「どうして俺たちがあの事件の担当だって知ってるんだ」
「ちょっと考えればわかることだ。君が呼び出しを受けた日の夜に、ニュース番組でやってたからな。その浮かない顔から察すると、捜査は進展していないみたいだな」
草薙はしかめっ面を作り、鼻の横を掻いた。
「まあ、全然進展してないってわけじゃないけどな。容疑者だって何人か浮かんできてるし、これからだよ」
「ほう、容疑者がね」湯川は特に感心した様子もなく、軽く受け流す。
すると横から岸谷が口を挟んできた。「自分は、現在の方向が当たっているとは思えないんですが」
へえ、といって湯川が彼を見た。「捜査方針に異議があるというわけだ」
「いや、異議というほどでは……」
「余計なこといわなくていいんだよ」草薙は眉を寄せた。
「すみません」
「謝る必要はないだろ。命令には従いつつ、自分なりに意見はある、というのは正常な姿だと思うぜ。そういう人間がいないと、なかなか合理化は進まない」
「こいつが捜査方針に文句をつけてるのは、そんな理由からじゃないんだ」仕方なく草薙はいった。「今俺たちが目をつけてる相手を庇《かば》いたいだけなんだよ」
「いや、そういうわけじゃあ」岸谷は口ごもった。
「いいよ、ごまかさなくて。あの母親と娘に同情してんだろ。俺だって本音をいえば、あの二人を疑うようなことはしたくない」
「なんだか複雑そうだな」湯川がにやにやしながら草薙と岸谷を見比べた。
「別に複雑ってわけじゃない。殺された男には昔別れた女房がいて、事件の直前にその女房の居所を調べてたらしいんだ。それで一応アリバイなんかを確認しておこうってことになっただけだ」
「なるほど。それでアリバイはあるのかい」
「まあ、そこなんだけどさ」草薙は頭を掻いた。
「おやおや、途端に歯切れが悪くなったな」湯川は笑いながら立ち上がった。薬缶から湯気が出ていた。
「お二人はコーヒーを飲むかい?」
「いただきます」
「俺は遠慮しておくよ。――あのアリバイはどうも引っかかるんだなあ」
「彼女らが嘘をついてるとは思えませんが」
「そういう根拠のないことをいうなよ。裏だって取れてないんだしさ」
「だって、映画館やラーメン屋の裏なんか取れないって班長にいったのは草薙さんじゃないですか」
「取れないとはいってない。取りにくいといっただけだ」
「ははあ、その容疑者の女性は、犯行時刻には映画館にいたと主張しているわけか」二つのコーヒーカップを持って湯川が戻ってきた。一方を岸谷に渡す。
ありがとうございます、といいながら岸谷はぎょっとしたように目を開いた。あまりにもカップが汚いからだろう。草薙は笑いをこらえた。
「映画を見た、というだけじゃあ、証明は難しいだろうな」湯川は椅子に腰かけた。
「でもその後でカラオケに行っているんです。で、そっちのほうは店員がはっきりと証言しています」岸谷が言葉に力を込める。
「だからといって映画館のほうを無視するわけにはいかないだろ。犯行後にカラオケに行ったということもあり得るわけだし」草薙はいった。
「花岡母娘が映画を見ていたのは、午後七時とか八時ですよ。いくら人気のない場所とはいえ、殺人を犯せる時間帯じゃないですよ。ただ殺しただけでなく、衣類だって脱がせてるわけだし」
「それはそう思うけど、あらゆる可能性を潰していかなきゃ、シロだとは断定できんだろうが」特にあの頑固な間宮を納得させられないと草薙は考えていた。
「よくわからんが、二人の話を聞いていると、犯行時刻は推定できているようだな」湯川が質問を挟んできた。
「解剖から、死亡推定時刻は十日の午後六時以降となっています」
「一般人に、そこまでべらべらしゃべることはないんだよ」草薙は注意した。
「でも、先生には、これまでにも捜査に協力していただいているわけでしょう?」
「オカルトもどきの謎が絡んでる場合だけだよ。今回は素人に相談する意味はない」
「たしかに僕は素人だ。でも君たちの雑談場所を提供していることは忘れないでもらいたいね」 湯川は悠然とインスタントコーヒーを啜《すす》った。
「わかったよ。退散すりゃいいんだろ」草薙は椅子から腰を上げた。
