かつて、私の中には殺人を|嗜好《しこう》する|抑圧《よくあつ》された人格である|織《シキ》がいた。同じシキという発音を持つ彼は、私の中での悪だったのだと思う。
彼にとって、『殺害』という意志は関わる物すべてに|抱《いだ》く初めの感情だった。とにかく、知り合った者は|分別《ふんべつ》なく殺したがる。私はそんな彼を何度も何度も心の中で|圧《お》し殺してきた。
一人の人間が一つの人格の中で自己の欲望を抑圧するのではない。本当に、私は私と同じ私を殺してきたのだ。
でも、それは殺人という行為を嫌悪したからじゃない。両儀式が常識の中でかろうじて存在できるように、そういった織の非道徳的行為を律していただけ。
『殺人』という行為自体が――式である私にとっても|抗《あらが》いがたい誘惑であり、いつも私を脅かしている影だった。
そんな私を縛っていたのは、きっと、祖父の言葉だったと思う。
私の父は両儀の血筋でありながら二重人格者ではなかった。だからこそ父は私という血統者の誕生を喜び、普通に生まれた兄を後継者から外してしまった。
……私は、生まれた時から特別だったのだ。
いつも一人でいて、独りにされるのが当たり前。
けれどそれも淋しくはなかった。私の中には織というもう一人の誰かがいたから。
幼い頃の両儀式は、ある意味ひとつだったと思う。
私たちはやりたい事だけをやって、人殺しに関する罪悪感も持っていなかった。
そうして私が六歳になって、道具さえあれば何かを殺してしまえる体になったころ、祖父が他界した。
祖父は、私と同じ異常者だった。
自らの内に異なる人格を持つ祖父は、そのために自らを痛めつけ、潰し合い、否定して、自己が|曖昧《あいまい》になってしまった人物だ。
長く。もう、二十年近く座敷牢に幽閉されていた祖父は、|今際《いまわ》の|際《きわ》に私を呼んで、遺言を告げた。
何十年と正気ではなかった老人は、最後の一瞬だけ正気にもどって言葉を残したのだ。
祖父の言葉は式である私に|宛《あ》てられたものだった。
私はその言葉を忘れられず、人殺しは大切な事だと教えられて成長した。
……私が十六歳まで人を殺さずに生きられたのは、祖父の遺言のおかげだと思っている。
式と織はお互いを守るために握手をして、うまく常識に溶け込んでいた。
あの、黒桐幹也という人物に出会うまでは。
幹也と知り合って、私はおかしくなってしまった。
私は常識に溶け込んでいただけで、常識に生きていなかったと思い知らされたから。
……知らなければ、よかったのに。
私には手に入らない温かさがあるなんて、知りたくはなかったのに。
私はそれを欲しがって、けれどそれを欲しがるという事は私の破滅でもあって。
私は、どんなに言い|繕《つくろ》っても、自らの内に殺人鬼を飼うシキなんだから。
そうして私は、自分が明らかに壊れているという事実をつきつけられた。
それを否定して元の自分、何の苦しみも抱かなかった自分に戻りたかった。
その頃から、私は織とズレはじめてしまったんだ。
それまで織の行動はきちんと把握していたのに、彼の行動がよく判らなくなってしまった。
四年前。高校一年生の時に起きた連続殺人事件の記憶は織のもので、私は知らない。あくまで式は事件に関しては部外者だった。
ただ、|網膜《もうまく》が覚えている。あの殺害現場にいつも私は立っていて、血に濡れた死体を見て|微笑《わら》っていたのだと。
そうして私はその現場を幹也に目撃されて、それでも私を人殺しではないと信じる幹也を知って、決意した。
これ以上私は壊れるわけにはいかない。
届かない幸福なんて、叶わない夢なんていらない。
私は、あの幸せな男をメチャクチャに犯して、私自身をひどいヤツにしなければとても耐えられなかった。
……そうして私は事故に遭って、二年ものあいだ眠り続けた。
|昏睡《こんすい》から目覚めた私は、かつての式ではなくなっていた。
