橙子師は淡々と語る。
わたしは、この人の下で魔術を習っているというのに、その話をまったく信じられなかった。
「橙子さんは信じているんですか、妖精の話を」
「見てみない事にはなんとも言えんが、礼園なら妖精ぐらい居るだろう。あそこにはそういう雰囲気だけは備わっているからな。
あの学園は世情とは隔離され、敷地内には車の音さえ届かない。あそこを支配するのは厳《おごそ》かな校則と物静かなシスター達であり、少年少女を熱狂させる流行《はや》りものは侵入できない。敷地内の大部分をしめる林はすでに森ほどの深さがあり、迷いこめば半日は外に出れないだろう。空気はどこか飴のような甘さを含み、時計の針は老婆の編み物のようにゆったりと進んでいく―――ほら、まさに都心に佇む妖精郷そのものじゃないか」
「よくご存じで。まるで学園を知っているような口振りですね、橙子さん」
「そりゃあ知ってるさ。私はあそこのOGだもの」
―――今度こそ。
わたしは、驚きの声をあげた。
「なんだその目は。そもそもマザー?リーズバイフェが部外者に学園の恥部を相談すると思うのか。昨日の夜、学長から原因の究明をしてほしいと依頼をうけた。私の所は探偵屋ではないが、他ならぬマザーの頼みでは断れない。かといって私が学園に乗り込むのは目立ちすぎる。どうしたものかと思案していたのだが。――鮮花」
聞きたくありません、とわたしはそっぼを向く。
橙子師は感情のない瞳でわたしを見据えると、唐突に話題を変えた。
「さて。妖精と聞いて、鮮花は何を連想する?」
「――妖精、ですか。その、小さな女の子に翅《はね》がついているとか」
自信なさげに答えると、橙子師は夢があって結構、なんて含み笑いをした。
「妖精といっても種類は様々だから、そういうものもいるかもしれない。ただし、それは魔術師が作り上げた使い魔としての妖精だ。妖精は悪魔などと違ってモノの想念が集まってカタチをなした実像幻想ではなく、れっきとした生物の系統樹に連なるものだ。故に生物学的に生存が不可能な身体構造はしていない。小鬼《ゴブリン》とか赤帽子《レッドキャップ》とかが、ある意味純粋な妖精という事になる。
妖精や竜に代表される幻想種。日本では生粋の鬼がこれに該当するが、彼らはたびたび私達と接触をはかってきた。彼らは悪魔達のような、人問の願いによって生み出され願いによって呼び出される受動的なものではない。あくまで能動的な存在だ。
スコットランドあたりでは妖精の悪戯《いたずら》が今でも行なわれているという話だが、その悪戯の中に人間に物忘れをさせる、というものがある。あとは子供を森に引き込んで一週間ほど帰さなかったり、生まれた赤子を妖精の子と取り替えたり、家の玄関に兎《うさぎ》の死体をばらまいたり、と実に子供の悪戯のレベルを抜けない微笑ましい物ばかりだな。
まったく統一性のない彼らの悪戯には、けれど共通点が一つだけある。妖精達にはね、損得感情というものがないんだ。彼らは単に楽しいからやっているだけで、その後に何かを求める事はありえない。だが礼園のケースは違う。奪った記憶を手紙にする、というのはどうも悪意が感じられるだろう? くわえて礼園に現れる妖精というのは、鮮花が言ったとおりの可愛らしい外見をしているそうだ」
……なるほど。さすがは橙子師、こういう搦《から》め手でくるとは思っていなかった。
くやしいなぁ。
わたしは、わたしのプライドのために、その先を自分から口にしてしまうんだ。
「つまり、礼園女学院に現れる妖精というのは作られたモノ、使い魔。悪意がある以上、それを操る魔術師もまた存在する、ということですね」
そうそう、と橙子師は嬉しそうに頷いた。
「使い魔に関しては以前説明したな。
魔術師が自らの肉体の一部を提供してつくりあげた分身としての使い魔と、ほかの生物を前身にして作り変える手足としての使い魔。今回のは手足として使役される使い魔に間違いない。人の記憶を盗むだけの単一性能だ。やる事が子供じみていて、つまらん」
