この混沌衝動をね、魔術では起源という。
まあ、単純にいえば本能という事になるだろうな。ほら、たとえば子供にしか欲情できないっていう人間がいるだろ? 原因は幼児体験によるものとか言われるが、子供の頃に体験した程度で成人の意識に変革は起こらない。アレはさ、生まれる前からそうなんだ。魂には起源という鋳型《い が た》がある。我々はわかっていても、存在の因となる方向性に逆らう事だけは出来ないんだよ」
なんか最後にものすごい暴論を言って、橙子さんは話を切った。
……けど納得できる部分もある。
僕らは自分自身がやりたくない行動でも、欲望に逆らえずに行なってしまう。
人問でも、植物でも、鉱物でも、その方向性とやらは定まっていて、結局はそれに縛られながら生きている、と橙子さんは言った。
「まあ普段は決して知覚できない物だよ。ただ中には生まれながらにして起源に近い人間もいる。超能力者と同じでね、そういった輩ほど秀でた能力を持っていて、同時に社会から外れやすい。
ちなみに死を求める式の起源は虚無で、律から外れようとする鮮花は禁忌という所か。式は近すぎるからその衝動に引きずられているが、鮮花はいたって普通だろう? 起源はあくまで因であって、個人を支配するものではないからだ。
――何かの弾みで、それを自覚しないかぎりは」
橙子さんは鋭い瞳でこちらを見据《みす》えた。
彼女の言いたい事は、僕だって分かってる。
「……つまり、自覚するとその方向に負けてしまうんですね?」
「その通りだ。存在の始まりから今までを積み重ねてきた起源という方向性に、白純里緒という十七年足らずの方向性は太刀打ちできない。彼は自らの衝動を繰り返すしかない。
食べる事、とはまた随分と特異な衝動《方向性》だがね。荒耶が目をつけたのも頷ける。いいかい、黒桐。食べるという起源を持つのなら、白純里緒の前世は悉《ことごと》く捕食する側の生物だったのだろう。起源を覚醒したモノは重ねてきた前世を手に入れるんだ。白純里緒は、一個の人間ではなく複数の獣とみたほうがいい。白純里緒という人格が残っているうちはいいが、それが消えれば本当に〝獣の群体?に変貌するぞ」
それはそれで興味深いか、なんて事を呟いて橙子さんは皮肉げに笑った。
この人の冷酷さはいつもの事だけど、今日の僕はそれを黙って見過ごせない。
「――原因はそうしてしまった魔術師でしょう。先輩がひとりだったら、こんな事には――」
「そうかな。起源を覚醒させる術はね、術者だけではできないんだ。起源を持つ者が自覚して、はじめてそれを呼び起こしてやれる。術者と被験者が合意しなければ出来ない秘術なんだよ、起源覚醒はさ。
白純里緒は自分の意志でそれを選んだんだ。彼は自らの意志でケモノになって、自らの意志で人を殺している。奪ってしまった命は返らない。よしんば白純里緒を戻せたところで、手遅れだ。
白純里緒本人は自分で自分が抑えられないと言っていたがね、そんな事はないんだよ。
……どうも君は白純里緒に肩入れしているようだから忠告しておこう。いいか、起源覚醒者はたしかに自己の人格を失ってしまう。しかしそれが二つに分かれる事はないんだ。白純里緒という意志が残っているのなら、残っているうちは衝動を抑えられる。人格は二重人格のようにスイッチしない。彼は自分の意志で人を食べているんだぞ、黒桐。故に、アレを君の知っている白純里緒と同一視するのは愚考だ。白純里緒は君を騙して、同情を惹《ひ》いているにすぎない」
命に関わる悪戯をした生徒を叱るように、橙子さんは厳しい瞳をする。
滅多に人の心配をしない人と思っていただけに、僕は魔術師……橙子さんに対する毒気を少しだけ抜かれてしまった。
納得のいかない顔をする僕を見て、榿子さんは意外そうに顔をしかめる。
「……驚かないのか黒桐? 白純里緒は衝動に負けて人食いをしているんじゃないと言ったんだぞ、私は」
「え……? いえ、ショックですよ、はい」
淡々とした口調で答えると、橙子さんはつまらなそうに眉をひそめた。
「結局、橙子さんでも白純先輩を助ける事はできないんですね?」
「まあな、アレは魂というカタチを追い求めて根源に達しようとした男が得た、果ての技術だ。私の専門は肉体面でね、魂に関してはお手上げだよ」
「……そうですか。でも先輩の人格が残っている今なら、何かしてあげられるかもしれないんですよね?」
