「無論だ。だがおまえが知りえない真実もある。確かに、私は死の数ばかりを追っていた。何万という異なる人間の異なる死を経験すれば、その中に根源に通じる魂の拡散があると信じていた。だが、それでは大元には到達できない。それで辿り着けるのはその人間の『起源』だけだ。霊長という総体の起源には辿り着けない。
重要なのは死の量ではない。死の質だ。元を辿れば死に方の種類はより大きく区別される。私は死途を可能なまで大きく腑分けし、結果それが六十四種であると迫った。ここに集まった者達は一人一人がその種の死に方を背負った者。いうなれば世界の縮図だ。私は彼らの苦しみを体験し、彼らの苦しみを内包する。いずれ八卦より四象へと単純化させ、両儀へと至るために」
「ふん。そんなに一つである事がいいのか、荒耶。光と闇は敵対するべくして分かれたのではなく、それが最も多くの事柄を内包する属性故に分かたれた物だ。あらゆるモノは一つでは孤独なんだ。だから多くに分かれようとする。おまえはそれが許せないだけだろうに。様々な人間の死を調べ、その人生を丹念に研究して自己の物として蓄積する。私の死でさえ、おまえは蒼崎橙子という人間の誕生から死去までを知識として脳髄の隅に保管するのだろう。そうやって人問の価値を検分するのは勝手だがね。それを行なうのは|耶摩《やま》の役割だ。人の身であるおまえでは、ただ死を吸い続ける地獄でしかありえない」
「---それでいい。地獄であろうと天上であろうと、底に近い事は変わるまい」
荒耶の言葉に迷いはない。
この世には自身しかない、と結論した強すぎる意志。
橙子は思う。
日常という螺旋を繰り返したこの建物には、人間が体験するあらゆる死の原型が渦巻いている。今まで荒耶宗蓮という肉体が行なっていた記録を、この建物は継承したのだ。ここは奴そのものであり、荒耶宗蓮という意識そのものである。......つまり、私はいま奴の体内にいるわけか。
呟いて、橙子はロビーに満ちた空気を観察する。張り詰めた空気は、荒耶の為の物ではない。むしろ奴に敵対する、この建物に殺された住人達の声にならぬ怨嗟《えんさ》だ。
彼女でさえ圧し潰されそうな怨念の量を、荒耶は一日、また一日と増やしていく。彼の言葉を借りるのなら量ではなく質を増しているのだろう。何百という死は、結局一種類の同じ死に方なのだから。
愛情死、即ち家族、恋人、母性、父性、育児。
憎悪死、即ち家族、恋人、友人、先輩、他人。
様々な理由による様々な死に方。
毎日繰り返され、より確かになっていく同じ結末。
---濃くなっていく、死。
この建物は呪文だ。奴が、荒耶宗蓮の意識を強固な物とするための祭壇。高度な魔術を行なう為には詠唱や自身の魔力だけでなく、生命の犠牲や土地自体の力をも行使しなくてはならない。
荒耶は現代に神殿を造り上げる事で、より高度な魔術を行なおうとしている。
いや、魔術ではない。これほどの異界をもちいる神秘はすでに魔術の領域ではないのだ。
これは、そう今の世界の常識では不可能な領域の神秘。
魔法と呼ばれる、人の手が触れられない禁断の力の行使に他ならない。
「---根源への道を開くのか。
だがどうやってだ。魔術的な結界を張らずに自分が魔術師ではないと証明したところで、霊長の意志は欺《あざむ》けない。近代的な技術による結界で誤魔化せるのは同じ魔術師だけだ。たしかにこの建物なら道は開く。太極図の具現だからな、間違いなく穴はできるだろう。だが、その穴から真っ先に出てくるのは霊長の守護者だ。我々は我々である以上、アレには絶対に太刀打ちできない」
「---抑止力は、すでに働いている。おまえがこの街に居た事。何の理由もなく何かに取り愚かれたような偶然をもって盗みを働いた男。過去一件もなかったこの一帯での通り魔殺人に襲われた女。これほどまでに私自身が動く事を抑えたというのに、抑止力は三度も働いている。
