まるめた背中は笑うたびに上下して、喘息《ぜんそく》の患者のように危なかしい。白純里緒の圧し殺した笑いは、ワライタケを食べてしまった人のように病的で、見ていられなかった。
「……はは、つまりはそういう事だ。ボクは、いつのまにか、そういうモノになっていた。
起源は衝動だ。そいつが起きた時――ボクは、ボクで、なく、なる。当たり前のように、何かを、食べるしかない。くそ、わかるか幹也。なんだよ、食べる事が起源って! なんだってそんなモノがボクの――俺の大元だっていうんだ……! 俺はそんなつまらないコトに、俺自身が消されちまうっていうんだぜ!? ……ああ、そんなの、認めたくない。そんなコトで、俺は消えたくない。俺は――俺のままで、死にたいんだ」
ぎり、と歯を鳴らして、白純里緒は机から離れた。
瞳に涙をためて、両肩を激しく上下させて、懸命に何か凶暴な感情を抑えようと闘っている。
「……先輩、榿子さんのところに行きましょう。あの人なら、なんとかできるかもしません」
先輩は畳に膝をついたまま、ぶんぶんと首を横にふった。
「……ダメだ。ボクは、特別だから」
そんな事を口にして、先輩は顔をあげた。
彼の痙攣《けいれん》はしだいに激しくなっていく。けれどその表情は、とても穏やかなものだった。
「……ああ、キミは優しいな。……そうだった。いつだって、キミだけは白純里緒の味方だった。だからボクがこうして自分を保っていられるのは、キミのおかげなんだろう。……うん。ボクだって、キミを殺す事なんて、やりたくない」
そのまま、先輩は僕の足元にしがみついてきた。
寄りかかる腕の力はとても強くて、足が折れてしまいそうだ。
それでも恐ろしくはない。だって力が強ければ強いほど、それは白純里緒が抱いている絶望の大きさなんだ。それを拒むコトなんて、できない。
「白純――先輩」
僕は何もできず、ただ立っている事しかできなかった。
先輩は僕のコートにすがったまま、膝をついてうつむいている。痙攣《けいれん》はますます激しくなって、も体が二つに別れてしまいそうだった。
不意に――彼は、小さく声をあげた。
「ボクは、人殺しだ」
絞りだすような、小さな懺悔《ざんげ》。
「……ええ、そうですね」
今に窓越しの海を見つめて、答えた。
「ボクは、普通じゃない」
吐きだしてしまいそうな、小さな自戒。
「――そんな事、言わないでください」
窓越しの海を見つめて、答えた。
「ボクは、どうしようもない」
泣きだしてしまいそうな、小さな告白。
「――生きてるかぎり、そんな、コトないです」
答えても。窓越しの海を見つめることしか、できなかった。
…
泣くような言葉。
とりとめのない返答。
そこに、どんな救いがあったのかわからない。
ただ最後に。白純先輩は、喉から絞りだすように、か細い声で呟いた。
「――ボクを、助けてくれ、黒桐」
……その言葉への返答は、僕にはできない。
僕は自分の無力さを、今度こそ、呪いたくなるほど思い知った。
「ご――ふ」
白純先輩の声があがる。
彼は一際《ひときわ》高い呻《うめ》き声をあげると、片腕で僕を壁まで弾《はじ》きとばした。
がん、と激しく背中を壁に打ちつけられたあと、先輩に視線を戻す。
――白純里緒は充血した眼をして、ただこちらを見つめていた。
「……もう、俺を捜すな。次は殺すことになる」
くぐもった声で言って、彼は机の上に身を乗り出す。
がしゃん、と窓ガラスの割れる音。
「――先輩! 橙子さんの所に行きましょう。そうすれば、きっと――」
