饭饭TXT > 海外名作 > 《空の境界/空之境界(日文版)》作者:[日]奈須きのこ/奈须きのこ【完结】 > 空の境界@txtnovel.com.txt

第 5 页

作者:日-奈須きのこ/奈须きのこ 当前章节:15333 字 更新时间:2026-6-15 18:51

 運転をする大輔兄さんを睨んで、僕は車の助手席に深く背を預けた。

「そうか。くそ、おまえが見ていれば話は早いんだがなあ。……考えてみれば犯人が目撃者を見逃す筈がないな。ま、|肉親《おまえ》に死なれたら兄貴に申し訳がたたん。俺にとってはおまえが何も見ていなくて助かった」

「刑事失格だね、大輔さんは」

 いつも通り、平然と兄の言葉に相づちをうつ自分がイヤになった。

 嘘つき、と心の中で自分を罵倒する。

 ……自分でも、こんなに堂々と居直って嘘を言ってしまうなんて信じられない。しかも事は刑事事件だ。見た事は正直に話さなければ、事態は悪いほうへと転がってしまうのだ。

 だというのに、僕はあの現場に式がいたという事を一言も口にしなかった。

「なんにせよおまえが無事でよかったよ。それで、初めて仏さんを見た感想はどうだった?」

 意地が悪いこの人は、この状況でもそんな事を訊いてくる。

「最悪。二度と見たくない」

 だろうよ、と兄さんは楽しそうに笑う。

「だがまあ今回のは特殊なやつだ。通常はもちっとマシだから安心しろ」

 ……はあ。まったく、何に安心しろっていうんだろうか。

「しかし幹也が両儀の娘と知り合いだったとはな。世の中は狭いねえ」

 兄にとっては意外で楽しいだろうその事実は、逆に僕を暗くさせる。

 ……両儀家の前で起きた殺人事件は今までの通り魔殺人と同一視されたものの、捜査はぱったりと止まっていた。警察も一通りの現場検証を済ますと両儀家の敷地には立ち入らない。兄さん曰く、両儀家からの圧力であるらしい。

 今回の事件は二月三日(土曜日)の午後十一時半から十二時にかけて犯人による殺害が行なわれ、唯一の目撃者は黒桐幹也だけと記録された。

 その僕も、事が終わった後の現場を目撃し、死体を見たショックで意識が混濁している所を巡回中の警官に保護された、という事になっている。

 両儀家のほうも、僕も、式については何も語っていない。

「けど兄さん。両儀家の人たちは調べたんでしょう?」

 探りをいれてみると、いや、と大輔さんは首をふった。

「娘の式の方はおまえの高校に通ってるしな、ぜひ話を聞いてみたかったが断られた。屋敷内ならともかく、外で起こった事など知らん、とよ。だが見た感じ、ありゃあ白だな。事件には関係ない」