事故によって織を亡くし、式であった頃の記憶さえ他人の物としか実感できない私は、空っぼの人形だった。
その私がこうして存在していられたのは、織が消えた分の胸の空白を埋められたから。
その相手が私を破滅させた相手だっていうのは、なんだかすごく皮肉な事だと思う。
私は、もう空っぽの人形じゃない。
なのに、今になって過去の罪の断片が私を苦しめる。
……昏睡から回復した私は、大事な記憶を忘れていた。
それは織の記憶のように、織本人が死んでしまったから|喪《うしな》われてしまった記憶とは違う。
式である私が体験した記憶は、喪われてはいなかったのだ。式は、単に思い出しては都合が悪い出来事を、意図的に忘れていたにすぎない。
私は、それをお節介な魔術師の手で無理遣り思い出すはめになった。
……そう、私は思い出している。
三年前。黒桐幹也を殺そうとした自分を、殺人現場にいつまでも|佇《たたず》んでいた背徳的な自分を。
そうして夜をさまよって、何か誰かと殺し合えないかと獲物を探し求めていた自分自身を。
……正直言って、私には殺人鬼が誰であるか判別がつかない。私自身かと問われれば、やっぱり肯定するしかないと思う。だって私自身、かつてはその存在になっていてもおかしくはなかったのだから。
そうして四年前と同じように、今の私は日常に立っていられなくなった。
理由は簡単だ。
私は、殺人鬼に嫉妬していて、そいつを探している。
もし殺人鬼がいるのなら、それは転じて四年前の事件の犯人が織ではないという事にもなるし――何より、そんな相手と、私は殺し合ってみたい。
気付いてしまったんだ。
四年前の私は、織がいたから殺人を嗜好していた。
けど今の私には織はいない。なのに、私は殺し合いを求めている。
ほんとうに、どうしてもっと早く気がつかなかったんだろう。
ほんとうに、どうしてこんなに早く気がついてしまったんだろう。
織は人殺しをする事しか知らなかっただけで。
殺人を嗜好していたのは、他の誰でもない私だったっていう、簡単な方程式に。
…
泊まるホテルはラブホテルとかいう、受け付けが機械じかけになっている所を利用した。
以前、身をくらませる時はこういうホテルのほうがいいと幹也が言っていたのを思い出しての事だ。たしかに自分の身分を証明する必要のないシステムは、何かと手間がかからなくていい。
シャワーを浴びて体を洗ってから、ベッドの上で横になった。眠るつもりはなかったけれど、気がつくともう夜の二時を回ってしまっていた。
部屋に入ったのが夕方だったから、六時間以上も眠っていた事になる。
目を覚ましても、誰もいない。
それは今までずっと当たり前だった目覚め方。
なのに私はひどく不機嫌になって、八つ当たりするように乱暴に着替えをしていた。
たった七日間|独《ひと》りでいるだけなのに、私は何を|苛立《いらだ》っているんだろう。
それとも……この七日は短いものではなく、耐えられないほど長いものなのだろうか。
「……そんなコト、ありえない」
自分に言い聞かせるように|呟《つぶや》いて、私はホテルを後にした。
時刻は午前二時すぎ。
草木も眠る真夜中の路地裏を歩いていく。
連日の殺人事件のため、普通の道には警察官がかならず巡回しているので大通りは使えない。
もっともそれは殺人鬼も同じ事で、私はヤツと同じように、|蜘蛛《くも》の巣のように狭く入り組んだビルの隙間をすり抜けていく。
目的はない。
私は、ただの偶然性にかけて夜の街を|徘徊《はいかい》しているだけだった。
……だから、こういった厄介事を引き寄せてしまうのだろう。
「薬あそびなら他をあたれ」
立ち止まって言ってみるが、返答はない。
路地と路地が交わる十字路。そこで、私を囲むように四人の人影が立っていた。
どの道の出口にも彼らはいて、その目つきに理性はない。
違法な薬で精神改革を行なっている最中なのだろうが、連中の場合はつまらない方向に改革が向かっているみたいだ。
「――言っても聞こえてないか」
人影は示し合わせたように向かってくる。
