まったく、おまえ達は退屈させないな。黒桐の家系って全員がこうなのか、鮮花?」
まだ笑っている橙子さんとは反対に、鮮花は真剣な顔でこちらを見ている。……そっか。こいつはこいつなりに僕の事を心配してくれてるんだ。なら式が明確にしなかった分、せめて自分だけでもはっきりと気持ちを口にしないといけない。
「……ああ、たしかに鮮花の言いたい事もわかる。ただ、僕は式がどちらにしたって関係ない。たとえ式が織でも、自分の気持ちは変わらないと思うよ」
照れ隠しに頬をかきながらそう言うと、鮮花は愕然として椅子から立ち上がった。
「―――相手が織でも、好きだっていうの?」
「…………うん。まあ、たぶん」
とたん、何か分厚いものが僕の顔面にヒットした。
「なんて、不潔――――!」
だだだ、と駆け出していく音。
さっきまで鮮花が読んでいた本を顔に投げつけられたんだな、と意識が戻った頃には、事務所には僕と橙子さんしか残っていなかった。
式は鮮花に怒って退去し、鮮花はたった今外に駆け出してこれまた退去。
僕はひりひりと痛む顔に手を当てながら、一人で笑い続けている橙子さんを睨みつけたのだった。
◇
それから二時間が経って退社の時間になった。
式も鮮花も戻ってくる事はなく、僕は退社前のお約束となった最後のコーヒーを二人分淹れて、これから式のマンションに寄ろう寄るまいか考えていた。
「ああ、そうだ黒桐。悪いが残業を頼めるか」
コーヒーを飲みながらの橙子さんの一声によって、そんな悩みも消えてしまう。
「残業って、別件で仕事でも引き受けたんですか?」
「いや、そっちの仕事じゃない。金にはならないものだ。今朝はそれで出かけていたんだがね、懇意にしている刑事から面白い話が聞けたんだ。黒桐、|茅見浜《かやみはま》の小川マンションを知っているか?」
「茅見浜って、あの埋め立て区に出来たマンション地帯ですよね。近未来モデル地区とかいう」
「ああ。ここから電車で三十分ほどかな。都心では考えられないほど贅沢に土地を使っている街だ。そこにね、昔建築に関わったマンションがあるんだが―――妙な事件が起きたそうなんだ。
昨夜の午後十時頃、二十代前半の会社員が道端で襲われたらしい。被害者は女だから、暴行まがいの通り魔だ。ただね、不運な事に被害者は刺されてしまった。通り魔はそれで逃げ出してしまったが、被害者はそうはいかない。腹部を刺された被害者は携帯電話を持っていなかった。そして、現場は例のマンション地帯だ。周囲に店などないし、夜の十時ならもう人通りはない。彼女は血を撒き散らしながら最寄りのマンションに入っていって、助けを呼ぼうとした。
だが、そのマンションの一階と二階は使われてなかったんだ。人が住んでいるのは三階からでね。エレベーターで三階まで昇った時点で体力の限界だった。彼女はそこで十分ほど助けを大声で呼んだというのだが、マンションの住人は誰一人気がつかず、午後十一時に彼女は死亡した」
……悲惨な話だ。
現代のマンションでは、それが大きくなればなるほど隣との付き合いがなくなる。むしろ無関心である事が礼儀正しいのだという暗黙のルールが都会にはあるのだ。
今のと似たような話を、僕は友人から聞いた事さえあった。夜中に下の階から悲鳴が繰り返しあがっているのに誰一人として助けに行かず、朝になってみるとその家の子供が両親によって殺されていたという。他の住人達は聞こえていたのに何かの冗談だと思って無視したのだそうだ。
「問題はこの先でね。その被害者の助けを呼ぶ声は、隣のマンションに聞こえていたというんだ。悲鳴ではなく、助けを呼ぶ人間の声だぞ。隣のマンションの人間はそれだけの大声だからすぐにそのマンションの人間が駆けつけると思い、無視したんだそうだ」
