饭饭TXT > 海外名作 > 《空の境界/空之境界(日文版)》作者:[日]奈須きのこ/奈须きのこ【完结】 > 空の境界@txtnovel.com.txt

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作者:日-奈須きのこ/奈须きのこ 当前章节:15506 字 更新时间:2026-6-15 18:51

「自身を偽物と知れば崩壊する、か。そんな知能は二流だよ。それにね、おまえの杞憂は私には遠い。私の体は作り物だが、蒼崎橙子自身は唯一の存在だ。ふん、あまり時間はないのだがね、土産だ。少し講義をしてやろう」

 先程までの穏やかさとは一変した冷たい視線で彼女はアルバを見た。

「いいか、今の私は工房に保管してあったものだ。おまえによって蒼崎橙子が完全に殺された時点で目が覚めた。だから、私は生後一時間という事になる。蒼崎橙子は人形師だ。私は何年か前、ある実験の過程で自身と寸分違わぬ人形を作り上げた。自分以上の能力を持つわけでもなく、自分以下でもないまったく同一の性能をもった器だ。それを見てね、蒼崎橙子は思ったんだ。これがあるのなら、今の自分は必要ないんじゃないか、とね」

 人形師の告白に、アルバは息を呑む。

 なんだそれは、と彼は耳を疑う。

 それではまるっきり反対だ。自分と同格の人形を作れたのを喜ぶのなら解る。だが、あくまで自分が創造した作り物にすぎぬ人形に、自らの存在を譲り渡してもいいと思うなど--。

「馬鹿な。それはあくまで過程だ。仮に、君に人間とまったく同一の人形が作れたと仮定してもだ。それが出来たのなら、我々はさらに上の段階を目指すはずだ。魔術師ならば、現状になど満足しない!」

「だからさ。私とまったく同じ人形なら、私がいなくなった後も、私と同じように次の段階へ進むだろう。ほら---私がいなくても、結果は何も変わらない」

 青年はただ息を呑む。

 彼は長く惚《ほう》けた後、否《いな》、と首を振った。

「それは理屈だ! 自身を---絶対の自我たる己は、理屈では捨てられない! 私は、私だからこそ私を残すのだ。私と同じモノがいて、たとえ結果が同じでも、そんな私でないものにコルネリウス?アルバという存在は譲れん! 歴史に名前が残るのが重要なのではない。歴史に名が残る私を、私が観測できなければ意味がないではないか!」

 アルバは自らの胸を抱きながら、目の前の人形師に反論する。......そうしなければ全てが否定されると彼の本能が告げていた。

 あくまで自己にこだわる自分と、自己を切り捨て存在を選んだ橙子......その違いこそが凡人とそうでないモノを分かつ絶望的なまでの壁なのだ、と認めるワケにはいかないが故に。

「考え方の違いだな、アルバ。それを責めはしないし、私はおまえが羨ましい。私が、いつそうなったかは判らない。私本人も判らないんだ。

 私は、活動していた私が死亡した時点で目覚めた。さっきの橙子が得た知識は記録されているから、引き継げば以前となんら変わりはない。この後、私は自身とまったく同じ人形を作ってまた眠りにつくだろう。

 同じ人形を作る、という時点で私は間違いなく本物だ。だがね、さっき殺された私は、本当はオリジナルだったかもしれない。いや、オリジナルは私でさえ知らない所で今も眠っているのかもしれない。だが、何もかも同じ器なのだから、それを見分ける方法はすでにない。

 かもしれない、ばかりさ。けれどそれが真実だ。箱を開けるまで生きているか死んでいるか判らない猫と同じだ。大事なのは今起きている現実だろう? ならばこそ--私は間違いなく蒼崎橙子だ。わかりやすく言ってやれば、私がここに居る以上、さっきおまえが壊したモノは偽物という事だよ」

