不機嫌そうに、彼女はこたつに入ったままでそんな事を|呟《つぶや》いた。
散らかった部屋を横断して、玄関のノブに手をかける。
そのまま振り向かずに最後の質間をした。答えは、まったく期待していない。
「そうだ。その売人の名前って、わかります?」
「あれ、知らなかったの?」
言って、彼女はその名前を教えてくれた。
……瞬間、立ちくらみがした。
けれどそれで、今までの不消化な事柄はすべて繋がってしまった。僕は努めて冷静な態度でもう一度礼を言って、灰色の街並みへと出ていった。
/2
◇
六月。
最近の生活は、今までにないくらい充実している。
誰かとなんの気兼ねもなく話しあう事がこんなにも楽しい事だったなんて知らなかった。
放課後や休み時間。
気がつけば、彼がやってくるのを心待ちにしている自分がいる。
気がつけば、彼と話している間は心臓がどくんどくんと高鳴って、痛かった。
いつだって離れない胸の不安は、彼と話している間だけ、その痛みに変わってくれる。
ああ、認めよう。
自分の世界は二分されている。その内の半分は、黒桐幹也という人物に依るものだっていう現実を。
◇
目を覚ますと、太陽はとうに沈んだ後だった。
私は眠るために忍び込んだビルの屋上から、隣のビルの屋上へと跳び移る。
私が寝床に使ったビルの屋上は、関係者以外は立ち入れない類のものだ。だから隣にある貸しビルの屋上に登って、誰もやってこないだろう立入禁止であるビルヘ跳び移って眠ったのだ。
……こんな罵迦みたいな生活を、私はかれこれ一週間以上繰り返している事になる。
ビルから路地に出て、静かな違和感を感じた。
生まれた時から鍛えられた両儀式という私の肌が、危険な物を感じさせる。
用心して路地裏を移動していると、都合のいい事に今日の新聞が捨てられていた。
日付は二月九日。一面の見出しは殺人鬼の話題と、その犯人像についてだった。
「……殺人鬼、四人を殺害。浮かびあがる着物の人物像……」
口にしてみて、首をかしげてしまった。
なんだろう、これ。
四人を殺害? 四人って、昨夜の連中のコトだろうか。
彼らは死んでしまったらしい。
というコトは、私は彼らを殺してしまったのか。今まで我慢していたけれど、昨夜はたしかに凶暴な気分だったし。
……なにしろ、居るかも判らない殺人鬼を探して夜の街をさまよっているんだ。三年前の時のように、私の意志に反してその気になってしまう事だってあるかもしれない。
私はしばらく考え込んで、新聞を投げ捨てた。
「でも、こんなのは知らないことだ」
呟いて、歩きだす。
肌が敏感に危険を察しているのはこの為だ。これからは今まで以上に人目に触れないように行動しなくてはいけなくなる。
今まで以上に路地裏を使って。
今まで以上に薄汚れた場所に隠れて。
……今まで以上に、人間性というものをかなぐり捨てて。
そんなの、苦しくてつまらなくて、意味なんてない無駄な作業だ。それが分かっているのに止められないなんて、ますます自分が罵迦みたいに思えてきた。
……ほんと。なんだって、私はこんな事をしているんだろう。
満足な食事もとらず、筋肉の疲れもとれない|仮初《かりそ》めの睡眠を繰り返して。
目的もなく、まるで逃げるように夜の街を徘徊してる。
何を思って、何のためにこんな事を始めたんだろう、式は。こうしてケモノのように息をひそめて獲物を追っていると、なんだか自分が殺人鬼になる為に殺人鬼を追っているみたいに感じられた。
いや。もしかすると。
本当に、私の目的はそうなのかもしれなかった。
でも人殺しはいけない事だよ、式
……そんな言葉を、思い出してしまった。
ただでさえ不愉快な気分が、よけいに救いのない落とし穴になっていく。
