変わらぬ苦悩の表情のまま語る荒耶に、赤い魔術師は不満げに口を閉ざした。
「......まあいいさ。もとよりリョウギシキに興味はない。私がおまえの誘いにのってやったのは、別の目的だ」
言って、赤い魔術師はちらりと視線を移した。テーブルに置かれた、橙子の首が入ったガラス壜《びん》へ。
「約束が違うぞ、アラヤ。君は言ったはずだ。アオザキを殺させてやる、と。あれは嘘か?」
「機会は譲った。だがおまえは失敗した。私が蒼崎を仕留めたのは詮方《せんかた》なき事だ」
「仕留めた? 笑わせるな。そいつはまだ生きている。君ともあろう者が相手を生かしておくなんて、ずいぶんと甘くなったものじゃないか、ええ?」
赤い魔術師の追及に、ふむ、と荒耶は思案した。
たしかに、今の蒼崎橙子は完全には死んでいない。脳の機能は生きている。ただ喋れず、思考できないだけという状況だ。それを生きていると見倣《みな》すのならば、確かに生きているのだろう。
「ツメをあやまるなよ、アラヤ。アオザキは傷んだ赤色とまで言われた雌狐だ。首だけになっていようが隙あらば反撃してくる。確実に殺しておくべきだ」
「--たわけ。口にしてはならない事を口にしたな、コルネリウス」
「なに?」
赤い魔術師は言い淀む。それを無視して、荒耶はガラス壜に手を伸ばした。
「持っていけ。確かにこれはおまえのモノだ。どう扱おうが私に文句はない」
荒耶はすんなりと橙子の首を赤い魔術師に譲った。
鳥籠大の壜を両手で持ち、赤い魔術師は戸惑ったかと思うと---にやり、と不気味な笑みをもらす。
「たしかに受け取った。これはもう私のモノだ。どう扱ってもかまわないのだな、アラヤ?」
「好きにしろ。どの道おまえの運命は決まっている」
静かに、けれど重く語る荒耶の声も赤い魔術師には届かない。
彼は愉しげに笑いをかみ殺すと、満足そうな足取りでこの部屋から立ち去っていった。
/13
(矛盾螺旋、6)
がちり、がちり、がちん、がちん。
......頭痛が激しくなる。体じゅうの痛みも増してきていて、そこかしこにボルトでも打ち付けられているみたいだった。
俺は痛みに耐えて、膝を抱えて丸まっていた。
歯がかちかちと震えて、意識がはっきりとしてくれない。ちくしょう、という単語を一人で繰り返しながら、意味もなく壁を睨んで存在している。
---あれから、どのくらいの時間が流れたのだろう。
両儀が荒耶にやられてから、俺は何もできずに立ち尽くしていた。荒耶は立ったまま死んでいた。当たり前だ。胸と首にナイフを刺され、首のナイフは根元まで刺さっているのだ。生きているほうがおかしい。
だが、荒耶は生き返ろうとしていた。首に刺さったナイフが少しずつ外側へと動いていく。筋肉が押し戻しているのだと分かるまで、俺はそれをぼんやりと眺めていた。ナイフはからん、と音をたてて床に落ちた。止まっていた荒耶の呼吸が再開する。
俺は---その、落ちたナイフの音でようやくモノを考えられるようになった。這いつくばったまま落ちたナイフに駆け寄ると、それを両手でしっかりと握る。見上げると、蘇ったばかりの荒耶の目が、俺を睨んでいた。
たぶん、俺は悲鳴をあげたと思う。荒耶は、とんでもなく恐かった。両儀の仇だというのに刃向かおうなんて思えもせず、俺はただ夢中で逃げ出した。
