|閉じられた輪《メビウス?リング》という密閉空間に閉じこめられた者は、中からでは決して外に出られない。どのような物理的衝撃をもってしても破壊できない壁で囲まれた閉じた世界は、脱出不可能な檻だ。そこに式を叩きこんだおまえは、それで安心しきってしまった。
確かに、それは完壁だ。けれどそんなものはアレには通用しない。魔術が文明社会において万能であるように、アレは私達のような概念に生きる者と相克《そうこく》する。私達は常識に対して脅威となるが--式は非常識に対しての死神なのだと、おまえは体験している筈なのにな!」
彼女の言葉に、魔術師の意識は凍結した。
確かに死を視るという両儀式は尋常ならざる存在だ。だが、ただ人を殺すだけの能力者などというモノは世界にごまんと存在する。生物を殺すだけの事ならば、文明が生み出した様々な近代兵器に勝てるはずがない。
そう、両儀式が魔術師である彼らにとってさえ異質なのは、そんな事では断じてない。
殺せるはずのないモノ、カタチのない概念さえも殺してしまう、究極の虚無こそがアレの本性だ。
〝死に至らしめるモノ?、それが両儀式の能力である。
出口のない無限に繋がる空間は、あらゆる兵器をもってしても干渉できない密閉世界だ。カタチがないから、形あるものとしか衝突できない物理兵器では触れる事さえできない。けれど--両儀式の力は、そういったカタチのないものをこそ対象とするものなのだ。
ならば-----?
「そう、式を閉じこめるのならコンクリート詰めにでもすれば良いんだ。あくまで少女の腕力しか持たない式を閉じこめるというのなら、単純に鉄の壁に囲まれた密室を用意するだけでいい。
荒耶宗蓮。おまえは魔術師であるが故に、魔術を絶対のものとして扱ってしまった。空間を閉じようが意味などない。そんな曖昧《あいまい》なもの、アレはたやすく食い破って出てくるぞ......!」
顔を背けていた彼女が、魔術師へと向き直る。
その瞳がどんな表情をしているかを知る前に、魔術師の意識は唐突に本来の肉体へと引き戻された。
◇
肉体に戻った魔術師は、自身の肉体の変調を感じとった。
体は冷えており、指先には痺れがある。
額には発汗。
内臓の一部が、機能を停止して危険を訴えている。
〝......斬られた、のか?
信じられん、と魔術師は微かにうなる。
だが真実だ。
たった今---荒耶宗蓮そのものといえるこのマンションの何処かが、ばっさりと断ち切られたのだ。
バターでも切るようにあっさりと、淀みなく、空間そのものがぱっくりと断ち切られた。
魔術師の意識が肉体を支配しているように、マンションという建物の活動をも、彼は己が意識と同調させていた。
この建物は彼の体内だ。電灯の配線は神経であり、水道の配管は血脈に等しい。その体内をばっさりと断ち切られた痛みは、無視できるものではなかった。
その証拠に----痛みによって魔術師の意識の集中は途切れ、彼は一階のロビーから肉体のある十階の廊下にまで戻らされた。......巨大な腕に引かれるかのように、抗う事もできず強制的に。
「.........なんだ、これは」
呟いて、彼は片手で額の汗を拭う。
背骨から蜘蛛が伝うような、さわさわと内臓に惨みいる寒気がある。
それが吐き気というものだと、彼は数百年ぶりに思い出した。
「何を畏れる----荒耶宗蓮」
自らの弱気を魔術師は叱咤する。
だが、肉体の異変が止まる事はなかった。
先程までこの体の隅々にまで行き渡っていた力が、今はない。肉体を動かすべく指令を送る魔術回路が、ぶつんぶつん、と指先から断線していく。