……その、つまらない事の始末を押しつけられるわたしの気持ちも考えず、師は続ける。
「まあ、それも仕方のない事か。妖精の使い方は難しい。術者はいつのまにか彼らに要望を叶えさせるのではなく、彼らの要望を叶えさせられている場合が多いんだ。連中はわがままな注文ばかりするからな。故に、昔から妖精を使い魔にしようなどという魔術師は少ない。いたとしたらそいつは一流の腕前だ。だが今回のは違う。妖精に似せた使い魔を使っているだけの未熟者だろうから、修業にはもってこいだ。
そういうわけで、鮮花。師として命じる。目的は真相の究明。期間は冬休みが終わるまで。原因の排除までは望まないが、できるのならやってしまえ」
……やっぱりこういう結果になるんだ。
わたしは半ばヤケになって、努めて冷静に頷いた。
「―――修業の一環なら、仕方ありません」
それじゃあ詳しい資料をあげよう、と橙子師は席を立つ。けれどその前に、わたしはただ一つの不安を口にした。
「ですが、橙子さん。私は妖精なんて見えません。師のように魔眼なんてもってはいませんし」
わたしの問いに、橙子師はにやりと笑った。
それは今まで感じた事のない、キックをいれてやりたいぐらい不吉な笑みだったと思う。
「ああ、それなら大丈夫だ。目の代わりはしっかり考えてあるさ」
師はくすくすと忍び笑いをして、その内容を語ってはくれなかった。
忘却録音/
2
礼園女学院高等部の職員室を、わたしと彼女は後にした。
◇
「オレ、前から思ってた。トウコって実はあったま悪いんじゃないかって」
一月四日、月曜日、曇り模様のお昼すぎ。
わたしの横で、わたしの〝目の代わり?が憎々しげにそんな事を呟《つぶや》いた。
わたしはこいつが敵である事を棚の上に置いておいて、嘘偽《うそいつわ》りない本心で同意する。
「そうね。よりにもよってあんたを学園内に潜り込ませるなんて、正気の沙汰とは思えないわ」
「ひどいな。今回の犠牲者は間違いなくオレだぜ、きっと。転校する予定なんてありもしないのに、三学期から転入する芝居までさせられてる」
わたし達は高等部校舎の廊下を歩きながら、お互いの顔を見ずに話をする。
……今、私の傍《かたわ》らにいるのは両儀式《りょうぎしき》という名の少女だ。
礼園女学院の制服は、そのままミサに出れるように尼僧服《に そうふく》に近いデザインをしている。黒い礼服に生徒らしい機能性を混ぜ合わせたもので、あまり日本人には似合わない制服だ。
だというのに、両儀式は普段着のように違和感なく着こなしていた。
彼女の黒髪は制服の色より深くて、身体を覆う黒に溶け込んでいない。細い肩と首筋がやけに白く見えて、わたしでもどきりとするほど印象的だ。
式は年上のくせに、なぜだか若々しく映る。身長だってわたしとあんまり違わないのに、その姿はしゃんとしていて、立派に物静かなクリスチャンの少女に擬態《ぎ たい》していた。
……なんだか、すごくおもしろくない。
「鮮花。あそこの二人組、こっちを見てる」
たった今すれ違った上級生を眺める式。
こちらを観察している生徒達が何を話しているか、わたしは容易に想像できた。……礼園は女子校だから、生徒間での好き嫌いに男性という要素は含まれない。それでもやっぱり彼女達は男子像というものに憧れているわけで、中性的な美人は学年を問わずに人気がある。
礼園にはそういったタイプの人は少なくて、式なんかが本当に入ってきたら間違いなくアイドルになるだろう。すれ違う生徒たちはどこか男性的に凛々しい式の横顔を見て、そういう期待でおしゃべりをしているのだと思う。
「たんに転入生がめずらしいだけよ。今回の事件には関係ないでしょ」
「ふうん。冬休みだっていうのに生徒はいるんだ」
「うちは全寮制だから、寮に残りたいっていう生徒はわりと多いの。校舎は図書室のある一階と四階だけ開放してるけど、寮のもので代用が利くから校舎まで来る人は少ないわ。校則違反でシスターに呼びつけられるのなら話は別だけど」
