饭饭TXT > 海外名作 > 《嫌疑犯X的献身/容疑者Xの献身(日文版)》作者:[日]东野圭吾【完结】 > 容疑者Xの献身.txt

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作者:日-东野圭吾 当前章节:15433 字 更新时间:2026-6-19 10:46

 草薙は仕方なく警察手帳を出した。

「湯川先生がどうとかじゃないんです。ただ、その時にどんな記事をお読みになっていたかを知りたいだけなんです」不自然な質問の仕方だと思ったが、それ以外の表現を思いつかなかった。

「三月中の記事を読みたいのだけど、ということだったと思います」係の女性は憤重な口調でいった。

「三月中の、どんな記事ですか」

「さあ、それはちょっと」そういってから彼女は、何かを思い出したように軽く口を開けた。

「社会面だけでもいい、とおっしゃったように思います」

「社会面? ええと、それで新聞はどこに?」

 こちらへどうぞ、と彼女が案内してくれたのは、平たい棚の並んでいるところだった。その棚の中に、新聞が重ねて収められている。十日ごとに入れてある、と彼女はいった。

「こちらでは過去一か月分の新聞しかありません。それより古いものは処分するんです。前は保管していたんですけど、今はインターネットの検索サービスなんかで、過去の記事は読めますから」

「湯川は……湯川先生は一か月分でいいとおっしゃったんですね」

「ええ。三月十日以降でいいと」

「三月十日?」

「はい。たしか、そうだったと思います」

「この新聞、見せてもらっていいですか」

「どうぞ。終わったら声をかけてください」

 係の女性が背中を向けると同時に、草薙は新聞の束を引き出し、そばのテーブルに置いた。三月十日の社会面から見ていくことにした。

 三月十日は、いうまでもなく富樫慎二が殺された日だ。やはり湯川はあの事件について調べるために図書館に来たのだ。だが新聞で何を確かめようとしたのか。

 草薙は事件に関する記事を探した。最初に載ったのは三月十一日の夕刊だ。その後、遺体の身元が判明したことについて、十三日の朝刊に載っている。だがそれを最後に、続報は途絶えてしまう。次に載っているのは、石神が出頭したことを知らせる記事だ。

 湯川はこれらの記事のどのあたりに注目したのか。

 草薙は数少ない記事を念入りに、何度も読み返した。いずれも大した内容ではない。湯川は草薙によって、事件について、これらの記事よりもっと多くの情報を得ている。改めて記事などを読む必要はないはずなのだ。

 草薙は新聞を前に、腕組みをした。

 そもそも、事件のことを調べるのに、湯川ほどの男が新聞記事を頼りにするとは思えなかった。毎日のように殺人事件が起きる現状では、何か大きな進展でもないかぎり、一つの事件をいつまでも新聞が取り上げ続けるということはめったにない。富樫が殺された事件にしても、世間から見れば珍しい出来事ではない。そのことを湯川がわかっていないはずがないのだ。

 だがあの男は無意味なことをする人間ではない――。

 湯川にはああいったが、やはり草薙の中には、石神を犯人と断定しきれない気持ちが残っている。自分たちが誤った道に迷い込んでいるのでは、という不安は拭いきれない。何がどう間違っているのか、湯川にはわかっているような気がしてならなかった。これまでもあの物理学者は、何度か草薙たち警察陣を助けてくれた。今回も有効な助言を持っているのではないか。持っているのだとしたら、なぜそれを聞かせてくれないのか。

 草薙は新聞を片づけ、先程の女性に声をかけた。

「お役に立ったでしょうか」彼女は不安そうに訊いてきた。

「ええまあ」草薙は曖昧に答えた。

 そのまま彼が出ていこうとした時、係の女性がいった。「湯川先生は地方新聞も探しておられたみたいですけど」

「えっ?」草薙は振り返った。「地方新聞?」

「はい。千葉や埼玉の地方新聞は置いてないのかって訊かれました。置いてませんと答えましたけど」

「ほかにはどんなことを?」

「いえ、尋ねられたのはそれだけだったと思います」

「千葉とか埼玉……」

 草薙は釈然としないまま図書館を出た。湯川の考えていることがまるでわからなかった。なぜ地方の新聞が必要なのか。それとも、彼が事件について調べているというのは草薙の勝手な思い込みで、その目的は事件とは全く関係ないのか。

