饭饭TXT > 海外名作 > 《空の境界/空之境界(日文版)》作者:[日]奈須きのこ/奈须きのこ【完结】 > 空の境界@txtnovel.com.txt

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作者:日-奈須きのこ/奈须きのこ 当前章节:15404 字 更新时间:2026-6-15 18:51

 ロビーに戻ると、エレベー夕ーはまだ十階で止まったままだ。ボタンを押せば降りてくるのだろうが、その中には橙子さんが乗っている。恐くなって階段を使わなかったのか、と責められるのは目に見えていた。

 仕方なくエレベーター横の階段へと足を運ぶ。

 ロビーに充満する空気の重さは依然としてあったけれど、臙条家が普通だった事でゆとりが出来ていたのだろう。

 どこか薄暗い、赤みがかった電灯で照らされた階段を僕は登りはじめた。

 階段は直角に曲がっていくタイプで、エレベーターのまわりに絡み付くようにとぐろを巻いて上へ上へと伸びている。橙子さんの言うとおり、たしかに螺旋階段だ。各階につくと階段の途中にぽっかりと穴が開いて、ロビーに出るような作りになっている。

 ……クリーム色の壁は、赤っぽい電灯に照らされて、中世の城の階段みたいだった。電灯の明かりが、どことなく炎の揺らめきに感じられる。明かりは暗く、階段の隅まで届かず、一段登るごとに気持ちを陰欝にさせていく。

 曲がりくねる階段の先、壁の向こうに何かが佇んでいるような恐ろしい錯覚と闘いながら階段を登りきり、五階のロビーに辿り着いた。……いや、脱出したという表現のほうが正しいか。

 五階のロビーは、四階のロビーとまったく同じ作りだった。マンションなのだからデパートのように各階ごとの変化はないのは当たり前だが、それにしてもまったく同じで寒気がする。

「来たね。じゃあ降りよう」

 ロビーには橙子さんが待っていた。

 何も言わずにエレベーターに乗る彼女に付いてい エレベーターに乗ると、橙子さんは各階に対応するボタンの前に立って、振り向かずに言った。

「黒桐、下を向いてろ。ちょっとしたクイズだ」

「え? はあ、下を向いてればいいんですね」

 エレベーターが閉まる。また、大きな駆動音。

 下におちていく時間は三秒もなかっただろう。マンションという巨大な密閉の中の、もっとも小さな密閉の箱が停止する。

「さて問題だ。ここは何階でしょう」

 言われて顔をあげる。エレベーターは開いていて、ロビーが見えた。さっきの階とまったく同じロビーの壁には、五の数字のプラスティックが嵌められていた。

「あれ……五階のままだ」

 でも、エレベーターは確かに動いた。となると、間違っているのは僕のほうだ。

 少し考えて、当然の結論を口にする。

「じゃあ、さっきのは六階だったんですね」

「正解。黒桐は一階登ったつもりで二階登ってしまったんだな。間違いやすい階段の設計だが、まあそれはおまけみたいなものだ。

 ところでさ、マンションというのは奇怪だろう? 自分の住んでいる階を確認する手段が、ロビーにあるあんな小さな文字だけなんだから。高い階になればなるほど、エレベーター内の感覚は解りづらくなる。これでエレベーターのスイッチに細工して、各階の数字を取り替えてしまえば、住み慣れていない者なら確実に四階だか五階なのだか解らなくなるだろう。機会があったら近くのマンションで試してみればいい。時間は深夜がいいな、気分が俄然もりあがる」

 それだけ言うと、橙子さんはエレベーターを閉じた。

 ほどなくして一階に到着すると、僕らはロビーに出た。

「そうだ、ちょっと東棟のロビーに行ってみよう。たしかどちらの棟にも一階にはロビーがあるんだろう?」

「ええ。ちょうど一階の施設とつながっていて、吹き抜け構造になっています。ちょっとしたホテルのロビーみたいな感じでしょう……って、東棟のロビーを設計したのは橙子さんじゃないですか」

