饭饭TXT > 海外名作 > 《嫌疑犯X的献身/容疑者Xの献身(日文版)》作者:[日]东野圭吾【完结】 > 容疑者Xの献身.txt

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作者:日-东野圭吾 当前章节:15386 字 更新时间:2026-6-19 10:46

「どこだといったんですか」

 草薙の問いに、石神はにやりと笑った。

「篠崎です。旧江戸川べりにあるアパートだと教えました」

 ここで篠崎が出てくるのか、と草薙は思った。

「でもそれだけではわからんでしょう?」

「当然富樫は詳しい住所も知りたがりました。私は奴を待たせて部屋に入り、地図を見ながら住所をメモに書き留めました。その住所というのは、下水処理場のあるところです。そのメモを波すと、奴め、えらく喜んでいましたよ。助かったといっていました」

「なぜそんなところの住所を?」

「それはもちろん、人気のない場所に奴を誘いだすためです。あそこの下水処理場付近の地理は、以前から頭に入っていたんです」

「待ってください。するとあなたは、富樫さんに会った瞬間から、彼を殺すことを決めていたというんですか」質問しながら草薙は石神の顔を凝視した。驚くべき内容だった。

「もちろん、そうです」石神は動じずに答えた。「さっきもいいましたように、私は花岡靖子を守らねばならないんです。彼女を苦しめる男が現れたら、一刻も早く排除する必要がある。それが私の役目です」

「富樫さんは花岡さんを苦しめる、と確信していたのですか」

「確信していたのではなく、知っていたのです。花岡靖子はあの男に苦しめられていました。あいつから逃げて、私の隣にやってきたのです」

「そのことを花岡さんから直接聞いたのですか」

「ですから、特殊な連絡方法によって知らされたのです」

 石神の口調には淀《よど》みがない。無論、ここへ出頭するまでに、頭の中を十分整理してきたに違いない。しかしその話には不自然なところが多い。少なくとも、今まで草薙が持っていた石神のイメージとはかけ離れていた。

「メモを渡して、それからどうしたんですか」とりあえず話の続きを聞くことにした。

「花岡靖子の勤め先を知っているか、と奴は訊いてきました。場所は知らないが飲食店だと聞いている、と私は答えました。さらに、仕事が終わるのは十一時頃で、それまでは娘も店で待っているらしい、と教えてやりました。もちろん、全部でたらめですが」

「でたらめを教えた理由は?」

「奴の行動を制限するためです。いくら人気の少ない場所とはいえ、あまり早い時間に行かれても困りますからね。花岡靖子の仕事が十一時までで、それまでは娘も帰らないと聞けば、奴もそれまでアパートを訪ねていくわけにはいかんでしょう」

「失礼」草薙は手を出して、彼の話を遮《さえぎ》った。「あなたはそれだけのことを、その瞬間にすべて考えたというんですか」

「そうです。それが何か?」

「いや……咄嗟によくそれだけのことを考えられるなと感心しているんです」

「大したことではないでしょう」石神は真顔に戻っていった。「奴はとにかく花岡靖子に会いたくて仕方がなかったわけです? だからこっちとしては、その気持ちを利用してやるだけでいい。難しいことじゃない」

「そりゃ、あなたにとってはそうかもしれないが」草薙は唇を舐めた。「で、その後は?」

「仕上げに私の携帯電話の番号を教えました。もしアパートが見つからなかったら連絡をくれ、といっておいたんです。ふつうそこまで親切にされたら、少しは怪しむものでしょうが、あの男は微塵《みじん》も疑っちゃいなかった。根本的に頭が悪いんでしょう」

「初対面の人間にいきなり殺意を抱かれるとは、誰も考えませんよ」

「初対面だからこそ、おかしいと思うべきなのです。ところがあの男は、でたらめな住所を書いたメモを大事そうにポケットに入れて、軽い足取りで立ち去りました。私はそれを確かめた後、部屋に入り、準備を始めました」

