饭饭TXT > 海外名作 > 《空の境界/空之境界(日文版)》作者:[日]奈須きのこ/奈须きのこ【完结】 > 空の境界@txtnovel.com.txt

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作者:日-奈須きのこ/奈须きのこ 当前章节:15365 字 更新时间:2026-6-15 18:51

 遠慮がちな幹也の言葉に、わたしはええ、と力強く肯定する。

「それが彼女の自殺の理由なんでしょう。でも――それならどうして堕胎しなかったのかな。葉山に言えば、それぐらい用意はしてくれたでしょうに」

「女の子だからね。子供を堕ろす事はできなかったんじゃないかな」

 なんか偏見っぽい幹也の受け答えに、わたしはああ、と違うところで納得した。

 一年四組の連中が彼女を迫害していたのはソレなんだ。いつまでも子供の堕胎を了承しない橘佳織。彼女が堕胎しないかぎり、いずれクラスの秘密がばれてしまう。そうなれば彼女達は破滅だ。葉山英雄が指示を出すまでもなく、彼女達は橘佳織を迫害していた。けれど強く暴力もふるえない。行きすぎた暴力をふるえばシスター達に異常を感付かれるし、なにより橘佳織自身が耐えきれなくなって、シスターに自分の罪もろとも懺悔《ざんげ 》してしまうから。

 ……そんな針のムシロのような状況で三ヵ月間、橘佳織は耐えてきた。

 周囲からの迫害と、自身が持ってしまった消せない穢れ。

 それでも人が好かったという彼女はクラスメイト達を告発できず、板挟みになって自殺してしまったのか。

 なんて――――

「――――弱いひと。死ぬ覚悟があったのなら、妊娠しているっていう事実だって耐えられるでしょうに。死ぬ事で全てを投げ出すなんて、完全な敗者だわ。子供の頃から礼園で暮らしているのに、外から入ってきた連中に負けるなんて」

 わたしは一度も見た事のない橘佳織の人のいい笑顔を想像して、ぎり、と歯を噛んだ。死ぬ事でしか解決できない無意味さに、同情さえうかばない。

 けど、電話越しの兄の声はそれを否定した。

「違う。―――なんて辛い決断だ。僕も、今の鮮花の言葉でようやく気がついた。……前に自殺という事について考えさせられたけど、橘佳織という子に関しては世間一般の考えは当てはまらない」

 まるでどこかが痛むように、苦しげに幹也は言う。

 わたしには、彼がそこまで断定する意味が解らなかった。

「……? 兄さん、どうして橘佳織には世問一般でいう自殺が当てはまらないんですか。人間は辛いから自殺するんでしょう? 橘佳織だって、この現実に解決策がなくなったから死という逃避を選んだんだと思います。自殺しない人間というのは、転じて何もない人間―――つまり、自殺する意味さえない人間だけだもの」

 わたしの反論に、だからおまえには解らない、と幹也は言う。

 それは、黄路美沙夜と同じ台詞だった。

「私には、解らない?」

「ああ。いま、橘佳織は小等部から礼園にいるって言ったろ。なら彼女は敬虔なクリスチャンだって事だ。いいか、鮮花。クリスチャンは自殺しない。基督《キリスト》教において自殺は劫罪だ。基督教は生き抜いたすえに祝福されるのが教義なんだよ。だから、彼らにとって自殺は殺人と同じかそれ以上の劫罪になる。橘佳織は、自分の為に自殺したんじゃない。自分の為なら自殺なんて出来ないんだ、彼女は」

 幹也は本当に辛そうに言う。

 わたしは、声もなく息を呑み込んでいた。

 ―――たしかに、その教義を失念していた。輪廻転生を否定する基督教は仏教とは違って、死後の世界に救いが用意されているわけではないんだ。

 それを知ってはいたけれど、しょせん高校から朝の礼拝儀式に参加しているだけのわたしにとって、そんな教義は英単語の一つと変わりはない。だから日常の常識として思考の端にさえ存在しなかった。