「きっと、なんだっていうんだ? 治る保証なんてないだろうし、戻ったところで俺には何も残ってない。むざむざ殺人の罪に問われるのなら、このまま行き着く所まで行くまでだ。それに俺は両儀式に狙われてる。早く、あいつから逃げなくちゃいけなくてな……!」
笑いながら言って、彼は金色の髪をなびかせて窓から飛び降りた。
急いで窓に駆け寄ったけれど、眼下の港には先輩の後ろ姿さえ見当たらない。
「……なんて、バカなコトを」
ようやく落ち着いて、そんな独り言を呟いた。
……そんな事で、何が解決するのでもない。
白純里緒に出口がないように、黒桐幹也にも出口らしきものは用意されていないんだ。
やりきれない無力感に唇を噛みながら、式の残骸に埋もれた部屋を後にした。
何の打開策も見当たらなくったって、やるべき事は残っている。
式を見つけるし、先輩も放っておけない。
……そう、何処にも救いがないとしても。白純里緒自身の為に、これ以上彼に殺人を犯させてはいけないんだから。
殺人考察/4
◇
八月。
あの日から一睡もできない。
恐くて恐くて、外を出歩く事もできない。
のうのうと生き延びてる自分が厭《いや》で、鏡を見る事もできない。
僕は、最低の人間だ。
何もする気になれないし、何も食べる気になれない。
僕はひとつも傷を負っていないのにボロボロで、まるで死人のように暮らしている。
七日目に気がついた。
あの時に死んだのは彼だけではなかったっていう事に。
ほんと、どうして誰も教えてくれなかったんだ。
誰かを殺すというコトは、自分も一緒に殺すんだっていう単純な現実を。
◇
港から自分の部屋に帰ってくる頃、あたりはすっかり暗くなっていた。
二日ぶりに戻ってきた部屋には、当然のように誰の姿もありえない。
テーブルの上に広げっぱなしの街の地図と、飲みかけのコーヒーが残ったマグカップ。……淋しさだけが支配するこの空問には、式の姿もその面影も稀薄になってしまっていた。
「…………」
知らず、ため息を漏らしている。
そう、少しは期待してたんだ。部屋に帰ったら、式は何事もなかったように人のベッドを勝手に使って眠ってる、なんてありきたりの日常を。
……去年の十一月からこっち、式は時たま、本当に何かの拍子で僕の部屋に顔を出したかと思うと、何をするのでもなく眠って去っていくという奇行を繰り返していた。
もしかすると遠回しに文句を言っているのかもしれない、と不安になった僕は秋隆さんに相談した事もある。
式の解析不能な行動を告げると、秋隆さんは無言で僕の肩に手をおいて、お嬢様をよろしくお願いします、なんてこれまた遠回しに文句を言っているような返答を残してくれた。
……今にして思えば、あれは穏やかな日々だった。
僕は、それがずっと続くと疑いもしなかった。
電話が鳴った。
橙子さんからだろうか。三日も仕事を休んだ事を肴《さかな》に、僕をいぢめる魂胆《こんたん》かもしれない。
「はい、黒桐です」
嫌々ながら受話器をとって告げる。
と、受話器の向こうで息を呑む気配が伝わった。
なんの根拠もなく。
僕は、それが彼女なのだと気付いていた。
「…………式?」
「――――この、罵迦《ばか》」
張り詰めた声で、式は心底からの罵倒を浴びせてきた。本当に怒りでふるえているらしく、受話器越しでも式の感情が伝わってくる。
「昨日からどこに行ってたんだ、おまえは! 外が危ない事はわかってるだろ、ニュースを見てな――」
いのか、と言いかけて彼女は黙った。
