饭饭TXT > 海外名作 > 《空の境界/空之境界(日文版)》作者:[日]奈須きのこ/奈须きのこ【完结】 > 空の境界@txtnovel.com.txt

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作者:日-奈須きのこ/奈须きのこ 当前章节:14685 字 更新时间:2026-6-15 18:51

 強く、このままお互いが死んでしまいそうなほど強く抱き締めて。

 意識まで途絶える前に、最後の誓いを口にした。

「式。君を――一生、許《はな》さない」

 言葉は降りしきる雨の音にかき消される。

 たしかに残されたのは、ただ、お互いを抱き締めようとする儚《はかな》い指先だけだった。

/8

 二月が終わっても、まだ街は冬の趣《おもむき》を残していた。

 気温は低くて、ニュースでは明日あたりに四年ぶりの雪が降る、だなんて事を言ってもいる。

 三月はまだ始まったばかりで、冬の残滓《ざんし》が肌に絡みつくよう。

 どうやら、春はまだまだ先の話のようだった。

 巷を騒がした殺人鬼は、薬物による中毒死という形で決着がついた。

 白純里緒の遺体は警察に回収されて、両儀式と黒桐幹也はあくまで被害者として保護され、こうしてどうにか生きている。

 ……幹也はまっとうな病院に担ぎこまれたけど、私はそうはいかない。

 だいたい、自分で食いちぎった左手はトウコが作った義手なんだ。そのままで病院に行くわけにもいかず、私は両儀の家の力で個人病院に運ばれ、その後でトウコの世話になってしまった。

