饭饭TXT > 海外名作 > 《空の境界/空之境界(日文版)》作者:[日]奈須きのこ/奈须きのこ【完结】 > 空の境界@txtnovel.com.txt

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作者:日-奈須きのこ/奈须きのこ 当前章节:15366 字 更新时间:2026-6-15 18:51

 ふと思い出してしまう。

 以前、一つのマンションに誰にも介入させない事で異界を作り上げていた男がいた。あいつはなんて回りくどい事をしたんだろう。この学園や両儀の屋敷のように敷地の周囲を壁でかこって誰も入れないようにすれば、それだけで世界は世界と切り離されるというのに。

 ほどなくして林を抜けた。

 小等部の校舎だったという建物は四階建ての古めかしい木造だ。

 森の中、木々を円形に伐り取った広場に、校舎は呼吸さえなく佇《たたず》んでいる。

 広場には雑草が生い茂っていて、なんだか草原みたいだ。

 校舎は朽ち果てる時を待つ、臨終まえの老人によく似ていた。

 草を踏みしめて校舎の中に入ると、中は外観ほどくたびれてはいなかった。

 小等部のものだからか、校舎はどことなく小さい気がする。板張りの廊下は、歩くたびにきいきいと音がした。

 きい、きい。キい、きイ。

 ……虫の音は校舎の中にいても聴こえてくる。私は無人の廊下の真ん中で歩くのをやめた。

「玄霧、皐月」

 さっきの教師の事を考える。

 鮮花は、アレが黒桐幹也に似ているといった。

 似ているというのなら、似ている。人間はみんな同じ顔つきだから、誰だってそっくりだ。

 けれど、アレは外見だけが似ているんじゃない。まとっている空気さえ同じなのだ。

「……似ているんじゃない。アレはそのままだ」

 けれど、何かが決定的に違う。

 なにが?

 答えは出ない。

 喉まで出かかっているのに、あと一歩で思い出せない。

 識《し》っているのに分からないなんて、私も随分と人間らしくなったものだ。

 半年前――――目覚めたはかりの頃は、分からない事なんてなかった。分からない事は両儀式が識らない事だから、考える必要なんてない。

 でも今は、両儀式が識らなかった出来事を、私は知識として経験している。事故の前の両儀式と事故から回復した私との間にあった絶望的なまでの断絶の壁は、だんだんと薄れていくように思える。

 それはきっと、私としての感情を持たなかった私が、こうやって未知の出来事と遭遇する事によって『私の記憶』を重ねているからだ。

 私は―――胸に空いている穴を、くだらない現実や瑣末《さ まつ》ごとにすぎないささやかな感情で埋めていく。依然として生きているという確かな実感はないが、目が覚めたばかりの頃ほどの虚無感はなくなっている。

