「……忘却は。私達が意図的に思い出を忘れるのは、その個人を守るための手段だとでも答えればいいんですか、先生」
力なく答えるわたしに、玄霧先生は無言で頷いた。
……もちろん、わたしだって分かっていたんだ。人が自分から記憶を忘れるのは、それが不必要な事だからじゃない。それは覚えていては危険だからという事を。
過去に犯した様々な過ち。それを覚えていると自我を崩壊させかねない記憶を、わたし達は意図的に忘れてしまう。そうする事で今の自分―――健全で罪のない自分という幻像を守っているんだから。
「そう、それが忘却された記憶の正体です。罪、禁忌、後悔といったものをあなた達は意図的に忘れてしまう。それは深層意識に深く根付き、あなた自身から取りのぞけなくなったあなたの一部だから、忘れるしかないんでしょう。
わかりますか。人の意識の深層を探るという事は、忘却された記録を取り出すという事になるんです。私は、それを繰り返しすぎた。
自分の過去を探る為に多くの人間の忘却を巡って、私はたぶん、わからなくなってしまったんでしょう。
たいていの人間は、自らの罪を忘却する事で生きている。自らの汚れ、醜さをなかった事にして暮らしているんだ。それは悪い事ではない。むしろ生態として優れた部分だと思います。けれど、私は恐いんです。その汚れを放っておく事ができない。あなた達の世界はとても不安定で、争いごとが多すぎる。このままでは永遠に残るモノなんてなくなってしまうでしょう。
だから、なくならないように君達の望みをカタチにしてあげているだけなんです。
返された落とし物をどう扱うかはその個人の自由でしょう? そこに私の意志が介入する余地はない。もしこれに善悪というものが定められるのであれば、それを決定するのも、やはり個人の意志なんです」
うっすらとした笑みをうかべながら、玄霧皐月はそう言った。
彼が人の忘却を採集するのは、自らの過去を探す為だった。けれどその過程で様々な人間の忘却を見てきた彼は、人間というモノの汚さが我慢できなくなって、その掃除をはじめたという事だろうか。
自己の遍歴《へんれき》を遡《さかのぼ》るという彼の目的は、いつしか人の遍歴をカタチにするという物に変わってしまった。
ただ、彼はその掃除を自分の手ではなく、汚い部分を持つその本人の手に委《ゆだ》ねた。だからこの人は自分自身が善悪を問われる事はない、と言っている。
……そんなもの、ただの言い逃れにすぎないとわたしは思う。
「……そうでしょうか。忘却を提示する事は罪の告発だとあなたは分かっているのに、自らに善悪はないと?」
はい、と彼は頷いた。
「私は何も望まない。ただ、解決する手段がほしい」
当然のように玄霧皐月は語る。
わたしは、ここでようやく、この人物に対して反感らしきものを抱けた。
たしかに忘れられた記憶の幾つかは自ら忘れようとした物ばかりだと思う。けど、その大半は忘れようとして葬った記憶じゃない。それは、思い出す必要のない事のはずなんだ。
たとえば、子供の頃に見たおぼろげな錯覚。
本当はただの入道雲なのに何か特別な生き物に思えたあの刻、工場の煙突からもくもくと出る煙が空を作っていると信じていた眼差し。……夕焼けに向かってどこまでも歩けば、見知らぬ国に通じてしまいそうで恐かった。でも心はどきどきして、ずっと地平線の向こうに憧れていた。
それらは今にして見ればただの錯覚なんだろう。けどそれは、忘れても思い出してもいけない大切な事なんだ。
歳を重ねて、大人になっていくわたし達には思い出してはいけないユメがある。そのユメを暴きたてる事は、きっと、許される事じゃない。
「―――それは余計な、あなただけの思惑です。人を識る為に忘却を採集するというのなら。そんな事より先に、あなたは忘れてしまっているご自分の記憶を採集するべきです、玄霧先生」
視線に力を込めて、わたしは玄霧皐月を見つめた。
彼は穏やかな表情を崩さずに、にこりと微笑んだ。
