こうやって日常の中にいるのは楽でいいけれど。
......本当に、そろそろ走りださないといけないから。
「礼は言っとくぜ。っと、そうだ。まだお互いに名前を教えてなかったな。俺は臙条巴。あんたは?」
......相手が俺の名前を知っている事は分かっていたけど、俺はあえて自分から名乗りなおした。
男は黒桐幹也という名前だった。......いつか両儀が口にしていた名前だな、と納得する。
「そっか。ほんとに、どっかの詩人みたいな名字してるんだな、あんた」
そして、俺は男の手を掴んで鍵を握らせた。
もう俺には必要のない、両儀の家の鍵。
----とおいむかし。
たからものだと思っていた、小さな小さな金属片。
「これは?」
「いいからとっとけ。これからは、あんたが守らなくっちゃいけないんだからさ」
俺は綺麗に笑おうと、努力した。
うまく笑えたかはわからない。
「事が終わったら、俺達は二度と会わないほうがいい。捜すのもなしだ。同じ女に惚れた同士、すっぱり別れようぜ」
なぜ?と言いかけて、男は顔をしかめてしまう。
......パッと見、のんびりしているようでこの男は頭がキレる。俺の言いたい事を、本当に瞬時に理解するんだから。
「そういうこった。俺はおまえなんて知らない。だからおまえも俺の事なんて気にするな。どっちかの責任でどっちかが死んじまった、なんて寝覚めが悪くなるだろ。だから---もう会わないって約束したほうが、いいんだ」
そして、俺は一歩踏み出した。
男は何も言わずに俺を見送る。
走りだしながら、さよならと片手を振った。
「じゃあな! 全部終わったら、俺は一からやりなおすんだ。両儀の事は愛してるけど、あいつには俺は不必要だ。おまえは両儀とは合っていないけど、だからこそいいんだろう。......俺はさ、両儀に同じ物を見て安心していただけだったんだから。俺とかあいつみたいな人間にはさ、あんたみたいに呆れるほど害のないヤツのがいいんだよ----」
そうして走った。
二度と、後ろには振り向かなかった。
/14
人気のない、機械が生活しているようなマンションに、黒桐幹也は足を踏み入れた。
緑の匂いを感じさせない庭を抜けて、人工の明かりに満ちたロビーへと入っていく。
ロビーには物音さえない。
クリーム色で統一されたロビーは、ただひたすらに清潔だった。電灯の光は反射する事もなく床や壁に吸い込まれ、ここには明暗というものがない。
昼間に来た時---このマンションには、生暖かい悪寒が満ちていた。けれど今は違う。夜中に訪れた今、この異界に充満するものは息苦しいまでの静謐《せいひつ》さだった。
足音は小さく響いて、一秒も待たずに抹殺されていく。
冷たい。空気でさえぴったりと役割が定められているようで、歩く度に息がつまる。
自分がこの異界において完全な異分子なのだと、黒桐幹也は痛感する。
それでもこのまま帰るわけにはいかない。水をかき分けるように幹也はロビーを進んでいく。
「とりあえず三階からか」
階段は使わず、エレベーターで上がろうと考えた。
エレベーターのボタンを押す。
大きな駆動音がして、五階からエレベーターが降りてきた。
扉が、音もたてずに、開いていく。
「----え」
そこに居るモノが何なのか瞬時に理解できず、幹也は息を呑んで、わずかに後じさった。
「やあ、来たね。丁度よかったな、これから行こうと思っていたんだ」
エレベーターに乗っていた赤いコートの青年が、笑いながらそういった。
幹也は喉までせりあがった吐き気を、片手で必死に押しとどめる。数歩、よろよろと後ろに歩いて、怖れるような、それでいて泣きそうな顔で、青年を見つめ続けた。見なければいいと解っているのに、どうしてもソレから目が離せなかった。
