「---ひとつ、いい事を教えてやろうか荒耶。おまえは知らないだろうけれどね、有名な心理学者が定義した集団無意識というものがある。全ての人間の意識の最下層はみな同一の湖にいきつくという考え。もと仏僧であるおまえには馴染み深い思想でなくてはいけないものだ。これはつまり、ガイア論的ではない方の抑止力---霊長の無意識下での同一意見だ。
これをね、宗蓮。一般にはアラヤ識というんだ[#「一般にはアラヤ識というんだ」に傍点]」
な、に、と息を呑む声がする。
橙子はかまわず続ける。
魔術師は以前、彼女の問いにこう答えたのだ。自分の敵は霊長の想念、救いがたい人間の性である、と。
その呪いが----今、ここに一つの形を成す。
「おかしいだろう、荒耶宗蓮。
おまえはおまえが生涯の敵とみなすモノと同じ姓を持って生まれた。だというのにおまえ自身は知らず、おまえの周りにいた全ての人間はその事柄を教える事さえなかったんだ。なんていう意地の悪い世界の罠だろうな。いいか宗蓮。今回矛盾はヤマほどあった---だが、支配者であるおまえそのものが、何より最大の矛盾だったのさ!」
......呪いは凶悪な悪魔のイメージとなって、アラヤの思考を侵食し、侵攻し、彼の存在を打ちのめした。
魔術師は答えない。
ただ、その目の焦点だけが消えていく。
それでも微動だにせず、彼は苦悩の貌《かお》をうかべた。
その暗さ、その重さは永遠にとけぬ命題を背負った哲学者のそれか。
否定はせず、呪いだけを受け取って、魔術師は呟いた。
「---この体は、限界だ」
「また一から出直しか。それで何回目だ。おまえは懲りないな」
それこそが螺旋。荒耶は最後まで仏頂面を崩さない。
橙子は明らかな軽蔑の眼差しを向けて、指に挟んだ煙草を投げ捨てた。結局、火をつけた煙草を、彼女は一度も口にはしなかった。
軽蔑はするけれど---彼女は、この概念と化した魔術師を嫌悪してはいなかった。
一歩間違えれば。いや、一歩間違えなければ、自分とてこのようなモノになっていたに違いない。人間でもなく生物でもなく、ただの現象と成り果てた理論の具現。
それを哀しいと、今の彼女は思えてしまうから。
かは、と荒耶は吐血する。
その体が、残された左半身から灰となって消えていく。
「予備の体は作ってはおらぬ。再会があるとすれば、次世紀か」
「そのころには魔術師なんてモノはいないよ。再会はないだろ。おまえは最期まで独りだ。
それでも---止めないというのか」
「無論。私は敗北など認めない」
橙子はただ瞳を閉じる。
長く別れていた数年を清算する、束の間の問答はここまでだ。
最後に---彼女は、蒼崎橙子という魔術師として荒耶宗蓮に問いかけた。
「アラヤ、何を求める」
「----真の叡智を」
黒い魔術師の腕が、崩れる。
「アラヤ、何処に求める」
「----ただ、己が内にのみ」
外套は散り、半身が風に舞っていく。
それをずっと、蒼崎橙子は見届けていた。
「アラヤ、何処を目指す」
崩れていく荒耶。口だけになって、言葉は声にならず消えた。
---知れた事。この矛盾した|螺旋《セカイ》の果てを---
そんな答えが、返ってくるような気がした。
風に舞っていく灰から目を逸らして、橙子はもう一度煙草に火をつける。
紫煙は、ありえない蜃気楼《しんきろう》のように揺れていた。
矛盾/螺旋
(19)
どういうわけだか、私は街にいた。
今日はとてもいい天気で、見上げれば空はどこまでも蒼い。雲一つない空はキレイで、太陽の陽射しもうるさくない。
夢みたいに白くて暖かい陽射しのせいだろう。街はなんとなく唇気楼のようにぼやけていて、いつもの大通りは砂漠みたいに気持ち良かった。
十一月になって毎日が曇りだったけれど、今日は真夏に戻ったように明るい一日だ。
私は下ろしたての|臙脂《えんじ》色の紬を着て、喫茶店に入った。
