饭饭TXT > 海外名作 > 《空の境界/空之境界(日文版)》作者:[日]奈須きのこ/奈须きのこ【完结】 > 空の境界@txtnovel.com.txt

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作者:日-奈須きのこ/奈须きのこ 当前章节:15372 字 更新时间:2026-6-15 18:51

 いや―――そんな事ではすまされない。男の姿を見ているというのに気配さえ感じられないという事実が、式の心から一切の余裕を剥奪する。

「……皮肉なものだ。本来ならこちらの完成が後になるべきだったのだが」

 重い、聴く者を魂から屈伏させる声で、魔術師は言った。

 一歩、男は前に出る。

 無造作で隙だらけのその前進に、式は反応できなかった。

 目の前の男が『敵』で、自分と臙条巴を殺す気だという事も分かっているのに、いつものように走り寄る事ができない。

 ―――こいつ、視えない……!?

 内心の驚きを噛み殺しつつ、式は男を凝視する。

 今まで気を許しただけで視えてしまっていた人の死が、男にはなかった。

 人間の体には、なぞればそれだけでその箇所を停止させてしまう線がある。それが生命の綻びなのか、分子の接合点の弱い部分なのか、式は知らない。ただ視えるだけだ。

 今まで誰一人、何一つ例外なく『死の線』は有った。

 なのに。この男は、その線があまりに微弱だった。

 式は強く、今まで行なった事もないほど|毅《つよ》く男を睨む。脳が過熱でもしているのか、意識の大半が真っ白になるまで相手を観察して、ようやく視えた。

 ……体の中心、胸の|真中《まなか》に穴が視える。

 線はぐるぐると子供の落書きのように同じ部分で円を描いて、その結果穴のように視えるのか。

「――――知ってるぞ、おまえ」

 その、奇怪な生命の在り方をした相手を、式は知っていた。

 ………彼女は思い出す。

今の式が思い出せない遠い記憶、

二年前の雨の夜に起きた出来事の断片を。

 男は答える。

「左様。こうして会うのは、実に二年ぶりだ」

 聴く者の脳を鷲掴みにする、重い声。

 男は、ゆるりと自らのこめかみに手を触れた。頭の側面。額から左には、一直線に切られた傷跡がある。二年前、両儀式がつけた深い傷が。

「おまえは―――――」

「荒耶宗蓮。式を殺す者だ」

 眉一つ動かさず、魔術師は断言した。

 男の外套は確かに魔術師めいていた。

 両肩から下がる黒い布が、童話に現れる魔法使いのマントに似ている。

 そのマントの下から、男の片腕が突き出された。離れている式の首を掴もうとするように、ゆっくりと。

 式は両足のスタンスをかすかに広げて身構える。今まで片手持ちだったナイフも、いつのまにか両手持ちになっていた。

「悪趣味。このマンションに何の意味がある」

 自らの緊張と――――おそらく、初めて体験する畏れという物に耐える為に式は声をあげた。

 魔術師は答える。式には、それを聞く権利があるとでも言うように。

「普遍的な意味はない。あくまで私個人の意志だ」

「ならあの繰り返しもおまえの趣味ってわけか」

 ぎり、と双眸に敵意をこめて式は男を睨む。

 繰り返し――――あの臙条家のように、夜に死んで朝に生き返るという不可解な現象。

「効果的ではないが。

 私は一日で完結する世界を作り上げた。しかしただの生と死の隣り合わせでは両儀にはなりえない。同じ人間達の営みと死去でなければ、おまえを祀りあげるには不十分だ。死亡したのちに蘇生する螺旋では不完全である。絡み台いながらも相克する事が条件ならば、彼らは繋がっていてはいけない。よって陰には彼らの死体を。陽には彼らの生活を用意した」

「は。だからこっちが死体置場で、あっちが日常ってコト? つまらない事にこだわるんだな。そんなの、何の意味もないじゃないか」

「―――意味などないと答えた筈だが」

 そして、男は式の背後に呆然と立ち尽くす少年を見つけた。

 臙条巴は、荒耶宗蓮という闇を直視して固まっている。

「そう、意味などない。もとより同じ人間が二つの属性に同時に存在する事は不可能だ。死者と主者は相容れない。矛盾しているこの世界に、個人が共通できる意味は皆無だ」

 魔術師は少年から視線を少女へと戻す。

 もう、臙条巴には意味もないというかのように。

「これは単純な実験だ。人間は、果たして違う死が迎えられるのか試したかった。人は必ず死ぬ。だがその死は各人ごとに定められた死でしかない。一個人が最後に行なう死とは、たった一つのものなのだ。