「そんな―――そのマンションの住人は気がつかなかったんですか」
「ああ、そう証言している。誰一人の例外もなくいつも通りの夜だった、と。まあこれだけならそうおかしな話ではないんだが、このマンションには以前にもう一つ、おかしな出来事があったらしいんだ。それは聞き出せなかったんだが、とにかく異常事態が二つ続くのは何かおかしい、と刑事さんに相談されたわけさ」
「……ようするに、僕にそこを調べろって言っているんですね、所長は」
「いや、現地には二人で行こう。黒桐は不動産をあたって早いうちに住人達のリストアップと、過去どこに住んでいたかを出来うるかぎり調べてくれればいい。金にならない仕事だからゆっくりでいいぞ。締め切りは十二月だ」
わかりました、と答えてコーヒーを口に運ぶ。
……なんだか。また、おかしな事件に足をつっこみそうな予感がしてきた。
「ところでさ、黒桐」
「はい?」
「おまえ、本当に式が男でもかまわないのか?」
……これで相手が学人だったら、僕はためらわずに口に含んだコーヒーを吐き出していただろう。
「……そんなわけないでしょう。そりゃあ式は好きですけど、欲を言うなら女の子は女の子の方が、いいです」
「なんだ、つまらん。それなら問題はないじゃない
がっかりだ、と橙子さんは肩をすくめてコーヒーカップに口をつける。
………ソレナラ、問題ハ、ナイ?
「ちょっと待ってください。問題ないって、どういう事ですか。それって、ようするに――――」
「そうだよ。式は間違いなく精神面での性格も女性の物だ。そもそも陽性である織がいないんだから、男であるハズがないだろう」
それは―――そうなんだけど、ならあの口調はなんなんだろう。以前の式は、女の子の言葉遣いだったじゃないか。
「あのなあ。そもそも男性を陽性、女性を陰性と例えたのは式だろう? なら話は簡単なんだ。
この陰陽の考えは太極図からくるものだ。韓国の国旗を知っているだろう。知らない? 巴紋に似ているヤツだが」
巴紋、というと……あの、円形の中に波みたいな線をひいて円を半分に分けた図か。ただあれは半月、というものではなく二つの人魂が互いの尻尾に食らい付いているような|歪《いびつ》な半月だ。文字でいうのなら「の」という文字が辛うじてニュアンスが近い。
「太極図だと半分が白、半分が黒になる。そしてそのどちらにも逆の色の小さな穴が穿たれている。白い半月には黒いポッチが、黒い半月には白いポッチが、とな。
わかるだろう。黒い方が陰性、つまり女だ。この図は互いに絡み合いながら相克する図―――黒と白の螺旋なんだ」
「相克する―――螺旋?」
その言葉を、僕は以前聞いた事がある――――。
「そう、陰と陽、光と闇、正と負といってもいい。根源である一つの物から二つに分かれた状態を指している。これをね、陰陽道では両儀というんだ」
「―――両儀って、それは」
「そう、式の名字だね。あれが二重人格だったのは、遥かな過去から定められた事実なんだろうさ。
両儀の家系だから二重人格になったのか。それともいずれ式が生まれるという事が解ったから両儀という名字にしたのか。おそらくは後者だろう。
両儀家は浅神や巫条といった旧い家柄の一つだ。彼らは人間以上の人間を作ろうとする一族で、それぞれの方法と思想で跡継ぎを産み出した。自分達の家の遺産を継承させる為にな。
とりわけ両儀の家はおもしろい。彼らは超常的な能力ではいずれ文明社会から抹殺されると解っていた。だから表向きは普通の人間として生活できる超能力を考えた。
