饭饭TXT > 海外名作 > 《空の境界/空之境界(日文版)》作者:[日]奈須きのこ/奈须きのこ【完结】 > 空の境界@txtnovel.com.txt

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作者:日-奈須きのこ/奈须きのこ 当前章节:15405 字 更新时间:2026-6-15 18:51

 両儀式という十六年間の糸が、私を人形のように操っている錯覚がいつもある、けれどそれは本当に錯覚だろう。

 どんなに|空虚《くうきょ》だ、|虚構《きょこう》だ、|飯事《ままごと》だと|罵《ののし》っても、私は結局自分の意思で行動している。そこに私以外の意思が介入する事はできないのだから。

 着替え終わると、時刻はじき十一時になろうとしていた。

 私は、本目の留守番電話をリピートする。

 過去、何度も聞いたはずの声が繰り返された。一度大気に飛んで失われたはずの声は、こうして録音されて未だカタチとして残っている。

 ……黒桐幹也。

 二年前、私が最後に見た人物。

 二年前、私が一度だけ心を許したクラスメイト。

 彼との様々な過去を今の私は確かに知っている。けれどその最後の映像だけが無い。

 いや、彼と関わってからの一年間、両儀式がまだ十七歳だった頃の記憶は穴だらけだ。所々、大事な所が欠落している気がする。

 どうして式は事故に遭ったのか。

 どうしてその瞬間に幹也の顔を見ていたのか。

 忘却した記憶が録音されていたのなら、それはどんなに便利だろう。私はその欠落が気になって、まだうまく黒桐幹也と話をする事が出来ないでいた。

 ……留守番電話の再生が止まる。

 幹也の声を聞くとほんの少しだけ苛立ちが消えるのが不思議だった。何か、確かな足場があるような感覚が得られるのだけど、声という物が足場になる筈もない。

 それも錯覚だろう。

 たぶんきっと錯覚なのだ。

 今の私が得られる唯一つの現実は、殺人を犯す時の高揚感だけなのだから。

        ◇

 アーネンエルベはアンティークな喫茶店だった。

 ドイツ語で書かれた看板を確かめて中に入る。

 正午だというのに客の数は少なかった。

 どのような作りなのか、店内は灰暗い。外側に面したテーブルだけが明るく、カウンターのある店の奥がやけに暗い。

 壁には四角い窓が四つ穿たれていて、照明はそこから入ってくる陽射しだけだった。

 窓際にあるテーブルだけが、四角く切り取られたように明るい。夏の強い陽射しのせいか、その明と暗の対比は陰気さではなくむしろ荘厳さすら感じさせる。

 一番奥のテーブルに、黒桐鮮花は座っていた。

 西洋風のデザインをした制服の少女がふたり、横に並んで幹也を待っている。

「ふたり―――?」

 話が違う。

 幹也の話では鮮花が待っているという話だった。もうひとりいるなんて聞いていない。

 私は近寄りながら少女達を観察した。

 ふたりとも黒い長髪をストレートに背中におろしている。

 顔立ちもわりと似ていて、どちらもお嬢様学園らしい落ち着いた、理知的な美形だ。もっとも、ふたりの印象は正反対だが。

 鮮花の目は気丈で、何かに挑むような強さがある。清楚なお嬢様然としていても鮮花の芯の|剛《つよ》さは隠せない。幹也はその人徳から同級生に親しまれたが、鮮花はその厳しさから尊敬されるタイプだろう。