 火事で死ぬ者はどのような形であろうと火事に死亡し、家族に殺される者はどうあがこうと家族によって命を落とす。一度目の死の直面から逃れようと、二度目。三度目の死は必ず決められた方法でしか到来せぬ。

 この限られた死に方を、我々は寿命と呼ぶ。

 人は死に方さえ定められている。だが同じ結末を何千回と繰り返せば、その螺旋にも狂いが生じるだろう。狂いは些細な事故でかまわない。仕事帰りに車に轢かれるという在り来りの不幸でいい。

 ―――だというのに、今のところ結果は同じだ。二百ほどの繰り返しでは、人の運命は変わらないとみえる」

 つまらなげに、感情もなく男は語る。

 それだけで―――式は、この男をここで殺さなければならないと直感した。

 どのような手段、どのような過程を経て男がこんな事を行なっているかは解らない。

 ただ一つ確かな事は、男は、自分本人でさえどうでもいいという実験で、臙条巴の家族に毎日殺し合いをさせているということだ

「その為に同じ死に方……最後の一日を繰り返させているのか。同じ条件で始まる朝と、同じ条件で暮らしている家族を用意して。それで、夜に死ぬのは臙条のところだけか」

「それでは異界の意味がない。ここに招き入れた家族は、全てが崩壊していた者達だ。もとから壊れていた関係は、ゆとりを無くさせるだけで終着駅に辿り着く。何十年とかかる終わりへの道は苦行だ。彼らは、一月でいずれ至る結末に辿り着いた」

 ……誇るのでもなく嘆くのでもなく、魔術師は言う。

 式は黒い瞳を細めて、黒い男を一瞥する。

「……ブレーキを壊して背中を押した、の間違いだろ。たしかにさ、この建物はストレス溜まるよな。いたる所で歪んでいるんだ。床は海みたいに所々が傾斜してて平衡感覚が狂うし、目に負担をかける塗装と照明の使い方で神経も知らずにまいってくる。何の呪術的な効果もなしで人をここまでおかしくできるんだ。たいした建築家だよ、おまえは」

「否。ここの設計は蒼崎に依頼した。賛美ならば私ではなく彼女に送られるべきだろう」

 男は、さらに一歩踏み込んだ。

 話はここまでらしい。

 式は男の首筋に狙いを定めて―――最後に、本当の疑問を問いかけた。

「アラヤ。どうしてオレを殺す?」

 男は答えない。

 かわりに、おかしな事を口にした。

「巫条霧絵も浅上藤乃も、効果的ではなかった」

「――――え?」

 予想だにしていなかった人物達の名前をだされて、式は言葉を呑む。

 その隙をついて―――男はさらに一歩進んだ。

「死に寄り添わなければ生きていけない巫条霧絵は、おまえとは似て非なる属性だった」

 ……いつ死ぬか判らない病魔に蝕まれた巫条霧絵。それは死を通してしか生きていると実感できないひとりの女性。死ぬ事でしか、生きている事を感じられなかったひとつの人間。……一つの心に二つの肉体を持った能力者。

 そして。

 死に寄り添って、それに抗う事でしか生きている事を感じられない両儀式。……二つの心に一つの肉体を持った能力者。

「死に触れる事でしか快楽を得られない浅上藤乃は、おまえとは似て非なる属性だった」

 ……痛覚がないために外界からの感情を受けとめられなかった浅上藤乃。それは人を殺すという終極的な行為からしか快楽を得られなかったひとりの少女。人を殺して、その痛がる過程と優越感でしか生きている事を感じられなかったひとつの人間。……能力を人工的に閉ざした旧い血族。