 そうだっけ、なんて適当に答えて、橙子さんは歩きだす。

 二階のロビーは、ようするに円の中心だ。

 この中心から細い線のように東西に通路が一本だけ伸びていて、各棟の「階にあるロビーにつながっている。各棟のロビーは、どちらかというとラウンジだろう。

 東棟のロビーにはすぐに着いた。

 ちょっとした広さの、何もない広場。二階までの吹き抜けで、階段は大きなものが一直線に二階の踊り場まで伸びている。

 映画でよく見る、洋館の大広間みたいな感じか。半円形のラウンジの真ん中から二階へと続く武骨な階段だけがある。周囲はクリーム色の壁だけで、床はマーブル模様の大理石だった。

「仕掛けるなら、まあ、ここかな。万が一の為の逃走経路ぐらいは作っておこう」

 言いながら、橙子さんは大理石の床に膝をついて座り込む。そのまま、化石を探す学者みたいに地面を手でぺたぺたと触っていった。

「―――あの。何してるんですか、所長」

「用心用心。ところでさ、階段を使って気がつかなかった? 動かした後があっただろ、アレ」

「?」

 階段を、動かした……?

 あの箱の中に詰め込んだような階段を動かすって事は、あのエレベー夕ーがある中心の柱を動かすって事だ。

 そんな馬鹿な事、なんで。

「柱じゃない。階段だけだ。壁の隅とか見なかったのか。壁に擦り傷があっただろう。ああ、そうか。恐くてそこまで気が回らなかったのか」

 床に手を触れさせたまま、振り向きもしないで橙子さんは言う。

 ……たしかに、そこまで気が回らなかった。いや、階段は暗くて端っこまで明かりが届いていなかったから、気がつくハズがなかったというべきか。

「……でも、階段を動かすなんて不可能です。あの柱を動かすって事は、このマンションを壊すって事でしよう?」

「だから階段だけだと言っている。ロケットペンシルなんだ、ようするに」

「ろけっとぺんしるって、何ですか?」

 ぴたり、と橙子さんの手が止まる。

 と、彼女はすっと立ち上がった。

「知らないのか。一本の鉛筆の中に、十個程度の鉛筆の芯が入っているんだ。小さなミサイルみたいなのがつまっている。拳銃の弾倉に似てるな。鉛筆の中で縦に連なっていて、芯が減ったら古いミサイルを抜いて、一番後ろに入れなおす。と、次には新しいミサイルが出てきて、芯を削る手間をかけずに書き物ができるという品物だ。……今でも売ってるのかな、イメージ的にはトコロテン」

 納得いかない、とばかりに橙子さんは言う。

 彼女のいうミサイルペンシルはイメージできないけれど、トコロテンという表現でびんときた。つまり、下から階段だけをズラしたのか。

「螺旋階段を下から押し上げたって言うんですか。ピストンかなにかで」

「だろうね。はじめから半階分余分に作ってあったんだろう。エレベーターが使用できるようになったのと同時に、下から押し上げたんだ。一階分増やす為じゃない。螺旋の出口をズラす為だ。そうすれば北と南が逆になる」

 さあ帰ろう、と橙子さんはまた歩きだした。

 中央のロビーに戻って、この円形のマンションから出る間。所長は、納得いかないとばかりにぶつぶつとこんな事を呟いていた。

「……本当に知らないのかなあ、ロケットペンシル。私が学生の頃は流行ってたんだけどなあ、アレ」

        ◇

 最後のオチとして、路上駐車していた車には駐車違反のキップがきられていた。

 見ればマンション前の道路は広いくせに車の行き来がなく、駐車している車は橙子さんの自動車だけだったので目立ったのだろう。

       /8

    (螺旋矛盾、4)

 その夜。

 仕事が終わって調べ物の続きを済ませると、僕は式のマンションへ向かった。

 十一月九日の午後八時過ぎ。

 それから日付が翌日に移り変わっても、式は帰ってこなかった。

       /9

    (矛盾螺旋、5)