ニュースなんか、見てるに決まってる。見てるから、僕は部屋に籠もっていられないんじゃないか。
「……いい。無事なら、それで。しばらくトウコの所で寝泊まりしろ。用件はそれだけだ」
……それが伝えたくて、式は昨夜からこの部屋に電話をかけていたみたいだ。
こっちの身を心配してくれるのは嬉しい。
けれど今は、その気持ちが逆に僕を不安にさせる。
殺人鬼の正体は判ったけど、それならどうして式が帰ってこないのかが解らないから。
「式。君、今なにをしているんだ」
「幹也には関係ない」
「関係あるよ。殺人鬼を追ってるんだろ、式は」
短い沈黙のあと、そうだ、と式は答えた。
その声は冷たくて、受話器越しでさえ僕はふるえてしまった。
殺意しかない、こわい声。
式は殺人鬼を――先輩を、殺すつもりだったんだ。
「だめだ、式。帰ってくるんだ。君は――あの人を殺しちゃいけない」
「へえ、白純に会ったのか幹也。ふぅん、どうしようかな。余計あいつが許せなくなっちゃったかな」
冷たかった声が一変して。
彼女は、くすりと笑っていた。
「式!」
「お断りだよ。いいかげん、こっちだって我慢の限界なんだ。せっかくの獲物を逃す気なんてない。あいつは、久しぶりの外れた相手なんだから」
外れた相手。
去年の夏、自分の悦びのために殺人を犯した浅上《あさがみ》藤乃《ふじの》と、自分の意志に反して殺人を犯してしまう白純先輩は一緒だっていうのか。
……ああ、同じだ。理由はどうあれ、彼らは自分から生まれた衝動だけで、人を殺してしまっている。
それを殺人鬼と、世間は言うんだから。
「……でも、それでも。たとえ相手がどんなに罪を重ねた人間でも、人殺しはいけない事なんだ」
「おまえの一般論は聞き飽きたよ、コクトー。白純里緒はもう普通じゃない。あいつは殺しすぎた。だから、殺していい相手なんだ」
「殺されていい人間なんて、いない」
「馬鹿いうな、あいつは手遅れだよ。人間には戻れない」
きっぱりと式は言う。
彼女の言うとおり、白純里緒はもう人間と呼べるモノではなくなっているのかもしれない。
けど、それでも――あの人は、人間のままでいたいと言ったんだ。
「けど、先輩はまだ僕らと同じじゃないか。とにかく帰ってくるんだ。先輩を殺したら、僕は君を許さないからな」
……返答はない。
彼女は考えこんだ後、短く、拒絶の言葉を残した。
「ダメだ。できない」
どうしてと問い返す。
彼女はほんの少しの逡巡のあと、乾いた声でこう言った。
「私も、あいつと同じ殺人鬼だから」、と。
一瞬、頭の中が真っ白になった。
それぐらい、彼女の告白は認めたくないものだったから。
「……君は、違う。誰も殺してなんか、いないじゃないか」
「偶然、今まではな。けど変わらないんだ。気付いたんだ、幹也。四年前のオレは殺人っていう行為に近かった。織が殺人しか知らない人格だったから。けど、それだけなんだ。織は殺人しか知らないだけで、人殺しが好きなワケじゃなかった。考えれば、すぐに気がつく事だったんだ。眠りから目が覚めて。織がいなくなって、式だけになったオレは、織がいないのに殺人という行為に焦がれてる。ほら、なんて簡単。結局さ、人殺しをしたがっていたのは織じゃなくて、生き残ってる式のほうなんだ」
受話器から聞こえてくる声は沈んでいた。自分自身を呪うような、落ち込んだ声。
いつも通りの式の声だったけれど、僕にはそうとしか聞き取れなかった。
「だからダメだよ。オレはそっちに帰れないから、幹也は待ってなんかなくていいや」