「本人たちはどうなんだ。映画館に行ってたことを証明する術を持ってないのか」コーヒーカップを持ったまま湯川が訊いてきた。
「映画のストーリーは記憶しているようだった。だけど、いつ見に行ったのかはわからんからな」
「チケットの半券は?」
この質問に、草薙は思わず湯川の顔を見返した。彼と目が合った。
「持ってたよ」
「ふうん。どこから出してきた?」湯川の眼鏡がきらりと光った。
草薙は、ふっと笑った。
「おまえのいいたいことぐらいはわかってるよ。チケットの半券なんてものは、ふつうは後生大事に保管しないものだ。俺だって、花岡靖子が戸棚から出してきたりしたら変だと思わざるをえない」
「ということは、そんなところから出してきたのではないんだな」
「最初は、半券なんて捨てたと思うといってたんだ。ところが、もしかしたらってことでその時に買ったパンフレットを開いたら、そこに挟まっていたというわけだ」
「パンフレットからねえ。まあ、不自然な話ではないな」湯川は腕組みした。
「半券の日付は事件当日のものだったんだな」
「もちろんそうだ。でも、だからといって映画を見たとはかぎらない。ゴミ箱か何かから半券を拾ったのかもしれないし、チケットは買ったが、映画館には入らなかったということも考えられる」
「しかしいずれにしてもその容疑者は、映画館もしくはその近くに行ったわけだ」
「そう思ったから、俺たちも今朝から聞き込みに回っている。目撃情報を探すためにさ。ところがその日チケットのモギリをしていたバイトの女の子が今日は休みでね、わざわざ自宅まで行ってきた。で、その帰りにこちらに寄らせてもらったというわけさ」
「そのモギリ嬢から有益な情報を得られた、という表情ではないな」湯川は口元を曲げるように笑った。
「何日も前だし、客の顔なんかいちいち覚えてるわけないよな。まあ、最初から当てにしてなかったから、別にがっかりもしてない。さあ、助教授の邪魔らしいから、そろそろ行くぞ」草薙は、まだインスタントコーヒーを飲んでいる岸谷の背中を叩いた。
「しっかりな、刑事さん。その容疑者が真犯人なら、ちょっと苦労するかもしれんが」
湯川の言葉に、草薙は振り向いた。「どういう意味だ」
「今もいっただろ。ふつうの人間なら、アリバイ工作に用意した半券の保管場所にまで気を配らない。刑事が来た時のことを考えてパンフレットに挟んでおいたのだとしたら、相当な強敵だぞ」そういった湯川の目からは笑いは消えていた。
友人の言葉を反窃してから草薙は頷いた。「心に留めておくよ」
じゃあまた、といって彼は部屋を出ようとした。だがドアを開ける前に思い出したことがあって、再び振り返った。
「容疑者の隣におまえの先輩が住んでるぞ」
「先輩?」湯川は怪訝そうに首を傾げた。
「高校の数学教師で、石神とかいった。帝都大の出身だといってたから、たぶん理学部だと思うんだけどな」
「イシガミ……」呟くように繰り返した後、レンズの奥の目が大きくなった。「ダルマの石神か?」
「ダルマ?」
少し待っててくれといって湯川は隣の部屋に消えた。草薙は岸谷と顔を見合わせた。
すぐに湯川が戻ってきた。手に黒い表紙のファイルを持っていた。彼は草薙の前でそれを開いた。
「この男じゃなかったか」
その頁には何人かの顔写真が並んでいた。学生らしき若者たちだ。頁の上には、『第三十八期修士課程修了生』と印刷されている。
湯川が指差したのは、丸い顔をした大学院生の写真だった。表情がなく、糸のように細い目を正面に向けている。名前は石神哲哉となっていた。
「あっ、この人ですよ」岸谷がいった。「ずいぶん若いけど、間違いないです」
草薙は写真の顔の額から上を指で隠し、頷いた。
「そうだな。今はこの頃よりもっと髪が薄いから、すぐにはわからなかったけど、たしかにあの教師だ。知っている先輩か」
「先輩じゃなく、同期だ。当時うちの大学では、理学部生は三年生から専攻が分かれるようになっていた。僕は物理学科に進み、石神は数学科を選んだというわけだ」そういって湯川はファイルを閉じた。
「ということは、あのおっさんは俺とも同い年ってことか。へええ」
