この部屋には電灯がない。室内は外の陽射しだけを受け入れて、昼間なのか夕方なのか不明瞭だ。
それとは対照的に窓の外ははっきりと昼間。夏の正午の街並みを、橙子さんはしばし無言で見つめていた。
「以前は、彼女も飛行の部類だったのだろう」
煙草の煙が、白い陽射しに同化していく。
窓の外の景色を見下ろす背中。
白にかすむ蜃気楼のよう。
「黒桐。高い所から見る風景は何を連想させると思う?」
いきなりの質問に、ぼんやりとした意識が引き戻された。
高い所なんて子供のころ東京タワーに上ったきりだ。その時なにを思ったかなんて覚えてもいない。自分の家を見付けようと躍起になったけれど発見できなかったぐらいだったっけ。
「......その、小さい、ですか?」
「それは|穿《うが》ちすぎだね、黒桐」
......にべもない反論が返ってきた。気を取り直して違うものを連想してみる。
「......そうですね。連想する物はあまりないけど、綺麗だとは思いますよ。高い所からの風景には圧倒されますから」
さっきより本心からの答えだったからだろう、橙子さんはうん、と小さく頷いた。
そうして、やっぱり視線は窓の外に向けたまま話し始める。
「高所から見下ろす景色は壮観だ。なんでもない景色でさえ素晴らしい物と感じる。だがね、自分の住んでいる世界を一望した時に感じるのはそんな衝動じゃない。
|俯瞰《ふかん》の視界から得る衝動はただ一つ---」
衝動、と口にして、橙子さんは少しの間だけ言葉を切った。
衝動は理性や知性からくる感情じゃない。
衝動とは、感想のように自分の内側からやってくるものではなく、外側から襲いかかってくるものだと思う。
たとえ本人がそれを拒んでいようとも、不意に襲いかかってくる暴力のような認識。それを僕らは衝動と呼ぶ。では、俯瞰の視界がもたらす暴力とはなんなのか---
「それは遠い、だよ。
広すぎる視界は、転じて世界との隔たりがはっきりと出来てしまうものなんだ。
人間はせいぜい自分の身の回りにある物でしか安心できない。どんなに精巧な地図があって自分がどこそこの此処にいる、という事実を知っていても、そんなのはただの知識でしかありえないだろう? 私達にとって、世界とは肌で感じ取れる程度の周囲でしかないんだ。脳が認めている地球の、国の、街の繋ぎ目なんてものを我々は実感できない。その繋ぎ目の場所に行かなくてはね。
そして実際、その認識の仕方に間違いはない。
だがあまりに広すぎる視界をもってしまうと、それにズレが生じてしまう。自分が肌で感じている十メートル四方の空間と、自分が見下ろしている十キロメートル四方の空間。そのどちらも自分の住んでいる世界であるのに、よりリアルとして感じ取ってしまうのは前者だ。
ほら、ここにもう矛盾が生まれているだろう? 自分が体感できる狭い世界より、自分が見ている広い世界のほうを『住んでいる世界』と認識するのが本来は正しい。けれど、どうしてもこの広い世界に自分がいるのだという実感が持てない。
なぜか。それは実感がつねに本人の周囲から得られる情報に優先される物だからだ。ここに知識としての理性と経験としての実感が摩擦し、やがてどちらかがすり減り、意識の混乱がはじまる。
--ここから見下ろす街はなんて小さいのだろう。あの住所にわたしの家があるなんて想像もできない。あの公園はあんな形をしていただろうか。あんな所にあんな建物があったなんて知らなかった。これではまるで知らない街だ。なんだか、とても遠い所まで来てしまったみたいだ--高すぎる視点はそういった実感を湧かせてしまう。
遠い所もなにも、今もその本人は街の一部にきちんと立っているんだっていうのにね」
高い所は遠い所だ。それは距離的にも解りきっている。けれど橙子さんが口にしているのは精神的な事なのだろう。
