「私だってわかってた。
皐月は、自然だったから。自然のままの皐月を愛した私は、そんな幻想をぶつけてはいけなかった。けど、そうして自分だけの何かにしないと不安だったのよ。私は、皐月に誰かのものになんてなってほしくなかったから。
けれど。それは転じて、自分のものにだってなってほしくないという事です。私は、ただ見ているだけでよかった。たとえ―――彼が、私の事を何とも思っていなくても、それだけでよかったのに」
何か、もう遠い出来事のように彼女は言った。
……似てるよ、先輩。
認めたくないけど、やっぱりわたしと黄路美沙夜は似ているんだ。
自分より大切に思えるほどの相手なのに、それを口にした瞬間に大切でなくなってしまう関係。わたしだってわかってる。わたしの―――わたしたちの心は、決してカタチにしてはいけない恋慕だっていう事が。
「それでも――――求めずにいられなかった」
それが最も重い罪だと言うように、彼女は呟く。
……わたしは、知らず告げていた。
「先輩。橘佳織を自殺に追い込んだのは、玄霧先生です。あの人にとって、特別なモノなんて存在しない。あなたの復讐は、はじめから的のない物だったんです」
「ばかね、黒桐さん。……そんなの、初めから知っていましたわ」
それだけ残して、黄路美沙夜は床に伏した。
懺悔《ざんげ 》するように顔を床につけて、彼女は笑っている。
くすくすと漏れる笑いは、なんだか泣いているように濡れていた。
◇
わたしは彼女を残して、子供たちの校舎を去る。
森に降る雨はやがて霧になって、帰り道を隠しているようだった。
忘却録音/
7
子供のころの夢を見た。
まだわたしが黒桐の家で暮らしていた頃の、ずっと昔の思い出を。
月の明るい夜のことだ。その日の昼に、隣の家に住んでいたおじいちゃんが他界した。
その人はただのお隣さんで、若い頃に家族を亡くされて独りきりの、淋しげな老人だった。
痴呆《ちほう》が進んで昨日のこともよく覚えていない人だったけれど、とても優しくて、温かいおじいちゃんだった。
わたしは遠見に、兄は親身になってその老人と日々を過ごしていた。
老人は自らの孤独を埋めるように隣の家の少年と話して、兄は純粋な親愛から隣の家のおじいちゃんと過ごしていた。
ある日、何の前触れもなく、その老人が床に伏したまま目を覚まさなくなった事を、わたしと兄は夕飯の時に両親から聞かされた。
なにげない食卓の空気は張りつめて、わたしもあの淋しい老人のために涙ぐんだ。
あの人は、家族を失ってから何十年という責め苦に耐えて、やっぱり酬《むく》われるコトもなく死んでしまった。それは悲しいものなんだと、あの頃の冷めた自分でも感じ取れていたから。
わたしでさえそうなのだから、兄は泣くだろうと思った。
けど、彼は泣かなかった。
とても悲しそうな顔をして、でも、決して泣かなかった。
強がりとか、そういうコトじゃないのは兄の苦しげな目が語っていた。
……悲しければ泣けばいいのに。幹也は、そのまま涙する事はなかった。
数日後。
おじいちゃんが臨終《りんじゅう》を迎えたのを見つけたのは、遊びにいった兄だという事をわたしは知った。
月の明るい夜、わたしは縁側に出て夜空を見上げた。
縁側には兄という先客がいたから。
〝どうして、泣かないの??
〝うん、どうしてだろうね?
困ったような顔で、兄はわたしを見下ろす。
瞳はまだとても悲しげで、だからすごく優しかった。
〝男の子は、泣いちゃダメだから??
父の言葉を思い出して訊いてみても、兄は首を振るだけだった。
〝ねえ。なんで泣かないの??
〝うん。泣きたくても、泣けないんだ?
