熱くて、嬉しくて、叫びだしたいぐらい感動していた。
だから、ボクはここで壊れるコトにした。
◇
一時間かけて、少年は人間の死体を食べた。
道具は使わなかった。ただ己の歯と顎だけで、自分より大きい生物をまるごと食べきった。
人の肉は美味いとも不味いとも感じなかった。ただ、噛み砕くのに体力を使ったというだけで。
「――一時間か。優秀だ」
黒い外套の男は、少年の食事を見届けて語りかける。
振り向いた少年の口は赤い血にまみれていた。人を食べたコトからではない。肉を、骨を、かまわず噛み砕こうとして少年自身の顎の骨が砕け、肉が裂けてしまっているにすぎない。
それでも少年は、死体を食べつづける事を一秒たりとも止めようとしなかった。その結果、この路地裏で死体は跡形もなく消え去ったのだ。
「だがそれが限界でもある。自らの起源を自覚しただけではその程度だ。起源は、覚醒《かくせい》させなければカタチにならぬ」
男の声を、少年はうつろな瞳で聞いていた。
「今のままではじき常識に囚われよう。君は単に人を食した異常者として扱われ、その人生を終えるにすぎん。
だが、それは君の望むところではあるまい。
何者にも囚われぬ超越者としての能力、常軌を逸した生命としての特別性――欲しくはないか」
黒い男の声は、音ではなく文字のようだった。
それは少年の麻痒した思考に直接焼き付けるような、強い暗示を宿した呪いの言葉。
自らの血で喉を濡らした少年は、救いの神に祈るように、こくりと首を縦に振った。
「承諾した。君が、一人目だ」
男は頷く。その右手が上げられる。
だがその前に――少年はひとつだけ問うた。
「あんた何者だ」、と。
黒い外套の男は、眉ひとつ動かさずに答える。
「魔術師――|荒耶《あらや》|宗蓮《そうれん》」
言葉は重苦しく、神託のように路地裏に響きわたった。
◇
最後に、魔術師は少年の名前を問うた。
少年は自らの名を語る。
魔術師は厳しい|面持《おもも》ちのまま、微かに笑った。
「りお――おしいな。一文字違えば、君は獅子だったのに」
それは真実残念そうな、|陰欝《いんうつ》を含んだ|嗤《わら》いだった。
[#改ページ]
[楼主] [4楼] 作者:滄炎沁夢2005 发表时间: 2008/04/13 02:40 [加为好友][发送消息][个人空间]回复 修改 来源 删除殺人考察(後)
7 /...notnothing heart.
[#ここから通常の二段組より一回り小さい二段組]
凍えた 吐息だけが熱を帯びて
お互い 切れそうな鼓動をみてた
そうして 大切すぎた思い出は
もうじき 消えてしまう未練だけ
たとえば雨。
霧のように降りしきる放課後。
たとえば夕暮れ。
燃えるような教室の景色。
たとえば雪。
初めてあった白い夜と、黒いかさ。
きみがいて、わらっているだけで、幸せだった。
安心できて、不安なのに。
きみがいて、あるいているだけで、嬉しかった。
一緒にいれて、一緒じゃないのに。
ほんのひととき。
その木漏れ日が暖かそうで立ち止まっただけ。
けれど、いつか同じ場所に居られるよときみはわらった。
……その言葉を、ずっと、誰かに言ってほしかった。
――それはほんとうに
夢のような日々の|名残《なごり》。
/空の境界
[#ここまで通常の二段組より一回り小さい二段組]
[#ここから通常二段組み縦書き表記]
[#改ページ]
/序
一九九九年、二月一日。
年号はついに二千年を間近に控えてしまって、誰もが有名な予言者さんの言葉を気にしだした頃。
僕こと|黒桐《こくとう》|幹也《みきや》は例年になく厳しい冬の街を、式と一緒に歩いていた。
冬も|最中《さなか》、夕方の五時になれば日は落ちて、あたりはすっかり暗くなる。