 私は二月中に回復したけど、幹也は今日まで病院のベッドの上。体の傷と投与された薬物の排除は、あいつに二週間の入院を余儀なくさせていた。

 まあ、それも今日かぎり。

 本当はまだ入院していなくてはいけないらしいんだけど、病院はつまらないという理由で幹也は今日退院してくる。

 そんなわけで、私はこの寒空の下で佇《たたず》んでいた。

 国立病院の大きな玄関。ロータリーになっている広場から離れた大きな樹の下で、出入りする人影をちらちらと監視する。

 そんな事を二時間ばかりしていたら、真っ黒な人影が病院から出てきた。

 ズボンも上着も黒色。片手には包帯がしてあってそこだけが白かった。

 黒一色の男は玄関を出て看護婦や医師にお辞儀をすると、すたすたとこっちにやってくる。

 私は声をかけず、ただ待った。

「……まったく。結局一度も見舞いにはこなかったね、君は」

 不満そうに顔をしかめて、黒桐幹也はそう言った。

「鮮花《あざか》に怒られたんだよ。病室に顔を出したら殺すとまで言われたら、行く気もなくすさ」

 こっちも不機嫌そうな表情で言い返す。

 幹也はなら仕方ないか、とやっぱり不満そうに頷いた。

「じゃ、行こうか。タクシーにでも乗る?」

「駅までたいした距離じゃないだろ。歩いていこうぜ」

「……まあ、それもいいか」

 病みあがりには厳しいけど、と付け足して幹也は歩きだす。

 私はそれに並んで歩きだした。

 その後はいつも通り。とりとめのない事を話しながら、駅に向かうなだらかな坂道を下っていった。

 ちらりと、幹也の横顔を眺める。

 ……彼は、髪を伸ばしていた。

 といっても左の前髪だけで、長髪というわけでもない。ちょうど左目が隠れるよう伸ばした髪のせいで、よけいに真っ黒な人影になっている。

「左目」

 ぽつりと呟くと、ああ、と幹也はなんでもない事のように駄目だった、と答えた。

「静音《しずね》ちゃんの言うとおりになっちゃったな。ほら、覚えてる? 夏にさ、一時間だけ喫茶店で話した女の子だけど」

「未来視の女のことだろ。覚えてるよ」

「うん。その子がさ、言ってたんだ。式に関わると最後にひどい目にあうって。予言的中。ほんと、ひどい目になった」

 どんな神経をしているのか、幹也は楽しげに笑ってそんな事を言う。

 ……私は、少しだけカチンときた。

 こんな時、いったい私にどんな顔をしろっていうんだ、ばか。

「でも右目に支障はないって。だから大した事じゃないよ。ちょっと遠近感がズレてるだけ。……そう

いうわけで、左に寄ってくれない? 慣れてなくてさ、まだそっち側が不安なんだ」

 言うより早く、幹也は私を左側によせて、あまつさえ寄りかかってきた。

「何するんだ、突然」

 すこし驚いて、それでも冷静に言い返す。

 幹也は不満そうな顔に戻って、私をじい、と見つめてきた。

「何って、松葉杖の代わりだよ。慣れるまでの一週間は式にまかせるから、よろしく」

 何がよろしくなのか、当然のように幹也は言う。

 私はムッとして睨み返した。

「なんだそれ。どうしてオレがそんなコトしなくちゃいけないんだ」

「してほしいから。式が嫌だっていうのなら、いいけど」

 ……病院で何かあったのか、いつになく幹也はこっちの背筋が寒くなるような事を言う。

 じっ、と私を見つめる瞳は濁りっていうものがない。

 私は赤らむ頬を隠すため、視線を逸らした。

「……別に、嫌いじゃ、ないけど」

 ぼそぼそと答えると、幹也は嬉しそうに笑った。

 ……あいかわらず幸せなヤツ。まったく、なんだか私までそんな気分になってくるじゃないか。

「でもオレ、明日から学校があるんだけど」

「そんなのさぼっちゃえ。どうせもうすぐ春休みなんだから、先生だって許してくれるさ」

「おまえな」

 普段からまじめに学校に行けって説教をするクセに、幹也は無責任な事を口走る。

 ……ほんと、この強引さは病院でなんかあったに違いない。あとで訊き出してやろう、と思いついて、私はくすりと笑ってしまった。

「どうしたの、式」

「ああ。おまえは勝手なヤツだなって」

 幹也はきょとんとしてから、にやりとした笑みをうかべた。

「そうだね。もう何年も前から、僕は勝手に君が好きだった。今もそう。式が嫌がっても、勝手に世話をやくって決めたんだ」

 そうして、臆面《おくめん》もなくこんなキザったらしい台詞を口にするんだ。

 私はおきまりの文句を言ってやろうとしたけど、ま、いいか。

 正直にいえば、昔の式だって、ほんとうは――。