私はこれ以上何も考えないようにして、夜の闇の中を歩いていく。
こんな事、早く済ませたい。
……ああ、まったくその通りだ。こんな事はすぐに終わらせて、私は早く帰らなくっちゃ――
◇
深夜二時を過ぎて、街は屍のように終わっていた。
道を行く人の姿はなく、耳をつく車のいななきも存在しない。
建物は光を閉ざし、月の明かりも星の瞬きも暗い雲で覆われた夜。
誰もいない、何も起きないはずの街並み。
けれど、異常は確かに在った。
大通り。
――――遠くの街灯の下に人影が見えた。
両儀式は足を止める。
――――人影は、どこか挙動が不審だった。
彼女は昔、これにそっくりな光景を見たことがある。
――――なぜか、私は人影の後をつけた。
喉もとにまでせりあがる悪寒を堪えながら、誘われるように路地裏へと入っていった。
…
路地裏からさらに路地裏へと奥まったそこは、すでに異世界だった。
行き止まりになっているそこは、道ではなく密室として機能している。
周囲を建物の壁に囲まれた狭い道は、昼間でさえも陽射しの入らない空間なのだろう。街の死角ともいうべきその隙間では、いつも一人の浮浪者が幸せな夢を見ていた。
今は違う。
色|褪《あ》せた左右の壁には新しいペンキが塗られていた。
道とも言えない狭い|径《みち》は何かにぬかるんでいた。
いつもしていた腐った果物の匂いは、もっと濃厚な違う匂いに汚染されていた。
あたりは、血の海だった。
赤いペンキと思われたのは|夥《おびただ》しいまでの血液だ。
今なお|径《みち》にこぼれ、じわじわと流れる液体は人の体液。
鼻孔に突き付けられる匂いは粘つく朱色。
その中心に、人間の死体が在った。
表情は見えない。両腕がなく、両足も膝のあたりから切られているようだった。彼は人間ではなく、今はただ血を撒き散らすだけの壊れたスプリンクラーと化していた。
切断された四肢はない。そもそも、死体の四肢は切断されたのではない。
アレは断頭台より鋭いケモノの顎によって、無惨にも食い千切られたものなのだから。
ぐちゃり、という胃を震わせる|咀噛《そしゃく》音が鳴り響く。
それは肉を食べる、原始的なものおと。
すでにここは異世界だ。
血の赤色さえ、温かい獣臭に敗退している。
――――誰かが、そこでほころんでいた。
黒く、蛇を思わせるほどに細い下半身の|輪郭《りんかく》。
体には彼女と同じ血の色のジャンパー。
だらりと下げられた右手には一振りのナイフ。
肩口まで伸びた髪はデタラメに切り揃えられて、女性とも男性とも思わせる。
それはシルエットだけで見るのなら、まったく彼女と同一だった。
異なる箇所《かしょ》は一つだけ。
佇《たたず》む人物の髪は、黒ではなく金色《こんじき》だった。
路地裏の腐敗した風にたなびく金髪は、ある肉食動物を連想させずにはいられない。
草原の世界において百獣の王と怖れられる、獅子《レオ》という名の猛獣を。
…
「――――」
その光景を、式は以前から知っていた。
喪《うしな》ったはずの記憶が頭の中で点滅を繰り返す。
……そう、あれは四年前の夏の終わりのコト。
たしかに、彼女はこれと同じ体験をした事があったのだ。
今日のように死んだ夜の街で不審な人影を見かけて、その後をつけて――気がつけば、彼女は死体を目前にして佇《たたず》んでいた。
その問の、後をつけてから死体を目前にするまでの記憶を、彼女は持っていない。
あれは式ではなく織という彼女が受け持った行動だから。
「何だ、おまえ」
路地裏の入り口で、式は死体と『自分』を見つめる。
金髪のシキの両肩は小さく震えていた。
怖れからではなく、喜びによって。
「両儀――式」
金のたてがみをなびかせて、影はゆるりと振り返った。