私だって最近は喫茶店ぐらい利用する。
こんな一日のおかげだろう、いつもは陰気なアーネンエルベは混みあっていた。
明かりは窓からの陽射しだけ、というこの喫茶店は、今日のように強い陽射しの日は人気がある。
飾り気のない白いテーブルには、大きな窓から差し込む太陽の白。その他の部分は、店が持つ乾いた影の黒。
この二つの明暗が教会じみた荘厳さを見せて、待ち合わせに利用する者が後をたたない。
かくいう私も今日はその一人だった。
テーブルは二つしか空いてなかった。
私は席に座る。
と、同じように待ち合わせなのか、十代の男がもう一つのテーブルに座った。
私は椅子に座って待ち続ける。
私と一緒にやってきた男も、同じように待っていた。
私達は背中を合わせて、暖かな陽射しの中にいた。
---不思議な静けさだ。
私は、ちょっと短気であるらしい。私本人に自覚はないのだが、周りが口をそろえていうのだからそうなのだろう。その私が、不満もなく誰かを待ち続けている。
どうしてこんなに穏やかなのか、と考えて、なんとなく理由が見つかった。
きっと、私と背中を向けて座っている男が待《ま》ち惚《ぼう》けをくっているせいだろう。
私は、私と同じように待ち続けている誰かがいる事に安心して、文句もなくあいつを待っていられるのだ。
長い時間が経って、私は窓の外で手を振っている罵迦者を見付けた。走ってきたらしく、息を弾ませて手を振ってくる。走って大丈夫なんだろうか、と私は少しだけ心配した。
ともあれ、こんな気持ちのいい日でも上下黒一色、という服装のセンスはいずれ改めさせなくてはいけないな、と私は胡乱なあたまで思ってもみる。
見ると---外にはもう一人、手を振っている誰かがいた。白いワンピースを着た女だ。
私は席を立つ。
背中の男も、同じタイミングで席を立った。
......安心した。あのワンピースの女は、こいつの待ち人だったらしい。私はなんとなくホッとして、店の出口へと歩いていく。
不思議な事に、店の出口は二つあった。
東と西の両端に、まるで別れ道のよう。
私は西に、男は東の出ロヘと歩いていく。
私は店から出る前に、一度だけふりかえった。
と、あの男も同じようにふりかえっていた。
赤い髪をした、女みたいに華著なヤツ。
そいつは私と目が合うと、そっぽを向いて片手をあげた。
見知らぬ男だけど、これも何かの縁だろう。
私も片手をあげて応えた。
私達は離れた出口にたって、そんな挨拶を交わした。
じゃあな、と男が口にしたふうに見えたのだが、声はまったく聞こえなかった。
私もじゃあな、と応えて店を出る。
---外は、今までの事が夢のようないい天気だ。
私はとけこんでしまいそうな強い陽射しのなか、私の為に手をふっている誰かの元へと歩いていく。
なぜか、嬉しくて、どこか、切なかった。
白い陽射しは強すぎて、手をふる誰かの顔は見えないままだった。
私は、あの赤毛の男にもこんなふうに歩いていく場所があった事を、いもしない神さまに感謝した。
ほんと、なんて無様さだろう。
きっとアーネンエルベが教会のようだったから、そんな気紛れを私は起こしてしまったのだ。
ふりかえれば、そこには教会なんてありはしない。あるのは砂漠のように平坦な地平線だけだ。
ほら、何も残らない。でもそれだって覚悟の上だ。
何も残らないのが人生だと、私は思う。
けど誰かは、何も残さないようにするのが人生なんだ、とか言うに決まっている。
ぴんぽーん、と鐘の音が鳴った。
その音を聞いて、私はこれがなんでもない夢なのだと判ってしまった。
砂漠みたいにキレイな街から、するすると、私は眠りから目覚めていった----
◇
何度めかの呼び鈴の音を聞いて、私はベッドから起き上がった。