「あれ? どうしたのさ、式。こういう台詞ってだめなんだろ。今までさんざん苦手だって言ってたじゃないか」

 拍子抜けしたのか、幹也は自分で墓穴を掘る。

 私は黙っていようと思ってたけど、気が変わった。

 ……うん、まあ一度ぐらいは、ほんとの気持ちを口にしないといけないから。

「そうでも、ないよ」

 え、と驚く幹也。

 彼の顔を見ないようにそっぽを向いて、私はさらりと口にした。

「だからね、幹也。今の式は、そういうの嫌いじゃないっていったんだよ」

 ……ちぇ、やっぱり恥ずかしい。こんなこと、二度と口にするもんか。

 ちら、と幹也の様子を覗き見る。

 どうも精神的なダメージはあっちのほうが大きかったらしくて、幹也は空飛ぶクジラでも見たように呆然としていた。

 それがおかしくて、私は幹也の手を握る。

 ゆっくりと歩いている彼を引っ張るように、足を速めて坂道を下っていく。

 さあ、駅はもうすぐそこだ。

 私は早く帰りたくて、幹也の腕を引いていく。

 握った手の平は、いつか私より確かな力で握り返してきた。

 ――そんな些細《ささい》な出来事が、なぜか嬉しい。

 私は頬のにやつきを冷静に抑えながら、坂道を下っていく。

 やがて駅に辿り着いて、私たちは馴染み深い、自分たちの街へと帰っていった。

 曲がりくねった帰り道。

 遠くて、見失いそうな険しい道でも、誰かに手を握られてる。

 私がほしかったのはナイフでもなんでもなくて、ただその手の平だったんだ。この先どんな事があったって、私はこの手を放すコトはないと思う。

 だから、これで私の物語はおしまいだ。

 私は今の自分も昔の式も受け入れて日常を過ごしていく。

 あとは、ちょうどこの季節のように。

 寒かった冬が終わって新しい春が訪れるその時を、静かに心待ちにしようと思う――。

[#地付き]/殺人考察(後)?了

[#改ページ]

[楼主] [5楼] 作者:滄炎沁夢2005 发表时间: 2008/04/13 02:41 [加为好友][发送消息][个人空间]回复 修改 来源 删除空の境界

空の境界/

 街は四年ぶりの大雪に見舞われていた。

 三月に降る雪は、季節を凍らせるように冷たい。

 夜になっても白い結晶は降りやまず、街は氷河期のように死んでしまった。

 深夜零時。道には人の姿はなく、ただ街灯の明かりだけが雪のヴェールに抵抗している。

 暗いはずなのに白く染まったその闇の中で、彼は散歩に出かける事にした。

 とりわけ目的があった訳ではない。

 ただ予感だけがあって、その場所へ歩いてみた。

 黒い傘をさして、降り積もる雪の中を歩いていく。

 果たして、そこに彼女は立っていた。

 四年前の日と同じように。

 誰もいない白い夜のなか、着物姿の少女はぼんやりと闇を見つめている。

 彼は四年前と同じように、やあ、と気軽に声をかけた。

 着物姿の少女は振り向いて、にこりと微笑う。

「――久しぶりね、|黒桐《こくとう》くん」

 見知らぬ少女は、もうずっと彼を知っていたような、柔らかな笑みをうかべていた。

「――久しぶりね、黒桐くん」

 |両儀式《りょうぎ し き》という少女は、彼に馴染みのない口調をしていた。

 そこにいるのは彼が知っている|式《しき》でも、まして|織《シキ》でもない知りえない誰か。

「やっばり君か。……ああ、なんとなく会えると思ってた。それで、式は眠ってるの?」

「そうね。今は、わたしとあなただけ」

 にこりと|微笑《わら》う。

 それは女性という存在が形になったような、完壁な微笑《ほほえ》みだった。

 彼は尋ねる。

「君は、誰なんだい」

「わたしはわたしよ。どちらのシキでもない、ただガランドウの心の中にいるわたし。それともガランドウのココロがわたしなのかな」

 自らの胸に手をあてて、|瞼《まぶた》を閉じる。

 ……彼女は言った。

 なにもかも受け入れるのなら、傷はつかない。

 自分に合わないことも、自分が嫌いなことも、自分が認められないことも、反発せずに受け入れてしまえば、傷はつかない。

 けれどその逆だって同じこと。

 なにもかもはねのけるのなら、傷つくしかない。

 自分に合っていることも、自分が好きなことも、自分が認められないことも、同意せずにはねのけてしまえば、傷つくしかない。

 ……それは、かつて彼女自身だった、式と織という人格の在り方だった。

「肯定と否定しかない心は完全であるが故に、孤立してしまうの。そうでしょう? 汚れない完全な単色は、混ざりあえないかわりに変色する事もできず、ずっと同じ色のままだもの。