……顔の形すら、両儀式と似通っている。
色のついた鏡を見るような感覚で、式は金色の自分を凝視する。
金色のシキの瞳は凶々《まがまが》しいまでに赤く、耳には銀色のピアスがつけられていた。あくまで無色の式を挑発するように、ソレは様々な色彩を帯びている。
足もとまである黒い革製のスカート。
厚い革で作られた真っ赤なジャンパー。
けれど、ソレは女性ではない。
金髪のシキは式ではなく、ただ、殺人鬼と名付けられた青年にすぎなかった。
「知ってるぞ、おまえは――――」
式は呟《つぶや》き、
殺人鬼は走りだした。
彼はナイフを片手に、地面を這うような腰の低さで路地裏の狭い道を疾走する。
一直線。ただ純粋に、立ちつくす両儀式めがけて。
式は即座にナイフを構えて、驚きに眉をひそめた。
迫りくる影は、人間の動きをしていなかった。
影は蛇のように蛇行する。
狭い路地裏の道は、殺人鬼にとっては広すぎる猟場だった。
式が目と肌で感じとる警戒網を、影はケモノのようにすばやく擦《す》り抜けてくる。
そう――見えているのに、その動きが捉《とら》えられない。
式にとってはまだ遠く、彼にとっては必殺の間合いにまで距離が縮まった時。
蛇は、その動きを猛獣のモノヘと変えた。
爆《は》ぜる火花のような、迸《ほとばし》り。
ケモノは式の頭上へと跳躍して、その頭部へとナイフを突き刺す。
きいん、とナイフとナイフが衝突した。
式の脳天を狙ったナイフと、それを防ぎに入った式のナイフがつばぜり合う。
一瞬――それぞれのナイフと共通するように、二人は視線を交錯させた。
敵意に満ちた式の瞳と、歓《よろこ》びに満ちた殺人鬼の瞳。
にやりと笑って、殺人鬼は大きく跳ねた。
式から逃れるように後方に跳んで、蜘蛛《くも》じみた動作で着地する。
一度の跳躍で六メートルも離れたそれは、手足を地面につけて、獣のような息を吐いた。
明らかに、それは人間という存在から逸脱していた。
「なんで」、と彼は言った。
「なんで、本気でやらないんだ」
死体を背にして、流れる血液に濡れながら、殺人鬼は抗議の声をあげる。
式という少女は答えず、ただ自分に似せた相手を見つめていた。
「……四年前とは別人じゃないか。今だって俺を殺そうと思えば殺せたのに、一線を越えてくれない。仲間が欲しいのに、両儀式がそれじゃあこまる」
荒い、心臓そのものから吐き出すような息遣いが響く。
意外な事に――殺人鬼らしきソレは、会話ができるほどの理性をもっているようだ。
殺人鬼の吐息は、今にも呼吸困難で倒れそうなほど荒い。
興奮の為か、それとも本当に苦しいのか。
式はどちらだろうと少しだけ考えて、すぐに飽きた。そんなもの、どちらだって彼女には関係のないコトだから。
「……そういうコト、か。可愛らしい名前なんで、てっきり女と勘違いしてた。でも話をするのはあの時で最後だって言ってたのにね、先輩」
冷たい式の声に、殺人鬼はさあ、と首を横に振った。
「……そう、だったかな。あいにく、そんな昔のコトは、忘れた」
殺人鬼は笑いを噛み殺して答える。
口調とは裏腹に、彼はこの上なく楽しそうだった。
もちろん、式は楽しくもなんともない。
相手が何者であれ、殺人鬼を見付けだして始末するのが、彼女の唯一つの目的だから。
「――何人殺した、おまえ」
瞳を細めて式は問いただす。
殺人鬼は笑って覚えてない、と返答した。
「……あのさあ、狂人が自分の行為を覚えてると思ってんのか? そんな事あるわけないだろ。つまんないコト訊くなよ。狂人がやばいコトやんのは当たり前の事なんだ。だからこの三年間、俺は誰にも人殺しだと指さされる事はなかったぜ。……俺はさ、殺しても罪を問われない人間なんだよ。むしろ毎日殺さなくっちゃいけないのかもしれないぐらいだ。