 考えを巡らせながら、草薙は駐車場に戻った。今日は車で来ていた。

 運転席に乗り込み、エンジンをかけようとした時だった。目の前の学舎から湯川学が出てきた。白衣は着ておらず、濃紺のジャケットを羽織っている。思い詰めたような表情で、周りには全く目をくれず、真っ直ぐに通用門に向かっていく。

 湯川が門を出て左に曲がるのを見届けてから、草薙は車を発進させた。ゆっくりと門から出ると、湯川はタクシーを捕まえているところだった。そのタクシーが走りだすのと同時に、草薙も道路に出た。

 独身の湯川は、一日の大半を大学で過ごしている。自宅に帰ってもやることがないし、読書もスポーツも大学にいたほうがやりやすい、というのが彼の言い分だった。食事をとるのも楽だ、といっていたこともある。

 時計を見ると、まだ五時前だ。彼がこんなに早い時間帯に帰宅するとは思えなかった。

 尾行しながら草薙は、タクシーの会社と車番号を記憶した。万一途中で見失った場合でも、湯川をどこで降ろしたか、後で調べられるからだ。

 タクシーは東に向かっていた。道は少し混んでいる。草薙の車との間に、何台かの車が出たり入ったりしたが、幸い信号などで引き離されることはなかった。

 やがてタクシーは日本橋を通過した。間もなく隅田川を渡るというところで止まった。新大橋の手前だ。その先には石神たちのアパートがある。

 草薙は車を路肩に寄せ、様子を窺った。湯川は新大橋の脇にある階段を下りていく。アパートに行くのではなさそうだ。

 草薙は素早くあたりを見回し、車を止められそうな場所を探した。幸い、パーキングメーターの前が空いていた。そこに駐車すると、急いで湯川の後を追った。

 湯川は隅田川の下流に向かってゆっくりと歩いていた。何か用があるようには見えず、散歩しているような歩調だった。彼は時折、ホームレスたちのほうに目を向けた。しかし立ち止まることはない。

 足を止めたのは、ホームレスたちの住居が途切れたあたりでのことだ。彼は川縁に作られた柵に肘をついた。それから不意に草薙のほうに顔を巡らせた。

 草薙は少したじろいだ。しかし湯川には驚いている気配はない。薄く笑っているほどだった。

 どうやらずいぶん前から尾行に気づいていたようだ。

 草薙は大股で彼に近づいた。「わかってたのか」

「君の車は目立つからな」湯川はいった。「あんなに古いスカイライン、今はめったに見かけない」

「つけられてるとわかったから、こんなところで降りたのか。それとも、最初からここが目的地だったのか」

「それはどちらも当てはまるし、少し違うともいえる。当初の目的地はこの先だった。でも君の車に気づいて、少しだけ降りる場所を変更した。君をここに連れてきたかったからな」

「俺をこんなところに連れてきて、どうしようっていうんだ」草薙はさっと周りを見回した。

「僕が最後に石神と言葉を交わしたのが、この場所だったんだ。その時僕は彼にこういった。この世に無駄な歯車なんかないし、その使い道を決められるのは歯車自身だけだ、とね」

「歯車?」

「その後、事件に関する僕の疑問をいくつか彼にぶつけてみた。彼の態度はノーコメントというものだったが、僕と別れた後、彼は答えを出した。それが出頭だった」

「おまえの話を聞いて、観念して出頭したというのか」

「観念……か。まあ、ある意味観念なのかもしれないが、彼としては最後の切り札を出したというところじゃないのかな。その切り札を、じつに入念に用意していたようだから」

「石神にはどういう話をしたんだ」

「だからいってるじゃないか。歯車の話だ」

「その後に、いろいろと疑問をぶつけたんだろ? それを訊いてるんだ」

 すると湯川はどこか寂しげな笑みを浮かべ、ゆらゆらと頭を振った。

「そんなものはどうでもいい」

「どうでもいい?」

「重要なのは歯車の話だ。彼はそれを聞いて出頭する決心をしたんだ」

 草薙は大きくため息をついた。

「大学の図書館で新聞を調べただろ。目的はなんだ?」

「常磐君から聞いたのか。僕の行動まで探り始めたらしいな」

「俺だってこんなことはしたくなかった。おまえが何も話してくれないからだ」

「別に気を悪くしているわけじゃない。それが君の仕事なんだから、僕のことでも何でも調べてくれて結構だ」

 草薙は湯川の顔を見つめてから頭を下げた。「頼む、湯川。もうそんな思わせぶりなことはやめてくれ。おまえは何か知っているんだろう? それを教えてくれ。石神は真犯人じゃないんだろ。だったら、奴が罪をかぶることは理不尽だと思わないのか。昔の友人を殺人犯にしたいわけじゃないだろ」