逃げられるとは思わなかったのに、とにかく逃げる事しかできなかった。
走って、走って、息が止まるぐらい走って、俺はマンションから逃げ出した。そのまま乗ってきたバイクにまたがって、とにかくあの塔から離れようとした。
......そうして、気が付けばこんな所で震えている。
おそらく、もう主人の帰ってくる事のない両儀のアパート。殺風景なこの部屋で、俺はまた膝を抱えているだけというわけだ。
「......ちくしょう」
もう何千回めの言葉が漏れる。
そんな事しか、できない。
俺は、最低だ。
両儀をおいて逃げ出してきた。目の前で両親の死体を見たっていうのに、罪の意識もない。自分が殺される悪夢を現実として見てきたっていうのに、何の感慨も浮かばない。
少なくとも---アレが何なのかぐらいは整理できるはずなのに、頭がうまく動いてくれない。
「......ちくしょう」
震えが止まらず、まだそんな事を言ってやがる。
大笑いだ。
俺は、今までなんだって一人でやってきたっていうのに。
今、一人じゃ何もできない。
両儀を助ける事も、できない。
「......ちく、しょう............!」
叫んでも頭は壊れたままだった。
両儀を助けるという事は、あの男と争うという事だ。俺は荒耶の姿を思い出すだけで全身が震えてしまって、とても両儀を助けられる状況じゃない。
がちり、がちり。
......時計の歯車が回るような、奇音。
左腕の肘が傷む。逃げる時に打ちつけたのだろう、骨がひび割れているように痛みが響く。
俺は、心身ともに限界だった。
頭痛も止まらず、関節の痛みも消えない。
息をする事さえうまくできなくて、苦しかった。
「........................」
泣いた。泣いていた。膝を抱えたまま、悔しくて泣いていた。自分が一人で、可哀相で、痛くて、泣いていた。
こうして一人、泣く事しかできない自分がニセモノだと思い知った。やっぱり俺は、ほかの連中と同じようにだらだらと生きるだけの偽物だ。両儀のように本物になりたかったけれど、持って生まれた属性は誤魔化せない。
本物......?
ああ、それでも一度、そういうつもりになれた時があった。
あれは---そう、つい最近だ。
俺は膝を抱えるのを止めて、ベッドの上へ視線を投げた。
そこにいつも眠っていた両儀はいない。ただ、一本の日本刀だけが投げ出されている。
......人殺しだと告げた俺を信じた女。
......人殺しである俺と当たり前のように接した女。
......俺を、助けてくれた女。
......俺が初めて、一緒にいたいと思った相手。
---どうして忘れていたんだろう。
その気持ちは、偽りじゃない。俺は本気で---あいつを守ってやりたいと思ったんだ。
「----俺は、何を」
守ろうと、守りたいと、思っていたん、だっけ。
「--------」
よくわからない。けれど一度だって俺は--自分の命が一番大切だなんて思わなかった。
何か別のコト、何か別の大切なコトがあって、何かに助けてほしくて、あの日、自分の家を抜け出したのだ。
「---くそ、なんて、女々しい」
〝オレの為に死ねる??