―――それは、特別な事だからね。
それだけ口にして、兄は夜空を見上げる。
その横顔は今にも泣きだしそうで、けれど、決して涙は流れなかった。
……この時、わたしはわかってしまったんだ。
人一倍誰かに同情して、人一倍泣いてしまいそうなのに、この人は絶対に泣けないんだって。
何かの為に涙するという事は、とても特別な行為だと思う。それはまわりに影を落とす悲しみの表現であるし、心の揺らめきを感染させる行為でもある。
泣くという行為は特別だ。それだけで周囲に大きな影響をおよぼす。だから―――この人は泣けないんだ。
どこまでも普通で、誰よりも人を傷つけないという起源を持つこの人は、たとえ自分がどんなに悲しくても、何かの為に涙する事さえできない。泣いてしまえば、誰かの特別になってしまうから。
―――それは誰とでも解りあえるかわりに得た、
誰にも気付いてもらえない空っぽの孤独。
……この時。
わたしにとって、黒桐幹也は大切な人になった。
こんな自分なんかよりずっと大事な、絶対に失ってはいけないモノになったんだと思う。
月の明るい夜。兄妹で星を見上げた。
それがわたしにとっての原風景《げんふうけい》。
ずっと忘れていて、ずっと思い出してはいけない、遠い日のゆめだった。
◇
一月十一日、月曜日。
学校が始まって、わたしはいつも通りの学生生活に戻っていた。
授業を終えて教室を出る。寮に戻って支度を整えてから、シスターに外出届を提出する。
しぶい顔をされながらオーケーをもらって寮を出ると、そこで藤乃《ふじの 》とぶつかった。
「出かけるの、鮮花?」
「ちょっとね。もしかすると門限に間に合わないかもしれないから、瀬尾《せお》によろしく言っといて」
綺麗な長い黒髪をした同級生にルームメイトヘの伝言を頼んでわたしは急ぐ。
早足で森を抜けて、礼園の校門に辿り着く。
守衛さんに個人用の扉を開けてもらって外に出ると、そこには見知った人物がぼんやりとわたしを待っていた。
その人物は黒一色の服に、明るい茶色をしたコートを羽織っている。この寒空の下でどれくらい待っていたのか、眼鏡のかかる鼻の頭は赤くなっていた。
わたしは走ってきた呼吸をきれいに整えて、落ち着いた声で話しかけた。
「待ちました、兄さん?」
「えっと、どうかな。そう長くはなかったと思うけど」
笑顔とも文句ともとれる曖昧な顔をして、黒桐幹也はそういった。
「じゃあ行こうか。門限まであと二時間しかないから、急ごう」
そうして幹也は歩き始める。彼の横に並んで、わたしは弾む心をそれなりに自制していた。
礼園の高い壁にそって、わたし達は駅に向かって歩いていく。
……なんでこんな事になったかというと、始まりは昨日の幹也からの電話だった。
あの正月のすっぼかしを気にしていたらしい幹也は、その埋め合わせをしようと言ってきたのだ。
〝少し遅れたけどお年玉、いらない??という兄の言葉に折れて、わたしは正月の事件を許すことにしたのだ。
……ほんと、我ながら半端に現金でイヤになるけど、それはそれでいいかな、なんて認めたりする。だって、初めて買ってもらうモノを悩んでいるうちに夜が明けて、こうして並んで歩いている今でさえ悩んでいるなんて、かわいいコトだと思えたから。
「それで、鮮花はどっちがいい?」
唐突に言われて、わたしははい?と首をかしげた。
「だから、夕食。和食か洋食か。ごはんをご馳走してやるって言っただろ」
「―――――はい?」
もう一度、小鳥みたいに首をかしげた。
どうにも、意味がよくつかめない。
イマ、コイツハ何ヲ言ッタンダロウ?
「……あのな。昨日、何が欲しいって聞いたら決められないって言うから、じゃあ食事にしようって決めたじゃないか」
わたしは愕然と幹也を見上げる。
あれはたしか、まだ決められないとわたしが答えて、それでも食事をするから外に出てきなさい、とそのまま電話が切れたんじゃなかったっけ……!?
「……しょうがないな。決まらないのなら、どっか適当においしそうな所に入ってみようか。大丈夫、今日は大枚おろしてきたからお化けみたいな値段の店でも恐くないぞ」
だから安心しなさい、と幹也は笑顔でわたしを見た。
……なんてコトだろう。この人、食事に誘われて女の子が喜ぶとでも本気で思ってるんだろうか?