―――なあ黒桐。プロフエッショナルと呼ばれる人間は、どうして一つの分野でしか頂点に立てないんだ?」
突然の質問に、僕は答えられない。
今日は本当に長い一日で、入ってくる情報が自分の限界を超えている。それに―――式が、そんな家に生まれたなんて、どうして――――
「それはどんなに優れた肉体?素質をもっていても、一つの人間には一つの事柄しか極められないからだ。高所に行けば行くほど、それ以外の山は登れなくなる。
両儀家はそれを解決した。一つの肉体に無数の人格を与える事によってな。パソコンと同じだ。式というハードウェアに幾数幾百というソフトを入れれば、あらゆる分野でのプロフェッショナルが誕生する。
だからアレの名前は式なんだ。式神の式。数式の式。決められた事だけを完璧にこなすプログラム。無数の人格を持ち、道徳観念も常識も人格ごとに書き換えられるカラの人形―――」
式は、それを知っていたのだろうか。
……ああ、きっと知っていた。だからこそ彼女は頑なに僕らとの関わりを避けていたんだ。自分が普通でないこと、自分が異常な家に生まれた事を認めて、ただひっそりと生きようとしていたのか
「太極図の続きだが。混沌である「 」から二つに分かれたものが両儀。そこからさらに安定する為、種別を増やす為に|四象《ししょう》に分かれ、さらに複雑化する為に|八卦《はっけ》、と二進法で分かれていく。これも式の機能を表しているな。
だが、これはもうない。完璧なプログラムはバグってしまったんだ。今の式は、まあ多少の問題はあるだろうがきちんと自我を持つ普通の人間だよ」
かちり、とライターの火が点る。
橙子さんの言葉に、僕はえ?と問い返していた。
「何て顔をしているんだ。壊したのはおまえだろう。精神異常者はな、自分を異常者などとは夢にも思わないから破綻しない。式もかつてはそうだった。だが黒桐幹也という人間が気付かせてしまったんだよ。両儀式という在り方は異常なんだ、と。
ああ―――そうだな。救ったといえば、おまえはもう二年も前に式を救っていたんじゃないのか?」
ほら、と橙子さんは煙草を差し出してきた。
煙草は吸わないけれど、僕はそれを受け取って火をつけてもらった。
……主まれて初めての煙草は、とても、曖昧な味だった。
「おっと、論点がずれた。両儀に関しては語る気はなかったんだがな、ここのところ何かに急かされているようだ。つい口が軽くなる。案外明日あたり死ぬのかもな、黒桐は」
「―――恐いですね。車には気をつけときます」
「ああ、それがいい。それでな、太極図の話だ。
両儀にはそれぞれポッチがあると話しただろう? 白の中の黒、黒の中の白だ。これを陽中の陰、陰中の陽という。
これはつまり、男の中にある女性的な部分と女の中にある男性的な部分を指している。男の口調をしているから陽性、というのは早計だ。どんな人間だって異性的な嗜好は持ち合わせている。女装趣味なんてのはその最たるものだよ。今の式は陰性の式に他ならない。男口調なのは、死んでしまった織の為に彼女が無意識で行なっている代償行為。せめて、おまえには織の事を覚えていてほしいんだろうな。くくく、まったく可愛いじゃないか」
「―――」
……ああ、言われてみればその通りなんだ。
式は男の口調になったけど、二年前みたいに男そのものみたいな行動はとらない。あくまで仕草も行動も女の子の物なんだから。
織という半身をなくした彼女は、今とても不安定で弱い状態なんだ。
それを強く思い知って、僕は胸が締めつけられた。