「顔を上げてくれ」

 湯川にいわれ、草薙は彼を見た。はっとした。辛そうに歪められた物理学者の顔があった。彼は額に手をやり、じっと目を閉じた。

「もちろん僕だって彼を殺人犯なんかにしたくない。だけど、もうどうしようもないんだ一体、どうしてこんなことに……」

「おまえ、何をそんなに苦しんでるんだ。なんで俺に打ち明けてくれないんだ。友達だろうが」

 すると湯川は目を開け、厳しい顔のままいった。「友達であると同時に刑事だ」

 草薙は言葉を失った。この長年の友人との間に、初めて壁の存在を感じた。刑事であるがゆえに、これまで苦悩の表情など見せたことのない友人から、その理由を聞き出すことさえできないのだ。

「これから花岡靖子のところへ行く」湯川がいった。「一緒に来るかい?」

「行ってもいいのか」

「構わない。ただし、口は挟まないでくれるか」

「……わかった」

 くるりと踵を返し、湯川は歩き始めた。その後を草薙はついていく。湯川の当初の目的地は弁当屋の『べんてん亭』だったらしい。花岡靖子と会って何を話すつもりなのか、今すぐに問い質したい気持ちだったが、草薙は黙って歩いた。

 清洲橋の手前で湯川は階段を上がっていく。草薙がついていくと、階段の上で湯川が待っていた。

「そこにオフィスビルがあるだろ」湯川はそばの建物を指差した。「入り口にガラスドアがある。見えるかい」

 草薙はそちらに目を向けた。ガラスドアに二人の姿が映っていた。

「見えるけど、それがどうかしたのか」

「事件直後に石神と会った時も、こうして二人でガラスに映った姿を眺めた。といっても、僕は気づかなかった。石神にいわれて、見たんだ。あの直前までは、彼が事件に関与している可能性など、全く考えなかった。僕は久しぶりに好敵手と再会できたことで、ちょっと有頂天にさえなっていた」

「ガラスに映った姿を見て、奴への疑いが生じたとでもいうのか」

「彼はこんなことをいったんだ。君はいつまでも若々しい、自分なんかとは大違いだ、髪もどっさりある――そういって自分の頭髪を少し気にする素振りを見せた。そのことは僕を驚かせた。なぜならあの石神という人物は、容姿など絶対に気にする男ではなかったからだ。人間の価値はそんなものでは計れず、それを必要とするような人生など選ばない、というのが昔からの主義だった。そんな彼が外見を気にしている。彼は確かに髪が薄いが、そんな今さらどうしようもないことを嘆いている。それで僕は気づいたんだ。彼は外見や容姿を気にせざるをえない状況にいる、つまり恋をしているのだとね。それにしても、なぜこんな場所で、唐突にそんなことをいいだしたのか。急に外見を気にしたのか」

 湯川のいわんとすることに草薙は気づいた。彼はいった。

「間もなくその惚れている女に会うから、か」

 湯川は頷いた。

「僕もそう考えた。弁当屋で働いている女性、アパートの隣人で、元夫が殺された女性こそ、彼の意中の相手ではないかと考えた。しかしそうなると大きな疑問がわく。彼の事件に対するスタンスだ。当然、気になって仕方がないはずなのに、傍観者を決め込んでいる。やはり彼が恋をしているというのは思い過ごしなのか。そこで改めて石神に会い、彼と一緒に弁当屋に行ってみた。彼の態度から何かわかると思ったからだ。するとそこに思いがけない人物が現れた。花岡靖子の知り合いの男性だ」

「工藤だ」草薙はいった。「現在、靖子と付き合っている」

「そうらしいね。その工藤なる人物と彼女が話しているのを見ている時の石神の顔――」湯川は眉間に皺を寄せ、首を振った。「あれで確信した。石神の恋の相手は彼女だとね。彼の顔には嫉妬の色が浮かんでいた」