 そこまでしゃべってから、石神はおもむろに湯飲み茶碗に手を伸ばした。ぬるくなっているはずの茶を、彼はうまそうに飲んだ。

「その準備とは?」草薙は先を促した。

「それほど大したものじゃありません。動きやすい格好に着替えて、時間が来るのを待ちました。その間、どうすれば確実に奴を殺せるか、考えました。いろいろな方法を検討した結果、絞殺を選びました。それが最も確実だと思ったからです。刺殺や撲殺だと、どんなふうに返り血を浴びるか予想できませんからね。一撃で仕留める自信もなかった。また絞殺なら、凶器も簡単です。とはいえ、丈夫なものでないといけないから、炬燵のコードを使うことにしました」

「なぜコードだったんですか。丈夫な紐ならほかにいくらでもあると思いますが」

「候補として、ネクタイや荷造り用のビニール紐なども考えました。しかしどちらも手の中で滑りやすいのです。また伸びるおそれもある。炬健のコードが一番でした」

「するとそれを持って現場に?」

 石神は頷いた。

「十時頃、家を出ました。用意したものは凶器のほかに、カッターナイフ、使い捨てライターです。ただ、駅に向かう途中、ゴミ捨て場に青いビニールシートが捨ててあるのを見つけたので、それも畳んで持っていくことにしました。それから電車で瑞江駅まで行き、そこからタクシーを拾って、旧江戸川のそばまで行きました」

「瑞江駅? 篠崎ではなく?」

「篠崎なんかで降りて、もしあの男と鉢合わせしたらまずいでしょう」石神はさらりと答えた。「タクシーを降りたのも、あいつに教えた場所からはかなり離れたところです。とにかく気をつけなければならないことは、目的を果たす時まで、あいつに見つかってはならないということでした」

「で、タクシーを降りてからは?」

「人目につかないよう注意しながら、あいつが現れるであろう場所を目指して歩きました。もっともそんなことを注意しなくても、ひとっこひとり歩いちゃいなかったのですが」

 石神はそういってまた茶を一口啜った。

「私が堤防に到着して間もなく、携帯電話が鳴りました。あの男からでした。メモの住所の場所まで来たが、どうしてもアパートが見つからない、ということでした。私は、今どこにいるのかと尋ねました。あいつは丁寧に答えましたよ。私が電話で話しながら、近づいていっていることにも気づかずにね。私は、もう一度住所を調べてみるからちょっと待ってくれといって電話を切りましたが、その時には私はあいつの場所を確認していました。堤防の脇の草むらで、だらしなく座っていましたよ。私は足音をさせぬよう、ゆっくりと近づいていきました。あいつは全く気づきません。気づいたのは、私が真後ろに立った時です。しかしその時には、私は電気コードをあいつの首にかけていました。あいつは抵抗しましたが、思い切り絞めると、すぐにぐったりとしました。じつに簡単なものでした」石神は湯飲み茶碗に目を落とした。空だった。「おかわりをいただいてもいいですか」

 岸谷が立ち上がり、薬缶の茶を注いだ。どうも、と石神は頭を下げた。

「被害者は体格がよく、まだ四十代ですよ。必死で抵抗されたら、そう簡単には絞められないと思いますが」草薙はいってみた。

 石神は無表情のまま、目だけを細めた。

「私は柔道部の顧問です。後ろから襲いかかれば、相手が少々の大男でも、その動きを止めることは容易です」

 草薙は頷き、石神の耳に目を向けた。柔道家たちの勲章ともいえる、カリフラワー状態になっていた。同じような耳を持った者は、警察官にも多い。

「殺した後は?」草薙は訊いた。

「やらなければならないことは、死体の身元を隠すことでした。身元がわかれば、必ず花岡靖子に疑いがかかると思いましたから。まず、服を脱がしました。持参してきたカッターナイフを使って、切りながら脱がしたんです。その後、顔を潰しました」石神は平坦な口調でいった。「大きめの石を拾ってきて、ビニールシートをかぶせた上から、何度か殴りました。回数は覚えていません。たぶん、十回ぐらいじゃないかと思います。それから使い捨てライターで指紋を焼きました。それだけのことをやった後、脱がせた服を持って、その場を離れました。ところが堤防を離れる時、ちょうど一斗缶が見つかったので、その中に衣類を入れ、燃やすことにしました。しかし思ったよりも火が大きく、こんなことをしていたら人が来るかもしれないと思い、まだ燃えている途中でしたが、急いで立ち去りました。バス通りまで歩いてタクシーを拾い、一旦東京駅に行ってから、別のタクシーに乗り換えて帰宅しました。アパートに着いた時には十二時を過ぎていたと思います」