吐く息を白くさせて帰路につく僕らの格好は、やっぱり相変わらず変化に|乏《とぼ》しかった。
僕はわかりやすい黒色のジーパンとタートルネックのセーターに、深緑色のコートを|羽織《はお》って。
式は藍色の着物の上に赤く染めた革のジャンパーを|羽織《はお》って、足にはロンドンブーツみたいに長い靴を履いていた。
寒くないのか、という疑問はあるものの、彼女は三年前からこのスタイルだ。暑さにも寒さにも耐性があるのが式の特徴の一つである。
ともかく、僕は仕事が終わって家に帰るところで、式はそれに付き合ってくれているらしい。……はっきりいって、何か|魂胆《こんたん》があるとしか思えない。
「それで、どうしたのさ今日は。事務所まで来るなんて珍しいじゃないか。用があるなら部屋で待っていてもよかったのに」
「別に。最近|物騒《ぶっそう》だから、送ってやろうと思っただけだ」
不機嫌そうな顔のまま、彼女はこっちを見ないで返答する。なんだか意図的に避けられているような気がして、僕は言葉を続けられなかった。
いつも和服が普段着という変わり者の彼女は、フルネームを|両儀《りょうぎ》|式《しき》という。僕とは高校時代からの友人で、色々な出来事のすえ、今に至っているというわけだ。
式の背は百六十センチぴったりで、雰囲気は中性的。ものすごく|綺麗《きれい》な顔立ちをしているから、よけいにその感は強くなる。加えて口調も男性のものだから始末が悪い。
陶磁器のように白い肌と、深みのある黒い瞳。乱雑に肩口あたりで切った黒髪が、彼女を和風なんだか洋風なんだか判らない人物に仕上げている。
式は背筋を凛と伸ばしたまま、暗くなってしまった風景を観察するように歩いていた。
その姿は|毅然《きぜん》としている、というより張り詰めている肉食動物を連想させる。
「……式。君、最近おかしいぞ」
「そうか? 別に幹也を笑わせた覚えはないけど」
心ここにあらず、という彼女の返答。会話の続けようがない。
仕方なく、僕らは肩を並べて無言で歩き続けた。
華やかな駅前を目指して、住宅地の道を進んでいく。街灯の明かりはいつも通りだけど、街は午前零時みたいに静まり返っている。理由は簡単だ。とりあえず、このあたりの道をうろついているのは僕と式の二人だけだからである。
そう、もう十日も前から。この街では、夜間に一人歩きをしようなんて人はいなくなってしまったのだ。
……本当は、式がわざわざ事務所まで迎えにきてくれた理由は分かっていた。
今、街は三年前の冬と同じような状況にある。
まだ僕が高校一年生だったころ、街はある通り魔事件に|怯《おび》えていた。通り魔は夜中に出現し、道を行く人を理由なく殺害していった。その被害者の数は五人にも上り、警察の必死の捜査にもかかわらず犯人は捕まらないまま、事件は幕を下ろした。
通り魔は四年前の夏ごろから事件を起こし、三年前の冬に消息をぱったりと途絶えさせた。僕と式が高校二年生への進級を間近に控えた、寒い二月の事だった。
その後、式は交通事故によって意識を失い、長く|昏睡《こんすい》状態で日々を過ごす。僕は高校を卒業して大学に進学したけれど、結局ひと月ばかりで自主退学してしまった。そのあとに|橙子《とうこ》さんの事務所に就職し、昏睡状態だった式が目を|醒《さ》ましたのが去年の夏。
……そう。僕にとってみればあの通り魔事件はすでに過去の物になっている。けれど式にとってみれば、あれは半年前に起きていた事件なんだ。
テレビで大々的に通り魔事件再来のニュースが流されてから、式の様子は日に日に張り詰めていった。
その有様はちょうど三年前の、事故に遭う前の彼女の不安定さに似ていると思う。
……自分は人殺しだといっていた、|織《シキ》というもう一つの人格をもっていたあの頃の両儀式に。