「いい出来だろう?私も気に入っているんだ、本当さ」
愉しげに笑って、青年は片手に持ったソレを掲げる。
幹也がどうしても目が離せないソレ。
赤いコートの青年は、片手に、蒼崎橙子の首を持っていた。
◇
橙子の生首は、とても良い出来だった。
生前となんら変わる所のない色と質感。眠っているように瞼を閉じた素顔は、一枚の絵画のように美しい。彼女は、まるっきりもとのままだった。ただ一つ、首から下が失われているというだけで。
「あ-----」
口を片手で押さえて、幹也は嘔吐《おうと》感を必死に堪《こら》える。いや、もうそんな事しか出来なかった。ただ立って、自分の口からこぼれだそうとする様々なモノを抑える事しかできない。
「師の仇討ちに来たんだね? 殊勝な心がけだ、アオザキはいい弟子をもっている。羨ましいかぎりだよ」
赤いコートの青年はエレベーターから出る。青年の笑顔はいびつで、作り物の笑顔が貼り付いているようだった。
「見ての通り、君の師は死んでしまった。でもまだ完全に死んでいるワケじゃないぜ。意識はある。外の音を聴いて、それがなんであるかを理解できるぐらいの機能は残っているんだ。慈悲だよ、慈悲。彼女には色々と手を焼かされたが、死者に対する礼は心得ているつもりだ。彼女にはもう少し、生きていてもらおうと思っている」
赤い、血のような真紅を着て、青年は幹也ににじり寄った。誘惑に耐えて動けない聖職者に言い寄る、悪魔みたいな自然さで。
「何の為にか、だって? 簡単だよ、これだけじゃ私の気が晴れないだけさ。ただ殺すだけでは、私が長年受けてきた屈辱の償《つぐな》いにもなりはしない。彼女にはもっと、痛みというものを思い知ってもらわないとね。ああ、いやいや、それでは誤解してしまうか。あのね、痛みといってもこういう痛みを知ってほしいんじゃないんだ。だってほら、首だけの相手に肉体の傷なんて項末な問題だと思うだろ?」
言って、青年は手にした生首に指をかけた。そのまま息絶えている彼女の両目に指を突き入れると、生々しい血とともに眼球を抉り出した。
滝のような涙が、血となって彼女の頬を流れていく。
血にまみれた眼球は、生前の彼女の瞳とはまったくの別物だ。そこにあるのはただ丸いだけの肉片にすぎない。
青年は、動かない幹也にそれを手渡した。
「ほら、こんなのでは彼女は呻き声ひとつあげない! でも安心してくれ、ちゃんと痛覚は残っている。アオザキは我慢強いから何も言わないけど、目を刳《く》り貫かれるのはどんな感じなんだろうね。痛いかな痛いかな、泣いてしまうほど痛いのかな! なあ、君はどう思う? 弟子なんだから、師匠の気持ちぐらい分かるだろう!」
幹也は答えない。彼の神経は焼き切れる寸前までいってしまって、物事を考える余裕などなくなっていたからだ。
赤いコートの青年は、それを満足げに見つめている。
「はは---でもまあ、きっとたいした事のない痛みなんだろうね。それに正直言うと、私は痛がらせるより悔しがらせたいんだ。こうやって首だけになった事も、アオザキには堪え難い屈辱だろう。だが、私ならもうワンランク上の屈辱を用意できる。その為に君が必要だった。ねえ君。自分が手塩にかけたモノを壊されるというのは、どういう気持ちだか分かるかい?それも目の前で、声をあげる事さえできない無力な自分自身を実感しながらだ。
ふふ、私なら耐えられないな。壊してしまった者を殺しても気が晴れないだろう。分かるかい?私を無視し続けたこの女が、私を殺したいと思うほど憎むんだ。素敵だ、これ以上の復讐がどこにある! 直接の殺害はアラヤに横取りされたが、こればかりは譲る訳にはいかないよ」
赤いコートの青年は、眉一つ動かさない彼女の首に話しかけ---唐突に、血の涙を流す首を両手で掴んだ。