時計を見ると、時刻はまだ午前九時を回ったところだ。昨夜、例によって夜歩いて眠りについたのが朝の五時。あまり十分な睡眠時間とはいえないだろう。
呼び鈴はまだ鳴っている。
私がいる、という事を確信しているその我慢強さは、間違いなく幹也のものだ。
私はベッドの上で上半身だけを起こして、ぼう、と意識を泳がせる。
......おかしな夢を見たせいだ。
なんとなく、私は幹也に会う気にはなれなかった。
私は枕を乱暴に抱いて、そのまま横になった。
と。呼び鈴は唐突に止んだ。
「---なんだ、あの根性なし」
呟いて、私はシーツをかぶりなおす。
もう本当に寝なおしてやる気になった。
けれど、相手はとんでもない実力行使をしてきた。
がちゃり、とカギが開く音がする。
驚いてベッドから身を起こすが、間に合わない。
「おじゃまするけど。............起きてるじゃないか、式」
勝手にあがってきた黒桐幹也は、コンビニのビニール袋を片手に持ってそんな挨拶をしてきた。
落ち着きはらったその態度と、どうして私の部屋のカギを持っているのか、という疑問のせいで、私はしらず幹也を睨みつけていた。
「なんだ、意地汚い。こっちだって朝メシ抜いてるんだから、あげないぞ」
......幹也はビニール袋をかばうように背中に隠す。
その、あまりに的はずれな台詞に私はますます頭にきた。
「なんだ、この不法侵入者。そんなレトルト、頼まれたっているもんか」
「そりゃあ良かった。今日は平和な朝ごはんにできるんだね。君、なんだかんだって人の物を獲るクセ、治したんだ」
言いながら色々な食料を床に並べていく幹也。
幸せそうなその横顔を眺めて、私は月日の流れを実感した。
......あれから二週間ほど経ったのだろうか。
私は全治一週間という大怪我を負い、幹也は足の怪我で軽い病院通いをした。
私の怪我のほうが遥かに重傷だったのだが、やはり私の体は人より丈夫らしく、傷は一週間で完治した。
......けれど、幹也はまだ病院に通っている。歩く事も走る事もできるというのだが、できうるかぎり走る事は避けるように、と医者に注意されたという。それが今だけでなく、完治した後も続く注意だと、幹也はしれっと喋っていた。
あのマンションに関する事を、私達は一度も話していない。その必要性は感じない。
ただ、幹也はときおり暗い顔をする。こいつにはこいつなりの心配ごとがあるのだろう。
かくいう私は----あまり、傷を引きずってはいなかった。少なくとも、私は哀しむべきだと解ってはいるのだが、ひと月だけいた同居人がいなくなったところで、私はいつもと変わらない生活を送っている。
私には、それが少しだけ苛立たしかった。
「--あのさ」
割り箸を片手にもって、私に背を向けたまま幹也は話しかけてきた。
私は感情の無い声で、なんだ、という返答をする。
「うん。あのマンションの話。橙子さんから聞いたんだけど、取り壊されるってさ」
「そうか。でも色々と問題があるんじゃないか?住人とか、そういうの」
「そのあたりは心配する必要はないってさ。魔術師の不始末は魔術師がつける、とかいう決まり事があって、協会の人たちがやってきて処理はすべて済ませたって。架空の住人も架空の住人としてどこかに引っ越して、地下も全部焼き払って、何事もなかったようにしたらしい。証拠隠滅ってヤツかな。取り壊しは今日のお昼からだって」
それを言う為に、幹也はここにやってきたのだろう。
私は取り壊しを見にいくつもりはないし、幹也だってあるはずがない。それでも---幹也は、取り壊される前にそれを私に伝えておこうと思ったのだろう。
「あっけないな」
私の本心からの呟きに、幹也はそうだねと同意する。それだけで、私達はマンションの話をやめた。
「でも、これで式をとりまいていた出来事は終わったんだ。僕は今回カヤの外だったから知らないけど、厄介事はこれでおしまいだろ?