 それが彼女たち。シキっていう人格は一つの土台の両端にある極点みたいなものかしらね。その間には何もない。だから、そのなかに、わたしがいるの」

「そっか。まんなかにいるのが君なんだ。じゃあなんて呼べばいいのかな。その、やっばりシキでいいの?」

 はて、と首をかしげる彼の仕草《しぐさ》がおかしくて、彼女は思わず笑ってしまう。

「いえ、両儀式がわたしの名称よ。けれどシキと呼んでもらえるなら嬉しいな。それだけで待ってた意味がでてくるもの」

 微笑む彼女は、こどものようにも、おとなのようにも思えた。

 彼と彼女はとりとめのない、わずかなコトを語りあった。

 彼はいつもどおりに話して、彼女も楽しそうに聞いている。

 ふたりの関係はいつもの関係と変わらない。

 けれど、ただ、彼女だけが違っていた。

 彼女は彼との違いを悟っていく。その、決して混ざりあえない絶望だけを。

「ねえ。四年前の事を、式は覚えてないの?」

 とうとつに、彼はそんなことを尋ねた。

 そう、まだ彼が高校生だった頃の話だ。彼は彼女に以前一度会ったことがある、といったのに、式はそれを覚えていなかった。

「ええ、わたしと彼女たちは違うから。織と式は隣りあってる者だから、お互いの事はよく覚えている。けれどわたしは彼女たちが知覚できない自分だから、今日のことも式は覚えていないでしょうね」

 そうか、と彼は残念そうに呟いた。

 ――四年前の一九九五年の三月。

 彼は、彼女に出会った。

 きっかけは、ほんとうに些細なこと。

 雪が降った中学生最後の夜、彼はこの道を通って家に帰る途中、ひとりの少女を見かけた。

 少女はこの道に立っていて、ぼんやりと空を見上げていた。

 彼はそのまま帰って、寝ようとした時にふと少女のことを思い出した。そうして散歩がてらに外に出てみたのだ。

 すると少女はずっとそこに立ったままで、彼は少女に声をかけた。

 こんばんは、と十年来の友人のような気軽さで。

 きっと、あんまりにキレイな雪だったから。

 見知らぬ誰かとでも、一緒に遊びたくなったのだろう。

「黒桐くん。わたしもね、あなたに尋ねたい事があるの。少しだけ残念だけど、お話はそれでおしまいにしましょう。わたしはそのために出てきたんだから」

 彼女は見かけより何倍も大人びた瞳で彼を見つめる。

「あなたのほしいものは、なに?」

 質問は漠然としすぎていて、彼には答えられない。

 彼女は感情のない機械のような表情。

「願いを言って、黒桐くん。わたしは人の望むものなら大抵のことを叶えてあげられるわ。式はあなたが好きみたいだから、わたしの権利はあなたのものだもの。

 ――さあ、あなたは何を望むの?」

 手を差しのべた彼女の瞳は透明で、どこまでも深い。果てまで見渡せてしまえそうな瞳には人間性というものが欠けていて、なんだか神さまを相手にしているみたいだった。

 そうだね、とわずかに思案して彼は彼女の眼差しに応える。

 無欲というのでもなく、信用していないというわけでもなく。

 いらないよ、と彼は答えた。

 彼女は瞳を閉じて、そう、と吐息を漏らす。それはひどく残念そうで、けれど安堵するような慈《いつく》しみをおびた|翳《かげ》り。

「……そうね、わかりきっていたことだった」

 そうして彼女は彼から視線を逸《そ》らして、白い闇をぼう、と見つめた。

「君は、シキじゃないんだね」

 彼は哀しそうにいって、彼女はええ、と頷《うなず》いた。

「――ねえ黒桐くん、人格ってどこにあるのかな」

 明日の天気を尋ねるみたいな、素朴な質問。

 それは答えになんてこれっぽっちも関心がなさそうな、空っぽな気持ちだった。

 だっていうのに、彼は口元に手をあてて真剣に考える。

「……どうだろう。人格っていうのは知性のことだから、やっぱりあたまのなかにあるんじゃないのかな」

 頭の中、つまり脳に知性は宿る。

 彼はそう口にして、彼女はいえ、と首を横に振った。

「……魂は脳に宿る。脳髄だけ生かしきれるコトが可能なら、人は肉体なんかいらない。ただ外部から電気を流してやればずっと脳だけで夢を見て生きていける――そう、式に語った魔術師がいたわ。あなたと同じね。人格は頭の中にあるって答え。