 そして。

 死に触れて、互いに殺し合う事でしか自分と、他者とを感じられない両儀式。……能力を人為的に開いた旧い血族。

「死の身近にありながら彼女は死を、おまえは生を選んだ。

 命を潰しながら彼女は殺人を愉しみ、おまえは殺し合いを尊んだ。

 気付いている筈だ。彼女達は同胞でありながら、両儀式とは相反する属性の殺人者なのだと」

 式は、愕然と―――この言い寄る闇を見つめていた。

 見つめる事しか、できなかった。

「二年前は失敗した。ヤツは正反対すぎた。必要だったのは同じ“起源”を持ちながら分かれた者達だったのだ。

 そうだ、悦べ両儀式。あの二人は、おまえの為だけに用意した生贅だ」

 男の声は、笑いを堪えきれない者のように高揚している、なのに顔だけが動かない。変わらない、苦悶に満ちた哲学者の貌。

「もう一つ駒が残っていたが、蒼崎が感付いたのでは仕方がない。臙条巴は拾い物だったぞ。おまえは私の意志とは外れた所で、自分からこの場所を訪れたのだからな」

「おまえが―――――」

 式はナイフを持つ両手に力を込める。

 男は足を止め、式の背後を指差した。

 そこにあるのは、たった今彼女が積み重ねた死者の群れに他ならない。

 その、圧倒的なまでの罪と、闇の具現。

「無こそがおまえの混沌衝動、起源である。

 ―――その闇を見ろ。そして己が名を思い出せ」

 魔的な韻を含んだ呪文が響く。

 それに心を掴まれながら、式は必死に頭をふって叫んだ。

「―――元凶……!」

 迸る叫びと共に、式は魔術師をめがけて飛び出した。極限まで絞られた弓から放たれる矢のように迅い、獣じみた速度と殺意をともなって。

        ◇

 両者の距離は、すでに三メートルほどしかなかった。

 細い廊下で対峙する式と魔術師にとって、お互いに逃げ道という物はない。後退なぞ――――両者とも、思考の隅にさえ存在しない。

 式の体が弾ける。

 この距離なら接近に数秒もかからない。一息のうちにヤツの胸にナイフの刃をねじ込める。

 白い着物が闇に流れる。

 その前に、魔術師は発音した。

「不倶、」

 空気が変わる。

 式の体が、突然に停止する。

「金剛、」

 片手を中空に突き出し、式に向けたままで魔術師が音を漏らす。

 式は、床に浮かび上がる線を視つけた。

「蛇蝎、」

 魔術師の周囲から、あらゆる流動が途絶えていく。

 大気を流れる様々な現象が密閉されていく。

 式は視た。

 黒い男の足元から伸びる、三つの円形の文様を。

―――体が、重い……?