なら、式はこれからキチンと学校に行くこと。ちゃんと進級して卒業しないと、秋隆さんが悲しむぞ」
「---それとこれとは別問題だろ。だいたいおまえがトウコなんかと関わってるから厄介事がやってくるんじゃないか。オレを更生させたかったら、まずおまえが更生しろってんだ。大学止めちまったおまえに、学校に関してなにか言う権利あるのかよ」
うう、と幹也は黙り込む。今のところ、この〝大学止めた攻撃?がこいつを黙らせる切り札になっている。
「--権利なんて言うのは、すごく、卑怯だと思う」
むにゃむにゃと難しい口振りをして、幹也はため息をつく。
それで会話は終わって、私はぼんやりと午前中を過ごした。
今日は休日だっていうのに、幹也は遊びにも行かず私の部屋に留まっていた。
私はベッドの上で横になっていて、幹也は床で座り込んでなにやらやっている。
......ほんの一ヵ月前、こういう風景が日常だった。
私は、かつてそこにいた一人の男の事を思い出す。
今はもういない。初めから、いなかったはずの同居人。
彼が消えただけで、わずかばかりの後悔がある。
胸の穴は埋まらない。どんなに小さい穴でも、空いてしまった穴は居心地が悪くてイヤになる。
そこで、思ってしまった。
あの男が消えただけでこんなにも居心地が悪いのなら。今、目の前に座っている男を本当に無くした時、私は何を思うのだろう、と。
六月の目覚めから、わずか五ヵ月ばかりの私の記憶。
昔の両儀式ではなく、今の私が得てきた日々の欠片。
それは本当につまらない、価値のないものばかりだ。けど捨て去るには惜しすぎて、私は大事に大事に胸の中にしまいこんでしまっている。
......欠けた部分が私にはある。トウコは、それは埋めるものだと偉そうに口にしていた。
たしかにそうだ。空いた穴は何かで埋めるしかない。
なら、もしかして。
いくばくかの時間と経験をへて、
今の私は、それをこの男と定めたのだろうか?
「---なあ、コクトー」
私は嫌っているはずの、彼の昔の呼び名を口にした。
過去の自分は他人すぎて、その真似をする事は嫌だったけれど。こうする事で、私は過去の私と繋がれるのかもしれない。
だっていうのに、幹也は振り返りもしなかった。
私がめずらしく深く考え込んでいるっていうのに、ぽやーと文庫本なんかを読んでいる。
あたまにきて、短く言った。
「鍵《かぎ》」
え? と幹也は振り返る。
私は顔を背《そむ》けて、傷だらけの手の平を差し出した。
唐突に---私は、ある事に思い至ったのだ。
「オレ、おまえの部屋のカギ持ってない。不公平だろ、そういうのって」
......ほんとに、あのおかしな夢のせいだ。
私は自分でも赤面すると判っていながら、そんなくだらない事を子供みたいに要求していた。
◇
私はこうして、さして変化のない螺旋のような日常を、この平和すぎる相手と過ごしていくのだと思っていた。
季節は冬。
街は、やがて四年ぶりの雪に見舞われる。
両儀式と黒桐幹也が初めて出会った時と同じ、朱い朱い雪が降る----
[#地付き]/矛盾螺旋?了
[#改ページ]
<IMG SRC=忘却録音.jpg>
本帖地址:http://club.xilu.com/shousetsu/msgview-114109-307.html[复制地址]上一主题:[奈須きのこ] 空の境界 (上) 下一主题:[宮部みゆき] R.P.G. [楼主] [2楼] 作者:滄炎沁夢2005 发表时间: 2008/04/13 02:28 [加为好友][发送消息][个人空间]回复 修改 来源 删除忘却録音
6/FairyTale.