あああ、だっていうのに、わかりやすく証拠を残してやったのは、全部おまえの為なんだぜ。わざわざわかりやすく死体を残してやれば、四年前を思い出すと思ったんだ。おまえは無視し続けて効果はあがらなかったが、違ったところで、効果はあがった、な。
そう、殺人鬼だよ。名前のなかった俺に世間が与えたこの名前――実に的を射てるじゃないか……! あんまりにも嬉しくてさ、この一週間はご期待に応えてやったってワケさ。殺人鬼はみんなの予想通りに人を殺さなくちゃいけないもんな。そうだろう? おまえはわかっているハズだぜ両儀。だから俺が羨《うらや》ましくて探してたんだ。早く自由になりたくて、俺っていう同類を見付けたかったんだ。
……ああ、わかってる。わかってるんだ。わかってるとも。だって俺が一番、おまえをわかってやれるんだから…………!」
………路地裏に響く呼吸はますます高く、危険な物になっていく。
殺人鬼の舌が、血に濡れた唇をぬめりと舐めていく。
狂人の如く血走った眼をした、自分に似せた者。
それを前にして、式は何も答えない。
激しい嫌悪が彼女の言葉を封じている。
この相手と話す事さえ汚らわしくて、式は一言も口にしない。
……殺人鬼の言葉に抗《あらが》いがたい真実が含まれていて、それを否定したかったとしても。
――殺人鬼に、なりたがっている。
その言葉に、彼女は誰にも気付かれないよう、そっと眉を曇らせた。
けれど、あらゆるケモノの感覚を備えた殺人鬼はその変化を見逃さない。
彼はにやり、と口元をいびつに釣り上げる。
「……ほら、おまえは無理をしてる。そんなコト、初めから解っていただろう……? おまえが何をしても満たされないのは、おまえ自身の起源に逆らっているからだ。我慢する必要なんかない。素直に、やりたいコトだけやればいい」
式は答えない。
彼女は害虫でも見る目つきで地面に這りついたケモノを眺める。
殺人鬼は、最後の提案を口にした。
「……そうか。それでも戻れないっていうのなら原因を殺すしかないな。今の両儀式を繋ぎ止めてる奴を殺ればいい。そうすれば全て解決だ。まさか出来ないなんていわないよなあ、おまえだって本当は殺したくてウズウズしているんだからさあ……!」
あはははは、と殺人鬼は嗤《わら》った。
楽しくて仕方がない、といった彼は、同時に
一瞬にして目前に現れた両儀式によって、片腕を断ち切られていた。
「誰が――」
「――え?」
視認、できない。
無表情で、ただ瞳だけを青く輝かせる両儀式の行為が、殺人鬼には見えなかった。
獲物を狩る肉食動物の動作は、迅すぎて人間の視覚では捉えられない。ソレと同格の殺人鬼の動態視力を以てして、なお、両儀式の動きは捉えられなかった。
殺人鬼の片腕を切り落としたナイフは、容赦なく敵の首めがけて翻《ひるがえ》される。
「――誰を、殺すって」
「ひ――!」
悲鳴をあげて殺人鬼は跳んだ。
後に跳ぶのでは絶対に式に追いつかれる。逃げるのならば、彼女がどうやっても追いつけない場所へ逃れなくてはいけない。
瞬時にそう思考して、彼は路地裏を囲む壁へと跳びつき、さらに上へと跳び上がる。ムササビじみた移動は、たやすく彼を安全圏に避難させた。
地上二十メートルほどのビルの側面に、殺人鬼は蜘蛛《くも》のように張りついた。
彼は、恐る恐る眼下の光景を見つめる。
――――青い眼をした死神が、地上から自分を見あげていた。
彼女から放たれる殺気は刃物になって、彼の全身を刺し貫く。
初めに感じたのは恐怖。
その後は、ただ歓喜だけが彼を支配した。
「……ああ。やっぱり、おまえは本物じゃないか」
そう、彼女は本物だ。間違いなく、自分と同じ世界に棲むべき存在なのだ。