「アオザキに弟子がいると知った時、私は嬉しくてたまらなかった。あの時から、私は君に目をかけていた。恨むのなら私ではなく師を呪うのだね。安心したまえ、君だけを地獄に落とすような真似はしない。---この首。こんなのでも、彼女は生きていると言ったろう? けどね」
青年はにやりと笑うと、万力でもかけるように、両手で首を押し潰した。
リンゴか何かのように、蒼崎橙子だったモノが、砕けて、地面に落ちていく。
「ほら、これで死んだ」
ロビーに満ち溢れるばかりの勢いで、青年は笑いだす。
幹也は声もあげずに走りだした。目の前で橙子だったものが肉片に変わった光景が、かろうじて残っていた理性を焼き切ったのだ。
幹也は外にではなく、東棟のロビーへと走っていく。そこが行き止まりである事も、今の彼には思い出せない。
ただ---悲鳴をあげなかった分、彼は立派だったと言えるだろう。
「さて、幕だ。待っていろ、すぐに後を追わせてやるよ」
青年は高笑いを止めて、ゆっくりと彼の後を追いはじめた。血にまみれた両手もそのままに、床に赤い雫をこぼしながら。
◇
地下の下水は迷路のようだった。
明かりなど当然無く、汚水の流れる音だけが時間の経過を感じさせる。
それでも巴は幹也の用意した下水の見取り図を片手に、目的の位置に辿り着いた。
天井へ通じる細い穴。点けていた懐中電灯を消して、壁に作られたはしごを登っていく。
数メートルも登ると天井に突き当たった。天井となる蓋に覆われたマンホールの隙間にドライバーを差しいれ、大きくした隙間にスパナをねじ込む。後はそのまま、力任せに蓋を押し上げた。
がらん、と丸い鉄の蓋が床に転がる音がする。
地下駐車場の様子は、暗くてまるで判らない。
巴は工具の入った革袋を先に駐車場へ放り投げると、式のナイフと刀を持ってはしごを上がった。
「..................」
駐車場に明かりはなく、巴は静かに周囲を見渡す。
......何か、おかしな気分だった。
忍び込んでいるというのに、見つかるかもしれないという危機感がまるでない。
地下駐車場がどれほどの広さなのか、巴には見当もつかない。明かりはなく、ただ蒸気の音だけが響いて、広いのか狭いのか判らないのだ。
「蒸気の、音......?」
呟いて、巴はくらりと目眩《めまい》を覚えた。
この暗闇。この空間の匂いを、巴は知っていた。
いや、知っていたのではない。今も、身近に感じている。
---俺は............帰ってきた............?
がたがたと体が震える。
かちかちという奇音が、脳髄の中を駆け回る。
臙条巴は、知らず、周囲を見渡した。
灯りはなく、部屋は暗い。
ここは、熱い。
ただ鉄板の焼ける音と、そのマグマみたいな光だけが頼りだった。
周囲の壁に大きな壜が並んでいる。
床には細長いチューブが散らばっている。
誰もいない。ただ蒸気の音と、水の泡立つ音だけを...........................................................................................................................................................................いつも、彼は感じていた。
「------」
巴は声もあげず歩きだした。
体が重い。限界が近付きつつある。
部屋の中心にある鉄板は、火によって焼かれていた。定期的に鉄板の上には水が撒かれて、水は蒸気になって部屋の天井へと消えていく。
天井には幾重もの管がある。管は蒸気を吸い込むと、壁づたいに周囲の壜《びん》へと空気らしきものを送り込んでいた。