「つまり、高いところから物を見続けるのはよくないんですか?」
「度がすぎるのはな。古来では空は別の世界と認識されていた。飛ぶという事は、つまり異界を行くという事でね。|文明《てつ》で武装しなければ異なる意識に染まってしまう。文字通り、正常な意識が狂ってしまうんだ。もっともまともな認識のプロテクトを持っているのならそう悪影響は受けないだろう。確かな足場があるのなら問題ない。地上に戻れば正常に戻るさ」
......言われてみれば、学校の屋上からグランドを見下ろしていたとき、不意に飛び降りたらどうなるのだろう、という考えが浮かんだことがある。
そんなのはもちろん冗談だ。
実行する気なんてこれっぽっちもないけれど、その、明らかに死につながる考えが浮かんでしまうのは何故だろう。
個人差がある、と橙子さんは言うけれど、高い所にいって落ちる事をイメージする事は、そう珍しい事ではないと思う。
「......これって一時的だけど、思考が狂ってるって事ですか?」
浮んだ感想を口にすると、橙子さんはあはは、と乾いた笑いをこぼした。
「タブーを夢想するのは誰にだってあるよ、黒桐。人はやれない事を想像で楽しむ、という物凄い自慰能力を持っているからね。
ただ、そうだな......今のは少しだけ近い。重要なのはその場所でしかその場所に関する禁忌への誘惑がこない、という事か。当たり前の事だがね。今の君の例は意識が狂っているではなく、理性が麻痺している、という事だよ」
「トウコ、話が長い」
もう我慢できない、とばかりに式が口をはさむ。言われてみれば確かに本題から外れてしまっているようだ。
「長くはない。まだ起承転結でいうのなら二つめだ」
「オレは結だけ聞きたいんだ。あんたと幹也のお喋りには付き合ってられない」
「式......」
ひどいけど、もっともな意見だった。
一言もない僕をよそに、式の文句はさらに続く。
「それと。高い所からの風景に問題があると言うけれど、じゃあ普通の視点ってなんだ。歩いている時だって、オレ達は地面より高い視点をしているじゃないか」
その、難癖をつけているようにしか見えない式の態度とは逆に、今の発言は確かに的を射ていた。
人の眼は、たしかに地上より高い位置に存在するならばその風景はおおむね俯瞰になっている場合もあるわけだ。
そんな式の言葉に、橙子さんはいいだろう、と頷いた。
「しかし君が水平と思っている地面も不確かな角度なんだぞ。だがまあ、それらを含めても通常の視界は俯瞰とは呼ばない。
視界とは眼球が捉える映像ではなく、脳が理解する映像だ。私達の視界は私達の常識によって守られているから、自身分の高さでは高いとは感じないし、それが常識ですらある。
そこに高さという概念はない。
しかしその反面、人間は誰しも俯瞰の視界で生きている。身体的な観測としてではなく、精神的な観測として。その個人差はまちまちだ。肥大した精神ほどより高みを目指すだろう。だが、それでも自らの箱を離脱する事はない。
人は箱の中で生活するものだし、箱の中でしか生活できないものだ。神さまの視点を持ってはいけない。その一線をこえると、ああいった怪物になる。
|幻視《ヒュプノス》が|現死《タナトス》に変わり、どちらがどちらなのか曖昧になって、結果判別がつかなくなる』
そう言葉を続ける橙子さん本人も、今は下界を見下ろしている。
地に足をつけて、下を見ている。
それはとても大事な事に思えた。
「..................」
ふいに、見ていた夢を思い出した。
--蝶は最後には墜落してしまった。
彼女は僕についてこようとしなければ、もっと優雅に飛べたのではないか。
そう、浮遊するようにはばたくのなら、もっと長く飛べていたはずだ。
けれど飛ぶという事を知っていた蝶は、浮遊する自身の軽さに耐えられなかった。
