―――柔らかな笑顔のまま、玄霧皐月はそう言った。
その言葉に嘘はなく、私はこの相手が事件の犯人だという事実を簡単に受け入れられた。
そこには不思議と驚きもない。唐突に告げられた真実は、とっくの昔から知っている出来事のように私の思考を支配していた。
それはまるで、良く出来た催眠術。
「どういう意味ですか、それ」
分かっていながら、私はつまらない質問をする。
口調は自然、攻撃的になっていた。もう歳相応の女性口調をする必要はない、と判断しての事だ。
鋭く相手を睨む。
……玄霧皐月は私の視線を受けて、後ろめたそうに小さく苦笑した。
「そういう意味だよ。君の捜している相手は私だ。さっきの妖精は私の仕業ではないけどね。
……ああ、黄路君は君の事がよく理解できていなかったみたいだ。擬似体《ぎ じ たい》の妖精一つで君をどうにかできる筈がないのに、君に向かわせてしまった。作り物かもしれないが、アレは或る生命活動の延長として腑分けされた生き物でね。殺されるために使役されるなんて、哀れだよ」
本当に悲しむように玄霧皐月は目を閉じる。私が殺した妖精の為の黙祷《もくとう》だろう。
それを見つめながら、私はしばし考えた。
両儀式の役割は原因の究明をする鮮花の手助けだ。けど、敵が目の前にいるのならやる事は一つに決まっている。
私は、こいつを―――――
「違うよ、両儀君。私は妖精使いじゃない。妖精を使っているのは黄路君だけだ。私にはあんな多くの使い魔を同時に操る思考の分割はできない。あれは紛れもなく黄路君だけの才能だからね。私に出来る事といえば、言葉を記録する事だけなんだ。妖精の事件に関しては私は限りなく無関係に近い。君は、その理由で私を敵と認識してはいけないと思う」
「な―――」
「だからといって、君と私が無関係というわけでもないんだ。その因果の為に、一度だけ私は黄路君を失敗から助けてあげなくちゃいけなくてね」
玄霧皐月が目を開いた。
開けられた瞳は、やはり以前と何一つ変わりのない平凡な教師のものだ。
「本来なら私はこの件には関わり合いにはならない。けれど、もともと君はこの一件とは無関係のファクターです。君と少なからず関わり合いを持つ私が、君を受け持つのは当然のこと。黄路君を阻止する役割があるのは黒桐君だけですから、後は彼女達の能力の問題でしょう。
ですから―――君が相手をするとしたら、それはこの私ぐらいなものなんです」
困った事に、と仕方なげに玄霧皐月は付け足す。
「……なんで? 礼園の事件以外で、オレがおまえの相手をする理由なんかないだろ」
「そうかな。君は、忘れた記憶を思い出すのは嫌いだったんでしょう? だから昨日も私を拒んだ。元からある記憶を掠奪するのは黄路君の仕業だけど、忘却の採集は私にしか出来ない事でね。今《いま》君がここまで黄路君を追ってきたのは、記憶を奪った代償として殺しにきたからだろう? ほら、ならその相手は私という事になる」
―――柔らかな笑顔のまま、玄霧皐月はそう言った。
私はそれに頷く事さえできない。
玄霧皐月の言葉通り、私は自分の記憶に触れられる事を嫌悪していた。妖精というものを反射的に潰してきたのもそれが許せない事だったからだ。
今だって妖精使いである黄路美沙夜を殺す為にここまで追ってきている。その標的が玄霧皐月という人物に変わったところで許せない事に変わりはない。
けど、湧いてこない。
さっきと同じだ。
だっていうのに、私は――――
厭《いや》な悪寒も何の危険も、この相手から感じ取れなかった。
……こんなの、初めて。
『敵』を目前にして自分はどうやら無感動らしい。