「それは不可能なんですよ、黒桐君。
玄霧皐月の記憶は忘却されたものではなく、妖精に奪われたものなんです。記憶は忘れてしまったんじゃない。私の記憶はね、わからなくなってしまっただけなんです」
「記憶が、わからない?」
鸚鵡《おうむ》返しに呟いて、わたしは眉をひそめた。
記憶を忘れたのではなく、わからなくなったとはどういう事だろう。
そういえば、この人の言葉はどこかおかしかった。
自分の事を、いつも他人事のように話している。それがどんな原因によるものか判らないけれど、この人は、つまり……
「妖精に拐《かどわ》かされた後も、記憶は元のままだった?」
彼は頷く。
「そうですよ。玄霧皐月は自分を無くしていなかった。だから―――私は、他人の忘却を巡る必要なんてなかった。そんな事をしても、もう帰る家などなかったというのにね」
そう呟いて、彼の表情は変わっていった。
笑顔は笑顔のままで、滑稽なカタチに変貌していく。……まるで、サーカスの|クラウン《道 化 師》の化粧みたいに。
「たしかに、私は子供のころ妖精に拐かされました。アレが妖精と呼べるものなのかどうか判りません。もしかすると、ただ仲間が欲しかっただけの亡霊だったのかもしれない。
エイエンでいよう、と彼らは言った。
私は、ただ家に帰りたかった。
妖精に捕まった子供は二度と家に帰れないという迷信だけは知っていた私は、夢中になって彼らから逃げ出しました。
野原を越えて、森を抜けて。
自分の家が見えた時、ホッとして後を振り返ったんです。そこにあるのは数えきれないほどの妖精の死骸と、血で真っ赤に染まった自分の両手だった。その時、彼らの言っていた事が本当だな、と分かったんですよ。
だってそうでしょう? 子供だった私は、二度と、もとの家には帰れなかったんだから」
笑顔のままで道化《どうけ》の貌《かお》は語る。
―――思い描いてしまった。
行方不明になった息子が、得体のしれない血で染まって帰ってきた時の両親の冷たい反応を。
……そうなんだ。たとえ自分の家に帰れたとしても、そこはもう以前の物とは違っている。
その家は、もう彼が思い描いていたホームじゃない。
彼が帰りたかったのは温かい家であって、自分を白い目で見る両親達がいる家ではなかったんだから。
「――先生は、妖精に拐かされたんじゃなくて――」
「ええ。彼らを皆殺しにしたようですね。
ですが、それがいけなかった。代わりに玄霧皐月は彼らから呪いを受け取ってしまったんです。
私はべつに、記憶を忘れてしまったわけじゃない。
玄霧皐月はね、その時から自分の記憶が自分の物なのかわからなくなっただけなんです。
おかしな物で、それ以来私は見た出来事の『再認』ができない。そこから先に得た知識は、記憶ではなく情報にすぎないんです。世界は映像ではなく、言葉にすげ替えられた情報に変わってしまった。
私の―――いえ、ボクの外の世界は、十歳の頃から止まったままなんです。妖精達の呪いなんでしょうが、これがどうして、どうやっても回呪できないほど強い」
くすくすと子供のように、彼は笑った。
「記憶が―――言語にすぎない?」
思わず、そう呟いてしまった。
……私は、玄霧皐月という人物の心がまだ妖精に攫《さら》われているままだと思っていた。それはひどい勘違いだったけど、十歳の頃から成長していないんじゃないか、という予想だけは合っていたみたいだ。
けど、そんな事はどうでもいい。
今の言葉は、おかしすぎる。
見た映像を再認できない? そんな筈はない。それなら、どうやってこの人は生活しているっていうんだろう。
目で見た映像を〝再認?できない、という事は過去がないという事と同じはずだ。どんなに記憶力があっても、それを思い出して〝自分が得た思い出?と認識できないのなら、そんなものは本に書いてある情報と同じなんだ。
私は、玄霧皐月を昨日見ている。その過去をもとに、いま玄霧皐月と出会って、彼が昨日出会った人物と〝再認?できるから今がある。