 けど―――橘佳織なら、それは自身の純潔と等しく守るべき戒律になっていただろう。

 おそらくは生まれた時からクリスチャンだった彼女にとって、自殺とは死より恐ろしい出来事なんだ。

「…………じゃあ、どうして彼女は自殺したっていうんですか」

 考えがおよばず、わたしは同じ質問を繰り返す。

 きっとその答えは、わたしには辿り着けない領域のものだ。人間として冷たいわたしは、彼女の達していた境地など予想もできない。

 幹也は言った。

「贖罪《しょくざい》のつもりだったんだ、たぶん。

 橘佳織は自らの罪と、仲間達の罪を思って、辛かったから死んだんじゃないと思う。彼女たちの身代わりになって、一人地獄に堕ちる事でクラスメイト達の罪を贖《あがな》おうとしたんだろう」

「……だから」

 わたしはその先を声にできず、少しの間だけ沈黙した。……だから貴方には解らない、と黄路美沙夜は言ったんだ。

 彼女の怒りは本物だ。橘佳織の死の意味を誰より深く理解していた彼女は、だからこそ以前と変わらないままの一年四組の生徒達が許せなかった。

〝殺しては地獄に堕ちない?と彼女は言った。

 そう、他人の手にかかった死では地獄に堕ちる事はない。橘佳織が堕ちた場所に彼女達を陥れるには、殺人では無意味なんだ。

 だから黄路美沙夜は、彼女たちが自分から死ぬように少しずつ追い詰めていた。

 真綿で首を締めるように、少しずつ少しずつ。

 罪による懺悔などではなく、周囲の目から逃れるための無様な死に方を選ぶように、と。

 5/

 ……………冷たい雨が降っている。

 寒さも暑さもあまり感じない式が、寒いと感じている。

 雨の中。とても寒くて痛い雨のなか。

 自分は小刀を手にして、意志のない瞳で誰かをずっと見つめている―――――――――――――――――――――――――――瞬間、私は目を覚ました。

 目の前の中空に『妖精』が翔んでいる。

 瞼《まぶた》を開けるのと同時に、服の裾からナイフを取り出してソレを刺し貫いた。

 だん、という音をたててナイフは壁に突き刺さった。ナイフと壁の間では、串刺しになった妖精らしきものがキイキイと声をあげている。

 鮮花の話の通り、少女のフォルムをして虫の翅《はね》を生やした生き物は、小さい手でナイフの刃を引き抜こうとする途中、力つきて溶けていった。

「……しまった。もう少し我慢してれば」

 呟いて、私は口を閉ざした。

 もう少し我慢していれば、何だというのか。

 私が―――両儀式が忘れている三年前のあの日の出来事が思い出せたとでも?

 私が二年ものあいだ昏睡状態におちいった原因である交通事故。私本人の記憶にまったくないその出来事を思い出せると―――?

「いい加減、頭にきたぞ」

 短く文句を言って、私はベッドから飛び降りた。

 小さく、床のきしむ音が廊下から聞こえてくる。

 それはさっきまでこの部屋の入り口に立って、中の様子をうかがっていた誰かが逃げ出す音だった。

 私はナイフを裾に仕舞いなおして部屋の外に出る。

 廊下は東と西にのびている。走り去る人影は東側へと消えていった。その後ろ姿は間違いなく―――

「……黄路美沙夜か。オレと鮮花を間違えた……ってワケじゃないよな」

 それなら、被害を受けたのは私だ。大人しくしていろと鮮花には言われたけれど、報復ぐらいはするべきだろう。

 老朽化した板張りの廊下を走って、彼女の後を追いかける。

 黄路美沙夜の足は予想より速く、距離はあまり縮まらなかった。

 美沙夜は迷う事なく寮舎を出ると、校舎へと向かっていく。鮮花と一緒に歩いた林の中の渡り廊下を過ぎて高等部の校舎に辿り着くと、美沙夜は校舎ではなくその横にある建物―――礼拝堂へと入っていった。

