折れてない腕に、彼はブラッドチップを握らせる。
反応しない黒桐幹也に、白純里緒は苛々しだした。
「呑むんだ幹也! どちらにしたって、キミの体はいま呑んだクスリの効果に耐えきれない。いいか、呑まなければ死ぬんだぞ! 普通なままで死ぬのと特別なままで生きるのと、どっちが素晴らしいか考えるまでもないだろう!」
たしかに、それは考えるまでもない。
僕は首を横に振った。
「――なぜ」
絞り出すような声。
それに、よせばいいのに、僕は答えていた。
「なんか、面白そうじゃないから」、と。
白純里緒の表情が凍る。
ぱちん、と空気にひびが入ったみたいだった。
……ほんとに。長生き、できないな、僕は。
「……うん、先輩を見ているかぎり、あまり楽しそうじゃない。それに僕は先輩のいう普通ってヤツのほうがいいんです。特別な存在なんて、イヤだ」
僕を見る白純里緒の瞳に人間性がない。……この人は、今の会話で僕を敵と認識した。
「……なんだそりゃ。なんなんだよ、それは……! いいか、そうしなければ死ぬんだぞ!? それ以外に選択肢はないんだ! あの時の白純里緒だってそうだった! 誰もが――特別でありたいと、人より優れていたいと願うのに……!」
信じられない、と彼は激昂した。
彼は笑って僕を見る。
それは恐怖とも、苛立ちともとれない笑みだった。
「なんで? 信じられない、黒桐、おまえなんでそんな事が言えるんだ? 俺にはわかる。おまえは強がりを言ってるわけでも、誰かに負い目を感じてるわけでもない。おまえは――おまえは本心からそんな事を願ってやがるんだ。このままじゃ死ぬんだぜ? なにかっこつけてやがるんだっ! くそ、壊れてる。おまえは普通じゃない。どう考えたっておまえはヘンだ!」
「――ヘンなのはそっちのほうでしょう、先輩」
胃の腑《ふ》からこみあげる吐き気に促《うなが》されるように、僕は告げた。
……もっと器用に立ち回れば、あるいは。僕は、もっと長生きできたのかもしれないけど。
「ヘンであるように、あなたは生きてきた。人を殺してしまったあなたは、その罪から目を背けて、逃げたんだ。自分は狂っている。狂っているなら入を殺しても仕方がないって。異常な人間なら、異常な行為をするのは当然だって誤魔化して、言い訳して……!
……でも、そんなのはむかついたから人を殴ったって言い訳と同じなんです。そこにどんな正当性もない。なのにあなたは自己を正当化するために狂ったふりをして、今も、ずっと逃げている」
……そう。
初めて人を殺して、荒耶宗蓮という人物の誘いにのった時から、白純里緒は消えていた。
狂人としてならば存在できるという理論武装をした彼は、同じ殺人鬼である両儀式を求めた。自分と同じ殺人鬼がいるのなら、自分が正当化されるから。
おかしいのは自分だけじゃないって安心できるから。
「………うる、さい」
瞳を細めて、白純里緒がこちらを見据える。
でも最後まで言わないと、ここに来た意味がない。
「……生まれた時から理由もなく殺人を嗜好してしまう式と、自分を守る為に殺人を嗜好していると思い込んだ白純里緒」
……天然のモノと人工のモノ。
……もって生まれたモノと、作りあげたモノ。
その違いを、口にしなければあなたが気付いてくれないのなら。
「……殺人鬼なんて呼び名は間違いだったんだ。式が抱く苦しみを、あなたは持っていない。捨てたくても捨てられない感情、その隔たりがあなたにはないから」
「…………うるさいよ、黒桐」
「だからあなたは式と同じなんかじゃない。まったく正反対の人間だ。人を殺して、その罪を自分のものとも認められない。ただ逃げて、殺人者にも殺人鬼にもなりきれない逃亡者。それがあなたの正体です、先輩」
それでも、助けてほしいと言ったから。
狂ってしまえば、なんて選択しか思いつかなかった誤ったあなたを、こちら側に引き戻してあげたかった。
「…………うるさいって、言ってるのに!」
憎しみに満ちた、呪いのような怒声。
彼がナイフを振り上げるのを、僕は止める事もできずに見届けた。