「-----はは」
巴は、力ない足取りで壜へと近付く。
壜は無数にあって、ちょうど人の頭ほどの大きさだった。中には得体のしれない塊が入っていて、ちょうど実験室のホルマリン漬けのように、ふわふわと浮いていた。
どう見ても、人間の脳にしか見えなかった。
壜の下からはチューブが一本伸びていて、それは床を伝わってから壁に伸び、天井を突き抜いていた。たぶんマンションの各部屋に繋がっているんだろうな、と巴は他人事のように思う。
「なんだよ、これじゃあ安物のホラーじゃねえか」
笑って、巴は壁づたいに歩きだす。
......考えてみるべきだった。毎日同じ生活を繰り返す人々は、昨日と同じ今日を繰り返している訳ではないのだ。それでは異常性が外部に露出する。彼らはあくまで、生きている人間として些細な変化のある、けれど大きな変化のない日常という螺旋を繰り返していた。
その為には、人々を殺してはいけないのだ。思考し、肉体を動かす脳髄だけは生きていなくてはいけない。物を考えるだけの物体を生きていると仮定するのは難しいけれど、とにかく、脳だけは機能していなければいけない。毎夜、死んでしまう肉体とは別の所で、夜に死ぬ為だけに日常を過ごす一個人として。
それは、地獄ではないのか。
死んで、生きて、死んで、生きて。ただ、それだけの閉じられた輪。けれど人間はそれだけの閉じられた輪。逃げる事も止める事も、これを疑問に思う事もない、魂の牢獄。
......毎夜繰り返される終わりを、夢と思って目覚める一日。
臙条巴が、毎夜、悪夢として見ていた現実。
「......そっか。ああ、そういう事だよな」
呟いて、巴は壜の一つに指を触れさせた。
---聞こえない筈の声が聞こえる。
ある筈のない意識が、ただ一言を告げてくる。
〝助けて?と壜は言った。
巴は笑う。
......だって、そうするしかない。
助けって、何を? 元の入間らしい姿に戻りたいのか。
それともこの繰り返しから解放されたいだけなのか。
でも、どっちにしたって無理な注文だ。
「--俺には、殺してやる事しか、できない」
だから笑う。悲しくて、悔しくて、滑稽で、笑ってやる事しかできない。
「......俺だってそうだ。助けてほしかった。ずっと助けてほしかったんだ。けど、何から助けてほしかったのか、ずっとわからなかった。......でもそうなんだ。分かっちゃいけなかった。だって、助ける方法なんてないんだから。どんなに意味をすげ替えたって。一番はじめの現象だけは、消す事ができないんだから」
謝りながら巴は探した。きっとあるはずだ。なければおかしい。意味が合わない。
......荒耶という魔術師は、彼自らがマンションの住人を殺して脳髄を集めたわけじゃない。住人達が自ら殺しあった後に、その最後の一日を繰り返させる為に脳髄を回収したんだ。
だから---あるはずだ。自分が、臙条巴があの夜を毎晩繰り返した原因。半年前に起きてしまった現実が。
それは、程なくして発見できた。
でも、それだけはあってほしくなかった。
「はは----」
慈しむように、巴はその壜に触れた。
鏡で自分を見るように。彼は肉眼で、たった今思考している自分自身を見つめていた。
チューブは二本ある。一本は天井へ。もう一本は途中で切られていた。
まるで廃棄処分にするかのように、ばっさりとこの|日常《マンション》から外されている----。
カタリ、と音がした。
昨日から傷んでいた|自分《トモエ》の左腕の肘。そこから、腕が床に落ちた音だった。
ぽたりぼたり、と血液らしきものが肘からこぼれる。
落ちた腕の断面には、骨とか筋肉らしきモノの他に、歯車みたいなモノが交ざっていた。
かち、かち、がち、かち。