 そこまでしゃべった後、石神はふうーっと太い吐息をついた。

「私のやったことは以上です。使った電気コード、カッターナイフ、使い捨てライターは、すべて部屋にあります」

 岸谷が要点を記録していくのを横目で見ながら、草薙は煙草をくわえた。火をつけ、煙を吐きながら石神の顔を見つめる。石神は何の感情も想起させない目をしていた。

 彼の話に大きな疑問点はない。死体の様子や現場の状況も、警察が把握している内容と一致している。それらの多くは報道されていないことだから、作り話だと考えるほうが不自然だ。

「あなたが殺したということを、花岡靖子さんに話しましたか」草薙は訊いた。

「話すわけがないでしょう」石神は答えた。「そんなことをして、もし彼女が他人にしゃべったら大変ですからね。女というのは、なかなか秘密を守ってくれないものです」

「では事件について彼女と話し合ったこともないのですか」

「もちろんそうです。彼女との関係を、あなた方警察に気づかれてはまずいので、極力接触しないようにしてきました」

「先程あなたは、花岡靖子さんと、誰にも気づかれない方法で連絡を取り合っていたといいましたよね。それはどういう方法ですか」

「いくつかあります。一つは、彼女が話して聞かせてくれるのです」

「ということは、どこかで会っていたということですか」

「そんなことはしない。人目につくじゃないですか。彼女は自分の部屋で話すのです。それを私が機械を通じて聞きます」

「機械?」

「私の部屋の壁に、彼女たちの部屋に向けて集音器を取り付けてあります。それを使うんです」

 岸谷が手を止めて顔を上げた。彼のいいたいことは草薙にもわかった。

「それは盗聴、ですね」

 石神は心外そうに眉をひそめ、首を振った。

「盗み聞きしているのではありません。彼女からの訴えを聞いているんです」

「じゃあ、花岡さんはその機械の存在を知っているのですか」

「機械のことは知らないかもしれない。でも、こちらの壁に向かって話しているはずです」

「あなたに話しかけているというんですか」

「そうです。もっとも、部屋には娘さんがいるから、あからさまに私に向けて話すということはできません。娘さんと会話しているように見せかけて、じつは私にメッセージを発してくれていたのです」

 草薙の指に挟んだ煙草が、半分以上灰になっていた。彼はそれを灰皿に落とした。岸谷と目が合った。後輩刑事は当惑した顔で首を捻っている。

「花岡靖子さんがあなたにそういったのですか。娘と話しているように装って、じつはあなたに話しかけているのだと」

「いわなくてもわかります。彼女のことなら何でも」石神は頷いた。

「つまり、彼女がそういったわけではないのですね。あなたが勝手にそう思い込んでいるだけじゃないんですか」

「そんなこと、あるわけがない」無表情だった石神が、わずかに色をなした。「別れた亭主に苦しめられていることも、彼女からの訴えによって知ったのです。彼女が娘にそんなことを訴えたって、何の意味もないじゃないですか。私に聞かせたくて、そういう話をしたのです。何とかしてくれと私に頼んでいたんですよ」

 草薙は彼をなだめるように手を動かし、もう一方の手で煙草の火を消した。

「ほかにはどんな方法で連絡をとっていたんですか」

「電話です。毎晩、電話をかけました」

「彼女のところに?」

「彼女の携帯電話に、です。といっても、電話で話すわけではありません。私はただ呼出音を鳴らすだけです。もし彼女のほうに緊急の用がある場合は電話に出る。用がなければ、出ない。私は呼出音を五回聞いてから、電話を切るようにしていました。二人の間で、そのように決めてあったのです」