それが理解できない心境と気付いて、ようやく私は悪寒というものを背筋に感じられた。
でも―――まだ、とても殺す気になんてなれていない。
「そんなコト、あってたまるもんか――――」
悪寒という憎悪を糧にして、私は柔らかに笑う玄霧皐月を本気で観察した。
黒い、死の線を直視する。
……玄霧皐月の体にある死の線は、蜘蛛《くも》の巣のように複雑に絡み合っていた。けれどそれは、同時にどこを通しても死に易い体という事だ。ここまで死にやすい人間というものを、私は見た事がない。
玄霧皐月は、沈んだ色の瞳のままでうっすらと笑った。
「なるほど、それが直死の魔眼というモノですか。私はすでに通ったあとの道しか聞き取る事ができないけど、君は通っていく道筋を見れるんだね。……ふむ。過去を記録できる私と、未来を視る事のできる君。荒耶《あらや 》が私を呼びだした理由は君の消去にあったようだ、シキ君」
哀しむように目を細めて玄霧皐月はこちらを見た。
……私は相手のそんな態度より、ただ一度口にした単語に目の前が真っ白になった。
ようやく悪寒とは別の敵意が、この体に満ちていく。
アラヤ。玄霧皐月は、間違いなくその名を告げたのだから。
「そうか。おまえは魔術師か、玄霧皐月―――」
ならば敵だ、と私はナイフを握り締めた。
今までのおかしな心境は、この魔術師の手による物だ。
そうでなければおかしい。
そうでなくっちゃいけない。
この相手は殺していいもの。
この相手は殺さなくてはいけないもの。
そう自分自身に言い聞かせた瞬間。
私に見えない私が、
くすりと笑ったような気がした――――。
◇
これから殺すべく相手の顔を見つめて、どくん、と心臓が大きく鳴る。
幹也に似ているからといって、見逃すなんて事はしない。相手が魔術師であるのなら、私と同じように境界の外にいるものだ。
なら―――それは殺人ではない。玄霧皐月は、群れの中で生きる人間ではないのだから。
私は今にも弾けそうな両儀式の体を冷静に制御して、一撃で玄霧皐月を絶命させる方法を脳裏に描く。
……隙だらけのその体へと疾走して、喉もとへ垂直にナイフを突き立てる。突き刺した刃をそのままにして、体の下までナイフを一息で引き下ろせば事は終わる。
それは実行の容易《たやす 》い事で、私は三秒後の結末を明確に思い描ける。
……なのに。
心の中の映像は、四肢をばらばらに切断された少年の死体だった。
どくん、と心臓の音が高い。
緊張で呼吸が乱れる。
そんな事、今までなかった。
相手が幹也に似ている男だから、私は躊躇《ちゅうちょ》して呼吸を乱しているみたいだ。
「シキ君、それは違うよ」
不意に、ただ居るだけの魔術師が言った。
躯《からだ》はその言葉に反応して飛び出そうとして―――
―――私は、それを懸命に、かつてないほど必死になって、圧《お》し止《とど》めた。
……だって、だめなんだ。
それだけはぜったいにいけないから――――
理由が分かって、私の呼吸はもっと乱れる。
まだ―――この相手に殺意を抱いてはいけない。
私は、この相手には襲いかかる事が出来ない。幹也に似たこの男。……それを殺すという行為が、私の心臓にこんなにも負担をかける。
それがイヤな事だから、じゃない。
そう思っただけで、私は。
喉が乾いて、舌が痺《しび》れて、我慢できない。
それが逆に恐くて、私は必死に自身の足を圧しとどめた。
けど、躯《からだ》は今すぐにでもあの男を殺したがっている。式の悲しみや苦しみを解決したがっている。
そうすれば―――楽になれると識っている。
でも、じゃあ私は。
―――今度も、いつしか。
黒桐幹也という友人を、二年前のように殺そうというのだろうか―――?