私は革ジャンの胸ポケットにあるナイフに手を忍ばせて、一度だけため息をついた。
「でもまあ、退屈はしてたんだ。刺激がほしいんだろ? ……いいぜ、望みどおり気持ち良くしてやるよ」
人影はわらわらと近寄ってくる。
彼らの目的は、ただ意味のない暴力だけだ。
私はそれを拒まない。
いや、むしろ悦んでさえいた。
行き場のない私の焦燥は、この胸の中で泥のように昏く渦巻きつづけている。
だから。
こっちだって、今夜は我を失うほどハイになりたかったのだ。
殺人考察/2
◇
五月。
彼女について話をしよう。
いまでも、僕は彼女を見ると我を失ってしまう。
一目惚れでもしたみたいに体じゅうに|痺《しび》れがはしって、息をすることも忘れてしまう。
ただ見ているだけなのに、僕は完全に彼女にいかれてしまっていた。このままじゃそのうち酸欠で死んじゃうことだってあるかもしれない。
僕の日常は侵食されていっている。
同じ高校の、奇跡のような女子生徒。
たぶん、僕は彼女に恋をしている。
話したこともなければ、声も聞いたことのない彼女。
その思いは日に日に比重を増して、恐いぐらいだ。
◇
翌日、二月九日。
昨夜の雨は夜中に止んで、街は曇った空のまま朝を迎えていた。
昨日、夜遅くまで殺害現場を巡っていた僕はそのまま友人のアパートに転がりこんで、夜が明けていくさまを必死に眺めていたりした。
「……おう、早いな幹也。朝飯でも作ってくれんのか?」
目の前でベッドから起きた|学人《が く と》が|瞼《まぶた》をこすりながらそんな事を言ってくる。もちろん、コンマもおかずに文句を言ってやることにした。
「学人。冷蔵庫にビールしかおいてないヤツが、間違ってもそんな事口走っちゃいけないぞ」
「はは、ちげえねえ。んじゃあまあ、お隣さんから食料でもわけてもらうとしますかね」
頭をかきながら大柄な友人は答える。
と、彼は唐突にお化けでも見るような目付きをしてこちらを見た。
「おい、おまえ|顔面蒼白《がんめんそうはく》だぞ。体調悪いんじゃないのか?」
言われて僕は鏡を見てみた。なるほど、たしかに|蝋人形《ろうにんぎょう》のように顔色は土気色をしている。
「大丈夫、折り返しになったから。効き始めは服用から十分前後の速効性、持続時間は四時間前後ってところ。幻覚性より共感覚のほうが強かったかな」
「……物好きなヤツだな。例の、最近出回ってるってクスリを試したのかよ?」
テーブルの上にある切手大の紙切れと煙草をちらりと見る学人。
それに|頷《うなず》いて、僕は静かに立ちあがった。
「その煙草、処分しておいてくれ。アシッドのほうは害はないから、娯楽に飢えたら使ってみたら? どこぞの遊園地よりは間違いなく楽しめるぜ」
床に脱ぎ捨てたコートを拾って、袖に腕を通す。
時刻は朝の七時、そろそろ街も息を吹きかえす頃だ。
これ以上ゆっくりしている余裕は、今の僕にはないと思う。
「なんだ、もう出かけるのか? もーちょいゆっくりしていけよ。足もとがふらふらだぞ、おまえ」
「うん、そうだけどね。それどころじゃなくなったから」
なにが? と学人は首をかしげる。
僕は電源が切れているテレビを指して、ついさっきまで見ていたニュースの内容を復唱した。
「今日じゃなくて、昨夜の犠牲者。ほら、値段が高くて有名なパビリオンってホテルあるだろ。その近くの路地裏でさ、殺人鬼が出たらしいよ。なんでも今回は一度に四人なんだって」
ほう、と感心して学人はテレビの電源を入れた。
この時間帯、番組はみんな報道関係で、何チャンネルであろうと殺人鬼のニュースは採りあげられていた。
内容は僕が口にした通り。ただ付け加える事があるとすれば、それは――――
「おい。犯人は着物姿の人物って、なんだこりゃ」
学人の言葉には答えず、玄関へと歩きだした。
クスリのせいでまだ正常に戻っていない平衡感覚に戸惑いながら靴を履く。
と、学人は玄関にいる僕を覗き込むように顔をだして、テーブルに置きっぱなしだった二つのクスリを差し出した。
