「……待った。なんで君がそんな事知ってるんだ」
「だから有名だって言ったろ。先週の土曜、おまえと両儀が下駄箱で雨宿りしてたって話は今日の朝だけで知れ渡ってる。相手が両儀だからな、こんなつまらない事でも話題性は溢れてるってわけだ」
はあ、と僕は天を仰いだ。せめてこの話が式の耳に届かない事を祈るだけだ。
「ここって進学校なんだよな。ちょっと不安になってきた」
「先輩の話じゃ就職率はいいってよ」
……ますますこの私立高の在り方に疑問を深めてしまう。
「しっかしなんだよなあ。なんだって両儀なんだよ、おまえ。どう見たってイメージ合わねぇだろ」
似たような事は先輩にも言われた気がする。
それは自分にはもっと大人しい子が合っているのに、という意見だったけれど、これもまた同じ意味なんだろう。
……なんだか、妙に頭にきた。
「式はそう、おっかない子じゃないよ」
つい尖った声で口にしてしまった。
学人がにやりと笑う。……尻尾を出したな、というその露骨な笑い顔。
「誰が友達以外の何者でもない、だ。ありゃあ|剛《こわ》い女だぜ、間違いなくな。それが判らないってこたぁ、もういかれてるって証拠じゃねえの?」
こわい、とは硬いという意味なんだろう。
たぶんそれはその通りなんだろうけど、学人の言葉に頷くのは癪だった。
「そんなの、分かってる」
「んじゃどこかいいんだ。見てくれか?」
……学人の言葉には遠慮がない。
たしかに式は美人だ。
けれどそんな事ではなく、彼女は僕の気を惹く。
式はいつも怪我をしそうな感じだった。
実際は怪我も傷も負わないぐらいしっかりしているんだけど、いつも、いつも怪我をしてしまいそうな危うさがある。
それが、たぶん放っておけない。
あの子が傷つく姿なんて見たくはない。
「学人は知らないだけだ。式だって可愛いところはある。……そうだな、動物に例えるならうさぎになるぐらい可愛いよ」
……自分で言って、ちょっと後悔した。
「馬鹿いうな、ありゃあ猫科だって。それとも|猛禽《もうきん》のたぐいかね。兎は遠いね、遠すぎる。両儀が淋しいからって死ぬタマかよ」
学人は大笑いする。
でも、式の人に懐かない所とか、遠くからこっちをじーっと見ている姿は似ていると思うけど。
……まあ、それが僕一人の錯覚だというのなら、それはそれで望むところだ。
「もういい。学人とは今後一切女の子の話はしないからな」
絶縁状を叩きつけると、学人は悪い悪い、と笑うのをやめた。
「そうかもな。案外、うさぎもあってるぜ」
「学人。あからさまな同意は嫌味だよ」
「そうじゃねえよ。うさぎだって無害じゃないなって思い出した。世の中にゃ、こっちの運が悪ければ一撃で首を切り落とす兎だっているんだぜ」
真顔で言われて、少しだけ咳き込んだ。
「なんだか、すごくデタラメな兎だね、そいつ」
学人はおう、と頷く。
「そりゃあ出鱈目さ。こいつはゲームの話だからな」
2
二学期の期末試験が終わったその日、僕は信じられない物を見た。
自分の机の中に手紙が入っていたのだ。いや、そんな出来事自体に不思議はない。問題はその差出人と内容で、ぶっちゃけて言うと式からデートの誘いだった。
それは明日の休みに遊びにつれていけ、という脅迫状みたいな内容で、僕は混乱したまま家に帰り、なんだか切腹を申し付けられた侍みたいな心持ちで夜明けを待つ事となった。
◇
「よ、コクトー」
やってきた式の第一声がこれだった。
待ち合わせ場所の犬の像がある駅前にやってきた式の服装……枯葉色の着物に真っ赤な革ジャン、という出で立ちに驚くより先に、その言葉遣いに僕はくらりとした。
「待ったか。悪いな、秋隆を撤くのに手間がかかりすぎた」
さも当然のように彼女はすらすらと言葉を紡ぐ。
僕の知っている式ではない、男そのものの口調で。
何も答えられず、僕はただ彼女の姿を再確認した。
式の姿に変化はない。