「……そんなの、いやだ」
呟いて、私は私の躯を止めた。
玄霧皐月はひとり、私を見守るように頷いていた。
「うん、よく踏み止まったね。もし君がそのままで私を殺せば、事は済んでしまっていただろう。
かつて、君は日常で生活する為に殺人衝動を持つ織《シキ》君を殺してきた。けれど今は式《しき》という君が自らの殺人衝動を殺さないといけない。それが出来なければ、君は式という人格さえ失って空っぽに戻ってしまうだろう。
……ふむ。荒耶の話では式君は直情的という事だったけれど、それは彼の勘違いだな。私から見ると、君は少し臆病にみえるよ」
柔らかに言って、玄霧皐月は私から視線を外した。
「君の事は荒耶から聞いていた。もともと私はその為にこの街に呼ばれた者だ。言っただろう、君と私は無関係でないと。荒耶は私を君にぶつけるつもりだったようだが、その前に本人が敗れてしまったんじゃ笑い話にもならない。残念だな。彼の目的の達成には、それなりに興味があったんだが」
それだけ言って、玄霧皐月は口を閉ざした。
彼は何もしない。
ただそこに立っているだけで、瞬《まばた》きさえしなかった。
魔術師は逃げることも戦うこともしない。まるで自らは動けない鏡像みたいに。
私はナイフを手にしたまま――――この空気のような相手と、いつまでも向かい合っていた。
沈黙は、重りになって礼拝堂に満ちていく。
まだ乱れたままの心臓の音だけが、どくん、どくんと私の耳に反響していた。
……いつまでも、ありえない鐘の音みたいに鳴り止まない。
私は襲いかかる事もできず、心臓の高鳴りを静める事もできず、言いたくもない言葉を口にした。
「―――どうして何もしない、玄霧皐月」
「私から言うべき事は全て語ったからね。もしこれ以上語り合う事があるとすれば、それは君からの質問に私が答えるという形でしかない。君が私を無関係とすれば、私も君を無関係な者として立ち去ります。君が私と戦うというのなら、私も自衛手段をとるでしょう。黄路君を助けるのは一度だけです。それも、すでに果たしました。ですから、決めるのは貴方です。私自身からは、何も」
……おかしな回答に、私は眉を曇らせた。
決めるのは私だと魔術師は語る。それはつまり、この相手には意志がないという事に他ならない。けれど―――それは矛盾《むじゅん》している。
「こっちが望めば望んだカタチで応えるっていうのか、おまえは。でもオレは忘れた記憶を取り戻したいなんて思ってなかった」
動悸《どうき 》する胸を片手で押さえこんで、魔術師を睨みつける。
魔術師は同情するように首を横に振った。
「いえ、君自身が忘却した記憶を求めていた。私はそれに応えたまでです」
求めていた――――? ああ、それはきっと本当の事。けど私が欲しいのは失われた織《シキ》の記録だ。私が、両儀式が過ごした三年前の記憶だけ。苦しくて、けど温かかったクラスメイトとの記録なんだ。
あの時の記憶なんて、いらない。
冷たい雨に凍《こご》えている記憶は、むしろ――――
「それは違うよ、玄霧皐月。私は記憶を取り戻したいんじゃない。きっと、記憶を完全に忘れ去りたいんだ」
そうだ。
だからこそ、式はあの日の記憶を忘れてしまった。
織の記憶は、彼が死んだ事により記録になりはてて壊れてしまった。きっと、永遠に戻らない。でもその損失を代償にして、今の私がここにいる。
「だから―――おまえなんて呼んでいない」
「……なるほど、私の思い違いだったようですね。たしかに式君が望んだのはそちらでした。では、そちらも還してさしあげましょう。それが私の役割ですから」
魔術師は柔らかく微笑した。
そこには敵意も悪意も、善意も好意もない。
トウコは言った。
妖精の悪戯には善悪がない、と。彼らは結果を求めずに行動する。そこに個人の意志など存在しない。
人の記憶を採集するこの魔術師は、まさに妖精そのものだ。けど……それなら、どうしてこの男は笑顔でいられるのだろう? 自分からは何もしないというのなら、その表情だって動かないのが道理ではないのか。