「え?」

 思わず声が漏れた。

 僕はこれでも大輔兄さんを信頼している。署内でもこの人が免職にならないのはその有能さゆえだという評判だ。だからきっと、兄さんは式を怪しんでいると思ったのだが。

「その根拠はあるの?」

「んー、まあな。おまえ、あんな綺麗な子が人を殺すと思うか? 思わないだろ? 俺だって思わないぞ。こんなのは男として当然の結論だ」

 ……だから、どうしてこの人は刑事になんてなったんだろうか。いや、それ以前に僕以上の能天気ぶりにため息がでる。

「なるほど。兄さんは生涯独身だよ」

「おまえな、もう一度ぶちこむぞ」

 証拠不十分で釈放になるって。

 ……けど、兄さんの意見には僕も賛成だ。

 兄さんのような直感はないにしても、一連の事件は式じゃないというのが黒桐幹也の意見である。

 たとえ彼女本人がそれを認めても、僕はそうではないと信じている。

 だからその為に、一つやらなくちゃいけない事が出来てしまった。

        …

 事件は解決に近付いた。

 こうして翌日から三年後のあの日まで、街を闊歩する殺人鬼の姿は完全に途絶える事となる。

 この時の僕にとって、この出来事はまったくの他人事でしかなかった。

 けれどこれは、僕と式にとって最初で最後の、自分たちに関する事件でもあったのだ。

殺人考察(前)?了

       /4

 屋敷の前で殺人事件が起きた。

 私はその日、夜の散歩に出た後の記憶が曖昧だった。

 けれど不鮮明な記憶を繋ぎあわせれば、何をやっていたかは明白になる。

 織もそうだが、私も血の匂いには弱い|質《たち》だ。見ているだけで意識がほう、とする。

 今回の死体の流血はとくに綺麗だった。

 屋敷に通じる石畳の道。石と石の間の溝は迷路のようで、その迷路を走っていく朱色の線は今までにない雅びさがあったから。

 けれどそれが災いした。

 気がつけば誰かが背後で嘔吐していて、振り返ってみればそれは黒桐幹也だった。

 どうして彼があの場にいたか、私にはわからない。あの時だって疑問にも思わなかった。

 でも、と思う。

 その後私は屋敷に戻ったが、事件の発覚はそれよりもっと後になったようだ。私があの場にいたという話もない。

 とすると、あの時に見た彼は夢だったのだろう。あの真正直な同級生が、殺人鬼を庇いだてする道理はないのだから。

 けど―――よりにもよって家の前とは。

「織、あなたなの……?」

 問いかけてみたが、答えは返ってこなかった。

 私と織はズレている。その感覚は日に日に強くなっていた。織に体を預けても、決定権は自分のものだ。けれどその時の記憶が曖昧なのはどういう事なのだろう。

 ……もしかして。

 自分ひとり気付いていないだけで、私も両儀の血筋たちのように狂ってしまっているのだろうか。“自覚がある異常者なんて偽者だよ”と織ならば言うだろう。異常者にとってみれば周りのほうがおかしいのだから、自分になんら疑問は持つまい。

 少なくとも私はそうだった。という事は、私は十六年かけてようやく周りと自分の違いを思い知らされたということか。

 でも、それは誰によってなのだろう。

「お嬢様、よろしいでしょうか」

 ドアのノック音と秋隆の声。

「なにか?」

 入ってください、という意味合いの言葉に秋隆は従った。

 眠りにつく直前の時間帯のため、彼はドアを開けただけで室内に入ってこようとはしない。

「屋敷の周りに張り込んでいる者がいるようです」

「警察は父が追い払ったと聞きました」

 はい、と秋隆は頷く。

「警察の監視は昨夜から撤退させました。今夜のは別件ではないかと」

「好きにしなさい。私には関係のない事でしょう」

「ですが、張り込んでいるのはお嬢様のご学友のようなのです」

 言われて、私はベッドから立ち上がった。

 屋敷の門が見渡せる窓に近付くと、カーテン越しに外の風景を見る。

 門の周囲の竹林の中、せめてあと少しだけでも巧く身を隠してほしい、と思うほど目立った人影がある。

「―――――――」

 ……頭に、きた。

「ご指示してくださればお帰り願いますが」

「あんなの、放っておいてかまいません」

 私はベッドまで小走りに戻ると、そのまま横になった。秋隆はお休みなさいませ、と残してドアを閉める。

 ……部屋の電気を消して瞼を閉じても、まったく寝付けない。

 やる事もないので、仕方なく私はもう一度外の様子を確かめた。

 茶色のダッフルコートの衿をたてて、幹也は寒そうに身を震わせていた。彼は白い息を吐きながら門を眺めているようだった。……その足元に魔法ビンとコーヒーカップを持参しているあたり、大人物なのかもしれない。

