饭饭TXT > 海外名作 > 《空の境界/空之境界(日文版)》作者:[日]奈須きのこ/奈须きのこ【完结】 > 空の境界@txtnovel.com.txt

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作者:日-奈須きのこ/奈须きのこ 当前章节:15356 字 更新时间:2026-6-15 18:51

「無茶はおまえだ。罵迦は死ななきゃ治らないって話、本当なんだな」

 そうやって式は悪態をつくけれど、その後に努力してみる、と小さく呟いてくれた。

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 七月二十四日。

 黒桐幹也が浅上藤乃の調査を始めてから一日が経過した。

 その間に起こった出来事はあまり特筆すべき物ではない。

 例えば今日の夕方から明日の早朝にかけて大規模な台風が上陸するとか、乗用車を無免許で運転していた十七歳の青年が道を外れて事故を起こしたぐらいである。

 あくまで、表向きは。

 両儀式は電灯のない蒼崎橙子の事務所で、ただぼんやりと外を眺めていた。

 夏の空模様は一目で見飽きてしまうほど広い。雲一つない蒼天に、ただ|燦々《さんさん》と輝く太陽がある。

 この、青い絵の具だけで描けるような大空が、夜になれば吹き|荒《すさ》ぶ暗雲に呑み込まれるのなんて、それこそ|質《たち》の悪いゆめのようだ。

 かーん、かーん、という音が、耳鳴りのように響く。

 事務所は製鉄工場の隣にある。窓際にいる式には工場から響く機械音が絶え間なく届いていた。

 式は無言で橙子を一瞥する。

 橙子は眼鏡をかけたまま電話をしていた。

「ええ、そうです。その事故の事なんです。……ああ、やっぱり接触事故を起こす前に死亡していた、と。死因は絞殺ですか? 違うことはないでしょう。首がねじ切られているのなら、それは絞殺ですわ。強さの加減はまた別の問題です。

 そちらの見解はどうなってます? やはり接触事故扱いですか。そうでしょうね、車の中には被害者しかいなかった。走る密室なんて、どんな名探偵でも解決できませんもの。いえ、これだけ教えていただければ十分です。

―――どうもすみません。このお礼は必ずいたしますわ、|秋巳《あきみ》刑事」

 橙子の会話は丁寧で、この上なく優しい女性のものだった。彼女を知る者が聞けば背筋を震わせかねない。

 電話が終わると橙子は眼鏡を微かにずらした。およそ温かい感情が断絶された眼差しがそこにある。

「式、七人目がでた。これは二年前の殺人鬼どころじゃないぞ」

 式は名残惜しそうに窓から離れた。

 彼女は、この空が暗雲に侵食される瞬間を見ようと思っていたのに。

「ほらみろ。今度こそ無関係の殺しだろ」

「そのようだね。湊啓太も事故を起こした高木彰一など知らないそうだ。これは彼女の復讐とはまったく関係のない余分な殺人だ」

 白い紬を着た式は、ぎり、と奥歯を咬んだ。そこにあるのは怒り。彼女は赤い革の上着を着物の上から強引に羽織る。

「そう。なら、もう待ってられない。トウコ、あいつの居場所わかる?」

「さあな。潜伏場所なら二、三心当たりがある。捜すというのなら、手当たり次第に行ってみるしかないぞ」

 橙子は机から数枚のカードを取り出すと、式に放り投げる。

「……なんだこれ。浅上グループの身分証明書? 誰、この|荒耶《あらや》|宗蓮《そうれん》って」

 三枚のカードは、全て浅上建設が関わっている工事中の施設への入場許可証だ。電磁ロックになっているのか、カードの端には磁気判別のスリットがある。

「その偽名は私の知人だ。適当な名前が思いつかなくてね、依頼人に身分証明書を作らせる時に使ったんだ。ま、そんな事はどうでもいい。浅上藤乃が潜伏しているとしたらそのうちのどれかだろう。面倒だから黒桐が帰ってくる前にやってしまえ」