駅前に出ると、それでも街は普段通りだった。
人気のない住宅地とは違って、賑やかなイルミネーションと交通量の多さの前では通り魔も出てこれない。人々は互いを守るように寄りそって、街をよけいに賑わせていた。
夜はまだ始まったばかりで、人の流れは尽きることなくあふれかえっている。
途中、店に陳列されたテレビがニュースを流していた。話題はやっぱり通り魔事件のいきさつで、式は足を止めてそれに見入ってしまった。
「殺人鬼だってよ、幹也」
くすり、と式は笑っていう。
見ればニュースのテロップには通り魔という単語の上にバツマークが置かれ、かわりに殺人鬼という単語が使用されていた。
「……うん。そりゃあ被害者が通算十人以上だからね。たしかに通り魔じゃイメージが合わないかな。でも殺人鬼ってのはいきすぎだよ。たんに殺人犯って明記するだけでいいじゃないか。いたずらに派手な装飾をするのはどうかと思うけど」
本心からの感想だったけれど、式はばかにするような目つきでこっちを|一瞥《いちべつ》して、コクトーらしい一般論だな、なんて悪態をついた。
「これ、正しい使い方してるよ。殺人と|殺戮《さつりく》は別物なんだ。この事件の犯人がいるとしたら、そいつは殺人鬼以外の何者でもない。きっと、犯人とやらもこう呼ばれて嬉しいはずだぜ。殺人鬼には理由なんていらない。犠牲者はたんに左を向いたか右を向いたかの違いで襲われてるだけだ。
だから、こいつは人を殺してないんだよ」
テレビの画面を睨みながら式は|呟《つぶや》く。
ブラウン管は式の顔をうっすらと映していて、彼女は自分自身を|睨《にら》んでいるようにさえ見えた。
「人を殺していないって、殺人犯が?」
首をかしげる僕に、式はああと|頷《うなず》いた。
「殺人と|殺戮《さつりく》は違うんだ。覚えてる、コクトー?
人は、一生に一人しか人間を殺せないって」
テレビから目を背けて、式は真っ正面から僕と顔を合わせた。
式はいつも通りの表情だ。
何事にも無関心そうな、ずっと遠くを眺めているような|眼差《まなざ》し。
……けれど、今は。黒い瞳は、どこか辛そうに沈んでいた。
「……一人しか、殺せない……?」
なんだろう。たしかに昔、それに似た言葉を彼女自身の口から聞いた覚えがある。
なのに、僕は思い出せなかった。
――後になって悔やむ。
この時、この瞬間にそれを思い出せていれば、僕らはあんなコトにはならなかったかもしれないのに――。
「いい、つまらないコトだから。それより早く帰ろうぜ。起きたばっかりでさ、とにかく何か食べないと落ち着かないんだ」
「起きたばっかりって……式、学校はどうしたんだ。今日は月曜日だぞ、一日じゅう寝ていていい日じゃない」
「安心しろ、ちゃんと午前中は教室にいたぞ。十一月からこっち、欠席は|一桁《ひとけた》っていう優等生なんだ。驚いたか?」
……正直、それには驚いた。
うん、と面食らってうなずくと、式は満足そうに笑ってコートの|裾《すそ》をつかむ。
「よし、じゃあご褒美ぐらいよこせよな。聞いたぞ、|鮮花《あざか》のヤツを赤坂の料亭に連れていったそうじゃないか。不思議な事にさ、その料亭の名前って前からオレが行きたかったところなんだよな。オレ、初めて|鮮花《あざか》に殺意をもっちゃったぞ」
なんだか物騒なことを明るく言うと、式は僕の手を掴んで強引に歩きだした。
行き先は定かではないけど、きっと一食で給料の半分は消し飛ぶ料亭に違いない。けれど、その気になった式を止める手段は僕にはなかった。
……仕方がない。お正月の秘密を漏らした|鮮花《あざか》を恨みつつ、あきらめて僕も楽しむ事にしよう。
まあ、正直にいえば。