だがそこまでだ。私は、これ以上根源には近寄らない。数回に亙《わた》る失敗は無駄にはしない。抑止力に気付かれずに道を開こうとした事もあったが、アレの目は誤魔化せない。いつか抑止力そのものを倒す手段を調えて挑んだが、アレはそれ以上の力をもって現れる。
結論は一つだ。私には、才能がなかった」
初めて---感情らしき韻を含んだ声が流れた。
黒い男は眼下の魔術師を視界に収める。
「抑止力はこれほどまでに道への到達を阻む。それが人間が手にしてはならぬ力、無への回帰への|因《よすが》となる行為だからだ。人間という個体が完成してしまえば、生存の意味はなくなる。だというのに有象無象の人間達は、ただ生きていたいという願望の為に完成する事を無意識下で拒んでいる。すべての人間は、人間であると思考する時点で、獣以下の下衆《げす》である。完成する為に生存しているというのに、生存する為に完成を受け入れない。人間の始まりは、そも矛盾から始まっている。
では、ならば何故、根源に到達しえた者がいるのか。答えは単純だ。到達しうる方法があるのではない。単に到達しえる人間がいるだけなのだ。いかなる叡智を学ぼうと、所詮魔術は後から付属した後天的な物でしかない。才能とはそういう事だ。生まれついた時点で持っでいるか持っていないか。選ばれているかいないかの違いなのだ。生まれついた時からすでに根源と繋がっている人間。複雑化し、種類を増やし、根源である大元から離れすぎてしまった霊長だが、稀《まれ》に根源から直接生まれついた者がある。「 」に繋がったまま生まれ落ちた無色の魂。それこそが唯一大元へと辿り着ける存在だろう。ならばそれを探しだすのみ。それを見付けだすのに、私は十年の歳月を要したぞ」
「そうか。それで両儀《りょうぎ》式《しき》を破壊しようという結論に達したわけだ」
彼女は両目を細める。
両儀式。両儀家は汎用性を極めた人間を作り出す為、器としての肉体はカラの者を産み出そうと年月を重ねてきた一族だった。カラという事は「 」という事だ。彼らは自分達がどれほど危険な事をしているかも気付かず、式という「 」に通じる肉体を生み出してしまった。
「それで巫条《ふじょう》霧絵《きりえ》と浅上《あさがみ》藤乃《ふじの》を使ったのか。
おまえが直接動いては抑止力に気付かれる。あくまで間接的に、おまえの存在を匂わせないように式を破壊しなくてはならなかった。そうだろう? 式とは正反対のコンセプトを持つ殺人者をぶつける事で、式本人に自分の本質を気付かせた。物事を諭《さと》すには教えるより体験させたほうが早いものな。
それで。おまえは何を望んだ、アラヤ。式《しき》と織《シキ》が食い合ってカラになる事か。それとも両儀式に出会いたかっただけなのか」
「---二年前は〝|両儀式《か の じ ょ》?を現す為だった。だが今は違う。結論は出たといっただろう。式にあの肉体は不要だ。根源に通じる体は、私が貰い受ける」
堂々とした発言に、橙子はへ、と口を開けた。一瞬にして荒耶の言っている事を理解したが故に、彼女の意識は真っ白になったのだ。
「まさかおまえ、自分の脳髄を式の体に移すつもりじゃあるまいな......!?」
信じられない、という橙子の口振りに荒耶は答えない。語るまでもない、という眼差しに、橙子はなんて悪趣味なヤツだ、と呟いた。
「だがまあ、おまえがその体のままだという事は式は無事という事だな。念の為に訊いておくが、式を返す意思はある?」
「欲しければ好きにしろ」
「はん。戦うしかないってワケか。ったく、私はもともと戦闘要員ではないんだがね。あんなものと関わったばかりにいい迷惑だ」
「私も念の為に訊いておこう。蒼崎。協力する意思はあるか」
敵対の視線、必死させるという意志が変わらないままで荒耶宗蓮はそう問うた。