再認が出来ない、という事は記憶が確かでも一致しないという事だ。つまりは昨日あった出来事も、玄霧皐月は思い出せない。
彼にとって、全ての出来事は何度繰り返そうと初めて体験する出来事になる―――
「―――嘘です。先生は私が黒桐鮮花だと判ったじゃないですか。再認ができないのなら、私が誰であるか判らないはずです」
まなじりを決して、わたしはこの得体の知れない相手を見つめた。
玄霧皐月は、わたしの否定の言葉を柔らかに受けとめる。
「そうでしょうか。私は黒桐鮮花という人間の特徴を単語として記録しています。君を見て、記録してある黒桐鮮花の特徴と当てはまったから、君を黒桐鮮花と認めただけです。
だからここで君より黒桐鮮花の特徴に当てはまる第三者が現れれば、私にとって黒桐鮮花はその第三者になるでしょう。貴女自身が誰であるかは関係ありません。
私の中には、映像がありません。あらゆるモノは単語として記録されています。人間の場合は身長、体重、骨格、肌の色、髪型、言動、年齢だけです。私はあなたを見て黒桐鮮花だと思っているんじゃない。今のあなたという人問の特徴が当てはまったモノが、黒桐鮮花というモノに一番近いというだけのこと。
銘記も、記録も、保存もできる。ボクにはただ再認だけが働かない。もちろん、この方法ではたえず間違いが起きてしまいます。映像で確認できない私は、言語で物を区別しますから。
ですから髪型一つ変わるだけで、その相手を間違える事だってある。物忘れしやすいと周囲に人々からはよく言われます。この学園でだって、玄霧先生はどこかぬけていると噂されていたでしょう?」
そうして、玄霧皐月は自嘲じみた笑顔を消した。
わたしはその姿を見つめて、体が落ち着いている事に気がついた。
――――この人は、誰も、見ていない。
……わかってしまった。玄霧皐月が黒桐幹也に似ている理由と、どこかが決定的に違っている理由が。
昨日という出来事が記憶ではなく記録、データにすぎないこの人物には、自分というモノがない。
だって、自分の思い出がないんだもの。
彼にとって、思い出は自己を形成するものではなく、外界に対応するだけの情報になりさがっている。そこに玄霧皐月という人間の意志は稀薄だ。だから彼は自分から話しかけられず、全ての出来事を抵抗なく受けとめられる。
いや、受けとめるしかないんだ。その一点のみがひどく似ていて、そして、決定的に違っている。
この人に出来るのは受けとめるだけ。幹也のように、そこから返す物がない。
玄霧皐月は、いつも、生まれたばかりの子供なんだ。
だから自分が笑っているかどうかも分からない。
自分の考えさえ持てない。思う事さえ、出来ないんだ。
思い出せないから考えられない、と彼は言った。
だから―――この人物は、他人の記憶を採集する事でしか他人を識る事ができない。
……なんて事だろう。
これじゃあまるで、ただ周囲の出来事にのみ対応する機械と同じだ。この曖昧な世界を確かなモノと決定するには、なによりまず自分の意志が必要だっていうのに。
「あなたの現実はいつも不確かなんですね、先生」
何か哀れなモノを見るように、わたしは呟いた。
彼は頷く。
「そうですね。ですがそれで十分です。自分が笑っている実感もない。この身体も、指が五本あって思い通りに動くから私の腕なのだろう、と仮定するしかできない。自分の身体さえ、言葉に変換できる事実としか認識できない。
でも、人間は肉体がいらない生物でしょう? 私達は脳さえあれば事足りる。結局は脳内の電気反応だけが私達の世界です。外界はつねに曖昧なもの、それを確かな物に決定するのは各々の脳の中だ。性格も肉体も、しょせんは自己を判りやすく見せる装飾でしかない。カタチに残るモノがあるとしたら、それはこの頭の中だけのモノなんです。
物質は消費され磨耗していくもの。地球という世界が壊れていくのは、自然の摂理です。最期は亡くなってしまうのが正しい在り方ですから、誰もそれを解決する必要なんてない。私達にとっての真世界は、それぞれの脳髄の中だけなんですから。