 でも、それは間違いなの。

 例えばね、黒桐くん。あなたという人間、あなたという人格、あなたという魂をカタチにしているのは遍歴をつみかさねた知性と、そのカラである肉体なの。知性を生む脳だけでは人となりを表す人格は作られない。

 ……そう、脳だけで生きていけるというけれど、わたし達は肉体があって初めて自己を認識できる。肉体があって、それと一緒に育ったから今の人格があるの。自分の肉体が好きなひとは社交的な人格を持つだろうし、嫌いなひとは内向的な翳りを持ってしまう。人格は知性だけで育つけれど、知性だけで育った人格は自己を省《かえり》みない、およそ人間の心とは別の物に成長してしまうわ。それじゃあ人格じゃなくて、ただの計算機と変わらなくなってしまうでしょ?

 脳だけになるというのなら、その人は『脳だけの自分』という新しい人格を作らないといけない。肉体という大我を捨てて、知性という小我を大元にしなくちゃいけない。

 知性があって肉体がある、ではないの。

 肉体のあとに、知性が生まれる。

 でも知性の元になった肉体には、やっぱり知性なんてものはない。肉体はただあるだけだから。けど肉体にだって人格はあるわ。だって一緒に育って、知性を生んだわたしなんだから」

 ああ、と彼は声をあげた。

 ……聞いたことがある。人間は三つの事柄で出来た生物だって。精神と魂、それに肉体というもの。

 精神は脳に、魂は肉体に宿るものだとしたら、彼女はシキの本質なんだ。

 シキという心がない、肉体という名前の人格。

 |両儀式《か の じ ょ》はゆっくりとうなずいた。

「つまりはそういうコトよ。

 わたしは知性が作り出した人格じゃなくて、肉体そのものの人格なの。

 式と織は、結局『両儀式』という大元の性格の中で行なわれる人格交換。それらを全て司っているのは『両儀式』よ。彼女たちが両儀であるのなら、太極があるのは道理でしょう? 太極をかたどるもの、円という輪郭がわたしなの。

 わたしは、わたしと同格のわたしを作った。いえ、意志という方向性がある以上、彼女たちはわたしより高位なわたしかしらね。ふたりが異なる人格であろうと思考回路が同一だったのは、彼女たちが結局『両儀式の中の善と悪』だったから。発端はわたしであり、また、その結論もわたしにある。そうしなければ異なる方向性の彼女たちが両立できるはずはないものね」

 くすり、と両儀式は笑った。

 彼を流し見る視線は、今までのどんな時より――冷たく、殺意に満ちている。

「……よくわからないけど。つまり、君はふたりのシキの原型なんだ」

「そう。両儀式の本質よ。そして決して表に出ない本質。肉体にすぎないわたしは考えるコトができないから、そのままで朽ちるはずだった。「 」であるわたしは「 」であるが故に知性も意味も有り得ないから。

 けれど両儀の家の人たちは、そういった空っぼのわたしに知性を与えた。彼らは両儀式を万能の人間にするために色々な人格を組み込もうとしたの。そうして知性の原型であるわたしが起こされて、その後に全ての地盤になるものとして、式と織をわたしは作った」

 ああ、と彼は息を漏らす。

 式と織、陰と陽、善と悪。それは相反するから分かれたものではない。蒼崎橙子という魔術師は語っていた。そう分かれたのは、それらがもっとも多くの属性を内包するからだ、と。

「おかしいでしょ? 本当は未熟児として消えてしまう筈のわたしは、そうして自分というものを得てしまった。

 生まれたての動物は、赤子の体とそれに見合った知性の芽をもっている。けどわたしのように何も持たずに生まれたものはね、そのまま死んでしまうのが決まりなの。もともと「 」に近いものは体をもって生まれてはいけない。トウコさんに聞いたでしょう? 世界は、世界自身で破滅の原因になる出来事を防いでいるって。だから普通ならわたしは発生しても生まれる事さえなかった。