あの夜---自分が何かも分からず、呆然と座り込んでいた時からしていた奇音。
殴られて、自分の名前を呼ばれて---ようやく自分が臙条巴というモノなのだと起動した時からしていた歯車の音。いつもの繰り返しの夜、殺されるのがイヤで--予定調和の前に、母を殺す事で逃げ出した人形---
それが----俺だ。
「くく----あはは」
放心したように膝をついて、巴は笑う。
「ひひ、ひひひ、ひゃははははは!」
気が狂った人間の声が、駐車場に充満する。
---嗤《わら》っちまう。
わかってた。初めから自分が偽物だってわかっていたけど、ホントウに作り物だったなんて。
頭は空っぽだ。真っ白で、何ひとつ浮かばない。
なのに。
何も考えられないのに、ただ嗤いだけが止まらなかった。
「......ひひ、ひひ、ひ......あはは-----は」
本当におかしな話だ。
これだけの事が出来るのなら、なんで---俺と、俺の家族はただの一度も悲劇を回避する事ができなかったんだろう。
何十回も何百回も繰り返して---それから逃げる為にやった事が母親を殺す事だったなんて、救われない。
俺は本物の臙条巴じゃなくて、作り物の巴だったから、起きてしまった結末を変える事ができなかったのか。偽物だから、荒耶の思い通りにしかならなかったのか。
偽物だから---あいつは俺には何もできないと知って、俺を逃がしただけなのか。
「---違う」
呟いて、巴は歩きだした。
かちり、かちり。
歯車の音がする。音はここにある人々の声に聞こえていた。助けて、と繰り返す音が、彼に狂いだす事を許してくれない。狂って、現実から目を背ける事を許してくれない。
......いや---それとも。
巴は鉄板まで近寄ると、もげてしまった左腕の肘を、熱い鉄に押しつけた。
「■■■■■■■--------!!!!!!」
漏れる苦悶の声。
じゅう、という肉の焼ける音。
切断面からこぼれる血液は、傷口を|焼灼《しょうしゃく》する事で止まった。
巴は笑いながら、止血した左腕を鉄板から離す。
......それとも。彼は、もう、狂っているのかもしれない。
はあはあと荒い呼吸のまま、巴はエレベーターを探す。
エレベーターは部屋の隅にあった。一階で止まったままのそれを、ボタン一つで呼びつける。
巴はナイフと刀を持ってエレベーターに乗った。
一度だけ振り返る。
蒸気の音と水の音に包まれた地下は、とても、静かだった。
死んだ事さえ気付かず、今も日常という輪を夢見ている脳髄という魂の安置所。
巴は思う。
永遠に変わらない日々と、永遠に終わらない日々。
そのどちらが螺旋といえるのだろう。このマンションは奇怪ではあるものの、永遠であるという事においては疑いようがない。死んでも---たとえ同じ毎日だとしても、朝になればやり直しができるのだから。
ただ、その輪の中にいるかぎり、螺旋がズレる事がない。
ほんの少し---ほんの少しだけこの輪が狂ってくれたのなら、いつか、臙条巴が母に殺される事もなく、母を殺す事もない日常が生まれただろう。
だがそれも不可能な話か。ズレた輪は、二度と同じ所を回りはしない。死者は死者として終わる事を前提にしなければ、この日常は回ってくれなかったのだ。
それでもと、巴は思ってしまった。
---ああ。
この螺旋が、矛盾していたらよかったのに。
それはありえる筈のない答え、ありえる筈のない願いだ。
自らの肉体の終わりが近い事を感じながら、嚥条巴は十階のボタンを押した。
◇
息を切らして、黒桐幹也は走り続けた。
何か、意味のない言葉を叫んで駄々をこねる赤ん坊になれたらどんなに気持ちいいだろう、と取り留めのない救いを求めながら、とにかく走る事しかできなかった。