「しかしそうなると、一方の疑問がまた出てくる」

「そう。その矛盾を解決する説明は一つしかなかった」

「石神が事件に絡んでいる――おまえが奴を疑い始めたのは、そういう流れからだったのか」草薙は改めてビルのガラスドアを見た。「恐ろしい男だよ、おまえは。石神としては、一筋の傷が命取りになったわけか」

「彼の強烈な個性は何年経っても僕の記憶に焼き付いていた。そうでなかったら、僕でも気づかなかった」

「どっちにしても、奴にツキがなかったということだな」そういって草薙は通りに向かって歩き始めた。だが湯川がついてこないことに気づくと、立ち止まった。「『べんてん亭』に行くんじゃないのか」

 湯川は俯いて草薙に近づいてきた。

「君にとって酷なことを要求したいんだけど、構わないか」

 草薙は苦笑した。「内容によるな、それは」

「一人の友達として、僕の話を聞けるか。刑事であることは捨てられるか」

「……どういうことだ」

「君に話しておきたいことがある。ただし、友達に話すのであって、刑事に話すのではない。だから僕から聞いたことは、絶対に誰にもしゃべらないでもらいたい。君の上司にも、仲間にも、家族にもだ。約束できるか」眼鏡の向こうの目には、切迫感が溢れていた。ぎりぎりの決断を迫らざるをえない事情が湯川にはあるのだと感じさせた。

 内容による、といいたいところだった。だが草薙はその言葉を呑み込んだ。それを口にすればも今後この男から友人と認めてもらえないと思った。

「わかった」草薙はいった。「約束する」

  18

 唐揚げ弁当を買った客が店を出ていくのを見送った後、靖子は時計を見た。あと数分で午後六時になるところだった。吐息をつき、白い帽子を脱いだ。

 工藤から、仕事の後で会おうといわれていた。昼間、携帯電話にかかってきたのだ。

 お祝いだ、と彼はいった。その口調は弾んでいた。

 何のお祝いかと問うと、「決まってるじゃないか」と彼は答えた。

「例の犯人が捕まったことのお祝いだよ。これで君も事件から解放される。僕も余計な気を遣わなくて済むようになった。刑事にまとわりつかれる心配もないわけだし、乾杯のひとつもしたいと思ってさ」

 工藤の声は、ひどく軽々しく、能天気に聞こえた。事件の背景を知らないのだから当然のことなのだが、靖子としては彼に合わせる気になれなかった。

 そんな気にはなれない、と彼女はいった。

 どうして、と工藤は尋ねてきた。靖子が黙っていると、ああそうか、と彼なりに何かに気づいたようにいった。

「別れたとはいえ、被害者と君とは浅からぬ縁があったんだったね。たしかに、お祝いというのは不謹慎だった。謝るよ」

 全く的はずれだったが、靖子は黙っていた。すると彼はいった。

「それとは別に、重要な話があるんだ。今夜、ぜひ会ってほしい。いいね?」

 断ろうかと思った。そういう気分ではなかった。自分の代わりに自首してくれた石神に対し、あまりにも申し訳ないと思った。しかし断りの言葉が出なかった。工藤の重要な話とは何だろう。

 結局、六時半頃に迎えに来てもらうことになった。工藤は美里にも同席してもらいたい口振りだったが、それはやんわりと断った。今の美里を工藤に会わせるわけにはいかない。靖子は家の留守番電話に、今夜は少し遅くなるということを吹き込んでおいた。それを聞いた美里がどんなふうに思うかを想像すると、気が重かった。

 六時になると靖子はエプロンを外した。奥にいる小代子に声をかけた。

「あら、こんな時間」早めの夕食をとっていた小代子は、時計を見た。「お疲れ様。後のことはいいわよ」

「じゃあこれで」靖子はエプロンを畳んだ。

「工藤さんと会うんでしょ?」小代子が小声で訊いてきた。

「えっ?」

「昼間、電話がかかってきたみたいじゃない。あれ、デートの誘いでしょ」

 靖子が困惑して黙っていると、どう誤解したのか、「よかったわねえ」と小代子はしみじみとした口調でいった。「おかしな事件も片づいたようだし、工藤さんみたいないい人と交際できるし、やっとあなたにも運が巡ってきたんじゃないの?」