 なら――――いつか、この胸の空がなくなれば、私は人並みのユメなんていうものを観れるようになるのかもしれない。

「淡い希望だね、織《シキ》」

 私は私に囁いた。

 答えはないと分かっていた。

『いや、それはつたない希望です』

 ――――なのに、応える声があった。

 キイ。キイ。キイ。

 虫の音がする。

 首の後ろに、ちくり、と何かが触れた。

「――――あ」

 意識が遠退《とおの》いて、ここにいたという記憶が白くなっていく。

 今見ている景色が、消しゴムをかけられたようにザーザーと無くなっていく。

 ……なんて、無様。ここがムシ達の巣だと判っていたからやってきたというのに、私は―――

「この」

 不愉快になって腕を動かす。

 自分のうなじあたりに手を伸ばして、私はたしかに何かを掴んだ。

 手の平より少しだけ大きい人型をしている、というのは掴んだ感触で判る。

 鷲掴みにしたソレを、私はそのまま握り潰した。

 キイ、と一際たかい音。

 それで遠くなっていく意識は元に戻った。

 首の後ろにやった手を戻して、じっと見つめる。

 手の平には白い液体しかなかった。どろり、とした粘着性の液体が床にぼたぽたとこぼれていく。

 潰した途端、ソレはこうなってしまったようだ。

 私は妖精なんて見た事がない。

 だからこれが鮮花が言っていた妖精像と同じなのかはてんで判別がつかなかった。

「……気色悪い」

 ぶん、と手を振るって液体を払う。粘着性のくせに肌に張りつかない、という不可思議な液体はキレイにとれた。

 虫の音はもう聴こえない。

 ……あまりに不愉快になったので勢いで妖精を潰してしまったが、それはやっぱり失敗だったみたいだ。

 あれほど群れていた妖精らしき気配は、もう一匹だってありはしない。

 仲間を殺されて逃げ出したのか、私が妖精を手に取れるのを見て妖精の持ち主が撤退したのか。

 どちらにしても、この校舎から手がかりはなくなったようだ。

 私は来た道をたどって、渡り廊下に戻る事にした。

 林の中の渡り廊下に戻ると、律儀な事に鮮花が待っていた。

 黒桐鮮花は私よりいくぶん小柄で、髪が長い。

 さっきの黄路とかいう女はお城の妃みたいなヤツだったが、鮮花はお城のお姫さまという表現がぴったりくる。ただ、その前に『勝ち気な』という単語が付けられるのだろうけれど。

 私は無言で鮮花の傍らへと歩いていく。

「あれ? 式、行かないの?」

 ……いきなり、鮮花は妙な事を口走った。

「行かないって、どこに?」

「だから―――あそこに」

 ……話はまったく要領を得ない。

 鮮花はやはり不思議そうな顔つきで私と、林の奥とを見比べる。

 ――――なるほど、と私は理解した。

「鮮花。いま何時だかわかる?」

「午後二時をまわったところだけど――――」

 愕然と鮮花は言葉を切った。時刻はすでに三時を回っている。

「一時間も立ち尽くしていたなんて余裕だな。何をしていたか覚えているのなら、問題はないけどさ」

 鮮花は無言で、かすかに腕をふるわせながら自らの唇に指をあてた。彼女は驚きを隠せない様子で中空を見つめている。

 おそらく。鮮花は私を呼び止めて、私が戻ってくるまでの間に何をしていたか記憶にないのだ。

「式、私、まさか」

 信じられない、と鮮花は身を震わせて呟く。

 それは怖れからくるものではなく、純粋に怒りからくるものだろう。自尊心の塊みたいな鮮花にとって、自分も知らぬまにやられていた、なんて事は屈辱以外の何物でもないだろうから。

「言うまでもないだろ。おまえ、妖精に奪われたな」

 とたん、鮮花はカッと顔を赤らめる。

 それは自らの未熟さと屈辱が入り混じってのもので、恥ずかしいんだか悔しいんだか。

 鮮花はいつだって冷静なくせに、こうやって感情を率直に表してしまう。それはとてもアンバランスで、周りからして見れば可愛らしい事に違いない。

「―――寮に戻ります。方針、改めなくちゃいけないみたいだから」

 拗ねるように言って、鮮花はつかつかと歩きだす。

 その背中を見て思った。

 実は私も、その少女らしい素直さに感心すると告げたら、鮮花はなんて反応するだろう。

 ……まあ、そんな事は考えるまでもないコトだ。

 私は今までと同じに、あえて何も語らず彼女の後についていく事にした。

   /2

 寮に戻って一年四組の生徒の何人かと話をし終わったころ、外はもう暗くなりかけていた。

 学校が休みといっても寮内の規律は生きているとの事で、私たちは鮮花の寮室へと移動した。

 ここでは午後六時以降、寮内の行き来さえ禁止されてしまう。トイレは別問題として、一階にある学習室を利用する時のみ部屋から出る事を許されるのだそうだ。

 高校から入学した生徒はこの不自由さに慣れず、たびたび友人の部屋に遊びに行っては見回りのシスターに発見されるらしい。小等部から過ごしている生徒は慣れたもので、無闇に外出はせず、するにしてもシスターの見回りルートを知りつくしているので見つかる事はないらしい。