「二人の間で? ということは、そのことは彼女も承知していたと?」

「そうです。以前、そのように話し合って決めたのです」

「では、花岡さんに確認してみましょう」

「それがいい。そのほうが確実だ」自信に満ちた口調でいい、石神はぐいと顎を引いた。

「今の話はこれから何度も聞かせてもらうことになります。正式な供述書を作るのもこれからですから」

「ええ、何度でもしますよ。仕方のないことです」

「最後に伺っておきたいのですが」草薙は机の上で指を組んだ。

「なぜ出頭を?」

 石神は大きく息を吸い込んだ。

「出頭しないほうがよかったですか」

「そんなことを訊いてるんじゃない。出頭するからには、それなりの理由なり、きっかけなりがあるでしょう。それを知りたいんです」

 すると石神はふんと鼻を鳴らした。

「そんなこと、あなたの仕事には何の関係もないことでしょう。犯人が自責の念に駆られて出頭してきた、それでいいんじゃないんですか。それ以外の理由が必要ですか」

「あなたを見ていると、自責の念に駆られているようには思えないんですが」

「罪の意識があるか、と問われれば、少し違うといわざるをえないでしょう。でも私は後悔している。あんなことをしなければよかった。あんなふうに裏切られるとわかっていたなら、人殺しなんかしなかった」

「裏切られる?」

「あの女は……花岡靖子は」石神は顎を少し上げて続けた。「私を裏切ったんです。ほかの男と付き合おうとしている。私が元の亭主を始末してやったというのに。彼女から悩みを聞かされていなければ、あんなことはしなかった。彼女は前に話していたんですよ。あんな男、殺してやりたい、とね。私は彼女の代わりに殺したんだ。いわば、彼女だって共犯なんだ。警察は、花岡靖子も逮捕すべきです」

 石神の話の裏づけを取るために、彼の部屋が捜索されることになった。その間草薙は岸谷と共に、花岡靖子から話を聞くことにした。彼女はすでに帰宅していた。美里も一緒だったが、別の刑事が彼女を外に連れ出した。刺激的な話を聞かせたくないからではなく、美里にも事情聴取が行われるのだ。

 石神が出頭したことを知ると、靖子は大きく目を見張り、息を止めた。声を出せないでいた。

「意外でしたか」草薙は彼女の表情を観察しながら訊いた。

 靖子はまず首を振り、それからようやく口を開いた。

「思ってもみませんでした。だって、どうしてあの人が富樫を……」

「動機に心当たりはありませんか」

 草薙の問いかけに、靖子は迷うような躊躇うような、複雑な表情を見せた。口に出したくない何かがあるように見えた。

「石神はあなたのためにやったといっています。あなたのために殺したと」

 靖子は辛そうに眉をひそめ、はあーっと大きく息を吐いた。

「やはり思い当たることがあるようですね」

 彼女は小さく頷いた。

「あの人があたしに特別な感情を持っているらしいことはわかっていました。でもまさか、そんなことをするなんて……」

「彼は、あなたとはずっと連絡を取り合っていたというんですがね」

「あたしが?」靖子は表情を険しくした。「そんなことしてません」

「でも、電話はあったでしょ。しかも毎晩」

 草薙は石神の話を靖子に聞かせた。彼女は顔を歪めた。

「あの電話をかけてたのは、やっぱりあの人だったんですか」

「知らなかったんですか」

「そうじゃないか、と思ったことはありますけど、確信はありませんでした。だって名乗らなかったから」

 靖子によれば、最初に電話がかかってきたのは三か月ほど前らしい。相手は名乗らず、いきなり靖子の私生活に干渉するようなことを語り始めた。その内容は、彼女のことを日頃から観察していなければわからないようなものばかりだった。ストーカーだ。彼女はそう気づき、怯えた。

 心当たりはなかった。それから何度か電話がかかってきたが、彼女は出ないようにしていた。だがある時、うっかり出てしまったところ、相手の男はこんなふうにいいだした。

「君が忙しくて電話に出られないのはわかった。だったらこうしようじゃないか。僕は毎晩電話をかけるから、もし君が僕に用がある時には出てくれ。呼出音を最低五回は鳴らすから、それまでに出てくれたらいい」

 靖子は承諾した。それ以来、本当に毎晩のように電話が鳴った。相手は公衆電話からかけてくるようだ。その電話には出ないようにした。

「声で石神だとわからなかったのですか」

「それまで殆ど言葉を交わしたことがなかったので、それは無理でした。電話で話したのも最初の頃だけですから、今ではどういう声だったかもよく覚えていないんです。それに、あの人がそういうことをするようには、どうしても思えませんでした。だって高校の先生なんですよ」