二年間の眠りから目覚めた彼女は以前よりしっかりしているから、見誤っていた、けど式は孤独なままで、今も、いつも怪我をしそうで危うかったあの頃と変わっていない。
僕だって変わっていない。今も、そんな式を放っておけないと思っている。
……そう。二年前は何も出来なかったけれど。
もし次があるのなら。僕は、今度こそ彼女を助けきらなければいけないのだ。
/7
(螺旋矛盾、3)
次の日、目を覚ますと時刻は午前九時を回っていた。
完全な遅刻である。
手荷物というには重すぎる包みをもって事務所に辿り着くと、待っていたのは橙子さんと式という組み合わせだった。
「すいません、遅れました」
持ってきた剣道の竹刀袋みたいな包みを壁に立て掛けると、僕はようやく一息つけた。
マラソンのあとのように、大きく呼吸を整える。
一メートルもない包みは鉄でも入っているかのように重くて、家を出る時はそう重荷ではなかったのに、百メートルも歩くともう腕が棒になってしまったのだ。
肩で息をしながら両腕の筋肉を自分でほぐしていると、式がとことこと歩み寄ってきた。
「やあ。おはよう式、いい天気だね」
「うん。しばらく晴れるって話だな」
今日は何か用事でもあるのか、式は真っ白い和服を着ていた。ソファーに投げ捨てられた赤い革ジャンとの組み合わせは、白色と赤色の|浄《きよ》くて鮮明な配色になるのだろう。普段は模様の入った帯を好まないのに、やっぱり今日に限っては落ち葉のような模様入りの帯をしている。見れば、着物の裾にも三葉だけ、赤いもみじが散っていた。
「幹也。それ、誰の仕業だ」
つい、と白い指を伸ばして式は言う。
彼女の指先は、壁に立て掛けた荷物に向けられていた。
「ああ、それは秋隆さんからの届け物。式、昨日の夜出かけてただろ。帰りに寄ったら式が留守で、玄関の前で秋隆さんが待ってたんだ。久しぶりなんで一時間ぐらい話し込んでたんだけどね、式は帰ってきそうにないからお互い退散したんだ。その時に預かったのがそれ。銘がないとか、兼定らしいが真偽がはっきりしないとかなんとか」
「兼定って、九字を入れる兼定!?」
珍しく顔を輝かせて、式は壁に立て掛けた荷物を手に取る。僕にだってそれなりに重かった荷物を、式は片手で持って荷物をくくる紐を解きはじめた。
バナナの皮を剥くみたいに、ぺろり、と布の頭がめくれる。ほどなくして現れたのは、細長い金属板だった。いや、金属というより古びた鉄とか、銅みたいな質感をしている。包みの上の部分しか布をめくっていないので全体像の一割ほどしか見えないが、この荷物が棒らしきモノだという事は明白だ。
竹刀袋の中の鉄は、さらに真綿らしき物で包まれている。鉄は細長い定規を二回り大きくしたような鉄板で、小さな穴が二つほど開いていた。ざらついた表面には漢字が彫られている。……なんだろう、あれ。
「秋隆のやつ、こんなものを持ち出して……」
困ったもんだと式は言うが、目は喜びを隠しきれていない。滅多な事ではほくそ笑まない式が、正体不明の鉄板を手にしてくすくすと笑っているのは、いいようがなく不気味だった。
「式、それなに?」
あんまりに式がおかしいので問いただす。
すると、式はくるりと振り返ってにやりと笑った。
「見るか? ちょっとお目にかかれない業物だぜ、こいつは」
嬉しそうに竹刀袋から中の物を出そううとする式。それを今まで黙り込んでいた橙子さんが制止した。
「式、それは古刀だな。五百年も前の刀なんてここで取り出すな。結界がまるごと切られたらどうしてくれる」
言われて、むっと式は動きを止める。
橙子さんは刀だというが、あの鉄定規が大きくなったような、およそ物なんか切れそうにない鉄板が刀なんだろうか……?