 式は橙子を睨む。普段うつろな式の目は、こうなるとナイフのように鋭い。

 式はほんの数秒だけ橙子に無言の抗議を向けたが、何も言わずに踵を返した。

 結局は、彼女も橙子と同じ意見だったからである。

 式は別段急ぐ風でもなく、いつも通りの流麗な足取りで事務所から消えていった。

 ひとりになって橙子は窓の外へと視線を移す。

「黒桐は間に合わなかったか。

 さて。嵐が来るのが先か、嵐が起こるのが先か。式ひとりでは返り討ちにあうかもしれないぞ、両儀」

 誰にでもなく、魔術師は呟いた。

        ◇

 正午を過ぎたあたりで、空模様が段々と変わっていった。

 あれだけ青かった空は、今ではもう鉛のような灰色に覆われつつある。

 風も吹いてきた。

 道を行くひとたちは口々に台風が来ている、とはやしたてる。

「くっ――――」

 わたしは熱くなったまま戻らないお腹を押さえながら歩く。

 台風の話なんて、わたしは知らなかった。ずっと人捜しに夢中だったからだろう。

 街は慌ただしくはあるものの、人の姿は段々と少なくなっていく。これでは今夜は出来そうにない。

 今晩は帰ろう、と思った。

 何時間もかけて、徒歩で港に着いた。

 空はとうに暗い。まだ夏の夜の七時なのに。嵐の到来は、季節がもつ本来の時間さえ狂わせるんだ。

 一日ごとに反応が遅れる体を動かして、わたしは橋の入り口に辿り着いた。

 この橋は、父がもっとも心を砕いている建物だ。

 こちらの港と対岸の港をつなぐ、大きくて立派な橋。

 車道は四車線もあって、橋の下にはクジラに張りつくコバンザメのように通路が作られている。

 地下はショッピングモールになっている。海の上に浮いているのに道路の下にあるから、地下と呼ぶしかない。

 地上の橋には警備員がいて、中には入れない。

 けれど地下のモールへの入り口は無人で、カードさえあれば中に入ることができる。

 わたしは家から持ち出した数枚のカードから一枚を取り出して、その入り口を開けた。

 ……中は暗い。もう大体の内装は終わっているけれど、電気が通っていないからだ。

 無人のモールは終電間近の駅みたいだ。

 どこまでも真四角に伸びる通路。

 通路の左右には色々なお店がある。

 五百メートルも歩くと、モールは武骨な鉄筋が林のように並ぶ駐車場に変わった。

 ここはまだ工事中で、とにかく散らかっている。

 壁もまだ未完成で、壁にあてられた雨避けのビニールがばたばたと鳴っていた。

 ――そろそろ八時になるのだろうか。

 風が強い。びゅうびゅう吹き荒ぶ音と、海面に打ち付ける音に耳を塞ぎたくなる。

 壁に当たる雨の音は、映画で観た機関銃より激しく火花を散らしている。

「雨―――」

 あの日も雨だった。

 初めての殺人のあと、温かい雨で体の穢れを落とした。

 その後に、あのひとに会えた。

 中学時代にたった一度だけ会って、話しただけの遠いひとに。

 ……ああ、おぼえてる。

 遠くの地平線が燃えているみたいな夕暮れどき。

 お祭りだった総体が終わったあと、ひとりグランドに残っていたわたしに話しかけてきた他校の先輩を。

 わたしは足を挫いてしまっていて、動けなかった。

 無痛症のわたしは、本当は動けた。動いても心に何の支障もなかったから。

 けれど腫れ上がったくるぶしは、それ以上動けば取り返しのつかない事になると訴える。

 わたしは何の感覚もないまま、ただ夕日を眺めるしかなかった。

 あの時、わたしは助けを呼ばなかった。