そして、彼女の本性を暴きたてた原因ははっきりとしている。ある人物を殺すと仄《ほの》めかしただけで、両儀式が自分より遥かに上質な殺人鬼になったことを、彼はきちんと理解していた。
「……簡単な話。邪魔者は、殺せばいい」
彼は壁を駆けあがって、路地裏から去っていく。
式が追ってくる気配はしたが、逃げるという行為ならば誰も彼には敵わない。
一本も木がないにしても、この街は彼にとっての密林だった。姿を隠し、獲物を捜しあてる事は造作もない作業と言える。
月のない夜、殺人鬼は歓《よろこ》びのために吼《ほ》えた。
長い、四年越しの恋慕がようやく叶《かな》うのだと予感して。
殺人考察/3
◇
七月。
弱い人は嫌いです
彼女は平然とそう言った。
弱い人は嫌いです
両儀式は僕をそう拒絶した。
弱い人は嫌いです
その意味が、僕にはよく分からなかった。
その夜、
初めて人をなぐった。
その夜、
初めて人をころした。
◇
……二月十日、曇り、ところにより晴れ。
力ーステレオから流れてくる天気予報は、昨日とあまり代わり映えのしない天気を告げていた。
ハンドルを握りながら腕時計を見てみると、時刻は正午になったばかり。
いつもなら橙子さん相手に事務として使途不明金の使い道なんかを尋ねている時間なのに、僕は今日も仕事を休んで工業地帯のだだっ広い道を走っていた。
もちろん、自分の足ではなく車で走ってる。
〝ほどほどにしろよ、黒桐?と言った橙子さんの忠告は、あいにくとまだ効果を発揮していない。
昨夜も殺人鬼の被害者は出てしまった。
……忘れもしない。昨夜の被害者が発見された場所は、四年前に一番初めの被害者が出た路地裏でもある。
ほとんどただの偶然かもしれないけど、その事実は事態が取り返しのつかない方向に転がり始めているような証に思えた。
事は、もう一刻の猶予もない。
昨日、売人さんのアパートから調べ始めて丸一日。ブラッドチップという新種の麻薬を扱っている売人の住みかが港付近のアパートにあるとつきとめて、黒桐幹也はその隠れ家に向かっていた。
港に近付けば近付くほど、すれ違う車はトラックばかりになっていく。
灰色の空の下、やっぱり灰色に濁った海を大きく迂回して工業地帯を走っていく。
……去年の夏、ブロードブリッジと名付けられた橋があった。建造途中、台風によってほぼ全壊したとされる大橋。建設再開のめどはまだ立っていない。
売人のアパートは、そのブロードブリッジが見渡せる海辺にあった。
車から降りて、潮を含んだ風を受ける。
冬の海は冷たく、風も氷みたいに肌を凍えさせた。
人気のない港は街中より何十倍も肌寒い。
無数に建つ倉庫を横目に、目的のアパートを目指す。
アパートは潮にやられているのか、外見はボロボロだった。もう、廃嘘としかとれない二階建ての木造のアパート。
売人はそのアパートを借りているのではなく、アパート自体が売人の持ち物らしい。四年前まで荒耶《あらや》という人物が持ち主だった物件。……そういった意味では、売人の住みかを発見するのは簡単だった。
六部屋しかないアパートの扉を全部ノックして留守を確かめる。少し悩んでから、二階の隅の部屋に忍び込む事にした。
築三十年を超えるアパートの部屋の鍵は、ドライバー一本で簡単に破壊できた。……まったく、我ながらものすごい暴走ぶりだと思う。でも今は世間体を気にしている場合じゃなかった。
「ビンゴ、かな」
玄関から台所に入って、そんな事を呟いた。
部屋の作りは狭くて、玄関と台所は繋がっている。
その奥に六畳一間の部屋があるだけ、という七十年代を象徴するような安アパート。
……部屋の様子は、昨日の売人の部屋とあまり大差ない。