「……思ってるんでしょうね、やっぱり」
はあ、とため息をついて呟く。
幹也は何?と訊き返してくるけど、わたしは無視する事にした。
……だって、文句を言っても仕方がない。
この人がそういう人だから、わたしは好きになったんだもの。こっちの理想を無理遣りに押しつけちゃったら、わたしの恋慕は迷ってどっかに行ってしまう。
「……そうね、失敗例も目《ま》のあたりにしたことですし」
自重自重、と呪文のように内心で繰り返す。
「なんだよ。さっきから独り言が多いぞ鮮花。何かあったのか?」
訊かれて、わたしは静かに首をふった。
世は全て事もなしで、問題なんて少ししかない。
「なんでもありません。ただ、私は先輩みたいに失敗はしないぞって誓っただけです」
力強く答えて、わたしは幹也の腕に抱きついた。……うん、きっとこれぐらいは兄妹として許される範囲だろう。
幹也は顔を赤らめながら、普段通りに歩いていく。
わたしもそれに倣《なら》って普段通りに歩いて、やがてきらびやかな装飾があふれる街が見えてきた。
少し遅れたわたしの年明けは、こんな風に始まった。
だからそれに相応《ふさわ》しく、夕食は豪華な豪華な和食になるのでありましたとさ。
/忘却録音
その日の授業を終えて、玄霧皐月は準備室に戻ってきた。
天気は何日かぶりの曇りで、廊下はモノクロームの写真のように静まり返っていた。
準備室の扉を開けて、中の様子をゆっくりと眺めた。
物であふれている彼の部屋は、けれど生活感というものが排除されていた。
灰色の陽射しに照らされた、時が止まった準備室。その風景が玄霧皐月の記録してある情報と一致するか確認してから、彼は中に足を踏み入れた。
ぱたん、とドアを閉めた。
「――――――」
同時に、彼は鋭い痛みを覚えた。
視線を下ろす。
そこには見知った生徒がいた。
彼女はナイフをもって、深々と玄霧皐月の腹部を刺していた。
「――――誰かな」
静かに、彼は言った。
生徒は答えない。
ただナイフを持つ手を震わせて、顔をあげる事もできないようだった。
彼は、そんな彼女の体を観察した。
身長、体重、髪の色、髪型、肌の色、骨格。
玄霧皐月が記録しているかぎり、この生徒の特徴を持っている生徒は一人しかいなかった。
けれど――――
「君か。私を殺すために待っていたんだね?」
生徒は答えない。
彼は一回だけ肩をすくめて、自らの手を彼女の肩におろした。
優しく、彼女の恐怖を和らげるように。
「ならもう行きたまえ。君の用件は済んだんだ」
生徒は、その言葉にびくりと震えた。
玄霧皐月は、自らを殺す相手にさえ、優しかった。
殺人をした事よりその事実の方が恐ろしくなったのか、彼女はナイフから手を離して走り去った。
その背中を最後まで見届けても、彼にはわからなかった。
あの生徒は、一体誰であったのか。
色々な特徴はある一人の生徒を特定させていたけれど、ただ、その生徒とは髪型が違っていた。それだけで彼にとって彼女は見知らぬ他人だった。髪型を変えただけかもしれないとしても、ただ一点が記録した情報と違うのなら―――――玄霧皐月にとって、あの生徒は初めて見る他人なのだから。
彼は自分から準備室のドアを閉め、内側からロックした。
血を撒《ま》き散らしながら、部屋のあらゆる鍵を丁寧に閉めていった。
やがて体は動かなくなって、彼は壁に背をついたまま座り込んだ。
―――死は、どうという事はない。
いつだって、私はこの結果を受け入れていた。
彼は自らの体を観察した。
血を流して赤く染まるそれは、今まで記録していた玄霧皐月の体とは違っていた。
だからだろうか。これから死ぬのだという恐怖は、自己というものに似て、ひどく稀薄だった。
彼―――いや、私は今の玄霧皐月を採集する。
……出血はひどい。おそらくは助かるまい。
死に至るまでの時間は、あと十分といったところだろう。
さて、と一息つく。
せめて死ぬまでのその時間を、自由につかいきりたかった。
だが十分は短すぎる。何を思い、何に答えがだせるだろう?