 呼びたくなかった。

 呼べばきっとみんな言うんだ。よくここまで我慢したね。痛くないの? 痛まないの? 痛いと思えないの? と。

 そんなのは厭だ。だからわたしはいつも通り、普通の表情をして座り込んでいた。誰にも気付かせてやるもんかって、ひどく意固地になっていた。

 お母さまにも、お父さんにも、先生にも、友達にも、誰にも気付かせない。せめてまわりの人たちに藤乃は普通なんだと思わせなければ、わたしはきっと潰れてしまう。

 その時、ぽん、と肩に手をかけられた。

 感覚はなかったけれど、耳元で音がしたんだ。

 ふりかえると、そのひとが立っていた。

 わたしの気もしらないで優しい目をしていたそのひとへの第一印象は、憎らしいだったと思う。

「痛いの?」

 そのひとは、信じられない言葉で挨拶をしてきた。

 絶対にわかるはずのない足の傷を、どうして。

 わたしは首をふった。認めてなどやるもんかって意固地になってた。

 そのひとは体操服についたわたしの名札を見て、わたしの名前を口にした。

 そうしてわたしの挫いた足に触れて、顔をしかめる。

 ああ、きっと厭な事を言うんだ、とわたしは目をつぶった。

 痛いの、とか痛まないの、とか。そういう、普通の感覚を持ってるひとが無神経に口にする心配なんか、わたしは聞きたくなかったから。

 けど、違う言葉がやってきた。

「馬鹿だな、君は。いいかい、傷は耐えるものじゃない。痛みは訴えるものなんだよ、藤乃ちゃん」

 ……それが中学時代、わたしが先輩に言われた言葉。

 その先輩はわたしを抱えて医務室に行くと、わたしを置いてそれっきりだった。

 なんだか、淡い夢みたいだった。

 思えば、あの時から浅上藤乃は彼が好きだったのかもしれない。

 誰も気付かない、誰にも気付かせない筈だった自分の苦しみを案じてくれたあの笑顔が――――

「っ…………!」

 ずきり、とおなかが疼く。それで夢は|冷《さ》めた。

 血に汚れたわたしが、思い出にひたっていい筈がないんだ。けど―――――、

 雨は、不浄を落としてくれるのかもしれない。

 わたしは橋の上に行きたくなった。

 台風は本格的にやってきている。橋の上は、それこそ南国のスコールみたいになっているだろう。

 なんだかうきうきした。

 もう痛みが消えてくれない重い体を引きずって、わたしは駐車場の坂道を登っていく。

 浅上藤乃は橋の上へ。

 なつかしいなつのあめにうたれるために。

        ◇

 大橋は、底の浅い湖と化していた。

 四車線もの広いアスファルトは一面雨水に浸され、歩く度にくるぶしまで濡れてしまう。

 叩きつける雨は斜めに降り注ぎ、風は柳の幹のような街灯を叩き折らんとばかりに荒れ狂っていた。

 空は闇。

 此処はすでに遥かな海上。

 港に見える街の明かりは、まるで地上から月を見るように、遠く遠く届かない。

 浅上藤乃は、その嵐の中へやってきた。

 黒い制服は|烏《カラス》めいて夜に溶ける。

 彼女は雨に濡れながら、紫に変色した唇から息を吐いて歩く。

 街灯の下まで辿り着いた時、死神に出会った。

「やっと会えたな、浅上」

 嵐の海に、白い装束の両儀式がいた。

 赤い革の上着がばちばちと雨を弾いている。

 彼女も雨に濡れて幽霊のように見えた。

 式と藤乃はお互い街灯の下に立つ。

 ふたりの距離は、そう。ちょうど十メートルぐらいだろう。

 この豪雨と烈風の中、お互いの姿はよく見えたし、お互いの声もよく聞こえるのが不思議だった。