台所から覗ける奥の部屋は台風とサボテンが飛び込んだ後のようで、それこそ廃嘘みたいだった。
カーテンをつけていない窓からは一面に海が見渡せる。
ゴミが散らばった部屋の中で、その窓だけが取り付けられた美術品のように不釣り合いだ。
ざざあん、という波の音さえ聴こえてきそうな、鉛色の海に通じている窓ガラス。
それに引き込まれるように部屋の中へ入った。
「――――」
ぞくり、とした。
後頭部に血液が溜まって、そのまま後に倒れてしまいそうな感覚。
それに耐えきって、僕は周りを見渡した。
……別段、何かを見つける為にやってきたんじゃない。
この隠れ家に例のクスリのレシピがあったとしても、そんなものには興味もない。僕はただ、漠然と何か手がかりらしき物がほしかっただけだ。
けれど、その必要はもうないのかもしれない。
「――式」
呟いて、部屋に散らばった写真を手にとってみる。
それは僕がまだ高校生だった頃の両儀式の写真だった。
部屋に散らばっているものは写真だけじゃなく、キャンバスに描いた肖像画らしきものまである。
数はあまりないけれど、この部屋には式をモチーフにしたモノで散らかっていた。年代は四年前の一九九五年から今まで。今年の一月、礼園女学院に仮転入した時の写真まで揃っている。
部屋にはそれ以外の日用品は存在しない。
両儀式という人物の残骸で埋め尽くされた、海の見える小さな部屋。
……これは、彼の体内だ。自分の部屋というものはその個入の世界を表している。けれどその装飾が自分というカラから溢れだしてしまった時、部屋は世界ではなくその人物の中身になるんだ。
ゾクリ、と背筋に悪寒が走る。
この部屋を形成した人物とは、話し合いは成立しないのかもしれない。なら――彼が帰ってくる前に僕は引き揚げるべきだろう。
それが解っていても、僕はこの部屋の主と話をしたかった。いや……きっと、しなくちゃいけないのだと思う。
そうして部屋に留まっていて、窓際の机の上に置かれた本に気がついた。
緑色の背表紙の、おそらくは日記だろう。
これみよがしに用意されたそれは、読まれる事を望んで置かれた物だった。
「……それがこの部屋の心臓ですか、先輩」
日記を手に取る。
書き手の思惑通り、僕はその禁断の箱を開けていた。
…
どれくらいの時間が経ったのだろうか。
僕は式の写真がちりばめられた部屋に立ったまま、彼の日記の最後のぺージを読み終えた。
この日記は、ある殺人の記録だった。
四年前に起きた、事故のような殺人事件。事の発端は全てそこから生じたものだ。
一度だけ深呼吸をして、僕は天井を仰いだ。
日記は春から始まっていた。一番初めのぺージ、一番初めのくだりを、僕は完全に暗記してしまっている。
この日記の主が一人の少女を初めて見た時の記録、彼の物語の発端。
それは――――
「――一九九五年、四月。僕は彼女に出会った」
突然に。
玄関から、そんな言葉が投げかけられた。
ぎしり、ぎしり、と足音が近付いてくる。
彼はゆっくりと、以前のように親密げな笑顔のまま、やあ、と手をあげて帰ってきた。
「久しぶり。三年ぶりかな、黒桐くん」
「――――」
驚きで声もない。
やってきた彼は、まるで式そのものだった。
女物のスカートと、赤い革製のジャンパー。肩口で切り揃えたバラバラの髪と、中性的な顔立ち。
ただ髪は金色で、瞳はカラーコンタクトでも入れているのか兎みたいに真っ赤だった。
「思ったより早かったね。正直、キミがここにやってくるのはまだまだ先だと予定していたのに」
残念そうに俯《うつむ》いて彼は言う。
僕はそうですね、と同意した。
「ふむ。ボクはなにかヘマでもしたかな。キミと最後に話をしたファミレス以来、痕跡はすべて絶っていた筈《はず》なんだけど」