「……おかしいぜ、おまえ。オレの望んだカタチでしか応えられないくせに、どうしておまえは笑ってるんだ。オレは笑顔なんて求めていない。鏡であるなら、自分から笑う事なんてできない」
「ええ、その通りです。ですが私は笑ってなどいません。言ったでしょう。私は、笑った事がないのだと」
そう答える魔術師は、それでも笑顔を崩さなかった。
「ですが、周りからはそう見えるらしいですね。私本人は普通にしているつもりなのに、どうしても玄霧皐月は微笑んでいる。
私は自分が笑っていると実感できた事がないんですよ、式君。笑おうと思って笑った事がない。笑みをうかべる理由も、笑顔をするべき価値も知らない。
よく分からないんですよ、そういうのって。楽しいなんて、感じた事はありませんから。そのあたりは生の実感がない君とよく似ている。……まあ、君のほうは時間が解決してくれるでしょう。両儀式には未来があるから。
だけど―――私には過去しかありません。玄霧皐月は、誰かの過去を観る事しかできない。人が生きるために何かを奪うように、私は生きている為に玄霧皐月以外の過去を採取します。そのアトの事は知らない。過去を取り出した後、その結果をどう扱うかは過去を持つ本人の意志によります。観る事しかできない私は、それを扱う事はできませんから」
どこか拙《つたな》い笑顔のままで魔術師は語る。
作り物ではない本物の笑顔は、こう付け足していた。
それに、扱おうという意志も持てないのです、と。
「―――過去しか、ない?」
「そうです。過去がないという事は、自身がないという事に繋がります。悲しい事だけど、私には自分というモノが稀薄《き はく》なんだ。〝自ら考える?という行為ができない以上、玄霧皐月には夢とか目的とかいったものがない。そんなものは本と同じですよね。知識だけはあるのに、それを利用するのは本という私本人ではない。……私には、世間一般でいう人間として機能する意味がない。
けれど自殺する勇気も必要性も感じない以上、私は玄霧皐月として生きていくしかないんです。自分がない以上、自身を確かな物とする方法は一つしかないでしょう。
―――他人の望みを叶えること。それ以外に玄霧皐月は自分という表現が出来ない。そこには善悪の概念はないんです。ボクは君達の望みを還してあげている。忘れた時間を思い出させてあげています。
おそらく、これはむしろいい事なんじゃないのかな、式君。君達が忘れてしまった大切な記録を、持ち主である君達自身に返すだけなんだから」
「そんなの、勝手なことだ」
呟いて、私は魔術師を睨みつける。
この男の言葉は、なにかおかしい。意味が脳にではなく体に言い聞かせられているみたいだ。
私はまず自分自身に、誰の言葉より男の言葉に心を傾けてはいけないと言い聞かせた。
「忘れた記憶を返すだって? そんなのはお断りだ。式は手紙にして送られる出来事なんていらない。亡くした記憶は戻らないもの。おまえが口にする言葉なんて、オレは何一つ信じてやらない」
動悸する胸の音を片手で押さえながら、私は玄霧皐月を直視する。
魔術師は初めて、私にまっすぐ視線を向けてきた。
睨み合いとは程遠い、別れの儀式みたいに虚ろな視線が絡み合う。
「―――そうか。君でさえ自らの記憶を放棄するというんですね。……君たちの考えはわからないな。どうしてそう、エイエンである事を止めてしまおうとするのだろう」
「永遠? 忘れ去った記憶を思い出させて記録するって事が永遠だっていうのか? 笑わせるな、そんな物なら何処にだって転がってる。おまえがわざわざ口をだす問題じゃない」
そう、思い出を残しておきたいのなら、写真にでもビデオにでも撮影しておけばいい。それなら自身が忘れ去った後でも確認ができるだろうから。
けれど、魔術師はそれを否定した。
初めて――その表情が笑顔以外のカタチを作る。