 あの時の幹也が夢だというのは却下だ。

 彼はあの時確かに存在したから、こうして私を見張っている。その思惑は掴めないが、おそらくは殺人者の正体を確かめるためだろう。

 ……とにかく。

 自分でも不思議に思うぐらい腹がたって、知らず私は爪を噛んだ。

        …

 そんな事があった翌日も、幹也はいつも通りだった。

「式、お昼一緒に食べない?」

 なんて誘いをかけ、屋上へと行ってしまう。

 食事の誘いだけは毎回受けている為か、餌付けされているような気がしないでもない。

 私は彼とは関わらないと決めたのだが、幹也があの夜の事をどう考えているかは興味がある。

 おそらく今日あたり問い詰めてくるだろう、と予測して私は屋上についていった。

 けれど、幹也は相変わらずだった。

「式の家って無意味に大きくないか? 訪ねにいった先で家令さんに相手をされたなんて、自慢話になっちゃうぞ」

 家令なんて言葉を知っているあたり、幹也にそんな事をいう資格はない。

「秋隆は父の秘書です。それに今は家令じゃなく管理人っていうのよ、黒桐くん」

「なんだ、結局そういう人がいるんじゃないか」

 ……家の話が出たのはこれだけだ。

 彼の事だから自分の張り込みが気付かれている事は知らないだろうけれど、それにしたっておかしすぎる。

 あの時、返り血を浴びていた私を見た筈なのに、どうして幹也は今までどおりに笑いかけられるのだろう。

 私は自分から切り出した。

「黒桐くん。二月三日の夜、あなたは―――」

「その話はいいよ」

 私の詰問を、彼はそれだけの言葉であっさりと受け流してしまった。

「なにがいいっていうの、コクトー」

 ……信じられない。私は、無意識に織の言葉を使っていた。明らかに式としての私にコクトーと発音されて、幹也は少し戸惑っている。

「はっきりして。どうして警察に黙っているのか」

「―――だって、僕は見ていない」

 嘘だ。そんな筈はない。だってあの時、織は嘔吐している彼に近寄って―――

「式はただあそこにいただけだろ。少なくとも、僕はそれしか見ていないんだ。だから信じる事にしたんだよ」

 嘘だ。ならどうして屋敷を見張る。

 ―――彼に、近寄って―――

「ま、白状すると本当は辛いんだ。だから今は努力してる。自分自身に自信が持てるようになったら、式の話を聞けるようになれるだろう。だから、今はその話はよそう」

 どこか拗ねるようなその表情に、私は逃げ出したくなった。

 ―――近寄って、織は、間違いなく黒桐幹也を殺そうとした―――

 私はそんな事を望んでいなかったのに。

 幹也は信じるといった。

 私も、そんな事を望んでいなかったと信じられれば、こんな未体験の苦しみを味わう事はなかっただろうに。

        …

 その日以来、私は幹也を完全に無視する事にした。

 二日ほど経ってあちらも私に話しかけてくる事はなくなったが、深夜の張り込みは続いていた。

 冬の寒空の下、夜中の三時頃まで幹也は竹林の中にいる。おかげで私は夜の散歩もできないでいた。

 張り込みはすでに二週間ほどになる。

 それほど殺人鬼の正体を暴きたいのか、と私は窓から彼の様子を盗み見た。

 ……ものすごく我慢強い。

 そろそろ午前三時になろうとしているが、幹也はずうっと門を眺めていた。

 そこに鬼気迫るものはなく、逆に――去り際に笑いさえした。

「――――――」

 苛立ちに、唇を咬んだ。

 ああ、やっと判った。

 アレは殺人鬼の正体を暴こうとしているんじゃない。

