饭饭TXT > 海外名作 > 《嫌疑犯X的献身/容疑者Xの献身(日文版)》作者:[日]东野圭吾【完结】 > 容疑者Xの献身.txt

第 5 页

作者:日-东野圭吾 当前章节:15369 字 更新时间:2026-6-19 10:46

「そうだ、大事なことを忘れていた」湯川が不意にそういって、紙袋の中から大判の茶封筒を出してきた。それを石神の前に置いた。

「なんだ、これ」

「まあ、中を見てくれ」湯川はにやにやしていた。

 封筒の中にはA4のレポート用紙が入っており、そこには数式がびっしりと書き込まれていた。一枚目にさっと目を通し、それが何であるかを石神は悟った。

「リーマン予想の反証を試みているわけか」

「一目で見抜いたな」

 リーマン予想とは、現在の数学で最も有名だといわれている難問だ。数学者リーマンが立てた仮説が正しいことを証明すればいいのだが、未だ誰も成し遂げていない。

 湯川が出してきたレポートの内容は、仮説が正しくないことを証明しようとしているものだった。そういった取り組みをしている学者が世界中にいることを石神は知っていた。もちろん、その反証に成功した者もまだいない。

「数学科の教授にコピーさせてもらってきた。まだどこにも発表されていない。反証には至っていないが、いいセンまでいっているようには思う」湯川はいった。

「リーマンの仮説は間違っているというのか」

「いいセンまでいってるといっただけだ。仮説が正しいなら、その論文のどこかにミスがあることになる」

 悪戯小僧が悪巧みの首尾を確認するような目を湯川はした。それを見て石神は彼の狙いを察知した。彼は挑発しているのだ。同時に、「ダルマの石神」がどこまで衰えたかを見極めようとしているのだ。

「ちょっと見せてもらっていいか」

「そのために持ってきた」

 石神は論文を目にした。やがて彼は腰を上げ、机に向かった。横に新しいレポート用紙を広げ、ボールペンを手にした。

「P≠NP問題というのは当然知っているよな」湯川が後ろから声をかけてきた。

 石神は振り返った。

「数学の問題に対し、自分で考えて答えを出すのと、他人から聞いた答えが正しいかどうかを確認するのとでは、どちらが簡単か。あるいはその難しさの度合いはどの程度か――クレイ数学研究所が賞金をかけて出している問題の一つだ」

「さすがだな」湯川は笑ってグラスを傾けた。

 石神は机に向き直った。

 数学は宝探しに似ている、と彼は思っている。まずどのポイントを攻めればいいかを見極め、解答に辿り着くまでの発掘ルートを考案するのだ。そのプラン通りに数式を組み立てていき、手がかりを得ていく。何も得られなければ、ルートを変更しなければならない。そうしたことを地道に、気長に、しかし大胆に行うことによって、誰も見つけられなかった宝すなわち正解に行き着けるのだ。

 そうした喩《たと》えを使うなら、他人の解法を検証するというのは、単に発掘ルートをなぞるだけで簡単なことのように思える。しかし実際はそうではなかった。間違ったルートを進み、偽の宝物に辿り着いている結果について、その宝が偽物だと証明するのは、時に本物を探すよりも難しい場合がある。だからこそP≠NP問題などという途方もない問題が提示されているのだ。

 石神は時間を忘れた。闘争心と探求心、さらには誇りが彼を興奮させていた。彼の目は数式から一時も離れることがなく、脳細胞はそれらを操ることのみに使われた。

 突然石神は立ち上がった。レポートを手にし、後ろを振り向いた。湯川はコートをかぶり、身体を丸めて眠っていた。その肩を揺すった。

「起きてくれ、わかったぞ」

 湯川は寝ぼけ眼でゆっくりと身体を起こした。顔をこすり、石神を見上げた。

「何だって?」

「わかったんだよ。残念ながら、この反証には間違いがある。面白い試みだが、素数の分布について根本的な誤りがあって――」

「ちょっと待った。待ってくれ」湯川が石神の顔の前に手を出してきた。「寝起きの頭で君の難解な説明を聞いたって、わかるわけがない。いや、頭が冴えてる時でも無理だ。白状すると、リーマン予想なんて僕にはお手上げなんだよ。君が面白がると思って、持ってきただけだ」