「両儀――――式」

「大人しく家に帰れば良かったのに。おまえは血の味を知ったケダモノだ。人殺しを愉しんでる」

「―――それは貴方でしょう。わたしは、愉しんでなんか、いない」

 藤乃は荒い呼吸のまま、式を凝視する。

 そこにあるのは敵意と殺意。彼女は静かに左手で自らの顔を覆った。……指の隙間から、爛と輝く両目が覗く。

 応えるように、式は右手にナイフを持った。

 これでふたりの対面は三回目。

 この国には三度目の正直という諺があったな、と式はつまらなげに笑った。

 この浅上藤乃は、十分なほど殺人対象だ。

「……実感したよ。オレ達は似たもの同士だって。 ああ―――――今のおまえなら殺してやる」

 その言葉で、ふたりの枷は完全に解き放たれた。

       /5

 式の疾走が始まった。

 水に濡れた足場、吹き荒ぶ豪雨の中で、見惚れるほどの速さだった。

 十メートルの距離を詰めるのに、おそらく三秒はかかるまい。藤乃の細い体を地面に叩きつけ、心臓にナイフを突き立てるのには十分すぎる時間だ。

 しかし、その驚異的な速度も視力には及ばない。

 接近して切り付けねばならない式と。

 ただ、その両目で目標を捉えるだけの藤乃との差は、三秒では遅すぎた。

「―――――」

 藤乃の両目が光る。

 左目は左回転を、右目は右回転を。式の頭と左足に軸を固定して、一気にねじ切る、

 異変はすぐに現れた。

 式は自分の体にかかる見えざる力を感じた瞬間に真横に跳んだ。

 弾けるような真横への跳躍。けれど、式の体にかかる力はなお|弛《ゆる》まない。

 藤乃の能力は飛び道具ではない。その場所から離れたとしても、彼女の視界に収まっているかぎり逃げる事は不可能なのだ。

 ―――こいつ―――!

 式は内心で舌を鳴らす。藤乃の力は、考えていた以上に強力だと実感して。

 式はなお走った。藤乃の視界から逃れるように、藤乃を中心にして|円《まどか》に走る。

「そんなことで―――」

 逃げられるものですか、と藤乃は呟き、絶句した。

 逃げられた。

 信じられない事に、式は橋の上から海面へと飛び降りたのだ。

 がしゃん、という窓の割れる音がする。

 なんていう運動能力だろう。両儀式はこの大橋から落ちて、そのすぐ下に広がる駐車場へと飛び移ったのだ。

「なんて―――出鱈目な人なんでしょう」

 呟くその口元は、笑っている。

 たしかに逃げられた。けれど、藤乃の視界は式の左手を最後まで見つめていた。革製の上着がねじれる光景を、確かに見届けたのだ。

 まず片腕を潰した。

 藤乃は実感する。

「わたしのほうが――――強い」

 腹部の疼きは強くなる一方だ。

 それを我慢しながら、藤乃は地下への坂道を下りていく。

 両儀式とは、ここで決着をつけねばならない。

 駐車場は一面の闇だった。

 視界は悪く、歩きにくい。

 なんだかミニチュアの街にいるようだ、と藤乃は顔をしかめる。確かに所々に立つ鉄柱と地面に積み上げられた資材の山は、ビル街のように入り組んでいた。

 式を追いかけて数分。藤乃はここを戦場にした事を悔やんでいる。

 彼女の能力はあくまで対象を視界に収めていなければ回転の軸を作れない。いくら鉄柱の裏に式が潜んでいると判っていても、式を眼球で捉えられないのなら回転軸は鉄柱にいってしまうのだ。あの、橋の上での微か一瞬の交叉で、式は藤乃の能力を看破した。だから逃げた。自分に勝ち目ができるこの場所に。