いや、時間の長さは問題ではあるまい。
彼は今生まれ、そして十分後に死亡する。
いわばこの時間は彼の人生だ。これほど長い時間もない。
さあ、何を考えよう。
何を思索してみよう。
今までの自分ならば何を考えるべきかでその全てを使いきってしまった。
けれど、不思議とクリアになったこの人生の中でなら、彼は驚くほどスムーズに議題を手に入れた。
呼吸は荒い。
十分は長い。
出血は酷い。
―――人生は短い。
空白に洗浄されつつある頭脳が、意味もなく彼の思考を口にした。
「―――そうだ。
まずは、生まれる前について考えよう」
最期に、彼は答えに辿り着いた。
究極の忘却とは、つまり生前の記憶だ。生まれる前の記録だけは、人は持っていない。
自分が生まれる前の世界。それはとても無意味で、平和だ。ああ、苦悩はとても簡単なこと。
「つまるところ、自分さえ生まれなければ、世界《ワタシ》はこんなにも平和だった」
嬉しくて、楽しくて、玄霧皐月は笑った。
そんな事に何の意味があったのかわからない。
ただ、一つだけ。
この長い時問の中、彼は初めて、自分が笑っているのだと実感できた。
/7
…
―――魔術師は言った。
私でも、言葉だけは殺せないと。
けれど、それでもいつかは死んでしまうだろう。
物事はすべて消え、亡くなり、死ぬものだ。
そうでなければ過去と未来の境界が曖昧になってしまう。ものごとは戻らないものだからこそ、無くさないようにと大事にするんだ。
……そもそも、どうして亡くなるぐらいでそれを永遠でないと言うんだろう。
消えてしまっても、忘れさってしまっても、物の存在は変わらない。変わるのはそれを受けとめる私達自身の心の有様《ありよう》にすぎない。
私は、言ってやるべきだった。
だから―――忘却に永遠を求める事なんて意味がないと。
忘れ去られるモノは当然のように忘れ去られて、もうそれ以上歪む事なく眠りにつく。
ほら―――忘却するという行為そのものが、永遠を定義できる一つの方法なんだ。
かつて私の中にいた織《シキ》という少年が、あの日々を私から忘却した理由が、今ならわかる。
彼は本当に大切な思い出を、今を生きていく私自身の心に変えられないように、大切に眠らせてくれたのだ。
たとえ思い出せなくても、それが有った事だけは変わらないから。
……あの魔術師はその事を知っていたはずなのに、それを答えと認められなかった。
自己がない彼は、確かなモノがないからこそ、言葉という死なないモノで永遠を欲しがったのか。
――――なんて、酬われない。
言葉にできる永遠なんて、それこそ何の価値もないっていうのに。
…
◇
一月七日になって、私は堅苦しい礼園の制服から解放された。
鮮花をまだ学園内に残したまま、私こと両儀式は礼園女学院の校門をくぐり抜けていた。
予定されていた転入手続きを反古《ほご》にするのに一日かかってしまったけれど、事件そのものは解決したので学院側にも文句はなかったはずだ。
秋隆《あきたか》に送らせた藍色の紬《つむぎ》を着て、その上から革のジャンパーを羽織《はお》って、私は悠々とこの森と校舎の世界から外に出る。
すると、そこには見知った顔が私を待ち受けていた。
「……このひま人。何してるんだ、こんなところで」
「あのね。僕だっていつもいつも暇じゃないぞ。
……うん、暇じゃないけど、今日はたまたま暇だったんだ」
だから仕方ないだろ、と幹也は肩をすくめた。
その仕草に安堵を覚えながら、私はちりちりとした悪寒を感じて、首を横に振った。
……本当は、しばらく幹也には会いたくなかった。
思い出してしまった記憶の断片が、私の中の不安を少しずつ大きくしていくから。
それでも今はその怖れより、こいつの呆《ぼう》とした姿のほうがほしかったみたいだ。
「……そっか。なら暇つぶしに付き合ってやるよ。ちょうどつまらないお伽話《とぎばなし》を聞いたばかりでさ、おまえにも聞かせてやる」
言って、私は歩きだす。
幹也は素直じゃないな、なんて暴言を吐いて私の顔を覗き込んだ。
玄霧皐月と黄路美沙夜の話が終わる頃、私と幹也は自分達の住んでいる町を通り過ぎていた。
歩きながら話しているうちに、なんとなくお互いの部屋を通り越してしまったのだ。
私たちは暗黙の了解でトウコの事務所を目指す形になっていた。
「……でもさ。なんだって一年四組の事件だけが表立ったんだろうな。鮮花の話じゃ玄霧皐月は生徒全員の記憶を採集していたって話じゃないか」
