饭饭TXT > 海外名作 > 《空の境界/空之境界(日文版)》作者:[日]奈須きのこ/奈须きのこ【完结】 > 空の境界@txtnovel.com.txt

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作者:日-奈須きのこ/奈须きのこ 当前章节:15406 字 更新时间:2026-6-15 18:51

 ……ここに放火した葉山英雄という教師を、わたしは一度しか見ていない。彼はおもに三組から五組までの授業を振り当てられていて、Aクラスに来た事は一度もないのだ。

 わたしはただ、朝の礼拝儀式の時につまらなそうに聖書のぺージをめくっている葉山英雄しか知らない。三十歳ほどの男性で、顔の作りはそれなりだったと記憶している。

「一度しか見ていない相手を調べるなんて、バカみたいだ」

 ひとりごちて、わたしはここから立ち去る事にした。一階まで下りて、玄関に向けて廊下を横断していく。

 と、その時。

 玄関から見覚えのある人影が、わたしに向かってやってきた。

 長い黒髪と堂々とした美貌を兼ね備える人物は、礼園には一人しかいない。

 学園の影の実力者、黄路美沙夜《おうじ み さ よ》はなぜかわたしに近付いてくると、ニメートルほどの距離をおいて立ち止まった。

 彼女はわたしの顔を見て、にこりと微笑む。

「調子はどう? あれから何か進展して、黒桐さん?」

 柔らかに、黄路美沙夜はそう言った。

 瞬間、背筋に悪寒が走る。

 たしかな理由なんてない。

 けれどそれだけで。

 わたしは、こいつが昨日の挨拶の主だと直感した。

――――きい、きい、きい。

 虫のような鳴き声が、たしかに聴こえた。

 このままでは昨日の二の舞だ。また、いつのまにか記憶を奪われて何時間も立ちん坊をする事になってしまう。手袋を用意しなかったのは痛恨だけど、こうなったら焼《や》るしかない。

 わたしははっきりと目前の美沙夜を睨みながら、空気が不自然に暖かい場所を感知する。

 ……式はどうだか知らないけど、こと熱に関しての探知と加速なら、わたしはすでに一人前だ。

 大気の中で不自然に暖かい歪みぐらい、目をつむっていたって感じ取れる―――

「―――そこ!」

 もう胸のあたりまで迫っていた『何か』を、わたしは素手で掴み取った。

 手の平には、たしかに何かを掴んでいる感覚がある。きいきいと鳴くそれには目もくれず、わたしは黄路美沙夜から目を逸らさない。

「あら。貴女、妖精は見えないと教えてくれたのに、もう見えるようになったの?」

 余裕ありげに美沙夜は話しかけてくる。

 その偉ぶった態度で、わたしはこの相手を完っ壁なまでに敵と認識する事にした。

「……そっか。昨日の一時間、わたしは先輩とつまらない会話をしていたみたいですね」

「ええ。おかげで、貴女の事で解らない事は一つもなくなったわ。一時間もあったんですもの。貴女がどんな人間なのかなんて、この仔たちにかかれば簡単に手に入ります」

 黄路美沙夜は片手で自分の肩あたりを撫でる。

 きい、という鳴き声。

 おそらくそこにも妖精がいるのだろう。いや、彼女の周囲には彼女以外の熱が感じられる。数えてみれば、それは五十匹を超えていた。

 ……それは、妖精が見えないわたしにとって、絶望的なまでの戦力差だ。

「冷静ね、黒桐さん。驚かないなんて、つまらないわ。私は貴女の話を聞いて驚いたのに。そうでしょう? まさかこの学園で、私以外に魔術を習っている人がいるなんて思っていなかったから」

「驚きませんよ。初めから妖精使いがいるって判っていましたから。けど、驚いた先輩は慌てて私という邪魔者を消すために待っていたんですね。その行動自体は正しいと思いますけど……自分から正体を明かすなんて程度が低いですよ、黄路先輩」