そう問いかける両儀に、俺は答えたじゃないか。
何を怖れるものがあるっていうんだ。
やるべき事は決まっていたんだ。だから、誰から見ても格好悪いぐらいのやせ我慢でも、俺は立ち上がらないといけない。
「......そうだったな。ああ、いいぜ両儀。臙条巴は、おまえの為に死んでやる」
呟いて、俺は両儀の残したナイフを強く握り締めた。
その時、部屋の呼び鈴が鳴り響いた。
ぴんぽーん、という明るい音に、俺はバッと身構える。
荒耶が追ってきたのか、それともただの来客か。
両儀の家だから来客ではあるまい。なら相手は荒耶達に違いない。俺は居留守を決め込む事にしたが、すぐに気を変えた。
......こっちは覚悟が決まったんだ。ドアを開けた瞬問に襲いかかって、両儀の居場所を吐かせてやる。
俺はナイフを持ったまま玄関まで行くと、今開けます、なんて落ち着いた声をあげて扉を開けた。
「どちら様でしょう---」
か、と続けて、俺は相手を力任せに部屋の中へと引きずり込んだ。
だん、と相手を廊下に組み伏せると、踵で玄関を閉める。
相手は不意を衝かれて何もできない。
俺はそいつに馬乗りになって、殴りかかろうとした。
が、止めた。
俺が組み伏している相手は、一目で人畜無害と判る、およそ両儀の家への来客とも、荒耶の手下とも思えない人物だったからである。
「......あんた、誰だよ」
俺の呟きに答えはない。
組み伏せた相手は目をぱちくりさせて俺を見る。
そいつは、黒髪に黒ぶちの眼鏡をした、柔《やわ》い目をした男だった。 年齢は俺より幾分上だろう。上下ともに黒い服だっていうのに、怪しい雰囲気はまったくない。
「おまえ---両儀の知り合いか?」
「そうだけど、君は......?」
いきなり部屋に引き込まれ、殴られる一歩手前までいったというのに、男はわりと冷静に言い返してきた。
「俺? 俺は----」
言われてみると、俺は両儀の何なんだろう。うまい言い分を考え付かなくて、俺は面倒臭くなった。
「どうでもいいだろ、そんな事。両儀は留守だ。さっさと帰ってくれ」
馬乗りを止めて立ち上がる。
男は廊下に倒されたまま、じっと俺の手を見ていた。
「なんだよ。押し倒した事は悪かったが、あいにくあんたにかまってるヒマはねえんだ」
「それは式のナイフだろ。なんで君が持ってるんだ」
油断ならない鋭さで、男は俺が持っていたナイフを見つめている。
「......これは預かり物だ。おまえには関係ない」
目を逸らして答えたが、男は関係あるよ、なんて中国人みたいな発音で答えて立ち上がった。
「式はね、自分の刃物は誰にも触らせないんだ。そのナイフなら尚更《なおさら》だ。君がそれを持ってるって事は、式が自分の信条を綺麗さっぱり変えたのか---」
ずい、と男は俺の襟元を掴む。
「---君が、式から奪ったかのどちらかしかない」
男は迫力こそないものの、目を逸らしたくなるぐらい真っすぐな目をしていた。
俺は衿を掴む男の腕を払い除ける。
「そのどちらでもない。コレは両儀の落とし物だ。だから......早く、本人に返してやるんだ」
言って、俺は男に背を向けた。居間で支度を調えなくてはいけないから。
「待って。......君は、彼らの仲間かい?」
俺の背中に男が問いただす。無視するつもりだったが、男の言い回しはどこか気になった。
「彼らって、誰だよ」
「小川マンション」
短く、刃みたいな鋭い声で男は言った。
俺はぴたりと立ち止まってしまう。男はカマをかけたのだろうが、俺はそれに嵌《は》まってしまった。
男はふう、と重いため息をする。
「......そうか。式は本当に捕まったんだ」
そうして、男は玄関のドアに手を掛ける。
俺はなぜか、その時先をこされる、なんて事を思ってしまった。
「おい」
つい、呼び止めていた。よせばいいのに、この男を一人で行かせてはいけない気がしたし......なにより、こいつが同じ目的をもった相手だと気付いて、安心してしまったんだ。
「おい、待て!」
俺はさっきとはまた違った意味で、やってきた男を強引に引き寄せていた。
◇
男は、両儀の高校時代からの友人という話だった。
こいつの詳しい話なんて今は興味がない。俺は両儀を助けだすだけだし、こいつは両儀を助けたいだけなんだから。
俺達は互いに名乗りもせず、ただ互いの情報を分け合った。