最後まで残った疑問を口にすると、幹也は難しい顔つきで頷いた。
「それは黄路美沙夜の願いが一年四組の生徒への報復だったからだろうね。忘却した記憶を手紙にして返していたのは、美沙夜がそれを望んだからだよ。だから他の生徒は忘却を採集されただけで終わっていたんだ」
「ばかにすんな、それぐらいオレだって解ってる。要は、どうして黄路美沙夜の願いだけが事件を起こしたかってコトだろ」
「そうだね。……きっと、黄路美沙夜だけは特別だったんだ。他の生徒はさ、その願いそのものを玄霧皐月にカタチにしてもらっていたワケだろ。けど、黄路美沙夜は違うじゃないか。彼女の願望は、彼女自身の手によって実行されようとしていた。……この違いは、大きいと思う」
……そうか。言われてみればその通りだ。
玄霧皐月は、自らを鏡と言っておきながら黄路美沙夜に対してだけは鏡ではなかったんだ。
「だけど、どうして?」
幹也は答えない。
私達はしばらく無言のまま、冬の冷たい空気の中を歩いていた。
長い沈黙と思案のあと。
幹也は、悼《いた》むように私を見た。
「式。玄霧皐月にはね、本当に妹がいたんだ」
彼はそれ以上は言葉にしなかった。
……理由は、それだけで十分だったのかもしれない。彼女が彼の本当の妹であっても、仮に、そうでなかったとしても。
今になっては、真実を知るのは玄霧皐月だけだろう。……そしてその皐月自身でさえ、それを確認する手段がない。
真実は永遠に闇の中だ。―――なんて皮肉だろう。こんな所にも永遠がある。
「……おかしな話。可哀相だね、玄霧は」
本当にそう思って、私は呟いていた。
自己が無いあの魔術師は、ほんの数ヵ月前の私にひどく似ていたから。
……けれど。私のそんな感傷に、幹也は意外そうに目を見開いていた。
「驚いたな。式はしてやられたっていうのに、彼の肩を持つのかい?」
「肩を持つわけじゃないよ。ただ憎んでいないだけだ」
そう、憎んでいない。
憎めるはずがない。
それは、だって――――
「あいつ、幹也に似ていたからな」
「え?」
「幹也の名字は黒《くろ》い桐《きり》じゃないか。あいつだって玄《くろ》い霧《きり》だ」
そんなつまらない返答を、私はしていた。
幹也は傍らで苦笑する。
「なるほど。とんちが利いてるね、それは」
私の言葉を全部冗談ととったのだろう、幹也は無邪気に笑っていた。
……けど、それにしてもとんちが利いてるはないとおもう。
「そりゃあ死語《しご》だよ、幹也」
横目で幹也を眺めながら、私は呆れてそう告げる。
「――――あ」
そこである事に気がついて、私は小さく笑ってしまった。
「あれ、どうかした?」
「いや。オレに殺せなかったものを、おまえは今殺したんだなって」
私の返答に幹也は首をかしげて考え込んでしまう。
それも当然か。こんな独り言、幹也にとっては突拍子もない言葉だっただろうから。
「なんでもないよ。意味のない独り言だから忘れろ。こんなの、当たり前の事なんだから」
……そう、現代では言葉でさえ死んでしまう。普遍性を無くした言葉は、その意味を剥奪されてただの発音になりさがってしまう。……ちょうど、幼年期に置き去りにされたまま成長してしまった、あの魔術師のように。
「なんだよそれ。悪いけど僕は式みたいに物騒な性格してないぞ。誰かを殴った事だってないんだから、殺すなんてコトはあるはずないだろ。……ああ、ないよな。うん、きっとないと思うけど―――」
器用なことに、幹也は自分自身の台詞でさらに深く考え込んでしまった。
こいつのコトだから、自分で気がつかずに誰かを傷つけたコトなんかを反省しているのだろう。
……そうゆうトコ、ほんと、ばかみたい。
けど、私はそういうこいつを見ていたい気分だった。その理由を追及する事はよしておいて、口元に笑みをうかべたまま、両儀式は歩き続ける事にした。
夕暮れは落ちて、空には星が瞬《またた》きはじめる。
凍えた月を頭上にする頃。
気がつけば、私たちはトウコの事務所さえ通り越して見知らぬ道を歩いていた。
顔を見合わせて、お互いの不注意さにため息をつく。
馬鹿みたいだと幹也は言うけれど、私はわりと嬉しかった。
理由は、まあ、なんとなく分かっている。
なぜって、これが私にとって、初めて誰かとした夜の散歩だったからだ―――――