橙子は答える。
斜にかまえた琥珀色の瞳だけで、断じて否、と。
「......そうか。残念だ。私は、おまえを正しく評価していた。共に根源に至ろうと競い合った事もある。有り体にいえば、好ましくも思っていた」
かつん、と足音を立てて荒耶は前に進む。
一階に続く階段に近寄るように。
「あの学院で、おまえだけは群体ではなかった。私は魂の原型を。おまえは肉体の原型を目指した。私は、先に到達するのはおまえだと確信していた。
だが----おまえは諦めた。なぜだ。今のおまえは、自身が魔術師だという事さえも捨てている。
何の為に学び、何の為に力をつけた。
何を救う為に、何を成しえる為の遍歴だ」
黒い魔術師が吼える。
静かに、普段となんら変わりのない口調で、双眸《そうぼう》だけが憤怒《ふんぬ》に燃えている。
それを受けとめて、橙子は答えた。
「別にたいした理由じゃないさ。理を重ねれば重ねるほど逆説を生み出す事に疲れただけだ。私達は学べば学ぶほど遠ざかっていく。根源の渦とて同じだ。無知という素でなければ近付けないのに、無知のままでは認識できないが故に意味がない。--おまえと同じだよ。私は認め、おまえは認めなかった。ただそれだけの、けれど決定的な違いなんだ」
哀しい韻を含んだ告白を、荒耶は眉一つ動かさずに受けとめた。
両者の視線が衝突する。
橙子は荒耶に言う。魔術師の本性、賢くなればなるほど愚かになっていく背理を。
荒耶は橙子に言う。魔術師の本質、学べばまなぶほど高みに達していく道理を。
「おまえは、堕落した」
短く、あらゆる感情を込めて、彼は告げた。
「ならば何を目指す。何の為に其処に在る」
「......そうだな。私がここにいる理由は、実はあまりないんだ。式の事もあまり関心はない。アレの体はブラックボックスだらけで似た者さえ作れないから」
そう、彼女に明確な理由はない。
もしかすると彼女本人も、気付かないうちに抑止力なんていう得体の知れない物に後押しされているのかもしれない。
ただ、だとしてもかまわない。彼女は、今の蒼崎橙子という生活を受け入れていた。その環境が幾つもの奇跡と偶然によって積み重ねられた、二度とは構成されないものだと知っていた。たとえこの矛盾したマンションのように初めから繰り返しても、今と寸分変わらない生活には成り得まい。
だから----守れるのならは、守ろうと思っただけの話なのだ。
「......ほんと。なんて堕落だ。私は段々と弱くなっていく。
荒耶。私の理想の超越者というのはね、仙人なんだ。卓越した力と知識を持ちながら何もせず、ただ山奥に佇《たたず》むのみ。その在り方に、私はずっと憧れていた。けれど振り返ってみたらもう戻れなかった。中に物が詰まりすぎた私は、そこに到達できる日がこない。ずっと、そうだと思っていた。
なあ荒耶。魔術師は生き急ぐ。なんの為だろう。自分一人の為ならば外界とは関わるまい。なのになぜ外界と関わる。なぜ外界に頼る。その力で何を成すというのか。アルス?マグナによって何かを救済しようというのか。それならば魔術師になどならず王になればいいんだ。
おまえは人々を生き汚いと言うが、おまえ本人はそうやって生きる事ができまい。醜いと、無価値だと知りつつもそれを容認して生きていく事さえできない。自身が特別であろうとし、自身だけがこの老いていく世界を救うのだという誇りを持たなければとても存在していられない。ああ、私だってそうだったさ。だがそんな事に意味はないんだ。
---認めろ荒耶。私達は誰よりも弱いから、魔術師なんていう超越者である事を選んだんだ」
魔術師は答えない。
彼は一歩、また一歩と階段へと近寄っていく。
「......根源への道はすでに手に入れた。あと数歩で私の望みが叶う。邪魔をする者、これすべてを抑止力とみなす。蒼崎。おまえも、所詮は人間であったという事だ」