「まあ、心安らかにしてやる事ぐらいはできるだろう。だがそんな事に意味はないぞ。今まで白純里緒でいられたほうが奇跡なんだ。明日にでも変わってしまうかもしれないし……とうの昔に、アレは人問である事を放棄しているのかもしれん」
……そっか。でも、そうだとしても、あの人は助けてくれって言ったんだ。もう、ずっと前から白純里緒じゃない人格になっていても、助けてほしいと言ったのは本当なんだから――。
「……まったく、おまえは分かりやすいな黒桐。まあ止めはせんがね、相手は殺人鬼だぞ。そんなモノは式に任せておけばいいだろうに。四年前の事件にカタをつけるために殺人鬼を追っているんだろう、式は」
言われて、僕は顔を伏せた。
……四年前の事件に決着をつける。そう言えば聞こえはいいけれど、彼女の様子はそう単純なものではなかった。
僕は一度、式を目の前で失っている。
あの時の式と昨夜の電話の式が似通っていたって事もわかってる。
四年間の時と変わらない。
殺人鬼が現れて、式は自分も同じモノだと口にして、本当にそちらに傾斜しそうになる。
……一体彼女は、何のために、人を殺したいと思うのだろう?
「橙子さん、人間が人間を殺す理由はなんですか」
堪《こら》えきれずに、そんな質問をした。
橙子さんは椅子の背にもたれかかって、一つの答えを口にする。
「相手に抱く感情が、自己の容量を超えてしまった時だろう。自分がまかないきれる感情の量は決まっている。入る器が大きい人間もいれば、極端に小さい人間もいる。
恋愛であれ憎悪であれ、その感情が自己の器から溢れてしまうと、その分が苦痛にすげ替えられるんだ。そうなると相手の存在そのものに耐えられなくなる。耐えられないのならどうするのか。それを何らかの手段で消してしまうしかない。忘却したり離れたり、とにかく自分の中から遠ざける。その手段が極端になると殺人というものになるんだ。自分を守るためだから道徳は消え、仮初《かりそ》めの正当性をも手に入れられる」
……自分ではどうする事もできなくなった憎しみ。そのための復讐ではなく、その感情から自分を守るための行為が殺人……?
つまり耐えられない苦痛が、殺意にすげ替えられるというのか。
「でも、無関係に人を殺す人もいます」
「それは殺人じゃない。殺戮《さつりく》だよ。人が互いの尊厳と過去を秤《はかり》にかけてどちらかを消去した場合にのみ、それは殺人となる。人を殺した、という意味も罪も背負うんだ。だが殺戮は違う。殺された側は人だが、殺した側には人としての尊厳がない。あとの意味も罪もない。事故は、罪そのものを背負ってはくれないだろう?」
……人を殺すというコトは。
自分自身も、殺すというコト。
「じゃあ、殺人鬼ってなんですか」
「言葉通りじゃないか。人を殺す鬼なんだから、そんなのは自然災害と同じだよ。巻き込まれるほうに運がない」
……それと同じ意味合いの台詞を、式はたしかに言っていた。
式と別れる事となった十日前の夜。ニュースを見て、式は殺人鬼は人を殺していないと教えてくれた。
彼女は言った。
人間は一生に一人しか殺せないって。
僕は言った。
人は一生に一人分の死しか背負えないんだろって。
「思い――出した」
……そう、二つの意味合いは同じなんだ――それは以前、彼女が僕に話してくれた式の祖父の遺言なんだから。
式はそれをずっと守って大切にしていたのに、なくしてしまおうとしている。
僕と殺人鬼が、彼女をそこに追い込んでしまったんだ。
式が僕にどんな感情を抱いたかはわからない。
けどそれは彼女を苦しめて、式は僕を殺すしかなくなってしまった。
けど、殺人の痛みを知っている式は誰も殺せない。
それなら――何の痛みも意味も背負わない〝殺人鬼?になればいい、と彼女は思ったのか。
そして、彼女の周囲にはその殺人鬼が跋扈《ばっこ》していた。
殺人鬼は殺人鬼で――両儀式を仲間にしたかったから。
「――お邪魔しました」
椅子《いす》から立ちあがって、僕は言った。
橙子《とうこ》さんは不満そうに顔をしかめる。
「なんだ、もう終わりか。外は雨だぞ、もう少しゆっくりしていけばいい」
「はい。でも、行かないと」
おじぎをして歩きだす。
急ぐ背中が、また明日、というさよならを聞いていた。
/5
…
懐かしい、夢を見た。
〝人は、一生にかならず一度は人を殺す?