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[楼主] [3楼] 作者:滄炎沁夢2005 发表时间: 2008/04/13 02:31 [加为好友][发送消息][个人空间]回复 修改 来源 删除境界式
(0)
とにかく、誰かを殴ってみよう。
相手は誰でもかまわない。できればあまり罪悪感が|湧《わ》かないヤツがいいだろう。
場所は人目につかないところ。|内申《ないしん》に響くことは避けたいし、僕は目立つことには慣れていないから。
一週間ばかり考え抜いたすえ、相手と場所を決定した。
相手は同じ学校の下級生。以前、一度だけ廊下でこっちを睨んできた金髪の男子生徒だ。
場所は彼が出入りしているゲームセンターの近くにした。アイツは週に一度の割合で見知らぬ客をつかまえて暴力を振るう。ゲームの勝ち負けで熱くなって、自分を負かした相手を殴りつけるのだ。
もちろんゲームセンターの中でそんな事はしない。ずるがしこい彼は、客が外に出た瞬間に声をかけて、強引に路地裏に連れこんで屈辱を晴らしていだ。
人目につかない暴力ゆえに、彼は罪を問われない。
それは、こちらにとっても好都合な条件だった。
◇
『弱い人は嫌いです』
勇気をだして告白した時、彼女はそういって去っていった。
たしかに、僕は生まれてから一度もケンカというヤツをした事がない。
興味がなかっただけと言えばそれまでだが、実際問題として誰かと殴りあってまで争う勇気や主張がなかったのも事実だ。
だから僕は弱い人なのだろう。
その弱さを|払拭《ふっしょく》する為には、誰かを殴ってみるしかない。それが一番てっとり早い強さの証明だし、より『人を殴る』という行為に興味もあった。十七年間生きてきて、やっていないコトはもうそれぐらいしか残っていなかったからだ。
◇
そうして、僕は彼をおびき出した。
夜のゲームセンターに出向いて、何度も何度もゲームで彼を負かしてみた。
店を出ると、彼はこちらを睨みつけながら路地裏へと引っ張っていった。今までは害のない会話をしておびきだすパターンだったのに、今回は会話がない。よほど頭にきているらしい。
……安心する。彼がいつも誰かを殴っているのは事実だけど、それでも自分が暴力をふるう事に罪悪感はあったのだ。
けど、それもこれで消えた。彼が僕を殴るつもりなら、こちらが殴ってもそこに罪とか罰とか、どっちが悪いとかは存在しなくなるのだから。
彼は僕の腕をひっぱったまま、ずんずんと路地裏の奥へと進んでいく。
「おい」、といって彼は振り向いた。
その前に、僕は彼の頭を殴りつけていた。
キン、という音がして、彼は地面に倒れこんだ。
力のない、容赦のない倒れ方は人形に似ている。
倒れこんだ彼は、どくどくと頭から血を流して動かなくなってしまった。
「――え?」
信じ、られない。
たった一度、手の平に収まるぐらいの木材で殴りつけただけで、彼はあっけなく死んでしまった。
「――なんだよ、それ」
思わず、そんな文句を言ってしまった。
だってそうだろう? これはまったくの事故だ。
悪意も殺意も存在しない殺人事件。そんな事を、僕はやるつもりはなかったのに。
「――知らなかった」
そう、知らなかった。人間ってヤツが、こんなにも脆くて簡単に死んでしまうモノだったなんて。
けど、これは彼らだって普段からやっている事なのに、どうして僕だけが人を殺してしまったんだろう?
いつも無差別に暴力を振るう彼らと、今回だけ暴力を振るった僕。
なのに、人を殺したのは僕だけなのか。
わからない。
僕が不運なだけなのか。それとも彼らはいつも幸運なのか。
殴った相手が死んだのは、単にどちらかに運が無かったからなのか。
わからない。
わからない。
わからない。
その違いも、この先に待っている僕の将来も、彼を殺してしまった罪の有無も、これからどうすればいいのかという単純なコトさえも。
でも、本当は理解できてる。
人を殺した人は、人殺しとして警察に捕まるって常識ぐらい。
そう。僕自身に、なんの罪がなかったとしても。
「ダメだ。僕は悪くなんかない。悪くないから、警察に捕まるなんて間違ってる」
ああ、その理路に間違いはない。
だから、その為にこの殺人を.|隠蔽《いんぺい》しなくちゃいけない。
幸い目撃者はいないんだ。この死体を隠せば、それだけで僕の日常は元に戻ってくれるだろう。
でも、どうやって?