 ……がち。がち。がち。がち。

 気がつくと、俺は両儀の部屋にいた。

 あいつに両親を殺した事をバラした夜から、決して足を踏み入れなかったこの殺風景な部屋に。

 外は陽が落ちようとしている。あいかわらず癪に障る時計の針は、じき六時をまわろうとしていた。

――――頭がいたい。

 両儀と縁を切ってから九日ほど経ったのだろうか。俺は十一月になったばかりの街の中で浮浪者のように生活していた。メシも食わず、ただ両親の死体が発見されるニュースだけを探していたと思う。

 無理な、人間として最低の生活をしていたせいか、頭痛は日に日に強くなっていた。それだけじゃなく、体のほうもガタがきている。不養生が崇ったのか、関節という関節が重かった。

「……何やってるんだ、俺」

 膝を抱えて呟く。

 二度とここには来ないつもりだった。

 けれど今は―――ただ、両儀の声が聞きたかった。

 がたがたと歯の根が合わない。

 俺は怯えていて、助けを求めるように、いつのまにかここにやってきていた。

 明かりをつけない暗闇の中でどれぐらいそうしていただろう。

 世界は、唐突に光に満たされた。

「なにやってんだ臙条。電気をつけないで待ち伏せするの、好きなのか?」

 白い着物と赤い革製のジャンパーを着た少女が言

 俺がいる事を不思議にも思っていない。

 肩口までの黒髪も、黒く深みのある目も、男のような口調も。

 何一つ以前と変わらず、当たり前のように両儀は部屋に入ってきた。

「それにしてもタイミングがよすぎるな。出来すぎてる」

 両儀はそんな事を呟きながら、手に持った包みをベッドに置いた。そのまま使っていないハズの隣の部屋に入ると、包みと同じぐらい細長い木箱を持って出てくる。

「ちょっと待ってろ、組み上げちまうからさ」

 両儀は包みをほどく。中は、剥き出しの刀だった。

 着物の少女は手慣れたふうに木箱を開けて刀の鞘らしき物や柄、大きな小判のような|鍔《つば》を刀に装着していく。

「ありゃ、はばきが小さすぎた。|鎬《しのぎ》造りのくせにどうして含わないんだ、くそ。……まいったな、はばきはこれしかないっていうのに」

 不満そうに言うと、両儀は剥き出しの刃から立派な日本刀に変貌をとげた刀をベッドに置き去りにして、こちらに振り向いた。

「いいぜ。話があるんだろ?」

 言葉とは裏腹に、両儀の顔は相変わらずの無関心さだ。

 俺は―――何をどう口にしたものか考えてもいなかった。ただ、誰かに助けてほしいと思っただけで。

 ……変わってない。

 俺は両儀と初めて会った時も、何から助けてほしいかすら思い出せなかったんだから。

「――――わからない。

 俺は、どうかしちまってる。自分に自信が持てないんだ」

 両儀は何も言わず、ただこちらを見ている。

 俺は、ただ有りのままを喋るしかなかった。

「今日、街で母親を見かけたんだ。はじめはよく似たヤツかと思った。けど……間違いなく母親だった。後をつけたらさ、とんでもねえ事に――あいつ、あのマンションに帰って行きやがった―――」