ロビーの空気が張り詰めていく。
空間が凝固し、そのまま魔術師の殺意によって歪んでしまうのではないか、と危倶するほどの圧迫感。
その中で、彼女はかつての同胞を遠く眺めた。
長く別れていた数年を埋める為の、長い問答はここまでだ。
最後に---彼女は、蒼崎橙子という魔術師として荒耶宗蓮に問いただす。
「アラヤ、何を求める」
「真の叡智を」
「アラヤ、何処に求める」
「ただ、己が内にのみ」
迷う事なく男は答える。
足音は、階段の入り口で止まった。
互いの存在をこの世界から排除する為、両者は行動を開始した。
◇
黒いコートの下から、荒耶の片腕が上げられた。
ゆるり、と左腕を肩と水平になるまで持ち上げる。その掌《てのひら》は力なく広げられており、遠くの誰かを呼び止めるような、そんな仕草に似ていた。
彼は片腕を上げて相手と対峙する。
これが、荒耶宗蓮という魔術師の戦いの姿勢であった。
対して、蒼崎橙子はそんな黒い魔術師の姿を見上げるだけだ。足元に鞄を置いたまま、注意深く敵の行動を眺めている。彼女の使い魔である黒いネコは、今は荒耶の背後で動きを封じられ固まっていた。
橙子は、荒耶が自らを中心にして三重の結界を張っている事をすでに看破していた。
不倶、金剛、蛇蝎、 、戴天、頂経、王顕
地面と空間、平面と立体に張り巡らされた魔術師の蜘蛛の糸。生物であるのなら、あの円を象《かたど》る線に触れた瞬間に動力を止められてしまう。
......普通、結界というものは動かない物を守る、動く事のない境界だ。それを自分を中心にして連れて歩く、なんて怪物じみた事を敵は行なっている。見えているのに気配さえ感じないのはその為だ。こと接近戦においてならば、荒耶宗蓮は無敵といえる。
だが、逆に言えば荒耶にはそれしかない。
もともと橙子と荒耶は、アルバのように物質界に働きかけて破壊を行なう魔術を修得していない。
橙子が修得しているルーンの魔術にも、攻撃手段は確かにある。ルーンとは力ある刻印を対象に刻む事により、刻んだ文字の意味を現実にする魔術だ。火の意味をもつソウェルを荒耶の体に直接書き込めば、荒耶の体は燃え上がるだろう。
......泣き所は文字を直接書き込まなければならない点で、遠くから文字を重ねるなんて行為は魔術師相手には通用しない。間接的な魔力の働きは、直接的な魔力を体に張り巡らせている魔術師には弾かれてしまうのだ。
学院時代から、両者はこと攻撃魔術に関しては興味がなかった。橙子は人形作りに、荒耶は死の蒐集《しゅうしゅう》にしか関心がなかった故である。
ゆえに、荒耶が橙子を消去する方法は近寄ってからの格闘戦になる。荒耶は動乱の時代を生き抜いてきた男だ。体を武器にして戦う事では、今の時代のどんな人間も敵わないだろう。
それを知っていても、橙子は彼がやって来るのを待った。
待つしかなかった。
階段を下り、一階のロビーに荒耶が足を踏み入れた時に仕掛けようと狙っている。
なのに。黒い魔術師は階段の前で立ち止まったまま、前に突き出した腕を微かに動かした。
「---粛」短い、咳き。
魔術師は開いていた掌をぐっと握る。
それは、何かを握り潰すような動作だった。
同時に橙子の体ががくんと震動する。
あらゆる魔術系統の回路を遮断する彼女のコートが、ズタズタに破れて床に落ちた。
攻撃があったのだ。
目に見えぬ衝撃。
全ての方向から全身を等しく打ちのめされて、彼女は床に膝をつく。
今の衝撃が何であったか、橙子は一瞬にして悟った。
......荒耶は、橙子が立っていた空間をそのまま握り潰したのだ。例えるのなら、全身をプレスされたのに等しい。
橙子は信じがたい思いで舌を巻く。あんな僅かな仕草だけで空間に働きかける魔術を、彼女は知らない。
〝......やられた。くそ、何本いった----??