男の話では、今日の昼間にアルバという赤いコートの男がやってきて両儀を拉致《らち》した、と公言したらしい。俺と両儀がマンションに行ったのは昨日の夜。時間的には合っている。
ふと時計を見ると、時刻はちょうど午後七時になろうとしていた。これで、あれから丸一日が経過した事になる。
男はトウコとかいう相手を待っていたらしいのだが、その人物も返り討ちにあったようだ。一人残された男は、明日を待てなくなって行動を開始したのだという。
俺は、昨夜に起こったすべての出来事を話した。
マンションの東棟と西棟のこと。ふたつの俺の家のこと。両儀が、荒耶という化け物に捕まったこと。......俺が、両親を殺して街をさまよっていた時に両儀に出会ったこと。
男は真剣に俺の話を聞いている。
あの怪異の中心にいた俺でさえ、こうやって説明すると嘘みたいに思えるっていうのに、こいつは疑うことなく俺の話を聞いてくれた。
「......それで、君はどう思うんだ」
俺の話を聞き終わって、深刻な顔つきで男は尋ねてきた。
「どう思うも何もねえだろ。両儀は今もあのマンションの何処かにいるんだ。助けだす以外になにがある」
「そうじゃないよ。僕が言っているのは君のご両親の事だ。君は、どっちが本物だと思っているんだ」
考えてもみなかった事を、男はとても心配げな目で言う。
俺の両親---俺が殺した臙条巴の育ての親。
「......そんなの、今は関係ねえだろ。後にしてくれ」
「関係あるよ。橙子さんの話じゃあ、あのマンションは作為的に精神異常をきたしやすい建築をしていたそうだ。一家心中をした家庭があるとしたら、その責任は家庭にじゃなくあのマンションを造った者にあるだろう。
君も同じだ。君は殺される夢を見るから、不安になって両親を殺してしまったと言った。けど、それは君本人の意思だったのかな。君は本当にご両親を殺したのか。君が手を出した時、もうとうの昔に、ご両親は死んでいたんじゃないだろうか」
男は沁みいるような眼差しでこちらを見る。
こいつの視線は、鋭くはない。なのに心の中まで入ってくるような力がある。両儀とはまったく正反対の、真実の暴き方だ。
......俺だって、その矛盾には気が付いていた。いや、もう心のどこかではわかっている。俺がこの手で殺した両親の正体を。でもそうなると、一つだけ認めたくない現実が浮かび上がってしまうんだ。俺は、それを否定するしかない。
「......殺したさ。そればっかりは本当だ。今でも母親をやった時の感触は手に残っている。たしかに俺は、一ヵ月前に両親を手にかけたんだ。言い逃れはできない」
「父親はどうなんだ。さっきからの君の話には、母親という単語ばかりで父親という単語が欠けている。君が殺したのは母親だけかもしれない」
「しつこいな。親父だって死んでた。死体を見たんだから間違いな......」
言いかけて、気付いた。
たしかに----親父の死体だってあった。けど、あれは俺がやったものだったろうか? 母を手にかける所までは覚えているけれど、親父をどう殺したかなんて、俺は全然覚えていない。
親父は、すでに母によって殺されていたから。
半年前の両親の遺体。たぶん、今日の夜にも母親によって死に絶える臙条家の人間。
俺が殺した両親は、俺を毎晩のように殺した両親だ。
あの夢は現実だった。
俺は夢から逃れる為じゃなくて----
あの現実から逃れる為に、いっそ、この手で--
がちり、と歯車の音がする。
「---うるさい。両親の事なんてどうでもいい。俺は両儀を助けるだけだ。それ以外の事はしらない」
そうだ、今はそれだけが俺の真実だ。それ以外の事なんて考える余裕も意味もない。
「それで、あんたに案はあるのか。一人で助けるつもりだったなら、何か考えていたんじゃないのか」
睨んで言うと、男はああ、とあまり気乗りしない態度で頷いた。
「案だけなら一つだけある。けど、君の話を聞いて気が変わった。これは僕達の手におえる話じゃない。警察にまかせるべきじゃないかな」
ぽつり、と神妙な顔で男は言う。
......こいつ、今更なに言ってやがる。連中がアテになるもんか。
「それ、本気でいってんのか」
男はまさか、というふうに肩をすくめて首を横に振った。