そのシスターの呼びつけも三度続けば退学だ。
実をいえば、わたしも数回にわたってシスターの呼びつけをうけている。
どのような理由があろうとも、この学園では外に出る事は許されない。両親に会いにいく、という理由でさえ認められないのだ。
礼園に入学するという事はそういう事で、保護者達もその徹底した管理体制を期待して入学させる。
わたしや、友人である藤乃あたりが何度も外出届を出しても退学にならないのはそれぞれの事情がある。
藤乃は、お父さまがこの学園の寄付金の三割をしめるというお金持ちなので退学にはならない。というか、させてくれないらしい。
わたしは……まあ、画家という叔父のネームバリューもあるのだろうけれど、ひとえに礼園の進学率稼ぎのために雇われた傭兵みたいなものなので、外出を大目に見てもらっていた。礼園だって学校である事に変わりはなく、卒業生の中に有名大学に進学した生徒がいるにこした事はない。私は初めからT大学を受験し、合格する事を前提にして入学を許されたようなものなのだ。
……たしかに、勉強だけは神様に祈ってどうこうなる問題でもない。礼園の経営陣の考えは俗物的だけど、わたしにはあまり不満はなかった。そのおかげで例外的に外出が許されているわけなのだし。
そうやって一人で物思いに耽《ふけ》っていると、傍らの式は興味なさげな気怠《け だる》い瞳で校舎を観察していた。
それにもすぐに飽きたようで、彼女は胸にさげられた十字架の飾りをいじったりする。
「ヘンな学校。教師がシスターなんだか、シスターが教師なんだか。そういえばさっき礼拝堂が見えたけど、あそこでミサとかやるのか? 天に召しますわれらの父よっていう、アレ」
素朴な質問を式はしてくる。
けど天に召してどうするんだ、ばかシキ。
「―――礼拝儀式は朝夕にあります。ミサは日曜に一度行なわれるけど、生徒の参加が義務づけられているのは礼拝儀式だけでミサは自由参加。私みたいに高校から礼園に転入した人達はクリスチャンじゃないから、ミサに出た事はないわ。シスターへの印象は変わるけど、信仰は自由だから一応強制はされません。
礼園は古くからあるミッションスクールだけど、数年前から良家のお嬢様育成学校になってるから基督《キリスト》教に興味を持たない娘も多いの。どんなに素行の悪い子でも礼園を卒業すれば縁談は引く手|数多《あまた》になる。それが目的で娘を入学させる親が大半なんでしょうね。つまるところ、本当に神様を信じて入学する子は減ってきているんです。今の日本では生徒の両親だって基督教を学ばせる為に入学はさせないでしょう。……それでも、中には真性のクリスチャンもいるようですけど」
「神様、か。いるところにはいるのかもな、そういうの」
……なんか、すごい違和感がある。
式の男口調には慣れた気でいたけど、可憐な修道女としか見えない今の姿で言われると戸惑ってしまう。
「神様は不明だけど、他のものはどう? 見つかった?」
歩きながら、わたしはさりげなく訊いてみる。
式はいや、と首を横に振った。
「ぜんぜん。夜まで待つしかないかもな、この分じゃ」
眠たげな眼差《まなざ》しで、式はそんな事を言う。
……この女は、普通の人間には見えないモノを見る力がある。幽霊とかは言うにおよばず、物の壊れやすい部分を見る事もできるそうだ。くわえて運動神経は抜群で、根が凶暴ときている。はっきりいって、幹也とは正反対すぎる〝特別?な人間だ。わたしは他のどんな相手より、幹也が式といるのは嫌。
そう、わたしが橙子師に師事するようになったのは、元はと言えばこいつが原因なのだ。幹也の相手が並の女なら一日で再起不能にしてやるのに、両儀式は並どころの騒ぎじゃない。
素のままじゃ太刀打ちできない、と判断したわたしは自分の常識を質屋に預けて、魔術師である蒼崎橙子に弟子入りした。……残念ながらまだ実力では式には敵わないので、今はこうして修業の日々を過ごしている。