だから飛んだ。浮くのをやめて。
そこまで考えて、自分がこんな詩的な人間だったろうかと首を傾げた。
窓際の橙子さんが煙草を外に投げ捨てる。
「巫条ビルのゆらぎは、彼女が見ていた世界なのかもしれない。式が感じた空気の違いは箱の中と外とを区別する壁ではないかと推測できる。それは人の意識だけが観測する不連続面だ」
橙子さんの話が終わって、式はようやく不機嫌そ
うな態度を崩した。
ふん、と息をついて視線を泳がしている。
「不連続面ね。どっちが暖流でどっちが寒流だったのかな、あいつにとって」
深刻そうな台詞とは裏腹に、式はそれにはどうでもよさげだった。
橙子さんは同じく関心のない素振りをして、
「無論、君にとっての逆だろう」
なんて事を切り返していた。
→/3
----うなじの骨がシン、と軋む。
震えは外気の寒さからくるものなのか、内気の寒さからくるものなのか。
判別のつかないそれを放っておいて、両儀式は悠然と歩を進めた。
巫条ビルに人の気配はない。
午前二時、白ばんだ電灯だけがマンションの通路を照らしている。
クリーム色の壁は電灯に照らされ、通路の奥まで続いて見えた。闇を完璧に払拭する人工の光は人間味がなく、払拭するべき闇より不気味だった。
式はカードチェックの玄関を素通りして、エレベーターに乗り込む。
中は無人。
内部には鏡が張り付けられており、利用者の姿を見せるという趣向がこらしてあった。
浅葱色の着物のうえに黒い革製の上着を羽織った、けだるい目をした人物がそこにいる。
何にも関心がない、呆としたその瞳。
式は鏡に映る自分と向き合ったまま、屋上へ通じるボタンを押した。
静かな機械音と共に、式の周囲の世界が上がって
いく。機械仕掛けの箱はゆるりと屋上へ辿り着くだろう。
わずかな時間だけの密室。今この外で何が起きていようと式には何の関わりもなく、関わりようがない。その実感が、空虚な筈の心にわずかだけ染み込んだ。
この小さな箱だけが、今は自分が実感するべき世界、
音もなく扉が開く。
その先は一変して明かりのない空間だった。
屋上に通じる扉だけがある小部屋に出ると、式を残してエレベーターは一階へと下りていった。
電灯はなく、周囲は息苦しいほどに暗い。
足音を響かせて小部屋を横断し、屋上へ通じる扉を開けた。
--暗い闇が、|昏《くら》い闇へとすり替わる。
視界いっぱいに街の夜景がとびこんだ。
巫条ビルの屋上は、特徴のない作りだった。
剥き出しのコンクリートが真っ平らに続く床と、その周囲を囲む網目状のフェンス。
今まで式がいた小部屋の上には給水タンクがあるだけで、他に目につくものは何もない。
作り自体は何の変哲もない屋上である。
ただ、その風景だけが異質だった。
周囲の建物より十階分は高い屋上からの夜景は、綺麗というより心細い。
細い梯子の上に登って、下界を見下ろしているようだ。
暗い、光の届かない深海めいた夜の街は、たしかに美しい。街のそこかしこに灯る光は深海魚の瞬きに似ている。
自分の視界が世界の全てだというのなら。
たしかに今、世界は眠りについている。
おそらくは永劫に、おしむらくは|仮初《かりそ》めの。
その静けさはどんな寒さより心臓を締め付けて、痛いくらいだ---。
眼下の街並みと対するように、夜空の冴えも際立っていた。
街が深海ならば、こちらはただ純粋の闇。その闇に、宝石をばら|撒《ま》いたように星々が|煌《きら》めいている。
月は穴。夜空という黒い画用紙に穿たれた、一際大きな穴としか見えない。
だから本当はアレは太陽の鏡などではなく、あちら側の風景が覗いているだけなのだ--と、式は両儀の家で聞かされた事があった。
曰く、月は異界の門だという。
その、神代より魔術と女と死を孕んできた月を背に、ひとつ、人型が浮遊していた。