「おまけに九字まで入っている。兵闘ニ臨ム者ハ皆陣烈前ニ在リ、か。あいにくと私程度の結界では百年クラスの名刀には太刀打ちできない。それをここでさらして見ろ、下の階のモノが溢れだすぞ」
いつになく危機感のある橙子さんの言葉に、式は驚いて竹刀袋を戻しはじめた。……この二人、僕が留守にしている間に色々と妖しい事をやっていたというのは本当らしい。
「――そうだな、剥き出しの日本刀を幹也に見せ
てもつまらない。|柄《つか》を用意してないなんて秋隆もボケたかな」
式はうわのそらでそんな事をいう。
―――彼女が十歳の頃からの世話係である秋隆さんをつかまえてボケたか、とはあんまりだ。それに秋隆さんはまだ|三十路《みそじ》をこえたばかりで、その有能ぶりにはますます磨きがかかっているっていうのに。
式は名残惜しそうに包みをソファーに寝かす。
……これは後で知った事なのだが、この時の刀に柄というものは付けられていなかった。時代劇とかで見る日本刀はすでに柄ありの状態で、剥き出しの刀はカッターの刃のように飾りがない。開いていた二つの穴は、そこを通して柄を取り付ける為の物なのだそうだ。ちなみに古刀っていうのは平安中期から慶長までの刀の事を言って、間違いなく重要文化財である。
「いいか式。歴史を積み重ねた武器はそれだけで魔術に対抗する神秘になるんだ。この先、間違ってもそんな物をこのビルに持ち込むな。何が起きても責任は持てないぞ」
ともすれば国宝にも届かんという有り難い品物をそんな物扱いして、橙子さんはふう、と息をついた。
「それで黒桐。今朝の遅刻の理由はなんだ?」
「すみません、調べ物に手こずってしまったもので。一応、例の小川マンションの住人のリストとあらかたの情報は集めてきましたけど」
―――そう、昨夜から例のマンションを調ベはじめて、気がついたらもう夜が明けていたのは不覚だった。
最近はネットが普及してしまった為、昼夜問わずに調べ物が可能となってしまう。今までみたいに夜は皆眠っているからお休みしよう、なんて区切りがつかない。結果大輔兄さんに話を聞いたりネットサーフィンして細かい話を収集、選別したりとかで大がかりな仕事になってしまったのだ。
「……十二月まででいいと言っただろうに。まったく黒桐は貧乏性だな。いいよ、聞こう」
「はい。小川マンションは茅見浜一円のマンション地帯の中でもとりわけ高級指向の建物ですね。形も変わってますから、後で設計を見てください。建設期間は九六年から九七年。工事は三社合同です。橙子さんは東棟のロビーを受け持ったんですね。一応、建設に関わった作業員達の名前もリストアッブしておきました。詳しい建設スケジュールもありますからどうぞ」
プリントアウトしたばかりの資料を鞄から取り出して、橙子さんの机に並べる。
なぜか橙子さんは目を白黒させて黙り込んでいた。
「見てもらえば解るんですけど、このマンションというのが二つのマンションが隣り合わせになっている形なんです。
きれいな半月形をした十階建ての建物が二つ、向かい合って建っているわけです。航空写真を見ると驚きますよ。本当に円形をしていますから。もともとは社員寮を目指したとかで、一階と二階はリクライゼーション用の施設になってます。現在は便われていません。不景気なんで、そんな無駄な電力は使えないんでしょう。
各棟は十階建てで、部屋数は各階に五つ。東西合わせて十部屋です。部屋は3LDKの洋風と和風の折衷で、水道管の配置が割と粗雑。十年ぐらいで下の階に水漏れしちゃいますね、ええ。駐車場はマンションの敷地に四十台、地下にさらに四十台。住人の数に対して足りませんけど、現状は敷地の分だけで足りてます。
そもそも社員寮にしようとした会社自体が縮小してしまって、途中でオーナーが変わっています。新オーナーの方針で社員寮から一般用に切り替えたとか。住人の入居は九八年、今年からです。三月まで募集したらしいんですが、ちょうど半数分の入居者しか集まっていません。西棟は近いうちに造り直す話も出ています。はい、設計のコピーです」