「本気じゃないけど、そういう判断も必要だって事。僕から見ても君は思い詰めすぎている。式は大切だけど、それとは別の問題で自分の命は大切にしないとダメだ」
「うるさい、おまえに俺の気持ちがわかるもんかっ......! 俺には何もないんだ。誰も守ってくれなかったし、誰も守ってやれなかった。せめて、せめて両儀を救う事ぐらいしか、俺には残ってない。あいつの為に死んでやるって誓いをはたす事ぐらいしか、何も-----!」
そこまで口にして、胸がつまった。
分かってしまった。あの夜と同じだ。俺は、両儀を助けたいんじゃない。両儀を助ける事で死にたいんだ。
今はもう、苦しすぎて生きていたくない。何も残っていないから、生きていく意味さえない。けど無価値な死はイヤなんだ。それなら両儀の為に命をかけて死ねば、それはとても意味のある事だ。
惚れた女の為に死ぬなんて、俺には十分すぎるから。
......この男は、俺の本心に気が付いたから、そんな風に痛々しい目で俺を見るのだ。
「---おまえには、わからない」
俺には、そう呟く事しか出来なかった。
男は静かに立ち上がる。
「わかった。僕達だけで式を助けにいこう。でも、その前に寄るところがある。付き合ってもらうよ、臙条巴」
まだ教えてもいない俺の名前を口にして、男は夜の街へと歩きだした。
男の後をついて電車に乗った。
目的のマンションとはまるっきり方角が違う電車に乗って、見知らぬ駅につく。
その町は、都心の喧騒とはかけ離れた静かな住宅街だった。駅前にはロータリーなどなく、小さなコンビニが二つだけある、寂しい賑わいをしていた。
「こっちだ」
男は駅前の案内図をすばやく読み取って歩きだした。
数分も歩けば、周りには夕食を終えて静まり返った家々しかなくなった。道は暗く、街灯の明かりだけが頼りなげに行く手を照らしている。
狭い道、狭い歩道橋。ゴミ捨て場には野犬がホームレスのように陣取っていて、いかにも洗練されていない。
男は、この町は初めてのようだった。
はじめは両儀を助ける為の前準備なのか、と思っていたが、どうやらそうではないようだ。
俺は無言で歩いていく男に付いていきながら、段々と苛立ちが増してきた。俺達にはこんな所を散歩するほどの余裕はないのだ。
「おい、いい加減にしろ。どこに行くつもりなんだ、あんた」
「もう少しだよ。ほら、あそこの公園。隣に野原があるだろ。その横」
男の後について、その公園を素通りする。
夜の公園に人気はない。いや、そもそもこんな公園、昼間にだって人はいないだろう。小さな、ただ地面を平坦にしただけのなんでもない遊び場だ。すべり台もジャングルジムもない。申し訳程度にある鉄棒は赤錆びていて、もう何年も磨かれていないようだ。
「----え」
ふと、脳裏に何かよぎった。俺は......たしかに、この公園を知っている。幼い頃、もう思い出す事も、思い出す必要もないぐらい子供の頃、ここで遊んだ記憶があるのだ。
立ち尽くして公園を眺めていると、男はかなり先のほうまで行ってしまった。
隣にある野原の、さらに隣の一軒家の前で立ち止まっている。俺は男へと小走りに近寄った。
男は無言でその家を見ていた。俺が近寄ると、そのまま俺へと視線を返す。ひどく哀しそうな目だった。
俺は、その瞳に促されてさっきまで男が見ていたモノヘと顔を向ける。
---くらり、とした。
.........一家がある。一階建ての、小さな家だ。
門は半分以上が朽ち果て、庭は荒れ放題。伸びた雑草やらなにやらが、家の壁まで侵食している。壁は所々が剥げ落ち、家というよりくたびれて横たわった老犬みたいだ。
人が住まなくなってからどれほど経っているのか。すでにこれは家ではなく、ただの廃嘘にすぎなかった。
「..............................」
声が、でない。
俺は食い入るように廃櫨を見つめて、知らず、泣いていた。
悲しくも悔しくもないのに、ただ、涙が溢れて止まらなかった。
俺はこんなもの知らない。見た事もない。
けど、魂が覚えている。臙条巴がきっと忘れ去らせない。
大人になった俺が捨て去ろうとも、巴はずっと、この場所を覚えていた。
----俺の、家----。
自分が八歳の頃まで住んでいた場所。とうの昔に忘れてしまった思い出の日々。
〝......嚥条、おまえの家ってどこだ??