 そんな鮮花の隣にいる少女はあくまで弱々しい。姿勢も凛としていて堂々たるものなのに、折れてしまいそうな弱さを感じさせる。

「鮮花」

 彼女達のテーブルに近付いて呼びかけた。

 鮮花は私に視線をよこすと、あからさまに眉をひそめる。

「両儀―――式」

 私の名を囁く声には微かな敵意が存在した。非の打ち所のない美少女然とした雰囲気は、この少女の装飾のようなものなのだ。

「わたし、兄さんと待ち合わせをしているんです。貴方に用なんてありません」

 あくまで冷静を保ちつつ、鮮花は棘のある口調で言う。

「その兄さんから伝言だ。今日は来れないとさ。すっぽかされたぞ、おまえ」

 鮮花が息を呑む。幹也が約束を反古にした事がよっぽどショックだったのか。それともそれを報せにきたのが私だからか。

「式、あんたの仕業ね ……!」

 わなわな、と手を震わせる鮮花。どうも私が来たという事のほうがショックだったようだ。

「馬鹿いうな、オレだって被害者だ。鮮花には会ってられないから追い返してくれ、なんて一方的な伝言を頼まれたんだからな」

 火のような瞳で鮮花は睨んでくる。

 このまま放っておけばコップを投げつけてきかねない鮮花を、傍らの少女が窘めた。

「黒桐さん、その、皆さんが驚いています」

 線の細い声。

 それに、私は一歩退いた。

「……そうだった。今日の用件はあんただものね、藤乃。わたしが怒る筋合いじゃなかった」

 ごめん、と鮮花は藤乃と呼んだ少女に謝る。

 私は大人しげな少女を見る。

 むこうもこちらを見ていた。

「おまえ――――痛くないのか」

 私は、つい、そう口にしていた。

 少女は答えない。ただ私を見る。まるで風景でも眺めるような無関心さと、昆虫のような無機質さで。

 私の中で二つの確信が浮かぶ。

 こいつが敵だという直感と、

 そんな筈がないという実感が。

「……いや、おまえじゃない」

 結局、私は実感を信じた。

 この藤乃という少女に殺入を愉しむ事はできない。なぜなら愉しむ理由がない。

 いや、それ以上に少女の細腕で四人もの男の四肢を引き千切るなんて事は不可能だ。私のように正常な規格から外れてしまった目を持っているというのなら、話は違ってくるのだろうが。

 私は少女から関心を失って鮮花へ声をかける。

「用件はそれだけ。何かあいつに伝言はあるか」

「それでは一つだけ伝えてください。兄さん、早くこんな女と手を切ってください、と」

 鮮花は本気で、そんな伝言を残した。

        ◇

「兄さん、早くこんな女と手を切ってください」

 式という和服の少女に、鮮花は真顔でそう言った。

 ただ眺めあっているだけのこの二人の間には、どうとも語れない緊張感があって、わたしは気が気でいられない。なんだか互いの喉元に包丁をあてて、隙があるなら一気に引ききろうとしているよう。

 空気が張り詰める雰囲気に、わたしは臆病になってしまう。こうなるとせめて騒ぎになりませんように、と祈るしかなかった。

 幸い二人はそれきり言葉もなく、きれいな橙色の紬を着こなした少女は見惚れるほど流麗な足取りで去っていった。

 わたしはその背中を瞳で追い続ける。

 式という子は、話し方が男のひとのようだった。そのせいか年齢が計れなかったけれど、もしかするとわたしと同い年なのかもしれない。

 りょうぎ、という名字は、たぶんあの両儀じゃないだろうか。それならあの高級な紬も納得がいく。もともと紬は街着だけれど、あの子のは細かい部分の折り返しに今風の工夫がみられた。両儀の子なら自分専門の織物職人を抱えていてもおかしくない。

「―――綺麗なひとでしたね」

 わたしの独白に、鮮花はまあね、と答える。相手を嫌っていようと正直に答える鮮花は偉いと思う。

「でも、それと同じぐらいに恐いひと。――わたし、あのひと嫌いです」

 鮮花が驚いている。彼女の驚きはもっともだ。わたしだってこの気持ちに困惑している。たぶん――生まれて初めて、他人に反発心をもったから。

「意外ね。わたし、藤乃は誰も憎まない娘だと決めつけていたのに。わたしの認識もまだ甘いなあ」

「憎い――――?」

 ……嫌いは憎いに繋がるんだ。わたし、そこまで大それた事は思っていない。ただ、あの人とは相容れられないと感じただけなのに。

 わたしは瞼を閉じてみる。

 式。不吉すぎる漆黒の髪。不吉すぎる|白純《しらずみ》の肌。不吉すぎる底無しの眼。

 あの人はわたしを見ていた。

 わたしもあの人を見てみた。

 だからお互いの背中にある風景を見合ってしまった。

 あの人にあるのは血だけ。自分から人を殺そうとする。自分から誰かを傷つけようとする。……あの人は殺人鬼だ。

 けれどわたしは違う。違うと思う。わたしは一度も、自分からやろうと思った事がないのだから。

 視界が閉ざされた|眩病《くらやみ》のなか、わたしは何度もそう訴えかける。けれどあの人の姿は消えてくれない。たった一度、言葉も交わしていないというのに、彼女の形はこの眼球に焼きついてしまったんだ。

