唐突に―――藤乃はこの相手に反発心をもった。
式はこの青年の死体と、それを行なった自分が常識外のモノだと言っているのだ。今、眉ひとつ動かさず惨劇を見つめているこの|両儀式《少女》と同じように。
「……違います。わたしはまともです。あなたとは違う!」
何の根拠もなく、如何なる理由もなく、藤乃は叫んでいた。
式はおかしそうに微笑う。
「オレ達は似たもの同士だよ、浅上」
「―――ふざけないで」
藤乃は式を凝視する。|爛《らん》と自分の瞳が捉える映像が歪みはじめる。……彼女が子供の頃に持っていた“力”が行使される。
けれど、それは唐突に薄れていった。
「――――!?」
驚きは、けれど式と藤乃ふたりのものだ。
浅上藤乃は使えなくなった自分の“力”に。
両儀式は途端に変わってしまった浅上藤乃に。
「またか――――おまえ、一体どうなってやがる」
式は怒った。台無しだ、とばかりに頭を掻く。
「さっきまでのおまえなら殺してやったのに。喫茶店の時もそうだった。……もういい、白けた。今のおまえなんか知らない」
言って、式は|踵《きびす》を返して歩きだした。
足音が藤乃から遠ざかっていく。
「大人しく家に帰れ。そうすれば二度と会う事もない」
姿も、それで遠くなった。
藤乃は血だまりの中、ぼうと立ち尽くす。
―――以前の自分に戻ってしまった。
また、何も感じない。
藤乃はもう一度、青年の死体を見下ろした。
さっきまでの感覚もない。罪の意識だけが脳を痺れさせる。
あとに残るのは、式が残した言葉だけだ。自分達は同じ殺人鬼だよ、という告発めいた台詞だけ。
「違う――――わたしは、あなたなんかとは違う」
泣くように藤乃は弦いた。
事実、彼女は殺人を厭がっている。
この先、湊啓太を見つけだす為に同じ事を繰り返さないといけないのか、と思うと震えてくる。
人を殺してしまうなんて、許されるはずがないから。
それは彼女のまったくの本心。
……血だまりに映った彼女の口元は、小さく笑っていた。
痛覚/残留
3
七月二十三日の早朝、ようやく僕は湊啓太の居場所に辿り着いた。
彼の友人達から聞いて得た情報、彼の行動範囲の限界、それから湊啓太の人となりから推測して、まる一日かけて隠れ家を絞り込んだ。
都心から離れた住宅街のマンションの一つ、六階の空き部屋に湊啓太は不法侵入して寝泊まりをしている。
その部屋のチャイムを鳴らして、大声にならないように声をあげた。
「湊啓太。君の先輩に頼まれて捜しにきた。邪魔するよ」
玄関のドアの鍵は開いていた。
静かに中に入る。部屋には電灯が点けられていず、朝だというのに薄暗かった。
フローリングの廊下を歩いてリビングに出る。何もないリビングからは台所と寝室が見渡せた。もとから誰も住んでいない為、一切の家具がない。ガランとした部屋に、夏の朝日だけが明るかった。
「奥にいるだろ。入るよ」
奥には寝室とは別にもう一部屋ある。そこへ通じるドアを開けると、中は真っ暗だった。雨戸を閉めきっているためだ。
朝日が開けたドアから差し込む。光に反応したのか、暗がりの奥からひっ、という小さな声がした。
やはり部屋には何もない。家具が無い部屋は箱と同じだ。生活の匂いも何もない。そんな密室に十六歳ぐらいの少年と、食べ散らかした食物の容器、それに携帯電話だけが在った。
「湊啓太くんだろ。こんな所に引きこもってちゃ体に悪い。それにね、人が住んでいないからって勝手に部屋を使うのもいけない。こういうのも空き巣扱いになる」
部屋に入ると、啓太少年はびくりと壁に身を退いた。……その顔はひどくやつれている。
事件の晩からまだ三日しか経っていないというのに、頬はこけて眼球は血走っていた。
一睡もしていないのは明白だ。薬をやっている、との話だったがそれは違う。彼は薬の助けなんかなくても正気を失いかけているのだ。おそらくは、認めたくない程の惨劇を見てしまった為に。
彼はこの人工的な闇の中、自分を閉じこめる事で辛うじて自我を守っている。崖っ縁の防御方法だけれど、三日程度なら効果的かもしれない。
「―――誰ですか、あなた」