---死が、そこまで迫っている。
おーーーーーーーーーーーん。
不意に、音が聞こえてきた。
廊下の先、ロビーから響いてくる振動音は、紛れもなくエレベーターの駆動音だ。
何かが上がってくる。
ほどなくして音はやみ、扉の開く気配がした。
軽い、乾いた音がロビーに響いている。その音は下駄らしき履き物で、硬い床を歩くものだ。
|華蘭《カラン》、と足音が近付いてくる。
魔術師はロビーに通じる方角へ体を向けた。
信じがたいが、荒耶は認めたのだ。じき、ここにやってくる者が誰であるかという事を。
それは、すぐに現れた。
ロビーからの光を背にして、その姿は影にしか見えなかった。
白い着物と、不釣り合いな革製の上着。
濡れているかのように艶《つや》のある黒髪と、蒼く点《とも》る純黒の眼差し。
少女は、その手に一振りの刀を持っていた。
夜の闇のなか、鞘に納められた刀がすらりと引き抜かれる。無造作に抜いた刀を片手にさげたその姿は、戦場に佇む侍に似ている。
この上ない静謐と死の気配を引き連れて、両儀式がやってきた。
17/
式はマンションの渡り廊下に足を踏み入れると、そこで歩くのをやめた。
片手で持った刀を床に向けて、遠く離れた黒い魔術師を視界に収める。
両者の距離は三部屋分---数字にすると十メートルほども離れていた。
「解《げ》せぬ----如何にして破った、両儀式」
苦悩に満ちた顔つきのまま、魔術師は口にした。
それは彼の中ですでに何回も繰り返された疑問だ。黒い魔術師、荒耶宗蓮はその答えが判っているというのに、なお問い続ける。
どうやって幽閉空問から抜け出したかは、彼は十分に承知していた。昨夜---魔術師の一撃によってあばら骨を数本砕かれ、意識を失った少女。
閉ざされた空間、マンションの壁と壁の間にもうけた異界の中で目を覚ました彼女は、その腕でありえない空間の、ありえない壁を斬ったのだ。
無限は、「 」ではない。無限を無限たらしめるには有限を定めなくてはいけないのだ。有限がなければ無限など存在しない。物事には果てがあるから、無限という事柄が観測される。両儀式は放りこまれた無限の中で、ありえない有限を視つけだして断ち切った。
だが無論、無限の中には有限などない。存在しないものは斬れないが故に、あの檻は脱出が不可能なのである。
しかし--有限がなければ、無限はないのだ。有限の壁が無かったにせよ有ったにせよ、両儀式の前にはそんな果てのない世界など意味をなさない。
有限が本当になければ、それは無限などではなく「 」であり。有限を内包しているのなら、式はそれを視つけだして断ち切ってしまう。
......絶対の筈の黒い穴は、この相手にだけはただの狭い暗室にすぎなかったのだと、魔術師は自身を恥じた。
「だが---原因はあるはずだ。私が与えた傷はいまだ癒えていない。その体でなぜ動く。その傷でなぜ目覚めた。なぜ、あと数分足らずの時間を昏睡していなかったのだ」
苦悩に満ちた表情のまま、魔術師は声だけを荒立てる。
そう--この結界が無意味な物だったとしても、式が昏睡したままなら問題はなかったのだ。
ほんの数分。
式が目覚めるまでにあと数分あったのなら、事は終わっていただろう。
この女は、いま目覚めた。そこに外的要因はない。おそらく、式は眠りから覚めるような自然さで、当たり前のように目覚めたのだ。そして自身が幽閉されていると知り、ためらわずに壁を切り裂いた。
あえて言うのなら、運が悪かったとしか言いようがない。
蒼崎橙子との念話が時間をとらせたのか。いや、あの会話は一瞬のものだった。
ならば---余分な時間は、何処にあった?