[#ここから通常の二段組より一回り小さい二段組]
キリの深い日は森の奥。
緑のにおいとムシの声。
ずっと遠くへ歩いてく。
ずっと遠くに歩いてく。
お日さまのない草原で、
キレイな仔たちに出会ったよ。
そろそろお昼になったから、
もうじきお家に帰らなきゃ。
「帰る必要なんかない。ここはずっとエイエンだ」
こどもたちは唄いだす。
でも、エイエンってなんなんだろう。
「それは、ずっと残っていて」
「それは、ずっと変わらない」
揺藍の合唱。
星明かりの草の丘。
ミルクみたいな霧がとけだして、
消えていく帰り道。
エイエンなんてわからない。
早くお家に帰らなくっちゃ。
ずっと遠くがぽくの家。
ずっと遠くにぽくの家。
緑のにおいとムシの声。
キリの深い日は森の奥。
きっと、永遠に帰れない。
/忘却録音
[#ここまで通常の二段組より一回り小さい二段組]
[#ここから通常二段組み縦書き表記]
[#改ページ]
忘却録音/
1
あまり寒くはなかった十二月が終わって、わたしは十六回目の新年を迎えた。
新年あけましておめでとうございます、という言葉に代表されるお正月のあったかさは、何度経験しても飽きる事のない愉《たの》しみだと思う。
だっていうのに、わたしはお正月を楽しむ事が出来ないでいた。
ああ、もう、自分でもなんなんだちくしょー、と思うぐらい楽しめない。むしろお正月に関する記憶だけ切り捨てようか、と真剣に悩んでいる始末だけど、そんなふうに人の心は便利にできていないから問題はちっとも解決しない。
部屋にいてもブルーな気分が晴れるわけでもなく、わたしは枕を投げつけたり踵落《かかとお》としをしたりする不毛な八つ当たりを我慢して、橙子師《とうこ し 》の事務所に出かける事にした。
うちの家は中流のくせに、こういう季節限定のイベントにはきっちりかっちり対応する。わたしにだって初詣《はつもうで》に着ていくための晴れ着が用意されていたけれど、和服なんて着たくもないのでいつものままの普段着で出かける事にした。
「あら。鮮花《あざか 》ちゃん、お出かけ?」
「はい。お世話になっている方へ挨拶《あいさつ》に。夕方までには帰ってきますから」
笑顔で言って、わたしは黒桐家《こくとうけ 》を後にした。
一月一日のお昼すぎ。見上げる空は曇《くも》り模様《もよう》。それはどこか今の気分を代弁してくれているような気がして、わたしの足取りはちょっとだけ軽くなった。
◇
そもそも、わたしだってお正月は好きだった。
それが憎むべきものに変わったのは、忘れもしない三年前の一月一日。九六年を迎えたその日、わたしは田舎《いなか》にある親戚の家から実家に戻ってきていた。
……わたしこと黒桐鮮花《こくとうあざか 》は体が弱い。学校の体育の授業ではA以下の評価は受けたことがないが、とにかく世間さまではそういう事になっている。
わたしには都会の空気は合わない、という理由で田舎にある叔父の家に預けられたのが十歳のころ。それから夏休みや冬休みの数日間だけは帰省していたのだが、それだって本当はしたくなかったのだ。
わたしは、自分自身の目的のために黒桐鮮花を養女にしたいという叔父の提案を受け入れて、本格的に田舎で暮らす事となった。体が弱いという嘘をついてまで家を離れた原因は、兄である黒桐幹也《こくとうみきや 》にある。
そう、告白するのなら。
わたしは、なぜだかあの冴えない兄が好きだった。困った事に兄妹の好きではなく、人間としての愛情の類《たぐい》であるから始末がわるい。
当時のわたしはまだ小学校中学年のこどもだったけれど、自分でも自分の精神年齢が人より高い事を意識していた。人並み以上の容姿とか学力とかのせいなのか、それとも生まれついて冷めていたせいかはわからない。思えば、そんなものは錯覚だったのかもしれない。
けど、幹也に対する感情だけは本物だった。