ぼそり、とした声には微かに知性が残っている。
踏み込む足を止めた。相手は猟奇事件に直面して錯乱している。犯人を見て恐慌に陥ってる節もあるから、うかつに近寄れば何をしてくるか分からない。疑心暗鬼は僕を犯人の一味としか考えさせないだろう。
けれど会話が出来るのなら別だ。
話をしていれば理性は蘇生する。近寄って落ち着かせるより、立ち止まって会話を交わした方が効果的だと判断した。
「誰なんですか、あなた」
繰り返される質問に、僕は両手を上げた。
「学人の知り合い。いちおう君の先輩でもある。黒桐幹也って言うんだけど、覚えてるかな」
「黒桐―――先輩?」
彼にとって、僕は予想外の登場人物だったのだろう。しばらく愕然としてから、彼はポロポロと泣き始めた。
「先輩、先輩がどうしてオレのところに来るんですか」
「学人の頼みで君を保護しにきたんだ。厄介な出来事に巻き込まれたって心配してる。学人も、僕もね」
近寄っていいかい、と尋ねると啓太少年は激しく首を横に振った。
「オレ、ここから出ません。外に出たら殺されます」
「ここにいても殺されるよ」
啓太少年が目を見開く。敵意を剥き出しにした血走った眼差しを受けて、僕は煙草を取り出した。そうして一服する。……本当は吸わないけれど、いかにも冷静ぶって相手を落ち着かせるのに効果的なジェスチャーだからだ。
「事件のあらましは聞いてる。啓太、君、犯人を知ってるだろ」
紫煙を吐き出して問い詰めたが、啓太少年は黙ってしまった。
「それじゃ少しだけ、独り言をしてみようか。
君達は二十日の夜、いつもの溜まり場であるバー蜃気楼に集まっていた。あの晩は雨だったね。僕もちょうどその頃飲み会に顔を出してたけど、そんなのはどうでもいいか。
学人から君を捜してくれ、と頼まれてから色々と話を聞いたよ。事件の夜も何をしていたか見当はついている。警察はまだ知らないみたいだ。君の友人達、おまわりさんには協力的じゃないから」
困ったもんだ、と肩をすくめる。
啓太少年はさっきとは違った怯えを見せていた。これから起こる事への怖れではなく、今までしてきた事を暴かれる事への怯えだろう。
「事件の夜、現場には君達五人の他にもう一人いた。君達が脅していた女子高生。名前は知らないけど、彼女がバーに下りていく所を見たって子がいてね。その女子高生は事件が起きても警察に出頭もしていないし、発見されてもいない。かといって殺された四人と違って遺体もない。君、その子がどうしたか知らないか?」
「知らない―――オレ、そんなヤツ知りません」
「じゃあ、あの四人を殺したのは君になるな。警察に連絡するよ」
「そんな、あんなのオレのせいじゃないですよ……! あんな事、あんな……出来るはずがない……!」
「うん、それは同感。じゃあ女の子は本当にいたんだね?」
しばらく黙ってから、啓太少年は頷いた。
「でも、それはそれで疑問だ。あの事件は女の子ひとりで出来る事じゃない。薬でも呑まされたのか、君ら?」
少年はぶるぶると首を横に振った。
女の子が犯人ではない、という意味じゃなく、自分達はいつも通りだった、という意味合いで。
「男が五人もいて女の子ひとりにやられたなんて、ありえない」
「でもそうなんです……! あいつ、初めからヘンだと思ってたけど、やっぱりまともじゃなかった! 化け物、化け物だったんですよぅ!」
自分で口にして“その時”の事を思い出したのだろう。がちがちと歯を鳴らして、少年は両手で頭を抱えた。
「あいつ、つっ立ってるだけだったのに、みんな捻れていくんです。ばきばきって骨が砕ける音がして、なんだかわからなかった。ふたりやられた時、オレ、気がついたんだ。やっぱり藤乃は普通じゃないって。ここにいたら殺されるって―――!」
啓太少年の独り言は、たしかに異常だった。
少女―――藤乃というその子は、ただ睨むだけで少年達の腕や足をねじ切ったというのだ。
どうしてそう思うのかは分からないが、その場に居合わせた啓太少年には肌で実感できたのだろう。殺す側と、殺される側の違いというものが。
それにしても―――見るだけで物を曲げる?