「ごめんね、藤乃。せっかくの休みが台無しになって」

 鮮花の声に瞼を開ける。

 わたしは練習通りに微笑む。

「いいんです。今日はあまり乗り気ではなかったから」

「顔色悪いものね、藤乃。もとから白いんで判りづらいけど」

 乗り気でないのは、本当は別の理由。けれど鮮花の言葉にわたしは頷いた。

 ……体の不調は反応が少し遅い事で判っていたけど、顔に出るぐらい悪いとは気がつかなかった。

「仕方ないな。幹也にはわたしから頼んでみるから今日はもう帰ろうか?」

 鮮花はわたしの体を心配してくれる。

 ありがとう、とわたしは答えた。

「けど、お兄さんへの伝言はあれでいいんですか?」

「いいの。あの伝言はこれで何度目か忘れてしまったぐらいだから、幹也も慣れているでしょう。

 実を言うとね、これって呪いなの。飽きることなく繰り返された言葉は、現実をそちら寄りに歪めてしまえる。ほんと、少女らしい一途な呪い。愚かで、どこか哀しいわ」

 どこまで本気か判らないけど、彼女はそんな事を真面目に説明してくれた。

 彼女の突拍子のなさには慣れている。わたしは静かに鮮花の透き通った美声を聞くことにした。

 ……学園の中ではつねに首席、全国模試でも十位以内に入る黒桐鮮花は、ちょっとヘンで紳士なところがある。

 鮮花は礼園女学園でのわたしの友人の一人。わたしも彼女も高校から学園に編入した。小学校からのエスカレーター方式である礼園では、わたし達のように高校から入ってくる者は珍しい。わたしと彼女はそういう縁で知りあった。

 休日はたまに二人で外出したりもする。今日はわたしの我が侭で、彼女のお兄さんを通して人を捜してもらう筈だったのだ。

 わたしは地元の中学に通っていて、一年生の時の総体で他校の先輩に声をかけられたことがある。

 最近辛い事が起きて沈んでいたわたしは、その先輩を思い出す事で救われた。

 それを鮮花に打ち明けると、なら本人を捜し出そう、と彼女は言った。彼女のお兄さんも地元の中学で、びっくりするぐらい交友関係が広いという。鮮花のお兄さんはわたし達ぐらいの年代の人捜しは得意中の得意なのだそうだ。

 ……本当はそれほど会いたかったわけではないのだけれど、鮮花の勢いに断りきれず、わたしは先輩を捜す事となった。今日はその相談の為にお兄さんを待っていたのだが、あいにく来れないという。