 とりあえず言いたい事を言って、わたしはどうやって逃げ出そうかと考える。

 もともとわたしは原因の究明をするだけが役割だ。普通のケンカなら望むところだけど、殺し合いに直結する他の魔術使いとのケンカなんて、したくもない。

「黒桐さん。私、貴女を消そうだなんて思っていないわ。だって貴女は数少ない私の同類ですもの。いがみ合うよりは理解しあいたいと思わない?」

「……いきなり妖精をけしかけておいて、理解しあうもないと思いますけど」

「違うわ。その仔は効率のいい話し合いの席を設けるために使ったの。貴女には無意味に終わってしまって、ザンネンね」

 どこまで本気なのか、黄路美沙夜は涼しげに言う。

 わたしは――背後の逃げ道を横目で確認しながら、ちょっとだけこいつの言い分を聞いてみる気になった。

「話し合いって、私と先輩で、ですか」

「そう。黒桐さん、貴女はここに来てくれた。それだけで私は貴女に好感を持ったわ。だってここは―――」

「橘佳織が亡くなった場所だから、ですか」

 ええ、と満足げに彼女は頷く。

 けれどその目は、無慈悲な女王のように冷たい憎悪に濁っていた。

「十一月の火事で逃げ遅れた一年四組の生徒ですね。その子と知り合いだったんですか、先輩は」

 判りきったわたしの質問に、黄路美沙夜はええ、と優雅に頷いて答えた。

「佳織は私の後輩だった。小等部からの、可愛い妹みたいなものだった。要領が悪くて損な役回りを演じてばかりの子だったけれど、誰よりも信仰に篤《あつ》くて優しい子だった。

 けど、ここで死んでしまった。死ななければならないほどの罪なんてない、キレイな子だったのに。信心深い彼女は、そうであるが故にもっとも辛い選択をしてしまった」

 辛そうに、本当に悲しむように美沙夜は語る。

 けれど、そこから先には慈悲らしき心は一切存在しなかった。

「なのに、彼女達は悔い改めもしない。佳織が命まで投げ出したというのに、以前と何も変わらないのです。そんなもの、すでにヒトではありません。一年四組の生徒達はみな罪人です。あのようなモノ達は私の学園にはいりません。ゴミは焼き捨てるべきでしょう」

「一年四組の生徒が、橘佳織を殺したとでも言うんですか」

「―――それなら―――いえ、そのほうがなんて救いがあった事でしょうね、黒桐さん。佳織は自殺したのです。この意味は、貴女には解りません」

 軽蔑するような眼差しで、黄路美沙夜をわたしを見た。

 彼女の言い分には不明な部分が多すぎる。どうやら一年四組というものが橘佳織の焼け死んだ原因らしい。

 しかし……わたしには解らない、とはどういう意味なんだろう。

「解らなくていいですけど。結局、橘佳織の復讐なんですか、この騒ぎの原因は」

「ええ。彼女達には地獄の底がふさわしい。この学園で安穏に過ごさせる事はできません」

「本当に、殺す気ですか」

 短く、わたしは問いただした。

 答えは判りきっている。黄路美沙夜は四組の生徒を人間とみなしていない。なら無造作に殺人……いや、消去を行なうのだろう。

 けれど、彼女は首を横に振った。

「まさか。殺してしまっては、地獄には堕ちない。だから貴女には解らないのです。ですがそれを責めはしません。……手をお引きなさいな、黒桐さん。私、貴女とは争いたくありません」

 そう言うと、彼女はもう一度肩に乗っている妖精を軽く撫でた。

「見えないでしょうが、この仔は貴女の記憶を胎んでいます。キレイでしょう? 貴女の思い出は冷たくて、滑らかなの。大理石のように美しい。なのにその芯には強い炎が燃えている。私にはその中身は見れないけれど、手触りだけでとても純真なものと判ります。貴女―――とても良くてよ」