でも、それでさえ汚れている。
だから私は忘却を採集する。問題を解決しようとする試みは、人間としての条件ですから。
私には自己がありません。けれど自己がないという私でもある。確かな肉体も確かな現実も、さして重要ではないでしょう。肉体に精神は宿らないし、現実に意味なんかない。永遠は此処《ここ》にはないんだ。外の世界は、汚すぎるから」
平坦な、とてもつまらなそうな顔をして、彼は言った。
わたしはほんの一瞬だけ、この人物の意志に触れられた。けど、そんなものは、本当に瑣末《さ まつ》な事だ。
ここには誰もいない。
ただ人の忘却を採集する本があるだけ。
……むかし、玄霧皐月は自分の記憶を取り戻す為に魔術を習って、人々の記憶を巡っていった。
けれどそれは無意味だった。結局、記憶を取り戻したところでそれを自分のものと認識できなければ意味がない。彼の行為は徒労だった。
そうして目的は変わってしまった。
わたし達の忘却を巡っているうちに、この人物は様々な闇を見てきた。十歳のままで止まっている子供にとって、それはどんな恐怖だっただろう。
彼は人の汚れが許せない。
彼は世界の汚れが許せない。
それは恐くて、解決しなくちゃいけない事だ。けれど彼は、考えるという事ができない。
「だから――自分の記憶が戻らなくなった後も、ずっと探し続けたんですね。あなたには、それしか出来ないから」
はい、と偽神の書は頷いた。
「……或る魔術師は人間がいなくなる事が解決だと結論しましたが、私は人間が好き勝手やって、なお永遠でいられる結論がほしかった。
けれど私の思考はバラバラで、カタチがない。一生懸命にモノを考えても、雑音だらけで何を考えるべきかさえわからない。ずっとずっと、みんなが平和になる方法を求めて苦悩している。
でも、それを導きだす事は玄霧皐月にはできない。自己がない彼は、すでにある事実しか言葉に出来ないのです。故に、私はその解答を人々の記憶の底に求めた。今まで何千という歴史を重ねてきた人類です。長い歴史の中でなら、一人ぐらいはその解答を見付けだせていたかもしれませんから。
無論、過去にそんな方法はないかもしれない。けれど考えるという未来がない私にとって、思い出すという過去にその方法を見付けだすしか、答えを見付ける手段はなかった」
それが今の、忘却を採集する目的だと彼は語った。
人々は忘れている。全てに共通する解答を。だからわたし達はこんなにも不完全なのだと、玄霧皐月は信じたんだ。
いえ、そんな目的しか持てなかった。
人々が忘却したものの中、いまだかつて誰も思い出せない忘却に、彼の求める答えがあるのかもしれない。玄霧皐月にとってはそれ以外に希望はなかった。
そうして答えは――何処にあったというのだろう。
「……一つ、疑問が残ります」
なんでしょう、と変わらない笑顔で彼は受けとめる。
「あなたはどうして忘却の採集だけにとどめなかったんですか。それを録音する必要はないし、わたし達の望みを叶える必要なんて、ないじゃないですか」
なるほど、と変わらない笑顔で彼は頷いた。
「簡単ですよ。私は人間でいたかっただけです。自身が人間なのだと、感じていたかった。人間として身勝手に人間だけを大切に扱えば、私はあなた達の仲間になれる。けれどそれだけでは足りないんです。
人を、人たらしめているモノは自己の意志です。
私は、それを示す必要があった。かつての私は、執拗《しつよう》に他人の過去ばかりを求めた。それだけを繰り返してきた。それは紛れもなく私だけの意志です。玄霧皐月は、己の記憶を取り戻すという目的をなくした後も、それを無くしたくなかった。
そう――唯一の人間性、趣味という娯楽を、ソレと定めたのです」
「目的が―――目的なんですね」
息を呑むわたしに、彼は満足げに頷いた。
「そうです。ですが黒桐鮮花。魔術師とは、誰もがそういうものですよ」