この時の式は、なんとなく昔の彼女と似通《に か よ》っていた。|織《シキ》という少年を含んでいた頃の、どこか危うい明るさのあった彼女に。
それがどことなく嬉しくて、僕はそのアンバランスさを問い詰める事はしなかった。僕が抱いた色々な不安以上に、この日の式と話すのはとても楽しかったから。
こうして二月の始まりの日、僕と式は一緒に夜の街を歩いて帰路についた。
それは本当になにげない、ある日常の風景。
……けれど、後になって振り返れば。
これが黒桐幹也にとって両儀式を確かな目で見られる、最後の日でもあったのだ。
殺人考察/1
◇
――――一九九五年、四月。
僕は彼女に出会った。
◇
通り魔殺人犯が殺人鬼と|銘《めい》打たれてから一週間。
アパートに押しかけてきた|秋巳《あ き み》|大輔《だいすけ》刑事は、|甥《おい》である|黒桐《こくとう》|幹也《みき や 》を午前五時に叩き起こしてフレンチな朝食を作らせ、トーストをかじりながら今日の朝刊を流し読みしていた。
新聞の日付は九九年の二月八日。
殺人鬼とニュースで名付けられた犯人が、その翌日から一日に一人を殺害するようになってからまる一週間が経過した事になる。
「……ったく、やっこさんずいぶんと殺人鬼ってネーミングが気に入っちまったみたいだな。まさかなあ、こんなにハッスルして仕事を増やすなんて考えてもいなかったぜ」
警視庁捜査一課の不良刑事である大輔さんは、まるで|他人事《ひ と ご と》のように笑っている。
断っておくと、この人はこの事件に関しては他人どころか肉親に近い関係だ。なにしろ三年前の通り魔事件も今回の殺人鬼事件も、共に犯人逮捕の為|奔走《ほんそう》しているっていうんだから。
「大輔さん、こんな所で油売っていていいの? その新聞の一面、昨日の夜の被害者じゃないか」
ついでに朝食を食べている僕は、テーブルを挟んで大輔兄さんと向き合っている。
忙しいはずの大輔兄さんは、新聞で自分の顔を隠したままでオイース、なんて明らかにその場しのぎの返事をしていた。
「それがよぅ、なんともなあ。この一週間でずいぶんと事情が変わってんだよ。ヘタすりゃあ自衛隊の出番かもしんねえんだわ、これが」
新聞の力ーテンの向こうから、テーブルにあるコーヒーカップをつかんで大輔兄さんはグチをいう。
……まあ、この人が僕の所に来るってコトは、大抵はそういうコトなのだ。
日頃からお世話になっているこちらとしては、あえてそのグチを聞いてあげなくてはいけない。
「自衛隊って、戦争でもしようっていうんですか、お上《かみ》は」
「その案があがっているだけだ。……この先の話はオフレコだぞ。機密だからな、肉親にも話すなよ」
うん、とうなずくと、新聞紙の向こうでよし、という応答があった。
王様の耳はロバの耳、という話をこの人は知らないに違いない。
「いいか幹也。三年前の事件もそうだが、今回の事件もな、証拠という証拠、動機という動機がまったくなかった。証拠なんておまえの高校の校章があったぐらいか。犯人の皮膚も鑑識に回せたが、該当者は今のところいない。そこまで関連性のない、事故みたいな事件を起こす犯人がな、この一週間で|様変《さま が 》わりした。一日に一人殺すなんて、今まではなかったんだ」
なるほど、それはたしかにその通りだ。
三年前の事件だって、夏から始まって冬まで続いたけれど、その間の犠牲者は五人だけだ。
なのにこの一週間のぺースは異常すぎる。大輔兄さんの話じゃ、今回の殺人鬼は去年の秋から少しずつ犯行を重ねていたらしい。ニュースにも採り上げられず、ただ行方不明者として警察で処理していたのだけど、今年になってついに行方不明者たちの親族からマスコミに情報が漏れて、めでたく通り魔事件の再来というニュースが流れてしまったのだ。