 ……そんな話を、鮮花は丁寧に聞かせてくれた。

 今回の事件にまったく関係ない内容である事から、おそらくはグチなのだろう。

 鮮花は自分の椅子に座っている。

 一年生の部屋は相部屋で、鮮花のルームメイトは帰省していた。

 部屋には壁と一体化した机が二つと、二段ベッドが一つ。個人の持ち物であろう本棚やらカラーボックスやらが壁ぎわを占拠しており、部屋は細長い造りをしていた。

 建物自体が古いので寮室も古くさいのだが、それは歴史を重ねた古くささで、落ち着いた雰囲気を醸《かも》しだしている。

 鮮花は部屋に帰るなり制服を脱いで、パジャマに着替えていた。私も暑苦しい制服を脱ぎたかったけど、着替えなんて持ってきていない。

 仕方なく、制服のままベッドに腰をおろして鮮花の話を聞いていた。

「……というわけで、寮内での行動はできませんので今日はもうお休みです。起床は五時ですが、冬休み中は朝の礼拝はないから六時あたりまで眠っていても平気です。

 いい、式? 他の生徒やシスター達は、わたし達が一年四組の事件を調べているって知らないから、目立つ行動は極力さけること。あんたと違ってわたしはこのあと二年間もここで暮らすんだから、騒ぎだけは起こさないでよね」

 鮮花は昨日言った事を今夜も繰り返す。

 そんなもの、ほんとうにいらない杞憂《き ゆう》だ。

 私は眠る場所をここに変えただけの話で、やる気なんて存在しないんだから。

「安心しろ。オレの役目は視る事だけだから、刃物《エモノ》は持ってきてないぜ。まだ妖精使いとやらに個人的な恨みも持っていないから、平和なもんだよ。感情にまかせて突っ走るっていうのなら、おまえのほうが心配だね」

「私は冷静です。目的は真相の解明であって原因の排除じゃありません。調べるだけ調べたら、さっさと橙子さんにバトンタッチしますから」

 すんなりと受け流すけれど、鮮花の目はちっとも大人しくなんかない。

 昼間の妖精の一件が効いているのだろう。基本的に、鮮花はやられたらやり返す性格だ。

「そうだな。そう出来ればとてもいい、鮮花」

 鮮花はじとりと視線を向けてくる。

「……人を馬鹿にしてませんか、貴女」

「冤罪《えんざい》だよ、それ」

 困ったように非難してくる眼差しは幹也そっくりで、私はつい笑ってしまう。

「―――いいです。私は間違っても問題は起こさないから、式に心配してもらう筋合いはありません。さて、話を戻すけど。今日会った人の中でおかしな人はいた、式?」

 かちり、と鮮花は話題を切り替えた。

「おかしなヤツっていったら、会った連中全部だぞ。一年四組のやつらはみんな首元にアレがついてたし」

「アレって、式が潰したっていう妖精の血液?」

 鮮花は眉をひそめる。きっと、私の事をひどいヤツだとか思っているに違いない。……けど、それは事実だから否定はしない。

「血とは違う。蝶とかの翅《はね》についてる鱗粉《りんぷん》みたいな物だ。体液だったら連中も気がつくだろう。それと、玄霧《くろぎり》って教師にもあったぜ。あの時はなんだか判らなかったけど、思い返してみれば首元に残ってた」

「―――そっか。ねえ式、記憶を奪っていく理由ってなんだと思う?」

「知らない。オレがやってるわけじゃないから」

「ええ、ええ、そうでしょうとも。あんたに意見を訊くなんて、私も随分と弱気になったもんだわ」

 勝手に怒ると、鮮花はひとりで思案しだした。

「……十二月からDクラスの生徒達に送られていた手紙。手紙の内容は『本人も忘れている秘密』だった。

 同時期、学園内で妖精の噂が流れている。この妖精は枕元にやってきて記憶を奪っていくらしい。

 冬休み前のDクラスの教室で、ふたりの生徒が口論のすえカッターで切りあった。喧嘩の原因はやっぱり手紙。一月もの間、自らも知らない自分の記録を配達され続けたDクラスの生徒達はクラスメイトの言い争いを傍観してしまうほど、精神的に麻痺している。自殺者ぐらい出てもおかしくない状況だっていうのは、四組の生徒達と話して実感できた」