 それが罠だという事は判っている。

 けれどここまで走らされて部屋に戻るのも馬鹿らしい。私は一度だけため息をついて、無造作に礼拝堂の扉を開けた。

 重い扉は音一つたてない。

 薄暗い礼拝堂の中に、人影は一つしかなかった。

 私は扉を閉めて、その人物と向かい合う。

 距離にして十メートルほど離れた場所に佇《たたず》む人物は、無言で眼鏡のズレをなおすと、彫刻を観察するような目付きでこちらを見た。

「おや。こんな時間に礼拝堂に何か用ですか、両儀君」

 淡い微笑を男は浮かぺる。

 それは柔らかで、屈託のない子供の微笑みだ。けれど色がなくて、中身というものがない虚ろな感情でもある。

 以前と同じ、ひどく乾いた笑みを浮かべて、玄霧皐月《くろぎりさ つき》だけがそこにいた。

忘却録音

 /5

「じゃあ、次に玄霧皐月の事だけど」

 受話器の向こうで、新しいファイルを取り出している音がする。

 幹也は玄霧先生についても調べたらしいけれど、わたしにはどうでもいい事柄だった。

 葉山英雄のやっていた事と一年四組の秘密が明らかになった今、もうやることなんてないんだ。黄路美沙夜がやろうとしている事も解った以上、橙子師に任せればこれ以上の犠牲者を出す事もなく事件は解決するだろう。

「いいです、兄さん。私と式もすぐに外出届を出して帰りますから、事務所で待っていてください」

「そう? けど、まあ聞くだけ聞くのも無駄な事じゃないと思うよ。あながち無関係とは言えないから」

「無関係とは言えない、んですか?」

 うん、と幹也は頷く。

 そこに感情の起伏はない。……兄がこういう口振りをする事は珍しい。それだけで、葉山英雄の事なんかより玄霧先生に関する話のほうが重要なのだと直感した。

「まさか、玄霧先生も援交と関係があるって言うの?」

「いや、そっちの話とはまったく別の話。玄霧皐月は一年四組の事件とは関わっていない。少し話は変わるけど、鮮花は玄霧皐月がどこの生まれだか知ってるかな」

 言われて、わたしは思考を巡らした。

 ……名前からして日本なんだろうけど、彼は長いこと外国に留学していたという。もしかすると両親が日本人なだけで、生まれは外国なのかもしれない。

「……よくは知りません。けどイギリスに長く居たって話だから、もしかするとそっちのほうに実家があるかもしれませんね」

「ああ、玄霧皐月はウェールズの片田舎の生まれらしい。ただ、彼は十歳の頃に養子に出されていてね、玄霧皐月という名前は養子先の両親が付けたものなんだそうだ。玄霧の姓になるのはいいとして、名前まで変えるなんておかしな話だろ」

 それは―――まあ、おかしいといえばおかしいと思う。

 けど養子にとった親が玄霧先生を本当の息子のようにしたい、と願ったのなら、昔の両親がつけた名前を変えるぐらいはするんじゃないだろうか。……もっとも、名字の変更はともかく名前の変更なんていうのは聞いた事がないけれど。

「それでさ、当時の事を知ってる人から話を聞いたんだけど、玄霧皐月は神童扱いされるほど頭が良くて、非の打ち所のない子供だったみたいなんだ。なのに彼の両親は皐月を嫌って養子に出した。けど、養子にとりたいって人はいなかった。そんな状態がしばらく続いた後、噂を聞きつけて遠くの街の日本人が彼を養子にもらったっていう話。その後の事はあっちの学校に記録が残っているから彼の経歴ははっきりと遡れるんだけど、養子に出される前の事がどうにも不明なんだ」

 両親に嫌われて養子に出された……か。あの先生にそんな暗い過去は似合わない気がする。

 ……もっとも、わたしはそんな話の内容より、当時のウェールズの事情を知っている人を見付けだした兄の手腕のほうが気になった。いったいどんな情報源をもっているんだろう、この男は。

「けど、神童とまで言われた子供を養子に出すなんて、そこまでご両親は子供を嫌っていたんでしょうか。その、本当はお金に困ってとか、そういった理由じゃなくて?」

「問題はそこなんだ。正しく言うとね、玄霧皐月が神童だったのは十歳の頃までで、それからは逆に人並み以下になってしまった。脳の障害なのかどうかは不明なんだけど、彼は十歳の頃から物事を記憶できなくなってしまったらしいんだ。目で見た映像を記録できないっていう症状で、一時は白痴と変わらない状態だったらしい。彼の両親はそんな息子を嫌って養子に出そうとしたんじゃないかな」

「物事を――――記憶できない?」

 呟いて、わたしは脳の芯がぐらりと揺らぐような感覚を味わった。玄霧先生の症状は、今回の事件とあまりにも意味合いが近すぎるから。

「でも先生は普通です。ちゃんと物事を覚えているし、知識も豊富だし。そんな症状なんて、全然感じません」

「そりゃあそうだろ。治ってなければ教員免許なんてとれないよ。ただ、そういう昔があったってこと。

 そうして養子に出された玄霧皐月はもとの神童ぶりを取り戻して十四歳にして大学に入学、言語学の博士号までもらってる。将来が有望すぎた彼は、けれどそのまま一教員としてあっちの学校を転々としているんだ。今回みたいに礼園に移ってきたのは、彼にしてみればそう珍しい事じゃない。彼の勤務した学園で自殺者が出るのも、同じ」

