「ぁ―――――」
悩ましげに吐息を漏らし、藤乃は自身の長い黒髪に触れてみる。……左肩から胸元まで下げていた房がなくなっていた。さっきまで自分にのしかかっていた男がナイフで切ったためだろう。それを思い出して、彼女はようやく周りを見渡した。
ここは地下に作られた酒場だ。
半年前に経営難を理由に放棄されて、その後に不良たちの溜まり場になってしまった廃屋である。
……部屋の隅には乱暴に追いやられたパイプ椅子がある。……部屋の真ん中にはひとつだけビリヤード台が残されている。……コンビニで仕入れてきた簡易食は食い散らかされて、容器が山積みになっている。
そうした色々な怠惰の形が、醜悪な|澱《おり》を作っているようだった。
部屋に充満するすえた臭いに、藤乃は不快になる。
ここは廃墟。それともどこか遠い国にあるスラム街の路地裏だろうか。階段を上がった先に正常な街が存在しているなんて、想像もできやしない。
ここでまともな物といえば、彼らが持ちこんだアルコールランプの匂いだけだろう。
「ええと――――」
きょろきょろと、丁寧な仕草で周囲を見渡す。
藤乃の意識はまだ本調子ではなかった。さっきまで起こっていた事が、まだ把握できていない。
彼女は傍らに転がっている手首を拾いあげた。捻り切られた手首には腕時計が巻かれている。デジタル表示が九八年の七月二十日を示していた。
時刻は午後八時。あれから一時間も経っていない。
「くっ……!」
突発的な痛みに襲われて、藤乃は|呻《うめ》いた。
腹部に物凄い感覚が残る。
自分の中身が締めつけられるようなもどかしさに、彼女は耐え切れずに身をよじった。
ぴしゃり、と床につけた手が音をたてる。
見れば、この廃墟の床は一面が水浸しだった。
「……ああ、たしか今日は雨でした」
誰に語るでもなく呟くと、藤乃は立ち上がった。
ちらりと自分の腹部を見る。血の跡があった。
自分が、浅上藤乃が、ここに散らばっている男達に刺された傷が。
藤乃をナイフで刺した男は、街では有名な人物だった。ドロップアウトした高校生の中でも一際目立ち、遊び人達のリーダーのような存在として知れ渡っていた。
気の合う仲間を集めてやりたい事だけをやっていた彼は、娯楽の一環として藤乃を陵辱した。
理由はあまりない。ただ藤乃が|礼園《れいえん》女学院の生徒であり、美人だったからだろう。
すこしだけ野蛮で、省みないぐらい我が侭で、どことなく頭が悪そうだった彼と、彼の類似品めいた彼らは、一度の暴行だけでは飽き足らなかった。
彼らとて、本来は自分達が訴えられる立場にあると知っていたらしいのだが、藤乃が誰にも相談せずに悩んでいると知って気を変えた。強いのは自分達なのだと気がついて、幾度となく彼女をこの廃墟に連れ込んだ。
今晩もその延長で、彼らは安心しきり、また、この行為に飽きつつあった。
あの男がナイフを持ち出した事も、そういった惰性的な繰り返しを打破する為だったのだろう。
凌辱されながらも日々を変わらず過ごす藤乃に、若者達のリーダーは自尊心を傷つけられていたのだ。彼は藤乃を支配するのは自分なのだという、確かな|証《あかし》が欲しかった。その為の更なる暴力としてナイフを用意した。
けれど、少女はよけい冷めた顔をするだけだった。
ナイフを突きつけられても表情を変えない少女を、彼はいきり立って押し倒し、そして――――
「……これじゃ、外には出られない」
血にまみれた自身に触れて、藤乃は目を伏せた。
自分の流した血は腹部に残る刺し傷だけだったが、髪から靴に至るまで彼らの血液で汚れてしまっていたからだ。
「こんなに|穢《よご》れて―――馬鹿みたい」
今日まで犯され続けた事より、血に汚れた事のほうが許せないのか。
藤乃は散らばった若者達の肉体の一つを蹴りつけた。普段の自分からはほど遠い凶暴性に驚きつつ、藤乃は考える。
外は雨だ。あと一時間もすれば人通りも少なくなる。雨といっても季節は夏だから、冷たいという事もあるまい。雨で血を落としながら公園に行って、そこでなんとか汚れを落とそう―――――。
そう結論を下すと、彼女はとたんに落ち着いた。
血だまりの中から歩き出て、ビリヤード台の上に腰をかける。そこでようやく死体を数えた。
一つ、二つ、三つ、四つ。……四つ。……四つ。……四つ? どんなに数えても、四つ……!