そう、なの?
〝そうだよ。自分自身を最後に死なせるために、私たちには一度だけ、その権利があるんだ?
じぶんの、ため?
〝そうとも。人はね、一人分しか人生の価値を受け持てないんだ。だからみんな、最後まで辿り着けなかった人生を許してあげられるように、死を尊ぶんだ。命はみんな等価値だからね。自分の命だからって、自分の物ではないんだよ?
じゃあ、おじいちゃんは?
〝おじいちゃんはだめかな。もう何人も殺してしまった。殺してしまった彼らの死を受け持っているから、自分の死は受け持てない。おじいちゃんの死は、誰にも受け持ってもらえないまま、空っぽのところに行く。
それは、とても淋しい事だ?
いちどしか、だめなの?
〝ああ。人を殺せるのは一度だけだ。そこから先はもう意味のない事になる。たった一度きりの死は、大切なものなんだ。誰かを殺してそれを使いきった者は、永遠に、自分を殺してあげることができない。
人問として、死ねないんだ?
……おじいちゃん、苦しそうだよ?
〝うん、これでおわかれだ。さよなら、シキ。せめてキミが、穏やかな死を迎えられればいいんだが?
……おじい、ちゃん?
ねえおじいちゃん、どうしたの? どうしてそんなに、淋しそうな顔をして死んでるの?
ねえ、おじいちゃんってば――。
…
ぴちゃり、と音がした。
外で降りしきる雨の音とは違う、粘つくような厭《いや》な音。
私は夢から覚めて瞼《まぶた》をあける。
そこは草の茂った倉庫の中で、私は手首を手錠で繋がれたまま、コンクリートの上に投げ出されている。
……状況は、さっきと少ししか変わっていない。
体のけだるさは薄れはじめていて、目の前には私に似せた男がいた。
しらずみ――りお。
横になった姿勢のまま、私はその相手を確認する。
ソレは、口元に醜悪な笑みをうかべて私を見下ろした。
「もうお目覚めとはね、せっかちな姫さまだこと」
言って白純はしゃがみこむ。その手には注射器があった。
「あんたにはクスリじゃ甘かったみたいだな。初めから、こっちを使っておけばよかった」
白純里緒は私の腕を引っ張ると、注射針を刺した。
クスリで麻痺している私には、その痛みさえ感じられない。
全身に力が入らず、両手を縛られている私は、ただこの男を睨むことしかできなかった。
「いいね、その目付き。やっぱり両儀式はそうじゃなくっちゃいけない。なに、今のはただの筋肉弛緩剤ってヤツだ。あと少しばかり、あんたには大人しくしてもらいたいんでね」
白純里緒はコンクリートに座りこんで、私の体を舐めるように観察する。
私はただ、窓の外の雨だけを見つめていた。
「……ああ、長かったぜ、この三年間。待ち続けた俺の気持ちがさ、あんたにわかればいいんだが」
ソレが何かを口にした。
なのに私は白純里緒に関心を持てず、相手もそれを承知で独り言らしきものを続けていく。
「……荒耶に言わせれば、俺は失敗だったらしい。正反対すぎた、なんてハズれた事を言ってやがった。俺とおまえがさ:どうして正反対だっていうんだよ。なあ両儀? 俺たちはこんなにも似たもの同士だ。自分が世間から外れちまってるって分かっているだろ? なら狂っている者同士、仲良くやっていかなきゃいけない」
……私は答えない。
本当に。無視しているわけでもなんでもなくて、両儀式は、まったく別の誰かの事を考えていたから。
ソレはくだらない独白を続ける。
「……あんたが事故っちまってから、俺はおあずけ状態だった。あんたを壊すのは予定していた二人にやらせるから、俺は邪魔にならないよう大人しくしてろだとさ……。人を利用しておいて、使えなくなったらポイだ。あったまくるだろ? だが俺じゃあ荒耶には太刀打ちできねえ。言われた通りあんたから遠ざかっているしかなかった。な、だからそんなに拗《す》ねるなよ。なにも忘れていたわけじゃないんだ。