「おーい、幹也。訊き忘れてたけどよ、これって両方一緒にやったらどうなるんだ?」
「あんまりお薦めはしないよ。ヘンゼルとグレーテルの気分が味わえるだけだから」
そんな答えを返して、僕は友人のアパートを後にした。
……そう。僕の顔色が病人のようだというのなら、
それはきっとその気分のせいだと思う。なにしろ学人の部屋全部が食べ物に思えてしまって、一晩中食欲を抑えるのに必死だったんだから。
…
今朝のニュースで報道していた殺人現場は、学人のアパートから歩いて一時間とかからない場所だった。
もちろん現場には警官たちが出張っていて近付く事もできないので、野次馬のように遠巻きに様子を眺める。
現場は路地裏の中継地点のような十字路で、僕のいる大通りから見える物は何もなかった。
あんまり長居して警官に睨まれるのも時間の無駄、と大通りを歩いていく。
近くのパビリオンというホテルに行ってみよう、とも思ったけれど、それは止めておいた。あそこには宿泊者をチェックする受付の人間はいないし、ビデオカメラの記録を僕のような一般人に見せてくれるはずもない。
そもそも式がそのホテルに泊まっていたとしても、今はもういないだろうから意味なんてないんだ。
殺人現場を離れた後、この近所に住んでいる知人のアパートに移動する事にした。
その知人はこの辺りで違法なクスリを取り扱っていて、俗にいうドラッグの売人だったりする。電話でしか話した事がない相手だけど、過去に一度だけ相談に乗ってくれと頼まれて、些細なトラブルを解決した事があった。そのよしみで最近の話を聞きたい、と連絡を入れたら直接会って話をしよう、という流れになってしまったのだ。
そうして、僕はそのアパートに辿り着いた。
街の|喧噪《けんそう》から離れたところにある、二階建ての古いアパートに人気はない。それも当然で、取り壊し寸前といった建物の住人はその知人だけという話だった。
カンカンと頼りない足音を響かせる階段をあがって、二階の端にある部屋の扉をノックする。
扉の向こうでがさがさと何かが動く気配がして、数秒後。
木製の扉が開いて、中から長い茶色の髪をした女の人が顔を出してきた。
年齢にしてこちらより少し上。寒い季節に似合った、赤いはんてんを着ているのが特徴的な彼女は、まじまじと僕の顔を覗き込んできた。
「今朝、連絡を入れた者ですけど」
「わかってるって。ま、あがんな。一応さあ、近所には誰も住んでないってフレコミなんだよね、あたし」
じろり、と睨んでから彼女は部屋の中に引きこもった。とまどいがちにその後に続く。
部屋の中はちらかっていて、大輔兄さんの部屋みたいだった。衣類やら雑誌やらが床を占領していて、その真ん中に台座みたいなものがある。
彼女がそそくさと台座に座りこんだところを見ると、それはこたつのようだった。何してんの? という視線に見あげられて、恐る恐るこたつに入る。
なぜか、電源は入っていなかった。
「……へえ、あんたってそんな顔してたんだ。意外に、こう……」
彼女はこたつのテーブルにあごをのっけると、ごろん、と顔を横に寝かせる。
……僕としてはこの人物が女性だった方が意外だった。けどクスリの売人をしている以上、性別を|偽《いつわ》るぐらいは当たり前なのかもしれない。
「そっかな。たんに男装が好きなだけなんだけど」
「――え?」
口にも出していない質問に答えを返されて、ドキッとした。
彼女はそんな僕を見てけたけたと笑いだす。
「あはは、わっかりやすいわねえ、あんた。電話とイメージ違うよ。なんかさあ、もっと|爬虫類《はちゅうるい》みたいなヤツを想像してたんだ、あたし。ちっちゃい眼鏡かけてさ、人より情報のほうが大切ですってかんじのインテリさん。ま、どっちでもいいんだけど。
――それで、聞きたいコトってなに?」
唐突に彼女の目は鋭くなった。まるで頭の中にスイッチがあるみたいに感情の切り替えがきっぱりしている。