その周囲に、八人の少女を飛行させて。
◇
夜空に浮かび上がる白い姿は女のものだ。
ドレスと見間違うほど華やかな白い衣裳と、腰まで届いている黒髪。
装束からのぞく手足は細く、この女を一層たおやかに見せていた。
細い眉と冷淡にかげる瞳は、美貌の中でなお美貌の部類に入るだろう。
年齢は二十代前半と推測できる。もっとも、幽霊じみた相手に生命としての年齢が当て嵌まるかは疑問だが。
白い女は、けれど幽霊という程不確かではない。現実にそこにいる。幽霊と言うのならば、それは彼女を中心にして夜空を旋回している少女達の方だろう。
ふわりふわりと取りとめもなく中空を彷復っている少女達は、飛んでいるというより泳いでいるようだ。その姿も不確かで、時おり形そのものが透明になる。
今、式の頭上にあるのは白い女と、それを守るように夜空を泳ぐ少女達だ。
その一連の光景はおぞましくはない。
むしろそれは。
「ふん---たしかに、こいつは魔的だ」
嘲るように式は眩く。
この女の美しさは、すでに人のものではない。
黒髪は素晴らしく、絹糸を一本ずつ|梳《くしけず》ったかのような滑らかさ。風が強ければ、黒髪のたなびく姿は幽玄の美となっていたろうに。
「なら、殺さなくっちゃな」
式の呟きに気付いたのか、彼女は視線を下界へと下げた。
この、地上四十メートルを超える巫条ビルの屋上よりさらに四メートルの高所にある彼女と、見上げる式の視線が交錯する。
交わす言葉なぞなく、通じる言語さえない。
式は上着の内側からナイフを引き出す。刃渡り六寸もの、刀というより刃そのものの凶器を。
上空からの規線に殺意が籠もる。
つい、と白い装束がゆれた。
女の手が流れて、細い指先が式に向けられる。
その、細く脆い手足が連想させるのは白ではない。
「----骨か、百合だ」
風の亡い夜、声は長く中空に残響した。
差し向けた指先に殺意が籠もる。
白い借先はぴたりと式の姿に向けられた。
ぐらり、と式の頭が揺れる。細い体は崩れ落ちるようにたたらを踏んだ。
わずか、一度だけ。
「-------」
頭上の女は、それで微かに怯んだようだ。
貴方は飛べるのだ、という暗示が、この相手には通じない。
相手の意識そのものに『飛んでいた』という印象をすり込むそれは、暗示の域をこえて洗脳の業にまで達している。
抗う事はできない。人は結果として本当にそれを実践してしまうか、それを信じられず、しかし飛べるのだという確固たる実感に怖れをなして屋上から逃げていく事になる、不可避の暗示。
それを、式は軽い目眩だけでやり過ごした。
「-------」
接触が浅かったのだろうか、と女は訝しみ、もう一度暗示を試みる事にした。
今度はより強く。
"飛べる"などという薄い印象ではなく、"飛ぶのだ"という確固たる印象にして。
だが。
それより先に、式は女を|視《み》た。
両足に二つ、背中に一つ。中心よりやや左よりの胸部に一点。---死という名の切断面が確かに視える。
狙うのならとりわけ胸のあたりがいい。アレならば即死だ。この女が幻像であろうと何であろうと、生きている相手ならばたとえ神でも殺してみせる。
式は右手だけでナイフを掲げた。柄を逆手に持ち、上空の相手へと瞳を絞る。
|間《あいだ》、もう一度式の中に衝動が巻き起こった。 ......飛べる。自分は飛べる。昔から空が好きだった。昨日も飛んでいたんだ。たぶん今日はもっと高く飛べる。
それは自由に。安らかに。笑うように。早く行かなくては。何処に? 空に? 自由に?
----それは
現実からの逃避。大空への憧れ。重力の逆作用。地に足がついていない。無意識下の飛行。行こう、行こう、行こう、行こう、行こう、行こう、行こう、行こう、行こう、行こう---------行け!