……でもさあ、俺にはわかってた。荒耶には両儀式は追い詰められない。あんたを物にできるのは同じ狂人の俺だけだ。……ああ、きっとこの日がくるって、わかってたんだ、俺は」
ソレが私に近寄ってくる。
犬のように手足をついて、ソレは両儀式の足に口づけした。
ぴちゃり、と音がした。
粘つく音、湿った感覚。
ざらついた舌が、くるぶしから這いあがって――感覚に、ふるえそうになる。
「――――」
声なんて、あげない。
灰色の倉庫に響くのは、ソレの激しい息遣いだけだった。
私の体は動かないくせに、感覚だけが鋭敏になっている。
熱帯夜の中にいるように、とめどなく発汗した。
体は水を被ったみたいに、全身が汗に溶けていく。
「――――」
足元、着物の裾《すそ》が引き千切られる。
白純里緒というソレは、熱い息を吐いて、ただこの行為に埋没していた。
唾液にまみれた舌が、膝からゆっくりと上がってくる。
腿から内側にスウィープして、丹念に舐めまわす。
粘つく音は執拗に繰り返された。
飴のような汁が、肌にまとわりついて気持ち悪い。
「――――」
……声を、殺す。
私の肌に吸いつくヒルは、気がとおくなるほど鈍い動きで、足から腰へと上がってくる。
舌は着物の裾も乱さず、布の上から這いずった。
ずるり。ぴちゃり。
粘つく音は、ただ、不快だ。
際限なくしたたる唾液は、服の上からでも肌を濡らしていく。
……手錠で繋がれた両腕がいたい。
ケモノの舌は私の胸の形を丹念になぞって、首筋にまで到達した。
頬から目までを、ぞろりと舐めあげる。
はあはあという息遣いが、目の前で繰り返された。
唾液にまみれた自分の体と、獣臭いソレの吐息が鼻について、吐きそうになる。
「――駄犬」
ただ、そう罵倒した。
ソレは愉しそうに笑って、私の首筋に噛みついた。
「あ――」
クスリによって鋭敏になった感覚は、激しかった。
脳髄に刃物が侵入したような鋭さに声を漏らす。
それで満足したのか、白純里緒は口を退《ひ》いた。
首筋にはケモノの歯形。
ぬめりと首筋から伝っていく血の感覚さえ、淫らだ。
「……まだだ、まだ、喰うわけにはいかない。あんたは元に戻ってないんだから」
呟いて、ソレは立ち上がる。
「白純里緒は、あんたを愛してるから、大切に扱うんだ。
……喰う事が俺の起源だった。その衝動が起きれば、俺は手当たり次第、まわりの人間を食べた。けど、それで消え去るはずだった白純里緒はここにいる。俺は衝動なんかに負けてない。あんたっていう仲間がいるから、俺は白純里緒を許せたんだ」
自らの欲望から逃れるように、白純里緒は私から離れていく。
「……なのに! あんたは昨日の夜も俺を殺せなかった。結局さ、まだ一人も満足に殺せてない。荒耶みたいな人間じゃない相手をやってもダメなんだ。あんたは俺以上の殺人鬼なのに、どうして――ただの一度も、人間を殺してないんだ!」
荒い息遣いもそのままで、白純里緒は横たわる私を見つめる。
「そんなんじゃ困るんだよ……-! 俺は仲間がいないとだめなんだ。安心できない。いつも、不安なんだ! あんたが……あんただけが俺の仲間だと思ってたのに、ひどい裏切りだ。このままじゃ、白純里緒は起源に喰われちまうじゃないか!」
……なんて、愚かな勘違い。
白純里緒と名乗るソレは、おぼつかない足取りで草むらの中に消えていく。
「……待っていてくれ。すぐに――あんたを縛り付けてる原因を亡くしてやるから」
そんな呟きだけが聞こえた。
私はその言葉の意味が分かっているのに、どうしても、それが自分にとってどんな結果を生むのかを、考える事ができなかった。
: ――きっと、これはクスリのせい。
私の頭はうろんなままで、とりとめのないコトばかり考えている。
窓ガラスに跳ね返る雨滴の回数とか、明日の自分がどうしているかなんて、意味のないコトを。
だいたい、私はどうして殺人鬼を探そうとしたんだろう?