好きだとか、一緒にいたいとか、そういったレベルの感情じゃなかった。自分のものにしたい、できるのなら閉じこめて誰の目にも触れさせたくない、とまで思い詰めたぐらい本気だった。
ううん、今も本気なんだけど、大人になってみると子供の頃みたいな体当たりが出来なくなってしまうんだ。もともと声にだせる恋慕でもないから、今は大人しく反撃のチャンスをうかがう事にしている。
……反撃。そう、反撃だ。
わたしが田舎なんかに引っ越したのは、ひとえに幹也と離れる為だ。だってあれ以上一緒にいたら、きっとわたしは妹と認識されてしまう。戸籍上の事実なんてどうでもいい。ただ、幹也が無意識下でわたしを妹と決め付けてしまうのだけはまずかった。
だから仮病《けびょう》まで使って実家を後にした。あとは幹也が妹としてのわたしを忘れた頃、さっそうと帰ってくればいい。
それまでに、わたしはこれ以上ないってぐらいの淑女になろうと日々を過ごした。やっぱり惚れるよりは惚れさせたい。幹也の好みはちゃんと分かっているんだから、そんなのは割り箸を折るぐらいに簡単だろう。
――ほら、計画はやっぱり完壁。
だっていうのに、とんでもない邪魔者が現れやがった。
……もとい、現れていた。
それは三年前のお正月にまで遡《さかのぼ》る。
中学生になってようやく愛を語れる年齢になったわたしは、ただの様子見で実家に帰ってきた。
その時に、あろうことか、幹也のヤツはうちに高校でのクラスメイトを連れてきた。
両儀式《りょうぎしき》、という名前をしたその女と幹也が付き合っているのは明白だった。
とんびにあぶらげってこういうこと。まさか、こんな飄々《ひょうひょう》とした男と付き合う女がいるなんて、わたしは思ってもいなかった。だってそうでしょう? そんなの、シュミが悪すぎるってもんなんだから!
ともかく、その日はあまりのショックで目の前が真っ白になって、わたしは放心状態で田舎へと引き返したのだ。
それからどうしようか悩んでいた時、両儀式の訃報《ふ ほう》が届けられた。彼女は交通事故という不幸に遭い、幹也は一人に戻ったという。
その時は、まあ、少しは式にだって同情したよ。
一度だけしか会わなかったけれど、式は楽しそうに笑っていたのを覚えていたから。
けど、それでわたしは安心した。式みたいな物好きは二度と出てこないだろう。わたしは順調に高校を卒業して、向こうの大学に行けばいい。
そうすれば、あとは押しの一手だ。八年近くの年月が経っていれば妹も何もなかろうよ。……とまあそうして、わたしは満足げに叔父の家のテラスで紅茶を口にしてほくそ笑んだりしたものだ。
だっていうのに、敵もさるもの。式のやつ、去年の春に意識を取り戻した。幹也はわざわざ電話でその事を伝えてくれて、わたしは決心した。
もはや高校を卒業するまで、なんて事は言ってられない。わたしは、わたしに素直になるって決めたんだ。
そうなると行動は早かった。すぐに都心で名門、それも全寮制の高校を探しだし、転入手続きをとったのだ。
幸い叔父は父とは違って名の売れた画家であり、わたしは成績優秀で非の打ち所のないお嬢様な外見である。入学するには本人の成績より両親の資産が重要、という礼園女学院《れいえんじょがくいん》にもすんなり転入できた。
それから半年が経って、わたしは嫌いになってしまったお正月を迎えている。
今日だって本当は幹也と初詣に行く予定だったのに、咋日の夜に式がやってきて幹也をさらっていってしまった。
……ほんとうに。
事態は、一刻の猶予もなさげな状況だったりするわけなのだ。
…
わたしの魔術の師である蒼崎橙子《あおざきとうこ 》の工房は、工場地帯の真ん中にある。一見して作りかけで放置された廃ビルなのだが、中にはきちんとした事務所なんかもかまえているおかしな建物だ。