 明らかに戦う者としての能力が劣っている事を、藤乃は思い知らされた。けれど――

―――それでも。まだ、自分のほうが強い。

 見えないのなら裸にするまでだ。

 藤乃は手当たり次第、邪魔になりそうな鉄柱を曲げて倒す。一本、また一本と壊すごとに腹部の疼きは深くなり、駐車場の揺れは激しくなっていった。

「目茶苦茶だな、おまえ」

 式の声が闇に響く。

 その場所へ藤乃は瞬時に振り向いた。

 式の隠れていた資材の山が粉砕される。

 刹那――その影から、白い装束が飛び出してきた。

「―――そこ!」

 藤乃の両目が、式を捉える。

 白い着物と赤い上着の少女は、血に染まった左腕を突き出して走ってくる。

「―――っ……!」

 ほんの微かだけためらって、藤乃は曲げた。

 ばきん、と音をたてて式の左腕が折れる。

 次は首。そこへ視線を投げかけた時――――式は、もう彼女の間合いに入っていた。

 振るわれたナイフの一閃は、まさに閃光。

 闇の中にいつまでも軌跡が残るような、白銀の一振りだった。

 ためらわず一撃した式のナイフは、しかし藤乃には当たらない。

 確実に首の頸動脈めがけて振るわれた式の一撃を、藤乃は屈んで躱したから。

 いや、違う。今のはただの偶然だ。

 浅上藤乃は、左腕が壊れながらも楽しそうに走ってくる両儀式が恐くて顔を背けただけなのだから。

「チッ――――」

 舌打ちして式は空振りした右手を構え直す。

 藤乃は夢中で式の胴体を凝視した。

「―――消えて―――!」

 藤乃の叫びより、式の移動のほうが速い。

 式は間髪入れずに闇の中へと紛れ込む。驚くのならその運動能力より、即座に離脱を選んだ思考の速さだろう。

「―――なんて―――」

 ひと、と藤乃は漏らす。

 彼女の呼吸が荒いのは、決して腹部の痛みからではない。

 藤乃は神経質に周囲の闇に気を配る。いつ、その中から式が飛び出してくるかわからない。

 藤乃は首筋に指を当てた。……今の出来事で、自分の首に傷が出来ていた。四ミリほどの傷は、けれど出血がない。……血はでないけれど、呼吸が苦しかった。

「腕を潰したのに、どうして―――」

 止まらないの、と。その疑問からくる恐怖に耐えられず、藤乃は呟いていた。

 今の一瞬が、忘れられない。

 左腕を潰されて、なお走ってくる式の目が。

 愉しんでいた。この、絶対的に有利な自分でさえ緊張ではち切れそうな状況を、あのひとは愉しんでいた。

 もしかすると―――両儀式にとっては、腕が潰された事は苦しみではなく喜びなのかもしれない。

 藤乃は今まで殺人行為を諭しんだ事はない。

 人殺しなんてしたくないから。

 けれど、あのひとは違う。

 あのひとは殺し合いが好きなんだ。その状況が極限であれば極限であるほど、両儀式は歓喜する。

 藤乃は思う。両儀式が自分と同じく生きているという感覚に乏しい人間なら、その代償行為を何に求めるのだろう。

 藤乃は殺人だった。自分と同じ人間が死んでいく姿を見ると、形容しがたい苛立ちが胸に湧いた。

 痛みというものがわかった藤乃は、その痛みを誰かに与える事によって痛みに共感できた。他人を支配しているのが自分なのだという事実が、ここにいるのだと実感させた。

 一方的な殺人こそが、藤乃の代償行為。

 本人が今も気付かない、それは殺人快楽症。

 では、両儀式は一体何に――――?

「―――今のはまずいな」

 資材の陰に隠れて、式はぽつりと呟いた。

 橋の上で捻られた左腕は、もう握力がなかった。どうせ使えないのなら盾にしよう、と今の一撃に賭けたのだが、それは浅上藤乃が思っていたより臆病だった、という事実の前に失敗してしまった。