照れ笑いをして、式はそんな事を言った。
静かに、涙するような声だった。
僕は黙って、正直、あたまにきてしまった。
「あのね。それは君の勘違いだよ、式」
返答はない。僕はかまわず続けてやった。
「いつか君は言ってたじゃないか。人は一生に一人分の死しか背負えないって。君はその事を大事にしているし、何より……殺人の痛みを、誰よりも知っている」
そう。幼いころから織という自分を殺してきた君。
織という被害者でもあり、式という加害者でもある君は――それが何より哀しい事だと識《し》っている。
だから信じたんだ。ずっと、傷だらけの哀しい式を。
「……君は誰も殺さないよ。たまたま誰も殺していないだけだって? 笑わせるな、そんな偶然が今まで続いているもんか。君は自分の意志で、いつだって耐えていたんだ。人間の嗜好はそれぞれだろ。式はたんに、それが人殺しだっただけじゃないか。でも、ずっと我慢してきた。ならこれからも我慢できる。絶対だ」
ぎり、と歯を噛む音がした。
式は静かに、叩きつけるような激しさで言った。
「絶対ってなに。オレにわからないコトが、どうしておまえはわかるんだ」
そんなコト、ずっと前からわかってる。
「――だって、君は優しいから」
三年前に僕を殺せなかった、君を。
……式は何も答えてくれない。
受話器越しのせいで、僕には彼女がどんな顔をしているかわからない。
僕らの会話は。
ただ、声が聞こえるだけ。
それも、
――――別れの言葉で終わってしまう。
「……おまえは変わらないね、コクトー。言っただろ。式はさ、おまえのそうゆう所が大嫌いだったって」
そして、彼女は電話を切った。
受話器は定期的な電子音しか発しない。
最後の言葉。
それは去年の夏の終わりに、ふたりで雨にうたれた時と同じ意味合いのものだった。
◇
時計は二月十日の午後七時を示している。
苦手だったものが大嫌いなものにまで格上げされてしまった事が原動力になったのか、僕は二日間ろくに眠っていない事を忘れて部屋を後にした。
/3
◇
八月。
ボクは、だんだんと狂いはじめている。
◇
――――だって、君は優しいから。
つまらない言葉を思い出して、私は足を速めた。
沸き上がるのは凶暴な感情だけで、本当にいらいらする。
「……なんて、幸福な男」
ぎり、と歯を噛んで、私はあいつのまぬけ顔を頭の中で殴りつけた。
変わってない。本当に、あいつは四年前から変わってない。両儀式という殺人鬼を信じて、私にばかみたいな笑顔を向ける。……私と普通に接して、殺されるなんて事を夢にも思わないで、私に幻想を抱かせる。
……そう。両儀式という異常者が、陽だまりの中でも暮らしていけるんだっていう幻想を。
四年前、式はそれがとても苦手だった。
その気持ちを、私は今になってようやく理解した。
……私は、幹也を殺してしまう。だから彼から逃げなくちゃいけない。私が両儀式という自分自身に対して、何の苦しみも抱かないように。
……けど、それじゃあ私だって昔のままだ。
幹也の事は言えないな。だって今も昔も、式は黒桐幹也をこんなにも邪魔に思っているんだから。
黒桐幹也との電話から二時間ほどたった頃、私は白純里緒の住みかに辿《たど》り着いていた。
ヤツを追跡するのは簡単で、単にヤツの体にしみついた麻の匂いを辿ってきたら、その大元に辿り着いたというだけだった。
港にある、船で運ばれた貨物を保管する倉庫。それが殺人鬼の本拠地であるらしい。
港に人気《ひとけ》はない。