「……そうですね。貴方自身にミスはなかったと思います。ただ、ヒントはありました。十一月にあるマンションが取り壊された事は知っているでしょう? その直前にマンションの住人を調べる機会があったんです。
その時、貴方の名字を見つけました。僕はそれがずっと気になっていた。だってあのマンションは普通じゃなかった。あそこに居た以上、貴方はなんらかの形で式に関わっている事になるんです。
そうでしょう? ――――白純《しらずみ》、里緒《りお》先輩」
金色の髪をかきあげて、ああ、と先輩は頷《うなず》いた。
「なるほど、マンションの名簿とはね。荒耶《あらや》さんもつまらない小細工をしてくれたものだ。おかげでボクは一番会いたくない相手と、こんなに早く会う事になってしまったというワケか」
困ったふうに微笑って、先輩は部屋の中に入ってきた。
……その時、ようやく気がついた。
白純先輩の左腕が、キレイに失われているという事に。
「その様子じゃ、全部わかってるみたいだね。
そう、三年前のこの季節のことだ。キミが両儀式の屋敷を訪ねた時にボクに出会ったのは偶然じゃない。ボクはキミに彼女の殺害現場を見せたくて、キミを呼び止めたんだ。まあそれが余計な事で、結果としてボクは荒耶さんに失敗作扱いされたんだけど。……けど、今でもあの選択は正しいと思ってる。あのまま、キミが彼女の本性を知らずに犠牲になるのは我慢できなかったからね」
窓際の机に腰をかけて、白純先輩は懐かしそうに語った。
その様子は、僕の知っている先輩と何ら変わってなぞいない。……なんてコトだろう。日記を読んで、ブラッドチップの売人という話を聞いて、僕は先輩が変わってしまったと思っていた。
けど、この人は昔のままだ。昔のままの、人のいい先輩なんだ。
日記に書かれていた事件については、この人に全ての責任があるわけでもない。発端は不幸な事故と、荒耶というもういない人物によるものだという事を、黒桐幹也は知ってしまった。
それでも。僕は、この人の罪を告発しなければいけない。
「もう、四年も前から。先輩は、罪を重ねています」
正面から彼を見据《みす》えて、僕は言った。
白純《しらずみ》先輩はわずかに視線を逸《そ》らして、それでも静かに頷《うなず》いた。
「その通りだ。しかし四年前の通り魔殺人の犯人はボクじゃない。アレは両儀式の手によるものだ。ボクはキミを守りたくて、彼女の先回りをしていただけにすぎない」
「それは嘘ですよ、先輩」
断言して、僕はポケットからブラッドチップと呼ばれる紙切れを取り出して、手を離した。
赤い切手はゆらゆらと散らかった部屋に落ちていく。
白純里緒は、それを辛そうな瞳で見つめていた。
「……先輩。貴方のやりたかった事って、こんな事だったんですか」
僕がまだ高校生だったころ。やりたい事ができたといって学校を自主退学した先輩は、静かに首を横に振った。
「……たしかに、方向性はズレてしまった。こどもの頃からなまじ薬物に詳しかったせいか、ボクは自分の技量を過信していたんだな。ボクは単に、自由になれるクスリを作りたかっただけだったのに。
……ほんとう。どうしてこんなコトになってしまったんだろうね、ボクは」
自嘲の笑みを噛み殺して、白純先輩は片腕で自分の体を抱いた。震える体を支えるような仕草だった。
僕の視線に気がついたのか、先輩は無くなっている左腕に視線を送る。
「これかい? キミの想像通り、両儀式にやられたものだよ。片腕ぐらいどうってコトないって思ってたけど、これが中々に治らない。殺すっていう事はそういうコトなんだろう。傷は治療できるけど、死んだ箇所は治療できない。蘇生の業《わざ》は魔法使いの領域だと荒耶さんは語っていた」