愕然とした。
―――――ひとつ、足りない。
「ひとり、お逃げになったのですね――――」
儚げに漏らす。
なら自分は警察に捕まってしまうだろう。彼が交番に駆け込めば、わたしはそのまま逮捕される。
けれど―――はたして、彼は交番に行くだろうか?
この出来事を、どのように説明できる?
浅上藤乃という少女を大人数で拉致して凌辱し、その件を学園側に公表されたくなければ大人しく従え、という脅迫をした始まりから説明する―――?
まさか。
そんな事は不可能だし、こんな連中に真実を隠して巧く作り話をする能力はありえない。
藤乃は少しだけ安堵すると、ビリヤード台にあるランプに火を点した。
ぼう、という乾いた音がして、炎が暗闇を照らしあげる。
十六個ものバラバラの手足が、はっきりと浮かび上がった。探せば胴体と首も四つずつあるだろう。
オレンジ色の光に照らされて、気が狂ったかのように赤く塗り替えられた部屋は、あらゆる意味で終わっていた。
その惨状を、藤乃はあまり気にしなかった。
……一人、逃げた。彼女の復讐はまだ終わっていない。
喜ばしい事に、まだ終わってはいなかった。
「わたし、復讐しなくちゃいけないのかしら」
まだあと一人殺さなくてはいけない、という事実に藤乃は恐怖した。出来るはずがない、と体が震える。でも彼の口を封じないと自分の身が危ない。いや、だとしても人を殺すなんて、そんな悪い事をするのはもう厭だ―――
それは彼女のまったくの本心だった。
……血だまりに映った彼女の口元は、小さく笑っていた。
痛覚残留/
1
七月も終わりに近付いて、僕の周囲はにわかに騒がしくなってきた。
二年間も病院のベッドで昏睡状態にあった友人が意識を回復したり、大学を止めて就職した先の仕事場で二つ目の大仕事が終わったり、五年ほど会っていなかった妹が上京してきたり、と息をつく暇もない。
僕こと黒桐幹也の十九歳の夏は、そんな慌ただしさの中で始まった。
今日は久しぶりの休日だったけれど、高校時代の友人の誘いで飲み会に顔を出して、気がつけば終電を逃していた。
飲み会に参加した連中はタクシーを捉まえたりして帰っていったが、給料日を明日に控えた自分にそんな余分なお金はない。
仕方がないので歩いて帰ることにした。幸い自宅はここから二駅ほどしか離れていないからだ。
さっきまで七月二十日だった日付は、もう次の日である二十一日に移り変わっている。
午前零時すぎ、夜の街をひとり歩く。
明日が平日という事もあり、繁華街は眠りにつこうとしていた。今日の晩はひどい雨だった。深夜になって雨は止んでくれたが、アスファルトにはいまだ名残が強い。
濡れた路面が水音をたてる。
夏も|真中《まなか》。今夜も気温は三十度をゆうに超えている。夜の熱気と雨の湿気が肌にまとわりついてうんざりしていると、道にしゃがみこんでいる女の子を見かけた。
黒い制服を着た女の子が、苦しげにお腹を押さえて道の端にうずくまっている。
……その、教会のシスターを思わせる制服には見覚えがあった。地味なくせにパーティードレスを連想させる優美なデザインは、お嬢様学園と名高い礼園女学院のものだ。学人に言わせるとメイドさんぽくていい、とその筋の人達には大人気の制服である。
断っておくと別に僕はその筋な人なのではなく、妹がそこに入学しているので見知っていたのだ。
「礼園は全寮制だと聞いたけど……」
なのに、こんな時間にこんな所にいるのは怪しすぎる。何かのトラブルに巻き込まれたのか、それとも校則を守らない不良さんなのか。
妹の事もあるし、少女に声をかける。
もしもしと話しかけると、少女は緩やかに振り向いた。さらり、と長く束ねられた黒髪が流れる。
「――――」
少女は微かに―――ものすごく密やかに、息を呑んだように見えた。