それが貴女が知りたがっていた言葉です、と人の望みを叶える魔術師は頷いた。
◇
長くて、意味のなかった問答は終わった。
わたしは立ち去る前に、一つだけこの人物に尋ねたい事をロにする。
それはこの事件の調査を命じられた黒桐鮮花としてではなく、わたしとしての黒桐鮮花が確かめたい事だった。
「最後に教えてください。あなたにとって、黄路美沙夜はなんなんですか」
わたしは、もうこの人物に関心も興味もない。ただその回答だけが聞きたかった。
もしかすると、それだけがこの何者でもない人物を個人にしてくれるんじゃないかと期待して。
そして、答えは予想通りだった。
「黄路君は黄路君です。それが、なにか?」
優しい笑顔で、そう言った。
望みを反映する鏡としての彼ではなく、玄霧皐月という人物を愛しているという彼女に対する彼の真実が、それだった。
「黄路美沙夜は、あなたを愛しているのに」
「ええ。――――ですが、それは彼女の幻想です」
「黄路美沙夜を、愛してはいないんですか」
「さあ。――――それは、彼女が決める事です」
簡潔な答え。人間らしさが微塵《み じん》もない、ただ受けとめるだけの答え。
「あなたの意志は、それだけなんですね」
「ええ。彼女も他の生徒と変わりはありません。
……ただこの学園の中では、彼女は抜きんでてキレイだったのは認めましょう」
資料をめくるように言われた言葉に、わたしは一歩だけ後退してしまう。
「―――あなたは、まさか」
「そうです。私が忘却を採集したのは一年四組だけではありません。この学園の人間すべての忘却を採集しました。黒桐君。この学園の澱《よど》みは一年四組の事件だけではありませんよ。たんに、君が気付いていないだけの話です」
じゃあ―――礼園の生徒はみんな、この人物に自分を返されていたんだ。八百人近くの人間の罪を告発して、それを様々な望み通りに還す。……それは、とても危うい綱渡りなんじゃないだろうか。それだけの数があれば、黄路美沙夜のように兄への幻想を抱くものもいれば、玄霧皐月自身を憎む生徒も出てきてしまう。
……いや、それほどにこんな事をずっと繰り返してきたこの人物は、とうの昔に誰かの殺意を買っているはずなんだ。
だから――――
「―――その先は口にする必要はありませんよ、黒桐君。あなたの危倶は無用です。誰かの望みが私を殺害する事だとしても、その善悪は私には関わりありませんから。どのような望み、どのような結果であろうと、責任はその生徒にあります。そう――私からは、何も」
自身が死ぬ事でさえ、受け入れると彼は言った。
それは死を覚悟しての言葉じゃない。自分がない、自分を無視した人の言葉だ。
「私は勘違いしていました」
以前、わたしはこの人を害のない人間だと思っていた。
けど、それは違った。
コレは害のない人間なんじゃない。居ても居なくてもいい存在にすぎないと、なんで、わたしは気がつかなかったんだろう――――
「あなたは――決して、幹也と同じなんかじゃない」
玄霧皐月は、満足げに頷いた。
わたしは準備室を後にする。
この人物に対して行なうコトなんて、何一つとしてないんだから。
「長い質問だったね。今まで、ここまで私に答えさせた人はいなかった」
「違いますよ、先生。今のは黒桐鮮花の意志じゃありません。私は師に命じられた調査の為と―――黄路先輩の代わりに、あなたを知ろうとしただけですから」
それは、冷たい返答だった。
けれど玄霧皐月は本当に嬉しそうに、クスリ、と小さな微笑をこぼした。……今までの笑顔とは違う、どこか作り物みたいな、ぎこちない笑顔を。
「黄路君は旧校舎にいるよ。君と両儀君が思い通りにならないから、計画を早めたんだろう。一年四組の生徒を旧校舎に集めて火を放つと言っていた。
――――そうだね。止めるのなら、急いだほうがいい」
言われて、わたしは駆け出していた。
……最後に。その言葉だけは、彼が自分自身から紡《つむ》ぎだしたものだと気がつきもしないままで。
/6