赤いコートの青年から逃れるように、後を振り返らずに走る。走って、外ではなく東棟のロビーについて、呆然と立ち止まった。
「......行き......止まり......」
愕然とロビーを見上げる。
二階への階段はあるものの、ロビーは完全な袋小路だ。
自身が冷静さを欠いている事に、幹也はようやく気が付いた。
「----ちくしょう、なんだって、こんな」
覚悟していた筈なのに、彼は取り乱した自分自身に文句を繰り返す。だが、昨日まで親しかった人間の生首を見せられて、それを目前で潰されたのだ。彼の行動は、比較的まともだと言える。
がくがくと震える両膝を、幹也は両手で押さえ付ける。
とにかく、今は逃げなくてはいけない。
きょろきょろとロビーを見渡す幹也。
そこへ----通路から、硬い足音が響いてきた。
「---!」
まずい、と幹也は走りだす。
とりあえず階段を使って二階に上がろう。そう直感して幹也は動きだす。だが、彼の足が階段を踏みしめる事はなかった。ざん、と勢いよく物を切る音がしたかと思うと、彼の両足は力なく地面に膝をついたからだ。
「あ---」
伸ばした手が、階段の手摺りに触れる。けれど幹也の手はそのまま滑り落ちて、彼は階段に倒れこんだ。
段差に伏したまま幹也は自分の足を見る。
......膝の部分から、赤いものが流れだしていた。
背後から両膝を刃物らしきもので切られた、と彼は他人事のように把握した。自身が傷ついた、という実感はあまりない。
なぜって、傷は痛いというより熱くて、動かなくなった足は本当に他人の足みたいに感覚がなかったから。
「おいおい、そのぐらいで倒れられちゃ困るよ。今のは威嚇《いかく》のつもりだったんだぜ。あんな魔力をぶつけただけの衝撃を弾けないでどうするんだ、少年」
赤いコートの青年は、演説をするように両手を広げて歩いてくる。
幹也は何も言えず、階段に這いつくばったまま、自身の血を眺めていた。
倒れたコップからこぼれていく水のように、赤い血は流れていく。段々と意識が朦朧《もうろう》としていくのは、その赤色があまりに毒々しいからではなく、単純に生命活動に必要なだけの血液が失われつつあるからだろう。
「それとも君も造るのが専門な訳かな。だが自分の身一つ守れないようでは魔術師とは呼べないぞ。
......ふむ、どうやらアオザキは師としてはあまり優秀ではないようだね。---そう、そもそも彼女は欠陥だらけなのさ。知ってるかい?我々の協会ではね、最高位の術者には色を冠した称号が与えられる。中でも原色である三色はその時代最高の証だ。
アオザキはその名の通り|青《ブルー》の称号を貰いたかったのだろう。だが協会は与えなかった。自分の妹に家の相続権を奪われ、その復讐の為に協会に入ったような女に純粋な色は似合わない。皮肉な事にね、アオザキはその名に反する赤の位を受けたのさ。自身の名前と同じ俗な色だ。橙色の魔術師に相応しい色! 原色の赤になりきれない傷んだ赤色さ。くく、なんともあの女にぴったりの称号じゃないか!」
赤いコートの青年は、階段に到着した。
血を流して階段に倒れ伏す黒桐幹也を見下ろして、満足げな笑みを浮かべる。
「師と同じ場所で果てるのも因果だね。アオザキの弟子だというから、何かよからぬ事でもやってくるかと思ったのだが。まったく、とんだ拍子抜けだ」
笑いながら青年は手を伸ばす。ゆっくりと、倒れこんだ少年の顔を掴もうと身を屈める。
そのゆったりとした動作とは正反対に、突如、黒桐幹也の体が跳ね起きた。
「むっ----!?」
驚きのあまり、青年の思考は一瞬だけ真っ白になった。
その隙を衝くように、幹也はザッと上半身をバネのように起こして、体の下に隠していた銀のナイフを青年へと突きいれる!