 ぶつぶつと鮮花は今までのあらましを整理している。

「式は実際に妖精に遭遇したし、私も一時問ばかり記憶に空白がある。……何をしていたんだろう。一時間もあればたいていの事は出来るっていうのに」

 記憶の空白は鮮花でも気になってしまうものらしい。

 ……私はどうだろう。

 三年前……私が高校一年の頃の記憶は穴だらけで、居心地が悪い。あの頃、街は無差別に人を殺してまわる通り魔事件に怯えていた。

 私は、その事件に関係していると思う。けれどその時に行動していたのは織のほうで、彼がいなくなった今、その記憶は永遠に失われてしまった。

「―――あれ」

 ふと、気付いた。

 なんで今まで気がつかなかったんだろう。

 三年前の殺人鬼に関する記憶がないのは、織がそれに関わっていたからだ。

 なら――私が事故に遭う直前の記憶がないのはなぜだ。あの時、私は織ではなく式だった筈なのに。

 もし今回の妖精使いとやらが忘却している記憶を知る術を知っているのなら、私は過去を手に入れられるかもしれない。

 けれど、やはりどうもしっくりいかない。

 鮮花が妖精とやらを信じているかどうか知らないが、私にはどうしてもその存在が納得いかないのだ。

 何か。根本的な勘違いを、私と鮮花はしているような気がしてならない。

「なあ鮮花。本人さえ忘れている記憶は、どうやって調べられるんだろう」

「そうね……催眠状態にして脳の深部からひきだすんじゃないかしら。記憶の四大機能って知ってる、式?」

「銘記、保存、再生、再認だろ。ビデオテープと同じ。録画した映像にラベルを貼って銘記する。それを大事にしまって保存する。見る時はデッキにいれて再生する。再生した内容が以前と同じか再認する。どれか一つでも故障すれば、脳は正常に働いてくれない」

「そう。本人が忘れていても、脳そのものが故障していなければ記憶はどこかに残されているのよ。脳は絶対に銘記した物は忘れないから。妖精はそれを奪っていくとしか思えない」

 ……物忘れを採集する妖精、か。トウコは悪意がある、と言ったらしいが、私にはどうも悪意とやらは感じられない。だって本人が忘れている記憶なんだ。そんなもの、奪っても本人だって気がつかない。

 それを手紙にして送り届ける、というのはむしろ善意からの行動ではないのか。

 あなたはこんな出来事を忘れていますよ、今度はなくさないようにしてくださいね、と。

「記憶を奪うのは何かの証拠を隠滅する為かもしれない。けど、忘れていた記憶を見せつける、っていうのはどういう意味合いなんだろう」

 疑問は言葉になって漏れていた。

 鮮花はそうね、と椅子に背を預ける。

「やっぱり罪の告発なんじゃないかな。おまえは昔、こういう罪をおかしているって報せるための」

「二ヵ月も、延々と違う罪を見せるのか。それは告発じゃなくてただの嫌がらせだ。子供じみてる」

 けど妖精は子供と相場が決まっているらしいから、そういうものなのかもしれない。

 私はそれで思考を止めた。

 どうせ目にすぎない私がどうこう思案しても、結論を出すのは鮮花本人だ。

 私は腰掛けたベッドに、そのまま寝そべる。

「ね、式。一つ教えてほしいんだけど」

 椅子に座ったまま、鮮花はどこか恥ずかしそうに何事かを尋ねてきた。

「その、妖精の見付け方って、どうやるの?」

 ……よっぽと妖精に記憶を奪われた事が悔しいらしい。

 けど、私にだって見付け方なんて解らない。

「しるもんか。しいていうのなら見ない事だけど、鮮花には無理だろ。どうしてもっていうのなら、そうだな。なんとなくあったかそうな所を適当に探ってみろ。カンがよければ掴まえられるぜ」

「空気が暖かい所、ね」

 なるほど、と鮮花は納得する。

 まったくのデタラメだったが、私は嘘は言っていない。

 妖精だって生きているのなら熱を発してる筈だ。ならそこだけは他より熱っぽいんだから、運がよければ触る事ぐらいは出来るだろう。

 ともかく、話はこれで終わった。

 私は鮮花の大きめな寝巻きを借りて、二段ベッドの上段で眠る事にした。

   忘却録音/

   3

 一月五日、火曜日。

 いつまでたっても起きない式を放っておいて、わたしは一階の学習室に向かった。

 時刻は朝の七時すぎ。学習室で勉強をしようなんて殊勝《しゅしょう》な生徒はいないのだが、だからこそ密会にはちょうどいい場所になる。

 学習室は寮生の為に設《もう》けられた図書室だ。各々の目的は違えど、夕方から消灯時間まで寮生たちはここに集まり、お喋《しゃべ》りをしたり本当に教科書を開いたりする。が、夕方からは鬼の寮監ことシスター?アインバッハがじきじきにご指導にくるので、彼女の目を盗みながらのお喋りや内職となるわけだ。