「教師といったって、今はいろいろいますよ」岸谷が草薙の横からいった。それから彼は口を挟んだことを詫びるように俯いた。

 この後輩刑事が、事件発生当初から花岡靖子を庇っていたことを草薙は思い出した。石神が出頭したことで、安堵しているに違いなかった。

「電話のほかに何かありましたか」草薙は訊いた。

 ちょっと待ってください、といって靖子は立ち上がり、戸棚の引き出しから封筒を出してきた。

 それは三通あった。差出人の名はなく、表に、花岡靖子様へ、とだけある。住所は書いていない。

「これは?」

「ドアの郵便受けに入っていたんです。ほかにもあったんですけど、捨ててしまいました。でも何かあった時に、こういう証拠品を残しておいたほうが裁判で有利になるとテレビで知って、気持ちが悪かったんですけど、この三通だけは残しておいたんです」

 拝見します、といって草薙は封筒を開けた。

 封筒にはいずれも便箋が一枚ずつ入っていた。そこにプリンタで文章が印刷されている。文面はいずれも長いものではない。

『最近、少し化粧が濃くなっているようだ。服も派手だ。そんなのは貴女らしくない。もっと質素な出で立ちのほうがよく似合う。それに帰りが遅いのも気になる。仕事が終わったら、すぐに帰りなさい。』

『何か悩みがあるんじゃないのか。もしそうなら、遠慮なく私に話してほしい。そのために毎晩電話をかけているんだ。私なら貴女にアドバイスできることはたくさんある。ほかの人間は信用できない。信用してはいけない。私のいうことだけを聞いていればいい。』

『不吉な予感がする。貴女が私を裏切っているのではないか、というものだ。そんなことは絶対にないと信じているが、もしそうなら私は貴女を許さないだろう。なぜなら私だけが貴女の味方だからだ。貴女を守れるのは私しかいない。』

 草薙は読み終えた後、便箋を元の封筒に戻した。

「お預かりしてもいいですか」

「どうぞ」

「これに類することで、ほかに何か変わったことは?」

「あたしのほうには、特にないんですけど……」靖子は口ごもった。

「お嬢さんに何か?」

「いえ、そうじゃなくて、工藤さんに……」

「工藤邦明さんですね。あの人に何か?」

「先日お会いした時、おかしな手紙を受け取ったとおっしゃってました。差出人が不明で、あたしに近づくなという内容だったとか。隠し撮りされた写真も同封されていたそうです」

「あの人のところにね……」

 これまでの流れからすると、その手紙の差出人は石神としか考えられない。草薙は湯川学のことを思い浮かべていた。彼は学者としての石神を尊敬していたようだった。そんな友人がストーカーまがいのことをしていたと知ったら、どれほどショックを受けるだろう。

 ドアをノックする音がした。はい、と靖子が答えると、ドアが開いて若い刑事が顔を見せた。石神の部屋を捜索しているグループの一人だ。

「草薙さん、ちょっと」

「わかった」草薙は頷いて立ち上がった。

 隣の部屋に行くと、間宮が椅子に座って待っていた。机の上には電源が入ったままのパソコンがある。若い刑事たちは段ボール箱に様々なものを詰めている。

 間宮は本棚の横の壁を指差した。「これを見てみろ」

「おっ」草薙は思わず声を出した。

 二十センチ角ぐらいの大きさで、壁紙が剥がされ、さらに壁の板が切り取られていた。さらにそこから細いコードが出ている。コードの先にはイヤホンがついていた。

「イヤホンをつけてみろ」

 間宮にいわれ、草薙はイヤホンを耳に入れた。途端に話し声が聞こえてきた。

(石神のいっていることの裏づけが取れれば、後はもう話は早いと思います。今後は花岡さんたちに迷惑をおかけすることも少なくなるでしょう)

 岸谷の声だ。やや雑音が混じっているが、壁の向こうとは思えないほどくっきりと聞こえる。

(……石神さんの罪はどうなるんでしょう?)