「―――いるんですね。玄霧先生が勤務した先で自殺した生徒が」

「今どきの学校なら、自殺者が出るっていうのは珍しい事じゃない。けど玄霧皐月が勤務して、彼がまた他の学園に移った後に自殺者がかならず出るんだ。因果関係こそ立証できないけど、偶然は十も二十も続かないだろ」

 幹也の言葉に、わたしの思考はぐるぐると踊りだした。

 ……勤務した学校から立ち去った後、かならず自殺者を出させる教師。

 玄霧先生も、今回の事件に関わっているというのだろうか。けど先生は黄路美沙夜にいいように使われているだけだ。先生自身も記憶を奪われて、一年四組には何も異常がないと信じさせられている。

 操っているのは黄路美沙夜のほうなんだ。あの害のない、幹也に似た人が何かをしているなんて、考えたくない。

「ま、こっちからの話はこんな程度かな。あとは鮮花次第だけど、無茶なことはするなよ。くれぐれも式から離れないように。……と、あともう一つあったっけ。ゴシップなんだけど、玄霧皐月の皐月っていう名前。あれ、メーデーのもじりらしいんだけど、なんなんだろうね、メーデーって」

 ……それはメーデーではなくメイデーの事だと思う。メイデーとは五月一日の事で、太陽の回帰を祝う日だ。なるほど、それなら皐月っていう名前がつけられるだろう。皐月は陰暦の五月なんだから――

「ああ、そうか」

 真っ白になった思考のまま、わたしは一人納得していた。

 それで、皐月か。日本人には馴染みのない祝日で思い当たらなかったけど、その日は紛れもなく――

「兄さん。玄霧先生が神童でなくなった理由って、あるでしょ?」

「うん? ああ、噂話程度ならあったかな。なんでも取り替えられたとかなんとか。実際は三日ぐらい家に帰ってこない時があって、それから物覚えが極端に悪くなったって話なんだけど」

「でしょうね。先生は取り替えられたんだ。メイデーはハロウィーンと夏至《げし》祭の夜に並ぶ、妖精に出会いやすい日の事だもの。きっと―――玄霧先生は、そこで止まったままなんだわ」

 電話相手に呟いて、わたしは受話器をかちゃりと置いた。

 橙子師の言葉を思い出す。

―――妖精は使い方が難しい。術者はいつのまにか彼に要望を叶えさせるのではなく、彼の要望を叶えさせられている場合が多いんだ。いいか鮮花。自身から作り出したモノ以外の使い魔には気を付けろ。使役するほうが使役される結果になりかねん―――

 使役するほうが、使役される。

 使役しているほうが、本当は、使役されているという事実。

 私は根本的な部分で間違いをおかしていた。

 そもそも、なぜ橘佳織は自殺にまで追い込まれたのか。

 美沙夜は妖精は記憶しか奪えないといった。本人さえも忘れている過去は記憶ではなく記録だと。では、誰が忘却されたはずの記録を手紙にして送っているのか。

 いや、そんな事よりもっと考えるべき疑問があったのに、どうしてわたしはそれを忘れていたのだろう。今回の事件の大元に遡《さかのぼ》る疑問、それは――――

 黄路美沙夜は、一体誰に魔術を習ったのか。

   ◇

「きっと―――玄霧先生は、そこで止まったままなんだわ」

 静かに、わずかな哀しみと確かな敵意をこめた呟きを残して、電話は唐突に切られてしまった。

「鮮花――――?」

 電話の相手の名前を呼んでも返事はない。通じなくなった受話器を置いて、黒桐幹也はわずかに首をかしげた。

 なにか、たたごとじゃない雰囲気だったな……そう思いながら、幹也は椅子に座り直す。

 一月六日、正午すぎ。

 蒼崎橙子の事務所には彼の姿しかない。所長である橙子は出かけているが、そもそも今日は休日なので職場にいる幹也のほうが場違いなのである。彼が場違いな真似をしている理由は、言うまでもなく妹である黒桐鮮花と友人である両儀式の両名にある。彼にとって色々な意味で心配なこの二人は、新年早々おかしな事件の調査なんぞをやっているらしい。