 黄路美沙夜という先輩は、そう告げてくすりと笑った。わたしは、久しぶりに――――そう、三年前に両儀式が幹也と一緒にやってきた時以来に、

 この女を、こてんぱんにしなくちゃ気が済まなくなった。

   …

 長い事、わたし達は無言で睨み合っていた。

 わたしはもう、逃げるなんて単語を思い出せないぐらい感情が昂《たか》ぶっている。

 美沙夜は、小さくため息をついた。

「仕方ありませんね。貴女とは気が合うと楽しみにしていたのに。そんな気がしない、黒桐さん?」

「ええ、まったくしません」

 わたしは速答する。

 美沙夜はふふ、と笑った。

「そうかしら?私、貴女と似ているのよ。たとえば、そう―――実の兄に、恋をしているところとか」

「………え?」

 本当に思いもかけない事を言われて、わたしは喉をつまらせた。カッ、と自分の顔が赤くなるのが判る。

「な、な、な」

にを言うんですか、と言いたいのだが、言葉にならない。

 黄路美沙夜は嬉しそうに目を閉じる。

「貴女の事は昨日、貴女自身の口から聞かせてもらったと言ったでしょう? 貴女のお兄さんの事も、貴女の魔術師の事も知っています。そんな所まで私達は似通《にかよ》っている。黒桐さんは半年前からだというけれど、私はもう少し後からかしらね。魔術というものを身に着けたのは」

 魔術。その単語が、わたしの思考を急速に冷却した。

 美沙夜は―――魔術を身に着けた、と言った。

「そうよ。佳織が死んで、私はその報復の為に妖精を操り、人から記憶を奪う術を身に着けた。

 真理を学ぶ為に魔術を習得したのではなく、個人の目的の為に魔術を身に着けたの。佳織の為に――彼女に関わった者の記憶を採集するのが私の目的。彼女の恥辱の痕跡をすべて消したいの。それ以外はどうでもいい問題よ。私がしたいのはそれだけ。

 形あるものを壊すわけでもなく、人を殺すわけでもない。どう、黒桐さん。これって悪い事かしら?」

「そんなのは、わたしの知った事じゃありません。けど四組の生徒達を脅しているのが貴女だという事はわかりました。その原因が橘佳織にあるという事も。ですが、玄霧先生はどうでしょう?」

 ぴくり、と美沙夜の眉が動揺に歪む。

 そう、黄路美沙夜が色々と理屈を並べて自らを正当化しようと、それだけははっきりと悪と言い切れる出来事だ。玄霧先生が担任になったのは橘佳織が死んで、葉山英雄が失踪した後だ。彼は事件に何の関係もない。なのに、妖精によって記憶を奪われているんだから。

「玄霧先生の記憶を奪ったのは、余分なことです」

 わたしははっきりと言ってやった。ここが、この女の理論武装を破綻《は たん》させる最大の好機だと読み取ったから。

 けれど予想に反して、彼女の動揺は一瞬で終わってしまった。

 いや、むしろ以前より強い意志でわたしを見据えてきてさえいる。

「違います。余分ではありません。あの人は、あんな事件になんて関わるべき人ではないのです。知ってしまった事実は、全て私が奪わなければいけない」

 ……なんだろう、この叩きつけるような断定の強さは。

 自分でも押されてるな、と分かっていながら、わたしは是非を口にする。

「―――どうして?」

 黄路美沙夜は、その長い髪をざあ、と揺らしてこう答えた。

「決まっているでしょう。あの人が、血をわけた私の兄だからです」、と。

「……実の兄? 先生が?」

 信じられない、と口にするものの、わたしはなんとなく納得していたりもする。

 ものすごい偶然だけど、たしかにそれは有り得ない話じゃない。

 黄路美沙夜、いや黄路の子供はみな養子なんだから、彼女の旧名が玄霧美沙夜という話も、まあ嘘だとは言い切れない。

 こっちのショックもおかまいなしで、黄路美沙夜はさらに語る。

「……ええ、私も初めは気付きもしなかった。

 佳織の死を知った後、貴女同様に一年四組に疑惑をもった私は葉山英雄[#「葉山英雄」に「ママ」の注記] [#「玄霧皐月」の誤記か?]を問い詰めたわ。佳織がなぜあんな事になってしまったかを知った私は、四組の担任である玄霧皐月に相談するしか手段がなかった。……もう、私ひとりではどうする事もできない状況だったから。

 玄霧先生はどこまでも優しかった。そんな人から記憶を奪うのは心苦しかったけれど、私は彼を識る為に記憶を奪うしかなかった。でも、今はその行為こそ幸運だったと思います。先生の記憶は、たしかに私の兄である事を証明していたんですから。