(それは裁判の結果次第です。でも殺人罪ですから、死刑にはならなくても、簡単に出てこられるようなことは絶対にありません。だから花岡さんがつきまとわれることもないはずです)

 刑事のくせにしゃべりすぎだと思いながら草薙はイヤホンを外した。

「後で花岡靖子にこれを見せてみよう。石神によれば、彼女も承知していたはずだということだが、まさかそんなことはないだろう」間宮がいう。

「石神が何をしていたのか、花岡靖子は何も知らなかった、ということですか」

「おまえと靖子のやりとりは、これで聞かせてもらったよ」間宮は壁の集音器を見てにやりと笑った。

「石神は典型的なストーカーだ。靖子と気持ちが通じ合っていると勝手に思い込んで、彼女に近づいてくる男を全て排除しようとした。元の亭主なんてのは、最も憎むべき存在だったんじゃないか」

「はあ……」

「何だ、浮かない顔だな。何が気に入らない?」

「そういうわけではないんですが、石神という男について、自分なりに人間性を把握していたつもりですから、それとあまりにかけ離れた供述内容なので、戸惑っているんです」

「人間なんてものは、いくつもの顔を持っているものだ。ストーカーの正体は、大抵の場合、意外な人物だ」

「それはわかっていますが……。集音器のほかに何か見つかりましたか」

 間宮は大きく頷いた。

「炬燵のコードが見つかった。ホーム炬燵と一緒に箱に入っていた。しかも袋打ちコードだ。絞殺に使われたものと同一だ。被害者の皮膚の一部でも付着していたら決まりだ」

「ほかには?」

「こいつを見せてやろう」間宮はパソコンのマウスを動かした。だが手つきがぎこちない。たぶん誰かに即席で教わったのだろう。「これだ」

 文書作成ソフトが立ち上がっていた。画面に文章を書いた頁《ぺージ》が表示されている。草薙は覗き込んだ。

 それは次のような文章だった。

『貴女が頻繁に会っている男性の素性をつきとめた。写真を撮っていることから、そのことはおわかりいただけると思う。

 貴女に訊きたい。この男性とはどういう仲なのか。

 もし恋愛関係にあるというのなら、それはとんでもない裏切り行為である。

 私が貴女のためにどんなことをしたと思っているのだ。

 私は貴女に命じる権利がある。即刻、この男性と別れなさい。

 さもなくば、私の怒りはこの男性に向かうことになる。

 この男性に富樫と同じ運命を辿らせることは、今の私には極めて容易である。その覚悟もあるし、方法も持っている。

 繰り返すが、もしこの男性と男女の関係にあるのならば、そんな裏切りを私は許さない。必ず報復するだろう。』

  17

 窓際に立った湯川は、そこからじっと外を見つめた。その背中には、無念な思いと孤独感のようなものが漂っていた。久しぶりに出会えた旧友の犯行を知ってショックを受けているともとれるが、何か別の感情が彼を支配しているように草薙には見えた。

「それで」湯川が低く発した。「君はその話を信じたのか。その石神の供述を」

「警察としては、疑う理由がない」草薙はいった。「奴の証言に基づいて、様々な角度から裏を取っている。今日俺は、石神のアパートから少し離れたところにある公衆電話の周辺で聞き込みをしてきた。奴の話では、そこから毎晩のように花岡靖子に電話をかけていたということだった。公衆電話のそばに雑貨屋があるんだが、そこの主人が石神らしき人物を見かけていた。最近じゃ公衆電話を使う人間は少ないので、印象に残っていたらしい。電話しているところを何度も目撃した、と雑貨屋の主人はいっている」

 湯川がゆっくりと草薙のほうを向いた。

「警察としては、なんていう曖昧な表現は使わないでくれ。君は信じたのか、と訊いているんだ。捜査方針なんかどうでもいい」

 草薙は頷き、ため息をついた。

「正直いうと、しっくりこない。話に矛盾はない。筋は通っている。だけど、何となく納得できない。単純な言い方をすると、あの男があんなことをするとは思えない、という気持ちだ。だけど、それを上司にいったところで、相手にはしてもらえない」

「警察のお偉方としては、無事に犯人が捕まったのだから、それでいいじゃないか、というところなんだろうな」

「はっきりとした疑問点がたとえ一つでもあれば話が違うんだが、見事に何もない。完璧だ。たとえば自転車の指紋を消さなかった点については、そもそも被害者が自転車に乗ってきたこと自体を知らなかったと答えている。これまたおかしい点はない。すべての事実は石神の供述が正しいと語っている。そんな中では、俺が何をいっても捜査が振り出しに戻ったりはしない」