「冗談」
呟いて、式は素のままの左手を持ち上げた。
誘惑は式には効かない。もう目眩さえしない。
「そんな憧れは、私の中にはないんだ。生きてる実感がないから、生の苦しみなんて知らない。
ああ、本当はおまえの事だってどうでもいいんだ」
-----それは唄うような呟き。
生きる事についてまわる|悲喜交々《ひきこもごも》、大小様々な束縛を式は感じない。
だから苦しみからの解放なんてものに魅力も感じない。
「でも、あいつを連れていかれたままは困る。拠り所にしたのはこっちが先だから、返してもらうぞ」
何も握っていない左手が、中空を握る。そのまま後ろへと引かれた左手に手繰られるように、女と少女達の姿がぐい、と式へと引き寄せられた。
網にかかった魚達が、海水ごと陸に引き上げられるように。
「-----!」
女の形相が変わる。彼女はさらに力を込めて意志を式へと叩きつけた。言葉が通じたのならば彼女はこう叫んでいただろう。
落ちろ、と。
その怨嗟を完全に無視して、恐い声で、式は言い返した。
「おまえが墜ちろ[#「おまえが墜ちろ」に傍点]」
急速に落下してきた女の胸に、ナイフが突き刺さる。果物をナイフで刺すように呆気なく、刺された者が恍惚するほどの鋭さで。
出血はない。
女は胸から背中へと通り抜けた刃物のショックで動けず、びくん、と一度だけ痙攣した。
その遺体を、式は無造作に放り投げる。
フェンスの外---夜の街のただ中へと。
女の体は柵を擦り抜け、音もなく落下していった。
落ち際でさえ黒髪をなびかせる事もなく、白い衣裳を風に膨らませて闇に溶けていく。
それは深海の底に沈んでいく、白い花のようだった。
そうして式は屋上から立ち去った。
頭上には、未だ中空を漂う少女達の姿が残っている。
/4
...
胸に刃物を突き刺されて目が覚めた。
ものすごい衝撃だった。人の胸をたやすく貫くなんて、あの子はよほどの力持ちだったのだろう。
けれど、あれは狂暴な力ではなかった。
無駄がなく、骨と骨の隙間、肉と肉の狭間を当たり前のように貫通したのだ。
その、恐ろしいまでの一体感。
全身を舐めまわして いく死の実感。
心臓を突き 破られる音と音と音。
わたしには痛みより その感覚が痛かった。
それは恐怖であり、例えようのない悦楽だったから。
背筋に走る悪寒は気が狂うほどで、体はがくがくと震えている。
泣きだしたいほどの不安と孤独、そして生への執着がそこにあって、わたしは声もださず、ただ、泣いた。
恐いからでも痛いからでもない。
毎夜、明日の朝には生きていますようにと祈って眠りにつくわたしでさえ、感じたの事のない死の体験がそこにあったからだ。
おそらく、わたしは永久にこの悪寒からは逃れられはしないだろう。
さかしまに、わたし自身がこの感覚に恋をしてしまった以上は---。
...