「彼は昔から老けて見えたからな」湯川はにやりと笑った後で、不意に意外そうな顔をした。
「教師? 高校の教師といったな」
「ああ、地元の高校で数学を教えているという話だった。それから柔道部の顧問もしているといってたぞ」
「柔道は子供の頃から習わされていたと聞いたことがある。お爺さんが道場を持っていたんじゃなかったかな。いや、それはともかく、あの石神が高校の教師とは……間違いないんだな」
「間違いないよ」
「そうか。君がそういうんだから、事実なんだろうな。噂を聞かないから、どこかの私立大学で研究しているんだろうと想像していたんだけど、まさか高校教師とはな。あの石神が……」湯川の視線はどこか虚ろになっていた。
「そんなに優秀な人だったんですか」岸谷が訊いた。
湯川はふっと吐息をついた。
「天才なんて言葉を迂闇《うかつ》には使いたくないけど、彼には相応《ふさわ》しかったんじゃないかな。五十年か百年に一人の逸材といった教授もいたそうだ。学科は分かれたけれど、彼の優秀さは物理学科にも聞こえてきた。コンピュータを使った解法には興味がないくちで、深夜まで研究室に閉じこもり、紙と鉛筆だけで難問に挑むというタイプだった。その後ろ姿が印象的で、いつの間にかダルマという渾名がついたほどだ。もちろんこれは敬意を表しての渾名だけどね」
湯川の話を聞き、上には上がいるものなのだなと草薙は思った。彼は目の前にいる友人こそ天才だと思ってきた。
「そこまですごい人なのに、大学の教授とかになれないってことがあるんですか」岸谷がさらに訊く。
「それはまあ、大学というところはいろいろとあるからね」湯川は珍しく歯切れが悪い。
彼自身、くだらない人間関係のしがらみにストレスを感じることも多いのだろう、と草薙は想像した。
「彼は元気そうだったかい」湯川が草薙を見た。
「どうかな、病気には見えなかったけど。とにかく話していても、とっつきにくいというか、無愛想というか……」
「心を読めない男だろ」湯川は苦笑した。
「そういうことだ。ふつう刑事が訪ねてきたとなれば、どんな人間でも少しは驚くというか、狼《ろう》狽《ばい》するというか、とにかく何らかの反応があるのに、あの男はまるで無表情だった。自分以外のことには関心がないみたいだ」
「数学以外には関心がないんだよ。でも、それなりに魅力的な人物でもあるんだ。住所を教えてくれないか。今度、暇が出来たら会いに行ってみよう」
「おまえがそんなことをいうのは珍しいな」
草薙は手帳を出し、花岡靖子が住んでいるアパートの住所を湯川に教えた。それをメモに取る物理学者は、殺人事件には興味をなくしている様子だった。
午後六時二十八分、花岡靖子が自転車に乗って帰ってきた。その様子を石神は部屋の窓から見た。彼の前にある机には、膨大な量の計算式を書いた紙が並んでいた。それらの計算式と格闘するのが、学校から帰宅した後の彼の日課だった。しかし、せっかく柔道部の練習が休みだったというのに、今日はその作業に全く進展がなかった。今日にかぎらず、ここ数日はずっとそうだ。部屋で静かに隣室の様子を窺う、というのが習慣になりつつある。刑事が訪ねてこないかどうかを確かめているのだ。
刑事たちは昨夜も、やってきたようだ。以前石神のところにも来た、あの二人の刑事だ。警察手帳の身分証にあった草薙という名字は覚えている。
靖子の話によれば、予想通り彼等は映画館でのアリバイを確認しにきたようだ。映画館で何か印象的な出来事は起こらなかったか。映画館に入る前か出た後、あるいは映画館の中で誰かと会わなかったか。チケットの半券はあるか。中で何か買ったのならそのレシートはあるか。映画の内容はどんなもので、出演者は誰だったか――。
カラオケボックスのことは何も訊かなかったそうだから、そちらは裏づけが取れたのだろう。もとより、取れて当然だ。そういう場所を意識的に選んだのだ。
チケットの半券とパンフレットのレシートを、石神から指示された手順で刑事に見せた、と靖子はいった。映画の内容以外の質問には、何も思いつかないの一点張りで押し通したという。それもまた石神が事前に教えておいたとおりだ。