 さて、と彼女は床に置いた鞄に手を伸ばす。

 アルバは、愕然と、自分とは遠すぎる相手を見つめていた。

「......そうか。アラヤはおまえを生かしておいたのではない。生きているかぎり、おまえは次のおまえにスイッチが入らないから--」

 橙子は答えない。

 ただ冷淡な眼差しを赤いコートの青年に向けている。

 アルバはもうずっと止まらない悪寒に耐えきれず、自らの両手で自身を抱いた。......寒気は、よけいに強くなる一方だった。

 橙子の目は、機械のようだ。何の感情もないくせに、はっきりと殺意を込めてこちらを見つめている。

 彼女のそんな眼差しを、アルバは知らない。学院時代にも見た事がない。

 不意に--思った。今まで自分が知っていた蒼崎橙子という人間は、本当に本物だったのだろうか。

 ここにこうして無言で佇む姿こそ、隠しようのない本来の彼女自身の姿ではないのか。

 感情もなく自己もなく。何よりも魔術師然とした、存在の一つのカタチ。

 そう思った瞬間に、今まで彼が抱いていた蒼崎橙子だったものへの復讐の念が崩れていった。

 今まで、自分は一体何に対してあんなにも妄念を抱いていたのだろうか。今までの自分は、本当に蒼崎橙子という人物を憎んでいたのだろうか。......少なくとも、彼の知っていた蒼崎橙子は違う。こんな、魔術師であるならば卓越すればするほど捨てきれない自己という唯一性を、簡単に捨て去るような怪物ではなかったはずだ。

 そう、彼が出会っていたトウコはもっと人間らしくて、自分はいつもそんな彼女を意識していたというのに。

「おまえは----本物か?」

 アルバは知らず---別れた恋人にすがるような瞳で、震えながら呟いた。

 彼女はくく、と笑う。

「おまえさ。この私に対して、その質問になんの意味があるんだい?」

 冷たい、玲瓏《れいろう》すぎる美貌のままで。

   ◇

 橙子は指に挟んだ煙草を、もう一度口へと運ぶ。

 無駄話はここまでだ、とその瞳が言っていた。

「さて、本題に戻ろうか。いいかげんうちの坊やの命が危ない。おまえが好き勝手いたぶってから、一時間ほど経過してしまったからな」

「な---に?」

 あれから一時間---?そういえば、橙子は首を潰されてから目覚めた、といった。

彼女が眠っていたのが自分の工房だとすると、確かにこのマンションを訪れるまでに一時間はかかる。こんなに早く、数分足らずでやってこれる筈がない。

 ふと、アルバは階段に倒れ伏す少年を見てみた。

 ......足の傷は相変わらずだ。しかし---自分が何度も打ち付けた後頭部からの出血はない。この少年は、純粋に足からの出血によって意識を失っているにすぎない---。

「馬鹿な.........どんな魔法を使った、アオザキ」

 力なく青年は間いただす。

 彼はすでに活力をなくしていた。魔術師としての違いを見せつけられたアルバに、橙子を攻撃する意志など持ち得る筈がない。

「魔術師が無闇に魔法などと口にしてはいけないな。私がこのロビーに来るのは三度目だぞ。ここだけは私が一から建設させた結界だ。万が一の用心に、多少のトリックは用意しておいたさ。たとえば、おまえが黒桐の反撃に驚いて思考を真っ白にしていた時に、軽くおまえの意識に介入してみるとかね」

「あの時、か----」

 悔しげにアルバはうなる。確かに少年のナイフを手の平で受けとめた後、言いようのないおかしな空白があった。

 あの時から自分は夢でも見せられていたのだろう。ただぼんやりと、術者である橙子が訪れるまで立ち尽くしていたに違いない。

「はは、ははは----なるほど。初めから手の平の上というわけか。さぞ楽しかっただろうね、アオザキ。認めたくないが......やはり、私は初めから道化だったらしい」

「そうでもないさ。私だって殺されるはめになるとは思っていなかったし、殺された復讐をしようなんて考えもない。私がここにもう一度やってきた理由は別のモノだ。黒桐の件はついでにすぎない」

 足元に置いた鞄を、橙子はばたりと地面に倒した。

 大きすぎる鞄は、倒れてもあまり形は変わらない。ほぽ完壁な立方体の鞄を、アルバは何かに似ているな、と思った。

「......殺された復讐ではない、と言うのか。では何をしにきた、アオザキ。魔術師として、禁断の実験を行なおうとするアラヤを阻止しにきたとでもいうのかね」

「それこそまさかだ。アレはどうやっても成功しない。私はね、アルバ。本当におまえにだけ用があるんだ」

 だろうな、と赤いコートの青年は頷いた。

 だが解らない。蒼崎橙子は、殺された事による恨みはないと言っている。そして彼らの実験を邪魔する意志もない、と。

 なら---一体どんな理由で、この女は自分にこんなにも冷たい殺意を向けるのだろう?