魔術師は回想し、不愉快げに眉を怒らせる。
彼は手の平を一瞥した。それは数分前に臙条巴というモノを潰した腕。たった数分、しかし明暗を分けた数分。あれと関わった時間さえなければ、あるいは--
「臙条----巴か」
吐き出す言葉には怨嗟が籠もっていた。
けれど、それを両儀式は否定した。
自分の目覚めに臙条巴は無関係だ、と。
「オレは自分で勝手に目を覚ましたんだ。誰の助けも借りてない。臙条はここに来る意味なんてなかった」
静かな声で式は言う。
夜風が、さらさらと彼女の黒髪を揺らしていた。
「でも、おまえを破滅させたのは臙条だ。それだけは言っておく」
式の言葉に魔術師は瞳を細める。
荒耶宗蓮を破滅させるのは臙条巴だと、式は言った。
そのような事は断じてない。もし仮に自分を破滅させた要因があるとしたら、それは両儀式か蒼崎橙子のどちらかだ。
あの、ただ操られていただけの人形が因などと、断じて。
「妄言を。アレは何も成し得ていない。おまえを連れてくる事さえ、与えられた役割にすぎない。ただの一|傀儡《くぐつ》にすぎぬ」
「ああ、あいつは何もしてないし、何もできなかった。けどさ、おまえは初めからあいつを傀儡《くぐつ》にする気じゃなかっただろ」
む、と魔術師は言い淀んだ。
確かに、と荒耶は思う。
臙条巴が日常から脱出した時、彼はそれを利用できると考えた。予定外のイレギュラーを利用する事で、自身の計画に狂いを生じさせずに続行したのだ。
しかし--それは、初めから荒耶本人が立てた計画ではない。あくまで臙条巴が抜け出したからこそ生まれた二次的な計画だ。
それは、何かを成し得た、という事ではないのか。
本来ならば誰も気がつかないうちに全てを終わらせる筈の計画であったそれを乱した、ほんの些細な出来事であったとしても。
式は言う。
「おまえはあいつという予定のズレを見て、それを利用する事で良しとした。けど、その時点でおまえはもう穴だらけになっていたんだ。
あいつは---臙条巴は、この螺旋から抜け出した時点で、もう十分すぎるぐらい意味があったんだよ」
そして、彼女は一歩だけ前に出た。
その足捌《あしさば》きはあまりに自然で、魔術師は片手を上げる事さえできなかった。
何か違う、と魔術師は白い着物の少女を見つめる。
確かに今の式は昨夜とは心持ちが違っているだろう。臙条巴がすでに破壊されている事を知っている彼女は、荒耶宗蓮を憎んでいるのかもしれない。
だが、そんな変化は項末だ。ただの感情の変化などで個人の力量は変わらない。
だというのに、今、目前にいる相手は昨夜とは別のモノだと魔術師は感じ取っていた。
少女はさらに歩いてくる。
散歩するように気負いのない、自然な足取り。その中で式はつまらなそうに口をあけた。
「ああ、おまえなんかどうでもいいんだ。だけどこの先|煩《わずら》わしいのも御免だから、ここで殺すぜ」
式は眠そうな、力のない眼差しをする。
「けど初めてだ。オレ、ぜんぜんうれしくない。獲物を前にしても心が弾まない。おまえとならぎりぎりの所で殺し合えるってわかってるのに、笑えない」
かちゃり、と式の持つ刀が鳴る。
それは今までゆるく握っていた刀の柄を強く握り直した音だ。
歩きながら、式は静かに刀を前に......腰の位置にまで持っていく。
魔術師はゆっくりと片手を上げた。途端、その周囲に三重の円が描かれていく。
「---よかろう。生け捕りなど、初めから望むべきではなかったのだ。事は何も変わってはいない。うまく生き返らぬだろうが、その首をたたき落として自らの首とすげ替えよう。私は死ぬだろうが、根源に触れられるのならばこの命など---」
魔術師の言葉に答えず、式は歩みを止めなかった。
二人の間合いは段々と狭まっていく。
魔術師の三重の結界は直径にして四メートル。その外周にあとニメートルという所まで式は近付いていた。
式から放たれる殺気は、冬の夜気を夏の熱風へと変えていた。
静かに、廊下全てに流れゆく殺気は、魔術師の肌をチリチリと焼くかのようだ。
----だが、それでも。
魔術師は、式に敗れる事がないと判っていた。
彼女が手にしている刀が数百年もの歳月にたえた名刀である事も理解している。それでも、式の戦闘技術は自分には及ばないのだ。生け捕りにする事を考えなければ、荒耶宗蓮は式を近寄らせる事なく始末する自信があった。
式は結界の直前まで歩くと、ぴたりと足を止めた。