髪の長い子だった。瞳は落ち著いていて、とても大人しそうだ。整った顔立ちは小さく、可愛らしいくせに細く鋭角的な輪郭をしている。その微妙なバランスは日本人形の美に近い。
長い髪をストレートに背中にさげ、耳元から髪をわずかに束ねて胸元まで左右対称におろしている。その左右対称の房の、左側だけがハサミに切られたように無かった。
前髪は綺麗に切り揃えられていて、一目で良家のお嬢様を連想させる。
「はい、なんでしょう」
青い顔で少女は言った。
唇が紫色。チアノーゼを起こしているのは明白だ。少女は片手をお腹にあてて、苦しそうに顔を歪めていた。
「お腹、痛いの?」
「いえ、その―――わたし、あの―――」
少女は平静を装いながら、言葉を空回りさせる。
その様はどこか危うかった。まるで初めて会った頃の式のように、今にも倒れてしまいそうな雰囲気がある。
「君、礼園の生徒さんだろ。電車に乗り遅れたの? ここからじゃ礼園は遠いよ。タクシーを呼ぼうか?」
「いえ、いいんです。わたし、持ち合わせがありませんから」
「うん、僕だってないよ」
少女は、はあ、と目をしばたいた。
……我ながら、とんでもない条件反射をしてしまったもんである。
「そっか。なら家が近いんだね。礼園って全寮制って聞いたけど、外出届が通るのか」
「いえ、家はもっと遠いんです」
ははあ、と頭を掻いた。
「つまり家出のたぐいかな」
「はい、そうするしかないと思います」
……困った。
見れば少女はずぶ濡れだ。さっきまでの雨に傘もささなかったのか、ぽたぽたと水滴がしたたっている。
あの時以来、僕は雨に濡れた女の子は嫌いだった。
だからだろう。自然に、こんな言葉が出た。
「今晩だけ、僕の所に来る?」
「そんな、よろしいんですか……!?」
しゃがみこんだまま、すがるような目付きで少女は訊いてきた。僕は頷く。
「一人暮らしだから問題はないけど、保証はしないよ。一応その気はないけど、へんな偶然が起きてこっちがその気になっちゃうかもしれない。これでも健康な成人男子だから、そのあたりは考慮にいれてくれ。それでもいいっていうんなら、おいで。あいにく給料日前で何もないけど、鎮痛剤ぐらいはある」
少女は喜んだ。その無防備で純粋な笑みは、僕も嬉しい。
手を差し伸べると彼女は緩やかに立ち上がった。
―――一瞬。
少女が座っていたアスファルトに、赤い染みがあったような気がした。
…
僕は見知らぬ女の子を連れて、夜の街を歩きだした。
「わりと歩くけど、苦しかったら言いなさい。女の子ひとりぐらいなら、なんとか背負っていけるから」
「はい。でも傷は塞がっていますから、痛みません」
そう遠慮する彼女は、けれど片手を腹部にあてたままだ。どう見ても何かの痛みに苦しんでいるようにしか見えない。
僕はなんとなく、さっきと同じ言葉を繰り返した。
「お腹、痛む?」
いえ、と少女は否定して黙り込んだ。
少し歩く。
ほんの少しの沈黙のあと、少女は首を縦に振った。
「―――はい。とても……とても痛いです。わたし、泣いてしまいそうで―――泣いて、いいですか」
こちらが頷くと、少女は満足そうに瞼を閉じた。
夢見るような表情だった。
…
少女は名乗らなかったので、僕も名乗らない事にした。そのほうが、なんとなくロマンチックだからである。
アパートに辿り着くと、少女はシャワーを借りたいと言い出した。濡れた制服も乾かしたいというので、席を外す事にする。
煙草を買ってくる、なんてありふれた言い訳をして部屋を出た。吸いもしない物を買いに行くほど、自分がお人好しだと実感する時はない。
一時間ほど時間をつぶして帰ってみれば、少女は居間のソファーにもたれて眠っていた。
目覚ましを七時半にセットしてベッドに横になる。