黒桐幹也は、使う事はないだろうと用意していた蒼崎橙子のぺーパーナイフを、力任せに青年へと突き刺した。
生まれてはじめての殺意的な行為故か、少年は両目をつむって、何かに耐えるように歯を食いしばった。
幹也のナイフを持った両手には、確かに何かを突き刺した感触がある。
油断して、何事か判らない文句を口にしていた赤いコートの青年に、この突然の反撃を躱《かわ》す事は出来なかった筈だ。
......ひどい怪我になっていなければいいけど、とおぼろげな意識で幹也は目を開ける。
けれど。
足からの出血の為に白濁していく彼の意識が捉えた最後の映像は、突き出されたナイフを手の平で食い止めている青年の姿だった。
伸ばした腕の手の平に、深々とナイフが突き刺さっている。青年はにやりとした、悪魔じみた貌《かお》をしていた。
---------。
---------------。
---------------------。
わずかな、間。
「ひどい事をするな、君は。人を刺すなんて危ないだろ」
言って、もう片方の腕を青年は伸ばす。
腕は黒桐幹也の顔を鷲掴みにすると、そのまま力任せに階段に打ち付けた。
後頭部を、階段の段差の部分に打ち付ける。一度打ち付けた後わずかに持ち上げて、さらに打ち付けた。
何度も何度も、ぜんまいで動く人形のように繰り返す。
「危ないな、危ないな、危ないな、危ないな、危ないな、危ないな、危ないな、危ないな、危ないな、危ないな」
がん、がん、と打ち付ける音と、喋り声だけがロビーに響く。
しばらくそうして、黒桐幹也という少年の呼吸がとても小さな物になった事に気がついて、青年はようやく腕を離して立ち上がった。
「ああ、痛かった。どのくらい痛かったかというとね、涙が出るぐらい痛かった。君もね、長生きしたかったら人が嫌がる事をしちゃダメだぜ」
苛立たしげに手の平に刺さったナイフを引き抜くと、赤いコートの青年は自分の言葉にまったくだ、と本心から感心して頷いた。
「さて---事は済んだ。アラヤの研究成果に興味はあるが、やはり本国に帰る事にしよう。この国の空気は淀んでいて我慢ならない」
動かなくなった黒桐幹也に背を向けて、青年は歩きだす。
中央のロビーに続く、ただ一本の細い通路へ。
けれどその前に、彼は予想だにしていなかった物を視界に収めて立ち止まる。いや、立ち止まってしまった。
かつん、かつん、と何かの足音が通路から聞こえてくる。
青年---コルネリウス?アルバは信じられないモノを見て、よろよろと後じさった。
甲高い足音を響かせてロビーにやってきた人物は、昨日ここに訪れた人物そのものだったから。
信じられん、と青年は息を呑む。
大きすぎる鞄を片手に持って、死んだはずの蒼崎橙子がそこにいる-----。
/15
「おまえは死んだはずだ、なんてお決まりの台詞だけはよしてくれよコルネリウス。器が知れるぞ。あまり、私を失望させないでくれ」
どこか優しさを含んだ声で、静かに蒼崎橙子はそう言った。
赤いコートの青年---アルバは言葉も無くその姿を見つめている。......その体を、怖れで微かに震わせて。
橙子はロビーにまでやってくると、よいしょ、と鞄を床に置いた。......それだけが昨日とは違う。昨日の鞄はアタッシュケースなみの大きさだったが、今彼女が持ってきた鞄は遥かに大きい。旅行にでも出かけるような、人一人は押し込めるほどの大きい鞄だった。
「---急いだつもりだったが、間に合わなかったか。黒桐は私の弟子ではないと言ったがね、アレは訂正させてもらうよ。それに教える事なぞ一つもないが、私の身内である事には変わりはない」
「おまえ---おまえは死んだはずだ。確かにこの手で息の根を止めてやった!」
橙子の声など聞かず、アルバは両手を握り締めて叫んだ。目前の橙子なぞ認めない。これは何かの間違いだ、と駄々をこねる子供のように。
内面の混乱を必死に覆い隠そうとするアルバとは対照的に、橙子はあくまで冷静だった。血走った眼で睨んでくる赤いコートの青年をまるっきり無視して、ポケットから煙草を取り出す。
アルバは、橙子が橙子らしく振る舞えば振る舞うほど、自身の背筋に走る悪寒を止められない。
堪《たま》らなくなって、彼は吠えた。
「おまえがここにいる事はありえない。これは何かの間違いだ。迷ったか、アオザキ。何が現世に残留しているかは知らぬが、死者は死者らしくあちらに行けっ!」