 皐月《あに》は佳織の死の真相を全て知っていました。告発するのは容易《たやす》く、しなければ自責に苦しめられるというのに、兄は彼女達のために黙っていようと決心していたのです。……私が詰め寄ると、死者より生者を尊重すべきだと兄は言いました。

 ですが、私は認めません。人を一人自殺にまで追い込んでおいて平然と暮らしている彼女達は許せない。なにより――――こんな汚らしい事に心を痛めている兄の姿を見る事が、私には耐えられなかった。

 だから、皐月から記憶を奪ったのです。私が妹だという記憶も、あの事件に関する記憶も、すべて。皐月は何も悩む事なく平穏に生きて、ただ私を愛してくれさえすればいい。見返りなんて―――何もいらないから」

 ……わたしは、言葉を失った。

 似ている。 似ている?

 誰と、   誰が?

 けど、ただそれだけだ。

 似ているだけ。わたし達は似ているだけだ。

 望む形、ほしい物、そのための努力が、ただ、違う。

「……でも、貴女は利用してるじゃない。何も知らない担任として、一年四組の秘密を先生に守らせている。それを貴女は見て見ぬふりで、好きだなんて口走ってる」

「それも、もうじき終わります。言ったでしょう、黒桐さん。私達は似ているのです。だから貴女の葛藤《かっとう》も理解できる。

 私なら―――貴女の望みを叶えてあげられる」

 だから仲間になれ、と黄路美沙夜は手を差し出してきた。

 黒桐鮮花は、その手を見つめる。

 決して許せない、仇のように。

「条件つきなら、見逃してあげてもいいわ」

 心にもない事を口にする。

 けど――もし。もしそれが本当に出来るというのなら、わたしは黄路美沙夜を―――

「貴女が、わたしの亡くした記憶を取り出せるなら」

[#地付き]―――殺してでも、その力を奪い取る。

「亡くした、記憶?」

「そう。わたしには、幹也《あに》を好きになった決定的な瞬間の記憶がない。気がついたら好きだった。だから、貴女がその記憶を取り出せるというのなら――」

「それは無理ね。本人が知らない過去は記憶ではなく記録です。妖精が掠奪できるのは貴女の記憶だけ」

 ……そっか。

 よかった、とわたしは内心で胸を撫で下ろす。

「なら―――交渉は決裂ね」

 さあ、あとは当たって砕けろだ。

 このまま美沙夜へと走って、必殺のネリチャギを炸裂させてやる。

 静かに体の重心を前に傾けた時、黄路美沙夜はまた何か口にした。わたしはもう会話をする気もないから、それを軽く聞き流す。

「ねえ黒桐さん。使い魔を作るには前身になるものが必要だと知っているでしょう?」

 それぐらい知ってる。わたしは、瞬時に彼女の言いたい事が解ってしまった。

 ……この時ほど、自分の卓越した思考能力を恨めしく思った事は、ない。

「なら―――あなたがさっきから握り締めているソレは、何から作ったものなんでしょうね?」

 美沙夜は笑う。

 わたしは手に握ったソレに視線を落とした。

 見えなかったものが、ちゃんと見える。

 妖精は、わたしがイメージしたものとは少し違っていた。

 ―――それは、一度しか見た事のない、葉山英雄のような小人だった。

 驚いてわたしは手を離す。

 その隙をついて―――美沙夜の手が、わたしの顔を鷲掴みにした。

 わたしの意識はバンジージャンプのように、まっさかさまに墜落していった。

   /3

   …

 そいつは言った。

「思い出を映像のように記録できるというのに、なぜ忘れる事ができるのか」

 私は答える。

「記憶はみんな、勝手に忘れてしまうもの」

 そいつは言った。

「それは思い出さないだけのこと。あなたはきっと覚えている。記録ができない私と違って、人々の記憶は失われる事はない」

 私は答える。

「思い出せないのなら、それは失われたということ」

 そいつは言った。

「忘れるという事は劣化させるという事です。思い出は失われるのではなく色褪《いろあ 》せていく廃棄物。もったいないとは思いませんか。みんな、永遠であるものを錆びつかせてしまう。永遠であるものを、自らの手で沈澱するだけの塵にしてしまう」

 私は答えない。

〝―――永遠でないということは、永遠であるということ?