「それは永遠ではないよ。外界に残した物は、永遠には残らない。たしかに、現代の技術ならいかなる事故にあっても破損しない〝物体?が作れるだろう。だが、それは物体自体が不変なのであって私達が不変なわけじゃない。物は観測者がいてはじめて意味というモノが与えられる。故に、たとえ物自体が不変であろうと、それを観測する者の印象が不変でなければ〝永遠?ではないんだよ。
君は、昨日見たものを昨日見た時とまったく同じ心境で観測できるかな? そう、出来ないんだ。観測者の心は、いつだって不変ではありえない。
新しい物は古くなるし、素晴らしい物は色褪《いろ あ》せていく。物自体は変わらないというのに、私達自身の心が物の価値を変えてしまうんだ。
ほら―――個体が不変であろうとなかろうと、永遠である事はないだろう? なぜか? 簡単だ、私達は外界の物とは断絶されているからだよ。
いいかい、式君。永遠であるという事は、カタチがないという事なんだ。観測者の印象に左右されない、観測者そのものを支配する出来事。それが唯一永遠といえる現象、つまり記録という物だよ」
「―――その記録だって、後になって変わるものじゃないか。その時はいい事だと思えた出来事も、振り返ってみれば悪い事になる場合のが多い。おまえの言う永遠なんて、何処を探しても見当たらない」
「いいえ。それは記録ではなく記憶でしょう。記憶とはつまり、その人物の性格でしかない。性格はそのつど変わるもの。外界に順応する為に変わる性格はドレスみたいなものです。君なら解るはずだ。口調や性格、肉体など所詮、自己を判りやすく表現するための服装にすぎないと」
一歩。魔術師は私へと足を踏み出した。
「観測者自身が、観測される対象になること。自分自身がいるのではなく、自己が重ねてきた時間そのものが自己だと認識し、受け入れること。人格など、初めから存在しないと認めること。記録とはつまり、自身の考えでさえ影響をうけない魂の核です。それこそが永遠に保管されるものなんだ。自らの内に取り込め、一緒になれる自分自身の傷なんだから。
それなら、たとえ世界がなくなろうと自身に残り、自分という世界が終わるまでともにある。
それは、ずっと残っていて。
それは、ずっと変わらない」
……性格などいらない。自己が重ねてきた歴史だけが自己を示す証であるのなら、それは何が起きても変わらないモノになる。観測者そのものが観測される対象になれば、観測するモノも不変であり、観測される対象も不変。
それが永遠だと魔術師は言った。
「……おまえの言っている事は、わからない」
「そうでしょうね。簡単に物事を忘却できる君達にはわからない。この世界で永遠と呼べるものは人の記録だけなんです。君達は人生の後に思い出が出来ると錯覚している。本当は思い出の後に人生が作られているというのに。
人には、忘れさっていい記憶なんかない。人格が切り捨てた記憶を、その個人自体は捨てたくない。だから君達の願いは、いつだって忘却の録音なんだ。私は、彼女達の鏡像として、その願いを返しているだけです」
さらに一歩。魔術師は笑顔を取り戻して近寄ってくる。
私はナイフを持つ手にいつも通りの微熱を感じて、気がついた。
……胸の動悸も指先の痺れも、喉の渇きもいつのまにか消えている。
長くて、そのクセほんとうに意味なんてなかった会話のすえ、私はこの相手の正体が視えていた。
動悸はとうに収まっている。
……たしかに、こいつは幹也と似てる。
けど決定的に違う。同じなだけで、違う過程を歩んだものだ。その違いをはっきりと悟って、私はコレを単純な敵と認識できていた。
「……善悪の概念はない、か。たしかにおまえが悪いわけじゃない。おまえはただ、誰かの願いを聞いているだけだものな」
だけど、違う。善悪の概念はちゃんとある。たしかに玄霧皐月自身に意志はない。けれどこいつには物事の善悪をきちんと量れる知性があるのだ。それを持っているくせに善も悪も等価値に扱う時点で、こいつには無害を自称する資格なんかない。