◇
彼は、ナイフを振り上げた。
勢いは止まらず、感情にまかせた一撃で黒桐幹也に頭から斬りつける。
額からぱっくりと食い込んだナイフは、黒桐幹也と世界を、あっさりと断絶させた。
/6
ごとん、と幹也は床に転がった。
うつぶせに倒れこんだまま動かない。ただ顔の部分から赤い血が流れて、コンクリートの床を濡らしていく。
ボクは呆然と手のなかのナイフを見つめていて、何もできなかった。
幹也の死体は恐ろしくて、近付く事さえできそうにない。
だって、幹也は、死んでいるんだ。
「ごめん……こんなつもりは、なかったんだ」
呟いても、答える声は雨音しかない。
ボクは、泣いていた。
遠い昔。白純里緒が学生だった頃からずっと残っていた愛情が、薄れていく。
たとえばあの時。
白純里緒が学校を止めるとき、誰もが心の底でボクを馬鹿にしていた。高校を中退するなんて、何を考えてるんだって嘲《あざけ》りを浮かべていた。けど、黒桐幹也だけは違ったんだ。彼は本心から頑張ってと言ってくれた。
忘れられるはずがない。あの時の喜びは、今も白純里緒の中で生きている。
なのに、それをくれた本人は死んでしまった。
ボクが、カッとなって殺してしまった。
……わかっていたのに。人間は、些細な事で死んでしまう。白純里緒はそれを回避させる運が絶望的にないんだって、初めて人を殺してしまった時からハッキリしていたのに……!
でも、悪いのはボクじゃない。
「……どうして逆らったりしたんだ、黒桐。おまえはいつだって俺の味方だったじゃないか。おまえはいつだって俺をわかってくれたじゃないか。だから――おまえだけは、俺に逆らっちゃいけなかったのに……!」
そう、世界中の人間みんなが認めてくれなくても。
彼が認めてくれるのなら、それでよかった。
キミがいてくれるのなら、それだけでよかったのに……!
……黒桐幹也の言う通りだ、と里緒は納得する。
白純里緒は、両儀式を愛してなどいない。
両儀式を求めているのは殺人鬼としてのボクだ。彼女が同じ存在になったのならもう用はない。特別な存在は一人きりだから特別なんだ。だから、彼女は元に戻ったあとで早々に死んでもらおうと決めてもいた。
失ってから、気がついた。
俺に必要なのが仲間で、ボクに必要だったのが彼だったんだ。
白純里緒なんて存在がまだ残っていたのは、黒桐幹也がいたからだと思う。
ボクは――黒桐幹也の前でだけなら、白純里緒に戻れたのだ。
それも、もうない。
半分はなくなってしまった。昔、白純里緒《 ボ ク 》の世界の半分を占めていた人物とともに。
ごめん、黒桐。キミが信じてくれたボクは、どうやらここで消えてしまうみたいだ。
「――――あとの、半分」
だが大丈夫だ。俺は生きていける。
まだ白純里緒には両儀式が残っている。彼女が戻ってくれるのなら、俺はずっと安心していられる。
……ああ、そうだ。
黒桐幹也なんかいらない。俺は初めからこうしたかったんじゃないか。自らの中に脈打つ〝衝動?に消されないように、同じ殺人鬼という人種がいるのだと安心したい。
俺は、部屋を後にした。
倉庫の中に戻って大麻の園へと歩いていく。
式――昔、恋い焦がれていた女。
誰よりも特別に見えた、血に飢えた殺人鬼。
それが、俺のモノになる。
くっ、と笑みが漏れた。あいつの、汗と唾液に汚れた姿が脳裏によみがえって、堪えきれなくなる。
早く――やりたい。
黒桐を殺したといえば、彼女は間違いなく元に戻ってくれるだろう。
本物の殺人鬼が襲いかかってくる。
それはものすごく蠱惑《こわく》的なシチュエーションだ。
しかも彼女にはまだクスリが効いている。立つ事もできない殺人鬼を、爪先から咀囎《そしゃく》していく――これ以上のステージが、一体誰に用意できる?
そう、誰にもできない。この俺以外は誰にも。
舌がぬらりと動いた。こいつも彼女の汗をたっぷり吸って、早く肉の味を確かめたいらしい。
「――汗?」
俺は大麻の草園で立ち止まった。
汗? 汗ってなんだ?