……眠りにつく時、お腹のあたりが切られた、少女の制服がやけに気になった。
翌朝。目が覚めると、少女は所在なさそうに居間に正座していた。
こちらが起きるとぺこり、とおじぎをする。
「昨晩はお世話になりました。お礼はできませんが、本当に感謝しています」
それでは、と少女は立ち上がって出ていこうとする。……そのおじぎをする為だけに正座をして待っていたかと思うと、このまま帰すのに忍びない。
「待った。朝ごはんくらい食べていきなさい」
言うと、少女は大人しく従った。
残っている食材はパスタとオリーブ缶だけだったので、朝食は自然、スパゲッティーとなる。
二人分を手早く作って食卓に運び、少女と一緒に食べる事にする。会話が淋しいのでテレビをつけると、朝からとんでもないニュースがやっていた。
「―――うわあ。こいつはまた、なんて橙子さん好みな」
本人がいたらスリッパでも投げられそうな呟きをしてしまった。でもそれぐらい、ニュースの内容は猟奇的だったのだ。
現場にいるキャスターが淡々と語る。
半年前から放置されていた地下バーで、四人の青年の死体が発見された。四人はいずれも何者かに手足を引き千切られ、現場は血の海になっていたそうだ。
場所はわりと近い。昨日の飲み会から、四駅ほど離れたあたりか。
―――手足を切断された、ではなく引き千切られた、という表現はどこか不適切だ。なのにニュースではその部分に関して追究はせず、被害者達の身元を公表し始めた。
被害者の四人はいずれも高校生の少年で、現場付近の街を中心に遊んでいた不良らしい。
薬の販売にも手を染めていたとかで、ニュースキャスターにマイクを向けられた関係者が被害者の生前を語っていた。
“殺されても仕方ないんじゃないですかね、あの連中”
そんな言葉が、声質を変えてテレビから流れる。死者を責めるようなニュース内容に嫌気がさして、僕はテレビをきった。
ふと少女を見ると、彼女は苦しげにお腹を押さえていた。朝食を一口も食べていないところを見ると、やはりお腹の調子が悪いんだろうか。……俯いているため、表情が判らない。
「―――殺されて仕方のない人なんて、いません」
荒い呼吸のまま、少女はそう口にした。
「なんで―――治ったのに、こんな……!」
少女は乱暴に椅子から立ち上がると、髪を乱して玄関まで走っていく。
あわてて迫いかけると、少女は俯いたままで片手を突き出した。近寄るな、という意思表示だった。
「待った。落ち着いたほうがいいよ、思うに」
「いいんです、わたし―――やっぱり、もう戻れない」
苦しみに歪む顔。
痛みに耐えるその顔は、ひどく――――式に似ていた。
少女は落ち着くと、深くおじぎをしてドアノブに手をかける。
「さよなら。もう二度と、会いたくありません」
少女はそうして去っていった。
人形のように静かな顔立ちの中で、瞳だけが泣きそうだった。
2
見知らぬ少女との一件の後、会社へ向かった。
僕が勤める会社に正式な社名はない。専門は人形作りなのだが、大部分の仕事は建築関係の仕事だった。
所長である蒼崎橙子は見た目二十代後半の女の人で、工事途中で放棄された廃ビルを買い取って自分の事務所にするような変人だ。ようするにそれは会社ではなく、橙子さん本人の趣味の延長に他ならない。
そんな所で働く事にしたのには色々と事情があるのだけれど、今はこれが黒桐幹也の日常だ。
愚痴はあるけど文句はない。むしろ幸運だとさえ思っている。……問題もあるんだけど、そんなのはまだ我慢できる範囲だし。
―――そんな事を思っているうちに会社についた。
ビルは四階建てで、事務所は四階にある。
工場地帯と住宅地の間にあるこのビルは、どことなく伽藍のようだ。あまり高くないくせに、見上げる者の心を威圧している。