スプーン曲げじゃあるまいし、とも思ったけど、僕はそれもありうるかな、と頷いてしまった。式という特別な目を持ってしまった少女と、魔術師である橙子さんを知っている自分が今さら何を否定できるというんだ。
まあそれはそれで保留しておこう。そんな事より気になる単語があったから。
「わかった。その藤乃って子がやった事は信じるよ」
「――――へ?」
驚いて顔をあげる啓太少年。
「だって先輩、そんなのウソです。こんなの誰も信じやしないでしょ!? ねえ、頼みますからウソだって言ってください……!」
「じゃあトリックという事にしておこう。それとも催眠術って事にすればいいかな。ともかくあんまり深く考えちゃだめだ。わかんない事は無理に受け入れないほうがいいよ。
それよりさ、初めからヘンだったってどういう意味?」
僕の投げやりな詭弁に、啓太少年は毒気を抜かれたようだ。さっきまでの緊張感が段々と薄れていく。
「あ……ヘンって……その、ヘンなんです。なんか芝居じみてるっていうか、何をやっても反応が遅れるっていうか。リーダーに脅されても表情ひとつ変えないし、薬を呑まされても変わらないし、殴られてもけろりとしてやがったし」
「……へえ、そう」
彼らが藤乃という少女に暴行を働いていたのは知っていたが、こう臆面もなく言われると言葉がない。
半年間にわたって凌辱を受けた藤乃という少女は、その復讐として彼らを殺害した。そこに正義はあるのかないのか、単に正義と法律は昔から仲が悪いのか。さすがに、今は考えたくない。
「だからルックスは最高でしたけど、やってもあんまし面白くなかった。人形を抱いてるみたいな感じで。
でも……そうだ、あの時は違った。最近の話なんですけど、仲間のひとりに危ないヤツがいたんです。そいつ、いくら殴っても無表情の藤乃を面白がって、しまいには金属バットを持ち出して背中を殴りつけたんです。ばあん、って藤乃はふっとんで痛そうに顔を歪めてた。オレ、それで逆にホッとしました。ああ、こいつでも痛がるんだなあって。あの夜だけはあいつ、人間らしくてよかったから覚えてるんですけど」
「……君、少し黙れ」
啓太少年は口を閉ざす。これ以上話を聞くと、僕も僕でいられる自信がなかった。
「だいたいの事情は解った。警察に知り合いがいるから保護してもらおう。それが二番目ぐらいに安全だ」
座り込んだ少年を立たせる為に近寄る。と、彼はイヤだ、と叫んで身構えた。
「ダメだ、警察なんか行かない。それに―――出ていったら殺される。あ、あんな風にねじ切られるぐらいなら、ずっとここにいたほうがマシだっ!」
「外に出れば殺される……?」
その台詞には、何か微妙な齟齬があった。僕と少年との間にはまだ決定的な食い違いがある。
外に出れば見つかる、というのなら解る。
けれどそれを飛び越えていきなり殺される、というのはおかしい。それじゃあまるで監視されてるのと―――――同じ、なのか。
そこで、ようやく僕は気がついた。
啓太少年の傍らにある携帯電話の役割に。
「……電話がかかってくるのか、浅上藤乃から」
その一言で啓太少年は恐慌状態に戻ってしまった。
「この場所は、もう知られているの?」
わからない、と少年は震えて答える。
「オレ、逃げる時にリーダーの携帯を持ってたんだ。みんなが殺されたあと、電話がかかってきた。オレを捜すって。絶対に見つけだすって。だから隠れなくちゃって、オレ!」
「携帯電話をまだ持っているのは、なぜ?」
わかっていたけれど、訊いた。
「だって、捨てたら殺すって言うんだぜ……! 死にたくなかったら持ってろって。持っているかぎりは見逃してくれるって!」
……なんて、ことだ。浅上藤乃の恨みは、なんて深い。
「なのに、あいつ毎晩電話をかけてくるんだ。……まともじゃねえよ。一昨日は昭野、昨日は康平に会ったって。オレの居場所を知らないから殺したって。良かったわね、なんて優しく言ってさ……! お友達が大事なら会いに来いなんて言いやがって、出来るわけないだろ、そんなの!」