「......なぜだ。私が、君に何かしたか?」

「別に何も。生きていく以上、憎み憎まれるのは覚悟の上だ。実を言うとね、学院時代からのおまえの憎しみも悪くはなかった。それは蒼崎橙子という私が優れている証だから」

「ならば、なぜ」

「簡単だ。おまえは、私をあの名で呼んだ」

 ばたん、と音がした。

 橙子の足元の鞄が開いた音である。

 大きな鞄の中身は、それこそ闇だ。電灯の光も届かない固体としての闇が、鞄の中につまっている。

 その中に、二つ、ある。

「学院時代からの決まりでね。私を傷んだ赤色と呼んだ者は、例外なくブチ殺している」

 鞄の中には、光る、

-----二つの、目が。

 なるほど、とアルバは頷いた。

 先程この鞄を見て、自分は何かに似ていると思った。実にシンプルだ。どうして、それに気がつかなかったのか。

 鞄というには大きすぎる立方体。それは神話に出てくる、魔物を封じ込めた|匣《はこ》そのものの姿ではないか。

 かくして、匣から現れたエタイの知れない黒い生き物は茨《いばら》のような触手を伸ばして、コルネリウス?アルバを掴まえた。

 そのまま匣に引き込まれ、足から何千という小さな口に咀嚼《そしゃく》されていく。ばりばりと生きたまま食べられていく。消滅の直前、首だけになった彼は超然と見下ろす人形師と目があった。

 この、おぞましい死を迎える私を見て、彼女の瞳は嗤《わら》っていた。

 それだけで、彼は敵うはずがなかったのだ、と後悔した。

 アラヤと交わした最後の言葉が思い出される。ヤツは、コルネリウス?アルバがこうなる事を予期していたのだろう。

 脳髄の最後の欠片が咀嚼される。

 ......自分は失敗した。

 こんな怪物どもと、関わるべきではなかったのだ。

 --それが、赤いコートの魔術師の最後の思考だった。

   /16

 エレベーターが上がっていく。

 誰もいない小さな|筐《ハコ》の中で、臙条巴は壁にもたれ掛かって虚空を睨んでいた。

 巴の呼吸は荒い。

 独りでにもげてしまった彼の片腕。血を止める為に傷口を焼いた事により、神経は気が狂わんばかりの痛みを告げ。頭の中は長い間遠ざけていた真実を目のあたりにし、支離滅裂になって自分が何を思っているのかもあやふやになっている。

 心も体も限界を突破しようとしている事ぐらいしか、巴は考えつかない。

 上がっていく昇降機の中、呼吸だけは整えようと深呼吸を繰り返す。

 今日に限って使い慣れたはずのエレベーターは遅く感じられた。 じれったくなるほどゆっくりと、工レベーターは十階を目指していく。

 途中---巴は手にした刀を手放した。

 からん、とエレベーターの床に日本刀が横たわる。

 刀というやつは思ったより重くて、数分も持っているだけで腕が痺れてくる。まだ両腕があった頃なら振り回せただろうが、片腕となった今の巴では鞘から刀を抜く事もできない。片腕の自分にはナイフだけのほうが幾分マシだと、残った右腕でしっかりとナイフを握り締めた。

 エレベーターが止まる。

 十階に着いたのだ。

 両側に開いていく扉を抜けて、巴はロビーに出た。

 目の前には東棟に続く通路があり、死角になっているエレベーターの裏側には西棟へ続く通路がある。

 巴は明かりのない、本当の死体が放置されている西棟へと向かう。

 エレベーターの裏側にまわって、マンションの外周をぐるりと囲む廊下に出る。

 時刻はじき、夜の十一時になろうとしていた。

 廊下から見下ろす夜景は静かで、寂しい。マンションの周囲にあるのは同じ形をしたマンションだけだ。マンションとマンションの間にはアスファルトの道路と、緑の庭が点々と広がっている。