「要するに、納得はできないが、流れのままに石神を今回の事件の犯人だと結論づける、というわけか」

「そういう嫌味な言い方はやめてくれ。そもそも、感情より事実を重視するのはおまえの主義じゃなかったのか。論理的に筋が通っている以上、気持ちでは納得できなくても受け入れなくてはならないってのは、科学者の基本なんだろ。いつもおまえがいってることだぜ」

 湯川は軽く首を振りながら、草薙と向き合って座った。

「最後に石神と会った時、彼から数学の問題を出された。P≠NP問題というものだ。自分で考えて答えを出すのと、他人から聞いた答えが正しいかどうかを確かめるのとでは、どちらが簡単か――有名な難問だ」

 草薙は顔をしかめた。

「それ、数学か。哲学的に聞こえるけどな」

「いいか。石神は一つの答えを君たちに提示した。それが今回の出頭であり、供述内容だ。どこから見ても正しいとしか思えない答えを、頭脳をフル回転させて考案したんだ。それをそのままはいそうですかと受け入れることは、君たちの敗北を意味する。本来ならば、今度は君たちが、全力をあげて、彼の出した答えが正しいかどうかを確かめなければならない。君たちは挑まれているし、試されているんだ」

「だからいろいろと裏づけを取っているじゃないか」

「君たちのしていることは、彼の証明方法をなぞっているだけだ。君たちがすべきことは、ほかに答えがないかどうかを探ることなんだ。彼の提示した答え以外には考えられない――そこまで証明して初めて、その答えが唯一の解答だと断言できる」

 強い口調から、湯川の苛立ちを草薙は感じた。常に沈着冷静なこの物理学者が、そんな表情を見せることはめったにない。

「おまえは石神が嘘をついているというんだな。犯人は石神じゃないと」

 草薙がいうと、湯川は眉をひそめ、目を伏せた。その顔を見つめながら草薙は続けた。

「そう断言できる根拠は何だ? おまえなりに推理していることがあるなら、俺に話してほしい。それとも単に、昔の友人だから殺人犯だと思いたくないというだけのことなのか」

 湯川は立ち上がり、草薙に背中を向けた。湯川、と草薙は呼びかけた。

「信じたくないのは事実だ」湯川はいった。「前にもいったと思うが、あの男は論理性を重視する。感情は二の次だ。問題解決のために有効と判断すれば、どんなこともやってのけるだろう。しかしそれにしても殺人とは……しかもそれまで自分とまるで関わりのない人間を殺すなんてのは……想像外だ」

「やっぱりそれだけが根拠なのか」

 すると湯川は振り返り、草薙を睨みつけてきた。だがその目には怒りより、悲しみと苦しみの色のほうが濃く出ていた。

「信じたくはないが事実として受け入れざるをえない、ということが、この世にはあるもそれもよくわかっている」

「それでもなお、石神は無実だというのか」

 草薙の問いに湯川は顔を歪め、小さくかぶりを振った。

「いや、そうはいわない」

「おまえのいいたいことはわかっている。富樫を殺したのはあくまでも花岡靖子で、石神は彼女を庇っているというんだろ。しかし、調べれば調べるほど、その可能性は低くなってくる。石神がストーカー行為を働いていたことは、いくつもの物証が示している。いくら庇うためとはいえ、そこまでの偽装ができるとはとても思えない。何より、殺人の罪を肩代わり出来る人間なんて、この世にいるか? 靖子は石神にとって家族でも妻でもない。じつは恋人ですらない女なんだぜ。庇う気があったり、実際に犯行の隠匿に手を貸したとしても、それがうまくいかなかったとなれば観念する。それが人間というものだ」