刑事たちはそれで帰ったそうだが、彼等があっさり諦めるとは思えなかった。映画館のアリバイを確認しに来たということは、花岡靖子を疑うに足るデータが出てきたとみるべきだろう。そのデータとはどんなものか。
石神は立ち上がり、ジャンパーを手にした。テレホンカードと財布、そして部屋の鍵を持って部屋を出た。
階段にさしかかったところで下から足音が聞こえてきた。彼は歩を緩めた。少し俯き加減になった。
階段を上がってきたのは靖子だった。彼女は、前にいるのが石神だとすぐには気づかなかった様子だ。すれ違う直前になって、はっとしたように足が止まりかけた。何かをいいたそうな気配が、下を向いたままの石神にも伝わってきた。
彼女が声を発する前に石神がいった。「こんばんは」
他の人間に接する時と同様の口調と低い声を彼は心がけた。そして決して目を合わせようとはしなかった。歩調も変えなかった。階段を黙々と下りていった。
どこで刑事が見張っているかわからないから、顔を合わせても、あくまでも単なる隣人同士のように振る舞うこと、というのも石神から靖子に出した指示のひとつだ。それを思い出したらしく、彼女も小声で、こんばんは、といった後は、無言で階段を上がっていった。
いつもの公衆電話まで歩くと、早速受話器を上げ、テレホンカードを差し込んだ。三十メートルほど離れたところに雑貨屋があり、そこの主人と思われる男が店じまいをしている。それ以外には、周りに人気はない。
「はい、あたしです」すぐに靖子の声が返ってきた。石神からの電話だとわかっている口調だった。そのことが彼は何となく嬉しかった。
「石神です。何か変わったことはありませんでしたか」
「あ、あの、刑事が来ました。お店に」
「『べんてん亭』に、ですか」
「はい。いつもと同じ刑事です」
「今度はどんなことを訊いてきましたか」
「それが、富樫が『べんてん亭』に来なかったかって」
「何と答えましたか」
「もちろん、来てませんと答えました。すると刑事は、あたしがいない時に来たのかもしれませんねとかいって、店の奥に入っていったんです。後で店長たちから聞いたら、富樫の写真を見せられたそうです。こういう人物が来なかったかって。あの刑事は、あたしを疑っています」
「あなたが疑われることは予定通りです。何もこわがることはない。刑事が訊いていったのはそのことだけですか」
「あと、以前働いていた店のことを訊かれました。錦糸町の飲み屋ですけど、今でもその店に行くことはあるかとか、店の者と連絡を取り合うことはあるかとか。石神さんから言われたとおり、そういうことはありませんと答えておきました。それで、あたしのほうから質問してみたんです。どうして前にいた店のことなんかを訊くんですかって。そうしたら、富樫が最近その店に来たんだっていわれました」
「ははあ、なるほど」石神は受話器を耳に当てたまま頷いた。「富樫はその店で、あなたのことをいろいろと嗅ぎ回っていたわけだ」
「そうらしいんです。『べんてん亭』のこともその店で知ったみたいです。刑事は、富樫はあたしを探していたようだから、『べんてん亭』に来ないはずがないんだけどなあなんて、いうんです。あたしは、そんなこといわれても来なかったんだから仕方がないでしょうと答えておきましたけど」
草薙という刑事のことを石神は思い出していた。どちらかといえば人当たりの良い雰囲気を持った男だった。話し方も柔らかく、威圧感はない。だが捜査一課にいるということは、それなりに情報収集能力を持っているということだ。相手を怖がらせて吐かせるタイプではなく、さりげなく真実を引き出すタイプなのだろう。郵便物の中から帝都大学の封筒を見つけた観察力も要注意だ。
「ほかには何か訊かれましたか」
「あたしが訊かれたのはそれだけです。でも美里が……」
石神は受話器をぎゅっと握りしめた。「彼女のところにも刑事が来たんですか」
「ええ。たった今聞いたんですけど、学校を出たところで話しかけられたそうです。あたしのところに来た二人の刑事だと思います」
「美里ちゃんはそこにいますか」
「はい。ちょっと代わります」
すぐ横にいたらしく、もしもし、という美里の声が聞こえた。