「やっとわかった。おまえはさ、鏡のフリをしているだけだ。そうやって無害なフリをしているだけなんだよ。責任を他人に押しつけて、まるで子供のままじゃないか」
私の言葉に、魔術師は嬉しそうに目を輝かせた。
どこかピエロに似た―――――
「私と戦う、というのですね、式君」
[#地付き]―――――狂気を含んだ歪《いびつ》な笑い。
「いいでしょう。ならば私も荒耶との契約をはたす事にします。お互いに無視しあえれば良かったのですが」
魔術師が眼鏡に手をかける。
戦いの前に眼鏡をとっておこうというのだろうが、私の体はそれを待つほど我慢強くない。
一足で、玄霧皐月に切り付けられるまでに間合いを詰めた。
【あなた」「には」「見えない】
魔術師の声が、聞こえた。
脳そのものに直接響くそれは、間違いなく真実だった。
私は一瞬で玄霧皐月の姿を見失って、振るったナイフは空を切った。
「な―――」
周囲を見渡す。
礼拝堂に人の姿はない。ただ、私以外のもう一人の気配だけがこの肌に伝わってきていた。
玄霧皐月はたしかに、私の目前にいる。なのに私には魔術師の姿を見付ける事が出来なかった。
「……危ないな。声より早い行動ができるなんて、侮《あなど》っていたよ。おかげで片腕をもっていかれた。荒耶が敗れたのも頷ける。君はたしかに、殺す事に長けているようだ」
声は目前から聞こえる。私は襲いかかりたい衝動を抑えて、目前へと意識を集中させた。
――仏霧皐月を見る事ができないのなら。
ヤツの、死の線だけを視つければいい――
「だが、君では私には勝てない」
声は私の思考に直接響いた。それより早く、魔術師の死の線を凝視していた。
「―――――視つけた」
今度こそ、逃がさない。
再度、魔術師へと肉薄する。
けれど―――それさえも私は見失った。
【ここ」「では」「見えない】
声が礼拝堂に響く。
礼拝堂は、一切が闇に落ちた。魔術師の一声で一筋の光もない、何もかもが不可視な世界になってしまう。
「……ふむ。やはり君個人には効きが薄かったか。根源に通じている君の体と私の言葉は同じ階級だからね。だがそれもこうすればいいだけのことだ。ここでは、たとえ両儀式であろうとも死を視る事はできない。……まあもっとも、こうなっては私本人も何ひとつ見る事ができないんだけどね」
耳元で声がする。
振り向いてナイフを一閃しても、切り付けるのは風ばかりだ。
「無駄だよ。君では私には勝てないといっただろう。
そう―――あらゆるモノを殺害する君でも、言葉だけは殺せないから」
……そんなコト、考えた事もなかった。
でもたしかに。
私は、言葉だけは殺す事ができない――
「だが、かといって私に君を殺せるかというとこれも否《いな》なんだ。私ができるのはこの程度さ。少しでも君に近寄ればたやすく組み伏せられるだろう。だから命のやりとりはしない。もともと、私は戦いをする者ではないんだ。
ボクがするのは、君の望みを叶える事だけだからね」
その言葉に、私の体は微《かす》かに震えた。
私の望み―――忘れ去りたい、私の真実。
「やめろ。そんなモノ、私は欲しくなんかない!」
叫びは闇の中に消えた。
「さあ―――君の嘆きを再生しよう。安心したまえ。たとえ君が忘れ却ろうとも―――記録は、たしかに君に録音されているのだから」
それは感情のない、メトロノームみたいに整った音。
魔術師の声が式という私の中に浸透していくのを、私は止める事もできずに、ただ見つめ続けるコトしかできなかった――――。
忘却録音/
6
幹也からの電話を切って、わたしは高等部の校舎へ急いだ。
時刻は午後一時を過ぎたばかり。
空模様は今にも泣きだしそうな鉛色で、頭上は厚い雲に覆われている。
「……この分じゃ、今日は雨になるのかな」
冬の冷たい空気を肺にしみ込ませながら、わたしは昏い森を抜けて校舎に辿り着いた。