 とまあ、夕方からは恐ろしくも賑《にぎ》やかな学習室も、こんな朝方では人の気配は途絶えている。それを利用して、わたしはここにDクラスの委員長を呼び出していた。

 昨日、寮に戻って数人の四組生徒に話を聞いてみたけれど、みな同じような話ばかりでちっとも要領をえない。そもそも、部外者であるわたしに彼女たちが心を開いてくれるわけもないのだ。そうなると、こちらとしてはハラをわって正面から挑むしかなくなる。戦うのなら一対一は大基本。それなら、という事で一番話がまとまりそうなDクラスの委員長である紺野《こんの 》文緒《ふみお 》をわたしは選んだ。

 学習室に入ると、やはり人影はない。

 ストーブが点けられていない為だろう、広々とした学習室はひどく寒かった。

「黒桐、こっち」

 凛とした声が、学習室の奥から響く。

 図書室でもあるここは、部屋の奥が本棚によって埋められている。その棚と棚の間に隠れるように、紺野文緒はわたしを待っていた。

 扉を閉めて奥へと進む。

 紺野文緒は、一言でいうとはすっぱな娘だ。わたしと同じく高校から礼園に入学した子で、背がすごく高い。百七十センチは優に超えていて、迫力がある。

 本人も自分が少女らしくないと悟っているらしく、髪は短い。そのくせ顔つきはやけに大人っぽくて、大学生といっても通用しそうな雰囲気だった。

「すみません、朝早くから呼びつけてしまって」

 一応初対面なので、わたしはお辞儀《じぎ》なんかしてみる。紺野はハッ、と視線を逸《そ》らして皮肉げに両腕を組んだ。

「いいよ、どうせあたしも他の連中と一緒で眠れないんだ。何かしていたほうが気が紛《まぎ》れるってもんさ。で、話ってなに? 葉山のこと?」

 紺野文緒は、なんていうか、ものすごく竹を割った性格みたいだ。わたしが何か調べていると解っている上で、いきなり本題に入ってくる。

「……葉山って、葉山先生のことですか?」

「そうだろ。昨日から見慣れない美人を連れて、うちのクラスの連中に話を聞いてるって噂じゃないか。Aクラスの首席がさ、あたし達に用があるっていったらアイツの事に決まってるだろ」

 じろり、と彼女はわたしを睨む。

 ……さすがに、話は通っているみたいだ。

 わたしは紺野の鋭い視線を見つめ返した。

「葉山先生のことは正直考えていませんでした。けど、それはわたしの認識不足だったみたいですね。……率直に言うと、私はマザーからあなたのクラスで起きた事故について調べるように頼まれました。紺野さん、あなたはきちんと覚えていますか?」

 わたしの質問に、背の高い彼女はばつが悪そうに顔を曇らせる。

「……まいったね、学長|直々《じきじき》かあ。さすがに優等生は違うわ。あたしなんて事故の事は忘れて勉学に励みなさい、なんて追い返されたっていうのに。まいるなあ、ほんと」

「―――紺野さんも、あの事故の事を?」

「当然でしょう。これでもクラス委員だし。あたしもさ、玄霧《くろぎり》センセと同じなんだ。その場にいたくせに止められなかったし、あの日の事を全然覚えていないのよ。思い出してみれば、ああ、そういう事もあったな、ぐらいしかわからない。あの事故を起こしたふたり……嘉島《か しま》と瑠璃堂《る り どう》っていうんだけど、病院に運ばれてそれっきりだし。見舞いがてらに詳しい話を聞こうとして、学長にふたりがいる病院を訊きにいったら追い払われたのよね、あたし」