小柄な体は、けれど凛とした背筋や仕草のせいか形容しがたい迫力……雅びさがある。躍動する|活人形《いきにんぎょう》のようなアンバランスさだ。ちなみに活人形とは『からくり人形』を二分する、外見のみを精巧に磨き上げたものをいう。
「なんだ、一時間程度の遅刻で怒ってるのか。あんがい狭量だな、おまえ」
黒い瞳で、式はこちらをのぞき見る。
乱暴に切り取られた、ショートカットの綺麗な黒髪。
小さい顔に大きな瞳は、そのどちらも流麗な輪郭をしている。
墨を流したかのような黒色の瞳は、黒桐幹也の姿を映しながらももっと遠くを見つめているようだ。
……思えば。初めて遇ったあの雪の日から、僕はこの遠くを見据える瞳に惹かれていた。
「え…っと、式…だよね、君」
ああ、と式は笑った。口元の端をつりあげる、どこか不敵な形で。
「それ以外の何に見えるんだ。そんな事より時間がもったいない。さ、連れていってくれ。何処に行くかはコクトーに任せる」
言って、式は強引のこちらの腕を取ると歩きだした。
……任せる、なんて言っておきながら結局のところ彼女が先導している事に、混乱している僕が気がつく筈もなかった。
とにかく色々と歩き回った。
式はあまり買い物はせず、デパート内の様々な店に入っては商品を見て回り、飽きると次の店へと移動する。
映画とか喫茶店で一息いれよう、という意見は却下された。……たしかに、こっちも今の式とそういう所にいっても面白くない。
式はよく喋った。
僕の勘違いでなければ、彼女は精神的にかなり高揚しているようだった。ハイになってる、という状況だろう。見てまわる店の大半は洋服関係だったけれど、その全てが女性専門店だという事に少しだけホッとした。
四時間ばかりで四つのデパートを征服すると流石に疲れたのか、式は食事がしたいと言い出し、右往左往して、結局ファーストフードに落ち着いた。
席につくと式は上着を脱ぐ。
場違いな着物姿の式に周囲の注目が集まるが、本人はまったく気にしていないようだった。
意を決して、僕はさっきからの疑問を問い詰める。
「式。君、普段はそういう言葉遣いなのか」
「オレの時はな。でも言葉遣いに意味なんてないだろ。こんなの、コクトーだって変えられるじゃないか」
ぱくぱくと不味そうにハンバーガーを呑み込む式。
「ま、こういう事は今までなかったんだ。今日が初めてだよ、表に出てみたのは。今までは式と同じ意見だから黙ってたけどな」
……まったく意味が分からない。
「そうだな……分かりやすく言うと二重人格って奴か。
オレが織で、普段のほうが式。織は織物の織。
ただオレと式は別人じゃない。両儀式はつねに一人だ。オレと式の違いは、たんに物事の優先順位が違うだけ。好きなものの順位がズレてるだけだと思う」
言いながら、彼女は濡らした指でペーパーに文字を書く。
細く白い指が、織と式という同じ発音の文字を作った。
「オレはコクトーと話してみたかった。それだけだ。式にとってそれは一番したい事じゃないから、オレが代わりにやってやってる。わかった?」
「まあ、言っている事は、なんとか」
心許なく返答する。
けれど、彼女の言っている事はかなり実感してもいたのだ。
二重人格うんぬんに関しては、実は思い当たる節があったからだ。僕は以前、入学する前に式と会っている。けれど彼女はそれを知らないと言った。
あの時は嫌われているから、と思ったけれど、それなら納得がいく。
いや、そんな事より。こうして半日過ごしてみて、彼女はやっぱり式以外の何者でもない。式……いや、織が言うとおり口調が違うだけで、その行動自体は式のそれと同じなのだ。話し方で感じていた違和感だって、いまではそう感じないぐらいに。
「けど、なんでそれを僕に言うんだ」
「隠し通せなくなりそうだったから」
すました顔で式はジュースを飲む。
彼女はストローに口をつけて、すぐに離した。式は冷たい物が苦手なのだ。