雨が降りはじめていた。
昏い森に囲まれたこの校舎は、ぽつぽつと雨音をたてて、誰に看取られる事もなく佇《たたず》んでいる。
その半分が焼かれてしまった小等部の校舎は、もうじき、残った半身も灼《や》かれる事で消えようとしていた。
……目的の彼女たちは四階の教室に集まって、そのまま眠った。
私は直接手を下さない。
あとは、彼女たちの誰かが自分から火を放つのを待とうと思う。
壊れた、誰もいない旧校舎で雨を待つ。
二階の渡り廊下から昏い森を眺めていると、黒桐鮮花という生徒がやってきた。
私は憂欝《ゆううつ》な吐息をもらして、彼女を出迎える事にした。
◇
小降りの雨が黒い制服を濡らす。
冬の雨は、雪のように冷たかった。
吐く息は白くて、うなじのあたりがシンと震える。
そんな凍えた空気の中を駆け抜けて、黒桐鮮花は旧校舎に辿り着いた。
昨日訪れた時のように、昇降口から中にはいる。
半分が焼けただれた校舎は、もう何十年と放置された廃屋《はいおく》のように寂しげだった。生徒である子供達の声も、学校としての息遣いも死に絶えている。
今ここにあるのはキイキイと小煩《こうるさ》い虫の声と、鼻をつく乾いた匂いだけ。
彼女はくん、と匂いをかいで、それがガソリンの香りだと納得した。火薬や燃料の匂いに、黒桐鮮花は人一倍敏感なのだ。
「――ああ、めんどうくさい」
両肩を落として、鮮花はそんなため息をつく。
「一度しか話した事のない相手の為に体を張るなんて、ほんと、バカみたいだ」
廊下を歩きながら、鮮花は右手に手袋をはめる。茶色をした革製の手袋は、彼女の師から譲り受けた逸品だった。
火蜥蜴《ひ とかげ 》の皮で作られたその手袋は、彼女の発火するだけの能力をよく抑えて、同時に暴発させてくれる。
戦闘準備を整えて、鮮花は二階へ続く階段の前で立ち止まった。
二階に続く階段の踊り場に、黄路美沙夜が待っていた。
「こりない人ね、黒桐さん」
お気にいりの下級生をたしなめるような雅《みや》びな口調で、黄路美沙夜はそう言った。
彼女は階段の踊り場に陣を構えたまま、廊下にいる鮮花を見下ろしている。
美沙夜の周囲には無数の音が反響していた。
それは鮮花には見えない、妖精と呼ばれるモノ達だ。虫達は羽音を鳴らして、今か今かと女王の命令を待っている。……あの獲物を襲え、というただ一言の命令を。
以前と変わらない圧倒的な戦力差に加えて、今の鮮花の位置ははっきりと不利だった。階段の上にいる美沙夜と下にいる彼女とでは、距離があまりにも開きすぎている。
その状況を無視して、鮮花は黄路美沙夜に話しかけた。
「先輩は嘘つきですね。一年四組の生徒は自殺じゃなければいけないんじゃないんですか?」
「―――当然です。あの人たちは自発的にここに集まって、自分から焼け死ぬ事に変更はありません。本当はそれぞれで悔い改めさせるべきでしょうが、予定を早めました。まだ死にたがっている生徒は半数ほどですが、いずれ皆そうなるのです。ここで全員が焼け死んでも、結果に大差はないでしょう」
「ふぅん―――自殺志願者がいたようには見えませんでしたけど。でも、死にやすい状況と死んでもいいような雰囲気を用意すれば、たしかに一部の死にたがりは集まったクラスメイトを道連れにしちゃうのかな」
ひどい話ですね、と鮮花は肩をすくめる。
その仕草に緊張の類はなくて、黄路美沙夜は不審げに顔をしかめた。
「黒桐さん。あなた、彼女達を助けにきたのではなくて?」
「まさか。私、神さまをまだ信じられないんです。だから罪とか罰とかに熱中できないの。彼女たちは自殺したいんでしょ? なら、それを止める事って余計なお世話じゃないですか」
にこり、と世間知らずのお嬢様みたいに純真な笑みを浮かべて、黒桐鮮花は黄路美沙夜に視線をあげた。
そこに偽りの感情は見られない。
黒桐鮮花は、本気でそんな事を気にしていなかった。
美沙夜の表情はますます険しくなる。
なら―――彼女は何の為にここまで来たというのだろう?