それに|気圧《けお》されながら、僕は質問を開始した。
「まずは昨夜の事です。例の殺人鬼の目撃者がいるっていう話、聞いていますか?」
「ああ、和服に革ジャンっていういかれた女のコト? 聞いてるもなにも、ありゃあ本当だよ。だって、見たのあたしだもん」
彼女の言葉に、僕は相づちをうつ事さえ忘れていた。
……ニュースでは着物の人物、としか言われていなかったのに、もうすでに性別まで確定されているなんて。
「えっとね、たしか昨日の夜の三時ごろだったかな。雨がやんだんで外にでたのよ。ここんところ商売あがったりでさ、家の中でごろごろ遊んでいられないから。
あんたも知ってるだろうけど、あのホテルにたむろってる連中ってうちのお得意様だったワケ。最近はご無沙汰してるけど、今日あたりどうかなー、なんて顔を出しにいったらアレよ。大の男が四人がかりで女ひとりに躍起《やっき》になっちゃってさ、みっともないったらありゃしない」
昨夜の出来事を思い出すように彼女は語る。
僕は自分でも聞き取れるぐらいの音で|歯軋《は ぎ し》りをすると、知らず彼女を睨みつけていた。
「着物の女って、ニュースでは性別は不明だったでしょう。あんな暗がりで、よく女の子だって判りましたね」
「うん? そりゃあわかるって。遠くから見ていたから影ぐらいしか見えなかったけど、体のラインがキレイだったからさ。でもまあ、たしかにパッと見じゃわからないだろうね。……って、なに? あんた、あいつの知り合い?」
彼女はこたつに顔を寝かしたまま、|訝《いぶか》しむようにこちらを見あげてくる。
僕は何も答えなかった。
「……ま、あたしには関係ないか。お互い|詮索《せんさく》はなしって約束だもんね。けどさあ、あの子はやめといたほうがいいんじゃない? 普通じゃないもん。あたしもあたまイッちまってる連中とやりあってるから危険なヤツっていうのは感じ取れるんだ。
……ま、スタッフで|愉《たの》しもうなんて|輩《やから》は危険でもなんでもない。クスリでマヒしなきゃ飛べない人問はさ、普段はちゃんとした人問だから。それより恐いのは素でブッ飛んでる手合いでさ。
……あの女、四人の男に囲まれて手加減してたよ。
殴りかかってくるヤツにナイフでばっさり切りつけるんだけど、切られたヤツはまったく血を流してなかった。けど、それは殺さないようにって手加減してるんじゃない。わかる? アレはさ、何度も何度も切りつけたいからわざと致命傷をつけていなかっただけなのよ。
男たちもそれに気がついたのか、それとも痛みでまっとうな頭に戻ったのか知らないけど、女から逃げようと背中を見せて走りだす。そうしたら、その背中めがけてトドメの一撃がドスン、よ。逃げようとした獲物は価値なしと見てやっちゃたんだろうね。……最後に残った一人なんて悲惨だったわ。泣きながら懇願してたみたいだったけど、結局さんざん痛めつけられてからバッサリだった。
その後の事は知らない。あの女、四人をやっちゃった後、逃げるでもなくぼんやりと立ってんのよ。それでさ、何してんのかなって物陰から身を乗り出したら目があっちゃった。……うん、アレはヤバかったね。暗闇でさ、影しか見えないのに相手の目だけが青く光ってるみたいだった。悲鳴をあげるのも忘れて逃げだしたんだけど、思えばソレが良かったのかも。声をあげてたら間違いなく追いかけてきたんじゃないかな、あの子」
手振りも身振りもなく、淡々と彼女は昨夜の出来事を話してくれた。
悔しいけど、そこに嘘や装飾といった物はありそうにない。
「……でも、その話は真実味に欠けますね。相手の顔も見えないところから覗いていたわけでしょう? 出血も確認してないし、死体を確認したわけでもない」
「そうね。証拠にしては弱いかな。だから警察屋さんにはタレこんでないよ。ま、何があったって連中とは手を組まないけど。着物の人物を見た、っていうのはあたしとは別のヤツじゃないかな。あそこ、似たような連中の溜まり場だから他に覗いていたヤツがいたんじゃない?」