たしかにクスリをやってる時は発汗する。
だが――あの量は異常だ。しかも射ったのはただの筋肉弛緩剤。汗をかく道理はない。
……大量の汗。まるで体内の毒素を体外に吐き出そうとするかのような、異常な発汗。
「――うそだろ、おい」
俺は駆け出した。両儀を放置してあるブロックヘ急ぐ。草をかきわけて、がむしゃらに走った。
目的地には十秒足らずで到着して、俺は予想通りの光景を目撃した。
「――――」
感動で、言葉もない。
倉庫の中で唯一、大麻を植えつけていないコンクリートの広場。
立つ事もできないはずの両儀式が、悪鬼のような視線で、悠然とそこに佇《たたず》んでいたんだから――
/7
◇
両儀式の姿は、凄絶なまでに美しかった。
白純里緒は呼吸すら忘れ、その姿に見惚れている。
彼女を縛っていた手錠はすでにその効力を失っていた。
外したのではない。
彼女は、切ったのだ。
手錠は大きなアクセサリーのように式の右手首にぶら下がっている。
手錠の輪には傷ひとつない。
傷があるのは、彼女の左手だけである。
式は――手錠を外すために、左手の親指とその付け根の肉を、自らの口で噛み切っていた[#「噛み切っていた」に傍点]。
◇
「――は、はは、は」
白純里緒は、笑った。
「――あんたは、最高だ」
……笑い声さえ、癇《かん》に障る。
「――完壁な、殺人鬼だ」
喉を震わせて、芝居めいている。
私はいいかげん、この駄犬の声を聴くのも飽きてしまった。
……こんな事をしている暇なんて、私にはないんだから。
「さぁ――始めようぜ両儀。あんただけが、俺を繋ぎ止めてくれるんだ」
誘蛾灯《ゆうがとう》に誘われる虫のように、ソレは私に歩み寄る。
私は、彼を見もしなかった。
「他をあたれ。オレはやらない」
仕方なく口にしてやる。
ソレは私の言葉の意味もわからず、立ち止まって目をしばたたいた。
「……なん、だって」
「おまえにつきあっている暇はないって言った」
そう、殺人鬼なんて肩書きはいらない。
そんなものはこいつにくれてやる。必要なものを、私はとっくの昔に手に入れていたって思い知ったから。
胸の穴。空っぽだった穴は埋められている。
私の殺人衝動は永遠に消えないけど、きっとそれに耐えていける。
織の殺人の理由と、式の殺人の理由は違っていた。
夏の一件で気が付いていたじゃないか。私は生《せい》の実感を得たくて命の奪い合いをしていたんだって。
でも、今はそんな理由も薄れていた。命の奪い合いで生の実感を得なくても、私は少しずつだけど満たされているから。
今の私は、昔の式ではないんだから。
私はあそこに戻って、ずっと両儀式と戦い続ければいい。
負けてしまえばそれまでだけど、だからって殺人鬼なんていう都合のいい物に逃げるわけにはいかない。
胸の空白を埋めているあいつと、私の幸福のために消えた、もうひとりの織のため
にも。
「うそだろ、両儀?」
「じゃあな、殺人鬼」
そうして私は歩きだした。
クスリで麻痺した体、食いちぎった左手もそのままで、見知らぬ他人とすれ違うように、白純里緒の傍《かたわ》らを通り過ぎていく。
ソレは立ち尽くしたまま、吐く息だけを激しくさせて、私の背中を見つめていた。
「……おまえまで、俺を裏切るっていうのか」
呟きは、雨の音に消えていく。
私はただ、雨の音を聴いていた。
「……そんなことは、許さない。おまえの為に人を殺して、おまえの為にここまでやってきた俺を見捨てるのか。なら、白純里緒はどこにもいない。今ではもうおまえだけが、白純里緒を繋ぎ止めてくれる存在だっていうのに!」
ふらつく足をこらえて歩く。
私は振り返らず、この草園を立ち去る事にした。
――次の、言葉を聞いてしまうまでは。
「……そうかよ、幹也のところに帰るのか、両儀」
小さく。
掠《かす》れるような笑い声とともに、ソレはそう呟いた。
――足が、止まる。
「なら出ていく必要はないぜ。あいつはちゃんとここにいるんだから」
吐き気が、した。
目の前が揺らいで、倒れそうだ。
何も、考えられなくなった。
……だっていうのに、なんだって。
私はそんな台詞だけで、すべてが理解できてしまったんだろう…………?