今まで片手で持っていた刀の柄に、そっともう一つの手を重ねる。
腰の重心は微かに低く。目前に構えた刀の柄は腹の前で固定し、刀身はゆるりと前方の敵へと傾いている。
構えは正眼---数ある剣術の流派で最も多く扱われ、基本にして最強と称される戦いの体勢。
式はそのままで魔術師と対時すると、眠たげな瞳をゆっくりと閉じて、なるほど、と頷いた。
「ああ、わかった。オレはおまえを殺したいんじゃない。ただ、おまえが『有る』のが我慢できないだけなんだ」
......それはきっと、巴を殺した相手への感情。
今までただ鋭いだけだった殺気が、明確な刃となって魔術師の全身を貫く。
それが、わずか一瞬だけの攻防となる、戦いの合図だった。
◇
カッ、と式は両目を開く。
魔術師は突き出した腕に力を込める。
この時。
----荒耶は戦意からではなく、ただ純粋に、畏れから式を殺さなければならないと直感した。
「---粛!」
荒耶の怒号は、間を置かずして空間を握り潰す悪魔の腕だ。彼は式の周囲の空間を睨み、そのまま風景ごと握り潰す。そこに一切のタイムラグはない。
叫び、腕を握り締められた瞬問に、式の敗北は決定的である。
だが。
荒耶は見た。
自身の叫びより遅く動きだした少女が、自身の叫びより早く活動するその異様を。
刀を持った両腕が跳ね上がる。それは閃光とさえ錯覚するほどの速度。上段に掲げられた刀は、なおもってそれ以上の素早さで振り下ろされた。
粛、という叫びが、
斬、という|刃音《ハオン》に両断された。
式を握り潰すはずの空間の歪みは、彼女の目前で、その歪みごと殺されたのだ。
魔術師は再度、腕に力を込める。
ただ手の平を開いて、握る。それだけの行動は、しかし。
両儀式の疾走の前では遅すぎた。
〝------?
荒耶は声もなく、思考さえ間に合わず、それを受け入れた。
両儀式は、文字通り弾けた。
歪みに一閃した体勢のまま、魔術師を一撃せんと走り寄る。
踏み出す前に、両儀式は刀を横一文字に薙ぎ切った。
魔術師が頼りにしていた結界は、それで霧散した。
......外周だけならば、むしろ一撃のもとに殺されてもよい、と荒耶は覚悟していた。もし接近されても第二陣を式が殺そうとする隙に、勝負を決しようと考えていた。
だがしかし---彼女は、ただの一振りで間合いの外の結界を二つ同時に消滅させた。
そして一歩踏み出す。
振るった刀が神速ならば、この歩法はいかなる速度か。
両儀式はわずか一歩で、四メートルもの間合いをゼロにした。
流れる体。踏み出した一歩は、同時に必殺の斬撃を繰り出す為の踏み込みとなる。迅すぎる彼女の体は、時間を止めているというより時間を逆行しているとさえ思えた。
斬撃が走る。
魔術師は後方に跳び退く。
両儀式は、刀を振り切った姿勢のままで魔術師を見つめていた。その唇から一筋、鮮血がこぼれ落ちる。彼女自身は傷を受けていない。ただ、昨夜の傷がが開いただけだ。数本の|肋《あばら》と内臓の幾つかが破損している両儀式の肉体は、歩くだけで血液を口から逆流させてしまう。
それほどの傷を負って、なお、これほどの斬舞なのだ。
跳び退いた魔術師の右腕が落ちる。いや、腕ではない。肩口から斜めに、胸ごと片腕が廊下に落ちた。
魔術師は---放たれた拳銃の弾丸でさえ、撃たれた後で躱せるだけの運動能力を持つ荒耶宗蓮は、完全に斬られた後に跳び退いたのだ。本人も斬られたと気がつかぬままで。
「----貴様、何者」
己の傷には目もくれず、魔術師は前方に件む相手を睨む。
......今の一撃は、まさに致命傷だったろう。式が二度目の斬撃で結界を二つではなく三つ殺していたのなら、荒耶の体は胴体から二つに両断されていた。
魔術師のもっとも身近な周囲を守る第一結界、不倶。その守りで彼女の踏み込みは微かに浅くなり、魔術師は致命傷を免れたのだ。
いや、驚くべきはそんな事ではない。
式は、完全に昨夜とは別物だった。
臙条巴を殺された怒りで本来以上の力を発揮したというのか。否、それは断じて否の筈だ。
魔術師は白い着物の少女を凝視する。
両儀式は姿勢を正すと、両手に持っていた刀を片手に持ち直す。......それだけで、少女は昨夜の少女に立ち戻っていた。
ごほ、と咳き込む口元には血の雫。昨夜の傷さえなければ、彼女は休む事なく魔術師へと斬りかかり、その首を刎ねていたかもしれない。
〝......なんと。武器による違いであったか?