「……なるほど。じゃあそいつは着物の人物の性別が判らなかったって事か」
「だね。……けど、おっかしいんだ。あの暗がりで何を着ているかわかるなら、性別もおのずと出てくるはずよ。普通はさ、あの影を見たらタイトなスカートとか思うわけ。あの子、着物の上にジャンバーをはおってたみたいだから、着物の袖の部分がなかったし。で、アレが着物だなって判るのはあたしぐらいだぞ、ってひとりで自慢してたんだけど、他になかなかの鑑識眼をもったヤツがいた。けど、それじゃあアベコベだって思わない?」
「……たしかに、それはおかしいですね。タイトなスカートだったら間違いなく女性だと決めつける。
なのに性別は判らないで着ていた物だけ判るなんて、変だ」
……どこか、よく出来ている感じがする。
そもそもこの事件そのものが現実味を帯びていない事件なのに、事件そのものの進展がとても順序よく進んでいて、よけいに現実味をなくしている。
少しずつ明らかになっていく殺人の記録。
少しずつ派手になっていく殺人鬼の行動。
手札を一枚ずつ開けていくみたいに順序だてて明かされる犯人の正体。
これじゃあ、まるで
「そう、幼稚なゲームみたいだよね」
にやけた顔で、彼女はそんな事を呟いた。
また口にしてもいない事を先に言われてしまった。
戸惑うように視線をおろすと、彼女は猫みたいなにやにや笑いを浮かべたまま、やっぱりこたつに寝そべっていた。
「話はそれだけ? なら、あたしはもうネタぎれよ」
彼女の言葉に、即答できない。
……今朝、ニュースを見た時に決定的な事実を押しつけられて、息が出来なかった。
殺人現場で目撃された着物姿の人物。それが誰であるか確認したくて、それが式でないと反論したくて、僕はこんな所にまでやってきた。
なのに、結果は僕にとって最悪に近い回答が返ってきただけだったのだ。
――けど、それがどうしたっていうんだ。
こんなのは三年前の時と同じにすぎない。
だって、僕はまだ自分の目で何一つ確かめてはいないんだから。
「……そうですね、昨夜の話はもういいです」
自分自身に言い聞かせるように思考を切り替える。訊くべき事はまだ二つほど残っているのだ。
「これは素朴な疑問なんですけど。殺人鬼の目撃者って今回が初めてなんでしょうか。この一週間は特にそうだし、今までだって人気がない所で起きた事件じゃない。
三年前の事件と違って、殺害が行なわれたのはみんな街中でしょう? 殺害の場面を見た人間がいなくても、その前後に不審な人物を見た人はいなくちゃおかしいと思いませんか?」
「……そっか。うん、言われてみればそうだよね。でも、それって難しいよ。殺人鬼の殺人現場ってほとんどがあたしらのテリトリーじゃない。売人は警察屋さんになんか関わりたくないし、クスリを買っていく連中だってわざわざ警察にタレこまないもの。不審な人物っていったら自分たちも含まれちゃうからさ、あたしらにとって不審な人物っていうのは一般人なわけ。その中でも着物の女っていうのはとびっきり異分子でしょ? 着物なんて、今どきいいトコのおばさんしか着てないもん。いいトコのおばさんがクスリ買っていくっていうの、めちゃくちゃ怪しいじゃん」
テーブルに頬をすり寄せたまま、メダツメダツ、なんて暗号みたいな言葉を彼女は|呟《つぶや》く。
「……そうか。ようするに普段からおかしければ異常だと思われないんですね。例えばあなただったら、売人なわけだから殺害現場をうろついていても不審じゃない。目撃者たちからすれば、むしろそっちのほうが日常ですから」
む、と彼女は顔をしかめる。
けれど文句がない所をみると、彼女自身もそれには納得しているようだった。
「……でもさ、さっきも言ったろ? クスリ買ってる連中は普段はまともなんだよ。事がこれだけハデになれば、連中だってあたしらの事をやりだまにあげると思う」