「白状するとさ、オレは式の破壊衝動みたいなもんなんだ。それが一番やりたい感情。だけど今まではその相手がいなかった。両儀式は、誰にも関心がなかったから」
淡々と織は言う。
その黒い、深すぎる瞳に見据えられて、僕は動くことが出来なかった。
「ああ、でも安心してくれ。こうして話をしているオレはそれでも式だ。式の意見をオレが口にしてるだけだから、暴れだしたりはしないぜ。言っただろ、口調が違うだけだって。
……でもまあ、ここんところオレとアイツはズレてるからな。こっちの言う事は話半分に聞いておいてくれ」
「……ズレてるって……その、君と式の間で言い争いとかしたりするの?」
「あのな。どうやって自分と言い争いが出来るんだ。どんな事をやったにしても、それはどっちもどこかで望んでいる事なんだ。だからお互いに文句はない。
どう足掻いたって肉体の使用権は式のものだ。オレがこうしてコクトーと会っているのも、式が会ってもいいと思ったからだぞ。……ま、こんな事を言っちまうと後になって反省するんだけどな。コクトーに会ってもいい、なんて式が口にする台詞じゃないだろ?」
そうだね、と間髪入れずに頷いてしまった。
織はおかしげに笑う。
「オレ、おまえのそういう所がいいと思う。けど式はそういうのが嫌なんだ。ズレっていうのは、こういう事」
……? それはどういう事だろう。
式は僕の考えなしの所が嫌なんだろうか。
それとも、それをいいと思う式が嫌なんだろうか。
確証はないのに、僕はそれが後者なのだと感じ取った。
「これで説明は終わり。今日はここまで」
唐突に立ち上がって、織は上着を羽織った。
「じゃあな。オレはおまえの事が気に入ったから、近いうちにまた会うよ」
革ジャンのポケットからハンバーガーの代金を出して、織という名をした式は颯爽と自動ドアの向こうに行ってしまった。
◇
織と別れて自分の街に帰ってくると、もう日は沈んでしまっていた。例の通り魔殺人のおかげで、夕方でも人通りは少なくなっている。
家に帰ると|従兄《いとこ》の|大輔《だいすけ》兄さんがやってきていた。
織との一件で疲れきっていたせいか、挨拶もおざなりにして炬燵に足をいれ、横になる。
大輔兄さんも炬燵に足を伸ばしていて、狭い空間に足を置く支配権を巡ってしばらく無言で戦った。
結果、僕は寝そべる事ができなくなって腰をあげる事となる。
「忙しいんじゃないの、大輔さん」
テーブルの上のみかんを取りながら話しかけると、大輔兄さんはまあな、とやる気なく答えてきた。「ここ三ヵ月で五人だぜ、そりゃあ忙しいさ。うちに帰る暇がないから兄貴んところで休んでるんだ。あと一時間もしたら出るよ」
大輔兄さんは警視庁捜査一課の刑事なんて事をやってる。怠け者を公言して|憚《はばか》らないこの人が、どうしてそんな不向きな仕事についているかは謎だった。
「捜査は進んでる?」
「ぼちぼちな。今までなんの手がかりもなかったが、五人目でやっと尻尾を出してくれた。まあ、かなり作為的ではあるんだがね」
そこまで口にして、大輔兄さんは炬燵の上に寝そべるように顔を突き出した。目の前に兄の真剣な顔がある。
「こっから先は部外秘だぞ。オマエも無関係じゃないから教えておく。一人目の死体状況は教えたよな」
そうして大輔兄さんは二人目、三人目と次々と死体の状況を話し始めた。
……全国の刑事さんがこんな口の軽い人でない事を祈りつつ、話に耳をかたむける。
二人目は体を縦に、股下から脳天まで真っ二つ。凶器は不明。半分に分けた死体の片方だけが壁にぴたりと張りつけられていた。
三人目は両手両足を切って、足に手を、手には足をと縫い付けてあったという。
四人目は体をバラバラにして何か文字らしき物を印してあり、五人目は首を中心に手足で卍を|象《かたど》っていたらしい。
「なんてわかりやすい異常者だ」
吐きそうになりながら感想を言うと、ああ、と大輔兄さんは同意した。