だっていうのに、わたしは少しフクザツな心持ちだ。
なぜなら、それは――――
「夜は鮮花の部屋ですごすんだろ。…………まあ、おまえのところなら、我慢するか」
式は仕方なげにため息を漏らして言う。
幹也の話では、式は自分が寝床と定めた場所以外では腰を下ろしもしないのだそうだ。
なのに、まだ見てもいないわたしの部屋に泊まる事を式は我慢する、と言う。
フクザツな理由はこれで、ようするに式はわたしを嫌っていないのだ。わたしは式が嫌いなのに、これじゃあどこかちぐはぐで、やりにくい。
わたしだって――幹也のことがなければ、両儀式の人となりは好きな部類に入ると思うんだけどなあ。
今度はわたしがため息を漏らす。
と、式はじろりとわたしを見つめてきた。
「鮮花。どこに向かってるんだ。寮に行くんじゃないのか」
「寮に用はないでしょう。とりあえず四組の担任に話を聞くから、ついてきて。あんたは私の目なんだから、会う人全部を識別してもらうわよ」
「―――担任って、葉山ってヤツか」
「違います。葉山先生は十一月にこの学園を去ったわ。今は玄霧《くろぎり》皐月《さつき》って人が担任をしてる。ふたりとも我が校じゃ数少ない男性教員よ」
「女子校に男の教師か。他のところなら珍しくないけど、この学園で男っていうのは異常だな」
式の言う事はもっともだ。
卒業までに生徒を非の打ち所のない女性に仕上げるこの礼園において、男の教員なんていうのは邪魔者でしかありえない。せっかく不純異性交遊を防ぐため外出を禁じても、敵が内側にいるのではトロイの木馬もいいところなのだから。
「……そうね。けど、その辺は込み入った事情があるのよ。葉山英雄っていうのは、学園でも嫌われものだった。教員免許を持っているかどうかさえ怪しい人で、実際に生徒に手を出した事もあるみたい。けどシスターはおろかマザーでさえ強く注意できなかった。どうしてかっていうと、うちの理事長は今でこそ黄路《おうじ》って名字だけど、婿に入る前は葉山っていう名字だったのよ」
「理事長の出来の悪い弟ってコトか。で、そいつはどうして辞めたんだ」
「十一月、私が燈子さんの事務所にいたの、覚えてる? あの時にも言ったけど、高等部の寮が火事にあったの。一年生と二年生のCクラス以下の宿舎である東館が全焼してね。礼園の寮は学年ごとに分かれているんだけど、さらに細かくクラスごとに管理されていて、火が出たのは一年四組のブロックだったのよ。葉山英雄先生がさ、何を思ったのか放火したの。理事長もさすがにクビにしたけど、その頃には葉山は学園から消えていたわ」
逃げたんでしょうね、とわたしは付け足す。
あの火事の情報は外に漏れていない。消火にやってきた消防士の口も、礼園に在学する生徒の父兄たちが協力して押さえこんだという話だ。……大切な娘がいる学校で不祥事は出てほしくないという考えだろう。
……人が。一人、死んでしまったというのに。
「それで、玄霧っていうのはどうなんだ?」
「玄霧先生は、問題のない人よ。というか、葉山とは正反対。礼園の生徒であの人を嫌ってる生徒はいないと思う。
玄霧先生は今年の夏からの勤務で、葉山のように後ろ盾はないって話。ただマザーのお墨つきがあるだけよ。うち、元をただせばイギリスにあったどこだかの名門の姉妹校なんだって。イギリスの本校はなくなってしまったけど、姉妹校である礼園はまだ残っている。マザーとしては教員は全員英国の人にしたいんでしょうけど、日本語ができる生粋のイギリス人教諭なんてそういないのよ。その点、玄霧先生は外国育ちで発音も完壁。汚らしい米国なまりがないって、シスター達も喜んでるわ」
「じゃあ、玄霧っていうのは英語の教師か」
むむ、と式は眉をひそめて呟く。……もしかすると。和風びいきなこいつは、英語というものがまったくダメなのかもしれない。
「英語だけじゃないわ。たしかドイツ語とフランス語の教員免許も持ってるって。中国語もいくつかマスターしているらしいし、南米の一部族のものまで知ってるっていう……まあ、言語オタクって陰で呼ばれてるヘンな人よ。