色々あって、いちばん初めの理由を忘れてしまった。
私は――たしか。
たしか、安心したくて、外に飛び出したんだっけ。
再来した殺人事件。四年前の記憶があやふやな私。
……また、あいつを殺してしまうかもしれない怖れ。
「――そっか。殺人鬼が本当にいるのなら、私は、殺人鬼じゃないんだもの」
呟いて、泣きそうになった。
私は、戻りたくて。
目覚めてから半年間、あいつと過ごした生活にいたくて。
私は普通に生きていけるって証明したくて、殺人鬼っていう相手と決着をつけなくちゃいけなかったんだ。
なのに、私はそれを見失ってしまった。
ずっと路地裏に潜んで、殺人鬼を追って、自分の中にある殺人衝動を認めてしまったんだ。
そうして自分でもわからないままに白純里緒を追って、こんなふうに縛られてる。
以前の私なら――三年前の式なら、殺人鬼が再来しても気にも留めなかっただろう。
……私は、弱くなった。
ひとり横になって、白純里緒の唾液にまみれた体を嫌悪する。
外は雨。
私はひどく愚かで無様だな、と思った。
ほんとうに許せない。あたまにきて、苛ついて、この原因がいるのなら文句のひとつも言ってやりたかった。
だって、私はあんまりわるくない。
私をこんなにした責任は、あいつにあるんだから。
……そう。
全部あいつのせいなんだ。
あいつのせいでこうなった。
あいつがいたから弱くなった。
あいつがいなければこんなわたしじゃなかった。
だから、
あいつがいないと、わたしは、生きてさえいけないんだ――。
「……ほんと、莫迦《ばか》みたい」
クスリの効き目で、あたまはずっとうろんなまま。
息苦しいほど熱くて、汗は涙みたいに流れている。
こんな姿、誰かに見られたら恥ずかしくて死んでしまう。
……だから、早く行かないと。
いつまでもこんな所でこんな事をしてる訳にはいかない。
ここは、私の居たかった場所じゃないんだ。
――早く、帰らなくっちゃ。
自分の家、私の帰るべきあの場所へ。
でも不思議な事に。
そう思う私が心に描いたものは両儀の屋敷じゃなくて、黒桐幹也が待つ、なんでもない平凡なアパートだったんだ――。
殺人考察/6
――最後に。
僕は、その倉庫に辿り着いた。
橙子さんの事務所を出てから二時間後、港にある無人の倉庫に。そこが白純先輩の本当の隠れ家で、クスリを隠している場所だという事は、橙子さんの所に行く前に調べがついていた。
雨の中、倉庫街の中でも一際大きいそこへ近付く。
倉庫の正面にある扉は閉ざされていて、まず入れそうにない。自分より何倍も大きい鉄の扉をドライバーで開けられるはずもなく、僕はぐるりと倉庫の裏側へ回ってみた。
……倉庫の壁は、隙間なくガラス窓が設けられている。そこから中に入れればいいのだけれど、あいにくと窓ガラスがあるのは地上五メートルほどの位置だ。梯子《はしご》でもなければ触れる事もできない。
倉庫は見た目より大きくて、学校の体育館ほどもあった。
なら必ず裏ロがあるはずだ、と歩いていくと、すぐにそれは見つかった。
壁に、普通の部屋の扉みたいな入り口がある。
足音をたてずに近寄ってノブを回す。カギはかかっておらず、そのまま中に滑り込む。
……そこは物置らしく、狭い空間だった。
すぐ前に倉庫の中へと続く扉が見える。
そこに歩み寄った時、がん、という音がした。
「――痛《つ》」
頭を押さえる。
それが自分が後ろから殴られた音だって気がつくより先に、体が地面に倒れこんでいた。
…
ごくり、と喉が何かを嚥下《えんか》した。