ガチャリ、とドアが開く音がした。
午後。閉ざされた窓からはお日さまの光が差し込んでいる気配がする。
診察の時間ではないから、面会人だろうか。
わたしの病室は個室で、他に人はいない。
あるのは溢れんばかりに差し込む陽光と、風に揺れた事のないクリーム色のカーテン、そしてこのベッドだけだ。
「失礼。巫条霧絵というのは君か」
やってきた人物は女性らしい。
すごくハスキーな声で挨拶をすると、椅子にも座らずにわたしの傍らまでやってきた。佇み、わたしを見下ろしているようだ。
その視線は冷たい感じがする。
......この人は、恐い人だ。きっとわたしを破滅させる。
それでもわたしは内心で喜んでもいた。だって面会に来てくれる人は数年ぶりなのだ。たとえそれがわたしにとどめを刺しにきた死神であったって、とても追い返したりはできない。
「あなたはわたしの敵ね」
ああ、と女性は頷いた。
わたしは意識を集中して、なんとかこの来訪者の姿を見てみようと努力する。
---強い陽射しのせいか、大まかなシルエットしか判らない。
上着を着ていないけれど、皺ひとつない洋服がガッコウの先生みたいで、少しほっとする。ただその白いシャツには濃い橙色のネクタイは派手すぎて、ちょっとだけ減点だ。
「あの子の知り合い? それとも本人?」
「いや、君が襲った方と君が襲われた方との知人だ。よりにもよっておかしな連中と関わったな。
君も--いや、お互いに運がない」
言って、女性は胸ポケットから何かを取り出してすぐに仕舞った。
「病室は禁煙だったか。とくに君は肺をやられているようだ。紫煙は毒になるな」
残念そうに言う。
今のはシガレットの箱だったようだ。
わたしは煙草には触れた事もないけれど、なんとなく、この人が吸っている所を見たいと思った。たぶん......いやきっとリザードのパンプスとバッグをきめたマヌカンのように似合っているコトだろう。
「悪いのは肺だけではないな? それが原因ではあるが、肉体の至る所に腫瘍がみられる。末端での肉腫をはじめ、なかは殊にひどい。まともなのはその髪ぐらいなものか。だというのによく体力が保つ。常人ならばここまで病魔に蝕まれる前に死亡してしまうものだがな。---何年になる、巫条霧絵」
入院生活の事を訊いているのだろう。でも、わたしはそれに答えられない。
「そんなのしらない。数えるのはやめたの」
だって意味がないもの。
わたしはここから、死ぬまで出られないんだから。
女の人はそうか、と短く呟いた。
同情も嫌悪もないその響きは、嫌いだ。わたしが貰える恩恵は誰かからの同情しかない。それさえもこの人はくれないというのだ。
「式に切断された場所は無事か? 話では心臓の左心室から大動脈の中間だというから、二尖弁あたりを刺殺されたか」
平静な声ですごい事を言ってくる。わたしは会話の奇妙さに、つい笑みをこぼしてしまった。
「おかしなひと。心臓を切られてたら、こうしてお話なんてできないわ」
「もっともだ。今のは確認だよ」
ああ、そうか。わたしがあの和風とも洋風ともとれない格好の人にやられたモノなのかどうか、この人は言葉で確かめたのだ。
「だがいずれ影響はでるぞ。式の目は強力だ。あれが二重存在だったとしても、崩壊はいずれ君本体へと辿り着く。その前に二、三尋ねたい事があってね。こうして足を運んだという訳だ」
二重存在......あの、もう一人のわたしの事だろうか。
「私は浮いていたという君を見ていない。正体を教えてくれないか」
「わたしにも分からないわ。わたしが見れる風景はこの窓からの景色だけだもの。でも、それがいけなかったのかもしれない。ずっとここから外を見下ろしていた。四季を彩る木々や、代わる代わるに入退院していく人達を。
声を出しても聞いてもらえず、手を伸ばしても届かない。この病室の中だけで、ずっとわたしは喘いできた。ずっと外の景色を憎み続けてきた。そういうのって呪うって事でしょう?」
「......ふむ、巫条の血か。君の家系は古い純血種だ。祈祷専門だったようだが、なるほど、本性は呪咀が|生業《なりわい》だったとみえる。巫条の姓、不浄の|言代《ことしろ》なのかもしれない」