荒耶は愕然とする。
式が別人となった理由。それは、極限まで鍛え上げられた戦闘意志の制御法に他ならない。
遥かな昔。侍達は刀を抜いた時点で、殺し殺される事を当然のように受け入れたという。それは武士としての心構えからではない。刀の柄を握った瞬間に、彼らは覚醒するのだ。
殺し合う為だけの肉体、生き残る為だけの頭脳に。
試合の前に気を引き締める、などというレベルの話ではない。彼らは刀を抜く事で脳の機能を切り替える。肉体を戦闘用に切り替えるのではない。脳が、肉体を戦闘用に作り変えるのだ。
かくして筋肉は生物が使用するべき方法ではない方法で活動し、血脈は血液の循環ルートを変えて呼吸さえさせなくなる。......そう、戦いに無駄な「人」としての機能は全て排除され、戦闘用の部品に全て切り替えられてしまう。
「---構え。自己暗示による変体とは驚いたぞ」
苦しげな魔術師の咳きに、着物の女はええ、と答えた。
......式が目を開いた瞬間、荒耶に走った畏れの正体がこれだ。魔術師は自らの蒙昧《もうまい》さを呪った。まさか、この業を現代まで伝えている一族があったとは。
荒耶は識っている。過去に存在した古流の剣客にとって、わずか三間程度の距離など無いに等しいという事を。おそらく先程の式ならば五間......九メートル程度の間合いさえ一歩で踏み込んできただろう。
誰もが、彼女の本来の姿を知らなかった。
両儀式は直死の魔眼とナイフによって戦う事が、彼女のスタイルだと決め付けられていた。しかし実際はこれだ。この女は、本来カタナを手にする殺人鬼なのだ。今の彼女に比べれば、普段の彼女など足元にも及ばない。
「......騙されたわ。浅上藤乃との殺し合いは、本気ではなかったという事か」
魔術師の言葉に、両儀式はいいえ、と首を振って否定した。
武器がなんであろうと、自分はつねに本気なのだと冷たい瞳が告げている。
その眼差しを受けて、魔術師は気がついた。
今---この女はなんと答えた?
ここにいる器はなんだ?
この相手は---いつからシキでなくなった?