真っ暗だった視界が少しだけ利くようになって、僕は倒れこんだ頭を起こした。
……場所はそのまま。時間だって数分と経っていないだろう。
ただ寒くて、体が小刻みに震えている。
立ち上がろうとして、片腕がズキリと痛んだ。
左腕の肘の部分がおかしな方向に曲がっている。
それだけじゃなくて、両足の膝の裏も刃物で切られていた。
……そこは以前、大きな傷を負ってしまって、今でも走ると痛むところ。そこが切られていて、起きあがろうとすると気を失いそうなほど痛んだ。
けど、このまま横になっているなら痛みはない。
傷は塞がっていて出血もないし。加えて曲がっている腕の骨の痛みもなくて、今はまだ辛くはなかった。
異常といえば、体が膨らんでいるような感覚だけだ。
…………さっき呑んだのはクスリかな。
そう、たとえばモルヒネみたいな。でも呑んですぐに効用を発揮する痛み止めなんて、僕は知らない。
そんな都合のいい、魔術みたいなクスリなんて。
「……………」
部屋を見渡すと、壁ぎわに誰かがいた。
積み上げられた瓦礫《がれき》の上で膝を立てて座っている。
「悪いな。男を縛る趣味はなくてね、そういう方法しかとらなかった」
言って、彼は僕の側まで歩み寄ってくる。
こっちの頭の中はクスリで真っ白だった。熱くて、見えている光景さえ白く塗り潰されている。それでも、彼が誰であるかははっきりしていた。
「白純――先輩」
「こりないヤツだな、黒桐。俺を捜すなって言ったじゃないか。だからこんなコトになる。……だけどまあ、嬉しくもあるんだ。それでもおまえは俺を捜してくれた。やっぱりおまえは白純里緒の味方だってわかったからさ。
……ああ、そうだ。両儀にくれてやるのはもったいない。なんで気がつかなかったんだろう。おまえが、俺の仲間になってくれれば良かったんだって」
先輩の口調は、以前の彼のものとは違う。
別人のような口調で、権高《けんだか》に物を言う。
: ……けれど、僕にはそれが芝居じみた物にしか聞き取れなかった。
「……仲間は、作れませんよ」
口を開けた瞬間、重い痛みに舌が鈍った。
どうやら痛みはないだけで、僕の体は大変な事になっているらしい。声をあげるたびに頭が焼き切れそうになるのを堪《こら》えて、僕は言葉を続けた。
「だって、先輩のクスリは、一度も成功しなかったじゃないですか」
部屋の空気が凍りつく。
白純里緒は、ぎり、と歯を鳴らして僕を見た。
「……まさかな。そこまでわかっているとは思わなかったよ、黒桐。ああ、その通りだとも。俺は別にさ、馬鹿どもを喜ばす為にクスリを配ってたんじゃない。たしかに、ついその場の気分で喰っちまった時の口封じにはなったさ。馬鹿どもにとっちゃ、俺はタダ同然でクスリを売るヒーローだからな。たいていの怪しい行動にだって目をつむってくれた。ま、そんなのは二次的な事にすぎないんだが」
肩をすくめて、彼は言葉を濁した。
その続きを口にしないのなら、僕が言うしかない。
「……あなたが売っていたのは、クスリじゃないです」
白純里緒は顔をしかめてため息をつく。
「ああ、おまえの言うとおりだ。俺はさ、俺と同じヤツがほしかった。だがそんなヤツは両儀以外にいやしない。なら人工的に作るしかないだろ? この倉庫に植えた大麻は荒耶から貰ったものでね、少しばかり他の大麻とは趣《おもむき》が違う。依存性はなく耐性もつかないが、こいつは体内で分解されない毒なんだ。何十回とやれば理性をキレイさっぱり破壊し
てくれるっていう、とびっきりハイな薬さ」