 体の震えを止められず、そうまくしたてる。

 ―――と。

 両儀はそうか、と言って立ち上がった。

「ようするに両親が生きてたんだろ。ニュースにもなっていないんだから、そう考えるのが普通なんだ」

「そんなワケあるか……俺は確かにお袋を殺した。親父だって死んでた。それは絶対なんだ。間違ってるのは生きてるほうだっ!」

 そうだ。なのになんで、普段通りに生きているのか。

 なんで普段通りに自分の家に帰っていくのか。

 あの、血にまみれた地獄のような家に、どうして――――

「へえ、間違ってるんだ。じゃあ確かめにいこう」

「――な、に?」

「だからさ、そのマンションに行って確かめればいいじゃないか。本当に臙条の両親が生きているのか死んでいるのか。そのほうがはっきりするだろ」

 決まりだ、とばかりに両儀は動きだす。

 革ジャンの内ポケットに長いナイフを入れて、帯の後ろ腰にも二本目のナイフを挟む。

 そんな物騒な支度をしていながらも、ちょっとそこまでタバコでも買いにいこうか、なんて簡単さで、白い着物の少女は歩きだした。

 両儀は一人でも行く気らしい。

 乗り気ではなかったが、こいつを一人で行かせるわけにもいかず、俺は同行する事にした。

「臙条、バイクの運転できる?」

「……人並みには」

「じゃあそうしよう。さっきまで乗ってたヤツがあるから、それで行く」

 両儀は地下の駐車場へ移動した。

 こんな小さなアパートが地下に駐車場を持っている事も驚きだが、両儀の用意したバイクも驚きだった。

 ハーレーなみの大型バイクの横にはサイドカーが取り付けられている。両儀はためらう事なくサイドカーに乗った。

 俺はもうヤケクソで大型のバイクにまたがって、一ヵ月前まで暮らしていた港地区のマンションを目指した。

        ◇

 慣れない大型バイクのせいで、マンションに到着したのは夜の七時過ぎになってしまった。

 十一月とは思えない寒空の下、月に届けとばかりに円形の建物が建っている。周囲の四角いマンションとは一線を画する建物。このおかしな建物は変わった造りをしていて、東棟と西棟とに分かれている。俺の家は東棟の四階。いや、そもそも西棟には人は住んでいない。入居者が少なく利用されていないのだ。

 話によると入居希望者は山ほどいたのだが、マンションのオーナーが人見知りするとかで全体の半分も入居させなかったという。

 ……こんな高級指向のマンションにうちがあるのは、親父とオーナーが知り合いだからだそうだ。

「ついたぜ、ここだ」

 サイドカーに座り込んでいる両儀に話しかける。

 両儀は、何か幽霊でも見るような目付きでマンションを見上げていた。

「なんだ、これ」ただ、そう口にする。

 俺はバイクを道に停めるとマンションの敷地に入った。

 ブロック塀に囲まれた敷地は、下手な小学校の敷地より大きい。建物自体は円形なので幅をとらないが、まわりの庭はなかなかのものだ。

 その庭を一刀両断するように、舗装された道がマンションへと伸びている。

 俺は黙りこくっている両儀を連れてロビーに入った。

 ロビーをしばらく歩いて、マンションの中心にある大きな柱に到着する。柱の中はエレベーターになっていて、その横には滅多に使われない螺旋階段があった。

 俺は、エレベーターを呼んだ。

 がち、がち、がち、がち。

 ……イヤな気分だ。

 心拍が普段より速い。息が上手くできない。

 それも当たり前か。今から、自分が殺した連中の死体がある部屋に、行こうっていうんだから。

 エレベーターが来た。

 中に入る。両儀も続く。扉が閉まる。

 おーーーーーーーーーーーーーん。

 聞き慣れた駆動音をたてて、エレベーターは上がっていく。

「―――捻れてる」

 ぽつり、と両儀は呟いた。

 エレベーターが四階に着いた。俺はエレベーターからおりてすぐ正面に続く、南に向いた通路へと歩きだした。

 そのままマンションの外側に出ると、道は直角に左に曲がる。東棟の外周をまわる廊下だ。左側にはマンションの部屋が並び、右側は外に面している。四階から下に落ちないように胸元あたりまでの柵がある。

「この突き当たりが俺の家だ」

 歩きだす。あいかわらず静かなマンションで、部屋から人の声はするが廊下で出会う事はまずない。

 突き当たりの部屋の前に着いて、俺は止まった。

――――ホんトウに、入ルのか。

 腕が動かない。目が、ぼやけてしまって、ドアノブが掴めない。いや、そうだ、その前にチャイムを鳴らさないと。

 たとえ家の鍵を持っていても、チャイムを鳴らしてから入らないと母親が怯えてしまう。一度借金の取り立てにきた野郎がいきなり家に押し入った事があって、それ以来チャイムを鳴らして入らないとお袋は怯えてしまうんだっけ。