夜の九時を過ぎた倉庫街に寄りつく物好きはいないし、ここに住んでいる人間もいないから。
港にあるのは暗い海の照り返しと、背の高い街灯の明かりだけ。
――――確かに此処なら。
何をしようと、邪魔をされる虞《おそれ》はない。
私はナイフを左手に、投擲《とうてき》用の短刀を右手に目的の倉庫へと歩いていく。
学校の体育館ほどもあるそれは、倉庫というより何かの工場のようだ。高さは八メートルほどで、意外な事に窓が壁一面にもうけられている。窓は七メートルほどの高さにあるので中の様子は覗けないが、あれなら日中はさぞ明るい事だろう。
一言で説明するなら、鉄の壁に囲まれたビニールハウスといったところか。
窓から中に入ろうとも思ったけれど、その必要はなかった。倉庫の入り口、大きくて赤錆びた鉄の扉は、わずかに開けられていた。
罠にしては、あまりひねりのない趣向。
呆れて扉の隙間から倉庫の中に入る。
――と。
そこは、殺風景な港の眺めとは一変した、とてもおかしな風景だった。
天窓のような窓から、月明かりが差し込んでいる。
……ここは、まるで密林だった。
五メートルはある草が倉庫いっばいに植え付けられている。地面の大部分は土で、道らしき部分だけコンクリートで舗装《ほそう》されていた。
人工的に作られた熱帯園。それがこの倉庫の正体だった。
「――――」
ぴくりと右手の短刀が反応する。
ヤツはその密林の中に潜んで、私の様子を窺《うかが》っていた。
……こっちもそんな様子見に付き合ってやろうと思ったけど、やめた。
黒桐幹也との会話で苛立っていた私は、人並みに悠長な心を無くしてしまっていたらしい。
そのまま、生い茂る草をかきわけて獲物へ走った。
「――!」
驚いてヤツは逃げる。
けれど遅い。
逃げる背中に追いついて、左手のナイフを振り下ろす。
直前、ヤツは跳びあがった。
昨夜と同じ、壁に向けての跳躍。……たしかに人である私は、鳥や蜘蛛のように立体的な動きはできない。
けど、その芸はとうに見飽きている。
右手の短刀を壁に張りついた敵へと投げつけて、
地面に落とす。
私は倒れこんだヤツの体に駆け寄って、馬乗りになった。
「――な」
ヤツ――白純里緒は、私を見上げる。
昨夜の一戦で戦力は互角と思っていたソレは、今の一方的な状況を把握できず、言葉さえ失っていた。
私に似せた男は、何も言えず、ナイフを振り下ろす私を見つめる。
それは昨夜の殺人鬼ではなく、幹也の言うとおり、本当に害のないただの〝人間?だった。
「ま、待って、くれ」
獲物は自分でも意味がわかっていないくせに、そんな命乞いをした。
けど、そんな言葉に興味はない。
私はそのままナイフを突き下ろし。
いつかと、何か、似ていた。
「――え?」
驚きの声は私と、ヤツの物だった。
私は――ヤツの喉元まで迫ったナイフを、ぴたりと止めてしまっていた。
「な…………」
わけも分からず、私は左手に力を込める。
逃がしはしない。私はコイツを殺して、殺人鬼になりかわるんだ。そうすれは――きっと、私は独りでもやっていける。帰れなくなっても、何も痛まないで好き勝手生きていける。
……だっていうのに。
私の左手は、どうしても、白純里緒を殺してくれない。
〝――許さない?
そんな言葉が、脳裏に響いた。
獲物は蛇のように、私から逃れてしまう。
けれどその背中は隙だらけだ。
ヤツの体にある死の線もちゃんと視えている。
あとはいつものように、この左手を振るうだけ。
〝――君を、許さないからな?