 湯川が、不意に何かに気づいたように目を見張った。

「うまくいかなかった時には観念する。それがふつうの人間だ。最後の最後まで庇い続けるなんてのは至難の業だ」

 湯川は遠くを見つめる目をして呟いた。

「石神だってそうだ。そのことは彼自身にもよくわかっていたんだ。だから……」

「なんだ?」

「いや」湯川は首を振った。「何でもない」

「俺としては、石神を犯人だと考えざるをえない。何か新しい事実が出てこないかぎり、捜査方針が変わることもないだろう」

 これには答えず、湯川は自分の顔をこすった。長い息を吐いた。

「彼は……刑務所で過ごす道を選んだということか」

「人を殺したんだとしたら、それは当然のことだ」

「そうだな……」湯川は項垂《うなだ》れ、動かなくなった。やがてその姿勢のままいった。

「すまないが、今日は帰ってくれないか。少し疲れた」

 どう見ても湯川の様子はおかしかった。草薙は問い質《ただ》したかったが、黙って椅子から腰を上げた。実際、湯川はひどく消耗しているように思えたからだ。

 草薙が第十三研究室を出て、薄暗い廊下を歩いていると、階段を一人の若者が上がってきた。少し痩せた、やや神経質そうな顔をした若者のことを草薙は知っていた。湯川の下で学んでいる、常磐《ときわ》という大学院生だった。以前草薙が湯川の留守中に訪ねた際、湯川の行き先は篠崎ではないか、と教えてくれた若者だ。

 常磐のほうも草薙に気づいたらしく、小さく会釈してから通りすぎようとした。

「あ、ちょっと」草薙は声をかけた。戸惑った表情で振り返った常磐に、彼は笑顔を向けた。

「少し訊きたいことがあるんだけど、時間あるかな?」

 常磐は腕時計を見てから、少しだけなら、と答えた。

 物理学研究室のある学舎を出て、主に理系の学生たちが使う食堂に入った。自動販売機でコーヒーを買い、テーブルを挟んで向き合った。

「君たちの研究室で飲むインスタントより、よっぽどうまいな」紙コップのコーヒーを一口飲んでから草薙はいった。大学院生の気持ちをほぐすためだった。

 常磐は笑ったが、頬はまだ強張っているようだった。

 世間話を少ししようかと思ったが、この調子では無意味だと判断し、草薙は本題に入ることにした。

「訊きたいことというのは、湯川助教授のことなんだ」草薙はいった。「最近、何か変わったことはなかったかな」

 常磐は困惑している。質問の仕方がまずかったらしいと草薙は思った。

「大学の仕事とは関係のないことで、何か調べているとか、どこかへ出かけていったとか、そういうことはなかったかな」

 常磐は首を捻った。真剣に考えているように見えた。

 草薙は笑ってみせた。

「もちろん、奴が何かの事件に関係しているとか、そういうことじゃないんだ。ちょっと説明するのは難しいんだけど、どうも湯川は俺に気を遣って、何か隠していることがある感じなんだ。君も知っていると思うけど、あの男はなかなかの偏屈だからね」

 こんな説明でどれだけのことが伝わったかは不明だったが、大学院生はやや表情を崩して頷いた。偏屈、という点だけは同意できたのかもしれない。

「何かお調べになってたのかどうかはわかりませんけど、何日か前に先生は図書館に電話しておられましたよ」常磐はいった。

「図書館? 大学の?」

 常磐は背いた。

「新聞があるかどうか、問い合わせておられたようでした」

「新聞? 図書館なんだから、新聞ぐらいは置いてるだろ」

「まあそうなんですが、古い新聞をどの程度保管しているのか、湯川先生は知りたかったみたいですよ」

「古い新聞か……」

「といっても、そんなに前の新聞のことではなかったようです。今月分の新聞は全部すぐに読めますか、というような訊き方をされてたと思います」

「今月分ねえ……。それでどうなのかな。読めたのかな」

「図書館に置いてあったんだと思います。それからすぐに先生は図書館に行かれたようですから」

 草薙は頷くと常磐に礼をいい、まだコーヒーが半分近く残っている紙コップを手に立ち上がった。

 帝都大学の図書館は三階建ての小さな建物だ。草薙は自分がこの大学の学生だった頃、ほんの二、三度しか図書館を訪れたことがない。だから補修工事がなされたことがあるのかどうかもよくわからなかった。彼の目には、まだ新しい建物に見えた。

 中に入ってすぐのカウンターに係の女性がいたので、彼は湯川助教授が新聞を調べていた件について尋ねてみた。彼女は不審そうな顔をした。

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