 指がインターホンのボタンに伸びる。

 それを両儀の指が止めた。

「チャイムはいい。中に入ろう、臙条」

「―――何言ってるんだ。勝手に入るつもりかよ」

「勝手も何も、もとからここはおまえの部屋だろ。それにスイッチは入れないほうがいい。カラクリがわからなくなる。カギ持ってるだろ。かせよ」

 両儀は俺から家の鍵を受け取ると、がちゃりと回した。

 ドアが開く。……中からはテレビの音。

 誰か、いる。

 感情のこもっていないカタチだけの家族の話し声がする。

 今の生活を母や世間のせいだとグチる親父の声。

 それを黙って聞き流して、ただ頷くだけの母親の声。

「――――――」

 それは、間違いなく臙条巴の日常だ。

 両儀は声もあげずに中に入る。俺も――――その後に続いた。

 廊下を抜けて、居間に通じるドアを開ける。

 立派な部屋には不釣り合いな安物のテーブルと小型のテレビ。ろくに掃除もされていないゴミだらけの汚い部屋。

 そこにいるのは、間違いなく俺の両親だった。

“おい。巴はまだ帰ってこないのか。もう八時だぞ、仕事が終わって一時間も経っている。ったく、何を遊び歩いているんだ、あいつは!”

“さあ、どうでしょうねぇ”

“あいつが親を親とも思っていないのは、おまえが甘やかすからだ。くそ、金なんて返さなくていいものを返して、オレにビタ一文もまわしゃしねえ。誰のおかげで暮らしていけると思っているんだ、あいつは!”

“さあ、どうでしょうねぇ”

―――なんだ。

 なんだ、これは。

 両親がいる。小心者のくせに自分を大物なんだと疑わない親父に、それに合わせるだけの母親。

 殺したハズの二人が、変わらない日常で生きている。

 いや、そうじゃない。

 こいつら、どうして入ってきた俺達に振り向きもしないんだ――――!?

「臙条が帰ってくるのはいつも何時なんだ?」

 耳元で両儀が訊いてくる。俺は九時頃だと答えた。

「あと一時間か。それまで待っていよう」

「なんだよコレ。いつたいどうなってるんだ、両儀ッ!」

 あまりに平然とした態度にハラを立てて詰め寄ると、両儀は面倒くさそうに俺を一瞥する。

「チャイムもノックもしなかったから、お客さんに対応しないだけだろ。決められたパターン以外の行動に対応する為のスイッチを、オレ達は押さなかった。だから客は来ていないってコトで、臙条の両親はいつも通りの生活をしているだけ」

 言って、両儀は堂々と居間を横断して隣の部屋へ移動した。……そこは俺の部屋だ。

 俺は散々ためらった後、両親から目を背けながら自分の部屋へと入っていった。

 そのまま、ただ立ち尽くす。両儀も壁にもたれ掛かってぼんやりと待っていた。

 電灯の点いていない部屋の中、俺と両儀はただ待ち続けた。

 何を?