 幹也は事件そのものの内容を知らないので、それが危険なものなのか安全なものなのか、てんで判別がつかなかった。二人がそんな事件の調査をする、という話だって誰から聞いたわけでもない。ただ、一月二日に意味不明の八つ当たりをしてきた式がいて、彼女本人に気取られないようにさりげなく話を聞き出しただけなのだ。

 黒桐幹也が式から聞き出した情報は、彼女が転入生と偽って礼園に侵入する、というものだけだった。そこからあれこれと思案を巡らせて連絡を入れてみれば、式本人から葉山英雄と玄霧皐月についての調査を頼まれてしまった。

 去年の十一月に礼園の寮舎放火事件を小耳に挟んでいた幹也はその筋から調査を開始、一通りの資料が出来上がったのがつい一時間前。もちろん、電話をした昨日から一睡だってしていない。

「……まあ、式がいるかぎり万が一って事もないだろうけど」

 妹の身の安全を心配しながら、幹也はうーん、と背筋を伸ばした。

 さて、これからどうするべきか―――と机に向き直って、幹也は目を細めた。……かなり、眠い。

 眠ってる場合じゃないかも、などと思いながら、黒桐幹也はゆったりと眠りの中に沈んでいった。

 ……そういえば、と、うろんなまどろみの中で思った。

 礼園に行くという事は式が制服を着るという事で、そんなものすごいミスマッチな彼女の姿を見るのが、ちょっとした楽しみだった。

 けれど、結局式は最後まで自分にその姿を見せてはくれなかった。原因は簡単で、礼園の制服に着替えた式を見て、橙子さんが一言、

「―――素晴らしい」

 と感想を漏らしたからなんだそうだ。

 ……何が素晴らしいのかはホントに分からないけど、そのおかげで式は礼園の制服を仕舞いこんでしまったのだ。

「机で眠ると風邪をひくぞ、黒桐」

「―――はい、起きます」

 反射的に顔をあげて、黒桐幹也はきょろきょろと周囲を見渡した。

 時刻は午後三時すぎ。場所は事務所の自分の机。……あれから二時間ほど眠ってしまったらしく、身体は当然のように冷えていた。冬も最中のこの時季、暖房もなく眠れば体が冷えきっているのは当然と言える。

「所長、いつ帰ってきたんですか?」

 幹也は背後に立つ蒼崎橙子に振り返る。

 コートを着た女性は、口に煙草《たばこ》をくわえたままでたった今、と答えた。

 橙子はつまらなそうな目をしていて、いかにも娯楽に飢えている、という気配をしている。どうやら今日のデートは大輔兄さんの玉砕に終わったな、と幹也は一人納得した。

「ははあ。その分じゃ退屈だったみたいですね、所長」

 普段やられてばかりなので、こういう時ぐらいからかってやろう、と幹也はにやりと笑う。けれど、彼の思惑とは違って、橙子はいや、と首を横に振った。

「そうでもない。つまらなかったが、退屈はしなかった」

 言って、彼女はコートのポケットから缶コーヒーを取り出すと幹也の机に置いた。

「みやげだ。黒桐にやる」

 …えらく安上がりな土産《みやげ》だが、冷えた体には有り難い。幹也はいただきます、と缶コーヒーの蓋をあける。

 橙子は依然としてつまらなそうな視線のまま、幹也の机の上に放置されたファイルを眺めて、なにげなく手に取った。

「あ、それですか? 式の頼みで礼園の教員について調べたものです。橙子さんには面白くないと思いますけど」

 だろうね、と彼女は頷いて、それでもファイルのぺージをめくりだした。

 幹也が座っている椅子の横で、立ったままファイルの中身を読みとばしていく。

 関心のない素振りでぺージをめくる手は、玄霧皐月の顔写真でぴたりと止まった。

「―――|偽神の書《ゴドーワード》」

 唇に挟んだ煙草が落ちる。

 幽霊にでも直面したように目を見開いて、彼女は信じられない、と呟いた。

「嘘だろう、協会が血眼《ちまなこ》になって捜している魔術師がこんな所で高校の教師をしているのか……? これは一体なんの冗談なんだ、ええ、統一言語師《マスター?オブ?バベル》」