「いいセンいってるとかいったじゃないか」

「数学科の教授の受け売りだ。じつは反証にミスがあることはわかっていて、それで発表されなかったんだ」

「じゃあ、俺がミスに気づいても当然ということか」石神は落胆した。

「いや、すごいと思うよ。少々出来のいい数学者でも、即座にはミスに気づかないだろうとその教授はいっていた」湯川は腕時計を見た。「君はたったの六時間で見抜いた。見事だと思う」

「六時間?」石神は窓を見た。外はすでに白み始めていた。目覚まし時計を見ると、五時近くになっている。

「相変わらずだな。安心したよ」湯川がいった。「ダルマの石神は健在だ。後ろ姿を見ながらそう思った」

「すまん。湯川がいることを忘れていた」

「構わんさ。それより君も少し眠ったほうがいい。今日も学校だろ」

「そうだな。でも興奮して眠れそうにない。こんなに集中したのは久しぶりだ。ありがとう」石神は手を差し出した。

「来てよかった」そういって湯川は握手してきた。

 七時まで少し眠った。頭が疲労していたのか、精神的充足感が大きかったのか、その短い間に石神は熟睡した。目覚めた時にはいつもより頭がすっきりしていた。

 石神が支度をしていると湯川がいった。「お隣さん、早いんだな」

「お隣さんって?」

「さっき、出かける物音がした。六時半を少し過ぎた頃かな」

 湯川は起きていたらしい。

 何かいったほうがいいだろうかと石神が考えていると、続けて湯川がいった。

「さっき話した刑事の草薙という男によると、お隣さんは容疑者らしいな。それで君のところにも聞き込みをしたそうだ」

 石神は平静を装い、上着を羽織った。「彼は事件のことを湯川に話すのかい?」

「まあ時々はね。油を売りに来るついでに愚痴って帰る、というところかな」

「一体どういう事件なのかな。草薙刑事……だっけ、彼は詳しいことを話してくれなかったんだが」

「一人の男が殺された、という事件らしい。その男がお隣さんの別れた亭主だってさ」

「そういうことか……」石神は無表情を保った。

「君はお隣とは付き合いがあるのかい」湯川が訊いてきた。

 石神は瞬時に考えを巡らせた。口調だけから推測すると、湯川は特に深い意図があって尋ねてきたわけではなさそうだ。だから適当に流すこともできる。しかし彼が刑事と親しいという点に石神はこだわった。こうして再会したことを彼は草薙に話すかもしれない。それを考慮して、ここでは答えなければならない。

「付き合いはないんだが、じつは花岡さん――お隣さんは花岡さんというんだけど、彼女が働いている弁当屋にはちょくちょく行く。このことはうっかりしていて草薙刑事にはいわなかったんだがね」

「ふうん、弁当屋さんか」湯川は頷いた。

「お隣さんが働いている店だから買いに行ってるんじゃなくて、たまたま行った店で彼女が働いていたというだけのことなんだ。学校の近くでね」

「そうか。でもその程度の知り合いでも、容疑者というのはいい気分がしないだろう」

「別に。自分には関係のないことだ」

「それもそうだな」

 湯川は特に怪しんでいるふうではなかった。

 七時三十分に二人で部屋を出た。湯川は最寄りの森下駅には向かわず、石神と一緒に高校のそばまで行くといった。そのほうが電車の乗り換えが少なくて済むらしい。

 湯川は、事件や花岡靖子のことはもう話題にしなかった。先刻は、もしかしたら草薙に頼まれて何かを探りにきたのかと疑ったのだが、どうやら考えすぎらしいと石神は思った。そもそも草薙には、そんな手を使ってまで石神のことを探ろうとする理由はないはずだった。

「なかなか興味深い通勤コースだな」湯川がそんなふうにいったのは、新大橋の下をくぐり、隅田川に沿って歩き始めた時だった。ホームレスの住処が並んでいるからだろう。

 白髪混じりの髪を後ろで縛っている男が洗濯物を干していた。その先には石神が『缶男』と名付けている男が例によって空き缶を潰していた。

「いつもと同じ光景だ」石神はいった。「この一か月間、何も変わっちゃいない。彼等は時計のように正確に生きている」

「人間は時計から解放されるとかえってそうなる」

「同感だ」

 清洲橋の手前で階段を上がった。すぐそばにオフィスビルが建っている。一階のガラスドアに映った自分たちの姿を見て、石神は小さく首を振った。

「それにしても湯川はいつまでも若々しいな。俺なんかとは大違いだ。髪もどっさりあるし」

「いやあ、これでもずいぶん衰えた。髪はともかく、頭の働きは鈍くなったと思うよ」

「贅沢なことを」

 軽口を叩きながらも石神は少し緊張を覚えていた。このままだと湯川は『べんてん亭』までついてくるだろう。花岡靖子と自分との関係について、この洞察力に優れた天才物理学者が何か感づきはしないかと少し不安になった。また、石神が見知らぬ男と一緒にやってきたことで、靖子が狼狽を見せないともかざらない。