 式は上着を脱いで腕の部分を切り取る。そのまま、片手で器用に左腕の止血をした。上腕部分をぐるぐる巻きにしただけの乱暴な止血である。

 藤乃に捻られた左腕の感覚はない。おそらく、一生まともには動くまい。

 その事実に、式は背筋が震えた。

「いいよ浅上。おまえは最高だ――――」

 急速に失われていく自分の血液。

 気が段々と遠くなる感覚。

――もとから血の気は多いのだ。

余分が抜ければ思考が綺麗になってくれる――

 式は神経を研ぎ澄ます。

 浅上藤乃は、おそらくこの先も出会えないぐらいの強敵だろう。

 一歩間違えれば自分は瞬時に死亡する。

 それが愉しい。生きている、と実感できる。

 過去の記憶に囚われる式にとって、この瞬間だけがリアルだった。

 自分の命を危険に晒す事によって得られる感覚。

 ただ一つ今の自分の物だと言いきれる、この小さな命。

 互いに殺し合い、殺し合う。

 日常でさえあやふやな式は、そんな最も単純な、追い詰められた方法でしか生を実感できない。

 浅上藤乃が殺人に快楽を求めるのなら。

 両儀式は、殺人を嗜好する事で実感を求める。

 両者の違いは、ここにきて決定的だった。

 ……藤乃の呼吸音が闇に響く。

 ……荒く、強く。苦しげに、怯えるように。

 いまだ傷を受けていない彼女の呼吸は、けれど今の式と同じように激しい。

 闇の中、ふたりの呼吸が重なりあう。

 鼓動も思考も、命さえもが同じなのか。

 嵐の中で揺れている橋は、揺り籠のリズムに似ている。

 式は、初めて藤乃が愛しくなった。

 その命を、この手で奪ってやらなければいけないと思うほどに。

「―――無駄な事だって、分かってるけどさ」

 喫茶店で会った時から判っていたのだ。浅上藤乃の内部が、すでに崩壊寸前だという事は。

 ここで危険を冒して彼女を仕留めるのは無駄なこと。

 けど、人生なんてそんなものだ。

 無駄に無駄を重ねていくと、いつかは何か出来ると思う。

 人間は無駄を行なう生物なんだ、と橙子の台詞を思い出した。式も、今ならそれに同感だった。

 この橋と同じだ。

 或る一つの無駄を愚かと蔑み、或る一つの無駄を芸術と持てはやす。一体、その境は何処にあるというのだろう。

 境界は不確かだ。定めるのは自分だというのに、決めるのは外側になっている。なら初めから境界なぞない。世界はすべて、空っぽの境界でしきられている。だから異常と正常を隔てる壁なんて社会にはない。

―――隔たりを作るのはあくまで私達だ。

 私が世間から離れたがるように、

 幹也が私を異常とは思わないように。

 そして、浅上藤乃が懸命に死に傾斜しているように。

 そういった意味では、式と藤乃は融け合っている。彼女達は似たもの同士。この狭い空間に、同じ存在はふたりといらない。

「――行こうか。おまえの手品のタネはもう視えた」

 出血によって白く―――クリアになっていく頭を振って、式は立ちあがった。

 強く、右手のナイフを握る。

 藤乃が自ら境界を引かないのなら、跡形もなく消し去るまでだ。

 式がゆっくりと現れた。

 藤乃は自分の目を疑う。

 こんな真っ正面、距離もずいぶんと離れているのに、と。

 藤乃本人は気付かない。彼女の熱は、すでに三十九度を超えている。腹部の痛みが『ある病状』からなるものだと、最後まで気付かない。

「……やっぱり。貴方、正気じゃないんですね」

 そうとしか藤乃には思えなかった。

 彼女は式を見つめて、曲げる。

 視界が歪む。式の頭と足に作られた軸がそれぞれ逆方向に回転し―――式の肉体を、布きれのように曲げた。

 曲げる、筈だった。

 式は血をこぼす左腕はそのまま、右手で持ったナイフを振るっただけで藤乃の“歪曲”を無効化した。

 いや、殺した。

「……カタチのないものは視えにくいんだけどな。おまえ、乱発しすぎだよ。おかげでやっと視れた。おまえの能力は緑色と赤色の螺旋でさ。

 ほんとうに―――――すごく、綺麗だ」

 藤乃には式の言う意味が解らなかった。

 理解できるのは、自分は間違いなく式に殺されるという事実だけ。

 藤乃は繰り返し念じた。

 凶れ、凶れ、凶れ、凶れ。そう睨むと式はナイフを振ってそれを消してしまう。

 藤乃の腹部の痛みは、臨界を超えようとしていた。

「貴方―――何者」

 藤乃の畏れに、式は底無しの瞳で答えた。

「万物には全て綻びがある。人間は言うにおよばず、大気にも意志にも、時間にだってだ。始まりがあるのなら終わりがあるのも当然。オレの目はね、モノの死が視えるんだ。おまえと同じ特別製でさ」