「わかるか、幹也。|様変《さま が 》わりしたって意味が」
「……つまり、証拠を残しすぎているんですか?」
まあな、とつまらなげに兄は言った。
「信じられるか? いいか、足かけ四年だぞ? その間一切の目撃者も出さなかったヤロウが、この一週間でヘマを連続してやがる。まるっきり別人だ。ここまでいくとただの|便乗《びんじょう》犯行だと思いたくなる」
「けど、殺害現場はまったく同じケースなんですね。被害者がどんなふうに殺害されているかの情報はまだ伏せられているから、この騒ぎに|便乗《びんじょう》しようとした別の人物には真似はできない」
「ああ、その通りだ。だが……どうだろうなあ。四年前の事件は、どちらかというとシュミ的な殺人だったんだ。死体を遊び道具に見立てて、異常者っていう判りやすい犯人像を表現してた。だが今回は少し違っていてな。死体の大部分が残ってねえんだ。残っているのは切断された手足だけさ。この違いからして、本当に四年前の事件と今回の事件は別の犯人によるモノなのかもしれない。
だいたいな、都市の中での犯行において、死体の隠匿は不可能に近いんだ。そんなテマヒマかけて死体を隠すクセに、手足だけは忘れていってやがる。矛盾してるだろ? だが鑑識のじじいに言わせればそれでいいんだとよ。
いいか、笑うなよ。なんと、今回の犯行は大型の肉食動物の仕業なんだと。幹也、おまえどっかの|好事家《こう ず か》が飼ってるワニが逃げたって話、聞いてるか?」
「……さあ、そんな噂話は聞いてないけど」
答えて、僕もコーヒーカップを手に取る。
ワニの話は|措《お》いておいても、今のは|厭《いや》な話だった。
四年前の事件と今回の事件は別の犯人の物かもしれないって兄さんは言う。……なら、どうなるっていうんだ。
四年前――自らを人殺しだと告げた式。
それは嘘だ。彼女は決して人を殺せない。殺したくても殺せない。僕は、ずっとそう信じてきたじゃないか。
それが、なんで――今になって、こんなにも不安な気持ちになるのだろう……?
「大輔さん。さっき目撃者っていってたけど」
頭の中の不安を打ち消すように、そんな事を問いただしていた。
兄はおう、と答えてくれる。
「一週間前からの犯行は決まって繁華街でな。路地裏で起こってやがるもんだから、殺害現場のまわりには人通りがあったんだ。……まあ確証とまではいかないんだが、面白い事実が二つある。一つは、殺害時刻の前後に着物姿の人物が目撃されてる」
……努めて。
冷静に、僕はその先を|促《うなが》した。
「性別ははっきりしてないんだが、まあ怪しすぎるわな。重要参考人として指名手配しているから、こっちのほうは手早く片付くだろう。ホシである可能性は三割程度だとは思うんだがね。上の連中はソレが殺人鬼だって決めつけてやがる。で、もう一つは被害者についてだ。……実はこっちの方でおまえに手助けしてほしいのだ、弟よ」
「めずらしいね、名指しで協力してくれだなんて」
……殺人現場で目撃される着物の人物。
夜中にそんなかっこうで歩きまわる人物なんて、式以外には考えられない。
指は|痺《しび》れて、今にもコーヒーカップを落としそうだ。それでも、僕は冷静になろうと頑張った。
「まあそう言うな。幹也、おまえクスリについて詳しかったろ。種類とか|売人《ばいにん》の勢力とか」
「どうかな、人より少し詳しい程度だと思うけど。でも、そんな事なら僕なんかより|警察《そっち》のほうが詳しいでしょう。専門家がいるんだから」
「そりゃあそうだが、別の視点からの意見ってのが聞きたいのさ。|何分《なにぶん》あたまの硬いオヤジどもでな、若者たちの流行ってものにはうといんだ。俺も含めてよ」