……黒桐鮮花と両儀式にとっては、違う意味で特殊な人。わたしは、その先生がすごく苦手です」
言って、わたしは立ち止まる。
一階の端にある英語の準備室。礼園では職員室は事務を執る場所であって、各教科の準備室は教師ごとに一部屋設けられている。
玄霧先生が使用しているのは、葉山英雄が使っていた準備室だ。
わたしは式に気付かれないように小さく深呼吸をして、準備室の扉をノックした。
◇
玄霧皐月はわたし達に背を見せて机に向かっていた。
彼の机は窓際にあり、灰色の陽射しが部屋を照らしている。準備室はその名に反して研究室のように散らかっていた。
「玄霧先生。1―Aの黒桐鮮花です。マザーからのお話は届いているでしょうか」
わたしの声にはい、と頷いて彼は振り返る。
椅子《いす》がくるり、と回って玄霧皐月はわたし達と向かい合った。
「―――――――」
式の息を呑む気配がわかる。
わたしだって初めてこの教師と向かい合った時、目眩《めまい》を覚えたほどなんだから。
「ああ、君が黒桐君か。うん、聞いたとおりの子みたいだね。とりあえず座って。話、長くなるんだろう?」
やんわりと言って、玄霧先生は微笑む。
年齢は二十五歳ほどで、礼園の教師の中では一番若い。いかにも文系といった細い体付きと黒ぶちの眼鏡が、この人を無害な人物だと教えてくれる。
「一年四組の話かな」
「……はい。カッターで切りあったという生徒の話です」
わたしの返答に、玄霧先生は申し訳なさそうに目を細めた。それは見ているこっちが悲しくなるような、淋しそうな顔だった。
「力になれなくてすまないけれど、私自身、その件に関しては記憶が曖昧《あいまい》なんだ。詳しく覚えていないし、彼女達を止める事もできなかった。たしかに玄霧皐月は現場にいたのにね。私は何もできなかった」
自分の無力さより、傷ついた生徒達を思って玄霧皐月は目を閉じる。
……この人は、一緒だ。
誰かの悲劇を深く考えて、しょいこむ必要のない重荷を負っている。決して他人を傷つけない、棘《とげ》のない優しすぎる人間――――。
「先生は、その、彼女たちが口論をした原因をご存じですか?」
わたしは念のために聞いてみる。
玄霧皐月は、静かに首を横にふった。
「……他の生徒達の話では、私が二人を止めたという話です。けれど私にはあの日の記憶がない。うん、物忘れしやすい質《たち》だとよく言われてきたけど、ほんとうに記憶が抜け落ちるなんていうのは初めてだ。なにか大事な事を聞いていたとしたら、取り返しがつかない。いや、それ以前に原因は私かもしれない。私はあの日、彼女達と同じ教室にいた。それだけでも、責任を追及されるべきだ」
思い詰めた表情で先生は言う。
そこで、わたしはようやく気がついた。忘れた秘密を手紙にして送られている、というDクラスの生徒達の焦燥は酷いものだろう。けれど見えない不安に責められているのは彼女達だけじゃない。問題が起こり、その場にいたにもかかわらず何も覚えていないという玄霧先生の精神状態だって、危ういバランスを保っている筈なのだ。
もしわたしが彼の立場でも、きっと同じ不安を抱いただろう。記憶がない、という事はそれだけで不安になる。その間に何を手に入れたのか、何を失ったのか。確実に行なった自分の行動が分からない、というのは底のない落とし穴だ。
悪く思えば思うほど、穴は深く暗くなっていく。そんな事はない、と否定する材料さえ忘れているのだ。先生が自分が原因だと思うのは、無理のない事なのだ。
「―――ですが先生。1―Dの生徒達は事のなりゆきを終始見ています。先生は止めに入っただけだという話ですが」
「違うよ黒桐君。覚えておきたまえ、自分の記憶を確認する際には、他人の記憶はアテにはならない。過去を決定するのは、やはり思い出という自身の秤《はかり》だけなんだ。……だから私は、やはり私が悪かったという可能性を考慮するべきだと思う。