……それは、なんて恐怖だったろう。
毎晩かかってくる電話の内容は、自分を殺そうとしている相手からの報告なのだ。
今日は貴方を捜し出せなかった。
そのかわりに貴方の友達が一人死んでしまった。
お友達を死なせたくなかったら会いにきて。
来なくてもいいけれど、それまで殺人は続いて、いつか貴方に辿り着く――――。
「どうしよう、オレ。死にたくない。あんな風に死にたくない。痛い痛いって、泣いてたんだぜ連中! 口から血を吐いてさ、首が――首が、雑巾みたいに捻れるんだ!」
「その電話を捨てよう。そうしないと犠牲者が増える」
「わかんないのかよ、そんな事すればオレが殺されるって言ってんじゃないか……!」
その為に、まったく関係のない人問が二人死んだ。
その為に、浅上藤乃は意味のない殺人を二回もした。
「今のままじゃどのみち殺されるだろう、君は」
吸っていた煙草を床に押しつけて、僕は歩きだした。
座り込んで、膝を抱えて閉じこもる少年の腕を強引に引っ張る。
「先輩、勘弁してください。オレ、もうどうしようもないんです。ほっといてください。………やだ、違う、ほんとは恐いんだ。オレ、もうひとりでいるのはイヤだ。お願いですから助けてください…!」
ああ、と僕は頷いた。
「助けるよ。君は警察には引き渡さない。僕が知るかぎり一番安全な場所に連れていく」
この少年を保護できるのは橙子さんの所しかない。それが誰にとっても最善な方法だと信じて。
4
橙子さんに事情を説明して、啓太少年を保護してもらう事になった。
事件当日から一睡もしていなかった少年を、橙子さんは寝室のソファーに眠らせて、僕と式がいる事務所に戻ってきた。
橙子さんは自分の椅子に座り、式は立ったまま壁に寄り掛かっている。
啓太少年を眠らせてようやく落ち着くと、ふたりは口をそろえて「このお人好し」なんて言ってくれた。
「ええ、そろそろそんな風に馬鹿にされると思ってました」
「分かっていたのなら厄介事には関わらない。ただでさえその手の輩に付け入られやすいんだからな、黒桐は」
「しょうがないでしょう。場合が場合なんですから」
言い返すと橙子さんはふむ、と思案する。
憎まれ口を叩いているけれど、橙子さん本人は少年の保護に賛成してくれていた。
一方、壁ぎわの式は反対している。無言で僕を睨んでいるあたり、怒り心頭に発するといった感じだ。
「場合が場合、か。たしかに尋常なケースじゃないのは認めるが、これからどうするつもりなんだ。浅上藤乃を捜して説得でもする気か?」
「―――そうですね。いつまでも湊啓太を保護してあげる事はできないし、その間にも浅上藤乃は殺人を繰り返すかもしれない。会って、話をしてみるしかないと思います」
「この罵迦。だからお人好しだっていうんだ、おまえは」
式の言葉には遠慮がない。いつもそんな物はないけど、今日は輪をかけて攻撃的だ。彼女は本気で怒っている。
「あいつに話は通じないよ。完全に手遅れだ。目的を果たすまで止まらない。いや、果たしたって止まるかどうか。手段と目的が入れ替わっちまってるからな」
「式、まるで浅上藤乃を知ってるような口振りだね」
「知ってるし、会ってる。昨日の鮮花との待ち合わせに同伴してたんだから」
え、と僕は声をあげた。
なんで鮮花が浅上藤乃と一緒にいるんだ。話がまったく繋がらな……くはないか。不良達に脅されていたのは女子高生だとしか聞いていなかったけれど、浅上藤乃が礼園女学院の生徒なら話は別だ。
「なんだ、鈍いな黒桐。浅上藤乃の調査はしてないのか」
「あのですね、その名前を聞いたのはほんの二時間前です。こっちは湊啓太の保護だけが目的だったんですから、そこまで気は配れません」
……けど、何か嫌な予感がする。