「刑事からはどんなことを訊かれた?」
「あの人の写真を見せられて、うちに来なかったかって……」
あの人というのは富樫のことだろう。
「来なかった、と答えたんだね」
「うん」
「ほかにはどんなことを?」
「映画のこと。映画を見たのは本当に十日だったかって。何か勘違いしてるんじゃないかって。あたし、絶対に十日だったっていいました」
「すると刑事は何といった?」
「映画を見たことを、誰かに話したかとか、メールしたかとか」
「君は何と答えた?」
「メールはしなかったけど、友達には話したって答えました。そうしたら、その友達の名前を教えてくれないかって」
「教えたのかい」
「ミカのことだけ教えました」
「ミカちゃんというのは、映画のことを十二日に話した友達だったね」
「そうです」
「わかった。それでいいよ。刑事はほかに何か訊いたかい」
「あとは特に大したことは訊かれなかった。学校は楽しいかとか、バドミントンの練習はきついかとか。あの人、どうしてあたしがバドミントン部だってこと知ってるのかな。その時はラケットだって持ってなかったのに」
たぶん部屋に置いてあったのを見たのだろうと石神は推測した。やはりあの刑事の観察力には油断ができない。
「どうでしょうか」電話から聞こえてくる声が靖子のものに変わった。
「問題ありません」石神は声に力を込めた。彼女を安心させるためだった。
「すべて計算通りに進んでいます。これからも刑事は来ると思いますが、私の指示を守っていただければ大丈夫です」
「ありがとうございます。石神さんだけが頼りです」
「がんばってください。あと少しの辛抱です。では、またあした」
電話を切り、テレホンカードを回収しながら、石神は最後の台詞について軽く後悔していた。あと少しの辛抱、というのは無責任すぎた。あと少し、とは具体的にどれほどの期間なのだ。定量的に示せないことはいうべきではない。
ともあれ、計算通りにことが進んでいるのは事実だった。富樫が靖子を探していたことが判明するのは時間の問題だと思っていたし、だからこそアリバイが必要だと判断したのだ。そしてそのアリバイに警察が疑いを持つのも予定通りだ。
美里のところへ刑事が来たというのも予想していたことではある。おそらく刑事たちは、アリバイを崩すには娘を攻めたほうが手っ取り早いと考えているのだろう。それを見越して様々な手は打ってあるが、抜けがないかどうかはもう一度チェックしたほうがいいかもしれない。
そんなことを考えながら石神がアパートに戻ると、部屋の前に一人の男が立っていた。黒い薄手のコートを着た、背の高い男だった。石神の足音を聞いたからか、男は彼のほうに顔を向けていた。眼鏡のレンズが光っていた。
刑事かな、とまず思った。だがすぐに、違う、と思い直した。男の靴は新品同様の美麗さを保っていた。
警戒しながら近づいた時、相手が口を開いた。「石神だろ」
その声に石神は相手の顔を見上げた。その顔には笑みが浮かんでいた。しかもその笑みに見覚えがあった。
石神は大きく息を吸い、目を見開いた。「湯川学か」
二十年以上前の記憶が、みずみずしく蘇ってきた。
6
その日もいつものように教室はがらがらだった。詰めれば百人は入れる部屋だが、座っているのは多く見積もっても二十人といったところだった。しかもその殆どの学生が、出欠を取り終えたら即座に退出できるよう、あるいは自分勝手な内職をできるよう、後方の席に座っていた。
数学科志望の学生は特に少なかった。石神以外には誰もいなかったといってもいい。応用物理学の歴史的背景ばかりを聞かされるその講義は、学生たちには人気がなかった。
石神にしてもその講義にさほど関心はなかったが、いつもの習慣で、最前列の左から二番目の席についていた。どの講義でも彼はその位置か、それに近い場所に着席することにしていた。真ん中に座らないのは、講義を客観的に捉えたいという意識があったからだ。彼は、どんなに優秀な教授でも、いつも正しいことを語るわけではないということを知っていた。