そして、私は最後の機会を見逃してしまった。
まるで道化だ。
ずっと渇望していた人殺しなのに、私は最後の一線を越えられない。
あの男の、なんでもない言葉のせいで。
「あんなの、どうってコトないものなのに……!」
そう、そんなのはどうでもいい事だ。
誰に許されなくてもかまわない。
世界中の人間全部に許されなくったっていい。
それなのに、どうして。
「――あいつの、せいだ」
痛みにも似た憎悪が、そんな言葉を呟《つぶや》かせる。
逃げだした獲物が嗤《わら》う。
さっきまで死に怯えていた獲物は、私の異常を感じ取って、昨夜の殺人鬼に戻っているようだった。
どうあっても白純里緒を殺せない私は、殺人鬼に戻ったソレを倒す事も、ソレから逃げる事もできなかった。
/4
◇
八月。
荒耶さんの言うとおりだ。
ボクは正しい。
狂っているのなら、人を殺してしまうのは仕方のない事なんだから。
◇
……雨が、降ってる。
ざあざあと止まない雨音がうるさくて、私は閉じていた瞼《まぶた》を開けた。
「……なんだ、まだ生きてる」
眠りから覚めて、コンクリートの床に横になったまま、その風景を眺めた。
草が茂っている。
私より二倍以上も背の高い植物。
高い窓から差し込む陽光は、雨のせいで灰色だ。
それでも一面にぐるりとある窓ガラスからの光は強くて、ここが建物の中とは思わせないぐらいに明るい。いつのまにか、外は朝を迎えているようだった。
灰色にくすぶった植物園。
そこに私は倒れている。
……よく覚えていないけれど、白純里緒にやられたらしい。
両手には手錠がかけられていて、全身がぼうとして力が入らない。何か、得体のしれない薬でも射たれたらしかった。
意識も腺朧として、何も考えられない。
手錠をかけられたまま、硬いコンクリートの上で眠っている。
瞼《まぶた》は開いているけれど、私は何も見ていなかった。
――ここは、寒い。
聴こえてくるのは雨の音だけ。
窓ガラスを濡らしていく冷たい冬の雨を、私は意味もなく眺めている。
射たれた薬のせいだろうか。
私の意識は今じゃなく、三年前の、とおい昔をみつめていた。
…
……雨が、降っていた。
その夜は寒くて、骨まで砕けてしまいそうで。
式は傘もささずに、黒桐幹也を追い続けた。
土砂降りの雨の中、街灯だけを頼りに走っていく。
濡れたアスファルトは光を反射して、あいつの姿を見せてくれない。
それでも、式はすぐに追いつけた。
さっきはワケの分からない男に邪魔をされたけれど、今度は助けなんて入らない。
式は立ち尽くす幹也にナイフで切りつけた。
川のように雨水を流していく路面に、少年の血が混じっていく。
……けど、ナイフは掠《かす》めただけだった。
何故、と息を呑む式と、駆け出していく幹也。
式はすぐにそれを追いかけて、また同じ事を繰り返す。
何度も何度も、そんな鬼ごっこは続けられた。
おかしな事に。
少年はしばらく走ると足を止めて、ずっと少女を待っているようだった。
雨の中、式はどうしても幹也を殺せない。
「どうして――!」
激昂して、私は頭を抱えた。
あいつは遠くでまた足を止めて、雨にうたれてる。
その姿を見ていると――胸が、苦しくなる。
「……コクトーといると苦しいのに。わたしには手に入らないものをみせつけるから、こんなにもわたしは不安定になってしまう。
だから――殺さなくっちゃ。消えてしまえばもうユメを見る事もない。こんな痛いだけのユメも消えて、わたしは以前のわたしに戻らなくっちゃ――」
こどもが八つ当たりをするように叫ぶけれど、泣きたくなるほどの哀しい気持ちは、よけいに増していくばかりだった。
降りしきる雨の中、式は泣いているように見える。
幹也は走るのをやめて彼女と向き合う。
……何もかける言葉のない幹也。不器用な幹也。けど、立ち止まって自分を待ってくれる少年。
そこで、式は織の意志がわかってしまったんだ。
……たしかに幹也を殺せばそんな苦しみに囚われる事もなくなって、以前の自分に戻れる。
けれど――そのかわりに、もうそんなユメそのものさえみる事が出来なくなってしまうんだ、と。
ユメをみるコトは苦しいけれど。
ユメをみない、というコトはどれほど感情のない事なのだろう?