それは鮮花が関わっているとか犠牲者になるとか、そういった不安じゃない。もっと何か……大事な事を考えないようにしていたのに、それを強引に思い返させられそうな焦燥に近い。
「……けど、それじゃあ浅上藤乃は今も学校に通っているんでしょうか?」
「いや。事件の晩から寮にも家にも帰っていないし、学校も休んでいる。完壁な行方不明だ。鮮花も昨日から会っていないというしな」
「橙子さん、いつそんな事を調べたんです」
「少し前からだよ。彼女のご両親から捜索依頼を受けてね。昨夜、式から鮮花と浅上藤乃が一緒にいたと聞いて連絡をいれてみたが、鮮花は友人である浅上藤乃の異常には気が付いていないようだった」
―――なんて皮肉だ。鮮花との約束があと一日遅ければ、いや、もっと早く湊啓太を捜し出せていたら、昨夜の被害者は出なかったかもしれないのに。
「そういう訳だから、湊啓太の保護はうちとしても無駄な行為じゃない。このまま浅上藤乃を発見できなかったら擬似餌として使わせてもらおう。あとは荒事になるから、黒桐は啓太少年と一緒にここに残ること」
その抑揚のない声で、僕はようやく悟った。
式が、ずっとここにいる理由が。
「荒事って――浅上藤乃をどうするつもりなんですか、橙子さん」
「場合によっては戦闘もやむをえまい。なにしろ依頼主からしてそれを望んでいる。娘が殺人鬼として報道されるのは避けたいそうだ。せめて表沙汰になる前に殺してくれとさ」
「そんな、浅上藤乃は無差別な殺人を起こしてるわけじゃないでしょう……! 話し合いは可能だと思います」
「ああ、そりゃあ無理だ。黒桐、おまえは大事な事実を聞き逃している。浅上藤乃が彼らのグループを皆殺しにした時の決定打を知らない。先ほど湊啓太を眠らせる時に白状させた。彼らのリーダーはね、最後の夜に刃物で藤乃に襲いかかったそうだ。その時、どうも藤乃は刺されてしまったらしい。復讐の引き金はそれなんだ」
……刃物。凌辱されて、なおナイフで脅されたっていうのか。でも――それがどうして駄目な理由なんだろう?
「問題はここからでね。腹部を刃物で刺されたのが二十日の夜。式が出会ったのがその二日後だ。その時、浅上藤乃に傷はなかった。完治していたというんだ」
「お腹に刺し傷……」
待った。それ以上考えるのはまずい。そう理性が
歯止めをかけるのだけれど、僕にはそれが出来なかった。
二十日の夜。礼園女学院の生徒。腹部に刺し傷。
「啓太少年曰く、藤乃は電話越しに傷が痛みだすから忘れられない、と繰り返し言うんだとさ。
完治したはずの傷が痛みだす。おそらく過去の凌辱の記憶が脳裏をかすめるたびに、腹部を刺された時の痛みが蘇るんだ。忌まわしい記憶が、忌まわしい傷を呼び起こす。痛みは錯覚なんだろうが、彼女にとっては本物なのだろう。これでは発作と変わらん。浅上藤乃はありもしない痛みを思い出すたびに、突発的に殺人を犯している。話し合いの最中にそれが起きないと誰が言い切れる?」
でも、それは逆に傷さえ痛まなければ話し合いができるって事じゃないか。
僕がそれを口にしようとするより早く、沈黙していた式が声をあげた。
「違うぜ、トウコ。あいつには本当に痛みがある。浅上藤乃の痛みは体内にまだ残ってるよ」
「そんな筈はない。では式、傷が完治しているというのはおまえの誤診か?」
「刺された傷なら完治してる。中に金属片とかも残ってない。本当にあいつの痛みは消えたり出てきたりしてたぜ。痛んでいる時の浅上藤乃は手遅れだ。逆に普通の浅上藤乃はつまらない。殺す価値もないんで帰ってきたって言っただろ」
「……そもそも内部に金属片なんぞ残っていたら一日で死んでいるがね。へえ、完治しているのに痛む傷、か」
不可解だ、とばかりに橙子さんは煙草を取り出した。
僕も式の言葉には首を傾げる以外ない。
お腹を刺された傷が治るまで痛がるのなら普通だ。けれど完治した後も痛みが突発的に蘇るというのはなんなんだろう。それではまるで、痛覚だけが残留しているような物じゃないか。