「おま、え――」
声に、ならない。
振り返らないと決めたのに、私は振り返っていた。
もう誰も――殺したいだなんて思わないように、生きていこうとしていたのに。
「おまえが悪いんだぜ、両儀。いつまでもぐずぐずしているからさ、俺がかわりにいただいちまったよ[#「俺がかわりにいただいちまったよ」に傍点]」
……何を言ってるか、聞き取れない。私の耳はどうかしてしまったみたいだ。
「そうだ、これはおまえのナイフだったな。返すぜ。汚しちまってすまねえけどな」
からん、と私のナイフが床に落ちる。
銀色の鋭利な刃物は、真っ赤な血で汚れていた。
私のナイフと、誰かの血液。
それが誰のものか、私はよくわかってる。……間違えてなんかやるものか。あいつの血の匂いなんか、ずっと忘れていなかったんだから。
「……ああ。死んだのか、おまえ」
呟いて、私は前に出た。
コンクリートの上に転がるナイフを、取らなくてはいけないから。
「そう、俺が殺してやったんだ、おまえが自由になれるようにな……! 黒桐はさ、最後まで善人ぶって説教を垂れやがった。なんでもさ、俺とおまえは正反対なんだとさ! 笑わせるだろ、俺たちはこんなにも似たもの同士だっていうのによう……!」
……雨の音が、うるさい。
私はナイフの所まで歩いて、コンクリートに膝をついた。
刃に付着した血液はまだ新しい。……この凶器が血を吸ったのは、時間にしてほんの数分前の事だろう。
――ああ。
こんな身近な場所で、こんな近くの時間で。
私は、あいつを失ったんだ。
「……ばか。だからトウコの所にいろって言ったじゃないか。死に方までまぬけなんて、ほんと、おまえらしい」
〝先輩を殺したら君を許さないからな、式――?
そう私を束縛した男は、庇った動物に、殺された。
……どうしてだろう。
アレは私の物だったのに。
あいつを殺していいのは、私だけのはずだったのに。
「――絶対に」
ナイフを手に取る。
両手で握って、私は立ち上がった。
俯《うつむ》いたまま、刃を胸に抱いて立ち尽くす。
下を向いたまま、私は口を開けた。
「――いいよ、やろう」
相手を見ないで、俯いたまま。
顔をあげても仕方がない。
だって、私にはさっきから――あのケダモノの姿が見えていないんだから。
「――私を許せないといったな。たしかにその一点だけ私達は似ているよ、白純」
ケダモノが、走ってくる。
私は俯いたまま、それを無視した。
殺し合いの相手なんか、あとでいい。
今はまだ――噛み締めていたいんだ。
この胸《ナイフ》に、彼の暖かさが残留している束の間は。
◇
白純里緒の体が跳ねる。
一直線に襲いかかってくる敵を前にして、それでも彼女は動かなかった。
ざくりと、ケモノの爪が腕の肉を削ぐ。
血が流れて、敵が真横を走り抜けても、式は俯いたままだった。
彼女の両手は、優しくナイフを抱いている。
かけがえのない宝物のように、大切に、大切に。
覚えていた熱が薄れていく。
自分の体温とか、触れあった時の肌の温かさとか。
こんな私にも少しはあったんだと思えていたココロとか、あいつが信じていた私のココロとかが。
血が流れて、傷を負って、体はどんどん冷たくなる。
けど、痛みはあまりなかった。
痛みなら、もっとつらい痛みを知っていたから。
……冷たいあめにうたれて、わたし達は何度も何度も追い駆けっこをしていたっけ。
――そう。凍えた吐息だけが熱を帯びて。
お互い切れそうな呼吸をみてた。
ざん、とまた肉が削ぎ落とされた。
敵は狩りを楽しむように、動かない私をいたぶっている。
目にも留まらぬスピードで走り抜けて、すれ違いざまに肉を抉《えぐ》っていっている。
……外の雨は、まだやまない。
思えばなんでもないことが、私にとっては喜ばしい事だった。
――たとえば雨。
霧のように降りしきる放課後、きみの口笛を聴いていた。
三度目、足を抉《えぐ》られた。
ざば、と音をたててコンクリートが濡れていく。
骨まで食い込んだ爪は足と床を血塗れにして、立っている事さえ苦痛にさせた。