 わたしのように「 」から直接流れ出た生き物は母親の胎盤の中で死ぬだけ。けど、両儀の血族はそれを生かす技術を持っていたのね。

 そうして生まれたわたしは、けど知性の芽さえない。「 」は無だから、知性だって無なんだもの。わたしはそのまま、外界を認識することなく生きていくはずだった。

 けれど彼らはわたしを起こした。出来合いの人格をわたしに植え付けたのではなく、「 」というわたしの起源を起こしてしまった。無理遣りに外の世界を見せつけられたわたしは、面倒くさくなってその後のことはシキに押しつけることにしたのよ。

 ――当然でしょう? だって外の世界のことなんて、判りきったことばかりでつまらないんだもの」

 無邪気な瞳が笑いかける。

 それは冷酷な、どこか|嘲《あざけ》りを含んだ仕草だった。

「でも、君には意志がある」

 彼には彼女が痛ましいものに見えて、そう口にした。

 彼女は頷く。

「そうね。どんな人にだって肉体そのものに人格はあるけれど、それ自体が自己を認識する事なんかないわ。だってその前に脳が知性を作り上げるもの。

 脳の働きによって生まれた知性は人格になって、肉体そのものを統括する。その時点で肉体に宿っていた人格なんて無意味になってしまう。

 脳だって体の一部にすぎないのに、知性というものは自身を生み出す脳だけを肉体と切り離して考えて、特別なものとして扱うでしょう?

 ソフトウェアはハードがなくちゃカタチにできない。けど、ハード自身もソフトウェアがなければ機能してくれない。人格という知牲は、自らを作りあげた肉体のことなんか知らず、|人格《ちせい》が|肉体《じぶん》を作ったって思うのよ。わたしはその順序が人とは違っただけ。

 それでもね、いまこうしてお話をしているわたしだって、シキという人格があるから話していられるの。シキがいなければ、わたしは言葉さえ理解できない。だってただの肉体にすぎないんだもの」

「……そうか。式っていう人格がいないと君は外の世界を|識《し》る事ができないんだ。だって」

「そう。わたしは電源のはいっていないハードで、シキというソフトウェアがなければただの|匣《はこ》よ。

 ただ内側ばかり見つめるしかない、死に通じているだけの器。魔術師たちは根源に通じているといっていたけど、そんなコト、わたしにとっては何の価値もないことだった」

 彼女はそっと一歩だけ前に出て、彼の顔に手をのばした。

 白い指がさらりと彼の前髪を揺らす。髪の下にはひとつの傷あと。

「……でも、今はすこしだけ価値があるって思ってた。わたしだったらこんな傷ぐらい治してあげられるからって。誰かの力になって、外の世界と関われるんだって。……なのに、あなたは何も望まないのね」

「うん、式は壊すのが専門だからね。無理をしてよけい酷いめにあったら、こわいよ」

 どこまで本気なのか、彼は穏やかな笑顔をする。

 彼女は陽射しから逃れる蝶のように目を背けて、降りしきる雪より緩やかに指を下ろした。

「……そうね。式は、壊すことしかできないもの。あなたにとっては、やっぱりわたしは式なんだわ」

「――式?」

「……わたしの起源は虚無だから、その肉体を持つ式は死が視える。二年間――昏睡状態で外界を見ることもできず、ただ両儀式という虚無を見つめ続けてきた式は、死の手触りを知ってしまったから。