 いつか藤乃が不吉だと感じた黒瞳で、式は藤乃を視た。

「だから―――生きているのなら、神さまだって殺してみせる」

 式は走った。

 歩くような優雅さだった。

 藤乃に近寄って彼女を押し倒す。その上にかぶさるように乗りかかった。

 触れられるほどの“死”を前にして、藤乃は喉を震わす。

「わたしを―――殺すの?」

 式は答えない。

「どうして殺すの? わたしは、ただ傷が痛むから殺していただけなのに」

 シキは、笑った。

「そんなのは嘘だ。それならどうして―――おまえは笑っているんだ。あの時も、今も、どうしてそんなに愉しそうなんだ?」

 そんな、と藤乃は言い淀む。

 静かに、彼女は自らの口元に手をあてた。

―――それは。

 例えようも無く、歪んでいた。

「――――――――」

 感覚のない自分には判らなかったけれど。

 わたしは、たしかに笑っている。

 初めての殺人。血だまりに映った自分の顔はどうだったんだろう。

 二度目の殺人。血だまりに映った自分の顔はどうだったのだろう。

 わからないけど、いつも苛立ちがあった。

 人を殺す時、いつも苛立っていた。

 あの感情は―――悦びだったのか。

 犯されても感じえなかったわたしは、人殺しに快楽していた―――?