 その様は、夜景というよりは緑に囲まれた墓標の群れを思わせた。

 ふう、と深く息を吐く。

 彼の意識は眼下の夜景に向けられていたが、たった今そこに現れた人物を確かに感じていた。

 だから大きく呼吸をして、乱れていた意識を一つに纏める。

 巴はナイフを握って、なだらかに楕円を描く廊下へと振り向いた。

 明かりのない闇、月明かりさえ微弱な渡り廊下。巴から二部屋ほど離れたその場所に、黒い外套の姿があった。

 影だけでも判る、がっしりとした骨格と長身。

 永遠に消える事はないであろう、貌に刻まれた苦悩の色。

 魔術師、荒耶宗蓮がそこにいる----。

 魔術師と対峙した瞬間、臙条巴は凍りついた。

 あれほど乱れていた呼吸も、あれほど痛かった肉体も、まるで終わってしまったかのように静かになった。

 目の前で佇む相手がたまらなく恐ろしくて、意識さえも凍っていく。

 何も、できない。

 ---だが。彼は、それをむしろありがたく思った。先程までに千々に乱れていた心が、何の濁りもなく綺麗に平坦になっていくのだから。

「アラヤ」

 荒耶という絶対者を前にして、巴は完全に自由を失っていた。なのに、何も出来ない筈なのに、彼は言葉をあげた。

 言葉を交わすという事は、対等であるという証でもある。今の彼は以前のように、荒耶宗蓮を畏れるだけのモノではなかった。

 その事実に、魔術師は面持ちをさらに厳しく曇らせる。

「なぜ戻ってきた」

 魔術師は、重い声で問うた。

 巴は答えられず、ただ、荒耶を見つめ続ける。答える余裕なぞない。気力を振り絞っていなければ、この魔術師と正面から見つめ合う事などできないのだから。

「ここにおまえの居場所はない。臙条巴の代わりは用意されている。おまえはこの螺旋からはみ出したものだ。再び戻る意味はない」

 およそ光というものがない目で、魔術師は問いただす。

 ......たしかに自分はここから逃げ出した、と巴は思う。

 けれど戻ってきた。何の為に? そう、一度目は両儀に連れられてだ。そして今は、きっと---

「両儀式を救う為か。愚かな。おまえのその心は、臙条巴のものではない。まだ気がつかぬとは、所詮は人形。この螺旋から外れれば正常には機能せぬか」

「え......?」

「確かにおまえはこの螺旋から抜け出した。だがその後、自害することも判っていた。家族によって死亡するものは、家族を因として死ぬものだからだ。おまえは自分の家から抜け出し、自暴していた。あのままに捨ておけば死んでいただろう。だが、それでは外界におまえという異常が漏れる。それならば---私は、おまえに違った役割を与える事で生かす事にした。今夜も死亡したであろう本来の臙条巴とは別の臙条巴として。その役割---解らぬか?」

 嘘だ、と巴は叫んだ。

 けれどそれは声にならず、彼は、ただ立ち尽くしているだけだった。

 魔術師は表情を変えない。目玉だけが嘲笑《あざわら》うように歪んでいる。

「そうだ。これは私にとっては重要性の小さい賭けだった。いずれ誘い込むつもりだったが、事は神秘のままで行なうのが理想である。私を知らぬおまえ、私とはなんら関連をもたぬ臙条巴が自分から両儀式を連れてくるのならば、それに越した事はない。

 アテになどしていなかったが、おまえは見事に引きあてた。その報酬として逃がしてやったというのに、もう一度戻ってくるとはな。思い上がりもはなはだしい。おまえは自分の意志で両儀式に惹かれたのではない。私が逃げ出したおまえに付け加えた事実はただ一つ。それは両儀式に関心を持つ、という無意識下のすり込みだ」

 臙条巴の足元から力が抜けていく。

 荒耶の言う事には、反論する術《すべ》がない。

 だってそうだ。今まで他人を本気で好きになった事がない自分が、どうして両儀にだけあんなに関心を持ったのだろう? 初めて会った時から、何かが自身に命じていたのだ。あの少女を観察しろ、あの少女と関わりを持て、と。

「理解したか。おまえは何一つ自らの意志で決めたのではない。ただ私の思惑どおりに両儀式を連れて来たのみよ。そも、おまえの肉体にあるのは我が|世界《ラセン》で行なわれる一日の記憶だけだ。この一日より以前の記憶も、以後の記憶も存在しない。