 店の看板が見えてきたところで石神はいった。

「あれがさっき話した弁当屋だ」

「ふうん。『べんてん亭』か。面白いネーミングだな」

「今日も買っていくよ」

「そうか。じゃあ、僕はここで」湯川は立ち止まった。

 意外ではあったが、助かったと石神は思った。

「ろくな持てなしができなくて申し訳なかった」

「最高の持てなしをしてもらったさ」湯川は目を細めた。「もう、大学に戻って研究する気はないのか」

 石神はかぶりを振った。

「大学で出来ることは自分一人でも出来る。それに、この歳からじゃあ引き取ってくれる大学はないだろう」

「そんなことはないと思うけど、まあ、無理にとはいわない。これからもがんばってくれ」

「湯川もな」

「会えてよかった」

 握手した後、湯川が遠ざかっていくのを石神は見送った。名残惜しかったわけではない。自分が『べんてん亭』に入っていくところを見られたくなかったからだ。

 湯川の姿が完全に消えた後、彼は踵を返し、足早に歩きだした。

  7

 石神の顔を見て、靖子はなぜか安堵した。彼が穏やかな表情をしていたからだ。昨夜、珍しく彼の部屋に来客があったようで、遅くまで話し声が聞こえていた。もしや刑事ではないのかと気に病んでいた。

「おまかせ弁当を」いつものように抑揚のない声で彼は注文した。そしていつものように靖子の顔を見ようとしない。

「はい、おまかせひとつ。ありがとうございます」応えてから彼女は小声で囁《ささや》いた。「昨日、どなたかお客さんが?」

「あ……ああ」石神は顔を上げ、驚いたように瞬《まばた》きした。それから周囲を見回し、低い声を出した。「話はしないほうがいいです。刑事がどこで見張ってるかわからない」

「ごめんなさい」靖子は首をすくめた。

 弁当が出来上がるまで、二人は無言だった。目も合わせないようにした。

 靖子は通りに目を向けるが、誰かが見張っている気配はまるでない。もちろん、もし本当に刑事が張り込んでいたとしても、気づかれないように行動しているに違いなかった。

 弁当が出来てきた。彼女はそれを石神に渡した。

「同窓生です」代金を支払いながら彼はぼそりといった。

「えっ?」

「大学の同窓生が訪ねてきたんです。お騒がせしてすみませんでした」石神は極力唇を動かさずに語している。

「いえ、そんな」靖子はつい笑顔を浮かべていた。その口元が外から見えないよう、俯いた。

「そうだったんですか。お客さんなんて珍しいなと思って」

「初めてです。私もびっくりしました」

「よかったですね」

「ええ、まあ」石神は弁当の袋を掟げた。「じゃ、また今夜」

 電話をかけるということらしい。はい、と靖子は答えた。

 石神の丸い背中が通りに出ていくのを見送りながら、世捨て人の雰囲気のある彼にも訪ねてくる友人がいるのだなと意外に思った。

 朝のピーク時が過ぎると、いつものように奥で小代子たちと休憩を取ることにした。小代子は甘いものが好きだ。大福を彼女は出してくれた。辛党の米沢は関心がなさそうな顔をして茶を啜っている。バイトの金子は配達中だ。

「昨日は、あれからもう何もいってこなかった?」茶を一口飲んでから小代子が訊いた。

「誰が?」

「連中よ。刑事の奴ら」小代子は顔をしかめた。「結構しっこく旦那のことを訊いてきたからさ、夜になって、またあんたのところに行ったんじゃないかって話してたの。ねえ」彼女は米沢に同意を求めた。無口な米沢は小さく頷いただけだ。