「では、私への報復ですか」
「意味合い的には近いかな。私がここまできたのは、黄路美沙夜が哀れだからだもの」
言って、鮮花ははっきりと黄路美沙夜の姿を見据えた。
階段は小等部の造りなため、そう段差も高くないし段数も多くない。リズムよく駆け上がれば、美沙夜に辿り着くまで二秒もかからないだろう。
「―――私が、哀れですって?」
黄路美沙夜の瞳に、火のような敵意がゆらめく。
今すぐにでも妖精達を繰り出しかねない彼女を前にして、鮮花は微動だにせず問うた。
「先輩。あなたはどうして、玄霧先生に相談したの?」
黄路美沙夜は彼が私の兄だったから、と即答した。
「そうですよね。じゃあ、その力は誰に貰ったの?」
それも兄からだと、彼女は答える。
「なら――あなたは、いつ玄霧先生を兄妹だと認めたの?」
そんな事は、初めから知っていた――――
そう言いかけて、彼女はそのつまらない矛盾点に気がついた。
……どうして。今まで、こんな些細な矛盾に気がつかなかったんだろう、という驚きとともに。
「――――――」
美沙夜は小さく声を漏らす。
それでは、順番がおかしいから。
「そういう事ですよ、先輩。あなたは彼が兄だから相談にいったんじゃないでしょう? あなたは、単に玄霧先生が担任だから相談しにいっただけです。それも、きっと橘佳織に関しての事じゃない。
あなたはこの学園では一番の権力者ですもの。玄霧先生に相談なんかしなくても、葉山英雄自身を直接問い詰める事ができた。その結果―――葉山英雄は死んでしまった。
聡明なあなたの事だから、それは本当に不幸な事故だったと思います。けど、とにかく葉山英雄は死んでしまった。あなたが相談したのはその事なんじゃないですか、黄路先輩」
黄路美沙夜は答えない。
彼女はただ、何もない空間だけを凝視していた。
そこに、いもしない人物の影を見るように。
美沙夜は自分を見つめる下級生の事さえ忘れて、ただ自己の思考に埋没する。
兄、兄―――自分はいつからそれを認めたのか。
初めから知っていたはずはない。だって、自分は兄の面影なんて微塵も覚えていなかったのだから。
なら―――知る方法は一つだけだ。妖精が使役できるようになって、玄霧皐月の記憶を奪った。その断片に、催眠術みたいに玄霧皐月が自分の兄だと書かれていただけだったのかもしれない。
だって、自分にはそれ以外に知る方法というものがないのだから。
「私、私は―――――」
「知らないわよね。黄路さん、あなたは自分の記憶で玄霧先生を兄だと認めたんじゃないもの。あなたは、玄霧先生から奪った記憶からしかそれを認識していない。
他人の記憶はしょせん他人のモノでしょう? そこに黄路美沙夜としての真実はどこにもありはしない。
あなたは、ただ、鏡を見ていただけだったのよ。玄霧皐月は、あなたの為に何かをしてくれたわけじゃない。彼にとって、あなたはそこにいる妖精と変わらないんです。――黄路美沙夜は妖精を使役しているようで、その実、貴方自身が使役されている妖精だったんだから――」
そうして、鮮花は式の言葉を思い出した。
美沙夜自身が忘れていると呟いた彼女は、初めからこの事が解っていたのかもしれない。
「……う…………そ」
喘《あえ》ぐように、黄路美沙夜は呟いた。
「そんなの、嘘よ――――!」
激昂とともに、妖精たちは弾丸と化した。
空中に停滞していた羽音達は、刃物めいた鋭い音を引いて黒桐鮮花へと食らいつく。
それは、機関銃の掃射めいた暴力の嵐。
けれどそれより早く、彼女は走りだしていた。