エレベーターはないので、階段で四階へと上がった。
事務所に入ると、いつもの散らかった光景の中に不釣り合いな姿がひとり。
黒に近い藍色の若物姿の少女が、気怠い眼差しでこちらに振り返る。―――着物には魚らしき模様があった。
「あれ? 式、なんでこんな所にいるのさ」
「こんな所とは失礼だな。まがりなりにもここは君の仕事場だろう、黒桐」
式の向こう側、机に向かった橙子さんがじろりと睨む。
煙草を口に咥えた橙子さんは、相変わらず飾り気のない服装をしている。葬式にだって出られるぐらいスマートな黒いパンツに白いシャツ。片耳にだけピアスをしていて、色は無論オレンジだ。理由は不明だけど、この人はオレンジ色の飾りを必ず一品つけるという嗜好があるらしい。
「しかし早いな。しばらく仕事の受注はないから、今日は昼過ぎに顔を出せといったろう」
「いえ、そういう訳にもいきません」
そう、こっちの金銭状態がそういうワケにはいかないのだ。さすがに手持ちが電車の定期とテレホンカードだけ、というのは心細い。
「それより、なんで式がいるんですか?」
「私が呼んだんだ。少しばかり野暮用ができてね」
式は何も言わず、ただ眠そうに片目をこすった。昨晩も夜に出歩いていたのだろうか。
まだ彼女が昏睡状態から回復して一月ほどしか経っていない。僕らはなんとなく、お互いに話しづらい関係にあった。
式は話したくなさそうなので、自分の机に向かう事にする。
……仕事がないから、やるせない。こういう時は雑談にかぎる。ちょうどいい話題もある事だし。
「そういうば橙子さん、ニュース観ました?」
「ブロードブリッジの事か。外国じゃあるまいし、日本にあんな大きな橋はいらないよ」
言われて、僕はうっと身を退いた。
橙子さんが言っているのは、来年に完成が予定されている全長十キロメートルの大きな橋の事である。僕らの住んでいる街は港に近い。車で二十分も走れば武骨に埋め立てられた人工の港に辿り着くのだが、この港は地形に問題があった。
簡単にいうと対岸があるのである。地図で見るのなら三日月のようなカタチの港で、三日月の一番上から一番下まで行くには大変な遠回りが強制される。大きく弧を描く三日月の外周をぐるりと走る事になるからだ。これを憂えた市の開発部門は大手の建設グループと協力して、市民の不満を解消する為に行動を起こした。
三日月の両端を巨大な海橋で結び、曲線を直線にしようというのだ。……もちろん、そこに集まる莫大な資金の大半は僕らの税金でもある。初めからありもしない市民の不満を解消するといって本当に不満を肥大化させる、一番解りやすいケースだと思う。
で、この問題の橋は内部に水族館やら美術館やらを持ち、千台単位の一大駐車場をも内包した橋なんだかアミューズメントパークなんだかよく判らない代物だ。つい先日まではベイブリッジなんて呼ばれていたけれど、橙子さんの口振りではブロードブリッジと正式名称が決定したようだ。
ちなみに、僕も橙子さんもこの件に関してはあまり好い感情を持っていない。
「でも橙子さん、嫌ってるわりには橋の内部の展示スペースを確保してますよね」
「あれは私の本意じゃない、知り合いが報酬代わりに権利を置いていっただけだ。売り払ってもいいんだが、浅上建設とは多少の縁もあるから横流しするわけにもいかない。まったく、金にならん手形なんて藁半紙以下だ」
悪態をつく橙子さんは、どうもお金に困っているらしい。
……なんだか、イヤな予感がした。
「あの、所長。出社早々こんな事は言いたくないんですけど、お給料ください」
「黒桐。その件なんだが、困った事に金がない。申し訳ないが今月分は来月送りにさせてもらうぞ」