「ああ、あの後は何もないけど」

 実際には美里が学校のそばで質問を受けたのだが、そのことはいう必要がないだろうと靖子は判断した。

「それならよかった。刑事っていうのは、しつこいっていうからさあ」

「一応話を聞きにきただけだろ」米沢がいった。「靖子ちゃんを疑ってるわけじゃない。連中にも、いろいろと手続きってものがあるんだよ」

「まあ、刑事といったって役人だもんね。だけどこういっちゃ何だけど、富樫さん、うちに来てなくてよかったよね。殺される前にうちに来てたらさ、それこそ靖子が疑われるところだったんじゃない?」

「まさか、そんな馬鹿なことあるわけないだろ」米沢が苦笑を浮かべた。

「わかんないわよ。だってさ、富樫さんが『まりあん』で靖子のことを訊いてたから、ここに来ないはずはないなんていってたじゃない。あれは疑ってる顔だね」

『まりあん』というのは、靖子や小代子が働いていた錦糸町の店だ。

「そんなこといったって、来てないんだからしょうがないだろ」

「だから、来なくてよかったといってんのよ。富樫さんが一度でも来ててごらんなさいよ、あの刑事はしつこく靖子につきまとったわよ、きっと」

 そうかなあ、と米沢は首を捻っている。その顔に、この問題を重視している気配はない。

 もし、実際には富樫が来たと二人が知ったら一体どんな顔をするだろう、と靖子はいたたまれない気持ちになった。

「まあ気分はよくないけどさ、少しの辛抱だよ、靖子」小代子が気楽な調子でいう。「別れた亭主が変な死に方をしたんだから、刑事だって来るよ。どうせそのうちに何もいってこなくなるわけだし、そうなったら今度は本当に気楽になれるじゃない。あんた、富樫さんのことを気に病んでたからさ」

 それはまあね、と靖子は無理に笑顔を作った。

「あたしはさ、正直いって、富樫さんが殺されてよかったと思ってるんだよね」

「おい」

「いいじゃないの。本音をいってるだけでしょ。あんたはね、靖子があの男のためにどれだけ苦労させられたか知らないのよ」

「おまえだって知らないだろう」

「直接は知らないけど、靖子からいろいろと話は聞かされてるわよ。その男から逃げるために『まりあん』で働きだしたんだから。そんなのがまた靖子のことを探してたなんて、ほんと考えただけでぞっとする。どこの誰か知らないけど、殺してくれてありがとうって気分ね」

 米沢は呆れたような顔をして立ち上がった。その後ろ姿を不快そうに見送った後、小代子は靖子のほうに顔を寄せてきた。

「でも、一体何があったんだろうね。借金取りにでも追われてたのかな」

「さあ」靖子は首を傾げた。

「まあ、あんたに飛び火しなけりやいいんだけどね。それだけが心配」早口でいった後、小代子は大福の残りを口に入れた。

 店頭に戻った後も、靖子の気持ちは重かった。米沢夫妻は何ひとつ疑っていない。むしろ事件によって靖子が被《こうむ》る様々な弊害について心配してくれている。そんな二人を欺《あざむ》いていると思うと心が痛んだ。しかし、もし靖子が逮捕されるようなことになれば、二人にかける迷惑は尋常なものではない。『べんてん亭』の経営にも支障が出るだろう。そう考えると、完璧に隠す以外に残された道はないと思った。

 そんなことを考えながら彼女は仕事を続けた。ついぼんやりしそうになるが、今ここで商売に身が入らないのではお話にならないと思い、客の応対をする時には気持ちを集中させた。