そして、大輔兄さんは一枚のポラロイド写真となぐり書きのようなレポート用紙をテーブルに放りなげた。
写真には二つのガラス|壜《びん》が写っている。切手らしきものが入った|壜《びん》と、何かの草らしき物が入った|壜《びん》。
レポート用紙にはTHCやメスカリンといった単語の後にグラムの単位が書かれている。
……明らかに、その、違法なお薬の資料だった。
「|切手《ぺーパー》はLSDですね。純度も最近出回ってる標準の物だけど……葉っぱのほうは判別できないです。カンナビノイドが検出されてるなら|大麻《たいま》で間違いはないんじゃないですか?」
「それがな、鑑識の話じゃそんな大麻は見た事ねえってよ。そもそも、そのカンナビノイドってやつ? THCとかCBCってのが含まれていないんだと」
はあ、と僕は顔をしかめる。
大麻……マリファナと呼ばれる麻薬は、カンナビノイドという|向精神物質《こうせいしんぶっしつ》が含まれていて初めて麻薬たりえるのだ。THCが含まれていない大麻なんて、タイヤのない車みたいなものだと思う。
「なんだい、そんなのマリファナじゃないよ。とちぎしろ[#「とちぎしろ」に傍点]じゃないの、その麻」
「……なんだ、そのとちぎしろって」
「うん、向精神物質を含まない麻のこと。日本産の麻にもTHCは1パーセント以下含まれてる。最良質の外国産マリファナが1~1?8パーセントだから、無視できる数値じゃないでしょ。そうして人工的に作られたのがとちぎしろっていう麻。なんと在来種の三十分の一しかTHCがない」
ほう、と感心した声が新聞紙の向こうから聞こえてきた。
……けど、そのとちぎしろは繊維目的の麻で、実際に鳥のエサとして使われているのは外国から輸入している、やっぱりいけない麻だったりする。
「で、この写真がどうかしたの?」
「ああ。この一週間の被害者の半分以上がな、それを持ってやがったんだ。……まあ基本的に夜中に遊び歩いていたガキが犠牲者だから、必然的にクスリ遊びをやってる連中になるんだろうけどよ」
「大輔さん、それって偏見だよ」
言われて、うむ、と兄は黙ってしまう。
「そっか。だから最近の流行が聞きたいってコトになるんですね。……どうだろう。僕もここ一年、そっちの人たちとは会ってないから分からないな。もしかするとアシッドとカクテルする新しいスタッフが出回ってるのかもしれない」
僕の|呟《つぶや》きに、すかさず大輔兄さんが質問を投げかけてきた。
アシッド、とはようするにLSDの呼び方。ほかにもエルなんて言い方もある。切手サイズの紙にしみ込ませて、舌先で楽しむ代表的な幻覚剤だ。
カクテルっていうのは二つのクスリを一緒に使う事。もちろん効力は倍増するけど、下手に新しいカクテルを試そうとするととても危険だ。有名なところでいうスピードボールっていうのは、コカインとヘロインの組み合わせの事である。
「……はあ。おまえ、やけに詳しいな。なんか危ない連中と関わっているんじゃないだろうな」
訊かれたとおりに説明したのに、大輔兄さんはそんな事を言ってくる。そんなの、もちろん|冤罪《えんざい》だ。
「そんな事ないよ。この程度は興味があればすぐ判る事だし。断っておくけど、僕はクスリには興味はないからね。クスリ関係の知識は、高校時代の先輩から教えてもらったものだよ。薬剤師の息子さんで、とにかくクスリに関しては詳しかったんだ」
「そうか。兄ちゃん安心したぞ」
言って、大輔兄さんは立ちあがった。
「さて、そろそろお仕事だ。っと、一つ訊き忘れていた。結局、大麻っていうのはどんな麻薬なんだ? 麻薬の種類にはアップ系とかダウン系とかあるんだろ?」
訊かれて、僕はため息をつく。……なんでそんな初歩的な事を、もう何年も刑事をやっている人に説明しなくちゃいけないんだろう?