 あいつにとって、私を信じるのなんていうのは当然の事なのだ。

 だから疑ってなどいない。彼は初めから私が夜出歩かないと確信してあそこにいる。

 私の潔白を確かにするためにあそこにいる。

 だから何事もなく夜が明けて、幸せそうに笑うのだ。

 本当の殺人者を、本当に無実なのだと信じきって。

「―――なんて、幸福な男」

 呟いて、思う。

 幹也といると、なんだか落ち着く。

 幹也といると、彼と一緒なのだと錯覚する。

 幹也といると、そちら側に行けるのだと幻想してしまう。

 けれど、でも、ぜったいに。

 その明るい世界は自分がいてはいけない世界だ。

 自分がいられない世界、自分の居場所がない世界だ。

 ――|幹也《アイツ》は当たり前のような笑顔で私を引きずり込む。

 そう思う私は、そう思わせる幹也に苛立ちを覚えていたんだ。

 織という殺人鬼を飼う私、異常者である私を異常者だと認識させてしまうあの少年―――

「私は独りで足りている。なのにあなたは私の邪魔をするのね、コクトー」

 |式《ワタシ》は狂いたくない。

 |織《ワタシ》は壊れたくない。

 できればこのまま、普通に生きるという|幻想《ユメ》など持たずに生きていければ良かったのに―――。

        ◇

 三月になって、外の寒さはいくらか和らいできた。

 私は何週間かぶりに放課後の教室で外を眺める。

 窓から見下ろす俯瞰の視界は、私のような者にはむしろ安堵を覚えさせる。届かない景色は、届かないからこそ私に希望を抱かせないから。

 夕日で真っ赤に染まった教室に、いつものように幹也がやってきた。

 こうして二人きりで教室で話をするのが織は好きだった。

 ……私も、決して嫌いではなかった。

「式から誘いがあるとは思わなかった。無視するのは止めてくれたの?」

「それができなくなったから呼んだの」

 幹也は顔をしかめる。

 私は織と混ざりあう感覚に襲われながら続けた。

「あなたは私が人殺しじゃないって言ったけど」

 夕日が赤くて、相手の顔が見えない。

「残念ね。私、人殺しよ。あなただって現場を見たくせに。なんで私を見逃すの?」

 幹也は憮然とした顔をする。

「見逃すも何もないだろ。式はそんな事してないんだから」

「私がそうだと言っているのに?」

 ああ、と頷く幹也。

「自分の言う事は話半分に聞けって言ったのは式の方だろ。それに君にあんな事はできない。絶対だ」

 何も知らないでそう言いきる幹也に、私は怒りを覚えた。

「―――絶対ってなに。

 おまえに私の何が理解できるんだ。

 おまえは私の何を信じられるんだ」

 怒りは言葉になって叩きつけられた。

 幹也は困って、寂しげな微笑みをうかべて言った。

「根拠はないんだ。けど、僕は式を信じ続けるんじゃないかな。……うん、君が好きだから、信じ続けていたいんだ」

「――――――」

 それが、とどめになった。

 純粋な力、純潔な言葉は、そうであるが故に小賢しい装飾を剥ぎ取ってしまう。

 彼にとってなんでもないこの言葉は、式という私にとって小さな幸福であり、防ぎようのない破壊だった。

 そう、破壊だ。私はこのしあわせなひとを通して、叶わない時間を見せ付けられただけなのだ。

 ……誰かと暮らせる世界は楽な世界なんだろう。

 でも、私はそれを知らない。

 きっと、私はそれを知らない。

 誰かと関わりを持てば、織がその人を殺してしまう。

 織の存在理由は否定だから。

 そして肯定である私は、否定なくしては存在できない。