 ……正直、それはそれでほっとした。

 乗り気ではないのは、そう。わたしは、彼と二日前に偶然出会ってしまったんだ。

 わたしはその時、三年前に言えなかった事を言えた。

 目的はもう達してしまったから、捜すこともしなくていい。鮮花のお兄さんがやってこれないのは、かみさまがちゃんと分かってくれているからかもしれない。

「出ようか。さすがに紅茶二杯で一時間は居づらいや」

 鮮花は立ち上がる。

 お兄さんに会えず気を落としているだろうに、さらりと席を立つ自然さはとても優雅で惚れ惚れする。

 彼女は時々、すごく男前だ。さっぱりした性格と口調の為だろう、丁寧な言葉遣いが今みたいに抜け落ちて、男の人みたいに格好よくなる。

 けれどそれは猫を被っているんじゃなくて、そういう部分も彼女の地。わたしはこの友人を、一番好ましく思う。

―――だから、会うのはこれで最後にしよう。

「鮮花、先に寮に帰っていて。わたしは今晩も実家に泊まりますから」

「そう? いいけど、あんまり外泊が多いとシスターに睨まれるわよ。何事もほどほどにね」

 ひらひらと手をふって鮮花も昏い喫茶店から去っていった。

 わたしはひとりになって、ふと店の看板に視線を送る。

 アーネンエルベ。ドイツ語で遺産という意味だった。

        ◇

 鮮花と別れて、当てもなく歩き始めた。

 実家に帰る、というのは嘘。

 わたしにはもう帰るところはない。二日前のあの夜から学校にも行っていない。

 たぶん昨日の無断欠席で父のもとに連絡がいっているだろう。

 家に帰れば何をしていたかと問い詰められる。わたしは嘘をつくのが苦手だから、何もかも喋ってしまうに違いない。そうなれば――父はきっとわたしを軽蔑する。

 わたしは母さんの連れ子だ。父が必要としていたのは母と家の土地だけで、わたしは昔からおまけだった。だからこれ以上嫌われないように必死だったんだ。

 母のような貞淑な女に、父が誇れるような優等生に、誰もが不審に思わないような普通の子に――――――――ずっと、なりたかった。

 誰かの為なんかではなく、わたし自身そのユメに焦がれて、守られてきた。

 でも終わり。そんな魔法は、わたしの周りには何処を探したって無いんだ。

 わたしはだんだんと日が暮れていく街を歩き続ける。

 無関係に通り過ぎていく人波と、無神経に点滅するいくつもの信号の間を逍遥した。

 わたしより幼いひと達も、わたしより老いたひと達も、みんな幸せそうだった。

 ずきり、とココロが収縮する。

 ふと、思い立って頬をつねってみた。

 ……何も感じない。

 もっと強く|捻《ねじ》る。

 ……………何も。

 諦めて手を放すと、指の先が赤かった。爪が肉に食い込むまでつねってしまったらしい。

 それでも、何も感じない。

 生きてる、なんて感じない。

「ふふ……」

 おかしくて笑ってしまう。

 わたしは痛みを感じないのに、どうして心は痛いと感じるんだろう。

 そもそも、ココロってなんだろう。傷ついているのは心臓なのか、それともわたしの脳なのか。

 浅上藤乃という個人を攻撃する意味合いをもつ言葉を脳が受け取ると、それを防御する為に傷がつくんだ。傷がつけば、それが痛いとわかるから。反論も弁護も罵倒も、受けた傷を和らげる為に脳が作り出した薬でしかない。

 だから痛みを知らないわたしも、ココロの傷だけは痛みがわかる。

 けれどそれは錯覚。

 たぶんきっと錯覚なんだ。

 本当の痛みは、決して言葉だけでは拭いされない。

 ココロについた傷はすぐ忘れてしまう。ココロについた傷なんて瑣末だから。

 けれど肉体についた傷は、傷があるかぎり痛み続ける。それはなんて強い、確固たる生の証なんだろう。

 ココロが脳であるのなら、脳が傷ついてくれれば

 そうすればわたしも痛みを手に入れられる。

 わたしの今までの日々のように。

 同い年か、それとも年下かの少年達に凌辱された記憶が、傷になってくれるなら。

――――思い出してしまった。

 彼らの笑い声とか、恐い顔とかを。

 脅され、詰られ、犯され続けたわたしの時間を。

 わたしの体に覆い被さった男がナイフを振り下ろした時。お腹が熱くなって、私の服の腹部は裂けて血に濡れていた。

 刺されると思った時、わたしは攻撃的だった。

 彼らを済ませた後、わたしはその熱さが痛みだと実感したのだ。

 もう一度、ココロが収縮した。

 許せない、という発音がバラバラになるまで心の中で繰り返された。

「―――――く」

 がくん、と膝が笑う。

 またアレがやってきた。

 お腹が熱い。見えない手に、わたしの中身が鷲掴みにされる不快感が。

 吐き気がする。―――いつもはそんなものはしない。

 めまいがする。―――いつもは唐突に意識が落ちる。

 腕がしびれる。―――いつもは目で見て確認する。

 とても 痛い。

 ――――ああ、生きている。

 刺された傷が疼きだした。

 治った筈の傷の痛みだけが、こうして突発的に蘇る。

 とおいむかし、傷は治れば痛まないと母は言った。けどそれは嘘だ。ナイフに刺された私の傷は、こうして完治した後も痛みを残している。

 ……でも母さま。わたしはこの痛みが好きです。生きているという感覚の無かったわたしにとって、これ以上に自分が生きている事実を思い知らせてくれる事柄はないのですから。