「そうかな……」

「そうよ、きっと。いろいろと苦労したんだし、これからは幸せにならないと。美里ちゃんのためにもね」

 小代子の言葉は、様々な意味で靖子の胸にしみた。彼女は心の底から友人の幸せを望んでくれている。その友人が人殺しをしたことなど、微塵も考えていないのだ。

 また明日、といって靖子は厨房を出た。小代子の顔を正視できなかった。『べんてん亭』を出て、いつもの帰り道とは反対の方向に歩きだした。角のファミリーレストランが工藤との待ち合わせ場所だった。本当はその店にはしたくなかった。富樫と待ち合わせをしたのもそこだったからだ。だが工藤が、一番わかりやすいからといって指定してきたので、場所を変えてくれとはいいにくかった。

 頭上を首都高速道路が走っている。その下をくぐった時、花岡さん、と後ろから声をかけられた。男の声だった。

 立ち止まって振り返ると、見覚えのある二人の男が近づいてくるところだった。一方は湯川という男で、石神の古い友人だといっていた。もう一人は刑事の草薙だ。なぜこの二人が一緒なのか、靖子にはわからなかった。

「僕のこと、覚えておられますよね」湯川が訊いてきた。

 靖子は二人の顔を交互に見つめながら頷いた。

「これから何かご予定が?」

「ええ、あの……」彼女は時計を見るしぐさをしていた。だがじつは動揺し、時刻などは見ていなかった。「ちょっと人と約束が」

「そうですか。三十分だけでも話を聞いていただきたいのですが。大事な話なんです」

「いえ、それは……」首を振った。

「十五分ならどうですか。十分でも結構です。そこのベンチで」そういって湯川はそばの小さな公園を指差した。高速道路の下のスペースが、公園に利用されているのだ。

 口調は穏やかだが、その態度には有無をいわせぬ真剣さが漂っていた。何か重要なことを話すつもりなのだと靖子は直感した。この大学の助教授だという男は、以前会った時にも、軽口を叩くような調子で、じつは大きな圧力を彼女にかけてきた。

 逃げだしたい、というのが本音だった。しかし、どんな話をするつもりなのかも気になった。その内容は石神のことに違いなかった。

「じゃあ、十分だけ」

「よかった」湯川はにっこりと微笑み、率先して公園に入っていった。

 靖子が躊躇っていると、「どうぞ」と草薙が促すように手を伸ばした。彼女は頷き、湯川に続いた。この刑事が黙っているのも不気味だった。

 二人掛けのベンチに湯川は腰を下ろしていた。靖子が座る場所は空けてくれている。

「君はそこにいてくれ」湯川が草薙にいった。「二人だけで話をするから」

 草薙は少し不満そうな顔をしたが、顎を一度突き出すと、公園の入り口付近まで戻り、煙草を取り出した。

 靖子は草薙のほうを少し気にしながら湯川の隣に座った。

「あの方、刑事さんでしょう? いいんですか」

「構いませんよ。本来僕が一人で来るつもりだったのです。それに彼は、僕にとっては刑事である以前に友人です」

「友人?」

「大学時代の仲間です」そういって湯川は白い歯を覗かせた。「だから石神とも同窓生ということになる。もっとも彼等二人は、今度のことがあるまで一面識もなかったらしいですが」

 そういうことだったのかと靖子は合点した。なぜこの助教授が事件を機に石神に会いに来たのか、今ひとつよくわからなかったのだ。

 石神は何も教えてくれなかったが、彼の計画が破綻したのは、この湯川という人物が絡んできたからではないかと靖子は考えていた。刑事が同じ大学の出身で、しかも共通の友人を持っていたことなど、彼の計算外のことだったのだろう。

 それにしてもこの男は、一体何を話すつもりなのか――。

「石神の自首は誠に残念です」湯川がいきなり核心に触れてきた。「あれほどの才能を持った男が、今後刑務所の中でしかあの頭脳を使えないのかと思うと、研究者としてじつに悔しいです。無念です」

 靖子はそれに対しては何も答えず、膝に置いた手をぎゅっと握りしめた。

「だけど、僕にはどうしても信じられないんです。彼があんなことをしていたというのがね。あなたに対して」

 湯川が自分のほうを向くのを靖子は感じた。身体を固くした。

「あなたに対して、あのような卑劣なことをしていたとは、とても考えられない。いや、信じられないという表現は適切ではないな。もっと強い確信を持っています。信じていない、というベきでしょう。彼は……石神は嘘をついています。なぜ嘘をつくのか。殺人犯の汚名を着るのだから、今さら嘘なんかついたって何の意味もないはずだ。だけど彼は嘘をついている。その理由はひとつしか考えられない。その嘘は自分のためについたものではないのです。誰かのために、真実を隠しているんです」