 今まで何かに惹かれた事がなかったから、私はこの矛盾を遠ざけていられた。

 知ってしまった今は、願えば願うほどそれが絶望的な願いだと解ってしまう。

 それはとても苦しくて、憎い。

 初めて、心の底からこいつが憎いと思った。

―――幹也は当たり前のように笑う。

 私は、そこにはいられないというのに。

 そんな存在には耐えられない。

 私は確信した。

 幹也は、私を破滅させる――――

「―――おまえは、罵迦だ」

 心底からの本気で告げた。

「うん、よく言われる」

 夕日だけが、赤い。

 私は教室から出ていく。去り際、振り向かずに問いただした。

「ねえ、今日も私を見張りにくる?」

「え……?」

 驚く声。やっぱり私に張り込みがばれていると気付いていなかったようだ。

 幹也は慌てて取り繕おうとするけれど、私はそれを制止した。

「答えて」

「なんの事かわからないけど、その、気が向いたら行くよ」

 そう、と答えて私は教室を後にした。

 茜の空には灰色の笠がある。

 にわかに騒ぎだした雲行きから、今夜は雨になるのだろうと私は思った。

       /5

 ―――その夜。

 夜になって空を覆った雨雲は、ほどなくして雨を降らせ始めた。

 雨音が夜の暗さを、騒々しさに中和させる。

 雨の強さは土砂降りというほどでもなかったが、小雨というほどでもなかった。

 三月初頭といえど、夜の雨は冷たく痛い。

 笹の葉と一緒に雨に濡れながら、黒桐幹也はぼんやりと両儀の屋敷を眺めていた。

 傘をさした手が赤く|悴《かじか》んでいる。

 ふう、と長く息が吐かれた。

 幹也とて、いつまでもこんな変質者まがいの事をやっている気はない。この間に警察が殺人鬼を捕まえてくれれば御の字だし、あと一週間何もなければ止めようと思ってもいた。

 ……流石に雨の中の張り込みは疲れる。

 冬の寒さと水滴の二重苦は、慣れ始めた幹也にとっても辛いものだった。

「はあ……」

 ため息が出る。

 けれど気が重いのは雨の事ではなく、今日の式の素振りだった。

 自分の何を信じられる、という彼女に何を伝えられたのだろうか。

 あの時の式は弱々しかった。泣いているのかとさえ思えたほどに。

 雨は止まない。

 石畳を黒く光らせる水溜まりが、小さな小さな波紋を飽きもせず繰り返していた。

 静かで、なのに騒々しい雨音。

 それをぼんやりと聴いている幹也の耳に、一つ、大きな音が聞こえてきた。

 ばしゃり、と一際大きい水音。

 幹也がそちらに視線を向けると、そこには赤い単衣が立っていた。

 単衣を着た少女は雨に濡れている。

 傘もささず、降りしきる雨に晒された少女は、海の底から上がってきたように濡れていた。

 短い黒髪が頬に張りついている。髪に隠れた瞳はどこか虚ろだった。

「―――式」

 幹也は驚いて少女へと駆け寄る。

 突然現れた少女は、どれほどの時間雨に打たれていたのだろう。

 赤い着物は肌に張りつき、その体は氷より冷たくなっていた。

 幹也は傘を差し出すと、バッグからバスタオルを取り出した。

「ほら、体を拭いて。なにやってんだ、自分の家がそこにあるっていうのに」

 叱りつけながら差し出される腕。

 その無防備さを、彼女は|嗤《わら》った。

 しゅん、と。

 刃物が、空を滑る音。

「――――え?」

 気がつくより千倍迅い。

 差し出した腕に熱い感覚がして、幹也は咄嵯にとび退いた。

 ぼたりと何か温かいものが腕を伝う。

 切られた?

 腕を?

 どうして?

 動かない?