 六時が近くなり、客足が途絶えてしばらくした頃、店のドアが開いた。

「いらっしゃいませ」反射的に声を出し、客の顔を見た。同時に靖子は目を丸くしていた。「あら……」

「よう」男は笑った。目の両端に皺が寄っている。

「工藤さん」靖子は開いた口元に手をやっていた。「どうしたの?」

「どうしたってことはないだろ。弁当を買いにきたんだよ。へえ、ずいぶんとメニューが豊富じゃないか」工藤は弁当の写真を見上げた。

「『まりあん』で聞いてきたの?」

「まあな」彼はにやりとした。「昨日、久しぶりに店に行ったんだ」

 靖子は弁当の受け取りカウンターから奥に呼びかけた。「小代子さん、大変。ちょっと来て」

「どうしたの?」小代子が驚いたように目を見張った。

 靖子は笑いながらいった。「工藤さんよ。工藤さんが来てくれた」

「えっ、工藤さんって……」小代子がエプロンを外しながら出てきた。笑顔で立っているコート姿の男を見上げ、大きく口を開いた。「わあ、工藤ちゃん」

「二人とも元気そうだな。ママは旦那さんとうまくやってるのか。この店を見れば、順調だってことはわかるけど」

「何とかやってますよ。でも、どうして突然来てくれたの?」

「うん、まあ、二人の顔を見たくなってさ」工藤は鼻を掻きながら靖子を見た。照れた時に彼が見せるその癖は、数年前から変わっていなかった。

 靖子が赤坂で働いていた頃からの馴染み客だった。いつも指名してくれるし、彼女が出勤する前に一緒に食事をしたこともある。店が終わった後、二人で飲みに行くこともしばしばだった。富樫から逃げるように錦糸町の『まりあん』に移った時、靖子は工藤にだけはそのことを知らせた。すると彼はすぐに常連になった。『まりあん』を辞める時も、彼には一番最初に告げた。彼は少し寂しそうな顔をしながら、「がんばって幸せになれよ」といってくれたのだった。

 それ以来の再会だった。

 奥から米沢も出てきて昔話で盛り上がった。『まりあん』の常連客として、米沢と工藤も面識があったからだ。

 ひとしきり話した後、「二人でお茶でも飲んでくれば」と小代子がいった。気をきかせたのだろう。米沢も頷いている。

 靖子が工藤を見ると、「時間はあるの?」と彼は訊いてきた。最初からそのつもりでこんな時間を選んだのかもしれない。

 じゃあ少しだけ、と彼女は笑顔で答えた。

 店を出て、新大橋通りに向かって歩きだした。

「本当はゆっくり食事をしたいんだけど、今日はやめておこう。娘さんが待ってるだろうから」工藤はいった。彼は靖子に娘がいることを、彼女が赤坂にいる頃から知っている。

「工藤さん、お子さんは元気?」

「元気だよ。今年はもう高校三年だ。受験のことを考えると頭が痛い」彼は顔をしかめた。

 工藤は小さな印刷会社を経営している。家は大崎で、妻と息子との三人暮らしだと靖子は聞いていた。

 新大橋通り沿いにある小さな喫茶店に入った。交差点のそばにファミリーレストランがあったのだが、靖子は意図的にそこを避けた。富樫と会った場所だからだ。

「『まりあん』に行ったのはさ、君のことを尋ねるためだったんだ。店を辞める時に、小代子ママの弁当屋で働くって話は聞いてたけど、場所とかは知らなかったから」

「急にあたしのことを思い出してくれたの?」

「うん、まあ、そうなんだけどさ」工藤は煙草に火をつけた。「じつは、ニュースで事件のことを知って、それでちょっと気になったんだよ。元の御主人、大変なことだったね」

「ああ……よくわかったわね。あの人だって」

 工藤は煙を吐きながら苦笑いした。

「そりゃわかるよ。富樫って名前だし、あの顔は忘れられないし」

「……ごめんなさい」

「君が謝ることはない」工藤は笑いながら手を振った。

 彼が靖子に気があることは、無論彼女もわかっていた。彼女も好意を持っていた。しかし、いわゆる男女の関係になったことは一度もなかった。何度かホテルに誘われたことはある。そのたびに彼女はやんわりと断った。妻子ある男性との不倫に踏み切る勇気はなかったし、その時点では工藤に隠していたが、彼女にも夫がいた。

 工藤が富樫と会ってしまったのは、靖子を家まで送った時だ。彼女はいつも少し離れたところでタクシーを降りるし、その時もそうしたのだが、タクシーの中に煙草入れを落としてしまった。工藤はそれを届けようと後を追い、彼女がアパートの一室に消えるのを目撃した。彼はそのまま部屋を訪ねた。ところがドアを開けて出てきたのは、靖子ではなく知らない男――富樫だった。

 その時富樫は酔っていた。突然訪ねてきた工藤を、靖子にしつこくいい寄っている客だと断定した。工藤が何の説明もせぬうちに怒りだし、殴りかかった。シャワーを浴びようとしていた靖子が止めなければ、包丁を手にしかねない剣幕だった。