まったくの平常心で橙子さんは言いきった。しかも断定。まるでこっちが悪党みたいに。
「待ってください。昨日、百万とんで十二万円の銀行振込があったでしょう。なんでそれで|金《モノ》がないって言うんですか!?」
そりゃあ使ったからだろう、と橙子さんは椅子をキイキイ鳴らして反論してくる。
そんな橙子さんの様子を、式は羨ましそうに見つめていた。……たしかに、橙子さんは見た目楽しげではある。
いや、今はそんな事はどうでもいい。
「いったい何に使ったんですか、橙子さん」
「ああ、それ自体はつまらない物でね。ビクトリア朝の頃のウイジャ盤なんだ。効果はあまり期待できないが、成ってから百年以上経っているから無価値という訳でもない。どんなにつまらない物でも、そこに魔術の痕跡と長い年月があれば付加価値が生まれる。
ま、それでも役たたずには変わりない。分類するなら趣味の一品というヤツかな」
淡々と語るこの人が分からない。
蒼崎橙子という人物は魔術師でもある。手品師だったらどんなに良かったかと思うのだが、事実は事実なので認めるしかない。
魔法使いな彼女は更に弁解を続けた。
「突然の出物だったんで勢いで買い付けてしまったんだ。そう怒るな、私だってこれで一文無しだぞ」
……怒るなって、そりゃあ無理だ。
実際橙子さんの奇跡を目のあたりにしているこちらとしては、この人のこういう生活力のない所はお茶目に思えてしまっていたが、今日はそう寛大にはなれなかった。
「つまり、アレですか。冗談抜きで今月は給料なし、と」
「ああ。社員は各自で金銭を都合してくれ」
わかりました、と答えて席を立つ。
「では、今月の生活費を都合してきますので会社を早退させていただきます。よろしいですね」
「いいよ。ところで黒桐、それとは別にひとつ頼みがあるんだ」
口調を変えて橙子さんが言う。
式が呼び出された事に関係があるのだろうか。僕は内心の怒りを抑えて立ち止まった。
「なんですか、橙子さん」
「金、貸してくれないか。見ての通りおけらなんだ」
「―――全力でお断りします」
力いっぱいドアを閉めて事務所を後にした。
◇
幹也と橙子のやりとりを一部始終眺めてから、式はようやく口を開いた。
「トウコ、話の続き」
「そうだったな。あまりこの手の依頼は受けたくないんだが、先立つものがないのでは生きていけないものね。……まったく、錬金術師でもないのに金銭に窮するとは。これというのも黒桐が金を無心してくれないからだぞ」
不愉快だ、と彼女は吸い殻を灰皿に押しつけた。
たぶん幹也はもっと不愉快だろうな、と式は思う。
「さて、昨晩の事件の話だが―――」
「それはもういいよ。だいたい分かった」
「ふぅん―――そう。まだ事件の起きた現場の状況しか説明していないのに、それで十分ときたか。察しがいいね、おまえは」
橙子は含みをもった目で式を流し見る。
昨夜、夜七時から八時にかけて起きた地下バーでの殺人事件の結果しか彼女は言っていない。だというのに式はそれでどのような事件だったのかを理解したという。
それは両儀式が橙子よりの人間だという証明に他ならない。
「依頼主は犯人に心当たりがあるとの事だ。君の仕事はその犯人を可能なら保護すること。だが少しでも抵抗するようなら――――ためらわず殺してほしい、とさ」
式はそう、とだけ答える。
内容は簡単。犯人を捜して、殺すだけ。
「けど、その後は?」
「もし殺害におよんだ場合、あちら側で事故死として処理する。依頼主にとって彼女はすでに社会的に死んだ人間だ。死人を殺す事は法に触れない。どうする? 実におまえ向きの仕事だと思うんだが」
「そんなの、答えるまでもない」
言って、式は歩き始める。
「性急だな。そんなに飢えていたのか、式」
式は答えない。