 魔術師を守る三つのサークルは、星の軌道を描いた図形に似ていた。三つの細長いサークルがそれぞれ重なり合うように地面と大気に浮かび上がっている。

 そのサークルの最も外側の線に踏み込んだ途端、式の体は動力を奪われた。蜘蛛の巣に捕らわれた、脆く白い蝶のように。

「その体。荒耶宗蓮が貰い受ける」

 魔術師が動く。

 式が夜の闇に白い着物を残像させて走るのなら、男は、夜の闇に溶けて獲物へとにじり寄った。

 近付く過程さえ視認させない、それは亡霊のような速さ。

 立ち止まり、動けない式の真横に魔術師のコートが翻る。

 気配すらない魔術師の接近に、式は咄嵯に反応できなかった。見ていたのに―――男が近寄ってくると見ていたのに、男が自分の真横に立っていると知覚できない―――

 寒気が走る。

 ここに至って、彼女はようやく『敵』が正真正銘の怪物なのだと理解した。

 魔術師が左手を伸ばす。

 万力のように開かれた手の平が、式の顔を握り潰そうと伸ばされる。

「くる……な……っ!」

 殴りつけるような背中の悪寒が、逆に彼女の体を静止状態から蘇生させた。

 魔術師の指先が顔に触れた瞬間、式は弾かれたように顔を背けた。そのまま体を真横に流しながら、魔術師の腕へとナイフを一閃する。

 ザン、という鈍い音をたててナイフは魔術師の左手首を切断した。

「、戴天」

 魔術師が発音する。

 確実にナイフの刃が通り過ぎた魔術師の手首は、腕から落ちなかった。

 刃は大根を切るように綺麗に通ったというのに、魔術師の手は傷一つない。

「、|頂経《ちょうぎょう》」

 右手が動く。

 死なない左手から逃れた式の動きを予測して放たれた右手は。確実に彼女を捕らえていた。

 少女の顔を片手で鷲掴みにして、魔術師は式の体を宙吊りにする。式が少女であるにしても、腕一本で人間を持ち上げる姿は鬼か魔物のようだった。

「あ――――」

 式の喉が震えている。

 喘ぎにも似た声に、意識はなかった。

 男の手の平から感じるものは、圧倒的な絶望感だけ。それは皮膚を貫通して脳髄へと至り、脊髄を滑り落ちて式の全身に浸透した。

 彼女は生まれて初めて。

 このまま、殺されると確信した。

「―――未熟。この左手には仏舎利を埋め込んである。いかな直死の魔眼を用いても、死に易い部分など視えまい。単純に断ち切っただけでは、荒耶は傷つかない」

 少女の顔を掴んだ手の平で圧搾して魔術師は語る。

 式は答えない。

 顔を締め付ける力が強すぎて、答える余裕さえなかった。

 ……男の腕は、人間の頭を握り潰す為の機械だった。がっちりと顔に食い込んだ五指は力任せには解けない。下手に体を揺らして反撃をしようものなら、この機械は躊躇なく式の頭を潰してしまう。

 魔術師の語りは続く。

「加えて私は死なない。私の起源は『静止』である。起源を呼び起こす者は、起源そのものに支配される。すでに止まっている者を、おまえはどう殺すというのだ」

 式は答えない。

 彼女は一切の感情を切り捨てて、男の体にある微弱な線を探しだす事に全力を傾けた。

 全身に巡ってしまった絶望感という麻酔も、顔を締めつける痛みもすべて無視して、唯一の突破口を切り開こうとする。

 けれどその前に。

 魔術師は自らが宙吊りにしている少女を観察し、結論した。

「―――そうか。|顔《あたま》はいらんな」

 感情のない声で、魔術師は初めて腕に力を込めた。

 ビギリ、と骨を砕く音が響く。

 瞬間―――――

 両儀式という少女の顔を握り潰そうとするその右腕が、今度こそナイフによって断ち切られた。

「――――む」

 魔術師がわずかに後退する。

 宙吊りにされた姿勢のまま魔術師の腕を肘から断ち切った式は、自分の顔に張り付いた掌を引き剥がして跳び退いた。

 ドサリ、と地面に黒い腕が落ちる。

 魔術師の三重の円形から届かないぎりぎりの間合いまで離れると、式は片膝をついてしゃがみこむ。

 顔を握り潰されそうになった痛みの為か、それとも魔術師の微弱な死の線を視つけようと意識を集中した為か。式は荒々しい息遣いのまま、膝をついて地面だけを凝視する。

 二人の距離が、もう一度だけ大きく分かたれた。

「……なるほど、私が迂闊だ。病院の一件で立証済みだったな。生きていようが死んでいようが、動く音ならば動かしている源を断つ。それがおまえの能力だ。私がすでに止まった生命だとしても、こうして存在している以上は存在させている糸がある。そこを断たれては確かに死ぬな。唯一の例外はこの左腕だが、それもいつまで隠し通せるか。いかな聖者の骨であろうと、活動している以上はそれを促す因果があるのは道理である」

 断たれた腕など気にもとめずに魔術師は言う。

「やはりその目はいらぬ。両儀式の付属品にしては危険すぎる。だが潰す前には――――麻酔が必要か」

 魔術師は、三重の結界を維持したまま一歩踏み出した。

 式は、その三重の円形を見つめ続ける。

 ……ダメだ。おまえは、今ので決めるべきだったんだ」

 ナイフを逆手に持って、式は言った。

「オレも結界は知ってるよ、修験道じゃ聖域であるお山に女が入らないように結界を張る。入った女は石になるって話だけど、結界っていうのは境界にすぎないんだろ。円の中が結界なんじゃない。その区切りだけが地者を阻む魔力の壁だ。