 式はね、ずっと根源の渦と呼ばれる海に浮いていたのよ。ただひとり、「 」のなかで式というカタチをもって」

 ……たしかに虚無というものが起源であるのなら、彼女は全てのものを無に|帰《き》したいと思うのだろう。

 だから例外なく、式はあらゆるモノを殺せた。式という人格が否定しようと、それが彼女の魂の原型なのだから。虚無であるが故に、あらゆるものの死を望む方向性――。

「そう、それが式の能力よ。|浅上藤乃《あさがみ ふじの》と同じ、人とは違ったモノが見れる特殊なチャンネル。根源の渦という世界の縮図を|垣間《かいま》見られる特別な眼。

 けど、わたしはもっと深いところまで潜っていける。いえ――わたし自身が、その渦なのかもしれないわ」

 彼女は彼を見据えたまま不安定な声で続ける。

 誰にもわからない、淋しい感情を|吐露《とろ》するように。

「……根源の渦。すべての原因が渦巻いている場所、すべてが用意されていて、だから何もない場所。それがわたしの正体。ただ繋がっているだけだけど、わたしはソレの一部だもの。それって同じ存在ってコトでしょう?

 だからわたしはなんだってできる。……そうね、目に見えないほど小さな物質の法則を組み替えたり、|遡《さかのぼ》って生物そのものの系統樹を変えてしまうことだって可能だわ。今の世界の秩序を組み替えることだって簡単よ。この世界を作り直すんじゃない。新しい世界で古い世界を握り潰すの」

 言って、彼女は小さく笑った。

 自身を|蔑《さげす》むように、ばかばかしいと口元を歪めて。

「……けど、そんなのに意味はないわ。疲れるだけ。そんなこと、夢をみるのと変わらないもの。だからわたしはなにも見ず、なにも考えず、夢さえ見ないという夢をみる。

 ……なのにわたしとシキの見る夢は違ったみたい。シキはひとりはイヤなんですって。つまらない夢だと思わない? そう、なんてつまらないシキ。なんてつまらない現実。なんてつまらない――わたし」

 |呟《つぶや》いて、彼女は遠くの夜を見つめた。

 大切な、二度と見つめることのできないもののように。

「でもそれは仕方のないことよね。わたしは体にすぎないんだから。どうせ同じものなんだから、彼女の夢につきあわなくっちゃ。

 シキは外を、わたしは内を見つめている。両儀式の体はね、根源と呼ばれる場所に通じているでしょ? 内側しか見れないわたしは、だから全ての出来事を知ってしまってるの。

 それが苦痛で、退屈で、無意味で、わたしは|瞼《まぶた》を閉じていた。……それがまた続くだけだから、結局は以前となにも変わらない。

 ずっと、眠っていればいい。夢も見ないで、何も考えずに、ずっと。

 いつかこの体が朽ちて消えてしまうときも、夢の終わりに気がつかないように」

 言葉は降りつもる雪に埋葬されるように、|鎮《しず》かに闇のなかに溶けていく。

 彼は何も言えず、彼女の横顔を見つめる。

 彼女はそれを|窘《たしな》めるように、小さく、華やかな声で告げた。

「ばかね。こんなコトを気にしないでよ。……でもうん、嬉しいからもう一つだけご褒美をあげようかな。

 式はね、殺人が好きなわけではないの。彼女は勘違いしているのよ。だって彼女の殺人衝動はわたしから生じるものなんだから、それは彼女本人の嗜好じゃないでしょう? だから安心なさいな、黒桐くん。殺人鬼がいるとしたら、それはわたしのことなんだから。あなたを殺したがっていたのは、他でもないわたしだったってことなんだ」