―――いや、すまない。こんな話は無意味だったね。こんな状態の私では頼りないだろうが、質問を続けてくれないか」
無理をして微笑む彼に、わたしは頷く事で応える。
「……わかりました。では、Dクラスそのものに何か異常はありませんか? 例えば生徒全員が課題を忘れてくる、とか」
「そういう事はないよ。ただ、たしかにうちの教室は張り詰めている、とシスター達がもらしていたな。……私自身、以前の彼女たちを知らないから断言はできないが、たしかに四組の教室は静かすぎると思う」
「それは、何かに怯えているような雰囲気でしょうか?」
予想通りの展開にわたしは確認をとる。
カッターで切りあった、という二人の生徒。彼女達の周囲にいた他の生徒達は、どうしてそこまで過熱した口論を止めなかったのか。
興味などなかったから? いや、それなら会話の内容なんて聞いているはずがない。至極当然な流れだけど、ようするに忘却した記憶を記した手紙は、一年四組の生徒全員に送られていたのだ。だから生徒達は言い争う二人を止めなかった。それで、少なくとも二人のうちどちらが手紙の差出人かはっきりするから。
……けれど、玄霧先生の答えはわたしの推理を裏付けてはくれなかった。
「……そうだな。怯えている様子とは、違うと思うよ」
「―――怯えてはいなかったんですか、みんな?」
「ああ。怯えていたというより、むしろ監視しあっていた、というのが正しい。それが何の為なのかはわからないが」
監視しあっていた――――か。
ニュアンスがズレてしまったけど、発想自体に間違いはないと思う。ようするに彼女達は敵が外ではなく内側、つまり教室の誰かだと確信している、という事なんだから。
「先生。Dクラスの生徒達と連絡はとれますか?」
とにかく、事を忘れていない当事者達に話を聞くしかない。妖精の話も噂している本人達に聞く分にはおかしく思われないだろうし。
「連絡をとる必要はないよ。うちのクラスの生徒達は全員寮に残っているから、すぐに話はできると思う」
玄霧先生の返答は、わたしを驚かせてばかりだ。
一年四組の生徒が全員、学校に残っている? そんな偶然は、すでに必然と同じだ。
「失礼しました。またお話を伺《うかが》いにあがるかもしれませんから、その時はよろしくお願いします。式、行きましょう」
わたしは傍らで無言だった式を促《うなが》して立ち上がる。
その時――――玄霧皐月は、きょとんとした目でわたしを見つめた。
「あの……先生、何か?」
先生は答えない。
かわりに、式が初めて声をあげた。
「式というのは私の事です、先生」
式は女性の口調でそう言った。
先生はああ、と明るい声をあげる。
「そうか、さっきからキミは居たね。見ない顔だけど、新入生かな」
「さあ、どうでしょう。校舎を見てまわって、面白ければ本当に転入してもいいとは思っています」
玄霧皐月は、そうか、と嬉しそうに頷くと式をじっと見つめだした。まるで憧れのモデルを前にした画家のように、細かな特徴を観察する。
わたしはそれを見ているしかない。
その時。準備室の扉がノックされた。
「失礼します」と、綺麗な声がする。
準備室に入ってきたのは、髪の長い上級生だった。
凛とした切れ長の目と、背中まで伸ばされた黒い髪。
美形の多い礼園の中でも一際目立つその美人を、わたしは知っている。
というか、去年まで生徒会の会長をしていた上級生を知らないわけはない。
人を見下すような瞳と、細く長い眉毛は美貌であるより以前に、とにかく迫力がある。なんだかお城のお妃様みたいな上級生は、たしか――――
「おや、黄路《おうじ》君。もうそんな時間になったのかな」
玄霧先生が入ったきた[#「入ったきた」に「ママ」の注記] [#「入ってきた」の誤記]黄路《おうじ》美沙夜《みさや》に声をかける。
黄路先輩はええ、と自信ありげに言った。