 なら―――線が消えれば、その力は消失する」

 そして、彼女は地面にナイフを突き立てた。

 魔術師のもつ三重の円形の、一番外側の円そのもの“殺した”のだ。

「――――蒙昧」

 魔術師が焦るように前に出た。

 さらに一歩、式へと近寄っても式に変化はない。

 ………男の守りは三つから二つに減っていた。

 魔術師は内心で舌打ちする。式の直死の眼がこれほどの物だとは考慮していなかった。まさか形のない。生きてもいない結界という概念さえも殺害するとは、なんという絶対性か

 境界に触れた外敵を律する三重結界の外周、不倶を殺された魔術師は式を仕留めるべく走りだす。

「だがあと二つ残っているぞ」

「―――それも、遅い」

 しゃがみこんだ姿勢のまま、式は背後に手を伸ばした。

 着物を締める帯の中には、二本目のナイフがある。

 背中の帯からナイフを真横に引き抜くと、式は即座に魔術師へと投げつけた。

 刃が、二重の結界を貫通する。

 水面を跳ね飛ぶ小石のようにナイフは|円《くうき》の上で二度ほど弾かれて、魔術師の額へ飛んだ。弾丸のような速度だった。

「―――!?」

 魔術師は咄嗟に避けた。ナイフは男の耳元をかすめて通路の奥へと消えていき、避けた筈の耳元はごっそりと|抉《えぐ》られていた。血と肉と砕かれた骨、そして脳漿がこぼれだす。

「――――ぐっ」

 声を漏らす魔術師。

 それより早く―――彼は、自らの体を撃ち抜いた衝撃を感じていた。

 だん、と白い闇が魔術師の体躯に炸裂する。

 それがナイフを投げた後、即座に自分へと疾走してきた式なのだと魔術師が把握した時、勝敗は決していた。

 肩口から体当たりをしてきた式の一撃は、大砲の一撃めいた衝撃だった。それだけでも骨が数本折れてしまったろうに、式の手には、銀のナイフが握られていた。

 ナイフは、魔術師の胸の中心を確実に貫通している。

「ご――――ふ」

 魔術師が吐血する。血は、砂みたいに粉っぽかった。

 式はナイフを引き抜くと、そのまま魔術師の首筋へとナイフを突き入れる。両手で力の限り。勝敗は決しているというのに、必死の表情で二度目の止めを刺そうとする。

 なぜなら―――

「往生際が悪いな。それでは冥途で迷おうぞ、式」

  ―――敵は、まだ死んではいなかったから。

「チクショウ、なんでッ……!」

 呪うように叫ぶ式。なんで―――なんで、おまえは死なないんだ、と。

 魔術師は動かない仏頂面のまま、目玉だけでにやりと笑った。

「確かに、そこは私の急所だろう。だがそれだけでは足りない。いかな直死の魔眼といえど、二百年を生きた我が年月を致死させる事はできない。いずれこの体は途絶えるが、こうなる事は覚悟していた。両儀を捕らえるのだ。代償が自らの死ならば釣り合っている」

 魔術師の左手が走る。

 ……そう。勝敗は、すでに決していたのだ。

 強く握られた男の拳は、そのまま式の腹部を殴り上げた。

 大木でさえ貫きそうな一撃に、式の体が持ち上がる。その一撃だけで、式は胸と首を貫かれた魔術師以上に口から血を逆流させた。

 ばきばきと音をたてて、内臓と、それを守っていた骨が砕かれる。

「―――――」

 そのまま式は気絶した。いかに直死の魔眼を持ち、卓越した運動神経を有していようと、彼女の肉体は脆い少女の物にすぎないのだ。力を半分ほどに抑えていたにせよ、コンクリートの壁さえ砕く荒耶の一撃に耐えられる筈がなかった。

 魔術師は少女の腹を片手で掴んで持ち上げる、そのままマンションの壁へと叩きつける。

 式の全身の骨が砕けかねない勢いで行なわれた凶行は、けれど、さらに奇怪な現象となった。……壁に叩きつけられた式の体が、水に沈むようにその中へと呑み込まれたのだ。

 ぞぶぞぶと音をたててマンションの壁が式を完全に呑み込むと、魔術師はようやく腕を下ろした。

 ………その首にはいまだ式のナイフが突き刺さり、目には先程までの威圧感がみられない。

 しばしの空白が流れても、黒い外套はぴくりとも動かなかった。

 当然といえば当然だ。

 魔術師の肉体は、完全に死んでいた。

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    (螺旋矛盾、5)