一階は車庫になっていて、二階と三階は不明、四階が幹也の通う事務所になっている。兄の通う会社の所長は、転じて、わたしの師でもあるというわけだ。
「新年、あけましておめでとうございます」
「はい、おめでとう」
事務所に入るなり挨拶をすると、橙子師はけだるい顔つきで相づちをうってきた。
蒼崎橙子は二十代後半の女性で、凛々《りり》しいタイプの美人だった。いつも通りのスーツ姿は男装の麗人そのもので、眼鏡を外しているからよけいに性別があやふやになる。
「なんだ鮮花。今日は黒桐と出かけるんじゃなかったのか」
所長席に座ったまま、橙子師は分かり切った質問を向けてくる。
「式がやってきて、連れていかれました。自分から講義を欠席するといって何ですが、予定を戻してかまわないでしょうか?」
「ちょうどいいね。鮮花に話すことが出来たところだし」
……? 橙子師からわたし宛てに話があるなんて、珍しい。
わたしは彼女にコーヒーを、自分に日本茶を滝れて、自分の椅子に腰をおろした。
「それで、話って何ですか?」
「ああ、鮮花は黒桐に告白したのかな、と疑問に思ってね」
まったく、これっぼっちも本気でない質問を師は口にした。
「していません。兄には気付かせてもいないつもりですけど、なにか?」
「―――つまらん。黒桐あたりなら目に見えてうろたえるのに、おまえときたら眉一つ動かさずに速答する。兄妹でここまで違うというのも珍しいぞ。本当に兄妹なのかと不審に思う事はないか、鮮花?」
「本当に兄妹でなければ、問題なんかないです」
内心で拗ねながら答えると、橙子師は軽い笑い声をあげた。
「いや、おまえは本当に純真だよ。すまないな、今のはつまらない質問だった。私も、年に一度ぐらいは失言をするらしい。許せ」
「年に一度の失言をお正月に使ってしまうなんて、すごいスタートダッシュですね。それで、話って何でしょうか」
「おまえの学園の事だよ。鮮花は私立礼園女学院の一年生だったな。一年四組の事件について、聞いていないか?」
一年四組? それは、もしかすると――――
「橘佳織《たちばなかおり》さんがいたクラスですね。わたしはAクラスですからDクラスの事は詳しくはありませんけど」
「タチバナ、カオリ? 誰だそれは。そんな名前はリストにないが」
橙子師は不愉快そうに顔をしかめる。
わたしも同じように首をかしげた。
どうやら、わたしと橙子師の間には大きな齟齬《そご》があるみたいだ。
「……あの、何の話でしょうか?」
「そうか、鮮花は知らないのか。そうだな、クラスが違うのでは話題にはならないか。礼園はクラス別に隔離されたシステムらしいからな、あの話は四組の生徒しか知らないという事になる」
ひとりで納得して、橙子師は事の詳細を語りだした。
事の始まりは二週間前。冬休みを直前にひかえた礼園女学院高等部一年四組の教室で、ふたりの生徒が口論の末に相手をカッターで刺したというのだ。
……礼園という、閉鎖されたあの異世界で刺傷事件が起こるなんて、にわかには信じられない。
礼園は一度入学すれば、よほどの特権でもないかぎり外に出れない収容所のような学園だ。だから中の空気は嘘のように静かで、止まっている。暴力沙汰なんて起こりえようのない、病的なまでに洗浄された世界なのに。
「―――それで、怪我の具合はどうなんですか」
「怪我自体はたいした事じゃない。問題はもっと別のところだ。二人の生徒は二人とも傷を負った。この意味がわかるか、鮮花」
「……口論の末、ふたりがふたりとも同時に相手を刺した、という事ですね。つまり両名の口論に優劣はなく、話は平行線のままふたりとも同じ結論に達した、と」
「そうだ。口論の内容は、また後で話す。問題はまだ続いてね。この事故は、すぐには報告されなかった。冬休みにはいって学長《マザー》が保健室の記録を調べたところ、怪我をした両名の記録があったから発覚した事故だ。