 おまえの意志は幻想より生じ幻想によって活かされていたにすぎぬ。この世界で最期を迎えた臙条巴は、すでにここでしか生きられない。故に、おまえには何もできない。何もできないからこそ、両儀を呼び出す役として遊ばせた。何も出来ない者ならば--何をしても支障には成り得ぬであろう」

 魔術師の発言は、それこそ呪文だった。

 巴は急速に思い出す。自分が作られたもの、このマンションで起きえた一日分の記憶だけを持って、それを頼りに過去と未来を幻想していただけにすぎない事を。

 両儀式への思いも、死んでしまった両親への思いも、全て---今の自分から捏造されたものにすぎない。臙条巴という、生まれてから今までを過ごした人間が思ったものではなく。ただ、その芝居をしていた一日だけの自分が思った、年月のない薄すぎる思いなのだ。

 ......はたして、それは本物なのだろうか。

 自分は初めからあり得ない者だった。この螺旋からも外れた自分には、どこにも居場所というものがない。

「作り物のおまえは、所詮、まがい物でしか有り得ないのだ。引導を渡してやる価値もない。どこへなりと消え去るがよい」

 語るべき事を語り、魔術師はこの臙条巴から一切の関心を無くした。

 荒耶は巴から目を逸らす。

 けれど---全ての意義を破壊された筈の彼は、笑みさえ浮かべて魔術師を見つめていた。

「......なんだ、|荒耶《オマエ》、たいした事ないじゃないか」

 それは強がりだったけれど---魔術師の鋼の心に|罅《ヒビ》を入れるぐらい、このうえなく潔い強がりだった。

「......おまえみたいなのを前にして、やっとわかった。俺は今まで、おまえみたいに弱い部分を認められなかったから、ずっと間違えちまったんだ。

 けどな、物事に偽物なんてない。本物も偽物も、結局はあとからくるものにすぎないじゃないか。一日だけだというけど---俺は、臙条巴である以上、きちんとした過去があった臙条巴なんだ。俺には過去がないけど、こんなにも強い思いが巴にはある。なら、それでいいんだよ」

 ぎり、と歯を噛み締める音がした。それは彼が鳴らした力、立ち向かおうとする強い意志。

「......俺は、両儀が本当に好きだった。理由なんてしらない。あいつと過ごせて、何も残せなかったけど、それだけで楽しかった。だから--きっかけをくれたのがおまえだっていうなら、感謝ぐらいはしてやるさ」