 この残留する痛覚だけは、決して錯覚じゃないんだから。

「早く、捜さないと」

 荒い呼吸でわたしは呟いた。

 復讐をしないといけない。逃げてしまった少年の息の根を止めなければいけない。

 とても厭だけど、やらないとわたしが人殺しだと知られてしまう。せっかく痛みを手に入れたのに、そんなのは嫌だ。もっと生きているんだという快楽を感じたい。

 わたしは歩くたびに痛む体を引きずって、以前の彼らの溜まり場へと歩きだした。

 激痛に瞳が泪する。

 けど今は、その不自由ささえ愛しかった。

       /3

 鮮花と別れてから、私はいったん部屋に戻った。

 夜になって街に出る。

 今日までで殺された人間の数は五人。二日前の地下のバーで四人、トウコの話では昨日の夜に工事現場でさらに一人。先の四人はともかく、昨夜の被害者にあまり関連性は感じられない。

 けれど、まったくの他人とも思えない。

 夜の街で遊び歩く連中は顔見知りだけという程度なら幾らでも繋がるんだ、と幹也が言っていた事もある。昨夜の死体も先の四人と友人である可能性が高いだろう。

「あいつ―――」

 ふいに、私は鮮花と一緒にいた女を思い出した。

 ――毛細血管のように体中に根付いた、死の気配。

 まだ自分の目の扱いに慣れていない私は、前準備もなしにそれを視てしまった。

 ……アレは異常だ。ともすれば、この両儀式より突き抜けている。

 なのに、あの少女は普通だった。

 血の匂いもしたし、私と同じように自分が立っている境界が分かっていない目をしていた。

 間違いなく獲物はあいつなのに、私は自信が持てないでいる。

 だって、あの少女には理由がなかった。

 自分のように殺人を愉しむ理由、殺人を愉しめる闇が。

 殺人を愉しむ。それを求めている。

 これを黒桐幹也が聞いたらどう思うだろう。

 やっぱり、人殺しはいけない事だと私を叱るだろうか。

「罵迦」

 ふん、と呆れてみた。

 自分に対してか、それとも幹也に対してかはよく分からない。

 黒桐幹也は、私は以前と変わらないと言った。

 事故によって昏睡する前の私と、今の私は変わらないらしい。なら、以前の私もこんな風に夜の街を歩いたのだろうか。何か誰かと殺し合えないか、と求める異常者のように。

「―――――」

 いや、違う。

 式にはそんな嗜好はなかった。あったけれど、それはあまり優先されなかった筈だ。

 ではこれは織の感性だ。陰性、女性としての両儀式の中にいた陽性、男性としての両儀織の。

 その事実にも、私は首を傾げてしまう。

 かつての私には彼がいた。今はいない。いないという事は死んでしまったのだろう。

 ならば――――殺人を求める意志は、間違いなく今の私から沸き上がる物に他ならない。

 トウコの言うとおり、今回の事件は実に私向けだ。

 無条件で人を殺せるのだというこの状況を、私は明らかに喜んでいるのだから。

―――時刻はじき夜の十二時。

 地下鉄を乗りついで見慣れない駅についた。

 不夜城めいた喧燥をみせるこの街からは、

 遠くに大きな港が見える。

        ◇

 鮮花と別れてから、わたしは行き先を変更した。

 逃げてしまった残りひとりの行き先は知れない。けれど調べる方法はあると思う。

 浅上藤乃と直接関係を持っていたのは済ませた四人と逃げたもうひとりだけだけど、わたしはよく彼らの遊び場に連れて行かれた事がある。

 そこに行って彼らの友人に話を聞けば、逃げてしまったもうひとりの居場所も判るだろう。親元にも帰らず、学校にも警察にも頼ろうとしない彼らが頼るのは同類の仲間達だけだろうから。