 光沢《ツヤ》のある髪を掻きながら、照れくさそうに紺野は言う。

 その仕草だけで、わたしはこの相手が気に入ってしまった。

「じゃあ、その―――貴女にも手紙が送られてきていると思うんだけど」

「ああ、アレね。うすっ気味悪いったらありゃしない。あたしは比較的少ないほうだけど、多いヤツは毎日だって。嘉島と瑠璃堂も毎日だったって話だから、かなりまいってたんじゃないか」

 手紙の内容は、本当に害のない過去の事がほとんどらしい。小学生の時に憧れの男の子と一緒に帰った事とか、いなくなってしまった飼い猫の話とか。

「初めはさ、つまんない事書いてるって思ったんだ。でもよく思い返してみると、それって自分の事なのよ。あたしはびっくりするっていうより、感心したほうかな。ああ、そんな事あったな、っていう。中には物凄く怯えて誰とも話さなくなったヤツもいるけど」

「それは、心にやましい事があるって事でしょうか?」

 だろうね、と紺野は頷く。

「一応訊いておきますけど、手紙の送り主に心当たりは?」

「……常識的に考えればないけど、これってもう非常識な話でしょう? 幽霊とか妖精がありっていうのなら、心当たりはあるよ」

 けど、その心当たりを紺野文緒は口にしてはくれなかった。あたし個人だけの問題じゃないから、と彼女は回答を拒絶する。

 わたしは攻め口を変えてみる事にした。

「では、紺野さんは今回の事をどう思います?」

「さあ。異常っていえば異常だけど、うちのクラスは前から壊れてたからさ。なんか、まわりくどい天罰なのかもしれないよ。黒桐は知らないだろうけどさ、Dクラスっていうのはほとんどが高校から礼園に入った子たちなわけ。問題児が多かったんだ、ほんと」

 あたしもその一人だけど、と彼女は付け足す。

 これは後から知った話なのだが、紺野文緒といえば中学時代では有名なバスケットボールの選手だったらしい。中堅企業の会長の一人娘である彼女は、本人の意思に反して礼園に入学させられたという話だった。

「葉山先生が寮に放火したって話は、どう?」

 ここが勝負所だ、と覚悟を決めてわたしは切り出す。紺野は目に見えて苦い顔をして、わたしから目を逸らした。

「……アイツが何を考えて寮を燃やしたかなんて、あたしにはわからない。葉山英雄って男はかなりいかれてた。アイツの口癖《くちぐせ》ってなんだったと思う? 兄貴はどうして俺に学長をやらせないんだ、だって! 信じられないでしょ? そんなの、高校もまともにでてないヤツが言う台詞《せりふ》かっていうの! あんなヤクザそのものの男に学長はおろか教師なんてやらせるべきじゃなかったのよ。佳織《か おり》が死んだのはアイツと、肉親だからって無職のアイツに教師をやらせてやった理事長のせいだ。あたし達は関係ない。そう、あたしの責任なんかじゃない……っ!」

 ……気丈なように見えて、彼女も神経がまいっていたのだろう。わたしを見もしないで、今にも泣きだしそうな顔で彼女は憎々しげにそう呟いた。

 わたしは、これ以上は何も訊き出せないと見切りをつける事にした。

「ありがとう。参考になったわ、紺野さん」

 わたしは紺野文緒に背を向ける。

「ああ、あと一つだけいい? 貴女、妖精は信じている?」

 去り際、わたしはどうでもいいアンケートみたいに、気軽に訊いてみた。

「信じられないけど、居るとは思うよ。他の連中もあたしも、嘘みたいに記憶があやふやなんだから」

 そう、と答えてわたしは学習室を後にした。

   ◇

 その後、四組の生徒に話を聞いてみたがどれも結果は同じだった。

 彼女達は誰もが疑心暗鬼になっていて、それぞれの部屋に籠もっている。それは何かを待っているようにもとれる閉じ籠もり方で、そのくせロをそろえて家に帰りたい、と呟くのだ。帰ればいいのに、と尋ねれば、誰もが口を閉ざしてしまう。……やはりまともに話が出来たのは紺野さんだけで、他の生徒達とは会話すら成立しなかった。