「あ」
唐突に思い当たった。
浅上藤乃の正体不明の症状の解決にはならないけれど、彼女がヘンだったという事の意味が“症状”という単語から連想できたのだ。
「なんだ黒桐。五十音発音による健康法か?」
……そんな物、あったって誰もやらないと思う。
「違います。浅上藤乃がヘンだったって話ですよ」
うん? と橙子さんは片眉をあげる。ああ、そういえば事件の概要だけしか話してないから、これはまだ説明していなかった。
「湊啓太からの話の中であったんですけど、浅上藤乃は何をされても動じなかったそうなんです。初めは気丈な子だな、と思ったんですけど、そうじゃない。あの子はそう強い子じゃなかった」
「―――知ってるような口振りだな、幹也」
なぜか式が鋭い視線を向けてきた。
今の式の台詞は無視しなくちゃいけない、と本能が命令する。……薮をつついて蛇をだす結果になりかねないから。
「もしかすると……自分はよく知らないんですけど、彼女は無痛症ってヤツなんじゃないかなって」
無痛症とは、文字通り痛みを感じられないという特殊な症状の事だ。
希有な症例なので滅多に見ないけれど、もしそうなら彼女の不可思議な痛覚もありうるのではないか。
「……そうか。それなら少しは説明できるが……それにしたって原因があるはずだ。腹部をナイフで刺されたとしても、無痛症であるのなら痛みは初めから無かった筈だからな。
浅上藤乃は生まれ持っての無痛症なのかの確認も必要だし、その感覚麻痺が解離症かそうでないかも判らないのでは話にならない、
まあ仮に彼女が無痛症だったとしてもだ。何かしら彼女に変化を与える要因はなかったのか? 背中を強打したとか、首筋に大量の副腎皮質ホルモンを射ち込んだとか」
背中を強打―――アレか。
「程度は知りませんが、背中をバットで殴った事があるそうです」
感情を抑えた僕の言葉を、橙子さんはおかしそうに笑った。
「ははあ、連中の事だ。フルスイングしたろうな、それは。なら背骨は折れたか。そして折った後も浅上藤乃はその感覚がなんであるか判らないまま、彼らに犯されたってワケだ。……まったく、初めて感じた痛みがそれか。彼女はその苛立ちがなんであるかも判らなかったろうに。
いやあたいしたもんだ。黒桐、おまえよく湊啓太を保護する気になったな」
橙子さんは口元を釣り上げながら言う。
この人は気が向いたのなら、誰であろうと言葉で追い詰めるという悪癖を持っている。ひとを理性で苛めることが好きなのだそうで、その被害はたいてい僕にやってくる。
いつもはそれに対抗するのだけど、今は答える事ができない。……答えられるだけの自信がない。うつむいてその回答を拒絶するしか出来なかった。
「……それで橙子さん。背骨と無痛症って関係があるんですか」
「あるよ。感覚を司っているのは脊髄だろ。痛覚に異常がある場合、大抵は脊髄に何らかの異常がある。
黒桐、脊髄空洞症というのを知っているか?」
……医学生でもない僕が、そんな専門的な病名を知るわけがない。黙って首を振ると、そうか、と橙子さんは残念そうに肩を落とした。
「空洞症は感覚麻痺の代表的なものなんだがね。
いいか黒桐、感覚には二種類あるんだ。
感触や痛み、温度感などを味わわせる表在感覚。
肉体の動き、位置感を自身に報告する深部感覚。
普通感覚麻痺はこの二つが同時に起こる。完全に感覚がないという事がどういう事か分かるか?」
「言葉でなら理解できます。触っても感じないし、食べても味がしないって事でしょう?」
そうそう、と頷く橙子さんはなんだか楽しそうだ。
「それが感覚を持っている者の当然の意見だ。
感覚がなくても体があって、きちんと動くのだからそれ以外は自分達と変わらないと思っている。でもそれは違うんだ。感覚がないという事はね、何も得られないという事なんだよ、黒桐」
何も得られない―――?