彼は大抵孤独だったが、その日は珍しくすぐ後ろに座った者がいた。しかしそのことについてさほど気には留めなかった。講師が来るまでの間、彼にはやるべきことがあった。ノートを取り出し、ある問題と取り組んでいた。
「君もエルデシュ信者かい」
最初、その声が自分に対して発せられたものだとは石神は気づかなかった。しばらくして顔を上げる気になったのは、エルデシュという名前を口にする人間がいることに興味がわいたからだ。彼は後ろを振り向いた。
髪を肩まで伸ばし、シャツの胸元をはだけた男が頬杖をついていた。首には金色のネックレスをつけていた。時々見かける顔だった。物理学科志望の学生だということは知っていた。
声をかけてきたのは、まさかこの男ではあるまい――石神がそう思った直後、長髪の男は頬杖をしたままいった。「紙と鉛筆には限界があるぜ。まあトライすることには意味があるかもしれんが」
同じ声だったので、石神は少し驚いた。
「俺が何をしてるのか知ってるのか」
「ちらりと見えた。覗こうと思ったわけじゃない」長髪の男は石神の机を指差した。
石神は自分のノートに目を戻した。数式が書かれているが、それは全体の途中であり、ごく一部にすぎなかった。一目見て、何を解いているのかわかったとすれば、この問題に取り組んだ経験があるということだ。
「おたくもやったことがあるのか」石神は訊いた。
長髪の男はようやく頬杖を外し、苦笑を浮かべた。
「こっちは不必要なことはしない主義なんだ。何しろ、物理学科志望だからな。数学者が作り上げた定理を使わせてもらうだけだ。証明は君たちに任せる」
「でもこいつには興味があるわけか」石神は自分のノートを手にした。
「証明済みだからな。証明されたことは知っておいて損はない」彼は石神の目を見て続けた。「四色問題は証明された。すべての地図は四色で塗り分けられる」
「すべてじゃない」
「そうだった。平面または球面上、という条件つきだったな」
それは数学界において最も有名な問題のひとつだった。『平面または球面上のどんな地図も四色で塗り分けられるかどうか』というもので、一八七九年にA・ケーリーによって提出された。塗り分けられることを証明するか、それが不可能な地図を考案すればいいわけだが、解決されるまでに百年近くを要した。証明したのはイリノイ大学のケネス・アッベルとウォルフガング・ハーケンで、ふたりはコンピュータを用い、あらゆる地図が約百五十の基本的な地図のバリエーションでしかないことを確かめ、それらすべてについて四色で塗り分けられることを証明したのだ。一九七六年のことだった。
「俺はあれが完全な証明だとは思っていない」石神はいった。
「そうなんだろうな。だからこそ、そうやって紙と鉛筆で解こうとしているわけだ」
「あのやり方は人間が手作業で調べるには膨大すぎる。だからこそコンピュータを使ったんだろうが、おかげでその証明が正しいのかどうかを完璧に判断する手段がない。確認にもコンピュータを使わなければならないなんてのは、本当の数学じゃない」
「やっぱりエルデシュ信者だ」長髪の男はにっこり笑った。
ポール・エルデシュはハンガリー生まれの数学者だ。世界各地を放浪しながら、各地の数学者と共同研究を成したことで有名だ。よい定理には美しく自然で簡明な証明が必ずある、という信念を持っていた。四色問題についても、アッベルとハーケンの証明はおそらく正しいだろうと認めつつ、その証明は美しくないと語っていた。
長髪の男は石神の本質を見抜いていた。彼はまさに「エルデシュ信者」だった。
「一昨日、数値解析の試験問題について教授のところへ質問に行った」長髪の男は話題を変えた。「問題としてはミスはないんだけれど、得られる解答がエレガントじゃなかったものでね。案の定、ちょっとした印刷ミスがあったらしい。ところが驚いたことに、同様の質問をしてきた学生がほかにいたらしいんだな。正直いって悔しかった。あの問題を完璧に解けたのは自分だけだろうと自惚《うぬぼ》れていたからね」
「あれぐらいは……」そこまでいったところで石神は言葉を呑んだ。
「解けて当然、あの石神なら――教授もそういってたよ。やっぱり上には上がいる。自分に数学科は無理だと思った」
「おたく、物理学科志望といったな」