「分かりやすすぎるってのも作為的なんだけどな。幹也、おまえはどう思う?」
「……そうだね、いずれも刺殺である事に意味はないと思う。それ以外はわからないよ。ただ……」
「ただ?」
「手慣れてきたな、って。次あたりは外じゃないかも」
だよなぁ、と兄は頭を抱えた。
「動機がなく、法則性もない。今は外だけだが、こいつは家に押し入ってくるタイプだ。夜に出歩く獲物がなくなれば、余計にその色が強くなる。その辺を上の連中も覚悟してくれればいいんだがねえ」
でな、と兄は話をかえる。
「五人目の現場にな、こんな物が落ちてた」
大輔兄さんが炬燵の上に置いた物は、うちの学校の校章だった。私服高ゆえに軽視されがちだが、登校時はどこかに着用が義務付けられている。
「現場が草むらだったから犯人が気がつかなかったのか、それともわざと落としたかは判らん。だが、どちらにせよ意味はある筈だ。近いうちそっちに行く事になるかもしれんぞ」
最後に刑事の顔をして、兄は不吉な事を言った。
3
高校一年生の冬休みはあっけなく終わった。
その間にあった事といえば織と初詣に行ったぐらいで、あとは平穏無事な毎日を送っていたと思う。
三学期が始まると、式はその孤立をより強くしていた。彼女は僕にも判るほど、周囲に拒絶の意志を示していたからだ。
…
みんなが下校したのを確かめて放課後の教室に行くと、決まって織が待っていた。
彼女は何をするでもなく、窓際で外を眺めている。
僕は呼ばれたわけでもないし、誘われたわけでもない。ただ、やっぱりいつも怪我をしそうなこの女の子が放っておけなくて、意味もなく彼女に付き合う事にしていた。
冬の日没は早く、教室は夕日で真っ赤だ。
その、赤と黒のコントラストだけの教室で、織は窓にもたれかかっている。
「オレが人間嫌いだって話、したっけ」
この日、心あらずといった風情で織は話し始めた。
「初耳だけど。……そうなの?」
「うん。式は人間嫌いなんだ。子供の頃からそう。
……ほら、子供の頃ってさ、何も知らないじゃない。会う人全部、世界の全てが無条件で自分を愛していると思ってるんだ。自分が好きなんだから、相手も当然のように自分を好いてくれるって、それが常識になってるだろ」
「そういえばそうだね。子供の頃は疑う事をしなかった。たしかに無条件でみんなが好きだったし、好かれているのが当たり前だと思ってた。恐いものだってお化けだったもんな。今恐いのは人間だっていうのに」
まったく、と頷く織。
「でもさ、それはすごく大事な事なんだ。無知でいる事は必要なんだよ、コクトー。子供の頃は自分しか見えないから、他人のどんな悪意だって気付きはしない。たとえ勘違いだとしても、愛されてるっていう実感が経験になって、誰かに優しくできるようになるんだ。
人は、自分が持っている感情しか表せないから」
夕焼けの赤色が、式の横顔を染める。
この時―――彼女がどちらのシキなのか、僕には判別がつかなかった。
そして、それは意味のない事でもある。どちらであろうと、これは両儀式の独白なのだから。
「でもオレは違う。生まれた時から、他人を知ってた。
式は自らの内に織を持っていたから、他人を知ってしまった。自分以外の人間がいて、色々と物を考えていて、自分を無条件で愛してくれているワケじゃないと知ってしまったんだ。
子供の頃に他人がどんなに醜いか知った式は、彼らを愛する事ができなかった。いつしか関心も持たなくなった。式が持つ感情は拒絶だけだ」
―――だから、人間嫌いになった。
そう織が眼差しで語る。
「……でも、それじゃ淋しかったんじゃないか、君は」
「なんで? 式にはオレがいるんだ。一人じゃ確かに孤独だけど、式は一人じゃない。孤立していたけど、孤独ではなかったんだ」
毅然とした顔で織は言う。
そこには強がりもなにもなくて、彼女は本当にそれで満足だったのだ。
でも、それは本当に。
けど、それは本当に?