口内にしたたる血を飲み込みながら、橙子は自分の肉体の損傷を確認する。肉体を鍛えていない橙子には、式のように自分の骨が何本折れたかを知る術はない。ただ理解できるのは、今のはコートがあったから助かったという事だけだ。
もう一度やられれば、間違いなく潰される。
「----行け!」
ならば、彼女とて容赦はしない。
唐突に----動きを止められていた黒いネコが動きだす。
今までの金縛りは芝居だった。ネコは安心して背中を見せている荒耶へと襲いかかる。
「なに」
かすかな驚きを漏らして、荒耶は咄嵯《とっさ》に振り返った。
間髪入れず--突き出した掌を広げ、もう一度強く握り潰す。
オン、という震動。
橙子は見た。荒耶の目前の空間そのものが、自ら内へ内へと圧壊していく様を。
黒いネコは圧縮される前に上方へと跳ねていた。
重力が逆さまに働いたように、天井に足から着地して魔術師を睨む。
「そこまでだ」
黒いコートの下に隠れたもう一本の腕が、掌を強く握る。
黒いネコは、天井ごと握り潰された。
ばこり、と天井の一角が外側へと窪み、黒いネコは圧し潰されて目に見えないまでに圧縮され、消失した。
「手駒は消えた。魔術師とは本人が強者である必要はなく、その業で最強のモノを作れば良い......学院時代のおまえの言葉だ。--いかにも。人形師は、人形が敗れた時点で敗北である」
再び橙子へと振り返り、掌を広げて荒耶は語る。
彼女はそれを不愉快そうに受けとめた。
「ああ、その持論はまだ曲げていない。しかし大したものだ。忘れていたよ、ここはおまえの体内だっけね。それなら空間を潰すのも思いのままだ。私はすでに一つの巨大な魔術の中に飛び込んでいたというわけか。......ふん、それだけの用意があって、なぜ式に殺される寸前まで追い詰められたんだ、おまえ?」
「---生け捕りというものは難儀だ。下手に本気をだせば潰してしまうからな。だが今回は違う。殺すべき相手には、全力をもって相手をしよう」
「それほど式の体が欲しかったのか。おまえにとって式は唯一の道だものな。死なないように殺すのはさぞかし骨が折れただろう。それがアダにならなければいいがね」
倒れかけた姿勢を戻すと、彼女はゆっくりと壁に背を預けた。
「---アルバには言ったんだが。おまえもホラーというものが解っていない。人を恐怖させる物の条件は三つ必要だって知っているか?
一つ、怪物は言葉を喋ってはならない。
二つ、怪物は正体不明でなければいけない。
三つ---怪物は、不死身でなければ意味がない」
「----!」
荒耶が振り返る。
潰したはずの天井には、黒いネコが何事もなかったように存在していた。
「---粛!」
彼は天井に向けて掌を強く握る。
空間がべこり、と圧縮される。
その歪みに揺れながら黒いネコは魔術師めがけて飛び降り、ばくん、と|体《クチ》を開けた。避ける間もなく黒い魔術師は一呑みにされる。
「が---」断末魔らしき鈍い声を、彼は吐き出す。
ぞぶり、という鈍い音。
式の時とは違う。魔術師は反撃の間もなく、肉体の大部分を失った。
ごろん、と顔と肩の部分だけが残された魔術師が地面に落ちる。死してなお苦悩に満ちた貌《かお》で、人間だった肉片が階段を転がり落ちる。
その有様を冷静に観察してから、橙子は短く呟いた。
「仕留めるのなら一撃で息の根を断つ。騙し討ちとはこうやるんだよ、荒耶」
さて、と壁から離れて橙子は歩きだす。
---ずん。
音。鈍い音がしたな、と彼女は他人事のように思った。
口から血がこぼれる。臓腑《ぞうふ》から追い出され、逃げ場を失った血が堪えきれずに吐き出される。
霞んでいく視界をわずかに下げると、腕が見えた。
誰かの腕が、自分の胸から突き出ている。