 ハッ、決まってる。そんなの、|日常《イツモ》通りに帰ってくる臙条巴しかいないじゃないか。

 俺は、かつて殺人を犯した場所で、俺自身を待ち続けた。

 それはおかしな時間だった。

 永遠にも一瞬にも感じられる責め苦。現実感というものが蕩けてしまって、時計が逆に回っている。

 果たして、俺は帰ってきた。

 やっと帰ってきてくれた。もう帰ってきてしまった。

 二つの感情が入り交じる中、巴は両親とは何も話さず、無言で部屋の中に入ってきた。

 クセのある赤毛。華奢な体。中学の頃まで女扱いされた細い顔つき。世を拗ねた目つきの巴は、一度だけ深いため息をついた。

 ―――深呼吸に似ている。

 まるでそうする事で今日一日の辛かった事が帳消しになると信じるような、それは、精一杯のささやかな儀式だった。

 その巴さえ、この巴に気がつかない。

 俺と両儀は幽霊になったみたいだ。

 やがて、巴は布団を敷いて眠りにつく。

 しばらくの時間。俺は、この先の展開を知っているクセに何も考えられず、臙条巴を見つめていた。

 居間から口論の声が聞こえた。

 親父の声と、初めて聞く母の感情的な声。

 金切り声をあげて母親は親父にくってかかっている。

 それは吠えまくる犬みたいで、人間じゃないみたいだった。

 エタイのシレナイ金星人だったのかもしれない。……女のヒステリーってのはジャンキーみたいに暴れだすものだと初めて知った。

 なんて間の抜けた、どうでもいい真実の体験だろ

 ごん、というイヤな音。

 母らしき人間の激しい息遣いが、襖越しに聞こえてくる。

 がち、がち、がち、がち。

「……やめろ」

 呟いても、何も変わらない。

 だって、これは。

 がち、がち、がち、がち。

 襖が開く。巴が目を覚ます。立ち尽くす母親の手には、大きな包丁が握られている。

“巴、死んで”

 何かが切れてしまったような、感情のない女の声。

 がち、がち、がち、がち。

 巴には逆光で見えなかっただろう。

 母は、ホントウに。

 悲しそうに、泣いていた。

 が、ち。

 母が巴を滅多刺しにする。腹、胸、首、腕、足、腿、指、耳、鼻、目、最後には額まで。

 包丁はそこで折れて、折れた刃で母は自らの首元をぶった斬った。

―――部屋に響く、ばずん、という鈍い音。

            がちがち。がちがち。

            がちがち。がちがち。

      がちが、ち。が、ぢが、ぢがぢ。

    ………………がチがチがチがチがチ!

 ああ、なんて―――――

「―――ひどい、ユメだ」

 現実になっている、俺の悪夢。

 でも、これがどんな現象なのかなんてどうでもいい。

 ただリアルすぎて、俺は吐き気を堪える事しかできなかった。

 さらり、と白い着物が動く。

 両儀は部屋から立ち去ろうとしていた。

「気が済んだなら、出よう。ここにもう用はない」

「……用がないって、どうして! 人が―――俺が、死んでるのに」

「なに言ってるんだおまえ。よく見ろ、血が一滴もこぼれてないだろ。朝になれば目を覚ますよ。朝に生まれて夜に死ぬ『輪』なんだ。そこで倒れているのは臙条じゃないぜ。だって、いま生きてるのはおまえじゃないか」

 両儀のう言葉にハッとして惨劇の現場を振り返る。

 ……たしかに、あれだけの凶行だというのに血が一滴もこぼれていない……。

「な、んで―――」

「知らないよ。こんなコトをする意味がまるで分からない。とにかくここはもういいんだ。さ、早く次に行こうぜ」

 すたすたと両儀は歩いていく。

 たまらなくなって、俺はその背中に問いかけた。

「次って―――他にどこへ行くっていうんだ、両儀!」

「決まってるだろ。おまえの本当の住みかだよ、臙条」

 あっさりと――まるで俺の混乱という憑き物を落とすように両儀は言った。

        ◇

 中央のロビーまで戻ると、両儀はエレベーターには乗らずにその裏側に回った。エレベーターの後ろ……北の方角には西棟へ通じる通路がある。

 西棟は、東棟とまったく同じ造りだった。

 このマンションの性質上、東棟の者は西棟には入らない。半年以上も暮らしていたというのに、俺はこんな当たり前の事実に今になって気がついた。

 渡り廊下を歩いていく。

 時間も十時をまわって、風は刺すように冷たかった。

 ……西棟には人が住んでいない。

 その為か、電灯も最小限しか点けられておらず、並んでいる部屋からも明かりというものが皆無だった。

 月明かりだけが頼りの、冬の闇。

 そんな無人の廊下を両儀は突き進んでいく。六号室、七号室、八号室、九号室。……行き止まりにある最後の十号室に着くと、ぴたりと足を止めた。

「オレがおかしいと思ったのはさ、些細なコトなんだ」

 不意に、両儀は扉を睨みながら喋り始めた。

「おまえは405号室だと言ったじゃないか。なのに幹也はおまえの名前を最後に言ったんだ。あの几帳面なヤツが何の理由もなく順序は変えない。そうなると臙条って家族は四階の最後の部屋、ようするに410号室にいないとヘンなんだよ」

「―――なんだって?」

「あのエレベーターはしばらく動かなかったんだろ? 入居者がそろって、みんなこのマンションに住み慣れた頃にやっと動きだした。それが始まりの合図だったんだ。

 全部、北と南を逆に入れ替える為のカラクリなんだよ。エレベーターが円形だったり音がでかかったり、すごいはったりだ。二階が使われていないのもその為だけ。乗っている人間に気付かせないように半回転させるには、最低限一階分の距離は必要だったんだろう」

 北と南が――――入れ替わる……?