 言って、彼女は声もなく笑った。

 それは軽蔑からではなく、むしろ戦慄を抑える為にこぽれた、力ない乾いた笑いだった。

「玄霧皐月は魔術師なんですか?」

 幹也の質問に、橙子はいや、と首を振る。

 彼女はいびつな笑みを浮かべたまま、自分の椅子に座り込む。俯《うつむ》いて空間を睨むその姿は、首輪が外れかけた黒豹のように狂気じみていた。

 それほど―――彼女にとって、玄霧皐月という人物は異常な存在なのだろう。

「……マザーから送られた資料には写真はなかったからな。初めから鮮花に任せるつもりだったのが拙《まず》かったか。私自身が確かめればよかった。いや――確かめたところで私も記憶を奪われていたか」

 橙子の独り言に、幹也は首を傾げるしかない。

 事件の内情を知らない彼にとって、記憶を奪う、なんて単語は何かの比喩《ひゆ》にしかとれないからだ。

 それでも、分からないなりに幹也は疑問を口にする。

「橙子さん。鮮花と式は玄霧皐月を調べています。玄霧皐月は、ふたりに危害を加える人物なんですね?」

「まさか。ゴドーワードは何もしない。噂が本当なら、彼は決して他人を傷つけない。そもそも彼は魔術師じゃない。彼には魔術の才能はまったくないんだ。祖先や両親が魔術師だったわけではなく、鮮花のような変異的な遺伝体質者さ。鮮花が燃やす事以外できないように、彼は言語を口にする事しかできない。

 だが―――この手の遺伝体質者は限られた能力だからこそ、私達のように積み重ねられた血統にはない領域にまで踏みこめる。

 ゴドーワードは、その領域にわずか十年で達した怪物だ。当時―――二十代でマスタークラスにあがった私は、自分が最年少の魔術師だと疑わなかった。しかし、実際は生誕から十五年でマスターになった子供がいてね。中東方面の学院にいたその子供と会う機会は一度もなかったが、その名前だけは全ての学院に知れ渡っていた。

 統一言語師《マスター?オブ?バベル》、ゴドーワード?メイデイ。神話の時代を唯一再現できる、魔法使いに最も近い魔術師さ」

 くく、と笑いをかみ殺しながら橙子は続ける。

 彼女は幹也に語るのでもなく、ただ、自らの感情を落ち着かせるために言葉を紡《つむ》いでいるようだった。

「ゴドーワードの本名や生い立ちは不明だ。彼が所属していたアトラスの学院でも識る者は限られていただろう。本人を見た者もそうはいまい。ただその姿と能力だけが伝わっている魔術師で、協会最大《ロンドン》の学院生《魔術師》は彼が実在しない幽霊だと訝《いぶか》しんだものだ。

 ゴドーワードの魔術はね、文字通りその言葉にある。

 彼は現存する全ての人種、部族の言語を把握している。話せるのではなく、その言語が生まれた背景や信仰、原理から思想の全てを理解している。彼に語れない言葉はなく、彼が知りえない人種は存在しない。だが、これは彼が各国を巡礼して学んだ知識ではないんだ。ゴドーワードは、たった一種類の言語を学び、その結果として全ての人種の言語を理解したにすぎない。

 黒桐。バベルの塔ぐらいは知っているだろう。バビロニアに伝わる神の門の神話だよ」

「―――はあ。ブリューゲルの描いた、ラセン状のおっきな塔の事ですよね。たしか……高い塔を建てて、その頂《いただき》に神殿を作って神様が簡単に下りられるようにと人間は考えたのだけど、神様からしてみれば人が天に近付く事は傲慢で、塔を壊し、人問が一つにまとまってこういう事を繰り返さないようにって、言葉を乱して人々をバラバラにしたっていう」

「ほう、詳しいな。そうだ、それが人類最古の神話に伝わるバベルの塔の伝説だ。この神話が示す事柄は多数あるが、最も注目すべきは『言葉を乱した』という所にある。

 神は人類という種が分かれるようにと人々を区分けしたんだ。肌の色や体質からではない。もっと分かりやすく根本的な部分、つまり言葉でだ。日本人と外人の最大の違いは髪の色や瞳の色ではなく、その言語の違いだろう? それこそが最も巨大な断絶の壁だ。意思疎通ができなければ、人々はバベルの塔のような巨大建造物は建てられない、と神さまはふんだのだろうね。しかし、結局人間は地球上で最も栄え、霊長となり、言語の壁さえもとっぱらってしまった。