 後日、靖子は富樫を連れて、工藤のところへ謝りに行った。その時には富樫も殊勝な顔でおとなしくしていた。警察へ届けられたらまずいと思ったからだろう。

 工藤は怒らなかった。奥さんにいつまでも水商売を続けさせるのはよくないと富樫に注意しただけだった。富樫は明らかに不快そうだったが、黙って頷いていた。

 その後も工藤は、それまでと変わらず店に来てくれた。靖子に対する態度も同じだった。ただし店外で会うことはなくなった。

 周りに人がいない時などごくたまに、富樫のことを尋ねてきた。大抵は、仕事は見つかったのか、という問いだった。彼女はいつもかぶりを振るしかなかった。

 富樫の暴力に最初に気づいたのも工藤だった。顔や身体に出来た痣《あざ》を彼女は化粧などで巧妙に隠していたが、彼の目だけはごまかせなかったのだ。

 弁葎士に相談したほうがいい、費用は自分がもつ――工藤はそういってくれたのだった。

「それで、どうなの。君の周りに何か変わったことはないのかい」

「変わったことって……それはまあ、警察の人が来たりとかはするけど」

「やっぱりそうか。そんなことじゃないかと思った」工藤は舌打ちをしそうな顔をした。

「別に、心配するようなことはないから」靖子は笑いかけた。

「何かいってくるのは警察だけ? マスコミの連中とかは?」

「それは何も」

「そうか。それならよかった。まあ、マスコミが飛びつくような派手な事件ではないと思ったんだけど、万一嫌な目に遭っているようなら何か手助けしたいと思ってね」

「ありがとう。相変わらず優しいのね」

 彼女の言葉に工藤は照れたようだ。俯いてコーヒーカップに手を伸ばした。

「じゃあ、靖子ちゃんは事件とは特に関係ないんだね」

「ないわよ。あると思ってたの?」

「ニュースを見た時、まず君のことを思い出した。それで、急に不安になったんだ。何しろ殺人事件だからね。あの人がどんな理由で誰に殺されたのかは知らないけど、今度は君にとばっちりがくるんじゃないかってね」

「小代子さんも同じことをいってた。誰でも考えることは同じなのね」

「こうして靖子ちゃんの元気そうな顔を見ていると、やっぱり考えすぎだったんだなと思うけどね。君はあの人とは何年も前に離婚しているわけだし。最近はもう会うことはなかったんだろ?」

「あの人と?」

「そう。富樫さんと」

「ないわよ」そう答えた時、微妙に顔が強張るのを靖子は感じた。

 その後、工藤は自分の近況について語りだした。不景気だが、会社は何とか業績を維持しているらしい。家庭については、一人息子のこと以外は話したがらない。それは昔からのことだった。だから彼と妻との仲については靖子には全くわからないのだが、おそらく不仲ということはないだろうと想像していた。外で他人に配慮できる男は概《おおむ》ね家庭が円満だというのは、靖子がホステス時代に悟ったことだ。

 喫茶店のドアを開けると、外は雨になっていた。

「悪いことしちゃったな。さっさと帰れば雨に遭わずにすんだね」工藤は申し訳なさそうに靖子を振り返った。

「そんなこといわないで」

「ここからは遠いの?」

「自転車で十分ぐらいかな」

「自転車? そうだったのか」工藤は唇を噛み、雨を見上げた。

「平気。折り畳み式の傘を持ってるし、自転車は店に置いておくから。明日の朝、少し早く出ればいいだけのことだし」

「じゃあ、送っていくよ」

「あ、大丈夫よ」

 しかし工藤はすでに歩道に出ていて、タクシーに向かって手を挙げていた。

「今度はゆっくり食事をしないか」タクシーが走りだして間もなく、工藤がいった。「何ならお嬢さんが一緒でもかまわない」

「あの子のことは気にしなくていいけど、工藤さんは大丈夫なの?」

「僕はいつだって大丈夫だよ。今はそんなに忙しくないんだ」

「そう」

 靖子は彼の妻のことをいったのだが、問い直すのはやめておいた。彼もそれをわかっていて、勘違いしたふりを装っていると感じたからだ。

 携帯電話の番号を訊かれたので、靖子は教えた。拒否する理由がなかった。

 工藤はタクシーをアパートのすぐそばまで寄せてくれた。靖子のほうが奥に乗っていたので、彼も一旦車を降りた。

「濡れるから、早く乗って」外に出ると、彼女はいった。

「じゃ、また今度」

「うん」靖子は小さく頷いた。

 タクシーに乗り込んだ工藤の目が、彼女の背後に向けられた。それにつられて振り向くと、隅段の下で一人の男が傘をさして立っていた。暗くて顔がよくわからないが、その体型から石神だと彼女は察した。