結局。最後の瞬間まで幹也殺しを阻止したのはあの黒い男でも式でもない。
なによりユメ見る事が好きだった、それしか出来なかった織が、幹也というユメのカタチを壊したく
なかったんだ。
……たとえ手に入らないものでも、どんなに痛くて苦しいものでも。ユメというものは、それだけで
大切な、生きていく目的なんだから。
――だから、消せない。
アイツを消せば、私はもっと苦しくなる。けれどこんなココロにも、これ以上耐えられない。
なら――――
式は歩いて、幹也に向かっていく。
少女は少しだけ少年と離れた歩道橋の上で、足をとめた。
視界をさえぎる雨のなか。
遠くから自動車の音が聞こえてきていた。
最後に、式は笑った。
……そう、答えは簡単なんだ。
「おまえを消せないのなら――わたしが、消えるしかない」
式は、微笑んでそう言い残した。
柔らかな、幸せそうな、儚《はかな》げな微笑みだった。
次の瞬間、やってきた自動車はけたたましいブレーキ音を響かせて、彼女の体を吹き飛ばした。
…
それが私が覚えている、三年前の日の記憶だった。
あのとき。
本当に死んでしまうのは、私のほうだった。
こうして目覚めて両儀式でいるのは、眠っていた織のほうなんだ。
けれど織は私の身代わりになって、あの時に死んでしまった。
……そうしなければ、彼は彼自身の夢を守れなかったから。織だけがこの体に残ってしまえば、彼は無差別に殺人を繰り返すだろう。……彼自身が夢みていたものを現実に出来るのは、織ではなく式だったから。
――式の裏側という位置づけの織は、いつも眠っているしかなかった。
大元の一つの人格から分かれた私たち。けど肉体の主導権を持ち、両儀式と名乗れる人格は式である私だけだった。
式として私がいる以上、その間の織は眠っているしかない。
いつも、いつも眠っていた彼。
式の抑圧された願望を抱えた彼は、他人を否定して、傷つけて、殺そうとする方向性に縛られてた。
それが彼が生み出された理由だから、織は殺人鬼でなければ存在できない。織が人格として両儀式の肉体に現れる、ということはその時に関わっている相手に殺意を持っている時だけだった。
けど、織にも今の私のように普通に暮らしたいという願いがあった。考えてみれば当然だ。同じ趣味を持ち、成長を共にしてきた私たちは、憧れるものさえ一緒なんだから。
式……肯定の心である私は、その真似事ぐらいは出来た。けれど織にはそんな事さえできない。それでも、どんなに他人が嫌いでも、いつか一緒にいられると織は思いたかったんだ。
けど、それは彼には叶わない望みだ。
だから――彼の見る夢はシキが幸せに暮らしているというユメだった。
夢を見る事が好きだった織。
夢の中でしか望みを叶えられなかった織。
それは転じて式の願いでもあって。
私たちは、現実にその夢と出会ってしまった。
幸せに生きるという彼のユメ。
自身の存在そのものを否定する望み。
織が好きだったあのクラスメイト。
式はあのクラスメイトといれば、夢を手に入れられる。けれど織がいるかぎり、いつか私はクラスメイトを殺してしまっただろう。
自分の手で、自分の夢を壊してしまう。
織はそれがイヤで、黒桐幹也というユメのカタチを壊したくなくて、シキに幸せになってもらいたくて、たった一つの方法を選んだんだ。
――何より。自分自身のユメを守るために。
やっと手に入れた彼の幸福。
それを、ずっと夢見ていられるようにって。
「……だからせめて。あいつには、織を覚えていてほしい。……今の私は、織の見る夢だから」
だから、私は無意識に織の言葉を使っていた。こうしている私を、まわりのみんなが織として見てくれるようにと。
……雨はやまない。
私の意識はまだ朦朧《もうろう》としている。
ぐらりと視界がゆがんで、逆らえない眠気が襲ってくる。
その前に、少しだけ。