奇怪なオブジェだ、と蒼崎橙子は思った。自分の胸から男の太い腕が伸びている。腕は、まるまるとした心臓を握っていた。きっと、それは自分の心臓だ。
結論は、すぐに出た。
自分は背後に現れた敵に体を貫かれ、じき死のうとしているのだ-----。
「仕留めるのなら一撃か。なるほど、良い教訓になった」
背後から声がする。
憂いも嘆きも憎しみも混淆《こんこう》した重い声。
紛《まぎ》れもなく、荒耶宗蓮という魔術師のもの。
「あれは----人形か」
血を吐き出しながら橙子は言う。彼女の背後に突如現れた魔術師は無論、と答えた。
「人形作りではおまえにはおよばないがな、私にも先達の業がある。人型作りを行なった妖僧の名、知らぬ訳でもあるまい」
橙子の体を貫き、取り出した心臓を見つめながら魔術師は続ける。
「---そして、おまえは本物だ。この心臓の猛りに間違いはない。美しい、見事な形だ。潰すのは惜しいが、仕方あるまい」
ぢゃぶ、と水のつまったビニール袋を地面に叩きつけるような無惨さで、荒耶は彼女の心臓を握り潰した。
「おまえの使い魔のカラクリも読めた。魔物は鞄から出てきたのではない。アレは、鞄が映し出していた映像だな?」
じろり、と荒耶に睨まれて、床に置かれていた鞄が砕け散る。
砕けた鞄の中にはレンズとフィルムを備えた機械があった。それはジジジジ、と音をたて、今も回っている一つの映写機だった。
「影絵の魔物か。なるほど、これならばあらゆる攻撃を無効化しよう。大気に映し出したエーテル体が潰されても、本体である幻灯機械が作動しているかぎり何度でも蘇る。......ますます惜しい。これほどの才気を、私は摘み取らねばならないとは」
荒耶の呟きに橙子は答えない。
ただ消えていく前に、自己の問いだけを紡ぎだした。
「......アラヤ。以前した質問をしよう。おまえは魔術師として、何を望むんだ......?」
「---私は何も望まない」
過去に交わしたものと同じ質問、同じ回答。
それに橙子はくく、と笑った。血の跡を引く唇が、壮絶なまでに美しい。
何も、望まない。過去、その質問をしたのは橙子ではなかった。彼女達の師が、弟子達を集めて問うたのだ。
集まった弟子達はそれぞれの魔術理論の完成とその栄光を誇らしげに語った。けれど荒耶だけはこう返答をしたのだ。〝私は、何も望みません?、と。集まった弟子達は彼を無欲な男だと笑いあったが、彼女は笑う事などできなかった。
......その時、橙子が感じた感情は畏《おそ》れだ。
この魔術師は望みが無い、と答えたのではない。
何も望まない事。この世に一切の、自己の存在すら望んでいない事。完壁な死の世界を、荒耶宗蓮は望んでいる。
だからこそ、彼の望みは何も望まない事なのだ。
そこまでに人間を嫌悪し、自己の殻を作り上げた男。無欲といえば無欲だろう。この男は、些細な幸福さえ必要ないと言い捨てて、人間という矛盾を憎んでいる。
「アラヤ。......最後に、呪いを残してやる」
「聞こう。急げ、あと数秒も保たん」
自分で殺しておいてそれもないものだ、と橙子は毒突く。ともあれ、ここは彼の言うとおりだ。
彼女の体は、もう唇しか満足に動かなかった。
「............アカシックレコードに触れようとする事で抑止力が動きだす。おまえのように人間を憎む者が全能となれば、世界の終焉が起きる確率が高まるからだ。この抑止力というものには二種類ある。
一つは霊長である人間が、自分達の世を存続させたいという無意識の集合体。
そしてもう一つは、この世界そのものの本能だ。