 式には内緒にしてね、と彼女は悪戯っぽく微笑む。

 彼には頷くことしかできない。

 ……器でしかない肉体。

 けれど自己を形成し、成長させる大元の存在。シキという様々な知性を統括する無意識下での知性。

 そんなこと、話してもきっと誰も受け入れない。結局人間は自分というカラの中で夢見ているものにすぎないなんて、そんな、あたりまえのことなのに。

「……そろそろ行くわ。ねえ、黒桐くん。あなたはほんとうに何も望まなかった。|白純里緒《しらずみ りお》と対峙した時も、死と隣り合わせだったのに中立を選んだ。

 わたしには、それが不思議で仕方がなかったの。あなたは今日よりもっと楽しい明日がほしくないの?」

「……ああ、今だって楽しいからね。それで十分だって、思えるんだ」

 そう、と彼女は|呟《つぶや》く。

 あくまで普通な彼を、羨望に似た眼差しで見つめながら。

 ……彼女は思う。

 何の特徴もなく、自分が特別であろうと希望する事なく生きられる人間なんていない。

 人間は誰だって複数の考え、対立する意見、相反する疑問を抱えて生きている。

 その化身が両儀式という人間だとすると、彼はそれが極めて薄い人物。

 誰も傷つけないかわりに、自分も傷つかない。

 何も奪わないかわりに、何も得られない。

 波風をたてず、ただ時間に融けこむように人々の平均として暮らしていって、静かに息をひきとっていく。

 平凡な、当たり障りのない人生。

 けれど社会の中でそういう風に生きていけるのなら、それは当たり前のように生きているのではない。

 何とも争わず、誰も憎まずに暮らしていくことなんて不可能だ。

 多くの人々は自分から望んでそんな暮らしをしているわけではない。特別になろうとして、成り得なかった結果が平凡な人生というカタチなのだ。

 だから――初めからそうであろうとして生きるコトは、何よりも難しい。

 なら、それこそが〝特別?なこと。

 結局、特別ではない人間なんていないんだ。

 人間は、ひとりひとりがまったく違った意味の生き物。

 ただ種が同じだけというコトを頼りに寄りそって、解り合えない隔たりを空っぽの境界にするために生きている。そんな日がこない事を知っていながら、それを夢見て生きていく。

 きっとそれこそが誰ひとりの例外もない、ただひとつの|当たり前《ノーマリティ》。

 ……長い、静寂のあと。彼女はゆっくりと、白く広がる夜の果てに視線を戻した。

 誰にも理解してもらえない特別性と、誰もが理解しようとしない普遍性。

 誰から見ても普通な存在故に、誰も深く彼のことを理解しようとしない。

 誰にも嫌われないかわりに、誰も惹きつけることのない誰か。

 幸せな日々の結晶みたいな彼。なら独りきりなのは、はたしてどちらだったんだろう……?

 ――そんなこと、きっと誰にもわからない。

 たゆたう海を見つめる彼女の瞳には、その波のように密やかな悲しみがある。

 誰に語るのでもなく、|囁《ささや》きが漏れた。

「あたりまえのように生きて、あたりまえのように死ぬのね」

 ああ、それは――。

「なんて、孤独――」

 終わりのない、始まりさえない闇を見つめて。

 別れを告げるように、両儀式はそういった。

 そうして、彼は彼女を見送った。

 もう永遠に会えないことはわかっていた。

 雪はやまず、白い破片は闇を埋める。

 ゆらゆらと、羽根のように、落ちていく。

 ――さようなら、黒桐くん。

 彼女はそう言って、彼は何も言えなかった。

 ――ばかね。また、明日会えるのに。

 彼女はそう言って、彼は何も言えなかった。

 彼はいつかの彼女のように、ただ雪の中で空を眺めた。夜が明けるまで彼女のかわりに見続ける。

 雪はやまず、世界が灰色に包まれた頃、彼はひとり帰路についた。

 黒い傘はゆっくりと、行き交う影さえない道を流れていく。

 白い雪のなか。

 朝焼けに消えていく黒はこの夜の名残のよう。

 ゆらゆらと、独りきりで薄れていく。

 けれど寂しげな翳りもみせず、彼は立ち止まることなく帰り道を辿っていった。

 四年前、初めて彼女と出会った時と同じように。

 一人静かに、ただ、雪の日を唄いながら。

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