ばさり、と次の資料を机に置く。
橙子さんはさらに難しい顔をして、顔をしかめてしまった。
「マンションは東棟と西棟に分かれていますけど、一階のロビーは共通ですね。エレベーターも一つだけです。こんだけ広いのに手抜き建設ですよ、これ。機能性より外見をとったんでしょうけど。そのエレベーターにしても当初は故障続きだったそうです。関係者がこぼしてますね、五月ごろまでエレベーターさえ使えなかったって。
[#挿し絵としてマンション見取り図]
部屋数は各棟五つで、六時の方角から右回りに一号室、二号室、と区別されます。東棟は一号室から五号室まで。六号室から十号室までは西棟になります。
屋上は進入禁止です。
三階の住人は園田、空き部屋、渡辺、空き部屋、樹、竹本、空き部屋、杯門、空き部屋、桃園寺。
四階の住人は空き部屋、空き部屋、笹谷、望月、新谷、空き部屋、空き部屋、辻ノ宮、上山、臙条。
五階の住人は奈留島、天王寺、空き部屋、空き部屋、白純、内藤、榎本、空き部屋、空き部屋、戌神。
六階の―――――」
「いい、わかった。おまえから手綱を放すとどれだけ暴走するのか、よくわかった」
こちらのリストの読み上げを、橙子さんはため息まじりに制止した。
「どれ、リストを見せてみろ。家族構成から勤めている会社、前の住所まで網羅されていても驚かないから」
「そうですね、僕も読み上げるのは疲れます」
そうしてリストを手渡すと、橙子さんはうわあ、なんて似合わない悲鳴をあげたりした。
「くそ、本当に調べあげているとはな。黒桐、本気で探偵でもやってみないか? すごく受けるぞ、きっと」
「ダメですよ。今回だって半分程度の住人しか調べられませんでした」
そう、残念といえばそれが残念だった。
結局五十世帯もの入居者の中で、跡を辿れたのは半数の三十だけだ。他は入居者の名前と家族構成ぐらいしか遡れなかった。
橙子さんは無言でリストをめくっている。
ふと式に振り返ると、彼女は険しい顔をして考え事をしていた。睨むように眉を寄せるその顔は、凄味があるのに恐いというより美しい。
「トウコ、今のリストちょっと」
橙子さんの後ろに歩いていって、式はリストに視線を送る。
「……だよな。こんな珍しい名前、二つとない」
ち、と式は舌を鳴らす。
「先に帰る。トウコ、足になるような物あるか?」
「ガレージの端に200のバイクが余っているが」
「おまえな、着物でバイクにまたがれっていうのか」
「ツナギがロッカーに入ってる。私のだから大きいかもしれないが、着物よりマシだろう。っと、くれぐれもハーレーはだすなよ。サイドカーの取り外しがまだ済んでないんだ」
ああ、と頷いて式は革ジャンを羽織ると、竹刀袋に包まれた日本刀を手に事務所を後にしてしまった。
白い着物が、蛇みたいに不吉な衣擦れの音をたてる。
「――――式!」
……なんだろう。何か、いいようのない後味の悪さを感じて、僕は式を呼び止めた。
式は革ジャンの背中を見せたまま、顔だけを振り向かせる。まるで覚えのない悪戯を注意されて不思議に思っているような、素朴な疑問を含んだ瞳。
「? 何だよ幹也。オレ、なにか悪いモノでも憑いてる?」
本当に、ちょっと買い物に行ってくるような気軽さの彼女に、僕は何を言うべきか―――何を言おうとしているのか解らなかった。
「いや……なんでもない。夜に行くから、話はまたその時にしよう」
「なんだ、へンな奴だな。でもまぁ―――いいか。夜だろ、その時間なら部屋にいるぜ」
じゃあな、と片手をあげて式は出かけていった。
◇
式が橙子さんのバイクを借りて出かける、なんて珍しい事から一時間ほどして、僕と橙子さんは直接マンションを見に行く事となった。
マイナー1000とかいう、ミニクーパーみたいな橙子さんの愛車に乗って都心のビル街から離れる事三十分弱。ほどなくして僕らは西海岸の街並みみたいにすっきりとした港地区についた。