......この両者は目的が同じだが、その性質は微妙に異なる。世界そのものの本能がアカシックレコードに触れる者を律するのは、たんに今の地球を支配しているのが人間だからにすぎない。人間の文明社会が崩壊するという事は、この天体の死に直結する可能性があるからだろう。故に世界の意志が作り出した救世主は、英雄と並んで人間の世の崩壊を防ぐんだ」
「---それが?」
すでに解りきった事を語る橙子に、荒耶は眉をひそめる。
彼女はひゅーひゅーと息を吐き出しながら、けれどはっきりとした口調で続けた。
「つまりさ、星そのものを生命体と見たガイア論的な抑止力と、我々人間が抱く抑止力は別物だという事だ。......そこでだアラヤ。おまえが生涯の敵として憎んできたのは、いったいどっちなんだろうね」
---ふむ、と魔術師はわずかに思案した。
言われてみれば、確かにそういう見方もある。
荒耶は今まで気が付きもしなかった事柄を考える。......そう。長く、長すぎるほど神秘を学んできた彼が、考えようともしなかったその事柄。
ガイア論的な抑止力。人間の世を存続させようとするコレは、けれど世界が無事ならば人間などどうなってもよい、という結論を持つ。
反して、人間全体が生み出す抑止力は星さえも食い潰して人間の世を存続させようとする。
......答えは、明らかに後者だった。
「語るまでもない。私が幾度となく争ってきた想念、荒耶が敵とみなすモノとは、救いきれぬ人間の|性《サガ》である」
「そちらは地球上すべての人間の意識だぞ。おまえは、たった一人で六十億に近い人の意志に勝てるというのか」
「---勝とう」
ためらいもなく、誇張もなく、魔術師は即答した。
様々な人間達の死を集めてきた生きた地獄。どんなに無価値な死に方をしても、その人間の歴史との先にあったハズの未来を構想し、我が物として生きてきた魔術師。
橙子は思う。
それは全人類を敵に回しても勝つ、という鋼のように鍛えられた極限の自我だ。
それを荒耶宗蓮は持っている。本当にそうであるかは問題ではない。そうであると断言するその意志が真実なのだ。この問い掛けをした時、荒耶宗蓮は明確に六十億もの人間の尊厳と一つ一つ戦う場面を想定したに違いない。
その、極限まで真実に近い仮想をもって、それがいかに苦しいものかを知ってなお、勝とうと荒耶は断言する。
この意志の強さこそが、この魔術師の強さだった。
だが----そこに、最大の落とし穴がある。
彼ほどの魔術師なら真っ先に気づかねばならないその事柄を、ついぞ教えられなかった最大の矛盾と抑止が。
「......哀れだな、アラヤ」
「なに--?」
荒耶は声をかけたが、彼女はすでに生命活動を停止していた。蒼崎橙子の肉体はすでに人として機能しない。
残された死滅は脳髄のみ。血液の通らなくなった脳は、幾ばくかを待たずして破損する。彼女が蓄えてきた知識も技術も、全て失われてしまう。
黒い魔術師は橙子の体から自らの腕を引き抜くと、そのまま彼女の頭に掌を置いた。顔を鷲掴みにして、ばきり、と首の骨を折る。
その後、ずるずると首を体から引き抜くと、首なしとなった体を床に打ち棄てた。
かつての同胞の生首を片手に持ち、魔術師は踵《きびす》を返す。
やってきた場所---橙子の背後にあった、マンションの壁。橙子が勝利を確信して離れたその壁こそ、荒耶宗蓮が現れた場所である。
橙子は自ら口にしていながら、その意味を最後まで理解していなかったのだ。
このマンションは荒耶宗蓮そのものである。壁も床も、建物としての常識など荒耶本人には通用しない。
マンション内のいかなる場所にも存在でき、いかなる空間をも手に取れる。ここは荒耶宗蓮という異界なのだ。彼はこの敷地の中でなら、どこへでも瞬時にして移動する事ができる。
本体である黒い魔術師は、水に沈むかの如く、マンションの壁の中へと消えていった。
(14/)
...