 わたしは熱いお腹を抱えながら、慣れない夜の街を歩く。

 いかがわしい夜の遊び場にひとりで入っていくのには抵抗があったけれど、痛みと凌辱の記憶に苛まれる今のわたしには瑣末な事でしかない。

 三つ目の店で湊啓太の友人という人に出会えた。

 大きなビルをまるごとカラオケルームにした店の店員である彼は、なんだか厭な笑みをこぼして、わたしに付き合ってくれると言った。

 彼は店員の仕事を抜け出すと、ゆっくり話が出来る場所に行こう、と歩きだす。

 この人の仲間達が愛用している溜まり場に案内される事は、長い経験で解っていた。このひと達は弱い人間を的確に嗅ぎつける。愛想笑いだけはとても気前のいい彼は、わたしが汚しやすい相手と看破したんだ。

 ……きっと、わたしが湊啓太のグループに遊ばれていた事も聞いている。だからこうも容易くわたしを連れ出す。

 そこまで判っているのに、わたしは彼の誘いを断らなかった。

 私より幾らか年上の彼は、段々と寂しい通りへと進んでいく。

 わたしはいっそう痛みだしたお腹を押さえて覚悟を決めた。

―――時刻はじき夜の十二時。

 繰り返された凌辱を呪いながら彼を追う。

 不夜城めいた喧噪をみせるこの街からは、

 遠くに大きな港が見えた。

        ◇

 青年は自分の運の良さを実感していた。

 湊啓太のグループがどこぞの女子校の生徒をまわしていた事は、それを誇らしげに語る湊啓太自身の口から聞いて知っていたからだ。週に一度呼びつけてはやりたい放題をし、その自慢話をするのが湊啓太の習慣だったからである。

 青年にとってみれば、それはまったくの他人事だった。

 啓太のグループとはあまり関わりあいはなく、根付いている区域も遠かった。故に話半分で湊啓太の自慢話を聞いていたのだが、それがまさか自分のもとに転がり込んでくるとは夢にも思わなかった。

 据え膳食わずはなんとやら、彼は仕事をきりあげて彼女を連れ出す事にした。

 別に青年は性交の相手に不自由している訳ではない。女を四、五人でまわすなどというのは、自分達の中でもそう珍しいイベントではないからだ。

 青年が喜び、仲間達に連絡を入れない理由は別にある。要は、相手が浅上建設の令嬢だという事だった。彼女を辱めてその一部始終を公表すると脅せば、いくらでも金が引き出せるだろう。

 啓太たちのグループはその手の事にはうとい。リーダー格の男があまり頭が良くなかったせいだろう。いや、それとも―――頭が良かったから金など必要なかったのか。

 まあ、そんなコトはどうでもいい。

 とにかく青年は心躍らせていた。

 報酬は一人の方が実入りがいい。だから青年は仲間達に連絡を入れなかった。

 湊啓太を訪ねに来た少女―――浅上藤乃は無言で付いてくる。

 彼女を仲間達の溜まり場に連れていくのはまずい。青年は人気のない、港の倉庫街へ向かった。

 夜も深まり、じき零時。

 倉庫街に人影はない。

 街灯も少なく、倉庫と倉庫の間に入れば誰に咎められるコトもない。

 気になるといえば波の音と、遠くの海に見える建設中のブロードブリッジの明かりだけだった。

 藤乃をその闇に連れ込んで、ようやく青年は彼女に振り向いた。

「このへんでいいだろ。んで、訊きたい事ってなんだよ」

 青年はとりあえず当初の目的―――藤乃の質問に答えてやる事にする。いきなり襲いかかるのはスマートではない、という彼流の美学の表れだ。

「―――はい。啓太さんが何処にいらっしゃるか、ご存じないでしょうか」

 藤乃は俯いて、片手で腹部を押さえている。

 顔は綺麗に切りそろえられた前髪に隠れて見えな

「いや、啓太はここんところ見ねえよ。あいつ自分のうちもねえから、人のアパートを渡り歩いてんだ。ケータイもないし、連絡はとれないぜ」

「いえ―――連絡はとれるんです」

「は?」

 顔を伏せたままの少女の言動はおかしい。

 居場所が判らないのに連絡はとれる?