 鋭利すぎる痛み故に、それが普段感じる痛みと同じ物と理解できない。

 あまりの痛みに、痛覚さえ麻痺している。

 幹也に考える余裕はなかった。

 式と思っていた赤い単衣の少女が動く。

 以前この場所で惨劇を見た為か、幹也の意識はまだ混乱していなかった。

 あくまで冷静にとび退いて、ここから逃げ出した。

――――否。

  逃げられる筈がなかった。

 幹也がとび退いた瞬間、彼女は彼の懐に走り寄る。

 その速さはヒトとケモノの違いだった。

 ザン、という音を幹也は自分の足から聞いた。

 雨の中に赤いものが混じる。

 それは石畳に流れる自分の血――そう視認し、立っていられなくなって幹也は仰向けに倒れこんだ。

「あ――――」

 背中を石畳に打ち付けて喘いだ。

 倒れこむ幹也の上に、赤い単衣の少女がのしかかる。

 そこに迷いはない。

 少女は手にしたナイフを幹也の喉元に突き付けた。

 幹也はその光景を見上げる。

 そこに在るのは闇と―――彼女だ。

 |黒瞳《こくどう》に感情はない。

 ただ、本気だった。

 ナイフの切っ先が幹也の喉に触れる。

 少女は雨に濡れているせいか、泣いているように見えた。

 表情はない。

 仮面めいた泣き顔は恐ろしく、同時に憐れだった。

「コクトー、何か言ってよ」

 式は言った。

 遺言を聞いてあげる、と。

 幹也は震えながら、式から目を離さないで言う。

「僕は……死に……たく、ない―――」

 それは式にあてた言葉かもあやしい。

 彼は式にではなく、今襲いかかってくる死そのものに言ったのだろう。

 式は|微笑《わら》う。

「私は、おまえを|犯《ころ》したい」

 それは、とても優しい笑いだった。

空の境界/序

 一九九八年七月。

 橙子さんの事務所に就職して、僕は初めての仕事を無事終わらせた。

 といっても、やってる事は橙子さんの秘書めいた事で、契約上の手続きを弁護士さんと相談して処理しただけだ。

 一人前扱いされていない不満は残るけれど、大学を途中で止めてしまった自分の扱いは半人前なのだという事は自分が一番よく分かっていた。

「幹也クン、今日は病院に行く日じゃなかったかしら」

「ええ、仕事があがってから行きます」

「早くきりあげてもいいよ。どうせ仕事なんてもうないんだから」

 眼鏡をかけた橙子さんはとても親切なひとに変貌する。今日はそのラッキーデイで、本人も一仕事終えたばかりなのだ、と愛車のハンドルを磨いていた。

「それじゃあちょっと行ってきます。二時間ほどで戻りますから」

「おみやげよろしくねー」

 ひらひらと手をふる橙子さんを後にして、僕は事務所を後にした。

 週に一度、土曜の午後に僕は彼女のお見舞いに行く。あの夜以来、話す事も出来なくなった両儀式のもとに。

 彼女がどんな苦しみを抱いて、どんな事を思っていたかは知らない。

 どうして僕を殺そうとしたのかも、わからない。

 けれど式が最後に見せた儚げな笑顔だけで十分だった。

 学人が言う通り、とうの昔から黒桐幹也は両儀式にいかれていたのだ。一度殺されかけたぐらいじゃ、とても正気になんか戻ってやらない。

 病室で眠り続ける式は、あの時のままだ。

 最後の放課後、夕焼けの中で佇んでいた式を思い出す。

 燃えるような黄昏時に、自分の何を信じられるのかと式は問うた。

 あの時の答えを繰り返す。

 ……根拠はない。けど、僕は式を信じ続ける。君が好きだから、信じ続けていたいんだ―――

 それは、なんて未熟な答えだったのか。

 根拠はないと言ったけれど、本当はあったんだ。

 彼女は誰も殺さない。それだけは断言できる。

 だって式は殺人の痛みを知っている。被害者でも

あり加害者でもある君は―――誰より、それが哀しいことを識っている。

 だから信じた。

 傷つかない式と、傷しかない織を。

―――いつも怪我をしそうで危うかった、ただの一度も本心を語れなかった哀しい君を。

        0

 用意された駒は三つ。

 死に依存して浮遊する二重身体者。

 死に接触して快楽する存在不適合者。

 死に逃避して自我する起源覚醒者。

 互いに絡み合いながら相克する螺旋で待つ。

[#改ページ]

<IMG SRC=3痛覚残留タイトル頁111.jpg>

[楼主] [4楼] 作者:滄炎沁夢2005 发表时间: 2008/04/13 02:16 [加为好友][发送消息][个人空间]回复 修改 来源 删除痛覚残留

3 / ever cry, never life.