「大輔さん、それでよく刑事なんてやってるね。マリファナはね、そのどちらでもあってどちらでもないんだ。アップ系にもなるし、ダウン系にもなるって便利なクスリ。他のクスリが脳のどんな化学反応に働きかけるかは解明されてるんだけど、麻が含むTHCだけはそれが定かじゃないんだ。だから様々な、現存するすべての麻薬の性質をもっている。THCが人体に働きかける効果は複雑すぎて、まだ人間の手にはおえないんだよ。だからもしかすると、使い方によってはとんでもない変化をもたらす可能性だってあるんだ」
なるほど、と|頷《うなず》いて大輔兄さんは玄関へと向かった。
「なんだ、雨だぜオイ」
そんな事をぽやいて、兄は早足で出勤していった。
「……まったく。最後までグチをこぼしていったな、あの人」
それでも、この|陰欝《いんうつ》とした心持ちが|和《やわ》らいだのは事実だ。
僕は手早く朝食を済ますと、橙子さんの事務所に電話をいれた。今日は休みます、と用件を告げると、所長は「ほどほどにしておけよ」と答えて電話を切った。
見抜かれてるな、と肩を落として、若草色のコートをはおる。
……式がいなくなって、もう一週間が経った。
殺人鬼が毎夜いけにえを求めはじめてから、彼女は自分の部屋にも両儀の実家にも帰っていない。
連絡もなければ、彼女を見たという人もいなかった。
それがどんな意味合いをもって、どんな理由によるものかはすでに考えるまでもない。再来した殺人鬼が四年前の通り魔事件と同じ物であるのなら、式はなんらかの形でこの事件に関わっているのだ。
|巷《ちまた》をおびやかす殺人鬼の正体が何であるか、僕には分からない。四年前、自らを人殺しだと告げた式でさえあの頃の記憶をなくしていて、真実は定かではない。
……その正体を知る事は、僕には出来ないかもしれない。
けど、待っているのはもうたくさんだ。何か大事になる前に、僕は真相に|辿《たど》り着かないといけない。
だって、これは見知らぬ誰かの事件じゃない。
四年前から始まって、今まで止まっていた黒桐幹也と両儀式の事件なんだ。
それを解決する為に、僕は生まれて初めて、誰かの為ではなく自分の為に調査という物を開始した。
外に出ると、街は一面の灰色だった。
黒い傘をさして、とりあえず犯行があった現場を目指す。
昨夜の犯行現場はお巡りさん達によって封鎖されていたけど、昨夜以前の現場は容易に入りこめた。
三ヵ所も回ると、時刻は午後になっていた。
これでは全ての犯行現場を回る頃には夜になっているだろう。まるっきり無駄というわけじゃないけど、この行為はやっぱり無駄だ。けど手がかりが一切無い自分は、こういった基本的な調査を繰り返すしかない。次の段階の調査に行く前に、いま知っておかなければならない事は道に転がっている小石の数さえ見逃せないから。
……まったく、自分の中にこんな病的な執念深さがあるなんて知らなかった。
雨の中、黒桐幹也は殺人が起きた路地裏を巡っていく。
冬の雨は、とても冷たくて落ち着かない。
この季節の雨は三年前に嫌いになった。
あの日。僕が、彼女を目の前で失った瞬間を思い出させてしまうから。
…
――――私は、おまえを|犯《ころ》したい。
赤い|単衣《ひとえ》の少女はそうして、黒桐幹也の|喉《のど》に向けてナイフを振り下ろした。
雨に濡れた少女の名前は、両儀式といった。
地面に倒され、馬乗りの形でのしかかられた僕には何もできない。
ただ、確実に迫りくる死を見つめていた。
断頭台の刃に似た、無慈悲な一撃。
けれどそれは、この喉に突き刺さる事なく、寸前で止まっていた。
――――どうして
呟きは、式自身のもの。
ナイフを持った少女は、僕を殺す事ができなかった。
なんて、哀しい。
殺すという意味しか持たないモノが、殺したくないという意志で、お互いを殺しあう存在。
その|矛盾《むじゅん》があまりにも痛々しくて、僕は呼吸すら忘れてしまった。
でも、それは一瞬だけの、ほんとうに|些細《ささい》な幸運だっていう事もわかっていた。
……彼女は、両儀式には逆らえないから。