 そんな子供の遊びみたいな仕掛けが、本当にあるっていうのか。だが、本当にあるとしたらどうだろう?

 エレベーターから出て正面にある道が東棟に続く通路だ。それは当たり前すぎて疑いようがない事実だろう。

 なら―――エレベーターが半回転しているコトにさえ気がつかなければ、エレベーターから出て目の前にある通路に行くのは日常だ。

 もし本当に知らずのうちにエレベーターが回転して出口が南ではなく北に向いてしまっていたとしたら、俺は今まで西棟に向かっていた事になる。このロビーの南側と北側の作りはまったく同じだ。各棟に通じる通路はどっちだって直角に左に曲がっているから、間違いには気がつかない。

「じゃあ―――こっちが、俺の家だって言うのか」

「うん。正確には入居して一ヵ月間だけいた家。エレベーターが稼働するようになってからはさっきの家だ。きっと階段もエレベーターの稼働に合わせてずらしたんだろうな。階段の出口も逆にしないと話にならない。ここの階段って螺旋状になってないか?」

 ああ、まったくその通りだ。俺は頷くコトもできなかった。

「だけどウソだぜ。普通は気付くだろ、こんなの!」

 認めたくなくて反発するけれど、両儀はやっぱり平然とした目で俺の言葉を否定した。

「ここは普通じゃない。異界だ。周囲はおんなじような四角いマンションばかりで、風景に大差はない。マンションの中は壁でしきられてる。クリーム色の壁の所々には怪しげな模様が混ざっていて、無意識のうちに網膜に負担をかける。――――トウコじゃないけど。ほんと、手のこんだ結界だ。細かい異常が何一つないから、大きな異常に気付かない」

 両儀はドアノブに手を伸ばす。

「開けるぞ。半年ぶりの我が家だぜ、臙条」

 両儀は嬉々として言う。

 俺は――――それを、開けてはいけない気がした。

        ◇

 十号室の中は、ねっとりとした闇だった。

 闇しかなかった。

 かちかちかちかち。

 耳の奥で、そんな音がする。

 体が、関節が、重い。

「電気は――――これか」

 闇のなか両儀の声がする。

 ぱちりと明かりがともった。

「―――――――」息を呑む。

 でも、驚きはしなかった。ソレがある事は、とっくの昔に分かっていたんだから。

「死後半年ってところだな」落ち着いた両儀の声。

 ああ、そうだろう。

 俺達が入りこんだ居間には、人間の死体が二つあった。

 薄汚れた人骨と、かすかに付着した肉らしきもの。どろどろに腐食した肉は床にこぼれ、積もって、なんだか分からないゴミのヤマみたいになっている。

 臙条孝之と臙条楓――――俺の父と母の死体だ。

 俺が一ヵ月前に、自分が殺される悪夢を見たくなくて殺してしまった両親の死体。でも半年前の死体。今も生活している東棟の臙条という家族――――。

 それらの矛盾を、俺はこれ以上考えられない。

 やる事もなく立っているだけの両儀と同じように、俺は何の驚きもなく、落ちていく砂時計を眺めるような何も考えない心で、死体を見ている。

 さっきの光景―――俺が毎晩見ていた悪夢の再生映像だった出来事にくらベれば、こんな、済んだ後の死体は不気味なだけだ。別段ショックでもない。

 とっくの皆にくたばった人間の死体。

 誰であるかも判別不能な、骨の山。

 目があった部分は暗い洞窟のように穴があき、ただ虚空を睨んでいる。

 ……無価値だ。これほど無意味で、報われない、馬鹿みたいな死が、両親だったもの。

 周囲からの迫害に耐えられず、かといってそれを自分のせいではないと居直る夫にも逆らえず、繰り返す毎日のすえに親父を殺して、自らも殺した母親。

「――――――――――」

 なのに、それだけなのに、俺はそれから目を離す事ができなかった。

 これはなんだ。

 俺はどうしたんだ。

―――父も母もいらないと。あれほど嫌悪していた人間が二人死んでいるだけで、どうして俺は、こんなにも木偶の坊になってしまうんだろう――――?