「皐月先生、約束の時間を過ぎています。午後一時に生徒会室にいらしていただかなくては。時間は永遠ではないのですから、有効に使っていただかないと困ります」
堂々と胸をはって黄路先輩は玄霧先生を非難する。
その堂に入った威厳は本物で、彼女は生徒会時代から暴君で通っていたらしい。わたしが転入した頃に生徒会の引き継ぎがあったからよくは知らないけれど、藤乃の話ではシスター達でさえ黄路先輩には意見できなかったそうだ。
話によると、今の理事長でさえ彼女には意見できないでいるらしい。それも当然で、婿養子である現理事長と、正統な黄路家の次女である黄路美沙夜とでは発言力が違いすぎる。
……黄路の家の子供はみんな養子だという話だが、それを引け目に感じる程度の精神力では黄路財閥の跡継ぎにはなれない。逆に養子であっても誰よりも黄路の者らしく振る舞える心の強さを求める為に、黄路家は跡継ぎにと将来有望な子供を養子にとるという。……ようするに、黄路先輩はそういう鉄の女ということだ。
ただ救いなのは、黄路美沙夜は正義の人らしい。校則を破る生徒には容赦がないが、規則を守っている生徒には面倒見のいい先輩なのだそうだ。本人も敬虔《けいけん》なクリスチャンで、日曜の昼ミサには毎回参加しているというし。
「黄路さんは厳しいですね。エイエンなんて、また、難しいことを」
にこりと微笑んで、玄霧先生は椅子から立ち上がる。それを黄路美沙夜は苛立たしげに眺めていた。……たしかに、彼女のように規律に従って生きる人には、玄霧先生のようにゆったりとした人は癇に障るのだろう。
黄路先輩は視線だけで、貴女《あなた》は?という敵意を向けてくる。これ以上ここにいては何かと面倒そうなので、さっさと退散しようと式の腕を引っ張った。
「さ、次に行こう、式」
わたし達は準備室の出口へ歩く。
と、その扉を玄霧先生が開けてくれた。それは客人を見送る執事みたいな自然さで、わたしはすみません、とお辞儀してしまう。
「いえ、私のほうこそ役にたてなくてすみません。二人とも、いい休日を」
やっぱり柔らかく微笑んで、先生はさよならを告げる。
どこか淋しい、空気のような笑顔だった。
「―――先生は、いつも哀しげに笑うんですね」
いきなり、式がそんな事を言った。
先生は意外そうに目を開くと、そうですか、と頷いた。
「でも、私は笑った事がないんだ。―――一度もね」
淡い笑みをうかべて、玄霧先生はそう答えた。
◇
準備室を後にして、わたし達はひとまず寮に戻る事にした。
一階の廊下を抜けて、中庭に出る。
礼園女学院の敷地は大学なみに広い。その広さをいかすためか、小等部から高等部までの校舎や体育館、学生寮はどれもこれも互いに離れている。
例えるのなら、遊園地でそれぞれのアトラクションが校舎になっている……というのが、一番|嵌《は》まった言い方だろうか。うん、どことなく夢があるこの表現、いつか幹也に話してあげよう。
高等部の校舎から学生寮までの道のりは長い。
途中、マラソンコースである林の中を抜けるのだけど、一応上履きのまま寮まで行けるように渡り廊下が造られている。
ぎしぎしと音のなる板張りの道を、わたしと式は歩いていく。
式の様子はどこかおかしかった。それもそうだろう。あそこまで似た人間を見せられて動揺しないはずがないんだから。
「玄霧先生が幹也に似ていたから驚いたんでしょう、式」
わたしの問いに、式はああ、と素直に頷いた。
「でしょう?幹也より先生のがハンサムだけどね」
「そうだな、玄霧のほうが顔の造形に隙がない」
台詞こそ違えど、わたし達の意見は同一だった。
そう、玄霧皐月という青年は黒桐幹也にそっくりなのだ。外見も似ているし、なにより雰囲気が瓜二つ。いや、歳をとっているせいか、全てをあるがままに受諾する自然さは玄霧先生のほうが強く感じさせる。
わたしや式のように周囲とは摩擦《ま さつ》を起こすしかない人間にしてみると、ああいう〝誰も傷つけない?という普通の人はいるだけでショックな筈だ。