 さて、そこで話を戻そう。人々は神によって言葉を乱された。それは神という存在が人々に認識されていた時代、つまり神代の出来事だ。神代の頃は神秘が神秘ではなく、それが常識として扱われていたという。今でいう剣と魔法の世界だろうな。現代では不可能となった神秘は、神代ならばそう困難な技術でもないんだ。

 それはなぜか。各々の魔術師は当時の自転と月との位置関係、星の巡りによる相克《そうこく》が世界にエーテルを満たしていたからだと結論した。だが―――それを覆《くつがえ》したのがゴドーワードだ。彼はね、神代では世界が優れていただけではなく、言語自体も優れていた、と証明したんだ。

 神は言葉を乱したという。では―――それ以前はどうだったのか。そう、人間はみな同じ言葉で意思疎通を行なっていた。だが万物に共通する『意味の説明』が果たして可能だろうか? 可能だとすれば、それはカタチのない言語、人が人に話しかける言語ではなく、人が世界そのものに話しかけて意味を決定させる言語になる。

 神は言葉を乱した。その言語を怖れ、人々にカタチのある言語を授けた。我々は知恵を与えられたつもりで、その実《じつ》真実を奪われていたのさ。

 ……つまり、ゴドーワードとはそういう事だ。神が乱す前、世界に共通していたたった一つの言語。これを我々は統一言語と名付け、ゴドーワードはそれを唯一再現できる魔術師だ。

 マスター?オブ?バベル。全ての生物に共通する意思疎通とは、つまり根源《かみさま》に通じる門に他ならない。バベルとは神の門という意味でもある。……ゴドーワード本人には魔術師としての能力がない為、その門をくぐり抜ける事はできないそうだがね」

 憎々しげに口元をつりあげる橙子とは対照的に、幹也は難しい顔つきでなにやら考え込んでいる。

 橙子の話の何割かしか理解できなかった彼は、結論として、こんな事を問いただした。

「……ようするに、玄霧皐月はどんなモノとも話せるという事ですか?」

「ああ。ただこれは一方通行の会話だ。神代では皆が統一言語を識っていたから会話が成立したが、ゴドーワード一人しか話せない言語であるから、話し掛けられるのは彼本人だけだ。岩や獣に言い聞かせる事は出来ても、岩や獣はゴドーワード本人に自らの意思を伝えられない。人間ならばそれぞれの言語で意思を返せるがね」

「はあ。……それって意味があるんですか? 返答がないなら、そんなものはただの独り言じゃないですか」

「ただの言語ならそうさ。だが彼のは違う。彼は岩や獣に自分の意思を言い聞かせる。けれど話しかけている対象は岩や獣ではなく、この世界そのものなんだ。存在論的なヒエラルキーとして、私個人という物の上に、世界に存在する蒼崎橙子というものがある。こちらに話しかけられては、私個人の意思ではどうしても抗《あらが》えない。それを否定する事は、つまり世界に存在する事を拒否するという事だからだ。

 言語絶対。彼の言葉はそのまま真実となってしまう。ゴドーワードというヤツは、万物に共通する最高の催眠術師なんだよ。

 記憶には人間そのものが記憶している物とは別に、世界そのものが記録している物がある。アカシックレコードの概念に近いが、あれよりは下位の波動現象だな。それを理解する方法の一つが統一言語だ。

 ゴドーワード……玄霧皐月が忘却した記憶を採集できるのはそれだ。ヤツは本人の脳が忘れている記億からではなく、世界が記録している過去を引き出す。世界が律儀に録音している様々な過去を聞き出せるのは、現代ではあの男だけだろうよ。流石《さすが》は封印指定を受けた魔術師という所か」

 散々話して落ち着いたのか、橙子は椅子に深く背を預けて深呼吸をした。

 ……封印指定。後にも先にも現れない、と魔術協会が判断した希少能力を持つ魔術師は、協会自身の手によって封印される。その奇跡を永遠に保存する為に。

 封印指定は魔術師としては最高級の名誉でもあり、同時に厄介事でもある。なにしろ封印されては研究を続ける事ができない。魔術師である以上、次の段階を目指せないのでは魔術師である意味がないというのに、協会は魔術師のサンプルとして保存するというのだ。