その質問に答えると、少女は気難しい顔で首を振った。
〝違うよ、おまえの本当に帰りたい家だよ。わからないなら、いいさ?
......これの事か、両儀。
でも今更、こんな所に何があるっていうんだ。崩れて、壊れて、見る影もなくなった廃櫨に用なんてない。
家には辛い思い出ばかりだ。働かなくなって俺に八つ当たりする親父は、家の中では暴君だった。母親は親父の言いなりになってハイハイとしか返事をしない木偶《でく》の坊。
満足な食事も暖かい服も、俺には与えられなかった。
俺にとって、両親なんてのはただの厄介事にすぎない。だから両親が死んでいる事より、俺には両儀の事が大事なんだ。
大事の、筈なんだ。
なのにどうして--俺は、こんなにも泣いているんだろう。
両親の白骨を見た時もそうだった。何かが痺れて、動けなくなる。大切な事を忘れてしまって、切なくなる。
「......なんだよ、これ」
呟いて、俺は廃墟の庭にわけ入った。
庭は狭い。一家三人が住むには丁度よかったのだろうが、今の俺はもう大人だ。ガキの頃より庭は狭苦しく感じられた。
......覚えている、この庭を。
幸せそうに笑って、俺の頭を撫でた逞しい父の腕を。
幸せそうに微笑んで、俺を見送っていた優しい母の姿を。
信じられない。そんな夢みたいな幸福な日々が、俺にもあったのだろうか。そんな当たり前の幸福を、俺は持っていたというのだろうか。
...
〝---巴?
声がした。振り向くと、精桿な顔立ちの青年がいた。
〝大事な物を預けるから、こっちに来なさい?
青年の足元に、小さな子供が走り寄っていく。
赤毛のくせっ毛をした、少女みたいな子供だった。
〝お父さん、コレ、なに??
〝家のカギだ。なくさずに持っていなさい。巴も男の子だからな、それでお母さんを守るんだぞ?
〝かぎで、まもるの??
〝そうだ。家のカギはね、家族を守る大切なものなんだ。きちんと戸締まりができるし、お父さんやお母さんが留守でも大丈夫だろう?カギはな、家族の証なんだぞ?
......まだ幼い子供が、父の言葉をどれほど理解できただろう。
それでもがっちりとカギを握り締めて、子供は顔をあげて答えた。
〝うん、わかった。大事にする。安心して、お父さん。ぼくがおうちをまもるよ。一人でも、ちゃんとやっていけるから----?
...