アルバは血に濡れた腕を横一文字に振るう。
黒桐幹也に刺された手の平から血が飛び散り、それは大気に触れるとガソリンのように燃え上がった。魔術師自身の血と怨念による目に見える呪い。それは火の姿となってありえない筈の敵を包み込む。
だが。一瞬だけの炎は、蒼崎橙子を取り囲みはしたものの、彼女には近寄る事もできずに消えた。
橙子は髪を軽くかきあげると、口にくわえた煙草に火をつける。
「死者はこちらにいてはいけないのか。ならこのマンションはまるごと矛盾に満ちているぞ。生きているのなら死体も何もないと私は思うがね。生者と死者の違いなんてのは、そう。煙草が旨いかどうかの違いだろ」
そう言って、燈子はああ、と大きく頷いた。
「そうか。それはそれで大きな違いだ。こいつに味がないのでは、生きていてもしようがないものね」
くすくすと橙子は笑う。
そのあまりの自然さを前にして、ようやくアルバは理解できた。目の前に立つ女は間違いなく生きていて、以前と寸分も変わらぬ本物だという事を。
だからこそ、彼は同じ疑問を繰り返す。今、自身が前にしている現実を理解できても、その答えが彼にはまったく解らないのだから。
「---おまえは、死んだ筈だ」
青年の言葉に、橙子は不愉快そうに眉をよせた。
その台詞はいいかげん聞き飽きた、と琥珀の瞳が告げている。
「ああ、たしかに死んだ。肉体は完膚なきまでに破壊され、魂がつなぎ止められている核たる頭部も、おまえの手によって潰された。アレを死と呼ばずして何と呼ぶ」
「ならば、ここにいるおまえはなんだ!」
「決まっているじゃないか。蒼崎橙子の替わりだよ」
すんなりと、彼女は答えた。
青年は相手のあまりの素直さに惚けて、口をだらしなく開けている--。
「代わり......? 貴様、人形か!」
自ら口にして、否《いな》、とアルバは思い留まった。
彼とて人形作りに関しては並ぶものがないと称された創造手だ。人間と同じように動く自動人形といえど、人と物の違いは一目で看破できる。
いかに外見を精巧に人に似せようと、中身の構造はごまかせない。作り物の体は、血液の流れから筋肉の繊維にいたるまで不出来なのだ。人間のする事はいくらでも真似できるが、人と同じモノには絶対になれない。
人間を超える人型は造れても、決して人間と同じモノは作れない----それが魔術がもっとも力を誇っていた栄光の時代、中世の時に下された絶対の法則なのだ。
だというのに、目の前の蒼崎橙子は間違いなく人間だった。人形が人形として機能する為の機構は、人形であるがゆえに隠せない。しかしこの橙子にはそんな不出来な部分がまったくない。
結論として。ここに立つ蒼崎橙子は紛れもない本物である。ならば----
「そうか、では殺した方が作り物だったのか......!」
「自分に嘘をつくのは良くないぞ、コルネリウス。おまえは作り物を相手に本気を出していたわけではあるまい」
「む---確かに、アレは本物だった。疑いようもなくアオザキ、君自身だった。だがそれでは矛盾する。以前のおまえと今のおまえ、そのどちらも本物だと言うのか。ならば、その矛盾にどう説明をつけると言う!」
アルバは叫び、そして---その解答に辿り着いた。
彼はぶんぶんと首を振る。
信じられない。いや、そんな事はありえない。
......しかし、それ以外に説明はつかないし---それならばこの状況が有り得るのだ。
だが、とアルバはもう一度問いかける。
そんな事が、本当に有り得るのだろうか?
「アオザキ。君は、まさか----」
「ご名答。以前の私もこの私も、同じ作り物さ。私はね、アルバ。私自身でさえ、いつ本物とすり替わったか判らないんだ」
にやり、と---この上なく邪悪な微笑みをうかべて、オレンジ色の魔術師は言った。
「な----それこそ、それこそありえん! ではおまえは何だ? オリジナルではないのか? オリジナルはいないのか? だがおまえは自身をアオザキトウコだと名乗っているではないか! 確固たる自我をもつ知能が、自身を偽物と認識して正常に稼働できる筈がない。偽物は、自身を偽物と認識できる知性を持つが故に自己の存在に耐えられず、自我によって押し潰され自滅する。それが道理だ。だというのに、おまえは、自身を作り物と認めているのに......!」