埋める場所なんてないし、焼却してもいずれ足がつく。この現代社会において、完壁な死体の始末はおよそ不可能に近いんだ。
くそ、せめてここが森や山なら、動物たちが勝手に食い荒らしてくれるだろうに――――。
ただ、自然に食いつくす…………?
「あ、そうか。食べてしまえばいいんじゃないか」
あまりに単純な解答を思いついて、僕は踊りだしたくなった。今夜はなんて冴えているんだろう。そう、その方法なら死体そのものの消去なんて簡単じゃないか!
だがどうする? 結局のところ、肉としては大きすぎる。明日の朝までにこれだけの肉を一人でたいらげるのは不可能だ。
なら、せめて血を飲んでみよう。
頭の傷口に口をあてて、流れる血を飲んでみた。
粘つく液体が喉に絡みつく。
しばらくそうしてから、激しく咳き込んだ。
……だめだ。とても飲めたものじゃない。血液というのは喉に貼りついて、水みたいに飲み続けていられない。下手に続けると呼吸ができなくなってこっちが死んでしまうぐらいだ。
どうしようどうしよう。肉も食べられないし、血さえ飲めないなんて……!
頭をかかえて歯をがちがちとならした。
もう、僕にはふるえるコトしかできない。
……僕は人を殺してしまった。
……僕はそれを隠すコトさえできなかった。
……僕は人を殺してしまった。
……僕の人生はこの時点で終わってしまった。
混乱して、もう、出口さえ見えなかった。
「――何故、最後まで飲み続けない」
そんな声が、うしろから聞こえてきた。
振り向いた先には、黒いマントみたいなコートを着た男がいた。
長身でがっしりとした体格をしている。何か悩みごとでもあるのか、表情は厳しく曇っていた。
「人間としての道徳に縛られたか、少年」
男は死体を見ていない。僕だけを見ているようだった。
「……道徳?」
|呟《つぶや》いて、思った。
そういえばどうして僕は食べるなんてコトを考えたんだろう。血を飲む時も嫌悪なんて感じなかった。ぐずぐずに|爛《ただ》れた傷口に唇をあてても気色悪いとも思えなかったなんて、どうしてしまったんだ、僕は。
人を食べる。それは殺人よりやってはいけない事じゃないのか? どんなに凶悪な殺人犯でも、食べるなんて事はしない。そんな恐ろしい事、やろうとさえ思わない。
――だって。
人食いは、明らかに異常な行動なんだから。
「でも……そうするのが、自然な行為だと思ったんだ」
「そうか。それは、君が特別だという事だ。殺人という極限状態において選ばれた選択には余分なモノがない。おおかたの人格はその時点で自らの罪から逃亡する。だが君は、君にしかできない方法でそれに立ち向かった。たとえそれが常識という|範疇《はんちゅう》から『壊れている』方法だとしても、それを非に思う事はない」
黒い男は、一歩だけ僕に近付いてきた。
なぜだろう。
僕は殺人現場を見られたという恐怖より、何か特別なモノとして選ばれているような高揚を感じている。
「――僕は、特別だと?」
「そうだ。君はすでに常識に不在している。常識という世界において、異常者は罪には|囚《とら》われない。異常者が異常を行なうのは当然であり、そこに常識で言う善悪の|秤《はかり》はないからだ」
男はさらに近付いて、僕の顔に手を置いた。
異常者。狂人。変質者。不在。
僕はそんな奴等じゃない。そんな外れてしまった連中じゃない。
けど――たしかに、狂っているなら。
人を殺してしまっても、それは仕方のない事なんじゃないだろうか?
「僕はおかし、い……普通じゃ、ない」
男は無言で頷いて、言った。
「そうだ、君は正常ではない。壊れているのだろう? ならば」
<CENTER>完全に、壊れてしまえ。</CENTER>
男の声は気持ちよく体の中に浸透していく。
ああ、その通りだ。
なんてコトだろう。それを受け入れただけで、体のふるえも未来への怖れも、何もかもが気持ちのいい爽快感に変わってしまった。
目の前が真っ白になって、何も見えない。
喉はカラカラに乾いて、あえぎ声さえ出せない。
体の内側から焼かれるような苦痛は、今まで試したどんなクスリより飛んだ快感だった。
そう、こんなイきかたは、全身の静脈にレモンスカッシュを流しこんでも辿り着けないにきまってる。
ワケのわからない男に顔を|鷲掴《わしづか》みにされながら、生まれて初めてボロボロと泣いた。