「湯川だ。よろしく」彼は石神に握手を求めてきた。
変わった男だなと思いながら石神はそれに応じた。そして、なんだかおかしくなった。変わった男だといわれるのは常に自分だと思ってきたからだ。
湯川とは特に友達付き合いをしたわけではなかったが、顔を合わせた時には必ずといっていいほど言葉を交わした。彼は博学で、数学や物理学以外のこともよく知っていた。石神が内心は馬鹿にしている文学や芸能についても詳しかった。もっとも、その知識がどの程度に深いものかは石神にはわからなかった。彼自身が判断基準を持っていなかったし、湯川は石神が数学以外のことには興味を示さないと知ったのか、間もなく畑違いの話題は出してこなくなったからだ。
それでも石神にとって湯川は、大学に入って初めて出来た話仲間であり、実力を認められる人物だった。
やがて二人はあまり顔を合わさなくなった。数学科と物理学科というふうに進路がわかれたからだ。この学科間での転籍は、ある一定基準の成績に達していれば認められていたが、どちらも変更を望まなかった。それはお互いにとって正解だったと石神は思っている。どちらも自分に適した道を選んだのだ。この世のすべてを理論によって構築したいという野望は二人に共通したものだったが、そのアプローチ方法は正反対だった。石神は数式というブロックを積み上げていくことでそれを成し遂げようとした。一方湯川は、まず観察することから始める。その上で謎を発見し、それを解明していくのだ。石神はシミュレーションが好きだったが、湯川は実験に意欲的だった。
めったに顔は合わせなかったが、湯川の噂は時折石神の耳にも入ってきた。大学院二年の秋、彼の考案した『磁界歯車』を某アメリカ企業が買いにきたという話を聞いた時には、素直に感服した。
修士課程修了後に湯川がどうしたのか、石神は知らない。彼自身が大学を去ったからだ。そして会わないまま二十年以上の月日が流れていた。
「へえ、相変わらずだな」部屋に入り、書棚を見上げるなり湯川はいった。
「何がだ」
「数学|三味《ざんまい》だな、と思ったんだよ。うちの数学科の連中でも、個人的にこれだけの資料を揃えている者はいないんじゃないかな」
石神は何もいわなかった。書棚には単なる関係書籍だけでなく、様々な国の学会資料をファイルしたものも並んでいる。主にインターネットを利用して入手したのだが、生半可《なまはんか》な研究者よりも現在の数学界には精通しているという自負が彼にはあった。
「とにかく座れよ。コーヒーでも入れるから」
「コーヒーも悪くないが、こういうものを持ってきた」湯川は提げていた紙袋から箱を取り出した。有名な日本酒だった。
「なんだ、そんな気を遣わなくてもよかったのに」
「久しぶりに会うのに、手ぶらってのも何だからな」
「すまんな。じゃあ、寿司でも取ろう。食事、まだなんだろ」
「いや、そっちこそ気を遣わないでくれ」
「俺もまだ食べてないんだよ」
電話の子機を手にし、店屋物を注文する時のために作ってあるファイルを開いた。しかし寿司屋の品書きを見て、少し迷った。いつも注文するのは並の盛り合わせだった。
電話をかけ、盛り合わせの上と刺身を注文した。寿司屋の店員は意外そうに受け答えをしていた。この部屋にきちんとした客が来るのほ何年ぶりだろうと石神は思った。
「それにしても驚いたな。湯川が来るなんて」座りながら彼はいった。
「知り合いからたまたま聞いて、懐かしくなったものだから」
「知り合い? そんな人間いたかな」
「うん、それがまあ妙な話でね」湯川はいいづらそうに鼻の横を掻いた。「警視庁の刑事がここに来ただろ。草薙という男だ」
「刑事――」
石神はどきりとしたが、それを顔に出さぬよう気をつけた。そして改めてかつての学友の顔を見た。この男は何かを知っているのだろうか――
「あの刑事、同期なんだ」
湯川の口から出たのは、意外な言葉だった。
「同期?」
「バドミントン部の、さ。ああ見えても我らと同じ帝都大の出身だ。社会学部だけどな」