……そう、立っている事さえ、息苦しかった。
でもたまには笑いあえた時だってあったと思う。
織は、きみが好きだったから。
――たとえば夕暮れ。
燃えるような景色の教室で、きみとボクは語り合った。
敵の能力は、以前とは比べものにならない。迅さも正確さも本物のケモノ以上。
対して、私はがらくただ。心も凍ったまま、体もじきに動かなくなるだろう。
だっていうのに、私はその事実を愉しんでいるから救いがない。
まだ腕は動くから。次に走り寄ってくる所を、確実に仕留めよう。
――きみがいて、わらっているだけで、幸せだった。
四度目、走り寄ってくる。
敵の狙いは右腕だ。
それがわかっているのに、私は動けなかった。
……だって人殺しはいけないことだから。
――きみがいて、あるいているだけで、嬉しかった。
血を流しすぎて、気が遠くなる。
体はすぐにでも倒れてしまうだろう。
だっていうのに、私はあいつの言葉を守ってる。
……白純里緒を殺せない。
たとえ死んでしまっても、私の中で、彼の言葉は生きているから。
……あの暖かさを、ずっと守っていたいから。
――ほんのひととき。
木漏れ日が暖かそうで、立ち止まっただけ。
でも、嬉しかった。
私を普通に扱ってくれるきみが。
人を殺してはいけないんだよ、と真剣に話してくれる事が嬉しかった。
口になんかしてやらないけど。
私にしてみれば、おまえのほうがずっと奇跡みたいにキレイだった。
――いつか、同じ場所に居られるよときみは笑った。
五度目の爪がやってくる。
それがきっと、私の最期だ。
敵は首筋に切りつけるだろう。
もう放っておいても出血で死ぬ私の息の根を止めるには、頸動脈は十分すぎる。
――その言葉を、ずっと、誰かに言ってほしかった。
……死が迫ってくる。
振り返ってみれば、私の今までは楽しかったことばかりで、つい顔がほころんでしまう。
たった一年間の昔と、たった半年間の今まで。
駆け抜ける時間は速くて、掴みとる事もできなかった。けど、感謝してる。嘘みたいに幸福《しあわせ》だった。
かわりばえのしない退屈な高校生活。
あらそいのない穏やかな日々の名残。
――それはほんとうに。
夢のような、日々でした。
ありがとう。でも、ごめんなさい。
……私は顔をあげてヤツの死を視る。
無くしてしまうのはわかってる。
きみが信じてくれたものや、きみが好きだといってくれた私を。
わかっていても、私はヤツを殺すことにした。
それで今までの自分がみんな消えてしまうとしても、きっと誰も傍《そば》にいてくれなくなるだろうけど。
それでも――それでも私は、おまえを殺したこいつが許せない――。
――走りよる敵を彼女は見つめる。
そうなってしまえばことは易しい。
水面《みなも》を発つ白い鳥のように鮮やかに。
結末までは、ほんの一瞬だったから。
◇
終わりは、ひどくあっけなかった。
首筋に伸びてきた白純里緒の腕を、彼女は断ち切った。
そのまま敵の両足を一息で切断する。風船のように宙に浮いた白純里緒の体にナイフをつきたてて、容赦なく地面に叩きつけた。
ナイフは、墓標のように心臓を貫いている。
がは、と彼は一度だけ息を吐いて、終わった。
白純里緒の顔は、驚いたままで止まっている。
あまりの早業に自分が殺された事も気付かないまま、白純里緒は生命活動を停止した。
◇
ナイフは墓標のように白純里緒の胸に突き立てられている。
両手でナイフを持った彼女は、ずっと、膝をついたまま動かなかった。
窓から入り込む陽射しは斜光。
灰色の明かりに照らされた姿は、死者を送別する神父のように、色というものがなかった。
白純里緒の屍に出血はない。
倉庫に散らばる鮮烈な朱色は、すべて彼女自身の肉体から流れたものだ。
腕を、足を、体を引き裂かれた彼女の命は、おそらくは数分と保つまい。
……いや、両儀式であるのなら数分の命を何倍も保たせて、治療を受ける事で回復できるだろう。
けれど、彼女はそれをしなかった。
ナイフから手を離して、背中から床に倒れこむ。
あぁ、と唇が吐息を漏らした。