そんな筈はない。物だって持てるだろうし、話をする事もできるのだ。無痛症とは、ただ触っている実感が湧かないだけじゃないか。それがどうして何も得られないって事になるのか。体が無いってわけでもあるまいに。体の一部が無くて苦しんでいる人に比べればそんなに深刻な状況ではないと思う。
「――――あ」
そこで、気付いた。
………からだが、ない。
触れても、それを触っていると感じられない。ただ目で見て、触っているという事実を認めるだけの現実。そんなのは本を読んでいるのと同じだ。絵空事、架空の話と何が違うというのか。
歩いても、体が動いているだけ。地面の反動も感じなくて、ただ足が動いているという認識しかない。いや、その認識だって目で見てやっと信じられるぐらい稀薄な認識なのだろう。
感覚がない。それは体がないってことだ。そんなのは幽霊と同じではないのか。
彼らにとって、すべての現実はただ見ているだけのもの。そんなの、触れていたとしても触れられないのと同じじゃないか……!
「―――それが、無痛症ですか」
「そうだよ。浅上藤乃の無痛症は、背中を強打したという一件で一時的に治ったと仮定しようか。そうすれば彼女も痛い、という意味合いを知っている事になる。今まで体験しえなかったその感覚が、彼女の殺人衝動の一つだろう」
痛みを知った少女は、それに敵意を向けただろうか?
向けられる筈がない。
……幽霊のような少女。痛みを知った時、彼女はどれほど嬉しかっただろう。その、嬉しいという感情さえも判らなかっただろうけれど。
「……無痛症が一時的に治って、痛みを感じるようになって、憎いっていう感情を知ったのかな。せっかく手に入れた痛覚が、復讐の引き金になってしまってるなんて」
なんて、皮肉―――
「そこなんだ。傷が痛むから復讐する、と浅上藤乃は言ったそうだが、どうだかなぁ。正確には傷が痛む事で過去の凌辱を思い出してしまって復讐する。これが動機だとは思うんだが、いまいちしっくりこない。第一、式の話じゃ彼女は無痛症に戻っていたんだろう? それならもう復讐の意味なんてないじゃないか。傷は治れば痛まないぞ」
「違います。橙子さん、感覚がないって事は性感もないって事でしょう。だから凌辱されてもその痛みも感覚もない。浅上藤乃という子にとってみれば、それは辱められたというだけの事実です。けど、いやだからこそ、体が痛まないかわりに心だけが擦り切れていった。彼女の傷は肉体にじゃなくて、心にあるんじゃないでしょうか。
だから記憶と、緒に痛覚が蘇る。心が痛むから」
橙子さんは答えず、かわりに式が笑いだした。
「そんなわけあるもんか。心はないんだ。ないものがどうして痛むっていうんだよ」
……そう言われると、確固たる反論なんかない。
そりゃあ心なんて詩的で感傷的なものは、あるかどうか判らないものなんだ。
そう僕が言葉を呑むと、意外な事に橙子さんはいや、と呟いた。
「でも、心は壊れやすい。カタチがないからといって傷つかない、というのはどうかな。事実、精神が病む事によって死に至る者もいる。それがどのような錯覚妄想のたぐいであれ、そういった事実があるかぎり、その計測不能な現象は“痛む”と表現されるんだ」
橙子さんにしては曖昧な反論。でも今の自分にとっては頼りになる味方だ。
式はむっとして腕を組む。
「なんだトウコ。おまえまで幹也と同じに浅上藤乃の肩を持つのか。あいつはそんなにかわいいヤツじゃないぜ」
「ああ、それに関しては式に同感だ。浅上藤乃にそんな感傷はあるまい。心が痛いから復讐する? まさか。だってね黒桐。無痛症は、その心さえ痛まないんだ」
味方は、一瞬にして最大の敵になった。
「いいかい。人格というのは医学的に個人が外部からの刺激に反応し、それに対応する現象と表現される。