思い出すものは、ただ、一面の焼け野原だけだ。
歩けど歩けど続く亡骸。
川べりに敷き詰められた砂利は石ではなく骨の欠片。風が運ぶ死臭は三千世界を満たそうと尽きる事がない。
争いの時代だった。
まだ兵器と呼べるほどの道具がない時代、手と手で互いを殺しあう、明日のない今日を生きるものども。
何処へ行こうと争いは在り、人々の死体は例外なく無惨に打ち棄てられていた。
弱い村の者達が、強い群れの人問に虐殺されるのは常だ。
誰が、誰を殺したかが問題なのではない。そも戦場に善悪はない。あるのは何人が死に、何人が救えなかったかのみだ。
争いが起こると聞けば、その地に赴いた。
反乱が起こると聞けば、その村へと足を運んだ。
間に合った事もあり、間に合わなかった事もある。
だが、どちらにせよ結果は同じだ。用意された結末は死者の山でしかない。
人間は、どうしようもなく死ぬモノだ。
怨嗟の声をあげて死んでいく男もいた。
我が子の明日だけを祈って泣きながら死ぬ女もいた。
ひもじいと笑いながら息絶えた子供もいた。
死は理不尽に襲いかかる。
積み重ねた善行も過ごしてきた人生も、その前には何の意味も持ち得ない。
ただどうしようもなく、逆らうだけ逆らって無様に死ぬだけが人間の生。
それでも彼らを救おうと全国を行脚した。
見たモノは果てのない焼け野原だけだった。
彼らは救えない。人間は救われない。宗教では、人の救済はありえない。
なぜなら。
人は救うものではなく、終わらせるものなのだから。
絶望を絶望で覆い、昨日の嘆きはさらに濃い今日の嘆きで薄れていく。繰り返される圧倒的な死の数に、私は、自らの矮小《わいしょう》さを悟った。
---人問《ワタシ》には、誰も救えない。
救えぬのならせめて、その死を明確に記録しよう。おまえの今までの人生と、その後に待っていたであろう人生を留めてやろう。
その苦しみを、私が生かし続けてやろう。
命の証とはいかに歓んだかではない。
命の意味とは、いかに苦しんだかなのだから。
---死の蒐集《しゅうしゅう》が、始まった。
...
蒸気の音と、水の泡立つ音の中で彼は目覚めた。
明かりのない闇の中、マンションの住人達に囲まれて荒耶宗蓮は静かに立ち上がる。
少し、夢を見ていたようだ。
「この私が夢とはな。|誰彼《たそがれ》の未練を見る事はあったが、自らの未練を目の当たりにしたのは初めてだ」
一人、魔術師は語りだす。
いや、彼は一人ではなかった。その傍らには鳥籠大のガラスの容器がある。大きなガラスの入れ物の中には液体と......人間の首が入っていた。
頭だけとなったソレは、眠るように瞼《まぶた》を閉じてふわふわと浮いていた。
言うまでもなく、蒼崎橙子の首である。
しゅごー、という蒸気の音。
部屋の中心に置かれた鉄板だけが明るい。真っ赤に焼かれた鉄の板の明かりだけが、この魔術師の研究室を照らしあげる。
魔術師は、ただ時を待っていた。
両儀式と蒼崎橙子。両名によって、今まで使用していた肉体は完全に破壊された。
今、こうして存在している肉体は予備として用意したものにすぎない。馴染《なじ》むまでには時間がかかる。どの道すぐに両儀式の肉体に移るといえど、その為にうまく動かない体で事をし損じては取り返しがつかぬ。
荒耶はただ待つのみだ。もはや、彼を脅かすものは何処にも存在しない。
「アラヤ!」
唐突に、もう一人の魔術師がやってきた。
赤いコートの魔術師は納得いかない、とばかりに荒耶へと詰め寄ってきた。
「何をのんびりしているんだ。やる事はまだ残っているぞ、早急に手を打たなくてはいけないだろう!」
「......事は済んだ。蒼崎の工房に手出しは不要だ。臙条《えんじょう》巴《ともえ》も同じである。アレは放っておいても何もできん。それは何よりおまえが承知している筈だ」
「たしかに、そろそろ限界だろうがね。......よろしい、外の事は問題にはならないと認めよう。だがリョウギシキはどうする。アレは今意識を失っているだけだろう? 目を覚ませばここから逃げ出そうとするのは自明の理だ。私はこれ以上余分な手間ヒマはかけたくないのだ。逃げ出そうとする小娘を止めるのも、ましてや始終監視するなんてコトも考えたくはない」
「そちらの杞憂もいらぬ。アレはマンションの一室に幽閉したのではない。空間と空間を繋げた無限の中に放りこんだのだ。この歪んだ異界を作り上げた第一の目的は、閉じられた輪を生み出すコト。いかなる手段、いかなる衝撃をもってしても無限の闇からは抜け出せない。いずれ両儀式が目覚めたとしても、アレにはどうする事もできぬ。監視などは不要だ。そも、あの傷では起き上がる事さえ困難だろう。目覚めたとしても体は満足に動くまい」