 日付が十一月十日になっても、式は自分の部屋に帰ってこなかった。

 式は自分の家に鍵をかけないで出かける悪癖をもっていたのだけれど、最近はきちんと鍵がかけられている。そのせいで僕は部屋に入れずに数時間待ち続ける事となった。

 ……そういえば以前は秋隆さんも同じように待ちぼうけをくらっていて、部屋に入れなかった彼は僕に式への届け物を預けていったのだ。

 式が夜の散歩にでかけると明け方まで帰ってこない場合も少なくない。普段ならなんでもない事なのに、咋日の式の去り際はどこか不吉だった。それが気にかかって随分と待ってみたけれど、朝になっても彼女は帰ってこなかった。

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    (螺旋矛盾、6)

 帰ってこない式を待っているうちに、街は朝を迎えてしまった。

 天気は陰欝な曇り空。

 言いようのない不安を胸にしまいこんで事務所に足を運ぶ。時刻は朝の八時過ぎ。机に向かっている橙子さん以外に人影はなく、式が居るかもしれないという最後の期待はあっさりと裏切られてしまった。

 いつも通りの挨拶をして机に向かって、とりあえず昨日の仕事の続きをする。……どんなに暗い不安があっても体はちゃんと活動した。今まで何度も繰り返してきた作業だからだろうか、黒桐幹也本人の心が後ろ向きでも、重ねてきた日常の力はいつも通りの生活を送らせようとする。

 「黒桐、昨日の話なんだが」

 窓を背にした所長の机から橙子さんの声が聞こえる。

 僕ははあ、とぼんやり反応した。

 「例のマンションの人居者な。五十世帯のうち三十世帯しか調べられなかったと悔やんでいたが、調査はそれで終わっているんだ。あれは調べられなかったのではなく、初めから記録が存在しなかった。

 名前と家族構成しか記録に残っていないあとの二十世帯の入居者は架空の家族だよ。あれから調べてみたんだが、四件目まで結果が同じだったんで切り上げた。もう何年も前に死亡している連中の戸籍やら経歴やらを再利用して、居もしない入居者を捏造していたんだ」

 僕はもう一度はあ、と生返事をする。

「でっちあげられていたのは揃って東棟の住人だけだ。これがどういう事か―――――」

 言いかけて、橙子さんは眉をひそめた。

 何か、体の上にアリの行列が伝っているみたいに不快な表情をすると、侵入者だ、と呟く。

 橙子さんは机の中から草で編み上げた指輪を取り出すと、こちらに放り投げる。

「それを持って壁ぎわに立て。指には嵌めないように。すぐに客がやってくるが、徹底的に無視しろ。声もあげるな。そうすれば客はおまえには気付かずに立ち去る」

 思いっきり不快な表情のままで橙子さんは言う。そこには是非は問うな、という切迫した緊張感があって、僕はそれに従う事にした。

 すごく不器用に編まれた草の指輪を握り締めて、式愛用のソファーの後ろの壁ぎわに立つ。

 と、すぐに足音が聞こえてきた。

 工事途中で放棄されたこのビルの、剥き出しのコンクリートの床をあえて誇張するような、甲高い靴の音。

 それは一度も立ち止まる事なく、一直線にこの事務所がある部屋までやってきた。

 扉の無い事務所の入り口に、赤い影が現れる。

 暗めの金髪に碧眼、彫りの深い顔立ちにいかにも品のある立ち居振る舞い。年齢にして二十代前半といった感じのドイツ人。

 赤いコートを着た、絵に描いたような美男子は事務所に入るなり陽気に手をあげた。

「やあアオザキ! 久しぶりだね、ご機嫌はいかがかな?」

 親しみに満ちた笑みを浮かべる。けれど僕には、それが蛇のように悪意に満ちた物にしか見えなかった。

 赤いコートの青年は、橙子さんの机の前で立ち止まった。

 橙子さんは椅子に座ったまま、明らかに歓迎していない素振りで青年に冷たい視線を送っている。

 コルネリウス?アルバ。シュポンハイム修道院の次期院長がこんな僻地に何の用だ」

「はは、そんなのは決まっているだろう! 全てはキミに会うためさ。ロンドンでは世話になったからね、昔の学友として忠告をしにきてあげたんだ。それとも私の好意は迷惑かい?」