四組の担任は、その事故を意図的に隠蔽《いんぺい》したことになる」
四組―――Dクラスの担任は葉山英雄《は やまひでお 》という、礼園に二人いる男性教諭の一人だ。けれど彼は十一月の学生寮の火事の後、責任をとらされて担任をはずされた。彼の替わりはシスターじゃなくて、たしか………
「玄霧《くろぎり》先生は、そういう人ではないと思いますが」
つい、わたしはそんな事を口にしていた。
橙子師はああ、と頷《うなず》く。
「マザーもそういっている。一年四組の担任についた玄霧という教師はよほど信頼が厚いんだろうね。マザーが彼を問い詰めたところ、玄霧|皐月《さつき》はその事故を覚えていなかったらしい。マザーに指摘されて、突然に思い出したというんだ。なんとも胡散臭《うさんくさ》い話だが、マザー曰《いわ》く芝居でもなんでもなく、本当に玄霧皐月は忘れていたようなんだよ」
……そんな事、ありえるのだろうか。
二週間前の出来事を綺麗さっぱり忘れるなんて事はありえない。けれど……もしかして、玄霧先生ならそういうのもアリかな、とかわたしは思ってしまった。
「それで話は戻るんだが、生徒たちの口論の内容だ。二人の生徒は放課後、他の生徒たちがいる中で口論をはじめた。その内容をほかの生徒が聞いていたんだが、なんでも自分の秘密をばらされたらしい。それがまた、特殊なケースの秘密でね。本人が忘れていた秘密をばらされた、というんだ」
「―――え?」
「だから、本人が忘れていて思い出しもしない子供の頃の秘密を、相手にばらされたというんだよ。この二人の生徒は幼なじみでね、自分が忘れた事を覚えているといったら、それは子供の頃からの友人である相方しかいないと思ったらしい。
話によると彼女には一ヵ月近く、本人さえ忘れていた出来事が手紙で送られてきていたという。初めは手紙の内容が理解できない。けれど読んでいくうちに、それが自分の事だと思い出してゾッとしたとのことだ。
気味が悪くなって友人を問い詰めたところ、その友人も同じように手紙が送られてきているという。二人の生徒は互いが犯人だと思い込んで、同時にカッターで切りあったというワケさ」
わたしはしばし絶句した。
本人さえ忘れている記憶が、手紙になって送られてくる? 本人さえ知らないはずの秘密を、どこかの誰かが手紙で送りつけてくるというのか。
「新手の脅迫でしょうか、橙子さん」
「いや。手紙には忘れていた過去の出来事しか書かれていないというんだ。別に脅しているわけでもない。ストーカーのように四六時中監視していようとも、過去、しかも本人さえ忘れているような出来事を知る事はできまい。
不気味といえば、まあ、不気味な話だね」
不気味どころの話ではないと思う。
初めは面白がって手紙を読むかもしれないが、それが一ヵ月も続いたとしたらどうだろう。自分の知らない事を自分ではない誰かが知っているのだ。一日一日と正体不明の監視者の手紙を読むたびに、彼女達の精神は追い詰められていたことだろう。
……カッターで切りあう、というのはむしろ軽くすんだ結末なのかもしれない。
「橙子さん。その、手紙の主は見つかっているんですか?」
「ああ。犯人は妖精だとさ」
きっぱりと橙子師は言う。
わたしは驚きで声をあげかけた。
「―――すみません。もう一度お願いします」
「だから妖精だよ。なんだ、この話も鮮花は聞いてないのか。礼園には霊感の強い女が集まるのかな、目撃例も多いという話だ。鮮花の目は霊体に焦点が合わないから見えないだろうが、寮生のあいだでは有名らしいぞ。
夜、枕元に妖精が飛んでくる。目覚めると過去数日の記憶がぽっかり抜け落ちているそうだ。記憶を採集するのは妖精の仕事みたいなものだから、おそらく間違いはないだろう。一年四組の事件と妖精の話は繋がっていると考えるのが妥当だな」