家系。
わたしの家。
それももうわたしで絶えてしまう。
わたしが入院して間もない頃、両親と弟は事故で亡くなったのだから。それからのわたしの医療費は、父の友人だったという人が受け持ってくれている。お坊さんみたいに難しい名前なので、どんな人だったかは覚えていないけれど。
「だが、呪いは無意識下で行なうものではない。一体君は何を願った」
......そんな事、私には分からない。きっとこの人にだって分かりはしないだろう。
「あなた、ずっと外を眺めていた事がある? 何年も何年も、意識が途絶えてしまうまで見つめ続けた事が。
......わたしは外が嫌いで、憎くて、恐かった。ずっと上から見下ろしていた。そうしていたらね、いつか目がおかしくなったの。ちょうどあそこの中庭の空にいて、地面を見下ろしているようになった。体と心はここにあって、目だけが空を飛んでいるような感覚。でもわたしはここから動けないから、結局はこのあたりを上から見下ろす事しかできなかったけど」
「......ここ周辺の風景を脳内に取り込んだか。それならどのような角度からでも見たと思えるだろう。---視力を失ったのはその頃だな?」
驚いた。この人は、わたしの視力がもうほとんど無いという事に気付いている。
わたしは頷いた。
「そうよ。だんだん世界が白くなっていって、やがて何もなくなった。はじめは真っ暗やみになったのかと思ったけど、違うの。
何もなくなったのよ、目に見えるものはね。
けどそれに何の問題もなかった。だって、わたしの目はもう空に浮いているんだもの。病院のまわりの風景しか見えないけど、もとからわたしはここから出れない。何も変わらないわ。何も---」
そこで、わたしは咳き込んだ。こんなに話をしたのは久しぶりだから。それに、なんだか瞼が熱い。
「なるほど。それで君の意識は空にあったという事か。だが---それでは何故君は生きている。巫条ビルの幽霊が君の意識であったのなら、君は式に殺されている筈だ」
そう、わたしもそれは疑問に思う。
あの子......式という名前らしいけれど、どうしてあの子はわたしに切り付ける事ができたのだろう。
あのわたしは何も触れられないかわりに何にも傷つけられる事はないのに。現れた式という子は、まるであのわたしが本当の体を持っていたかのようにあっさりと殺害してしまったのだ。
「答えろ。巫条ビルの君は、本当に巫条霧絵だったのか」
「巫条ビルのわたしはわたしじゃない。空を見つめ続けていたわたしと、空にいたわたし。あのわたしは、わたしを見限って飛んでいってしまった。わたしは自分にさえ置いていかれたの」
女の人が息を呑む。はじめて、この人が感情らしきものを見せた。
「人格が二つに別れた---ではないな。もとから一つだった君に、二つ目の器を与えた者がいる。
......一つの人格で二つの体を操っていたのか。確かに、これは他に類を見ない」
言われてみればそうなのかもしれない。
わたしは、ここにいるわたしを見捨てて街を見下ろしていた。けれどどちらのわたしも決して地に足はつけられず、ただ浮いているだけだった。窓の外の世界と隔絶されているわたしは、いくら望んでもその隔たりを突破する事はできないのだ。
別々になっても、結局わたし達は繋がっていたということなのだろう。
「---納得がいった。だが、なぜ君は外の世界を幻視するだけでは満足しなかったんだ。彼女達を落としてしまう必要はなかったと思うが」
彼女達---ああ、あの羨ましい女の子たち。あの子たちには可哀相な事をした。けど、わたしは何もしていない。あれはあの子たちが勝手に落ちていっただけなのだから。
「巫条ビルの君は意識体に近かった。それを利用したな? あの少女達は初めから飛べていたんだろう? それが彼女達の夢の中だけのイメージにせよ、実際に飛行能力があったにせよ、だ。
夢遊病者ならぬ夢遊飛行者はわりと多いが、そう問題にはならない。なぜか。それは彼らはつねに無意識下でなければ症状を表さず、無意識下であればこそ何の悪意も持たず飛行し、正常時には飛ぼうなどとも思わないからだ。