 総合結果としては、彼女達は全員が妖精を信じていた。つまり、だれもが手紙と記憶の欠落を持っているという事だ。

 それ以外に確信した事もひとつある。

 彼女達―――一年四組の生徒達は、クラスぐるみで何かを隠している。それが何なのかは解らないけれど、担任だった葉山英雄が絡んでいる事は、もう隠しようのない事実だった。

   ◇

 そういうわけで、わたしは職員室へと足を運ぶ。葉山英雄本人は十一月の学生寮放火事件を境に学園を去っているが、なんらかの手がかりが資料として残っていないかと期待して。

「失礼します」

 と、職員室の扉を開く。

 意外な事に中には誰もいなかった。

 もともと職員室は朝の職員会議にしか使われない事務室みたいな物で、シスター達はあまり寄りつかないし、事務員さんは冬休み中なのでいる筈もない。

「ああ―――神よ、感謝します」

 |にやり《アーメン》、と笑ってわたしは事務の資料棚をあさりはじめた。

 とにかく、去年の十一月あたりのファイルをかたっぱしからチェックしていく。

 一時間ほど夢中になっただろうか。それでもめぼしい情報は発見できなかった。

「……まいったな、これじゃあ本当に式をつれて校内を隈《くま》なく探すしかないみたい」

 そんな、ドーベルマンをつれて町中を歩くような真似はしたくないけれど、もうそれ意外に手はなくなってしまった。

 仕方なく散らかしたファイルを仕舞う。……と、自分の目を疑うほどの書類を見つけた。

「……葉山英雄、九七年二月就任、九八年十二月退職……」

 一見普通。けど、どこかおかしい。十二月に退職? そんな馬鹿な。葉山英雄は十一月の初めに寮に放火して、そのまま学園から姿を消した。なのに、なんで十二月まで職員として登録されているんだろう。

 しかも……退職になった理由が住所不定の為。ようするに、それって行方不明ってこと―――!?

 わたしは混乱する頭を抱えて、とにかく資料を元に戻し職員室から廊下に出る。

 と、そこであまり会いたくない人物に出会ってしまった。

「おや、職員室に何の用ですか、黒桐君」

「……おはようございます、玄霧先生」

 ぺこり、と一礼するわたしに、もうお昼だけどね、なんて気さくな返答を先生はしてくれる。

 昨日は式とふたりだったからよかったけれど、わたしはこの人と一対一で向き合うのはイヤだった。

 とにかく、苦手なのだ。

 不安で胸がどきどきする。それが幹也に似ているこの人への感情なのか、単にわたしが不安なだけなのか。とても、判別がつかないから。

「先生は、職員室になにかあるんですか?」

 いかにもその場しのぎな質問をする。

 そんなぞんざいな言葉にも、玄霧皐月は真剣に対応してくれた。

「ああ、マザーに頼まれていた仕事があってね。生徒たちの名簿を仏《フランス》語に書き換えなくちゃいけない。あちらには礼園に縁のある大学か幾つかあるから」

「へえ、わたし達の名簿を送るんですか」

「だろうね。黒桐君には他人事ではない話題かもしれない。留学生の候補は君と黄路《おうじ 》君が双壁だから」

 ……そんな話、初耳。

 わたしは適当に笑顔で応え、玄霧先生の脇を擦り抜けようとして、足を止めた。そういえば先生に訊いていない話題が一つ残っている。

「玄霧先生。いま、生徒たちの間で流行っている噂話って知っています?」

「ああ、妖精の話ですね。聞いています」

「先生はそれ、信じていますか? あ、もちろんわたしは信じていませんけど」

 妖精を信じてる、なんて思われるのが恥ずかしくて、つまらない事を口にしてしまう。

 そんなわたしを彼は柔らかな笑顔で見つめた。

「妖精というのは日本では珍しい噂でしょうが、あちらではポピュラーなんです。スコットランドでは猫妖精《ケットシー》や犬妖精《カーシー》という可愛らしい逸話もあって、わりと好きだったりします」