がくん、と足から力が抜けて、俺は庭に尻餅をついた。
立ち上がろうとしても、うまく立ち上がれない。
過去の思い出が鮮明に焼き付いてしまって、今の肉体をうまく動かせない。
......そうだった。俺にとって家の鍵っていうのは、家族を守る為のものだった。家族の証である宝物みたいな物だったんだ。
その家族は壊れて、昔の面影さえ微塵もない。
俺はそれを呪って、この今が厳しすぎて、昔の事など忘れてしまった。
......昔。まだ家族が平和だった頃の記憶。優しい母。誇らしい父。我が子の成長を第一にしていた両親。それは本物だった。月日が経って、それが失われてしまったぐらいで偽物と決めつけた自分が馬鹿だった。
両親は、こんなにも優しかったのに。
|明日《セカイ》は、こんなにも輝いて見えていたのに。
俺は今しか見ないで、両親にダメな人間という評価を下して隔離したんだ。
救いを求める声を無視して、俺は彼らに|止《とど》めをさした。
物事は---永遠でなければいけないのか。
違う。永遠を望むほうがいけないんだ。両親の気持ちは本当だった。それを忘れて--俺は、ホントウの被害者を加害者にして逃げていた。
......周囲から迫害を受けて、働きたくても働けなかった父。
パート先で陰口を叩かれながら、それでも我慢して働いていた母。
あの二人にとって、俺だけが救いだった。
俺が仕事から帰ってくると、決まって母親が待っていた。母は何か言いたそうにしていたけれど、俺は両親の声なんて聞きたくもない、とばかりに背中を見せ続けた。苦しいのは俺だけじゃなかったのに。母は俺以上に辛かった筈だ。
話し相手もおらず、親父に殴られ、黙々と働いていた母。
彼女の心が壊れたのは当たり前だ。俺は---俺がただの一回でも振り返っていれば、あんな事には、ならなかった。
「---なんて---馬鹿だ」
涙が止まらず、俺は顔を覆った。
両親を殺したのは夢のせいだとか、マンションのせいだとか、そんなのはどうでもいい。
悪いのは俺だ。
被害者は母さんだったのに。俺はさらにそれを責めて、振り返る事さえしなかった。両親を殺したのは俺だ。俺がなにより、あの人達を助けなければいけなかったのに。
その償いを、今、しなくちゃいけない-----。
俺は座り込んだまま、庭の土をつよく握り締める。
涙は止まっていた。
泣いていたのは、そう。さっきのように悔しいから泣いていたんじゃない。
悲しいから----両親が死んでしまったという事実が重すぎるから、俺は涙を流したんだ。初めて......両親が死んでから半年も経ってようやく流した、別れの儀式。
でもそれもここまで。いつまでも、こんな寄り道はしていられない。
---風は止んだし、合図も鳴った。
さあ--そろそろ本気で走りはじめなくちゃ--
......気が付くと、男はずっと俺の背後にいた。
何も言わずに、ただ庭でうずくまっている俺を見ている。
認めるのは癩《しゃく》だが、たしかに俺はここに来なくちゃいけなかった。けど泣き顔なんかを見られた俺は、どうも素直じゃなかった。......いや、きっとこの相手には、俺は最後までつっぱったままだろう。だって、俺には恋敵と仲良くする趣味なんてない。
「くそ、満足かよ」
振り向かずに毒突く。
男は、つらそうに頷いた。
「......すまない。僕は君の不幸を知っているのに、何の言葉も浮かばない」
ああ、そうだろう。俺の痛みが分かるのは俺だけだ。
同情家ぶられて、他人に痛みの解説なんてされるのは真っ平だ。その点でいえば、こいつはしごく気持ちのいい事を言う。
「僕は幸福な家に生まれて幸福に育った人間だ。だから、何も言えない」
......ああ、こいつはいい奴だ。
今の俺相手には、慰めの言葉さえ嘘になってしまう。人の同情は嫌いだが、人の同情をつっぱねた代償は結局自分に返ってくるコトを、俺は知ってる。こいつは俺に、そんなイヤな気分をさせたくないんだ。
「---ちぇ。わかってるなら黙ってろ、馬鹿」
「でも言葉にしなくちゃわからないだろ。今まで何番目だったかは知らないけど、何も残っていないのなら--今の君にいちばん大切な物は君自身だ。それを蔑《ないがし》ろにするのは、絶対に間違ってる」
月明かりの下、男はそんな事を言った。