彼女らはその中でも殊に特別だった。
ピーターパンではないが、幼年期というものはとかく浮きやすい。一人か二人は実際に飛行していたろうが、大半は意識だけが飛行し、そんな夢を見たという感覚でしかなかった筈だ。
それを君は意識させた。彼女達のそういった無意識下での印象を現実に引き戻して。
結果、彼女たちは自分が飛べるのだという事実を知ってしまった。ああ、もちろん飛べるとも。だがそれは無意識下であればの話だ。ヒト単体での飛行は難しいんだ。私だって箒がなくては飛べない。
意識しての飛行の成功率は三割程度。少女達は当たり前のように飛ぼうとして、当然のように落ちた」
そう。あの子たちはわたしのまわりを飛んでいた。友達になれると思った。けどあの子たちはわたしに気付きもしないで、ただ魚のように漂うだけだったのだ。
意識がないんだ、と気付いてからは早かった。あの子たちに意識させてあげればわたしに気付いてくれると思ったのに。
それだけなのに、どうして----。
「寒いのか、震えているぞ」
女の人の声は相変わらず、プラスティックのように味気ない。わたしは悪寒の止まらない背中を抱いた。
「もう一つ訊いておこう。君はどうして空に憧れた。外の世界を憎んでいるのに」
それは、たぶん
「空には、果てがないから。
どこまでも行ければ、どこへでも飛べれば、わたしの嫌いじゃない世界があると思ってた」
それは見つかったか、と声が尋ねる。
わたしの悪寒はとまらない。体は誰かに揺すられるように震え、瞼は一段と熱くなってきている。
わたしは頷いた。
「---毎夜、眠る前に朝になって目が覚めるのかって怖れてた。明日は生きているのかって怯えてた。眠ったら、もう起きる体力はないとわかってた。
綱渡りみたいなわたしの日々は、死への怖れしかなかったわ。けど逆に、だからこそ生きているって実感できた。
わたしの虚ろな日々は、死の匂いしかなかった。けれど生きていくには、その死の匂いだけが頼りだった。
普段のわたしはもう脱け殻だから。死と直面した瞬間しか、生きていると実感できない」
そうだ。だからわたしは、生より死に焦がれている。
何処までも飛ぶ。何処へでも行く。
-----その為に。
「うちの坊やを連れていったのは、道連れか」
「いえ。あの時は、それに気付いていなかった。わたしは生に執着していて、生きたまま飛びたかったの。彼とならそれが出来た筈だから」
「......式と君は近いな。黒桐を選ぶあたりはまだ救いがある。自分ではできない生の実感を他人に求めるのは、まあ、悪い事じゃないが」
黒桐。そうか、あの式という子は彼を取り戻す為にやってきたのか。救いの主はわたしにとって決定的な死神でもあったんだ。
けれど、それに後悔はない。
「あの人、子供なのよ。いつでも空をみてる。いつでもまっすぐにしている。だからその気になれば、どこへだって飛んでいけるんだわ。
---わたしは、彼に連れていってほしかった」
瞼が熱い。よくわからないけれど、たぶんわたしは泣いている。
悲しいからとかじゃなくて---彼と、本当にどこかに行けたのなら、それはどんなに幸福だったろう。
叶わない事だから、叶えてはいけない夢だから、それはこんなにも美しくて、わたしの瞳を濡らすのだ--。
それはここ数年でわたしが見た、ただ一つの|幻想《ゆめ》だった。
「だが黒桐は空になど興味はない。......空に憧れる者ほど空には近付けない、か。皮肉だな」
「そうね。人間は必要じゃない物をいっぱい持ってるって聞いた事があるわ。わたしは浮くだけだった。飛ぶ事もできず、浮いている事しか出来なかった」
瞼の熱さは消えた。たぶん、この先二度とこんな事はないだろう。
今わたしを支配するのは、背筋に走るこの寒気だけなのだから。
「邪魔をした。これが最後になるが、君はこの後どうする? 式にやられた傷なら私が治療してもいい」
わたしは答えず、ただ首を横に振った。
女の人は少しだけ眉をひそめたようだ。
「......そうか。逃走には二種類ある。目的のない逃走と、目的のある逃走だ。
一般に前者を浮遊と呼び、後者を飛行と呼ぶ。