もっと呼吸の間隔を長くして、切られた傷口の神経を遮断する。そのまま体を休めていれば、助けを呼ぶぐらいの体力は回復する。
「…………でも、いいや」
呟いて、式は空を見上げた。
窓越しに見える景色は、いつも雨。
冬という季節は、いつもこんな空の下で、自分の手を汚してしまう。
……こんな姿じゃ家には帰れない。
泥だらけになって家に帰っても、叱られてしまうから。
「それでも、待っていてくれたのに」
……一緒に、歩いてくれたのに。
……汚れた手を握って、帰り道を歩いてたのに。
……そんな、夢みたいな日々が、あったのに。
「ほんと、嘘みたいだ」
息がつまる。
意識が、ろうそくの火みたいに揺らめいている。
消えそうな命は、かげろうみたいで、とてもきれいだ。
彼女は呼吸を整える。
生きる為ではなく、眠るために。
空を見る瞳は泣いていた。
………決めていたんだ。
もし涙する事があるのなら、それは、あいつが死んだ時だって。
瞼《まぶた》を閉じて、呼吸は穏やかになっていく。
後悔はあまりなかった。ただ静かに思うだけ。
……幹也がいないのなら、もう、生きていく意味なんてなくなってしまった。火の暖かさを知った獣が戻れないように。私は、空っぽの自分にはもう戻れないだろうから。
殺人考察/7
……世界が、断絶されてる。
初め、そうとしか思えなかった。
ごふ、とまた喉から胃の中のものを吐き出す。
クラッシュして理性を失っていた意識を引き戻したのは、そんな肉体の生きようとする機能だった。
片腕で、なんとか上半身を起こした。
両足にはあまり力が入ってくれない。なんとか壁ぎわまで這って、壁に手をついて立ち上がる。
視界が、ようやく戻ってくる。けど見えるのは輪郭だけだ。世界は白くぽやけて、すべてが曖昧《あいまい》。
「……痛い」
どこが痛いのか判らないけれど、とにかく痛い。
僕は左目に手を触れる。
……血は、もうほんの少ししか流れていない。白純里緒に呑まされたクスリは、特別な代謝《たいしゃ》促進機能でもあったんだろうか。傷口の大部分は血で固まって、とりあえず出血多量でお亡くなりになる事はなさそうだ。
ただ傷そのものは治っていない。……あたりまえか。ナイフで額から頬まで、左目ごと切りつけられたんだ。生きているのはものすごい幸運だし、左目に連動して右目の機能が停止しなかったのも幸運。
これで、左目が無事なのを期待したらバチがあたる。
なんとか、壁づたいに倉庫へと歩いていった。
……倉庫は草が茂っていて、何がなんだかわからない。
痛みと出血、ついでにクスリの効果で、僕は一つのことしか考えられない。
「――し、き」
歩きだす。
倉庫は広くて、草は邪魔で、見つけられない。
一歩、踏み出すごとに痛みで意識がとんだ。
気を失って、でもすぐ取り戻して、また一歩。
そんな繰り返しをしてまで、何を、してるんだろう、僕は。自分でも生きているか死んでいるか判らない、こんな血だらけの体をひきずって。
「…………」
がくん、と足が崩れて、地面に倒れこんだ。草を植えた地面は土で、あんまり傷は開かなかった。
膝はダメになったから、這っていく事にする。
でも、倉庫は広すぎて見つけられない。
左目は熱くて、右目は何も見えなくて、どうしようもなかった。
……ちょっと休もう。ここに式がいる保証なんてないんだし、僕は無駄な事をして、自分から死ぬような事をしているのかもしれないし。
そう冷静に考えたクセに、前進は止まらなかった。
「どうして、かな」
……そんなの、式に会いたいからにきまってる。
でも、もし式を見つけられて、彼女と白純里緒が殺し合った後だとしたら、僕はどうすればいいんだろう。
――先輩を殺したら君を許さないからな、式。
たしかに僕はそう言った。
……そう、許さない。
君が、人を殺す事だけは許せない。
他の誰かが誰かを殺しても、かまわない。僕はただ、式にだけは人を殺してほしくないんだ。
君が好きだから。
君を好きでいたいから。
君に、幸せになってほしいから。
これ以上、傷ついてほしくなかっただけ。