 そいつは言った。

「永遠は還さないといけない。その嘆きを再生する。たとえ君が忘れ却《さ》ろうとも。記録は、たしかに君に録音されているのだから」

 私は言った。

「永遠なんて、誰が決める」

 そいつは答えた。

「わからない。だから、それをずっと探している」

 ―――そうして思った。

 考える事さえできないそいつにとって、解答とは導き出す物ではなく、他人から探し当てるしかないものなのだと。

 こんこん、というノックの音で私は目を覚ました。

 窓の外は灰色の空模様で、今が朝なのか昼なのか判別がつかない。

 時計を見ると、時刻は正午をまわっていた。

「黒桐さん、おられますか」

 部屋の外からそんな呼び声が聞こえてくる。

 私は眠りすぎで起こる頭痛に顔をしかめながらベッドから下りて、ノックされている部屋の扉を開けた。

 廊下に立っていたのはシスターの一人で、彼女は私を見て戸惑いの色を浮かべる。見慣れない生徒である私を見て困惑しているようだった。

「両儀式です。三学期から転入の予定ですが」

 そう言うとシスターはああ、と頷いて用件を告げた。

 黒桐の家から電話がかかってきているので、鮮花を呼び出しにきたらしい。

 今日にかぎって鮮花の家族から電話があるなんて、相手はただの一人しかいないだろう。

「なんでしたら私が代わりに電話をとりましょうか。黒桐さんのご家族とは親しくしていますから」

「ああ、両儀さんと黒桐さんはご親戚でしたね。それならば問題はないでしょう。電話はロビーの電話機に移してありますので、お早く出ておあげなさい」

 では、と一礼してシスターは去っていく。

 私は鮮花の寝巻きから礼園の制服に着替えて部屋を後にした。

 寮のロビーとは、つまり玄関口の事だと思う。

 昨日、この寮にやってくる時にダイヤルのない電話機がロビーのソファーの前にあるのを見ている。鮮花の話によると、外からの電話はシスター達が控える寮監室に繋がり、電話の相手が生徒に関わりのある親族でなければ切られてしまう仕組みになっているそうだ。

 シスターが電話の相手を〝害なし?と判断した場合にのみ電話はロビーに切り替えられ、生徒は一応プライバシーを守って会話ができるというシステムらしい。

 人気のないロビーまで歩いて、私は受話器を手に取った。

「もしもし、鮮花?」

 もう聞き馴染《なじ》んでしまった男の声がしてくる。

 電話の相手はやっぱり黒桐幹也だった。

「鮮花は留守だぜ。新年早々電話するなんて、妹思いなんだな、おまえって」

 なぜだか、私はわざと冷たい声でそんな事を言っていた。

 電話の向こうの幹也は、う、と言葉を呑み込んでいる。

「……式、なんで君が電話にでるのさ」

「鮮花がいないからだって言ったろ。あいつ、朝から張りきってるみたいだからな。早くカタをつけて家に帰りたいみたいだぜ」

「……そうかな。鮮花はあんまり家にいても楽しそうじゃないよ。寮のほうが気楽だって言ってるし」

「気楽だからって満足してるってワケでもないだろ、あいつの場合」

 私の言葉の意味も解らず、幹也は首をかしげているようだ。……まあ、解らないのならいい。

「それで用件はなに、幹也」

「別に。調子はどうかなって」

「知らないよ。明日あたり、また電話をかけて鮮花本人に訊けばいいんだ。じゃあな」

「じゃあな、ってちょっと待った、まだ一分も話してないじゃないか、式!」

 慌てる幹也の声が受話器から耳に響く。

 ふとガラスに映った自分の姿を見ると、私は受話器を手に持ったまま、かすかに顔をしかめていた。

 ……なぜだか、すごく怒っているような顔つきだ。

「これは鮮花|宛《あ》ての電話だろ。オレと話をするコトなんてないじゃないか」

「そんなのあります。本当は式が何してるか心配でかけたんだから、もう少し話をしよう。そもそもね、礼園に電話をかけるには鮮花宛てにするしかないんだ。そこらへんの話、鮮花から聞いてない?」