 ああ、そうか。玄霧先生はもともと外国の人なんだ。あちらの大学では民俗学の中に妖精分野というものまであるらしいから、あながち子供じみた質問ではなかったみたいだ。

「ケットシーって、長靴を履いた猫ですよね?」

「おや、よく知っていますね。喋る猫のお話は日本にもありますから、そうオリジナルな訳ではないんですが」

 ほら、どことなく知性の香りがしてきたじゃない。

 わたしは調子にのって、もう少し話をする事にする。

「では、あちらでは妖精の悪戯というのは実際に起こりえるんでしょうか? あくまで自然現象、土着風習の捉え方の一環として」

「最近はあまり聞きませんが、子供のすり替えはたまに起きるようです。農作を手伝いにくる〝余所者《よ そ もの》?はいなくなったようですけど」

 そうして、先生は少しだけ話をしてくれた。

 |手伝い小人《ブラウニー》や|叩く小人《ノッカー》と呼ばれる、家や鉱山にやってきて仕事を手伝ってくれる妖精というのは、ようするに村の中に住めない余所者の人間が変化して伝わったものだという。

 村社会は、それだけで独立した余分のないシステムだ。だから他の村から流れてきた者は簡単に仲間に入れてもらえない。結果として彼らは山や森に住む事となり、作物の収穫の季節にやってきて仕事を手伝い、親睦《しんぼく》を深めていくのだという。

 一方、子供のすり替え、とはそういった出来事が悪い方へと働いたパターンだ。金持ちの家に生まれた赤ん坊を、どこそこで捨てられた赤子とすり替える。当時は優れた家柄ほど神に祝福された者達という考えがあり、貧しい生まれの者は祝福された赤子が欲しくて自分達の子供とすり替えたのだそうだ。

「……その、すり替えられた子供というのはどうなるんでしょうか」

 なんとなく疑問に思って訊いてみると、先生はにこりと笑って答えた。

「安心してください。大抵はすぐに元通りになりますから。なにしろお金持ちの家ですからね、捜し当てるのは簡単なんです。当時は出産はかならず教会を通して行なわれた。

 教会で洗礼を受けない子供は、存在しない子供という事になる。市民権がなくなるのです。ですから、どんなに貧しい家庭でも教会にいってお金を払い洗礼を受ける。……まあ、受けねば拷問が待っていますから、初めから選択の余地はないんですが。

 ですから教会に行けば、どこで誰が出産したのかが判ります。子供のすり替えは、本当の妖精しか成し得ない不思議なんです」

「へえ、先生は本物を信じているんですか?」

「居るとは思います。ですが好きではないですね。本物の妖精が行なう悪戯は、少しばかり度が過ぎますから。今言った子供のすり替えだってそうです。妖精は何年か経って、とうとつに子供を親元に帰してしまう。帰ってきた子供は白痴になっているケースがほとんどで、両親は嫌がりはすれ喜ぶ事はなかったといいますから」

 たしかに、それは悪戯にしては酷すぎる。

 妖精といえば無邪気、というイメージをわたしは払拭しなければいけないみたいだ。

「……おっと、すみません。長話になってしまいましたね」

「いえ、楽しかったです。それでは失礼します、先生」

 わたしはもう一度お辞儀をして、早足で玄霧先生の前から立ち去ることにした。

   ◇

 正午を過ぎて、わたしは十一月に燃えてしまった東の学生寮に行ってみる事にした。

 別段目的があっての事ではない。ただ葉山英雄が燃やしたという学生寮を、一度ぐらいは見ておくべきだと思っただけの話だった。

 東館の周囲には縄が張られていて、立入禁止の札がかけられている。

 それを乗り越えて、わたしは東館の中へと足を踏み入れた。

 ……東館はその大半が焼かれてしまっていて、部屋が並んでいる東側の壁がごっそりと失われていた。

 何か、巨大な怪物がツメで薙ぎ払ったように壁がない。部屋があった区画はすべて焼け落ち、崩れて、押せばボロボロと灰になっていきそうなほどだ。

 それとは対照的に廊下のある西側はまともに残っていたりもする。廊下だけ歩いていれば、火事があったなんて判らないぐらい原形を留めているのだ。

 けれど焼け崩れた寮室の扉を開ければ、その先にあるのは外の景色と、少しだけ土台が残っている廃墟にすぎない。

 そんないびつな形をした、前衛的なアートじみた建物の中を歩いていく。

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