 今、本当の意味で魔術師と対峙して、巴はちぇっ、と舌を鳴らした。

 ......好きだった、か。今でもきっと惹かれてる。ずっと、ずっとこの先もあいつを思えば荒んだ心が癒されるだろう。

 こういうのを愛しているというのかな、と思って、巴は舌を鳴らしたのだ。だって---それでも、こんなにも式を思っているのに、今はあいつが一番じゃないんだから。

 ここに来た理由は両儀を助けるためじゃない。

 黒桐という男に連れられて、昔の家を見た時に思い出したんだ。自分が知るはずのない過去、臙条巴という魂が忘れさらない日々の事を。

 ここにきた理由は、償いのため。臙条巴が当然のようにしなくてはいけない事を、俺はやらなくちゃいけない。

「わりぃな、両儀。俺は、おまえのために死んでやれねぇわ。俺はさ---俺のために、この命を懸けなくちゃいけねえみてえだ」

 呟いて、謝って。

 巴は、両儀式という少女の記憶を思考から消去した。

「俺は偽物か、アラヤ」

 強い意志がこめられた言葉に、魔術師は眉を怒らせる。

「---すでに、語るまでもない」

 あきらかに侮蔑の念をこめて、魔術師は返答した。

 巴はそうかもな、と素直に頷く。

 そこに迷いはない。

 彼は、明らかに魔術師と対等の存在としてそこにいた。

「......人形風情が悟ったつもりか。そんなものは魔境にすぎぬ。明鏡を得ようと止水に至ろうと、所詮その身が作り物である事実は変わりはしない」

「ああ。--それでも、この心は本物なんだよ」

 静かな言葉は、風に乗って夜に響いた。

 魔術師は片手を上げる。目前に片手を突き出すその姿勢は、荒耶宗蓮という男が相手を殲滅するべきものと認めたものだ。

 巴はそれを見て、かちかちと鳴る歯を必死に押さえ付けた。

 .........きっと殺される、と巴は思った。

 それでも、あの相手に一矢報いなくてはいけない。死ぬ為じゃなくて、とにかく、臙条巴は荒耶宗蓮に報復をしなくてはいけないのだ。

 今までないがしろにしていた両親の為に。

 今も、この世界で死に続けている誰かの為に。

 これは玉砕覚悟の特攻なんかじゃない。死にたくはないけれど、それでも、死ぬとわかっていてもやらなくちゃいけない事も、ある。

 ---俺は|巴《オレ》として、走りだすのだと決めたんだから。

 ......そう、それがどんなに辛いものでも。

 回る時計のように。めぐる季節のように。いつまでも、同じ場所に留まってはいられない。思いが、ここにちゃんと在るから。

 それはこの体が見ていた夢だったのか。それとも俺が見ていた夢だったのか。

 ......この体は偽物だけど。臙条巴が持っていた意志。臙条巴に宿っていた意志は本物だ。

 その為に------

「俺は---荒耶、おまえを殺す」

 ナイフを握りしめ、誰の為でもなく、臙条巴は走りだした。

   ◇

 臙条巴の狙いはただ一つ、荒耶宗蓮の中心だった。

 以前|式《しき》が迷うことなく突き刺した、魔術師の胸の中心。そこにナイフを突き刺せれば、あるいはこの怪物を倒せるかもしれない。

 とにかくそう信じて臙条巴は走る。

 魔術師までの距離はあの時の式と同じ、六メートルほど。この距離を全速力で走り抜ける。

 床を蹴る足に全神経をかたむけて、何度も何度も校庭で繰り返したスプリントよりもっと迅く、魔術師へと肉薄する。

 魔術師の周囲に円形の線が浮かび上がる。

 臙条巴を侮っている為か、線は一本しか浮かばなかった。式の時のように三重の線ではない。

 線は魔術師の目前、一メートルほどの所に|布《し》かれていた。

 臙条巴は、それを避ける術を知らない。

 正面から立ち向かった。

 体ががくん、と止まる。地面を蹴る爪先に、力そのものが入らない。

 本当に----何もできない。

 魔術師は苦悩に満ちた貌《かお》のまま、一歩前進した。

 この結果は判りきっていた、と言いたげな緩慢さで、動けない臙条巴へと近寄っていく。

 前に突き出した腕が、ゆっくりと、臙条巴の頭を掴もうと伸ばされた。

 やっぱりだめか、と臙条巴は目をつむる。

 けれど----視界が闇になった時、記憶が逆流した。本来なら臙条巴が体験しえなかったこの一月ばかりの記憶、オレがトモエとしてここに居た確かなものが、炸裂した。

「ここに------」

 臙条巴の体が力を込める。

 地面に張りついた足に満身の気迫を込める。

 足が千切れてもかまわない、と彼は思った。

 このままでは終われない。

 自分は、無価値ではないんだから。

「居たから----!」

 弾けた。

 片足が、音をたてて壊れた。

 そのおかげで----前のめりに崩れ落ちながら、臙条巴は前に進んだ。

 伸ばされた魔術師の腕をかい潜《くぐ》り、荒耶の無防備な胸が手の届く距離になる。

 トモエは叫ぶ。

「---そりゃあ、うちの家族はろくな連中じゃなかった。でも、こんなふうに殺されるほど、悪いヤツラじゃなかった。こんなふうに死んじまうほど、罪深くはなかったんだ......!」