 もしかしてこの女、犯られすぎてイッちまってんのかね、と彼は内心で呟いた。それならそれでこの後は楽になるのだが、荒事になると予想していただけに拍子抜けしたのも事実だった。

 まあいいか、と青年は気を取り直す。

「へえ、連絡とれるんだ。なら居場所を訊けばいいじゃない」

「それが―――啓太さん、わたしには隠れている場所を話したくないって。ですからわたし、こうして啓太さんのお友達を訪ねているんです。知っていても知らなくてもいいですから、答えてください」

「おいおいおい、ちょっと待てよ。なんだよ、その隠れてるって。アイツなんかヤバイ事でもやったワケ?」

 ますますおかしい少女の言動に彼は苛立った。

 隠れている、って事は藤乃をレイプしていた事がバレたのか。いや、それならこの少女自身がやっては来まい。

 青年は考える。しかし答えはでない。なぜなら、彼はニュースなど見ていなかった。

「ま、いっか。それよりさ、知っていても知らなくてもいいってどういうコトよ。もしかして、あんたも初めからその気だったってコト? 啓太のことなんかタテマエで、新しい男を探しにきたとかさ!」

 今までの愛想笑いではなく、本心から愉快になって青年は笑った。

 本当に自分は運がいい。こりゃあ脅すまでもなく金にありつけそうだ。それに―――浅上藤乃は、自分達では容易に手が出せないほどの美人でもある。高値の花と高嶺の花が両方手に入るのだ。これをツイてると言わずしてなんと言おうか。