「けど、最近の|式《オレ》はおかしい。自らの内に自分という異常者を抱えているのに、それを否定したがってる。否定はオレの領分だ。式は肯定しかできない筈なんだけどね」
どうしてかな、と織は笑う。
ひどく殺伐とした――殺意さえ感じる笑みだった。
「コクトー。人を殺したいと思った事はある?」
その時。落ちる陽の光が朱に見えて、どきりとした。
「今のところはないよ。殴ってやりたい、あたりが関の山」
「そう。けど、オレはそれしかない」
教室に、彼女の声はよく響いた。
「―――――え?」
「言っただろ。人間ってのは自分が体験した感情しか表せないって。
オレは式の中での|禁句《タブー》を請け負ってる。式の優先順位の下位が、オレにとっての上位なんだ。それに不満はないし、だから自分がいるって解ってる。オレは式の抑圧された指向を受け持つ人格だ。
だから、つねに意志を殺してきた。織という闇を殺してきた。自分で自分を、何度も何度も殺してきた。人は自分の持てる感情しか表せないって言っただろう? ……ほら。オレが体験した事のある感情は殺人だけだ」
そして、彼女は窓際から離れた。
足音もなくこちらに近付いてくる彼女を――どうして、恐いと感じたのだろう。
「だからさ、コクトー。式の殺人の定義はね」
耳元に囁く声。
「識を殺すってコトだよ。識なんていうヤツを外に出そうとするモノを殺すんだ。式はね、自分を守る為に、式の蓋を開けようとするモノをみんな殺してしまいたいんだ」
くすり、と笑って織は教室を後にする。
それは悪戯をした時のような、無邪気で小さな笑みだった。
◇
翌日の昼休み。
ご飯を一緒に食べよう、と式に声をかけると、彼女は心底驚いたような顔をした。
この時彼女は知り合ってから初めて、僕に驚きの表情を見せた。
「……なんて、こと」
そう声をつまらせて、式はこっちの提案を受け入れてくれた。場所は彼女の希望で屋上となり、式は無言で僕の後に付いてくる。
じっと黙り込んでいる式の視線が背中に刺さる。
もしかすると怒っているのかもしれない。いや、きっとそうだろう。
……そりゃあ、僕だって昨日の織の残した言葉の意味ぐらい解る。アレはもう自分に関わるな、関わると何をするか分からないぞ、という式からの最後通牒だ。
けど式はわかってない。
そんなのはいつも式が無意識に提示している事
で、こっちはそんなのにはもう慣れてしまっていたんだ。
屋上に出ると、そこには誰もいなかった。
一月の寒空の下で昼食を食べよう、というのは僕ら以外にはいないらしい。
「やっぱり冷えるな。場所を変えようか」
「私はここがいいの。変えるなら黒桐くんだけでどうぞ」
|慇懃《いんぎん》な式の言葉に首をすくめる。
僕らは寒風を避けるように壁ぎわに座った。
式は買ってきたパンの封を開けもせずに座っている。そんな式とは裏腹に、僕はすでに二つ目のカツサンドを頬張っていた。
「なぜ私に話しかけたの?」
式の囁きは前触れがなく、よく聞き取れなかった。
「何かいった、式?」
「……どうして黒桐くんはそんなに能天気なのかしら、と言ったのよ」
刺すような目で式はあんまりな事を言う。
「ひどいな。たしかに馬鹿正直なんて言われるけど、能天気なんて言われた事はなかったぞ」
「周りが遠慮してたのね、きっと」
なるほど、と勝手に納得して式は玉子サンドの封を開けた。ビニールのこすれる音は、寒い屋上に似合つていた。
式はそれきり黙り込み、無駄のない動きでトマトサンドをかじり始める。
ちょうど入れ替わりで食べ終わってしまったこちらとしては、どうも所在ない。