「そうか......ようやく出会えたというわけか......!」
もはや傷口と呼ぶには巨大すぎる傷口を残った左腕で押さえながら、魔術師は吼える。
白い着物の女---両儀式は、これ以上ないという、女性的な微笑を浮かべた。
そのまま彼女は魔術師へと斬りかかる。
その斬撃を躱《かわ》す手段を、荒耶は持たない。
だがそれでも----ここは彼の体内なのだ。ここでの敗北は、荒耶宗蓮にはありえない。
たとえこのマンションごと破壊しても、今の両儀式は手に入れなくてはならないモノだ。
勝機を懸けて、魔術師は前進した。
「---蛇蝎《だかつ》......!」
魔術師の声が響く。
彼は残った左腕で、両儀式の刀を防ぐ。仏舎利《ぶっしゃり》を埋め込んだ彼の左腕は、この体にも健在なのだ。いかな両儀式といえど、聖人の加護を容易《たやす》く斬る事はできない。
同時に、斬り落とされた右腕がひとりでに跳ね上がる。腕は蛇のように床を滑り、両儀式の首元へと飛びかかった。
「---っ!」
万力のような腕が、両儀式の首を締めつける。
そのわずかな隙に、魔術師はさらに後へと|退《ひ》き、左腕を突き出した。
粛、と手の平が空間を圧縮する。
あらゆる方角から全身の骨を砕くかの勢いで、衝撃が両儀式の体に殺到した。
あ、という断末魔の声が漏れる。
革のジャンパーは千切れ、白い着物の少女が地面へと崩れ落ちた。
いや、落ちようとした。
---両儀式はあっさりと消えた。
けれど式は、この相手を逃がしたくなかった。
確実に意識がトンでいるというその状況で、白い姿が跳ね上がる。
彼女は、ただ、荒耶宗蓮の姿を直死した。
振るわれる一刀。
刀は魔術師の胸の中心に突き刺さる。
ぞぶり、と自らの命を吸われていく感覚を、魔術師は嫌悪した。
「---たわけ!」
同時に、荒耶はあろう事か式を蹴りつけた。
式の腹を踵《かかと》で蹴るという、槍のような中段蹴り。
それを式は跳び退いて回避する。
刀がずざりと抜け、荒耶は悟った。
この相手を止めるには-----
「---我が異界ごと、殺さねばならぬのか......!」
魔術師の左腕が開かれる。
三度目の空間の圧縮。それを一刀のもとに式は切り捨て、愕然と立ち尽くした。
---魔術師の姿が、黒い外套ごと消えていく。
式はそれを止めようとは思わなかった。
いかなる原理で魔術師がこの場から消えようとしているか、どうすれば阻止できるのか。そんな細かい事なんて、式は考えもしない。
逃げるのならスキにすればいい、と式は廊下の手摺りへと手をかける。
「---でも、絶対に逃がさない」
そのまま、彼女は外へと跳んだ。
◇
---荒耶は、マンションそのものを圧縮する事にした。
両儀式の肉体はそれで潰れるだろうが、外見などどうでもいい。人間として生命活動が維持される程度に肉体が残っていればよい。初めから頭はいらぬ。頭蓋が砕け脳漿が飛び散ろうと、その部分は自らの首とすげ替えるだけなのだから。大事なのはあの肉体。根元と繋がっている肉体のみだ。
片腕を断たれ、胸の中心まで貫かれたこの体とて、数刻と保つまい。根源の渦という、全ての始まりがある場所に到達できれば肉体など不要になるだろう。要はそれまで、自身の魂と両儀式の肉体が保てばよいのだ。
およそ考えられる限り最悪の形となったが、結局やるべき事は同じなのだ。失敗した時の為の保険がまったく無くなっただけの事。
......どのみち、この方法で至れぬのならば手詰まりなのだ。
荒耶は思う。
失敗を怖れる自身の弱さこそ、最大の敵であったのだ、と。初めから両儀式を殺しておけば、ここまで追い詰められる事などなかったのだから。
ともあれ、これで幕は下りる。
魔術師は自身の体内であるマンションから、体外である庭へと抜け出した。
緑の芝生に囲まれたマンションの庭は、結界の中にあるがマンションという建物の一部ではない。破壊しても、ここだけは影響を受けずに残るだろう。
庭に突如現れた魔術師は、空間転移から休む事なく片腕を突き出した。
夜空を見上げて、円形の塔を握り潰すために手の平を広げる。