「でしょうね。でも目撃談は昨夜のが初めてだ。だから今まで犯行に前後して目撃された売人ないし買い手はいないか――いても、見た人がその相手を庇わなくちゃいけない人物だったのか、のどちらかでしょう。これだけ街中の殺害が続いているんだ、目撃者がいないっていうのは逆におかしい事なんです」
「そうなの? 目撃者がいないから目撃者はいないだけじゃん」
「それは見る人がいない所での話です。……ほら、密室殺人ってよく何かの題材になるでしょう? それと同じですよ。まるっきり意味がない。隠す事自体が罪を告発してるから、犯人自身が手をあげてるのと同じなんです」
「――はにゃ? ……あのさあ、あたしあたま悪いからわかんないよ。密室殺人って犯人が警察に捕まらないようにする方法でしょ? なんでそれがいけないの?」
「だって、殺人じゃないですか。死体のある部屋が密室だっていうのは、それが外部の人による犯行ではないという証明なんです。誰にも迷惑をかけないようにその場所を閉鎖する。それが密室の意義です。
つまり密室という状況である以上、それは自殺でなければいけない。密室を開けてみたら誰かが殺されてる、誰も入れないのに一体どうやって犯人はこの人物を殺害したのか――なんていう犯行の隠し方は、そもそも間違っているんです。いいですか。密室であるのなら、それは自殺でなければ意味がない。密室を演出するのなら、殺害を行なう犯人がいたなんて思わせてはいけないんです。密室を殺人現場にすると、密室にする意味そのものが消えてしまうから。
……逆説になりますけど、だから目撃者がいると仮定される状況では目撃者がいないとおかしい。街中の殺人で前後にまったく目撃者がいない、なんてカタチとしてはそっちのほうが不自然なんですから」
はあ、と彼女は寝かしていた頭を起こして返答する。
「でも、目撃者は出たじゃん。あたしとか、他のヤツとか」
「はい。だからおかしいんです。目撃者が出たのなら、以前にも目撃者はいるはずなんです」
乱暴な推理だけど、間違いはない。もしこれで以前に目撃者がいなかったのなら、逆に昨夜の事件だけが別の事件という事の証明にもなる。
「……そっか。目撃者がいないって事は、見つからないように殺してるってコトだもんね。今になって誰かに見つかるような事件なんて、殺人鬼は起こさないんだ」
なるほど、と腕を組んで彼女は顔を曇らせる。
……なんだか、またこっちの考えを先読みされたような感じだった。
「あたまいいね、あんた。眼鏡をかけたインテリってイメージを先行させるわけだよ。
――でさ。あんたはどっちだと思ってるの? 昨夜の事件は別件なのか、それとも前から目撃者はいたのか」
「そんなの、決まってるじゃないですか」
怒ったように断定しておきながら、僕は答えなかった。
……だって、その両方を支持してるなんてのは、自分の論理を矛盾させる返答だから。
拗《す》ねるように視線を逸《そ》らした僕を見て、彼女はまたけらけらと笑った。
「そっかー、男の子だねえ、あんた。で、これからどうすんの? 彼女の無実でも証明しようっての?」
「その前に確かめたい事があるんです。本当はそれが目的で連絡をいれたんですけど、教えてもらえますか? 最近出回ってる、新しいカクテルの売人を」
「――ははあ。そうきたか、インテリ」
猫みたいだった笑顔を不敵な笑みに変えて、彼女はこちらを横目で見る。
どことなく緩んでいた部屋の雰囲気は、ぴんと張り詰めた空気に変わってしまった。
「カクテルっていうと、アシッドと大麻の新しいヤツか。この組み合わせはムードラっていうんだけど、新しいカクテルは今までのヤツには当てはまらない。依存性が高すぎて一度はまったら抜け出せないし、効き目も強すぎて常用しているだけで体を壊す。
命にかかわる快楽なんて、娯楽じゃないでしょ? リクリエーション?スタッフっていうのがクスリの正しい在り方だよね。そういう意味でいえばさ、あれは違法どころの話じゃないよ」
「そうなんですか? 試したみたけど、吐き気がしたぐらいであとは標準的なレベルだと思いましたけど」