「悪りいな、それなら初めからうちに連れ込むんだった。いやいや、それともこういう場所のほうがいいのかな、お嬢様は」

 黒い制服を着た少女は、こくんと頷いた。

「その前に答えてください。啓太さんの居場所、知っているんですか」

「ばっか、そんな口実はもういいだろ。だいたいなあ、オレがあいつの居所なんか知ってるワケないっての」

 そう、と少女は顔をあげた。

 青年を見つめる瞳は尋常ではない。

 螺旋を灯した彼女の瞳には感情がなかった。

――――正気では、ない。

「……?」

 その狂気に気が付かない青年は、おかしな事態に遭遇した。

 自分の腕が、勝手に動いた。関節が捻れる。ほぼ九十度の角度まで肘が捻れたかと思うと、さらに関節は捻れてゆき―――ついに砕けた。

「ええ―――――!?」

 間の抜けた悲鳴。

 青年の命運はここで尽きる。

 たしかに彼は運が良かった。悪運も不運も、その同胞には変わるまい。

 そうして。

 月明かりも届かない路地裏で、惨劇が始まった。

        …

「、、、、、、、、、!」

 うめき声は、そんなケモノじみた発音にしかならない。

 青年は両腕はすでに腕ではなかった。

 まるで知恵の輪。それとも紙飛行機を飛ばす為に捻られたゴム。―――いずれにせよ、二度と人の腕として機能はしまい。

「た、た、助け、て……!」

 青年は目前に立っているだけの少女から逃げ出す。

 とたん、彼の体はふわりと浮いて、右足が膝から千切れた。

 びしゃり、とバケツの水を叩きつけるように血が|迸《ほとばし》る。倉庫のコンクリート壁に撥ねたその跡は、なにかのアートのようでもあった。

 浅上藤乃はそれを|爛《らん》とした瞳で見つめ続ける。

「ね、捻れ、、捻れて、、、はは、ネジだ、俺の足ネジになっちゃった、ひひ、あはははは……っ!」

 彼の言葉は、よく、わからない。

 あたまがわるいせいだろう、と藤乃は無視する事にした。

「……|凶《まが》れ」―――呟く。

 それは何度めかの同じ発音。

 繰り返し繰り返す言葉は呪いになると、彼女の友人は教えてくれた。

 青年は地面に這いつくばり、首だけを動かしている。

 両手は捻れて、右足はない。

 足からの出血が地面を濡らす。

 赤い絨毯みたいだ、と藤乃はそこに踏み込んだ。

 靴が血に沈む。

 夏の夜は暑い。粘つく大気が肌に|纏《まと》わりついて、苦しくなる。たちこめる血の薫りはそれに似ていた。

「――――あぁ」

 芋虫みたいな青年を見下ろして、藤乃は嘆息する。

 なんて事を自分はしているのか、と自分が厭になった。

 でも初めからこうするつもりだったんだ、とも思う。この人が地下のバーでの事件を知らないのは素振りでわかったけれど、それでもいずれは知ってしまう。その時湊啓太を捜していた自分の事を、彼は不審に思うだろうから。

 でも、これは仕方のない事だ。

 彼も初めからその気だったし。

 間接的になるけれど、これも浅上藤乃の復讐なのだ。自分を侵した者への反撃にすぎない。ただそれが、彼らの他人を侵す能力と藤乃の他人を侵す能力に差が有り過ぎただけで。

「ごめんなさい――――わたし、こうしないといけないから」

 青年の残った左足が千切れた。

 それでかろうじて残っていた彼の意識も途切れた。

 微動する青年の肉体を、藤乃は俯いて見つめる。

 今は、彼の気持ちがわかる。

 今まではわからなかった。他人が痛がる仕草がどうしても理解できなかった。痛みを知った今の彼女は、青年の痛みに強く共感できていた。

 それが嬉しい。生きていくという事は、痛んでいくという事だから。

「こうしてやっと―――わたしは人並みになれる」

 自分の痛み。

 他入の痛み。

 彼をここまで追い詰めた自分。あの傷を与えたのが自分。

 浅上藤乃が優れているということ。

 これが生きているということ。

 それは、

 誰かを傷つけないと生きる愉しみを得られないという酷い自分。

「―――母さま。藤乃はこんな事までしないと、駄目な人間なんですか」

 胸の中に湧いた苛立ちが堪えきれない。

 心臓が早鐘を打つ。

 背筋に百足が這い上がってくるような―――

「わたし、人殺しなんかしたくないのに」

「そうでもないよ、おまえは」

 突然の声に藤乃は振り返る。

 倉庫と倉庫の間であるこの路地裏の入り口に、着物姿の少女が立っていた。

 暗く月明かりを反射させる港を背にして、両儀式がそこにいる―――――

        ◇

「式――――さん?」

「浅上藤乃。……なるほど、浅神に|縁《ゆかり》の者だったのか」

 からん、と足音を立てて式が一歩だけ踏み込んだ。

 路地裏に充満した血の匂いに、式は瞳を細める。

「いつから―――」

 そこに、と言いかけて藤乃は止めた。そんなことは訊くまでもない。

「ずっと。おまえがその肉片を誘い出すあたりから」

 冷たい声に、藤乃はぞくりとした。

 式は一部始終見ていた。見ていたのに、出てきた。見ていたのに、止めなかった。こうなる事を知っていたくせに、ずっと見ていた……。

―――このひとは、異常だ。

「肉片だなんて言わないでください。このひとは人間です。人間の死体です」

 心とは裏腹に、藤乃はそんな風に反論していた。

 青年を肉片、と人間以下に貶める式の言葉があんまりだと思ったからだろう。

「ああ、人間は死体でも人間だ。心がなくなったぐらいで肉片にはなりさがらない。けど、それは人間の死じゃないだろ。人間はさ、そういう風には死なないよ」

 からん、ともう一歩踏み込んでいく。

「人間らしい死を迎えなかったヤツは、もうヒトじゃない。頭が残っていようが傷がなかろうが、おまえに殺されたヤツは常識では扱いきれないだろ。境界から外されたヤツは根こそぎ意味を剥奪されるんだ。だから、それはただの肉の集まりにすぎない」

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