瞬間。彼の体は、肩口から切断された。
◇
瞬間、彼の体は肩口から切断された。
「両儀---式」
夜空を見上げて、魔術師は呟いた。
「貴----様」
ごふ、と魔術師は口から赤い血を撒き散らす。
粉のような血液は、地面に雫る事もなく、彼に斬り付けた両儀式の顔を濡らす事もなく、風に乗って散っていった。
「---まさか、な」
信じられない、と彼は言った。
それも当然。庭に現れた魔術師が夜空を見上げた時、そこにあるのは十階から飛び降りてきた両儀式だったのだから。
この相手は----魔術師がマンションから庭に空間を接なげて移動しようとした刹那《せつな》、ためらう事なく十階の廊下から飛び降りたのだ。
そこにどんな確信があっての事なのか理解できない。理解できようはずがない。
たとえ本当に魔術師が庭に現れると予知していたとしても、十階から飛び降りようなどと誰が思おう。
それは無謀を通り越して、奇蹟と呼ばれる類の事だ。
十階から、ただ一人の人間めがけて飛び降りる? そんなもの、十階から一本の針を落として的に当てるのと何が違おう。
それでも、迷う事なく、この相手は飛び降りた。
まだ魔術師の姿が十階に残っているというのに、いまだ存在しない庭に立つ荒耶宗蓮めがけて飛び降りたのだ。
そうして、魔術師は現れた瞬間に断ち切られた。
マンションを潰す為に突き出した左腕を咄嵯に盾としたが、それごと肩□から腰まで両断された。左腕に埋め込んだ仏舎利の加護といえど、十階分の落下の衝撃をもった斬撃には耐えられなかったとみえる。
式の体は、地上に落ちる事なく静止している。
皮肉にも---魔術師が持つ静止の結界はまだ一つ残っていたのだ。
それに引っ掛かる形で、式は地上への落下の衝撃を受けていない。もっとも高さ四十メートル以上からの落下の圧力は彼女の傷をさらに悪化させただろう。
式は俯《うつむ》いたままだ。
手にもった刀は魔術師の体に食い込んで離れない。
荒耶はやはり苦悩に満ちた表情を変えずに、忌々しげに眉を曇らせる。
「......私を捕らえるのなら、地上への激突はないと覚悟したか。いや、違うな。こんなものがなくとも、おまえならば同じ事をしただろう。なんという無様さだ。おまえのような未熟者に、荒耶宗蓮は破れない」
それは強がりではなく、混じり気のない彼の本心だった。
左腕は肘から切断され、右腕はとうに失われている。
ただ佇むだけの魔術師は、そのまま式を蹴りあげた。
立ったまま天空を打ち抜くかのような蹴りは、式の胸元を強打する。
式の体は、そのまま庭へと弾き飛ばされた。
それでも手を刀から離さない式と、深々と魔術師の肉体に食い込んだ刃。
結果、刀は刀身から二つに折れて、四百年もの歴史に終止符をうった。
式は庭に倒れたまま動かない。
完全に意識を失っている彼女を眺めて、魔術師は不愉快げに呟く。
「そうしておれば、歳相応の少女だろうに」
魔術師は動かない。
苦悩に満ちた顔が、一層、その色を濃くしていく。
もう目の前にあるというのに、魔術師は動けなかった。
今の斬撃は、どうしようもないほどの止めとなった。
まったく呆れるほど出鱈目《でたらめ》な一撃だったが、同時にこれ以上ないほどの一撃でもあったのだ。あれを受けたのでは、たしかに滅びるしかないではないか---。
「またも相討ちになろうとはな」
それが彼らの因であったのか。
目的を前にして動かない自身の体と、飛び降りてきた式の体を止めた自身の結界を顧みて、荒耶は一人、呟いた。
「起源を覚醒したものは起源に縛られる、か。
なるほど----我が衝動は〝静止?であったか」
誰に聞かせるのでもなく、皮肉げに魔術師はそう言った。
/18
月明かりだけが、生きているようだった。
緑の芝に倒れ伏した式と、両腕を失って立ち尽くす黒衣の魔術師。
そこへ、散歩の帰りのような足取りで、もう一人の魔術師がやってきた。
「今回も失敗に終わったな、荒耶」
橙子の声に、荒耶は答えない。