少女は止まってしまった自らの腕を見つめて、それを憎んだ。
なんて無様な腕、なんて無様な――自分、と。
怒りは|迸《ほとばし》りとなって、ナイフを突き下ろさせる。
今度こそ、黒桐幹也を確実に殺すために。
けれどその時、何かが僕らの間に割って入った。
黒い、|袈裟《けさ》のような|外套《コート》を着込んだ男だった。
男は僕を押さえつける式を横から蹴り飛ばした。
――たわけ。そのような崩壊を望んだ訳ではない。
そう言って、男は僕を立ちあがらせる。
とたん――蹴り飛ばされた式は、その勢いより激しい勢いで男へと襲いかかった。
式のナイフが、男のこめかみを|抉《えぐ》っていく。
一文字につけられた傷跡から、粉のような血液がこぽれていった。
式はそのまま走り抜けて、男を|睨《にら》む。
男は、ほう、と笑った。
――私が相手でも殺せぬか。
ヤツは、まったくの無駄ではなかったようだ。
そして、男は僕の手をとって走りだした。
式は追ってくる。
けれど、男の|脚《あし》はとても速くて、まるで飛んでいるような感じだった。
男は両儀の屋敷の敷地から出ると、僕の手を放した。
このまま立ち去れば無事に帰れるだろうと教えてくれる。
――まだアレを破壊するのは早い。
|相克《そうこく》する|螺旋《ら せ ん》こそが、アレに相応しい|終焉《しゅうえん》だ。
そう残して、男は消えていった。
僕には目前に広がる帰り道と、背後から聞こえてくる式の足音だけがあった。
……あの時。
僕は一人で行く帰り道より、彼女といる事を選んだ。
それが正しかったのか、正直、今でもわからない。
式は、最後まで僕を殺すことができなかった。
「おまえを消せないのなら――
雨にうたれて、ただ一度、|儚《はかな》げに笑って。
[#地付き]――わたしが、消えるしかない」
少女は僕の前で、車のヘッドライトに身をさしだした。
雨のなか。けたたましくブレーキ音が鳴り響いたけれど、間に合わない。
濡れたアスファルトに倒れこんだ少女の姿は、体温のない、壊れた人形のようだった。
……あんなに苦しかった時間を、僕は知らない。
この先だって、あの時以上の悲しみを思うことはないだろう。
瞳は、たしかに涙で|滲《にじ》んでいた。
だというのに。
あの時でさえ黒桐幹也は、満足に泣くことが出来なかった。
…
夜になっても雨は止まなかった。
今夜はとくに冷える。こうして黒い傘をさしていると、彼女と初めて出会った雪の日に戻ったみたいだ。
夜空を見あげてみたけれど、当然のように星も月も見えない。
うろんなあたまで、この空の下で式が|凍《こご》えていなければいいけど、なんて事を思っていた。
/1
◇
五月。
黒桐幹也という人物と知り合った。
一目で彼を気に入った。彼はこんな自分にもわけ|隔《へだ》てなく接してくれる。
何の打算もない彼の笑顔が、純粋にスキだった。
◇
「ちぇっ、雨か」
恨めしげに呟いて、私は通りかかったコンビニエンスストアの傘立てから一本、ビニール製の傘を|拝借《はいしゃく》した。
そのまま歩いてみたけれど、もう目的は失われてしまったみたいだ。血の匂いは雨に流されて、追いかける事ができなくなってしまったから。
二月八日の、朝になったばかりの時間。
街の人通りはまばらで、歩いてる人影は自分だけのような錯覚さえ感じる。
私は目的もなく歩いて、やっぱり、何の意味もなく立ち止まってみた。
そのまま他人を観察するように、自分の姿を|顧《かえり》みる。
安物の傘をさして、汚れが目立つジャンパーを上着にして、着物の|裾《すそ》には泥がついていて。
一週問ほど路地裏で眠っただけで、格好というものは汚れてしまうものだ。別に外見がどうであろうと気にならないけれど、自分の体臭が鼻につくのは我慢ならない。
「よし。今日は野宿はやめだ」
口にしてみると、その提案はわりと楽しそうに聞こえて、一週間ぶりに私は笑っていた。
…
|両儀式《りょうぎ しき》、というのが私の名前。
太極を二分した意味を持つ両儀の姓と、式というその意味通りの名前を持つ私は、一般でいう常識から離れた位置づけの人間だった。