……なんてものすごいわがままだろう。
僕はたとえ式であっても、殺人という行為を犯した人間を憎んでしまう。
式を信じている、なんて都合のいい言葉だった。
僕は信じていたかっただけだ。人を殺してしまえば、僕は式を許せなくなってしまうから。
「……先輩を殺したら、君を、許さない」
うわごとのように呟いて、前に進む。
草をかきわけて、何もない所に出た。
コンクリートの床、一面に陽が差し込む広場。
そこに式がいた。
傍らには白純里緒の体。
倒れこんだ二人は、生きているようには見えなかった。
「――――」
先輩を殺したのか、式。
後悔が胸を埋める。でも、それは違うものだ。
僕は――式のことしか、見えていない。
這って式のもとまで行った。
……彼女は、安らかな顔をしていた。
体は傷だらけで、血に汚れている。顔の色は蒼白で、およそ熱というものが感じられない。
それでも、呼吸は止まってない。
――ああ、生きている。
僕は安堵して、白純里緒に謝った。
彼は本当に死んでいる。どんな事情があったにせよ、殺してしまったのは式だと思う。
この結果は、あなただけの終わりだ。
被害者はあなたで、悲しまれる権利はあなたにしかないと思う。
けど、それでも……僕は式が生きているほうが嬉しいんです、先輩。あなたを、哀れだとは思えない。
逆に恨んでさえいる。
だって、これで式はもう――。
そのとき、白い指が頬に触れた。
細い指が頬を撫でる。
かするように頬をなぞるそれは、彼女のものだった。
「泣いてるのか、コクトー」
弱りきった瞳で、式はそう言った。
彼女は呆《ぼう》、とした意識のまま、片目がない黒桐幹也の顔を撫でている。
流れる血が、彼女には涙に見えたのかもしれない。
式は体を起こす事もできない。
僕は彼女を抱える事さえできない。
雨の中。
凍えた吐息だけが熱をおびて、僕たちは、お互いのとぎれそうな呼吸をみてた――。
「白純を、殺したよ」式は呟いて、
「うん、しってる」僕は頷いた。
式は一度だけ白純里緒の亡骸を見て、空を見上げた。
「これで、いろいろ無くしちまった」
それは、空虚で悲しい声だった。
彼女が無くしたもの。
大事に思っていたコトとか、ぼんやりと今までの自分とか。もしかしたら、僕の事だって入ってるかもしれない。
なにより――これで、式は自分を殺せなくなった。
その罪を、背負えなくなった。
彼女の祖父が語ったように。それを守ってきた彼女は、祖父と同じように独りきりで死を迎える。
淋しい、空っぽの葬列を。
「……でもかまわない。言ったろ、君のかわりに背負ってやるって」
赤い血が式の頬にこぼれ落ちる。左目から流れた雫は、たしかに涙のように見えた。
……そう、夏の終わりに、初めて笑ってくれた君に誓った。
君のかわりに罪を背負うって。だから――
――――僕が、君を殺そう。
君が死ぬまで、君が死ぬその時まで、決して独りきりにしないように。
「……私は、人殺しなのに」
ぼんやりとした、ココロのない声で式は呟く。
すべてを無くしたと自分を責めて、泣きだしそうな子供のように。
彼女はわかっている。
それがずっと消えない罪で、どんなに謝っても許されない哀しみなんだって。
……僕にだって、それを許すことはできない。
誰にも、それを赦《ゆる》すことはできないんだ。
「……人殺しはいけないことだって言っただろ。なのに守れないなんて、君は愚かものだ。今回ばっかりは頭にきてる。怒ってるから、泣いたって、だめだ」
「……なんだ。泣いても、許してくれないんだ」
「ああ。ぜったいに、誤魔化されるもんか」
くだらない事を、僕はロにしてる。
それでも、それで式が安らかになれるならいくらでも憎まれ口をきいてやる。
式は小さく、ほんとうに小さく微笑《わら》って、静かに瞼《まぶた》を閉じた。
それは、これから眠りに至るような穏やかさ。
……朱色の泪《なみだ》が彼女の頬に伝う。
僕は感覚の途絶えた腕で、傷だらけの彼女の体を抱き上げた。
誰にも許されず、君自身でも許せない傷なら、せめて君の側にいようと思う。