 ……聞いてはいたけど、私は答えなかった。

「いい。オレ、電話ってよくわからないから、話をするのイヤなんだ」

「……そっか。そういえばそうだね。なら仕方ない、今日はこれでさよならだ。礼園って一日に一回しか電話を取り次いでくれないから」

 残念そうに幹也は言う。

 ……そっか、今日はさよならなのか。

「待て幹也。暇なら一つ、頼み事をしてやる。ここじゃ判らないだろうから、外で調べてみてくれないか。葉山英雄っていう礼園のもと教師と、玄霧皐月っていう教師の事だ。ここに勤める前の経歴とか、遡《さかのぼ》れるか?」

「―――どうだろう。やってみない事にはなんとも」

 それは幹也なりの承諾の表現だ。

「別にそう重要な事じゃないから、判らなくてもいい。言っておくけど無理はするなよ。じゃあ、一人で歩き回ってる鮮花を捜さないといけないから、切るよ」

「ああ、待って。こっちからも一つ頼み事があるんだ。礼園の生徒に橘佳織って子がいたと思うんだけど、その子の成績を調べておいてくれないかな。体育の出席率とか、そのヘン。礼園って資料を書類だけでまとめてるから、外からじゃ入手しようがなくて困ってたんだ」

 ……? 思いもしなかった事を幹也は口にする。

 わけが解らなかったけれど、何か意味があるのだろう。

「わかった。余裕があったらやっとくよ」

 言って、私はがちゃりと受話器を置いた。

忘却録音/

 4

 お眠りなさい黒桐さん。虚ろな眠りの中で、貴女の嘆きを再生してあげるから―――。

 そう、黄路美沙夜が耳元で囁《ささや》く。

 わたしは夢とも眠りともつかない曖昧《あいまい》な微睡《まどろ》みにいて、ただ瞳を閉じたまま何かを見つめていた。

 ゆめのようなユメの途中、わたしは、ずっと永遠を見つめている――――――。

〝そんなのはイヤ。わたしは特別でありたいの?

 ……ちいさなこどもの頃、わたしは父にそう告げた事がある。あれはいつだっただろう。とても遠くて、もう父の顔も自分の姿も思い出せないぐらい、ずっとずっと遥かな出来事。

 物心がついた時から、黒桐鮮花はただ一つという言葉に憧れていた。それは呪縛と変わらないものだったけれど、わたし自身、そういう在り方しか愛せなかった。

 どうしてなのかは解らない。ただ、わたしは周りの人々みたいに生きるのがイヤだった。

 当たり前に目覚めて、当たり前に暮らして、当たり前に眠るという事を軽蔑していたと思う。

 わたしはわたしだけ。だから、誰とも違うものにならないといけない。

 そんな思いだけを漠然と抱《いだ》いていたこどもは、何が特別であるかという事もよく解らないで、ただ周りより優れている事だけが〝違うこと?だと信じてしまった。

 早くおとなになろうとして、無邪気である事が許されるわずかな幼年期を捨てさった。

 無理遣りに成長させた知識を自分だけの秘密にして、周囲には普通のこどもと思わせて欺《あざむ》いた。

 そうする事で、わたしは同じ年ごろのこども達より特別になった。

 天才ともてはやされたかったわけじゃないし、優等生だなんて思われたくもなかった。だって、そんなのは特別じゃない。わたしが成らなければいけないものは、言葉には表せない〝違うもの?だって識《し》っていたから。