「ひどい有様だ。人の死を蒐集し、地獄を作り上げ、彼らの苦しみを体験して。そんな事は苦しいだけだろう? なぜそうまでして自分を追い詰める。なぜおまえは、そこまでして根源の渦なんぞを求めるんだ。まさか本気で、台密《たいみつ》の僧だった頃のように人間の救済を夢見ているわけではないだろう?」
「---理由など、とうに忘れた」
答えて、黒い魔術師は自己に埋没した。
とおい昔の噺《はなし》だ。人間は救いきれぬ。生きていく以上、どうあっても報われぬ者が出てしまう。全ての人間は幸せになどなれぬ。ならば--救われなかった人間とは何だ。その一生は何をもって報われるのか。
答えはない。無限と有限に等しいのだ。救われぬ者がいなければ、救われる者が吐き出されない。ならば--救済など、ただ巡るだけの金貨と同じだ。
人問は救われない。世界に救いなどない。だから死を記録しようと思った。物事の最後までを記録して、世界の終わりまでを記録して、一から最後までを検分する。その上でなら、一体何が幸せだったのか判別がつくだろう。
報われない者も救われない者も、その全てを一から見なおす事ができるのなら---何が幸福と呼ばれるものかを判断できる。世界が終わった後、この出来事こそが人間の意味だったと解るのならば--無意味に死んでいった者達にも、総じて意味が与えられるのだ。故に世界が果てれば、人は、人間の価値というものを検分できる。
それだけが---唯一、共通の救いである。
..................かちり、と音がした。
橙子が煙草に火をつけた音に、荒耶の意識は引き戻される。
「理由も忘れたのか。おまえの望みは無、そして発端さえもゼロ。じゃあ、一体おまえはなんなんだろうね」
「私は何者でもない。ただ結論が欲しい。この、醜く汚く下衆で蒙昧な人問ども。奴らが死に絶えた後、歴史にそれしか残されないのなら---その醜さこそが人間の価値だったのだと結論できる。醜く、救われない存在こそが人間なのだと、私は安心できるのだ」
二人の魔術師は互いの顔を見ずに語り合う。
荒耶は立ち尽くしたまま。
橙子は星空を見上げたままで。
「--だから根源の渦に触れたがるのか。あそこには全ての記録がある。仮になかったにしても、全てを無にする事ができる。おまえはおまえの為に、生き汚い人問をみんな消してしまいたいんだ」
「そうだ。だがあと十歩。あと数歩という所で、またしても世界に邪魔をされた。道を開くのも不可能ならば、もとから道を持つ器を手に入れる事さえ阻止される。なんという----なんという、往生際の悪さ。
誰も世界の危機など知らぬくせに、誰もが無意識下で生き残りたいと願う。誰も壊れていく世界を救おうともせず快楽に溺れているというのに、誰もが無意識下で世界に害をなすモノを排除しようとする。この矛盾をなんという。生きたいと思う心が、生きようとする祈りを汚すのだ。
その邪念こそが、私の敵だ」
声には深い憎しみが込められていた。
橙子はふう、とため息をつく。
「世界---? 違うよ、荒耶。今回おまえを阻んだのは霊長の抑止力なんかじゃない。おまえは本当にうまくやった。抑止力は働かなかった。荒耶宗蓮を破滅させたのはただ一つ。おまえはさ、臙条巴という、たった一人の人間のくだらない家族愛に負けたんだよ」
アラヤは認めない。
世界全ての、現存している人間全ての意志を敵にまわしても打ち勝ってみせよう、という自分が、あのような若造につまずいたなどと、誰が----。
「仮にそうだとしても。ヤツを後押ししたのは霊長の世を維持しようとする有象無象の下衆どもだ。本来の臙条巴では、あの行動は不可能だ。
ヤツを動かしていたのは家族を思う心などではない。そんなものは人間にはない。ヤツラにあるのは自分が生き残りたいという願望のみだ。ヤツは、その醜い本心を隠す為に、家族愛らしき装飾をかぶっていたにすぎぬ。自分が生きていたいから、他人を守る擬態をするのだ」
アラヤの言葉には、憎しみしかない。
人間を汚いと罵るこの男を、橙子は正しいとは思わない。荒耶宗蓮は長く生きすぎて、もはや一つの概念と化している。思考の方向性が変わらぬものは、すでに人ではない。
無駄と知りつつも、彼女は呪いの続きを口にする事にした。