 靖子は唾を飲み込んだ。懸命に息を整えようとした。

 この男は真相に薄々気づいているのだと思った。石神は誰かを庇っているだけで、真犯人は別にいる、と。だから石神を何とか救おうとしているのだ。そのためにはどうすればいいか。その早道は、真犯人に自首させることだ。すべてを洗いざらい白状させることだ。

 靖子はおそるおそる湯川の方を窺った。意外なことに彼は笑っていた。

「あなたは、僕があなたを説得しに来たのだと思っておられるようですね」

「いえ、別に……」靖子はかぶりを振った。「それに、あたしを説得って、一体何を説得するんですか」

「そうでした。変なことをいってしまいましたね。謝ります」彼は頭を下げた。「ただ僕は、あなたに知っておいてもらいたいことがあったのです。それで、こうしてやってきたわけです」

「どういうことでしょうか」

「それは」湯川は少し間を置いてからいった。

「あなたは真実を何も知らない、ということです」

 靖子は驚いて目を見張った。湯川はもう笑っていなかった。

「あなたのアリバイは、おそらく本物でしょう」彼は続けた。「実際に映画館に行ったはずです。あなたもあなたのお嬢さんもね。でなければ、刑事たちの執拗な追及に、あなたはともかく中学生のお嬢さんが耐えられるはずがない。あなた方は嘘をついていないのです」

「ええ、そうです。あたしたちは嘘なんかついていません。それがどうかしたんですか」

「でもあなたは不思議に思っているはずだ。なぜ嘘をつかなくていいのか、とね。なぜ警察の追及がこれほど緩いものなのか、とね。彼は……石神は、あなた方が刑事の質問に対して、本当のことだけをいっておけばいいように仕組んだのです。どんなに警察が捜査を押し進めても、あなたへの決定打にはならないように手を打ったんです。その仕掛けがどういったものなのか、おそらくあなたは知らない。石神が何かうまいトリックを使ってくれたようだと思っているだけで、その内容については知らない。違いますか」

「何をおっしゃってるのか、あたしにはさっぱりわからないんですけど」靖子は笑ってみせた。だがその頬が引きつっているのは自分でもわかった。

「彼はあなた方を守るために、大きな犠牲を払ったのです。僕やあなたのようなふつうの人間には想像もできない、とてつもない犠牲です。彼はたぶん事件が起きた直後から、最悪の場合には、あなた方の身代わりになることを覚悟していたのでしょう。すべてのプランはそれを前提に作られたのです。逆にいうと、その前提だけは絶対に崩してはならなかった。しかしその前提はあまりにも過酷です。誰だってくじけそうになる。そのことは石神もわかっていた。だから、いざという時に後戻りが出来ないよう、自らの退路を断っておいたのです。それが同時に、今回の驚くべきトリックでもありました」

 湯川の話に、靖子は混乱し始めていた。何のことをいっているのか、まるで理解できなかったからだ。そのくせ、何かとてつもない衝撃の予感があった。

 たしかにこの男のいうとおりだった。石神がどんな仕掛けを施したのか、靖子は全く知らなかった。同時に、なぜ自分に対する刑事たちの攻撃が思ったよりも激しくないのか、不思議だった。じつのところ彼女は、刑事たちの再三にわたる尋問を、的はずれとさえ感じていたのだ。

 その秘密を湯川は知っている――。

 彼は時計を見た。残り時間を気にしているのかもしれなかった。

「このことをあなたに教えるのは、じつに心苦しい」彼は実際、苦痛そうに顔を歪めていった。

「石神がそのことを、絶対に望んでいないからです。何があっても、あなたにだけは真実を知られたくないと思っているでしょう。それは彼のためじゃない。あなたのためです。もし真相を知ったら、あなたは今以上の苦しみを背負って生きていくことになる。それでも僕はあなたに打ち明けずにはいられない。彼がどれほどあなたを愛し、人生のすべてを賭けたのかを伝えなければ、あまりにも彼が報われないと思うからです。彼の本意ではないだろうけど、あなたが何も知らないままだというのは、僕には耐えられない」