他の何よりも、大事なのは自分自身。
人を欺《あざむ》いてまで守るものは、臙条巴というこの命。
---ああ、たぶんそれが一番純粋な真実。にせものじゃない、飾りのない、剥き出しの本性だ。
それを醜いと思うのは、きっと自分が弱いからで。
両儀の為に死んでやると告げたあの夜、式が俺を侮蔑したのもそうなんだ。
......たいしたもんだ。こんなにも違うタイプの人間が、結局は同じ事を俺に諭すっていうんだから。
しゃがみこんだまま、俺はくすくすと笑った。
そこへ、男の手が差し伸べられる。
「ひとりで立てないのなら、手を貸すよ」
......俺はそれを眩しそうに眺めて、ゆっくりと、振り払った。体中の関節がぎちぎちと悲鳴をあげるけれど、これは、俺が死ぬまで張り通さないといけない意地なのだ。
臙条巴は立ち上がった。
「よけいなお世話だ。いつだって俺は、一人でやってきたんだから」
それも、ひとりよがりの思い込みだったけれど。
男はああ、と素っ気なく笑う。
「うん。君なら、そう答えると思った」
それは不思議と、こっちも笑い返したくなる笑みだった。
◇
男の立てた計画は単純だった。
両儀はマンションの西棟十階のどこかに囚われているという。正面のロビーから入ってエレベーターに乗っても、すぐに相手に気付かれてしまうだろう。そこで、男は自分が囮になるからと俺に両儀を助ける役目を振り当てた。
あのマンションの住人である俺が歩き回るより、部外者である男が歩き回ったほうが荒耶達も注意を払う、と男は確信がありそうに言う。
「でもよ、俺だって結局は気付かれるんじゃないのか?」
「君には地下から侵入してもらう。これ、あのマンションの見取り図。地下駐車場があるだろ。マンションから離れたマンホールから下水に入って、そこから中に潜入できる。あのマンション、地下駐車場は使われてないだろう?」
男の言葉はいちいちもっともだった。こいつの言うとおり、あのマンションの地下駐車場は開放されていない。エレベーターだってBのボタンはあるものの、地下には行かないのだ。
「たぶん、そこが彼らの工房って所だと思う。地下駐車場とは考えたもんだ。あそこなら音も外にもれないし、全然怪しくない」
言いながら、男は下水から駐車場に上がるとき用に、とジャッキやらドライバーやらが入った革袋を押しつけてきた。
男の運転する車は、そうしてマンションがある埋め立て区に到着した。
俺達はマンションから一キロほど離れた道路に車を停めて、降りる。
時刻は午後十時。人通りはすでにない。
「ほら、そこがマンホール。そこから西方面の下水路に行って、七つ目のマンホールが駐車場だ」
「ったく、簡単に言ってくれるぜ」
文句を言いつつ、俺は支度を調える。
工具の入った革袋に、両儀の残したナイフ。
それと......念の為に、両儀の部屋から日本刀を拝借しておいた。荒耶に見つかった時、武器は多いほどいいからだ。
「それじゃあ時計は合っているね。半になったらマンションに入るから、君もその時間に合わせて駐車場に侵入すること」
男は慣れた感じでそんな指示をだす。
俺は、かねてから疑問に思っていた事を訊く事にした。
「......俺はこういうのは慣れてるけど。あんたはなんでここまでやるんだ。両儀のためか?」
俺の質問に、男は困ったふうな顔をするだけで答えなかった。
「おい。死ぬかもしれないんだぜ。恐いとか思わねえのか?」
「恐いのは当たり前。本来、自分はこういう役回りじゃないからね」
目を閉じて男は語る。まるで自分自身に言い聞かせているような、静かな話し方だった。
「自分でも驚いてる。これは僕にとってはものすごい冒険だ。......けど、ちょっと前にさ、未来視っていう少し先の現実を視てしまう子と知り合ったんだけど」
「は?」......突然、訳の分からない事を言い出す。
「その子の話じゃ、式と関わっていると命を懸ける出来事に遭うって言われたんだ」
本気で男は言っている。俺は話を合わせる事にした。
「ああ、そりゃあ今だぜ、きっと。で、結果はどうなるんだって?」
男は首をふって肩をすくめた。
「なんでも---死ぬ事はないってさ」
それが無茶をする後押しだよ、と男は付け足した。
なんとも曖昧な、それでいてこいつらしい理由を聞いて、俺は荷物を背負った。