誰もいない廊下を歩いて、一階の端にある英語教諭の準備室に行く。
ノックもせずに扉を開けると、玄霧皐月という教師はすべて解っていたように、椅子に座ってわたしを待ち受けていた。
彼はいつも通り、笑顔のままでこちらの全体像を観察する。その左腕はだらりと下げられていて、まるで体のその部分だけが死んでいるようだった。
……なぜだろう。
わたしは、それが誰の仕業によるものか一目で判ってしまっていた。
「それは式にやられた傷ですね、先生」
はい、と玄霧先生は頷いた。
「この腕と引き替えに逃がしていただきました。ああ、式君は無事ですよ。あと一時間もすれば目覚めるでしょう。もっとも、私の腕は一生治癒する事はないでしょうが」
灰色の陽が差し込む窓を背にして、玄霧皐月は淡い笑顔でそう言った。
あらゆる動揺も隠し事もない、平穏すぎるその在り方。
わたしは息を止めてから、何かに誘われるようにその問いを口にする。
「橘佳織を追い詰めたのはあなたですね、先生」
はい、と玄霧皐月は頷いた。
「葉山英雄を行方不明にしたのも」
はい、と先生は頷いた。
「黄路先輩に魔術を身に着けさせたのも」
はい、と魔術師は頷いた。
「私達の忘却を採集していたのも」
はい、と彼は頷いた。
「そして、妖精に取り替えられた事も、本当なんですね」
はい、とソレは嗤《わら》って頷いた。
◇
「――――どうして」
それしか、口にできなかった。
「どうして、先生が?」
無様に同じ質問を繰り返す。
彼は眼鏡の奥の瞳を翳《かげ》らせる事なく答えた。
「別に、目的などはありません。橘君の事も黄路君の事も、葉山先生の事も、私は彼らの望みを叶えただけの話です。何故を問うのなら、彼ら本人に問いただしてください。私には、答えられません」
笑顔のままで玄霧先生は言う。
それは言い逃れではなくて―――この人は、本当に答えられないんだ。
例えば、橘佳織が自分の罪を玄霧皐月に相談する。彼は橘佳織に、彼女本人にしか考え付かない方法を提示するだけ。自殺による救済は、彼女本人の意志だから。
例えば、黄路美沙夜が橘佳織の死に報いたいと相談する。彼は黄路美沙夜に、彼女本人しか考え付かない方法を提示するだけ。一年四組全員を自分から自殺に追い込む手段を、魔術として黄路美沙夜に提供する。
そこに、玄霧皐月自身の意志はまったくない。
「―――けど、忘却を採集するのは別です。誰も、忘れた記憶を見せ付けられる事なんて、望んでいません」
「そうだろうか。どうして君はそう思うのかな、黒桐君」
「――――え?」
あくまで柔らかに、玄霧先生は問い返してきた。
そこに敵意も悪意もない。
……どこか、この状況は異常だった。
わたしは事件の黒幕と対決する覚悟でこの部屋にやってきて、こうして一対一で対時している。なのに玄霧皐月はいつも通りで、わたしも教師に質問する生徒のように心が沈んでいた。
まるで―――私の遣りきれない心が、玄霧皐月という敵に反映しているような感覚―――
「だって、私自身が望んでいません」
「だろうね。覚えていないんだから、考えられるはずがない」
―――それが私の理由なんだ、黒桐君。
独り言のように、玄霧先生はそう付け足した。
覚えていないから、考えられない。
それが忘却を採集する理由だと、この人物は語ったのだ。
「それはどういう事ですか、先生」
「簡単だよ。私はそうする事でしか、君達が分からない。私が外界を理解するには、君達の記録をたどる以外に方法がないんだ。玄霧皐月が記憶を採集する理由は、きっとそういう事だったんだろう」
遠い出来事のように言うと、彼は思案するように口元に指をあてた。
何の感情も含まない瞳を、わたしは正面から見詰め返す。訊きたい事、知りたい事はそんな曖昧な言葉ではなかったから。
「私が訊いているのはもっと明確な理由です。だいたいどうして、先生は忘却の採集なんて事を始めたんですか。先生が取り戻すべき過去は、あくまで自分本人の物だけのはずなのに」