 声は力になって、彼の腕を迸《ほとばし》らせた。

 ナイフが走る。

 銀色の軌跡を残して、刃は、深々と魔術師の胸に突き刺さった。

 けれど、ただそれだけの話だった。

「|戯《たわ》け」

 声と共に魔術師の屈強な腕が伸びる。

 臙条巴は頭を、がっしりと鷲掴みにされた。

「---両儀の魔眼はただ死を視るだけではない。捉えるからこそ意味がある。おまえが我が死を突こうが、視えていないものに死は突けぬわ」

 めきり、と魔術師の腕に力がこもる。

 臙条巴の腕から、ナイフがからりと床に落ちた。

「私がおまえを選んだ理由を、まだ語っていなかったな」

 臙条巴は答えない。

 魔術師の腕に把握された時から、生きる意志というものが根元から奪い尽くされてしまっているから。

「よいか。人間には存在の元となった現象がある。前世からの業ではなく、臙条巴という存在になった因。その混沌の衝動を我々は〝起源?と呼ぶ。

 おまえが母を殺し、自らに絶望した時に私が救ったのは、おまえの起源が実に明確だったからだ」

 臙条巴は答えない。

 魔術師は彼の体を高々と持ち上げると、あまりにも冷たい声でこう、告げた。

「最後に教えよう。おまえは何も成し得ない。

 なぜなら--おまえの起源は〝無価値?だからだ」

 魔術師の腕が振るわれる。

 臙条巴という形をした肉体は、その一振りによって完全に消滅した。

 粉々になって、首さえも残らず。初めからそうであったかのように、魔術師の言葉通り無価値に、塵となって虚無へと消えていった。

 ◇

 臙条巴だったものを破壊した後、魔術師は何をするでもなく廊下に留まっていた。

 頃合いが近い。昨日まで使用していた体から予備である今の体に移って半日。ようやくこの肉体の隅々にまで意識が通じるようになった。

 荒耶宗蓮は、どこぞの人形師のように自分とまったく同じモノを用意しておいて死んだわけではない。彼は未だ死というものを経験していないのだ。

 肉体は長い年月の果てに幾度か朽ち果てたが、そのたびに意識だけを継続して今まで生き長らえてきた。荒耶宗蓮はあくまで一人。この肉体が滅びれば、次こそ逃げ場はない。事は、慎重に行なわなければならなかった。

 だが、もはや待つまでもない。荒耶宗蓮という魂が持つ意志が、この何代目かの肉体を完全に支配下においた。肉体を動かす魔術回路の配線は爪先までおよび、魔術師はようやくこの仮初めの肉体を本物の肉体へと昇華したのだ。

 魔術師は本来の目的を果たすべく行動を開始する。

 けれどその前に、彼はマンション内における異変を感じ取った。

「----敗れたか、アルバ」

 感情なく呟いて、魔術師はその双眸を閉じた。

 明かりのない廊下の中、深い海の底に潜るように、荒耶は自身を昏睡させた。

 ◇

 眠りについた魔術師の意識は、体を十階に残したまま彼女の前に現れた。

 形もなく姿もなく、一階のロビーの様子を一望する。

 ......一階、東棟のロビーにいるのは蒼崎橙子と黒桐幹也という少年だった。

 蒼崎橙子は倒れ伏した少年を看病しており、そこにコルネリウス?アルバの姿はない。

 やはりこうなったか、と魔術師は頷いた。

 事の顛末を確認して、魔術師は意識を十階にある肉体へと引き戻す。

 だが、それを彼女は引き留めた。

「どこへ行く、荒耶。覗き見とは趣味が悪いぞ」

 居もしない魔術師の姿を見るように、蒼崎橙子は振り返る。

 彼女は階段の下。魔術師の形のない意識は階段の上。奇しくも以前と同じ位置で、二人は対峙する事となった。

〝......ふむ。なんらかの手段でアルバを処刑する事は判っていたが、もう一つ蒼崎橙子がいたとはな。私が貫いた心臓は紛れもなく本物だった。あれは人工物ではない。ならば、おまえは作り物か?

 声だけが響く。いや、それも音には成り得ていない。荒耶の言葉は、ただ蒼崎橙子にだけ届いている。

 魔術師の言葉に、彼女は一度だけ息をはいた。

「アルバといいおまえといい、くだらない事にこだわるな。そんな事はどうでもよかろう。初めに生まれたもの、その次に生まれたもの。ようはそれだけの事だ。一か二かの違いにすぎない事を、いつまでも問題にするな」

〝そのへらず口、確かにおまえは本物か。

---ならばもう一度この私と争うか?

「やんない。このマンションの中では私に勝ち目はないからな」

 きっばりと答えて、彼女は魔術師の意識から視線を外した。

 彼女にとっては荒耶宗蓮との問答より少年の傷の手当てのほうが重要らしく、コートの下から取り出した包帯を器用に少年の両膝にあてがっていく。

〝よいのか。そこに潜む魔物ならば、あるいは私を打倒しえるが?