茅見浜と呼ばれるそこは、とにかく広い。土地があり余っているのか、広大な平面にときたま高層ビルが建っているだけで、一昔まえのポリゴンゲームのフィールドを連想させる。たしかブロッケンだかドラッケンだかいう、四人で平らな土地を旅するゲームだったっけ。
件のマンションは、確かにマンションが乱立する地域の中にあった。周囲には同じ造りの巨大マンションしかなくて、遠くに円形の塔が見えているのに到達するのに時間がかかってしまった。
ほとんどのマンションがお豆腐みたいに四角い中、そのマンションはただ一つ法則に逆らってそびえ建っている。
十階建てにしては高い。本当に円形のマンションで、敷地のまわりにはブロックを積み上げた塀がある。敷地からマンションへと伸びる道は一本だけで、タージマハールに続く道みたいだった。ただ一本の道は、そのままマンションのロビーへと伸びている。「なんだ、地下駐車場なんてないじゃないか」
運転席でそう愚痴ると、橙子さんは車を路上に駐車させた。
「じゃ、行こうか」
くわえ煙草をして橙子さんは歩きだす。
その横に付いてマンションの敷地に踏み入った時、くらりと目眩がした。
今日の強い陽射しのせいだろう。塔のようにそびえるマンションを見上げていたから、立ち眩みがしただけだ。
スタスタと先に行く橙子さんを追って、マンションの中へと入る。
―――とたん、吐きそうになった。
マンション内のロビーの壁はクリーム色で統一されており、この上なく清潔的だ。なのに歯を食いしばっていなければ倒れてしまうほどの悪寒がした。
いや、これはすでに嫌悪に近い。
気持ちが悪くて暴れだしたくなる。
外の空気はあれほど冷たかったのに、マンションの中の空気は生暖かかった。暖房の効きすぎなのだろうが、これでは人の息みたいだ。生温くて、肌にまとわりついて、なんだか―――生き物の胎内にいるような。
「黒桐、それは気のせいだ」
耳元に喝かれた橙子さんの声で、ようやく僕は妙な悪寒から救われた。
気を取り直して周囲を観察する。
ロビーは、二つの建物を繋ぐ唯一のスペースだった。
このマンションはちょうど円を半月の形にぶった切ったような建物が向かい合わせで建っている。二つの建物を繋ぐのは中央のスペースだけで、二階から上は東棟から西棟へは直接行けない。絶対に中央のスペースに戻って、ロビーを通過しないといけないのだ。
ロビーには管理人室がない。
円形の空間の中心には、マンションの背骨ともいうべき巨大な一本住がある。これが一階から十階までを移動するエレベーターで、柱の横には階段らしき物もあった。エレベーターと階段を壁で囲ったら柱になった、という感じの柱で、なんとも不気味だ。
「―――イヤな建物ですね、ここ」
「幽霊屋敷みたいだな。隠しきれずに、不吉な物が気配になって漂っている。だがそういう建物はわりと多い。人を狂わす建物というのは簡単に作れるからな。壁紙の色、階段の位置を変えるだけで人間は不調をきたす。それが毎日使う住人なら、よけいに酷くなるだろう」
橙子さんは、まずエレベーターに乗った。
僕もそれに続く。
「何階がいい、黒桐?」
「いえ、何階でもいいです。……しいていうなら四階ですけど」
「なら四階でいいよ」
橙子さんはエレベーターの中をしげしげと見渡しながら言う。
エレベーターは、壁の四隅が微かに湾曲した、捻れた柱みたいな作りだった。
Bから十まであるボタンから四階を押す。
おーーーーーーーーーーーーーん。
やけに、不自然なまでに大きい、駆動音がした。
体は上に昇っていくのに、地の底に落ちていくような感覚がする。
ほどなくしてエレベーターの扉が開いた。
四階のロビーも円形。エレベーターを出てすぐ目の前には東棟へ続く通路がある。マンションの入り口は南向きだから、六時の方角に通路が伸びているのだ。
この通路は外まで通じていて、外壁まで突き当たるとくるりと三時の方向へ半回転して、西棟のマンションの外壁を回っている。マンションの各部屋の入り口は、やっぱり外側にあった。