[#ここから段組み表記なし中央表記]

 わたしがまだ小さかったころ、おままごとをして

 手の平をきった事がありました。

 借り物、偽物、作り物。

 そんなちっちゃな料理道貝の中に、

 ひとつだけ本物がまざっていたからです。

 拵えが立派な細い刃物を手にして戯んでいたわたしは、

 いつのまにか指のあいだを深く切り裂いていました。

 手の平を真っ赤にして母のもとに帰ると、母はわたしを叱りつけてから

 泣きだし、最後に優しく抱きあげてくれたのを記憶しています。

 痛かったでしょう、と母は言いました。

 わたしはそんなわけのわからない言葉なんかより

 抱きしめてもらえたのが嬉しく、母と一緒に泣きだしました。

 藤乃、傷は治れば痛まなくなりますからね―――

 白いほうたいを巻きながら母さまは言います。

 わたしはその書葉の意味もわかりません。

 だって一度も、わたしは痛いとは感じなかったのですから。

/痛覚残留

[#ここで段組み表記なし中央表記終わり]

       (0)

「珍しい紹介状を持ってきたネ、きみ」

 大学の研究室。

 白衣の似合う初老の教授は、どこか爬虫類じみた笑みをうかべて握手を求めてきた。

「へえ、超能力。きみ、そんなものに興味があるの」

「いえ、それがどんな物なのか知りたいだけです」

「そういうの、興味って言うんだよネ。まあいいけど。へえ、名刺を紹介状がわりにするなんて彼女らしいなあ。彼女、ボクの教え子の中じゃ突き抜けてたからさ、気にしてるんだよ。ここも使えるヤツが少なくなる一方でね、人材が無いの。足りないのは、困るよね」

「あの、超能力の話なんですけど」

「うん、そうそう。でもねえ、超能力っていったって種類があるよ。うちじゃ本格的に計測もしてないから、参考になるかなあ。この業界じゃ鬼門だから、日本じゃ数えるぐらいしか研究施設はないんだよネ。決まってそういうの、ブラックボックスになっちゃってるから。ボクの所まで詳しい話はこないんだ。うん、ここ三年でかなり実用的なレベルまで上がったって話だけど、どうかなあ。あれはほら、生まれた時から突き抜けてないとダメだから」

「超能力の区別はいいんです。たぶんPKだと思いますから。僕が聞きたいのは、人間が超能力をどういうふうに持ってしまったか、という話で」

「チャンネルだよ。テレビ、きみは見る?」

「はあ、そりゃあ見ますけど―――それが何か?」

「テレビテレビ。あのね、人間の脳をチャンネルにみたてるんだ。きみ、日常で平均的に見てるチャンネルは何かナ」

「……そうですね、8チャンネルだと思います」

「それ。それって一番視聴率がいいチャンネルって事だよネ。人間ってモノの脳には十二個のチャンネルがあるとする。ボクやきみの脳はね、つねにその8チャンネル……一番視聴率のいい番組に合ってるんだ。それ以外のチャンネルは有るんだけど、ボクらには行けない。一番みんなが見ている番組、つまり常識かな。その常識の中で生きて、生きられるボクらのもっているチャンネルが8チャンネル。わかる?」

「―――その、いちばん当たり障りのない番組を見せられてるってコトですか?」

「違う違う。それが一番いいの。二十世紀の常識、つまり一番視聴率のいい法則が8チャンネル。ボクらはそこにいられるんだから、それが一番平和でしょ。常識の中に生きて、常識という絶対法則に守られて意思疎通ができちゃう」

「なるほど。すると他のチャンネルは平和じゃないんですか?」

「どうだろうねエ。

 例えば3チャンネルは人間の言語のかわりに植物の言語を受信してしまえるチャンネルだとする。

 例えば4チャンネルは本来、肉体を動かす筈の脳波が自分の肉体ではなく外界の物体を動かしてしまうチャンネルだとする。

 この手のチャンネルはあれば凄いよ。けど、そこには8チャンネルで流れている常識はないよね。他のチャンネルにはそのチャンネル独自の“|番組《ルール》”が流れているんだから。

 で、今の時代に即して生きる為のチャンネルはみんなが共通して使ってる8チャンネルなんだから、4チャンネルを見ている人間が|社会《8チャンネル》に適応できる筈がない。他のチャンネルには8チャンネルで流れている当たり前の常識はないからネ」