「お断りだ。こいつは底無しでね、下手に放せばマンションそのものがなくなってしまう。そんな派手な事をすれば協会が黙っていない。今度は私が協会から追われる立場になるだろう。苦労して行方をくらましたっていうのに、自分から連中に発見されるようなマネはやらないよ」

 魔術師の声に答えはするものの、彼女はやはり視線を逸らしている。

「私は私が殺された時点で、この件に関しては敗北したんだ。いまさら手を出す気はない。式の脳を取り出すなり、その脱け殻に収まるなり好きにするがいい。......もし阻止するものがいるとしたら、それはきっと私じゃない」

〝この期に及んで抑止力に期待しているのか。だがアレは働かないと言ったはずだ?

 彼女は首を振る。そこには否定より、むしろ哀れみの色が感じられた。

「そうとも、抑止力はもう働かないさ。だから、おまえは今回ばかりは本当に成功するかもしれない。

 人間という存在を憎むおまえが根源に触れたとき、どういう結果になるかは知らない。大抵の魔術師なら根源に触れた後はあちらの世界にいって、私達のいる世界の事なんて忘れてしまうだろう。けれどおまえは違う。確実にこちら側に影を残して、結果としてこの国ぐらいは消えてしまうか。人間嫌いのおまえが本気で人間を救おうというのなら、それは苦しみ抜く末に到達する死でしか有り得ないだろうから。

 だがな荒耶。おまえは人間を憎んでいるんじゃない。おまえは、おまえの中の人間の理想像を愛しているだけなんだ。だからあまりに醜い苦界の人間が許せない。人を救う? は、笑わせるな。おまえは人を救いたいんじゃない。おまえは、荒耶宗蓮というものが幻想している人という形を救いたいだけなんだよ」

 彼女の言葉に、魔術師は答えない。

 二人の接点は、今度こそ本当に、一点の曇りもなく断ち切られた。

〝......言われるまでもない。救済とは所詮、一つの固定にすぎぬ。さらばだ蒼崎。根源に触れて私が私として残る確証はない。最後に私を阻んだ者がおまえであった事は、意味があるのだと信じよう?

 魔術師の意識が立ち去ろうとする。

 それに目を背けたまま見送ろうとして、彼女は唐突にある疑問に思い至った。

「待て荒耶。一つ尋ねる。このマンションの本来の目的は太極を取り込む為の、太極の体現だったな」

〝いかにも。両儀式を完全に外界から遮断する為に、私はこの異界を作り上げた。他の様々な機能は付属にすぎぬ?

 泰然とした魔術師の答えに、彼女は---ははは、と力なく笑ってしまった。

〝---何か??

 彼女の笑いに魔術師は声を荒立てる。

 蒼崎橙子は、我慢しきれない、とばかりに大きな声で笑いだした。

「そうか、この建物は一つの魔法だったな! 式を捕らえ、その後に協会にも私にも、そして世界にも気付かせないようにする為の閉じた世界、つまり檻だ。式をおまえのような目的で殺そうとする者が現れれば、世界はかならず抑止力を働かす。式を幽閉しているという事実を隠す為にこの異界は作られた。そこまではいい。そこまでは完壁だ。だが皮肉だな。荒耶、おまえは最後にとんでもない間違いを犯したぞ」

 魔術師の声はない。

 荒耶宗蓮はここまで言われて、いまだ彼女の本意が掴めなかった。

 魔術師は戸惑っている。......彼女が口にするほどの大きな間違いとやらが、どうやっても自身には思いつかないが故。

〝----間違いなど、ない?

 断言するその声に、迷いがないと誰が言おう。

 彼女は笑いをかみ殺しながら答える。

「ああ、おまえにはミスなどない。魔術師であるおまえにとって、これは最高の解答だからな。だが、その前提そのものが間違っているとしたらどうだ? 式を隔離した? このマンションのどこかの部屋でなく、このマンションそのものに隔離したんだろう? 空間遮断という、もはや魔法の域に達した結界。結界のエキスパートであるおまえならではの、おまえにしか出来ない神業だ。

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