「ほら、相手の顔写真と経歴だ。顔も知らずに何をしようというんだ、おまえは」
呆れて資料を投げる橙子に、式は眼差しだけで答えた。
資料の入った封筒がぱさり、と床に落ちる。
「いらないよ。そいつは間違いなくオレと同類。――――だからきっと、会った瞬間に殺しあう」
式は事務所から去っていく。
衣擦れの音と、冷酷な眼差しを残して。
◇
勢いで事務所から飛び出した後、仕方がないので友人からお金を借りる事にした。
六月に止めてしまった大学の食堂で待ち合わせると、正午過ぎに肩で風を切って学人がやってきた。学人は体格の良かった高校時代からさらに輪をかけて迫力を増している。
こちらの用件を言うと、学人はやっぱり難しい顔をした。
「驚いたな。金借りる為に人を呼び出すなんて、おまえ本当に黒桐幹也くんか?」
「僕だって追い詰められれば何でもやる。つまり、今はそういう状況なわけ」
「それで開口一番に金を貸せ、か。らしくねえなあ、俺が年中金欠だって知ってるだろ。そんな無駄なコトするより親御さんに借りた方が早いって解ってるだろ」
「あのなあ、両親とは大学止めた時にケンカ別れしてそれっきりだ。今更どの面さげて帰れっていうんだ、おまえ」
「ははあ、幹也はヘンな所で頑固だからな。親父さんと派手な言い争いでもしたか」
「うちの事情なんてどうでもいいよ。それで貸すの、貸さないの」
「なんだ。機嫌悪いな、おまえ」
余計なお世話だと睨むと、学人は簡単にオーケーしてくれた。
「おまえの名前を出せばカンパだけで五、六万は集まるだろうし、それでも足りなかったら俺が援助してやる。ただし、魚心あれば水心ありだ」
……どうやらこいつにも頼み事があるらしい。
学人は周囲に気を配り、人気が無い事を確認してぼそぼそと喋りはじめた。
「まあ、ようするに人捜しなんだけどよ。俺達の後輩で一人、家に帰ってないヤツがいるんだ。これがどうも、変な事件に足つっこんじまったようでな」
学人の話は、穏やかではなかった。
行方不明の後輩の名前は|湊《みなと》|啓太《けいた》。
昨日から行方不明という学人の後輩は、昨晩あった猟奇殺人の被害者達の一党だという。昨夜、一度だけ湊啓太は友人に連絡をいれたのだが、その様子があまりにおかしかったので、連絡を受けた友人が先輩である学人に相談しにきたというのだ。
「啓太のヤツ殺されるとかなんとか口走っていたそうなんだが、電話はそれきりでな。ケータイにかけても出やしない。電話を受けたヤツの話じゃ、かなりキマッちまってたらしいがね」
キマッてる、とは薬のことか。後遺症の残らない初心者向けの麻薬は、最近になって値段も安く入手も容易くなっている。エルあたりなら高校生でも手が届くだろうけれど、無理して届かせる必要はあるまい。
「……あのねえ、僕にそういうヴァイオレンスな世界が似合うと思ってるのか?」
「何いってやがる。こういう失せ物捜しは得意中の得意のくせに」
答えず、僕は黙り込んだ。
「その啓太って子、普段から薬はやってるの?」
「いや、やってたのは殺された連中。啓太って覚えてないか? おまえにやけに懐いてたヤツの一人だよ」
「―――ああ。その子なら、知ってる」
高校時代、なぜか僕はその手の後輩からも好かれる立場にあった。たぶん学人の友人だという事で特別視されていたのだろう。
「……はあ。慣れない薬でトリップしてるんならいいけどね。連中のやってる薬ってアップ系とダウン系、どっち?」
麻薬には精神が高揚して上機嫌になるアップ系と、逆に陰欝に沈み込むダウン系がある。
学人が口にした麻薬の名前はダウン系だった。
「恐くなって薬に逃避している―――なら、まずいな。その子、本当に犯人に狙われているのかもしれない。……仕方ない、引き受けるよ。連中の友人関係を教えてくれ」