「……そうして何十回と服用させた相手に、ブラッドチップをやらせたんですか」
「見込みのある連中には、の間違いだ。アレはさ、俺の血で育てた特別製なんだ。起源を覚醒した者は起源に縛られる。なら……そういったヤツの血はさ、もう普通の血液じゃないと思ったんだ。結果は当たらずとも遠からずだったぜ。ただのクスリにすぎないヤツもいれば、耐えきれないで死んじまうヤツもいた。
惜しいよな。あれに耐えきれていれば、きっと俺と同類になったのに。おかげで俺は、喰いたくもない死体を処理するはめになった」
「……殺したくて、殺したんじゃないって、言ったのに」
焼きつきそうな喉で、僕はばかな事を口にしていた。
心外だな、と白純里緒は顔を曇らせる。
「クスリで死ぬのは俺のせいじゃない。欲しがったのは奴らだし、耐えきれなかったのも奴らの責任だ。
……ま、同情はしてるよ。俺みたいに特別だったら、死ぬ事はなかったんだろうから」
……あたまが、くらくらする。
さっき呑まされたクスリが、意識を、ボロボロにしていくみたいだ。
「でもさ、三年問も続けたっていうのに、成功したヤツはいなかった。俺は諦めかけた。その時さ、両儀が目を覚ましたのは。おまえも喜んだだろうがな、俺だって嬉しかった。そうだろ、相棒? そういった意味じゃあ、白純里緒と黒桐幹也は仲間だった、何故なら――」
白純里緒はにやりと笑う。
僕は、彼を見据える事しかできなかった。
「そうだ。三年前、彼女を壊したのはおまえと俺だ。おまえが式の内面を、俺が周囲を揺さぶった」
……ああ、やっぱり、そういう事だったんだ。
僕と白純里緒、どちらかが欠けていれば、式はあんな事にはならなかった。……彼の言う通り。そういう意味なら、彼と僕は最高のコンビネーションをみせたのだろう。
「あれは簡単だったよ、黒桐。夜に出歩く両儀の性癖は実に都合がよかった。俺はあいつを尾《つ》けて、その行く先々で人を殺しておけばいいだけだったんだからさ! 初めは姿を見られちまったが、回数をこなしていくたびに手慣れてきた。あの日おまえと別れた後、大急ぎで両儀の屋敷まで先回りしたヤツなんか完壁な出来だっただろ? アレはさ、キミに見せられると思って腕によりをかけたものだからね」
白純里緒の言葉は、よく聞き取れない。呼吸がうまくできなくて、心臓に火がついたみたいだ。
……:しらなかった。息をするのって、こんなにも、難しかったんだ。
「……月曜日の四人殺しも、あなたですね」
なのに、僕は会話をする。
彼はああ、と頷いた。
「歯痒《はがゆ》かったぜ、あれは。わざわざ手を回して襲わせたのに、両儀は連中を動けなくするだけでどうしても一線を越えなかった。おかげで後始末が俺にまわってきちまったんだが……アレは、それなりに効果があったみたいだな」
ふいに、白純里緒は壁ぎわに戻っていった。
「そろそろ時間だ。苦しませたな、幹也。大丈夫、すぐに楽になれるよ、キミなら」
瓦礫の上にある物……ナイフと、何か棒のような物を手にする。……そのナイフは、式の物だ。
「……まさか、式を」
「いや。彼女には何もしてないよ。ボクに必要なのはキミのほうだってわかったからね。ああ、彼女の事は、もういいんだ。隣の倉庫で眠ってもらっているけど、明日にでもお帰り願おう」
彼は片腕で器用にその二つを持って、もう一度こちらまでやってきた。
「じゃあはじめようか。大丈夫、心配する事はない。今まで失敗した理由は、ただクスリを与えただけだからだ。荒耶も言ってた。起源を起こすのは、お互いの同意がなければ成し得ないって。……そう、だから今回は成功する。キミが望めば全てが手に入る。絶対に失敗なんかしない。特別になれるんだよ、幹也」