 靖子は激しい動揺を覚えていた。息苦しくなり、今にも気を失いそうだった。湯川が何をいいだすのか、見当もつかなかった。だが彼の口調からも、それが想像を絶するものであることは察せられた。

「どういうことなんですか。いいたいことがあるなら、早くおっしゃってください」言葉は強いが、その声は弱々しく震えていた。

「あの事件……旧江戸川での殺人事件の真犯人は」

 湯川は大きく深呼吸した。

「彼なんです。石神なんです。あなたでも、あなたのお嬢さんでもない。石神が殺したんです。彼は無実の罪で自首したわけではない。彼こそが真犯人だったんです」

 その言葉の意味がわからず、呆然としている靖子に、ただし、と湯川は付け加えた。

「ただし、あの死体は富樫慎二ではない。あなたの元の旦那さんではないんです。そう見せかけた、全くの他人なんです」

 靖子は眉をひそめた。まだ湯川のいっていることが理解できなかったからだ。だが眼鏡の向こうで悲しげにまばたきする彼の目を見つめた時、不意にすべてがわかった。彼女は大きく息を吸い込み、口元に手をやっていた。驚きのあまり、声をあげそうになった。全身の血が騒ぎ、次にはその血が一斉にひいた。

「僕のいっている意味が、ようやくわかったようですね」湯川はいった。「そうなんです。石神はあなたを守るため、もう一つ別の殺人を起こしたのです。それが三月十日のことだった。本物の富樫慎二が殺された翌日のことです」

 靖子は眩暈《めまい》を起こしそうだった。座っているのでさえ辛くなった。手足が冷たくなり、全身に鳥肌が立った。

 花岡靖子の様子を見て、どうやら湯川から真実を聞かされたらしいな、と草薙は察した。彼女の顔が青ざめているのが、遠目にも明らかだった。無理もない、と草薙は思った。あの話を聞いて、驚かない人間などいない。ましてや彼女は当事者なのだ。

 草薙でさえ、今もまだ完全に信じているわけではなかった。先程、湯川から初めて聞かされた時には、まさかと思った。あの局面で彼が冗談をいうはずはなかったが、それはあまりにも非現実的な話だった。

 そんなことありえない、と草薙はいった。花岡靖子の殺人を隠蔽するために、もう一つ別の殺人を行う? そんな馬鹿なことがあるはずがない。だとしたら、一体どこの誰が殺されたというのだ。

 その質問をすると、湯川はじっに悲しげな表情を見せて、頭を振った。

「誰なのか、名前はわからない。でも、どこにいた人間かはわかっている」

「どういう意味だ、それ」

「この世には、たとえ突然行方をくらましても、誰にも探してもらえず、誰からも心配してもらえない人間というのがいるんだよ。おそらく捜索願も出されていないだろう。その人物は、おそらく家族とも断絶して暮らしていただろうから」そういって湯川は今まで歩いてきた堤防沿いの道を指した。「君もさっき見ただろ? そんな人たちを」

 すぐには湯川のいっている意味がわからなかった。だが指差された方向を見ているうちに、閃くものがあった。草薙は息を呑んだ。

「あそこにいたホームレスか?」

 湯川は頷かなかったが、こんな話をした。

「空き缶を集めている人がいたのに気づいたかい? 彼はあのあたりに住処を持つホームレスのことなら何でも把握している。彼に尋ねてみたところ、一か月ぐらい前に、一人の仲間が加わった。仲間といっても、ただ同じ場所にいるというだけのことだ。その人物はまだ小屋を作っておらず、段ボールをベッドにすることにも抵抗を感じている様子だった。最初は誰でもそうだ、と空き缶集めのおじさんは教えてくれた。人間というのは、なかなかプライドを捨てられないらしいね。でも時間の問題だとおじさんはいっていた。ところがその人物は、ある日突然消えた。何の前触れもなかった。どうしたんだろう、とおじさんは少し気にかかったけれど、それだけだ。ほかのホームレスたちも、気づいていたはずだけれど、誰もそんな話はしない。彼等の世界では、ある日急に誰かがいなくなったりするのは日常茶飯事なんだ」