私は織というもうひとりの自分の、最後の心を思い出して、忘れることにした。
――――ありがとう。君を殺す事なんて、できない。
……少し、悲しい。殺す事でしか誰かと関われなかった織は、その言葉を、伝えたい相手に伝える事さえできなかった。
殺人考察/5
◇
……それでも、ボクは安心できない。
ひとりきりは不安すぎる。
ボクは、ボクと同じ狂人の仲間が必要だと気がついた。
◇
二月十一日、木曜日。
早朝から降りはじめた雨の中、僕は橙子さんの事務所に顔を出した。
仕事に戻ろうとしたのではなく、港に行く前に橙子さんに相談しなくちゃいけない事があったからだ。
僕が白純先輩について語ると、橙子さんはつまらなそうな顔でふぅん、と相づちをうっただけだった。
「どう思います、所長?」
式の事も先輩の事も自分は無関係だ、という態度にむっとして睨みつけると、橙子さんは眼鏡を外してこちらを睨み返してくる。
「どう思うも何もない。起源を起こされたのが四年も前なら、白純里緒は処置なしだ。もう完全に別物に変わっているだろう」
言いつつ、橙子さんは煙草を口にくわえた。そのまま片手で頬を押さえて、ふむ、と物思いにふけったりする。
「だが起源覚醒者とはね。荒耶のヤツもつまらない置き土産を残したもんだ。素人にアレを行なうと決まって人格が崩壊する。白純里緒の二面性は当然といえば当然の結果だろう」
「所長、その、起源って何の事なんですか? 先輩は本能とか言ってましたけど、そんなものが人の意志を薄れさせるなんて、ないと思います」
かねてからの疑問を口にすると、橙子さんはそうだね、と頷《うなず》いて煙草を指に移した。
「しょせん一個人の深層意識が肉体そのものを変革させる事はありえない。蒼崎橙子しかり黒桐幹也しかり、せいぜい二十年程度の年月で育てた意識はさ、肉体っていう、より強固な〝自分?には敵わないのさ。人格を司るのが脳髄ならば、個人を表すのが肉体だ。人間は脳だけあれば肉体はいらない、なんて最近|流行《はやり》の説はね、結局自分自身で人格というものを蔑《ないがし》ろにしてるんだ。ま、そんな事はどうでもいいか」
……どうも、今の話は脱線だったらしい。橙子さんは少しだけ考えこんでから、またおかしな事を尋ねてきた。
「黒桐。君は前世というものを信じるか?」
「……前世って、その、自分が生まれる前は動物だった、とかいう話ですか? ……そうですね、僕はどっちつかずです。否定はしませんけど、肯定もしません」
「黒桐らしい回答だな、まったく。だがまあ、ここではあると仮定しろ。……科学的にみても転生論はあるんだ。全ての分子は流転するだろう? 精神や魂、生命という観念を取り除けば全ての物は何かに生まれ変わっている。……起源というのは、その無秩序な法則を遡《さかのぼ》る術なんだ。魔術師の中にはね、前世の人格を自己に愚依させてその能力を行使する輩《やから》もいる。自分が生まれる前の自分の能力を、時代を超えて引き継ごうという試みだ。
起源というのは、それよりさらに上のモノを指す。前世があるのなら、さらにまたその前世があるのは道理だろう? 前世が人でなく、さらにその前世は物でもないのに、脈々と繋がる存在の糸。キミという魂の原点、キミという存在が創《はじ》まった場所は確かにあるんだ。だがその場所には生命なんて物は存在しない。あるのはなんらかの始まりの因《もと》、物事を決定づける何らかの方向性だけなんだ。
全ての元である渦の中で、閃く稲光《いなびかり》のように発生する何らかの方向性。〝……をする?という意味づけが流れて、その流れに適った物質を象《かたど》り、時としてソレは人間になる。始まりの因で発生した物事の方向性というのかな。根元の渦という混沌で生じた〝……をする?〝……をしなければならない?という衝動。結局、全てのカタチあるものがそうであるように仕組んでいる絶対命令。