……どこか思い詰めたように、白純里緒は語る。
僕は、ただ首を横に振った。
「特別って、自分が、消えてしまうのに……? あなたは、それを嫌がっていたじゃないですか」
「ばかだな、あんな言葉を信じたのか。嫌なわけがないだろう? ボクは起源を覚醒したおかげで特別になれたんだ。力も強くなったし、普通の人間じゃあとうてい出来ない事も出来るようになった。
誰にも負けないし、弱いなんて言わせない。
やりたい事をやって、生きたいように生きている。
こんなに娯《たの》しいこと――四年前の白純里緒には出来なかった事だ」
……特別でいたい。人より優れていたい。それが彼の望みか。でもそれは、誰もが抱いてる願望なんだろう。この人に罪があるとしたら、それはそんな事じゃなくて――。
「もちろん自分が消えるなんて事もないよ。ボクは白純里緒のままだ。衝動は抑えられるんだよ、幹也。怖れることなんかない。だって、ボクは食べたいから食べていただけなんだ。起源なんかの意志じゃない。ボクはボクの意志で、人を食べる事を望んだのさ」
〝……白純里緒は同情を惹くために、君を騙しているにすぎない?
そう、橙子さんは言っていた。
そんなの――――。
「……なんだ、驚かないのか。キミの呆然とする顔が見たかったのに。おかしいな。どうして驚かないんだ、幹也」
白純里緒は不思議そうに尋ねる。
だって、そんなの――――。
「初めから、知っていましたよ」
「――え?」
呆然としたのは、彼のほうだった。
……そう、そんなコト、初めからわかってた。
あの日記を読んだ時から、全部わかってた。
この人がとうの昔に人間である事を放棄している事も、白純里緒という人間がいなくなってしまっている事も。
それでも。助けてほしいという言葉は、四年前の白純里緒が残した言葉だったから。
せめて僕だけは、彼を救ってあげたかったのに。
「……殺人を犯して。その罪から逃れるためにあなたは自分を捨てた。むかし、両儀式を愛していた白純里緒は、自分を正当化するためだけに式を求めた。そこにもう愛情はないんです。あなたは――」
「うるさい!」
大きな声がして、白純里緒は僕の体を蹴りつけた。
幸い、痛みはとうに麻痒して感じない。
「ボクの事なんかいい。今は、キミの事を話してるんだから」
苛立たしげに言って、白純里緒はナイフを振るう。
彼は式のナイフで棒の先を小指ほどの大きさに切ると、それを自分の口に含んだ。
「連続投与は身体に悪いんだが、この場合は仕方がない。キミは少し強情のようだから」
乱暴に髪を掴まれて顔を上げさせられた。
そのまま白純里緒は唇を重ねてきた。
拒む舌を押しのけて、咀噛《そしゃく》したモノを口移しで呑ませようとする。
……逆らえず、僕はそれを呑み下してしまった。
「これで、みんなうまくいく」
口を離して、白純里緒は穏やかな顔で言った。
「今ので十回分以上の投与量になる。……身体は耐えられないだろうが、そのまえにコレを呑め。自分の意志で、今までの自分を捨てるんだ、幹也」
彼は赤い紙切れを取り出す。
……目が霞《かす》んで、よく見えない。
「なにをしてるんだ。特別になれるんだぞ? ありきたりの、どこにでもあるような普通の生活から解放されるんだ! こんなにも楽しいのに、なんだって言う事を聞いてくれないんだ。呑むんだ、幹也。キミでなければ、ボクはイヤなんだ!」