「出回ってるのはね。クスリにはさ、耐性と依存性があるじゃない? 耐性っていうのは、やる度に体がクスリの効き目に憤れてしまう事だよね。耐性が付きやすいクスリは、やる度に使用量が増えてお金がかかる。
依存性っていうのは身体的なものと精神的なものに分かれるけど、まあ、ぶっちゃけていえばクスリ断ちするのが難しいかどうかの|秤《はかり》か。生活における使用回数の頻度で、依存性が高いクスリほどやる回数が多くなる。ま、ようは本人の意志だけど。煙草好きが煙草をやめるぞって決意するよりは易しい意志だよ。クスリが身を滅ぼすっていうのは迷信にすぎないんだ。要はさ、本人の意志の強さが全てなんだもんね。あたしからいわせればお酒や煙草、コーヒーのほうがよっぽど危ないクスリだい。なんであっちが合法でこっちが違法なのか、お役人に訊きたいぐらい」
ぐぐ、と握りこぶしで彼女は熱弁する。
……まあ、僕はそれに賛同するわけでも否定するわけでもない立場なので、体を小さくして聞いているしかなかった。
「けど、たしかに耐性も付きやすくて身体的依存性も高いって悪魔みたいなクスリもあるわけ。これは本当に身を滅ぼす。そういうクスリ、あたしは嫌いなんだ。だからブラッドチップの売人については、あたしは何も知らない。知りたくもないから、会った事もない」
聞いた事もないクスリの名前を彼女は言った。
「――ブラッドチップ?」
訝しむように質問する僕を、彼女はうん、というやけに可愛い仕草で見つめてきた。
「例のさ、新しいカクテル。あれってかなり破格なんだ。ぺーパー二枚と乾燥大麻十グラム、セットでこんだけだもん」
ビッ、と彼女は指をたてて値段を表示する。
たしかに、それは破格なんてものじゃない。外国に比べて日本のレートは何倍も高いというけど、彼女の示した値段は外国のレートよりさらに下、有り体にいえば高校生のおこづかいで十分に買えてしまう値段だった。
「なんだか無理して話題をつくってるファーストフードみたいですね、それ」
「うん。でもかなりの間、その値段で続いてるよ。体に耐性を作らせて、依存性が高まったところで一気に値段をつりあげる、なんてヤクザな事もやってない。あまつさえそれに満足できなくなった連中にはもっと上のカクテルが渡されてる。それがブラッドチップっていうぺーパーのこと。純度が高いLSDなのかしんないけど、評判はすごいよ。
ぺーパーは口腔摂取でしょ? なのに効き目は静脈注射よりカッ飛んでるって話。あたしは試してないけどさ」
「その話って、有名ですか?」
「もち、業界じゃそれなりよ。あんたが知らなかったっていうほうがあたしには驚きなりね。ブラッドチップの売人は子供しか相手にしてないから、大手の流通には知られてないんよ。組織末端の売人たちは知ってるけど、上は相手にしてないみたい。しょせんガキのお遊びだと思ってるんだ、アレは。
と、いうわけで警察屋さんもブラッドチップの事は知らないね。あの人たち、ヤクザ屋さんしかターゲットにいれてないやん。あたしみたいに単独でやってる売人の内情なんて調べないんだよねー」
あはは、と彼女は陽気に笑う。
けど、反対にこっちの気分は|陰欝《いんうつ》としていた。
……そんな話、僕は聞いた事もなかった。
例のカクテルを渡してくれたクスリの売人は、それを黙っていたのだろうか。それとも僕にだけ、そんな情報を流しはしなかったのか。
「ありがとう。参考になったよ」
礼を言って立ちあがる。
訊きたい事はすべて聞いたので、後は行動に移るだけだ。
「あんまり無茶しちゃだめだよ。ブラッドチップをやってる連中にとって、その売人はカリスマだからね。……ほら、さっき商売あがったりだって言ったろ? この辺りでブラッドチップに関わってない売人ってあたしだけなんだ。嫌いだからね、あーゆークスリ。けど、そうしたら今までの買い手にそっぽ向かれちゃった。なんだかさあ、新手の新興宗教みたいなノリになってるんだ」