両拳を目前に構えたまま、前かがみになって階段を駆け上がっていく。自分の体を撃ち抜こうとする妖精達を、彼女は体を真横にスライドするだけで鮮やかにに回避した。
……妖精の群れが標的に向かって放たれた弾丸ならば。
彼女は、獲物を仕留める肉食動物そのものだった。
わずか三歩で階段を登り切った彼女は、前かがみの姿勢のまま黄路美沙夜の前で足を止める。
ダン、という踏み込みと、ヒュッと口笛のように吐かれた呼吸。
掬《すく》いあげるようなボディーブローは弧を描いて黄路美沙夜の腹部をかすめ、その背後へと突き刺さった。
ぞぶ、と何もないはずの空間で音がする。
「Azolto――――!」
拳の着弾を確かめてから、鮮花はそんな単語を発音した。
魔術を発動させる呪文は、その個人によって千変《せんぺん》する。
その、魔術の発動に必要な儀式を極端に要約した詠唱が、黒桐鮮花にとっての呪文だった。
大気が一瞬にして燃え上がる。
美沙夜の背後にいた何かは、苦悶の声らしきものをあげながら燃えていく。
木製の人形にガソリンをかけて火をつけたように、炎は明確に何かの形に燃え上がって、やがて炎ともども消えていった。
ふう、と火弾の射手は息を吐く。
「……これがあなたが身に着けていた魔術の正体。魔術は身に着ける物じゃなくて、その身に刻むものです。先輩のようにひと月やふた月で魔術を使うことなんてできないのよ。……玄霧先生は貴方自身に妖精を憑かせることで、その問題を解決した」
発火によって燻《くすぶ》ったままの右手の手袋を握り締めて、黒桐鮮花はそう言った。
黄路美沙夜は呆然と―――憑《つ》き物が落ちたように呆然とした瞳のまま、ぺたん、と床に両膝をつく。
「……そう。そういう、ことなのね」
呟いて、黄路美沙夜は声もなく笑った。
もっと早くに気がつくべきだったのに、と自分自身を嘲笑して。
…
彼女は回想する。
……あの時。
葉山英雄を問い詰めた時、言い争いになって葉山英雄に暴力を振るわれた。今まで誰かに逆らわれる事なんてなかった私は、ただ夢中で葉山英雄を押し退《の》けた。
ただそれだけだったのに、あの間の悪い男は死んでしまった。
〝もう、どうしていいかわかりません?
そう言って、私は玄霧皐月に助けを求めていた。
父にも学長にも相談する気にはなれなかった。
私は―――ずっと惹かれていた玄霧先生にだけ、自分の罪を告白した。
あの人は、不思議な人だった。
栄光や結果に執着する人間だけしか知らない私は、何にも執着しない玄霧皐月が特別な人に思えていた。
だから――先生なら助けてくれると夢みたのだ。
そして望みどおり、彼は全てを解決してくれた。
兄に幻想を抱いていた自分。それをカタチにしてくれた皐月。
佳織の死に報いたい私。それを可能にしてくれる力を教えてくれた皐月。
彼は、キレイな物は汚い物に触れる必要はないと言った。
……なぜ、その時に気がつかなかったのだろう。
あれは私と彼女達の事ではなかった。
彼は言った。汚れないためには、自分以外の物を使えばいいと。
その時、私は本当はわかっていた。たとえ私自身が彼女達を殺さなくても。
私自身が、彼女達の死を望むのなら。
〝だって、それでも、結果としては―――同じ事ではないでしょうか、先生??
……あの時|美沙夜《わたし》は、彼にそう告げておけばよかったのに。
…
「口にしなければ、よかった」
黄路美沙夜は何もない中空を見つめながら、そう呟いた。
彼女は傍らに立ったままのわたしに意識を向けもしない。けれど、その言葉は彼女自身と、わたしに向けて語られるものだった。