食事には、やはり弾むような会話が必要だろう。
「式。君、すこし怒ってるね」
「……少し?」
じろり、と睨まれた。……話しかけるにしても、話題に注意するべきだったと反省する。
「よくわからない。けど、黒桐くんがいると苛立つわ。どうしてあなたは私に関わってくるのか、どうして織にあそこまで言われたのに咋日と態度が変わらないのか。理由、わからないもの」
「理由なんて僕にもわからない。式といると楽しいけど、どうして楽しいのって訊かれたら答えられないし。まあ……昨日のことを言われると、たしかに楽天家なのかもしれないけど」
「黒桐くん。私は異常者だって、理解してる?」
その言葉には頷くしかない。
式の二重人格(のようなもの)は本物で、それは確かに常軌を逸している。
「うん、かなり普通じゃないね」
「でしょう。ならそれを認識すべきよ。私は普通に関われる人種じゃないんだから」
「付き合うのに普通も異常も関係ないよ」
式はピタリと止まった。
呼吸さえ忘れてしまったかのように、時間を止めてしまった。
「でも、私は貴方みたいにはなれない」
言って、式は髪をかきあげた。
ばさり、と着物の裾がゆれる。その下にある細い腕に包帯が巻かれているのが目に入った。右腕の肘のあたりに巻かれた包帯は真新しい。
「式、その傷――――」
気になって話しかけるより先に、式は立ち上がった。
「織の言葉で伝わらないのなら、私から言ってあげる」
式はこちらを見ず、どこか遠くを見据えたままで言った。
「このままだと、きっと私はあなたを殺すわ」
―――その言葉に、どんな言葉を返せただろう。
式は昼食のゴミも片付けずに教室に戻っていった。
一人残されて、とりあえず後片付けをする。
「……まいったな、これじゃあ学人のいう通りだ」
いつかの友人との会話を思い出す。
学人の言うとおり、僕は馬鹿かもしれない。
たった今、目の前でこれ以上ないぐらいの拒絶の言葉を告げられたというのに、僕は式をまったく嫌いになれない。
いや、むしろ気持ちがはっきりしたぐらいだ。式と一緒にいて楽しい理由なんて、一つしかないじゃないか。
「とうにいかれちまってたんだ、俺」
……ああ、もっと早く気がつけば良かった。
殺すとまで言われた事なんか笑い飛ばせるぐらい、黒桐幹也は両儀式が好きなんだっていうことに。
4
二月になって初めての日曜日。
目が覚めて食卓に行くと、大輔兄さんが今まさに出かける、という所だった。
「あれ、居たの?」
「おお。終電を逃しちまったんで泊まりにきててな、これから出勤だ。学生はいいよなぁ、きちんと休日っていう約束が守られて」
兄さんはさも眠り足りない、という顔をしている。おそらく例の通り魔事件に進展があって忙しいのだろう。
「そういえばうちの学校に来るとか言ってたけど、アレはどうなったの?」
「ああ、もう一度行くことになりそうだ。実はな、
三日前に六人目が出たんだ。その被害者が最後の抵抗をしたのか、爪から皮膚が検出された。女の爪ってのは長えからな、思いっきり犯人の腕を引っ掻いたんだろう。死に際の抵抗だったのか、かなり深く引っ掻いている。検出された皮膚は三センチもあった」
兄の情報はまだどの新聞にもテレビにも流れていない最新のものだった。
けれどそんな事よりも、僕は何か違った事でくらりとした。……それはたぶん、ここ数日の式の言動に殺すなんて不吉な単語が交じっていたからだと思う。
そうでなければどうして、僕は式と通り魔の姿を一瞬だけでも重ねたというのだろう。
「……引っ掻き傷って、つまり犯人がつけられたわけ?」