 一番でなくてもいい。一番弱い人間でだってかまわない。

 わたしは、ただ、特別なものになりたかっただけ。

 そうして色々なものを切り捨てて、わたしは少しずつ周りとズレはじめた。手に入れた知識で近寄る人たちを傷つけて、遠ざけて、恐がらせた。

 嬉しくて、わたしはもっと余分なものを捨てていく。友達や先生はもちろん、両親でさえわたしを敬遠しだして、わたしはようやく落ち着ける自分を手に入れた。

 あの時、黒桐鮮花《わ た し》を支配していた感覚は無だった。

 まだ元に戻ったというわけではないけれど、わたしは生まれる前の素の位置に近付きつつある―――そんな感覚。

 それが間違っているなんて、こどものわたしには判らない。ただ気持ちのいい事だから、それに善悪があるなんて考えもしなかった。

 あのまま進んでいたら、確かにわたしは違うものになっていたんだ。ダレカとは違うもの。ダレカとは暮らせないもの。……ダレカを、傷つけるだけのモノに。

 けど、それがとても損をしている事だと気がついた。

 正義の味方とか白馬に乗った王子が劇的にやってきて、わたしを諭《さと》したわけではない。なんとなく、すごく自然に、わたしはもっと楽しい事を落としてきたんだ、と後悔できた。

〝……なにやってるんだ、あざか。ひとりで遊んでもつまんないだろ。早くうちに帰ろう。もうこんな時間じゃないか?

 そう言って、いつもわたしを迎えにくる少年がいた。

 いつも、わたしはひとりだった。そのほうが楽しかったから、迎えにくる少年をわたしは嫌っていた。もっと酷いことに、歳相応の少年らしさしかないその人間を軽蔑さえしていた。

 けど、いつだって少年は迎えにきてくれた。

 両親でさえ話しかけないわたしに、本当に自然に笑いかけてくる。

 そこに打算はなかった。少年は損得抜きでわたしに話しかけてくる。そのたびに頭が悪いな、と内心で軽蔑するのに、少年はそんなのおかまいなしで手を握って、わたしを家まで引っ張っていく。