 青年は大げさに両手を広げると、善意に満ち満ちた笑顔をする。なんだかドイツ人というよりフランス人みたいな王子さまぶりで、橙子さんとは正反対だ。

 橙子さんは冷ややかな眼差しを崩さない。それを前にしても、青年はにこにこと笑っていた。

「それにニホンはいい所だよ。キミは僻地というが、だからこそ協会の監視もぞんざいだ。この国には独自の魔術系統が存在し、我々の組織とは相容れない。大陸から派主したオンミョウドウだっけか。私にはシンドウと区別がつかないのだが、まあ大した問題じゃないさ。彼らの美点はね、自分達の支配圏を侵されなければ手を出してこないという事だ。協会と違って閉鎖的なんだなあ、事が起こる前ではなく事が起きた後に動きだす。事後処理の達人だよ。ニホン人はみんなそういう人達さ。

 おっと、これは悪意で言っているんじゃないぜ。むしろ私にとっては喜ばしい事なんだ。計画の途中で邪魔が入らないなんて、私の国では考えられない。協会から外れた魔術師にとって、この国は理想郷だよ」

 もつとも、私は協会よりの魔術師だから関係ないがね、と付け足して青年は笑った。

 ……彼は橙子さんしか見ていない。本当に僕の事は見えてもいないし、気が付きもしないようだ。

 マシンガンみたいに喋る青年を片目で睨むと、橙子さんはようやく口を開いた。

「無駄話をしにきたのならお帰り願おう。人の工房に無断で足を踏み入れたのだ。殺されても文句は言えんぞ」

「なんだ、キミだって無断で私の世界に入ったじゃないか。連れがいたようなので挨拶をするのは止めておいたが、本来ならキミこそ不作法だと罵られるべきだがね」

「ほう、あのマンションはおまえの工房だったのか。あの結界ならざる結界がおまえの手練によるものだとすると、認識を改めなければいけないな」

 くく、と意地の悪い笑みをこぼす。

 青年はかすかに顔を歪めた。

「我々の工房は現代の中においてはそれだけで異界だ。

 群れというものは外界の異界は無視するが、内部の異界は病的なまでに排除しようとする。それを免れる為に、魔術師は群れの中において自分を隠すべく結界を張る。そうやって魔術師は異界をさらに異界にするんだ。だが異界を隔離しようとする結界が強くなればなるほど、今度は協会がそれを感知してしまう。―――結局誰にも隠し通せる結界は人間社会では作れない。

 究極の結界とは文明社会に感知されず、魔術協会にも感知されないものをいう。

 あのマンションはまさにそれだ。渾然一体とでもいうのかな、魔術的な実験をしている反面、その異常を外に漏らさないように社会的な仕掛けを施してある。それは魔術師たらんとする魔術師には到底辿り着けない結論だ。私が知るかぎりそんな事を実践するのは一人だけだと思っていたんだがね。そうか、おまえはようやくヤツに追い付けたんだ。おめでとう、コルネリウス?アルバ」

「安く評価しないでくれたまえよ、アオザキ。私は荒耶など問題視していない。人形どもの体を用意し、脳髄だけを生かしておける技術は私だけのものだ。あの異界は私の力なくして成り立たない」

 今までの若々しさはどこへいったのか、青年は|威高《いたか》そうな老人のように声を荒立てる。

「それはそれは。で、用件はなんだアルバ。まさか自慢話をしにきたわけじゃないだろう? 学徒だった頃ならいざ知らず、お互い協会から離れた身だ。自分の研究成果なら腐るほどいる弟子相手に披露してくれ」

「フン。相変わらずだね、キミは。解ったよ、つもる話は後にしよう。いずれ私の世界で話し合う事になるんだ。キミの本拠地ではさすがに落ち着けない。楽しい話はくつろげる場所でするものだ。アオザキ。太極は預からせてもらったぞ」