「あったりまえだ。被害者が自分の腕を引っ掻くか。検出された皮膚は肘のあたりの物だと鑑識も出てる。血液鑑定も済んでいるから、じきチェックメイトだ」
じゃあな、と大輔兄さんは出かけていった。
膝の力が抜けて、僕は椅子に崩れ落ちる。
三日前は、夕焼けの中で織と話をした日だ。
その翌日に見た彼女の包帯は、たしかに、腕の肘あたりに巻かれていたと思う。
……そうして。正午を過ぎたあたりで、考えていても無駄だと気がついた。悩むぐらいなら式本人にあの怪我の事を尋ねればいい。それがなんでもない怪我だって言われれば、こんな欝々とした気持ちは消えるのだから。
学校の住所録を頼りに式の家を訪ねる事にした。
彼女の自宅はとなり街の郊外にあって、捜しあてた頃はすでに夕方になってしまっていた。
周囲を竹林に囲まれた両儀家の豪邸は、武家屋敷そのものの造りをしている。
高い塀に囲まれた屋敷の大きさは歩いているだけでは判らない。飛行機に乗って空から見下ろさないと、その規模を正確には把握できないだろう。
山道めいた竹林の道を歩いて、見上げるような門に着いた。
江戸時代にとり残されたようなこの屋敷にも今風のインターホンが用意されていて、少しだけホッとする。
呼び鈴を押して用件を言うと、黒いスーツ姿の男性がやってきた。三十代前半の、亡霊みたいな暗さをもった彼は式の世話係なのだという。
秋隆というその人は、僕のような学生にも丁寧に礼儀正しく応対してくれた。
あいにく式は出かけていて、秋隆さんは上がってお待ちください、なんて言ってくれたけれど、さすがにそれは辞退した。正直、こんな屋敷に一人で入っていく度胸もない。
日が暮れた事もあり、今日は帰ることにした。
一時間ほど歩いて駅前につくと、偶然先輩に会った。
先輩の誘いで夕飯を近くのファミリーレストランでとることになって、話し込んでいるうちに時計は十時を指してしまった。
先輩と違ってこちらはまだ学生の身分。そろそろ帰らなければならない。
先輩とさよならをした後、今度こそ駅の改札口でキップを買った。
時刻はじき午後十一時になろうとしている。
改札口を通る前。式はもう帰ってきているだろうか、なんて事をちらりと思った。
「何をしてるのかな、自分は」
夜の住宅街を歩きながら、そんな独り言をぼやく。
人気のまったくない深夜。
見慣れない街並みのなか、式の家を目指して足を運ぶ自分がちょっと理解できなかった。今から行っても彼女に会えないのは解っている。それでも、なんとなく式の家に明かりがついている所が見たくなって、駅から引き返してきてしまった。
凍えるような冬の夜気に肩をせばめて歩く。
ほどなくして住宅街を抜け、一面の林に辿り着いた。
その真ん中、綺麗に舗装された一本道を進んでいく。
今夜は風がないので、竹林はとても静かだ。
街灯はなく、月明かりだけが頼りだった。
こんな所で誰かに襲われたらどうなるだろう、と冗談半分に思ってみたら、それは段々と心の中に浸透してきた。
自分でも切り離したい妄想は、気持ちとは裏腹により鮮明にイメージを強めていく。
子供の頃はお化けが恐かった。竹林の影が妖怪に見えて怯えたものだ。
けれど今は人間が恐い。恐いのは誰かが竹林に潜んでいるんじゃないか、という錯覚だけだ。……いつから僕らは正体不明の存在が、ただの見知らぬ他人なのだと知ってしまったのだろうか。
……ほんと、嫌な予感というものはなかなか消えてくれない。
ああ、そういえばいつか式が同じような事を言っていたっけ。
あれは、たしか――――