事実、わたしだって――――幹也とわたしが違う人間なのだと気がついた時、わけもなく涙がでた。アレはいつの頃だったろう。もう思い出せないぐらい子供の頃、何かのきっかけでわたしは黒桐幹也がそういうひとなのだと分かったんだ。同じ屋根の下で兄妹として暮らしていて、わたしはいつのまにか幹也を欲しいと思っていた。
兄妹でそんな事を思うのは異常だと分かっている。けど、わたしはそれを過《あやま》ちだとは思わない。何か悔いる事があるとすれば、それは。
その、彼を大切な物だと認識できた、始まりのきっかけが思い出せないという事だけで―――
「―――でも、あの人は玄霧皐月という人です。どんなに似ていても、黒桐幹也ではないんだから」
口にしても仕方のない事をわたしは口にしてしまった。それは横で歩いている式も同じ意見なのだと思う。
けれど、頷くかと思った式は難しそうに眉をひそめて呟いた。
「似ているっていうよりアレは、むしろ」
そこで式は足を止めると、林を睨《にら》むように木々の奥をじい、と見つめた。
「鮮花。あの奥に何かあるだろ。木造の建物みたいだけど」
「ああ、アレは旧校舎。使われなくなった小等部の校舎で、冬休み中に取り壊す予定だけど、それが?」
「ちょっと見てくる。鮮花は先に戻ってろ」
黒い礼服のスカートを翻《ひるがえ》して、式は早足で林の中へと消えてしまった。
「ちょっと、式! 待ちなさい、独りで勝手に動き回らないって約束でしょう!」
叫んで式の後を追う。
「黒桐、鮮花さん」
その前に、わたしは背後から呼び止められた。
/1
◇
『式、新しい仕事だ』
と、トウコは電話越しに言った。
一月二日の夜、トウコは今までとは毛色の違った仕事を私に押しつけた。
鮮花の通う礼園女学院におかしな事件が起きたから行って調査をしてほしい、という内容に、私は心弾まなかった。
私―――両儀式が蒼崎橙子に協力しているのは殺人ができるからなのに、今回の仕事はただ原因の究明をするだけときている。それでは私の虚ろな心持ちは乾いたままで満たされない。
そもそも、トウコの仕事で何かを殺すコトはあっても人間という物を殺したコトは一度もなかった。たいていは訳のわからない化け物の始末で、夏に一度そういう機会があったけれど、結局、私は『物を視るだけで曲げる』という相手を殺すまでには至らなかった。
……正確に言うのなら、その仕事の最中に式がどうして殺人行為に執着するかが分かってしまって、私は殺し合いなら誰とでもかまわない、という妥協を結んでしまっている。
それはとりあえずお腹は膨れるけれど、味に満足できないという状況だ。
そんな生活に不満を感じはじめている最中、今度は事件の首謀者を発見するだけでいい、という曖昧な仕事がやってきた。
私は乗り気ではなかった。
けれど他にやる事もないのだ。ただ部屋で眠っているか、礼園女学院にいって眠るかの違いなら、断る理由が見当たらない。
私は詳しい事情を聞いて、妖精が見えない鮮花の目として礼園女学院に赴く事になった。三学期から編入予定と偽装して、冬休みの間だけの転入生として。
◇
林の中を歩く。
鮮花は付いてこない。
私は木々の力ーテンの奥に見える、木造の校舎を目指していた。
曇《くも》った天候のせいか、林の中は霧がかかっているように灰色だ。
礼園女学院の敷地は広く、校舎と校舎の間に植えられた木々は、すでに学校が所有する林の域を逸脱している。
礼園の敷地の大半は、木々に埋め尽くされた森だった。学園の中に森があるのではなく、森の中に学園がある。
腐葉土の地面を歩きながら、私はぼんやりと空気の匂いをかいだ。
滾滾《こんこん》と湧き出る水のように、空気には薫りがあり、色がある。木々の葉のにおいと虫の音が混ざりあって、心が霞に酔ってしまう。
熟れた果実みたいな甘ったるい空気。時間がゆったりと進ませていく風景たち。水彩で描かれた風景画の中を歩くような、ふわふわとした不思議な居心地。
―――たしかに。外界と遮断されたこの学園は一つの異界だった。