「今、四階ですからそこが401ですね。そこから405まで続いて、行き止まり。西棟にはどうやって行くんでしょう?」
「エレベーターの裏側に回るんだ。エレベーターから出てすぐ正面である南側の通路は東棟へ、エレベーターの裏にある北側の通路は西棟に繋がっている。本当に二つに分かれているんだな、このマンション」
「ヘンな作りですね。外周を繋げばそんな事にはならないのに」
「それじゃあ味がないだろう。ここまで凝った作りなんだ、きちんと白と黒に分けるさ。で、黒桐。四階に何の用事があるんだ? 死んでいるハズの家族の部屋でも訪ねるのか?」
言われて、僕はどきりとした。
橙子さんの声はクリーム色のロビーに反響する。
磨きとげられたロビーの床に電灯のあかりが反射して、なんだか――――今が、真夜中のように錯覚した。
そうだ、どうして気がつかなかったんだろう。
……このマンションに来てから、まだ人に出会っていない。いや、それどころか――――人の気配というものがない。
「所長。その話を、どこで」
「だから懇意にしている刑事からだよ。強盗に入ったら一家全員が死んでいたという話だろう。その部屋と家族の名前までは聞き出せなかったがね。だが、おまえなら調べがつくだろうと思っていた」
ああ、その通りだ。昨夜大輔兄さんに電話をしたのは、それを確認する為なんだから。
「どうする? 確かめてみるか、黒桐」
「そうするつもりでしたけど、今はちょっと……」
白状すると恐い。来る前まではちょっとした事件と楽しみにしていたけれど、ここは本物だ。居るだけで震えが来る。恥ずかしい事に、真っ昼間だっていうのに僕は事件のあったという家族を訪ねるのが恐かった。
「行ってみろ。私は一人でエレベーターを使ってみたい。そうだな、この上の階で落ち合おう。そこの階段を使って上がってこい。おそらく螺旋階段だろうが、目をつむったほうがいいぞ」
じゃあな、と残して橙子さんはエレベー夕ーに乗り込むと、上の階へ昇っていってしまった。
ランプは十階まで上がっていく。
―――僕はそれを呆然と見送って、一人になったという事に思い至った。
ロビーには、僕しかいない。
自分の息遣いしかしない世界。
昼間なのか深夜なのか、判別のつかない巨大な密室。
まるで部屋全体が真空パックされたような、重苦しすぎる圧迫感。
知らなかった。マンションという建物が、これほど不気味で外界から遮断された異界だったなんて。
「ちくしょう、絶対に降りてきてくれないんだろうな、橙子さん」
独り言を言って活をいれたけれど、まるで逆効果だった。
反響する自分の声が他人の声のようになって耳元に伝わってくる。……夜の墓場だって、ここまでは不気味じゃないと思う。
とにかくだ。ロビーにいるかぎり、密室だという圧迫感が付きまとう。覚悟を決めて東棟へ繋がる通路へ向かった。
外に出ると、ロビーほどの圧迫感はなかった。外をぐるりとまわる廊下からの景色は面白みがない。何しろ四方はみな同じようなマンションなのだ。
それを横目に眺めながら突き当たりまで進む。東棟を最後まで歩いて、僕は四階の五号室、に辿り着いた。
―――九日前の夜。この部屋に押し入った強盗は、そこで複数の死体を見て逃げ出した。
そのまま混乱して警察に届けた強盗は、もう一度訪れた時には普段通りに主活している家族と面会して、ますます混乱したという。
強盗は幻でも見たのか。それとも、何かの手違いがあったのか。
よせばいいのに、僕はここまで来たという勢いもあってベルを鳴らした。
ぴんぽーん、という明るい音。
しばらくして――――マンションの部屋の扉は、ぎい、と音をたてて開いた。
部屋の中の闇がこぼれだす。
そこから、何かが出てきた。
まず、人の腕。
それから、頭。
「はい、臙条だけど。……あんた、誰?」
ドアを開けたいかつい顔をした中年の男性が、さも面倒そうにそう言った。
◇
――――結局、あの話はただの与太話だった。
事件があったという五号室の臙条家に異状はなかった。