 それは兄という立場だから採った行為なのだろうけれど、きっと少年はわたしが違う家の子でもそうしたと思う。

 わたしは、特別である事を望んだ。

 彼は、ただ、そこにいるだけだった。

 ちくりと胸が痛んだけれど、でも、やっぱりわたしは変わらないままで毎日を浪費するのだ。

 それが変わったのは、どうしてだろう。

 気がつけば、わたしはその少年を目で追うようになっていた。

 例えば、犬に襲われそうなところを助けてくれたとか、両親に怒られた時に庇ってもらったとか、川で溺れて死にそうな時に手を差し伸べてくれたとか、そういう事は一切ない。

 何の理由もなく、わたしは兄を愛していた。

 人間的に好みだから? けど、周りに壁を作っていたわたしが、そもそも人を好きになるわけなんてない。

 本当に理由もなく、ある朝に目覚めたら、わたしは兄に恋をしていたのだ。

 その時、わたしは兄である少年を憎んだ。

 特別であろうとするわたしが、なんであんな平凡な相手に恋愛感情を持たなくちゃいけないんだって、その理不尽さに怒りさえした。

 だけど、こればっかりはどうしようもない。

 いくら否定しようにもわたしは少年をずっと観察している。ひとりで遊びにいって、夕暮れまで待ちぼうけをして、迎えにきてもらう事を糧《かて》にしている。

 軽蔑していた笑顔は、やっぱり軽蔑するほど考えなしのこどもの物なのに、その反面でわたしは淋しかった。

 ――――あたりまえに目覚めて。

 ――――あたりまえに暮らして。

 ――――あたりまえに眠って。

 そんな生活をわたしは嫌悪していた。けど違ったんだ。

 ……何度、わたしは兄に謝ろうとしただろう。黒桐鮮花は長いこと兄にひどい仕打ちをしていて、ごめんなさいの一言も言えなかった。

 ……でも、もう口にはできない。

 わたしは、そういう生活が、ずっと恐かっただけなの。

 それに気付かせてくれてありがとう、お兄ちゃん。

 ……そんな台詞、無邪気だった幼年期を捨てたわたしには口にできない。

 ……けど、と思う。いったい、兄はわたしに何をしてくれたんだろう。

 幹也がはっきりとわたしを負かしたわけでもない。

 幹也がわたしに説教をしたわけでもない。

 第一そんなの、わたしだったら論破して逆に言い伏せていたに違いないんだ。

 理由のない心変わりと、発端《ほったん》のない愛情。

 気がつけば強く愛しているという事実だけがあった。

 ――――いや。

 きっと、理由はある筈なんだ。わたしが忘れているだけで、なにかとても大切なことをなくしている。

 なら、思い出さないといけない。

 わたしがわたしを信じられるように。

 この恋慕が確かなものだと誓えるように。

 そうすれば、きっと―――鮮花は、生まれて初めてごめんなさいと言えるんだ。

 すごく不器用な口ぶりになるだろうけど、でも本当に素直な心で、お兄ちゃんに謝れるから―――

   …

「起きろ鮮花。風邪ひくぞ」

 聞き慣れた声が、男性のようなイントネーションで聞こえてきて、わたしはゆっくりと目を開けた。

 誰かがわたしを抱き起こして、顔を覗き込んでいる。

 腰には冷たくて、硬い感触。

 廊下で眠ってしまったわたしを、誰かが起こしてくれているのだとおぽろげに理解できた。

「幹―――」

 途中まで名前を言いかけた時、相手が黒髪の女と判って口を塞いだ。わたしと女……両儀式は、お互いに無言で見つめ合う。

「……………」

 式は、とうとつに手を離した。

 彼女に抱えられていたわたしの上半身は、それでバタンと床に打ち付けられる。

「い、いきなり何するのよ、このばか!」

 思いっきり背中を廊下に打ち付けて、わたしはたまらず立ち上がる。

 式は感情のない目でこちらを一瞥《いちべつ》すると、目が覚めたろ、なんてどうでもいい言い訳を口にした。

「ええ、覚めたわ。覚めましたとも。おかげでどんな夢を見てたか忘れるぐらい、爽快な覚醒だったわ!」

「なんだ。またやられたのか、おまえ」

 言われて、わたしは思い出した。

 黄路美沙夜との会話。その後の出来事。

 妖精を掴まえて、その後に隙をつかれてあっさりと眠らされて、こうして式と話しているという事。

「あれ、おかしいな。やられたのは事実だけど、今度はもってかれてないみたい。私、記憶は鮮明だもの」

「じゃあ妖精使いを見たんだな」

 ええ、とわたしは頷く。

 拍子抜けといえば拍子抜けだけど、今回の事件の首謀者ははっきりした。ふと腕時計を見てみると、時間はあれから数分と経っていない。

 おそらく、彼女はわたしをここでどうにかするつもりだった。けどその前に式がやってきたので撤退した、という所だろう。わたしは知らぬ間に、両儀式に助けられたということか。

「……ありがと、式」

 式が聞きとれないように早口で小さく言っておく。そうして、わたしは今回の主犯が黄路美沙夜だという事を告げた。

「黄路美沙夜って、昨日の背の高い女?」

「そう。ついさっきまでやりあってたけど、式が来たから逃げ出したみたい」

 そっか、と式は頷く。けれど彼女は指を口元にあてて、なんだかしっくりいかない様子だった。

「どうしたの、式。なにか腑《ふ》に落ちない点でもあるの?」

「だって、あいつ自身も忘れてるのに」

 式は訳の分からない事を口にする。

 ……けど、それは何か、とても意味のある単語だ。

 美沙夜自身も忘れている。それは、つまり、その……

「ま、いいか。人間なら物忘れの一つや二つはあるさ。それより鮮花。幹也から電話があった。なんでも橘佳織とかいう女の成績を調べてみろってさ」

「――――え?」

 式の台詞は、わたしの中途半端な思考を止めてしまうほど意外だった。

 わたしは、幹也がこういった類の事件に関わるのは許せない。

 彼は夏におかしな幽霊事件に関わって、三週間ばかり眠り続けた事がある。幸い幹也は一人暮らしだから両親には知られなかったし、昏睡していた身体の管理は橙子師が行なってくれたから良かったものの、橙子師がいなかったら三日ほどで命を落としていただろう。

 それ以来、わたしは幹也がつまらない厄介事に関わらないとようにと目を光らせている。……始末の悪い事にあの男はこういう事にだけは物凄くカンが働いて、去年の十一月だって寮の火事の事で色々と勘繰っていたりしたのだ。

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