幹也からの報告を思い出す。玄霧皐月は十歳のころ、妖精に拐《かどわ》かされたという過去を持っていた。その事実を問いただされて、彼はほう、と感嘆の声をあげた。
「―――驚きました。よくそんな昔の事を調べたものです。君の言う通り、私はたしかに子供の頃妖精に出会ったことがあります。それ以来、記憶に障害をきたすようになったのも本当です。魔術を習った原因は、その障害が医学では治療できない物だったからです。……ああ、間違いはありません。たしかに私は自身の過去を取り戻す為に魔術を習い、忘却の採集ができうる手段に辿り着きました。本来なら、私は他人の記憶になど干渉するべきではなかったのでしよう」
どこか後悔するように彼は言った。
己は、他人に干渉するべきではなかった、と。
「―――なら、どうして」
「そうせざるをえなかったからですよ、黒桐君。
とても高い所まで登りつめはしたけれど、私は、私自身の過去を遡る事ができなかったんです。
脳は、記憶を絶対に忘れない。ですがそれは脳に異常がない場合のみです。私の記憶は忘却したのではなく、破損してしまったものでした。そうなると手段は一つしかありません。一個人が記憶している過去ではなく、世界そのものが記録している現象を遡《さかのぼ》るしかない。幸い、私にはそれができうるだけの技術があった。けれどダメだった。観測者は、自分自身を観測する対象にはできない。自分自身と握手はできないんです、人間というものは。
だから――――私は、他人の中にある私を取り出すしかなかった。人々の記憶、意識はその深層で繋がっています。魔術師を目指しているのなら聞いた事があるはずです。根源の渦と呼ばれる『位置』の事を。
かつての私は、あなた達の意識の底から、私に繋がっているかもしれない記憶を探していたんです」
「アカシックレコード、ですか」
呟いて、わたしは小さく首を横に振った。
そんなの、まるで信じられない。橙子師でさえ到達は不可能だ、と断言する全ての源。そこにこの人物は到達しているというんだ。
人々の意志は独立しているけれど、〝霊長の意志?という大きなくくりの中で独立しているモノだと、橙子師は言った。だからその大きなくくりを観測できる技術があるのなら、独立していて孤独している人々の意志や記憶に溶け込む事ができる、とも。
けど、なんて皮肉だろう。
それがたとえ真実だとしても―――そこまでやっても、この人は望むモノを手に入れてはいないんだ。
「そこにも……玄霧皐月の過去はなかったんですね、先生」
弱々しい声で、わたしはこの人物の結末を代弁する。
けれど意外な事に。彼は優しい笑顔のままでわたしの言葉を否定した。
「いいえ、答えはありましたよ。おかしいでしょう? そんな事をしなくても、私は記憶を亡くしてなどいなかったんです。ただ、私がそれと気がつかなかっただけの話で。
その事実に気がついた時、私はすでに多くの他人の過去を採集していました。黒桐君。人が、記億を忘却する理由はなんだと思いますか?」
唐突に訊かれて、わたしは喉をつまらせる。わたし達が物忘れをする理由。それは、きっと―――
「……脳の容量は限られています。私達は、必要な情報と不必要な情報を分けなくてはいけません。長く時間を重ねれば重ねるほど、その忘却は大きくなるでしょう。私達は日々を混乱する事なく暮らす為に、不必要な記憶を削除していかなければいけないから」
「ええ。それが大半の過程でしょう。ですが、それは忘却ではなく整理というのです。時問によって消え去った記憶と、個人の意志によって消し去った記憶は異なります。私が訊いているのは、人が意図的に消し去った記憶の事です。君はわかっているのにそれを口にしないんですね、黒桐君」
柔らかな、陽射しに消え入りそうな優しい笑顔で、玄霧先生はそう言った。
わたしはそれに、喉をつまらせるしかない。
……そう、この人のいう通り。今のは優等生じみた、誰だって知っている答えにすぎない。