 余裕に満ちた青年の言葉に、橙子さんはかすかに目を白黒させたようだつた。

「―――太極の中に太極を取り込んだのか。本気で根源に近付こうという心意気は認めるが、抑止力が働くぞ。世界か霊長、どちらが動くかは判らない。だが過去一度として、アレを退けた魔術師はいない。自ら破滅するつもりか、アルバ」

 橙子さんは赤いコートの青年を睨みつける。

 けれど青年は我が意を得たり、とばかりににやりと笑った。

「抑止力? ああ、あの邪魔者は働かない。今回は自ら道を創るのではなく、もとから開いている道を辿るだけだからね。反動があるはずもないんだな。だが、それでも事は慎重に運ぶつもりだ。リョウギというサンプルは丁重に扱わせてもらうよ」

 ――りょう、ぎ?

「式をどうしたっていうんだ、おまえ!」

 瞬間、僕は叫んでいた。

 二人が一斉にこちらに振り向く。

 この罵迦、と言いたげに顔をしかめている橙子さんと、呆然と僕を見つめている青年。

 しまった、と自分を叱るけれど、そんなのは後の祭りだ。

 赤いコートの青年は僕を見つけると、楽しくて仕方がない、というふうに―――にやりと笑った。

「昨日の少年だね。そうか、弟子はとっていないという話だったが、きちんといるじゃないか。嬉しいな、愉しみが一つ増えてしまったじゃないかアオザキ!」

 くるり、と橙子さんに振り返って彼は言う。

 オペラ歌手のように両手を広げて語る彼は、とても正気とは思えなかった。

「それは弟子でもなんでもない。……と言ったところで無駄か」

 橙子さんは頭痛を抑えるみたいに額に指を当てて、ため息をもらす。

「用件はそれだけか。わざわざ報せを持ってきたのには感謝するが、私が協会に知らせるとは考えなかったのか」

「ふん、キミはそんな事はしないさ。仮にしたとしても、連中がやってくるまで六日はかかろう。協会の一団がニホンに上陸するにはこちらの組織と話し合いが必要になるから、そこからさらに二日。ほら見ろ、どこぞの書の神様なら世界を創っても余裕があるじゃあないか!」

 あはははは、と青年は体をくの宇にして笑った。

 そうやってひとしきり笑うと満足したのか、にこやかな物腰に戻ると青年は踵を返した。

「それでは、また。キミも準備があるだろうが、出来るだけ早い再会を楽しみにしているよ」

 最後まで陽気な口調で挨拶を残すと、青年は赤いコートをマントのように翻して立ち去っていった。

「橙子さん、今のはどういう事ですか!?」

「ああ、式が拉致監禁されたという話だな」

 赤いコートの青年が立ち去った後、すぐさま所長席にかじりつくと橙子さんはあっさりと答えてくれた。その、あまりに平然とした態度に何を言うべきか戸惑いつつも、僕は自分でも分かりきっている質問を続ける。

「監禁されたって、ドコに?」

「小川マンション。おそらくは最上階。と、あそこに屋上はなかったな。すると十階のどちらかの棟だろう。式は陰性だから西棟か」

 橙子さんはあくまで冷静だった。胸ポケットから煙草を取り出して、天井を見ながら一服する余裕すらある。

 それに付き合うほど、僕は楽天主義ではなかった。式がさらわれたなんてにわかには信じられないけれど、それがウソだとしても確かめにいかなくちゃいけない。

 そうして走りだそうとした矢先、橙子さんが待て、と声をかけてきた。

「―――なんです。所長はいつもみたいに我関せずって方針なんでしょう?」

 ムッとして言うと、橙子さんは難しい顔をして頷いた。

「基本的にはな。だが今回は他人の事件じゃない。どうやら私にも関係のある事件みたいだ。もっとも、式に関わると決めた時からこうなる事を予想してはいたけどね」

 ほんとう、なんて因果だ、と橙子さんは以前にも漏らした台詞を繰り返す。

「それにね、黒桐。魔術師の根城に行くって事は戦うという事だ。私のこの工房にしろ、アルバのあのマンションにしろ―――魔術師にとって城というものは防御の為の物じゃない。むしろ攻撃の為の物、やってくる外敵を確実に処刑する為の物だ。私はともかく、黒桐が立ち入れば玄関口で|家鴨《アヒル》にでもされてしまうのがオチだぞ」

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