 ちなみに、と湯川は続けた。

「その人物が姿を見せなくなったのは三月十日前後らしい。年齢は五十歳ぐらい。やや中年太りした、平均的な体格の男だったという」

 旧江戸川で死体が見つかったのは三月十一日だ。

「どういう経緯があったのかはわからないが、石神は花岡靖子の犯行を知り、その隠蔽に力を貸すことにしたのだろう。彼は、死体を処分するだけではだめだと考えた。死体の身元が割れれば、警察は必ず彼女のところへ行く。そうなると彼女や彼女の娘が、いつまでもしらを切り続けられるかどうかは怪しいからだ。そこで立てた計画が、もう一つ別の他殺体を用意し、それを富樫慎二だと警察に思い込ませるというものだった。警察は被害者がいつどこでどのように殺されたかを次第に明らかにしていくだろう。ところが捜査が進めば進むほど、花岡靖子への容疑は弱まっていく。当然だ。その死体は彼女が殺したものではないからだ。その事件は富樫慎二殺しではないからだ。君たち警察は、全く別の殺人事件の捜査をしていたというわけさ」

 湯川が淡々と語る内容は、とても現実のことだとは思えなかった。草薙は話を聞きながらも首を振り続けていた。

「そんなとんでもない計画を思いついたのも、石神がふだんあの堤防を通っていたからだろう。あのホームレスたちを毎日眺めながら、彼はたぶんこんなふうに考えていたんじゃないだろうか。彼等は一体何のために生きているのだろう、このままずっとただ死ぬ日を待っているだけなのか、彼等が死んだとしても誰も気づかず、誰も悲しまないのではないか――まあ、僕の想像だがね」

「だから殺してもいい、と石神は考えたというのか」草薙は確認した。

「殺してもいいとは考えなかっただろう。でも、石神が計画を考案した背景に彼等の存在があったことは否めないと思う。以前、君にいったことがあったはずだ。論理的でありさえすれば、どんな冷酷なことでも出来る男なんだ、とね」

「人殺しが論理的か」

「彼が欲しかったのは他殺体というピースだ。パズルを完成させるには、そのピースが不可欠だった」

 到底理解できる話ではなかった。そんなことを大学の講義でもするような口調で話す湯川のことも、草薙には異常に思えた。

「花岡靖子が富樫慎二を殺した翌日の朝、石神は一人のホームレスに接触した。どんなやりとりがあったのかはわからないが、アルバイトを持ちかけたのは確実だ。バイトの内容は、まず富樫慎二の借りていたレンタルルームに行き、夜まで時間を潰すこと。その部屋は石神の手によって、夜中のうちに富樫慎二の痕跡は消されていたはずだ。部屋に残るのは、その男の指紋や毛髪だけだ。夜になると彼は石神から与えられた服を着て、指示された場所に行った」

「篠崎駅か」

 草薙の問いに、湯川は首を振った。

「違う。おそらく、その一つ手前の瑞江駅だ」

「瑞江駅?」

「石神は篠崎駅で自転車を盗み、瑞江駅でその男と落ち合ったのだと思う。その際石神は、もう一台自転車を用意していた可能性が高い。二人で旧江戸川の堤防まで移動した後、石神は相手の男を殺害した。顔を潰したのは、もちろん富樫慎二でないことを隠すためだ。しかしじつは指紋を焼く必要はなかった。レンタルルームには殺された男の指紋が残っているはずだから、そのままでも警察が死体の身元を富樫慎二と誤認しただろうからね。だけど顔を潰す以上、指紋も消しておかないと犯人の行動として一貫性がない。そこでやむをえず指紋を焼いたんだ。ところがそうなると、警察が身元の確認に手間取るおそれがある。だから自転車のほうに指紋を残したんだ。衣類を中途半端に燃え残したのも同様の理由からだ」

「しかしそれなら自転車が新品である必要はないんじゃないか」

「新品同様の自転車を盗んだのは、万一のことを考えたからだ」

「万一のこと?」

「石神にとって重要なことは、警察が犯行時刻を正確に割り出してくれることだった。結果的に解剖によって比較的正確に推定できたようだが、死体の発見が遅れるなどして、犯行時刻に幅をもたせられることを最も恐れたんだ。極端な場合、前日の夜、つまり九日の夜まで広げられたら彼等にとって極めてまずいことになる。その夜は実際に花岡母娘が富樫を殺した日だから、彼女たちにアリバイはない。それを防ぐため、少なくとも自転車が盗まれたのは十日以後だという証拠がほしかった。そこであの自転車だ。丸一日以上放置されているおそれの少ない自転車、盗まれた場合に持ち主が盗難日を把握していそうな自転車、となると新品同様の自転車ということになる」

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