 そんな屈辱に耐えられるはずもなく、封印指定を受けた魔術師達は協会から身を隠す事となる。ゴドーワードも協会から失踪した魔術師の一人だ。故に、彼がここにいると協会に報《しら》せればゴドーワードは即座に捕まる事だろう。

 ……けれど、蒼崎橙子はその手段をとらない。いや、とれない。なぜなら、それは――――

「私まで見つかってしまうからな、くそ」

 罵《ののし》るように呟いて、彼女は天井を仰ぐ。

 ゴドーワードが礼園にいる以上、鮮花と式に勝ち目というものは万に一つもない。かといって彼女本人が出向いて玄霧皐月という魔術師と対決するほどの因果も、また存在しない。

「今回は傍観か。まあ、大事にはなるまい」

 簡単にそう結論を下すと、橙子は煙草に火を点けた。

 その様子を、幹也は頼りなげに見つめている。

「……大事にはならないって……聞いたかぎり、玄霧皐月っていうのは危険な人じゃないですか。ふたりを助けにいかないんですか、所長は」

「ゴドーワードは何もしないと言っただろう。そもそも彼には攻撃手段というものがない。魔術師としての能力は三流以下だ。鮮花達がどんなにつっかかったって、彼は他人を破壊しないよ。アレは、あくまで他人の望みを具現化させるだけの魔術師だ。本来、ゴドーワードは魔術師と呼ばれるだけのスキルを持たない。その彼が魔術師と呼ばれるのはね、もう思想が変化せず、ある出来事だけを追い求める概念と化してしまったからだ」

「……? ある出来事だけを追い求める概念って、何が目的なんですか、その人」

 幹也の素朴な質問に、橙子はああ、と頷く。

 ―――考えてみれば。今回の忘却を記録するという行為そのものが、ゴドーワードの性質なのだ。それに思い至らなかったのは、まあ仕方のない事でもある。まさか魔術世界において人間国宝とまで称される男が、こんな辺境の小さな学園で実験をしているなんて誰が思おう。

「目的はね、簡単な事なんだ。私達からみればどうでもいい問題を彼は追い求めている。

 なんていうのかな―――そう、永遠だ。ゴドーワードは永遠を探しているんだよ。あれほどの能力を持っていながら、幻想を追いかけている。いや、逆なのかもしれないな。優れた能力を持つが故に、解決できない問題しか追いかけられない。

 ――蜃気楼は、確かに人を惹きつけてやまない幻想《ユメ》だから」

 だから安心していいぞ、と付け足して彼女は煙草を口に咥《くわ》えた。

 深く、ゆっくりと呼吸をする。

 橙子は天井を感情なく見つめて、こう、唄った。

「報《むく》われないね。永遠なんて、何処《どこ》にでもあるっていうのに」

 煙草は、ゆらゆらと煙っていた。

 /5

 灰色の陽が差し込む礼拝堂の中で、玄霧皐月という教師が立っていた。

 その表情は優しげな笑みをかたどっていて、敵意も好意もなく私を見つめている。

「おや。こんな時間に礼拝堂に何か用ですか、両儀君」

 走りこんできた私を咎《とが》めるでもなく、彼は自然に話しかけてきた。

 その姿が黒桐幹也と重なってしまって、ほんの一刹那、軽い目眩《めまい》が起きてしまう。けれど玄霧皐月は玄霧皐月にすぎなくて、私は服の裾からナイフを取り出せた。

 手術用のメスみたいに小さな刃物を見て、玄霧皐月は顔を曇らせる。

「危ないな。そんなものを持ち出すと、誰かが怪我をする事になる」

 彼の言葉は生徒をなだめるように穏やかだった。

 私をそれを無視して礼拝堂を観察する。

 人影はおろか、人の気配さえない。ここに走りこんでいった女生徒の姿もすでになかった。

 いや、それとも―――初めからここには、玄霧皐月しかいなかったのかもしれない。

「黄路美沙夜は何処ですか、先生」

 礼拝堂を見渡すのをやめて、私は祭壇の前に立つ教師を見つめた。

 玄霧皐月はかすかに俯く。

「ここに黄路君はいません。けれど、君が捜しているのは私だと思いますよ。ここで忘却の採集をしていたのは、黄路美沙夜ではなく玄霧皐月なんですから」

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