 その時。玄関から、扉の開く音がした。

「へえ、やる気なんだ」

 両儀は笑うように言うと、ジャンパーの内側からナイフを取り出す。

 ゆっくりと誰かが居間に入ってくる。

 声もあげず足音もたてずに現れた人影は、どこにでもいそうな中年だった。顔には表情がなくて、虚ろな視線が逆にはっきりと危険な物を感じさせる。

 どこかで見たような男は、そのまま俺達に襲いかかってきた。糸に操られた人形のように、唐突に前触れもなく。

 それを、両儀は簡単に殺してしまう。

 一人。二人。三人。四人。玄関からわらわらと入ってくるマンションの住人達を、舞うような鮮やかさで殺していく。そこには無駄が一切ない。

 すぐに居間は死体で埋まってしまった。

 両儀は俺の手を取って走りだす。

「長居は無用だ。行くぞ」

 両儀はあくまで両儀だ。

 俺は―――両親の死体を見てからおかしくなってはいたけれど、それでもこの状況を許せなかった。

 なんで―――こんな、問答無用で人を殺すんだ、こいつ。

「両儀、おまえ―――――!」

「話は後だ。それにそいつらは人間じゃない。俺にだって何度死んでるかわからないぐらいなんだぜ。そんなの、人間でも死人でもないただの人形だ。どいつもこいつも死にたがっていて、吐き気がする」

 初めて―――憎しみに満ちた顔をして、両儀が走る。

 俺はわずかにためらってから、両儀に殺された家族らしき集団の死体を踏みつけて廊下に出た。

 廊下に出ると、すでに五人ぐらいの人間が廊下に倒れていた。俺がそれから目を背けている間に、両儀は八号室の前で何人目かの人間を斬り伏せていた。

―――強い。

 圧倒的でさえある。どうやらこの連中は東棟からやってきているようだが、映画に出てくるゾンビみたいに動きが緩慢なわけじゃない。人並み以上の激しさで襲いかかってくる。

 だっていうのに、両儀は眉一つ動かさずにあっさりと始末する。血が出ないのは、両儀が言うとおり連中が人間じゃないからだろうか。

 返り血ひとつ浴びずに住人達を殺害し、中央のロビーへの道を開いていく両儀は、白い死神めいていた。

 俺は両儀が切り開いていく人の群れの先を見る。

 ロビーから電灯の光が漏れている。明かりのない西棟の廊下にかろうじて光を届けている通路の入り口に、黒い人影が立っていた。

 意志がない住人達とは違う。

 黒い石碑なんじゃないかと錯覚するほどの塊は、黒いコートを着た男だった。

 それを見た瞬間、俺の意識は凍りついて、糸が切れた人形のように指先一つ動かなくなった。

 見るべきではなかった。いや、違う。俺はここに来るべきではなかったのだ。そうすれば出会ってしまう事もなかった。

 あの、静かで凄惨な出来事には相応しい、悪魔みたいな黒い影に――――――

       /10

 男は、暗い渡り廊下で待っていた。

 中央のロビーに続く、狭く一つしかない道を塞ぐように。

 黒い外套を着込んだ男は月明かりさえ拒んでいて、夜より深い影のようだ。

 闇色の男はマンションの住人達を斬り伏せていく白い少女を感慨もなく眺める。

 その眼差しを感じ取ったのか、立ちはだかる最後の住人を殺して、両儀式は足を止めた。

 少女―――式は、ここまで近付いてようやく男に気がついた。距離にして五メートルもない。こんな近い間合いまで『敵』を感知できなかった事が、彼女自身にさえ信じられなかった。

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