「結局、おまえは楽しんでいるんだよ。人を傷つけるのがたまらなく好きなのさ。だからその痛みも永遠に消えない」

 消してしまえば、人を殺す理由がなくなるから。

 傷は永遠に痛み続ける。誰よりも、自分自身の為だけに。

「―――それが―――こたえ?」

 藤乃は呟く。

 そんなの、認めたくない。

 こんなの、考えたくない。

 わたしは、あなたとは違うんだから――――

「言っただろ。オレとおまえは似たもの同士だって」

 式のナイフが走る。

 藤乃は灰になるまで叫んだ。

 みんな、凶ってしまえと。

 駐車場が|烈震《ふる》えた。

 藤乃の脳裏に|嵐夜《アラヤ》に浮かぶ海峡の全景が浮かび上がる。

 脳が蕩けるような灼熱に耐えきって、

 藤乃は橋の入り口と出口に回転軸を作り――――

 ――――それを、曲げた。

        ◇

 ばがん。

 落雷が落ちてきたかのような轟音がした。

 鉄筋が軋む。悲鳴をあげる。

 地面は斜めに傾斜し、所々の大井が崩れていく。

 一つの建物がガラガラと崩壊していく様を、浅上藤乃は呆然と見つめていた。

 さっきまでのしかかっていた少女は、突然の世界の傾斜に巻き込まれて落ちていった。

 外は嵐。下は海。……どこかに掴まる事もできずに落ちたのなら、助からない。

 藤乃は苦しすぎて息も出来ない体に命令する。

 ここにいては落ちてしまう。離れなくてはいけない、と。

 燃えつきそうな体を引きずって、駐車場から脱出する。

 ショッピングモールは比較的無事だった。

 四角い通路が、今では菱形になっている。

 藤乃は歩いて、歩いているつもりで、倒れた。

 呼吸ができない。

 足が動かない。

 頭がぼうとして、何も見えない。

 あるのは、そう―――身体の中の激しい痛みだけだった。

 死ぬんだ、と初めて彼女は思った。

 だってとても痛い。

 こんなのには耐えられない。この痛みを抱いて生きていくのなら、死んだほうがましだ。

「―――ごふっ」

 うつぶせに倒れこんで、藤乃は吐血した。

 地面に寝そべって、ぼんやりとする。

 白くなっていく視界で、床に流れる自分の血だけが鮮明だった。

 赤い血―――赤い景色。

 夕焼けは燃えるようで―――いつもとても燃えるようで。

「やだ……死にたく、ない」

 藤乃は腕を伸ばした。

 足が動かないのなら、腕で進むしかない。

 這いずって、少しずつ前に向かう。

 そうしないと――――あの死神が、自分をきっと追ってくる。

 藤乃は懸命に進んだ。

 感覚はすべて痛覚。

 痛い。痛い。痛い。そんな単語しか、もう考えられない。

 やっと手に入れた痛覚なのに、今はこんなにも憎い。

 でも―――ほんとうだ。痛いから――とても痛いから、死にたくないと渇望する。

 このまま消えるのはイヤ。もっと、生きて何かをしなくちゃいけないんだ。

 だってわたしは何もしていない。何も残していない。

 そんなのはみじめすぎる。

 そんなのはむなしすぎる。

 ……そんなのは、ひどく悲しすぎる。

 でも痛い。生きていこうとするココロが麻痺してしまうぐらいに痛くて、負けてしまいそうだ。

 痛い。痛い。痛い。痛い。いたい、けれど。

 ……藤乃は、血を吐きながら腕を動かす。

 繰り返すのは同じことば。

 彼女は初めて、とても強い意志で願った。

 ――もっと生きて、いたい。

 ――もつと話して、いたい。

 ――もっと思って、いたい。

 ……もっと ここに いたい―――

 でも、もう何も動かなかった。

 痛みだけが繰り返す。

 これが―――自分が愉しんでいたモノの正体。

 その事実が、何より浅上藤乃には痛かった。

 自分が犯した罪、自分が流した血の意味が今は解る。

 意味は重すぎて――謝る事さえできなかった。

 今はただ、優しい笑顔を思い出す。あのひとがいたのなら――こんな自分を、まだ、抱えてくれるのだろうか。

 びくん、と自分の体が痙攣した。

 喉元から逆流する血液が、最後の痛みの到来を告げる。

 その衝撃で、光さえ失った。

 もう、自分の中に残されたモノしか視えない。いや、それさえも薄れていこうとしている―――。

 消えていく孤独に耐えきれず、藤乃は口にした。

 今までずっと意固地になって守ってきた、彼女のほんとうのココロ……幼い頃からユメみていた、とてもちっぽけでささやかな願いを。

「―――……いたい。

 痛いです、先輩。すごく痛くて……こんなに痛いと、わたし……泣いて、しまう――――。

 ねえ母さま―――藤乃は、泣いて、いいんですか」

 ……このココロを、わたしは誰かに伝えたかった。

 三年前の夕暮れの日に、わたしはわたしを伝える事が出来ていたのなら、それはどんなに――――。

 泪がこぼれた。痛くて悲しくて、とても淋しくて、ただ泣くことしかできなかった。

 でも、それだけで、そんな事だけで痛みは薄れていった。

 痛みは耐えるものじゃなくて。誰かに愛してと訴えるものなんだって、あのひとは教えてくれたんだ。

 会えてよかった。――こうなる前に出会えて、ほんとうによかった。

「苦しいか」

 苦しみの果てに、式が立っていた。

 その手にはナイフがある。

 藤乃は自分で体を仰向けにして、式と向き合う。

「痛かったら、痛いっていえばよかったんだ、おまえは」

 式は、最後にそんな事を言った。

 ……藤乃の思い出と同じ言葉。

 たしかに、と彼女は思う。

 たとえ今からでも痛いと言えるのなら―――わたしは、こんな間違った道には迷いこまなかったろう、と。

 その不自由な、けれど正常な生活が走馬灯のように浮かぶ。

 けれどいけない。自分は罪を重ねすぎた。自分は人を殺めすぎた。

―――自分の幸せのために、たくさんの人を殺してしまった。

 浅上藤乃は、緩やかに自ら呼吸を止めた。

 彼女の痛覚は急速に消えていく。

 今、胸に突き立ったナイフの痛みも、感じないぐらいに。

痛覚残留/

        5

 台風が都心を直撃している最中、僕は事務所に帰ってきた。

 雨に濡れて事務所に入ると、橙子さんはぽろり、と口に咥えた煙草を落として出迎えてくれた。

「早いな。まだ一日しか経っていないぞ」

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