それを思い出そうとした時、前方に何かが見えた。
「――――」
ぴたりと足が止まった。
僕の意思ではない。だって、この時。
黒桐斡也の意識は、とうになくなってしまっていた。
数メートル先に、白い人影が立っていた。
輝いてさえ見える純白の着物は、けれど赤い|斑紋《はんもん》で汚れている。
着物の|斑《まだら》模様は段々と広がっていく。彼女のすぐ前にあるモノが、赤い液体をびゅうびゅうと噴き上げているせいだろう。
その、白い着物の少女は式。
液体を噴き上げるモノは、噴水ではなく人間の死体だった。
「――――――――――」
声がでない。
けれど、いつもこの予感だけはどこかにあったのだ。彼女が、死体を前にして|佇《ただず》んでいるというイメージだけは。
だから僕は驚かない。騒ぎもしない。
意識が、とても綺麗に真っ白で。
死体は今まさに事切れたのだろう。生きたまま動脈を切らないと、あんなに勢いよく血液は流れないからだ。
致死傷は首元と、体に斜め|一文字《いちもんじ》に入った切り傷。
―――この武家屋敷の門に相応しく、袈裟に切ったか。
式は微動だにせず死体を見つめている。
死体は死そのものだ。
ぶちまけた血の色だけで気が遠くなるのに、その内臓がごそりと腹からこぼれて、それはもう、まったくの別生物になりさがっている。
僕にはどろどろした何かが人間のふりをしているようにしか見えない。その擬態さえ不出来だから、とても正視できたものではなかった。……まっとうな人間なら、できる筈がなかった。
けれど、式は微動だにせず死体を見つめている。幽霊のような彼女の着物に、返り血がついていく。
斑紋は赤い蝶に似ていた。
蝶は勢いよく、式の顔にも降りかかる。
血に濡れた式の口元は歪んでいた。
怖れか―――――悦びか。
彼女は式か――――それとも織か。
「――――――――」
何か言おうとして、地面に崩れ落ちた。
吐いた。胃にのこった物も、胃液も、できうるのならこの記憶もと、涙がでるまで嘔吐した。
けれど効果はない。そんな物なんか気休めにもならない。圧倒的な血の量は、その香りだけでも濃厚すぎて脳髄を泥酔させる。
やがて、式がこちらに気がついた。
顔だけが振り向く。
無表情の顔が笑みをうかべた。涼やかで、とても落ち着いた、母性を思わせる微笑みを。
それはこの惨状には不釣り合いすぎて、僕は逆に、
――――ぞくりと、した。
意識が遠くなる。彼女が近付いてくる。
最後に失念していた彼女の言葉を思い出した。
―――気をつけなさい黒桐くん。厭な予感は、厭な
現実を引き寄せるものだから―――
……やはり僕は能天気だ。
考えるのを避けていた悪い現実を、出会ってしまうこの瞬間まで考えようとはしなかったのだから。
5
翌日、学校を休むことになった。
殺人現場で呆然としていた所をお巡りさんに発見されて、そのまま事情聴取を受けたためである。
保護されてから数時間、僕は何も言葉にできなかったという。真っ白になってしまった意識が通常に戻るまでざっと四時間弱。……僕の脳の現実への復帰機能は、あまり優秀とはいえないようだ。
そんなこんなで警察署で取り調べをうけてから解放された頃は、もう学校に行く時間ではなくなっていた。
死体の殺害状況からして返り血を浴びない事は不可能だ。幸いこちらの服には一滴の血痕もなかったし、僕が大輔さんの身内という事もあって取調室での聴取はなく、比較的穏便に事は済んだと思う。
帰りは兄さんが車で送ってくれるというので、遠慮なく車に乗り込んだ。
「で、本当に誰も見てないんだな幹也」
「しつこいな、見てないよ」