学人は待ってました、とばかりにアドレスをよこす。
友人の数だけは多いのが彼らグループの特徴で、数十人もの名前と携帯電話の番号、それと各グループの溜まり場が書き込まれていた。
「見つけ次第連絡するよ。もしかすると僕のほうで保護する事になるけど、かまわないな?」
この保護、とは刑事である従兄の大輔兄さんに預かってもらう、という意味だ。
それは承知しているのか、学人はおうと頷いた。
商談成立だ。とりあえず捜査資金として二万ほど借りる。
学人と別れた後、殺害現場に行ってみる事にした。やるのなら本腰をいれないといけない、とすでに直感していたからだ。
僕は軽い気持ちでこの人捜しを引き受けたわけではない。
本当は関わるべきではないと理解していても、その湊啓太という後輩が危うい立場にある事もやっぱり理解できてしまっていた。だから、断る事はできなかった。
/2
電話のコール音が響く。
五回ほど鳴って音は止まり、留守番電話に切り替わった。
ぴー、という発振音のあとに、今まで私が聞き慣れていたらしい男の声が流れる。
「おはよう式。さっそくだけど頼まれてくれないかな。今日の正午きっかりに駅前のアーネンエルベって喫茶店で|鮮花《あざか》と待ち合わせしてたんだけど、どうも行けそうにない。君、暇だろ。行って僕は来ないって伝言しておいてくれ」
電話はそこで切れた。
……私はけだるい体を動かして、ベッド脇の時計を見る。
七月二十二日、午前七時二十三分。
自分が帰って来てからまだ四時間ほどしか経っていない。
昨日、トウコの依頼を了承して夜の街を朝の三時頃まで歩き回っていたせいか、体がまだ眠りたがっていた。
私はシーツを被りなおす。
真夏の朝の暑さも、私にはあまり関係がない。両儀式は子供の頃から暑さや寒さには我慢強い体質で、それは今の私にも受け継がれているからだ。
しばらくそうしていると、もう一度電話のコール音が鳴り響いた。
電話は留守番電話に切り替わり、次にあまり聞きたくない声が流れてくる。
「私だ。ニュースは見たか? 見ていないな。見なくていいぞ、私も見てない」
……つねづね思っていたが、確信した。あの女の思考回路は私とは大きくかけ離れている。トウコの言葉の本意を理解してはいけない。
「昨晩起こった死亡事件は三件。もう恒例になった飛び降り自殺の追加と、痴情のもつれによる物がふたつだ。そのどれも報道されていないから、あくまで事故と片付けられたのだろう。だが一つだけ奇怪なケースがある。詳しく聞きたければ私の所まで来い。ああ、いや、やはり来なくていい。考えみればこれで事が足りる。
いいか、寝呆けている君の為に解りやすく言ってやるとだな、ようするに犠牲者が一人増えたということだ」
電話はそこで切れた。
私も、そこできれそうになった。
犠牲者がひとりふたり増えたところで、私には何の関係もない。身近な現実さえも不確かな私にとって、そんな遠い出来事はそれこそ無価値だ。
名前も知らない連中の死なんて、朝の陽射しより印象が弱い。
体の疲れがとれた頃、私は起床した。
以前の式が十六年間にわたって学習した常識通りに朝食の支度をして、それを口に運び、出かける支度をする。
今日は淡い橙の|紬《つむぎ》に袖を通す。昼間から街を歩くのなら、着物は街着である紬が最も好ましいからだ。
―――自分の意見と思われるそんな服選びも、実の所は過去からの習慣でしかない。
誰かの生活を間近で観ているような感覚に襲われて、私は唇を噛む。
二年前。まだ両儀式が十七歳だった頃はこうではなかった。二年間にもおよぶ昏睡状態が私を変えた訳でもない。……空白の二年間がもたらした物は、もっと別のモノなのだ。
そんな事は別にして、今の私は私の意思で動いている気がしない。