魔法使い。その単語をこの人から聞くはめになるなんて、あの頃は考えもしなかった。
でも、これは必然なんだ。
四年前。
事故で人を死なせてしまった白純里緒が荒耶宗蓮という魔術師に助けられた時、式と組み合った僕がその魔術師に助けられた時。
その時から、こうなる事は定められていたんだから。
――それでも。
人を殺してしまった貴方は、その罪を償《つぐな》わなければいけないんです。
「先輩。どうして、貴方は何度も人殺しをしたんですか」
問い詰める声に、白純里緒は瞼《まぶた》を閉じて答えた。
「……ボクだって、殺したくて殺してるんじゃない」
苦しげに呟いて、彼は手の平を自分の胸に当てた。
ぐ、と胸をかきむしるように、手の平が力を帯びていく。
「ボクは、一度だって、自分の意志で人を殺したコトなんてない」
「なら、どうして」
「……黒桐くん。キミは起源というモノを知っているか。蒼崎橙子のもとにいるのなら聞いたコトぐらいはあるだろう。そのモノの本質、存在の大元となった事柄。ひいてはそのモノ自体の在り方を決定する方向性。
ボクはね、そいつを覚醒させられたのさ。荒耶宗蓮っていう、人の皮をかぶった悪魔にね」
残念な事に、僕は起源なんて単語を教えてもらった事はない。起源を覚醒させられた、と言われてもちんぷんかんぷんだ。
「……よく分かりませんけど、それが原因だっていうんですか、貴方は」
「ああ。起源が何物であるかは、ボクだって詳しくわからない。あるいは蒼崎橙子なら解決策を知っているのかもしれない。けど、たぶんボクは手遅れだ。
起源というのはね、わかりやすく言うと本能なんだと思う。ボクやキミが持っている本能。こいつは人それぞれのカタチを持っている。まったく害のない本能を持っているヤツもいれば、ボクのように特別な本能を持っている人問もいる。ボクのその本能は、運が悪い事に荒耶の目的に適うものだったんだ」
はあ、と大きく呼吸をして先輩は続ける。
彼の額には、この寒空の下だというのに玉のような汗が浮かんでいた。
何か、絶望的なまでに危険な空気が張り詰めていく。
……このままじゃひどく危険な目に遭うな、という予感に苛《さいな》まれながらも、僕はこの場から逃げ出す事はできなかった。
「先輩、大丈夫ですか。様子がおかしいですよ」
「心配は無用だ。こんなのはいつもの事だからね」
糸を吐き出すような細く長い呼吸をして、先輩は頷いた。そんな事より話をしよう、と途切れがちな声で言う。
「……いいかい、黒桐くん。人格として表層意識に具現させられた本能は、理性を駆逐《くちく》する。ボクという、白純里緒という人格を凌駕《りょうが》してしまうんだ。なにしろ相手はボクの起源なんだ。たった二十年程度で培《つちか》った白純里緒というカタチは、いつまでも起源を抑えきれなかった。……荒耶さんは言っていた。起源を覚醒した者は起源に縛られる、と。キミには分からないだろうな、黒桐くん。ボクの起源はね、〝食べる?という事柄だったんだ」
くくく、と笑いながら先輩は言う。
呼吸は、もう見ていられないほど荒々しくなっていた。
先輩は吐き気を堪《こら》えるように、懸命に腕に力を入れている。体の震えも激しくて、かちかちと歯が鳴っていた。
「先輩、気分が――」
「……いいから、続きを説明させてくれよ。まっとうな会話なんて、これが最後かもしれないんだから。
……さて。表層意識に具現化した本能は、肉体そのものを微妙に変化させる。無論、外見が変わるわけじゃない。内部構造が組み替えられるだけだ。先祖還りというものらしいよ。だからさ、変わっていく本人でさえ、その時まで気がつかないんだ」
胸に当てていた腕を顔に上げて、先輩は笑いを噛み殺す。
彼は手の平で自分の顔を覆ってしまった。