人の精神……優しさや僧しみは、自分の内側からだけじゃどうしても発生しないんだ。心は外部からの刺激がなければ働いてくれない。その為に痛みがある。痛まない、という事は冷めている、という事なんだ。先天的な無痛症患者は人格に乏しい。いや、作るのが難しい。成長過程で人格形成がうまくいかなかった者は、長く無感動な自身と向き合う事になる。そういった症状の者にはね、黒桐のような当たり前の思考や嗜好はないんだ。彼らには常識があまり通用しない。そして、今現在その最たるモノになっている浅上藤乃には、正常な話し合いなど通じないんだよ」
忘れかけていた話し合いの結論を、橙子さんはさりげなく告げた。そのあまりの自然さは、逆に最後通告のようで僕を追い詰める。
「……会ってもいないくせに、そんな事言わないでください」
耐えきれず、僕はソファーから立ち上がった。
「それは初めから無痛症だったらの仮定でしょう。浅上藤乃はそうじゃないかもしれない」
「無痛症だと言い出したのは君なんだがね、黒桐」
冷淡に橙子さんは言った。
……この人は、本当に不干渉だ。女のひとなのにどうしてここまで浅上藤乃に冷たくできるのか。いやそれとも。女のひとだから何処までも冷たくなれるのか。
「まあ私にだって気になる点はある。浅上藤乃はただの被害者かもしれない。問題はいったいどちらが先だったのか、だ」
……どっちが先って何のことだろう?
橙子さんはぶつぶつと考え込んでしまって、それ以上の事は説明してくれなかった。
「式はどう思う?」
背後の彼女に、振り向かずに訊いてみる。
式は予想通りの返答をした。
「トウコと同意見。ただ、オレはトウコの事情なんて関係なく浅上藤乃を許せない。あいつがまた人を殺すかと思うだけで吐き気がする」
「近親憎悪か。やはりこのての手合いは群れないな」
式の言葉を橙子さんが引き取る。
僕は、式がそう語る理由がわかっていた。
……式本人はいつ気が付くのだろう。殺人を嗜好する彼女は、本当はそんなものではないという事を。
浅上藤乃と両儀式。このふたりは似ていると思う。
似ているからこそ、ふたりにはその決定的な違いが許せない。もしこのふたりが争う事になったのなら―――式は、自分の中のほんとうに気がついてくれるのだろうか。……いや。ふたりが争うなんて、そんな事態にしちゃいけない。
「――わかりました。僕は僕なりのやり方で浅上藤乃を調べてみます。彼女の資料、あるなら貸してください」
橙子さんは簡単に資料を渡してくれた。
式は勝手にしろ、とそっぽを向いてしまう。
資料を見ると、浅上藤乃は小学校まで長野県に住んでいた。そこでの名字は浅上ではなく浅神。今の彼女の父親は実の父親ではなくて、藤乃は母親が再婚した際に引き取られた連れ子だということだ。調べるとしたら、まずこのあたりからだろう。
「少し遠出します。今日と明日は戻れないかもしれません。ああ、それと橙子さん。超能力って本当にあるんでしょうか」
「黒桐は湊啓太の話を信じてないのか。浅上藤乃は聞違いなくその手の類の能力者だよ。超能力なんて大雑把な言い方は的確ではないが、詳しく知りたいのなら専門家を紹介しよう」
言って、橙子さんは自分の名刺の裏にさらさらと超能力の専門家、という人の住所を書いていく。
「あれ、橙子さんは詳しくないんですか?」
「あったりまえだ。魔術は学問だぞ。あんな理論も歴史もない先天的な反則なんかに付き合えるか。私ね、ああゆう選ばれた者だけの力ってのが一番嫌いなの」
最後だけ眼鏡をかけた時の口鯛になるあたり、本当に嫌いなんだろう。僕はその名刺を受け取ると、最後まで剣呑にしていた式に話しかける。
「式。それじゃ行ってくるけど、無茶はしないようにね」