「ああ……そうだったのか」石神の胸に広がりかけていた不安の雲が急速に消えた。「そういえば彼、俺のところに来た大学からの封筒をじろじろ見ていたな。帝都大ってことにこだわっているように思えたのはそのせいか。でもそれなら、あの時にそういってくれればよかったのに」
「あの男にとって帝都大理学部の卒業生は同級生でも何でもないんだよ。違う人種だと思っている」
石神は頷いた。それはお互い様だと思った。同じ時期に同じ大学に通っていた人間が今は刑事になっているのかと思うと妙な感じがした。
「草薙から聞いたんだが、今は高校で数学を教えてるとか」湯川は真っ直ぐに石神の顔を見つめてきた。
「この近くの高校だ」
「そうらしいな」
「湯川は大学にいるんだろ」
「うん。十三研究室にいる」あっさりとした口調でいった。演技でなく、本心から自慢する気はないのだろうと石神は解釈した。
「教授か」
「いや、その手前でうろうろしている。上が詰まってるからな」湯川は屈託なくいった。
「『磁界歯車』の功績があるから、今頃は教授になっているとばかり思っていたが」
石神の言葉に、湯川は笑って顔をこすった。
「その名称を覚えているのは石神ぐらいだ。結局実用化されず、今じゃ机上の空論扱いってところかな」そういって彼は持参してきた酒の蓋を開け始めた。
石神は立ち上がり、コップを二つ、棚から出した。
「石神こそ、今頃はどこかの大学の教授におさまって、リーマン予想にでも挑戦しているんだろうと思ってたんだけどな」湯川はいった。「ダルマの石神が一体どうしたんだ。それともエルデシュに義理立てして、放浪の数学者を気取ってるのか」
「そんなんじゃあないさ」石神は小さく吐息をついた。
「まあ、とにかく一杯やろう」湯川は深く尋ねようとはせず、コップに酒を注いだ。
もちろん石神も生涯を数学の研究に捧げるつもりだった。修士課程修了後には、湯川と同様に大学に残って博士号を目指す決意をしていた。
それが叶わなかったのは、両親の面倒を見なければならなくなったからだ。どちらも高齢で、持病があった。アルバイトをしながら大学院に通うことはできても、両親の生活費までは捻出できない。
そんな時、ある新設の大学で助手を探しているという話を教授が教えてくれた。自宅から通える距離であり、数学の研究を続けられるのならと思い、その話に乗ることにした。結局それが彼の人生を狂わせることになった。
その大学では研究らしいことは何ひとつできなかった。教授たちは権力争いと保身のことしか考えておらず、優れた学者を育てようという意識も、画期的な研究を成し遂げようという野心もなかった。石神が苦労して書き上げた研究レポートは、いつまで経っても教授の引き出しに入ったままだった。おまけに学生のレベルは低く、高校数学でさえ満足に理解していない者の面倒を見るのに、石神の研究時間は割かれた。それほどの我慢を強いられるわりに賃金はあきれるほどに低かった。
ほかの大学での再就職を望んだが、希望は叶いそうになかった。そもそも数学科を置いている大学が少ないのだ。置いていたとしても予算が少なく、助手を入れる余裕がない。工学部と違い、企業がスポンサーについてくれることもないからだ。
人生の方向転換を迫られていた。彼は学生時代に取得していた教員資格を生活の糧とする道を選んだ。同時に、数学者として身を立てる道を諦めた。
そんな話を湯川にしたところで仕方がないと思った。研究者としての道を断念せざるをえなくなった人間には、大体似たような事情がある。自分の場合もさほど珍しいことではないと石神は理解していた。
寿司と刺身が届いたので、それを食べながらさらに酒を飲んだ。湯川の持参した酒が空になったので、石神はウイスキーを出した。めったに飲まないが、数学の難問を解いた後など、頭の疲労を取るためにちびちびと舐めるのが好きだった。
話が弾むというほどではなかったが、学生時代の思い出を絡めながら数学のことを語るのは楽しかった。ずいぶん長い間、こういう時間を失っていたことに、石神は改めて気づいた。大学を出て以来、初めてかもしれなかった。この男以外に自分を理解してくれる者はおらず、また自分が対等の人間として認められる者もいなかったのかもしれない、と湯川を見ながら石神は思った。