「―――つまり、8チャンネルがないって事は精神異常者って事になるんですか?」

「うん。仮に3チャンネルしか持っていない人間がいるとすれば、その人間は植物と話せるかわりに人間と話せない。結果として、社会は精神異常者として病棟に監禁する。

 超能力者っていうのはそういうモノ。生まれながらにしてみんなの共通のチャンネルではなく、他のチャンネルを持っている人間の事サ。

 でもね、たいていの超能力者は8チャンネルと4チャンネルあたりを同時に持っていて使い分けてるんだ。チャンネルなんだから、見たい時に番組、変えられるでしょ? 4チャンを見ている時は8チャンは見れない。8チャンを見ている時は4チャンが見れない。

 世間に紛れ込んでいる超能力者はね、そういうふうに使い分けて生きてる。だからボクらはちょっとやそっとじゃ彼らを発見できない」

「なるほど、だから――4チャンネルしか持っていない人間には常識が通用しない。いや、初めからそんな物がないんだ」

「そうだよ。そういう人をね、世間は殺人鬼とか狂人とか言うけどボクらはこう呼ぶ。“存在不適合者”って。

 社会に不適合な人間はいっぱいいるけど、彼らはその存在自体がすでに不適合なんだ。存在していてはいけない。いや、していられない。

 もし仮にだよ。今まで普通のチャンネルと4チャンネルを持っていた人がいて、何かの弾みで肉体の機能が破壊されて普通のチャンネルに行けなくなったら、その人間は終わりだ。今までの生活で常識を知っていたにせよ、そのチャンネルに行けないのでは結局ボクらと話が合わなくなる。電波、違うからネ」

「……では、存在不適合者を、適合者にする方法はありますか」

「うん、生命活動が停止すればいいんじゃなイ?

 もっと的確にいうと、その異常なチャンネルを破壊すればいいよ。でもそれって脳を潰すって事だからサ。結局殺すしかないわけ。肉体の機能を壊さずその組織だけ壊すなんて都合のいい技術はまだない。あったらそれこそ超能力だよネ。一番強力な十二チャンあたりかな。あの局、なんでもありだから」

 あはは、と教授は心底おかしそうに笑った。

「……参考になりました。ところで博士。その、PKと呼ばれる超能力で一番ポピュラーなのはスプーン曲げですか?」

「なに、スプーンって曲がるの」

「スプーンは知りませんけど、人間の腕ぐらいなら」

「それってきみぐらいの成人の腕? すごいね、そりゃあ。“歪曲”は物の硬さより物の大きさが問題になる。人間の腕を曲げるなんて七日はかかるんじゃないかな。で、それはどっち向きかナ? 右かな、左かな」

「――――それ、意味があるんですか?」

「あるよ。軸の問題。地球だって回転方向あるでしょ。え、一定してない? ……ふーん、それって実在の能力? なら関わらないほうがいい。チャンネル、二つ以上もってるよ、その存在不適合者。左回転と右回転。たぶん同時に回せるんだ。ボクね、チャンネルを二つも持ってて、それを同時に使えるなんてケースは聞いた事がない。001と002が合体したら、009だって負けちゃうでしょ」

「……あの、時間がないんでこのあたりで失礼させていただきます。これから長野県まで行かないといけませんので。ええ、今日は本当にお邪魔しました」

「うん、いいよいいよ。彼女の紹介ならいくらでも来て。

 それでさ、きみ。蒼崎くん、元気なの?」

       /1

 ぼんやりとした意識のまま、|浅上《あさがみ》|藤乃《ふじの》は身を起こした。

 藤乃は部屋の中にいた。

 周囲に人影はない。

 部屋の電灯は点いていない。いや、そんなものなどある筈がない。

 暗い闇だけが、彼女の周囲に散乱していた。

目录
设置
设置
阅读主题
字体风格
雅黑 宋体 楷书 卡通
字体大小
适中 偏大 超大
保存设置
恢复默认
手机
手机阅读
扫码获取链接,使用浏览器打开
书架同步,随时随地,手机阅读
首 页 < 上一章 章节列表 下一章 > 尾 页