 石神はゆっくりと歩いていく。工藤が目を向けたのは、石神がじっと二人のことを見ていたからではないかと靖子は想像した。

「電話するよ」そういい残し、工藤はタクシーを出した。

 遠ざかるテールランプを靖子は見送った。久しぶりに気持ちが高ぶっているのを彼女は自覚した。男性と一緒にいて心が浮き立ったことなど何年ぶりだろうと思った。

 タクシーが石神を追い越していくのが見えた。

 部屋に帰ると美里がテレビを見ていた。

「今日、何かあった?」靖子は尋ねた。

 学校のことなどでは無論ない。それは美里もわかっているはずだった。

「何もなかった。ミカも何もいってなかったから、まだ刑事が来てないんだと思う」

「そう」

 間もなく彼女の携帯電話が鳴りだした。公衆電話からのものであることを液晶画面が示していた。

「はい、あたしです」

「石神です」予想通りの低い声が聞こえてきた。「今日は何かありましたか」

「特に何もありませんでした。美里のほうも、何もなかったといっています」

「そうですか。でも油断しないでください。警察があなたに対する疑念を捨てたはずはないのです。おそらく今は、徹底的に周辺を調べているところだと思います」

「わかりました」

「そのほかに変わったことは?」

「えっ……」靖子は戸惑った。「だから、変わったことは特に何もなかったんですけど」

「あ……そうでしたね。どうもすみません。では、また明日」石神は電話を切った。

 靖子は怪訝に感じながら携帯電話を置いた。石神が珍しく狼狽を示したように思えたからだった。

 工藤を見たからではないか、と靖子は思った。親しげに彼女と話していた彼を、石神は一体何者なのかと訝ったのではないか。彼のことを知りたいという思いが、最後の奇妙な質問になったのではないか。

 靖子は、石神がなぜ彼女たち母娘を助けてくれるのかわかっている。おそらく小代子たちがいうように、彼は靖子に気があるのだろう。

 しかしもし彼女がほかの男性と親しくしたらどうだろう。それでも今までどおり、力を貸してくれるだろうか。彼女たちのために知恵を働かせてくれるだろうか。

 工藤とは会わないほうがいいかもしれないと靖子は思った。たとえ会ったとしても、石神に気づかれてはならない。

 だがそう思った後、不意にいいようのない焦燥感のようなものが彼女の胸に広がった。

 それはいつまでのことなのだ。いつまで、石神の目を盗まねばならないのか。それとも事件が時効にならないかぎり、永久に自分は他の男性と結ばれることはないのか――。

  8

 きゅっきゅっとシューズの底が滑る音がした。それとほぼ同時に、小さな破裂音のようなものも聞こえる。草薙にとって懐かしい音だった。

 体育館の入り口に立ち、中を覗いた。手前のコートで湯川がラケットを構えていた。太股の肉は、若い頃に比べてさすがに少し衰えたようだ。しかしフォームは変わらない。

 相手のプレーヤーは学生のようだ。なかなかの腕前で、湯川のいやらしい攻撃にも振り回されない。

 学生のスマッシュが決まった。湯川はその場に座り込んだ。苦笑して、何かいっている。

 その目が草薙を捉えた。学生に一声かけた後、湯川はラケットを手に近づいてきた。

「今日は何の用だ」

 湯川の問いに、草薙は小さくのけぞった。

「その言いぐさはないだろう。そっちが電話をかけてきたみたいだから、何の用かと思って、やってきたんじゃないか」

 草薙の携帯電話に、湯川からの着信記録が残っていたのだ。

「なんだ、そうか。大した用じゃないから、メッセージは残さなかったんだ。ケータイの電源を切ってるぐらいだから、余程忙しいんだろうと気をきかせてね」

「その時間は映画を見てたんだ」

「映画? 勤務中にかい。いい御身分だな」

「そうじゃなくて、例のアリバイ確認のためだ。一応、どんな映画か見ておこうと思ってね。でなきゃ、容疑者のいってることの信憑《しんぴょう》性を確かめられないだろ」

「いずれにしても役得だな」

「仕事で見るんじゃ、楽しくも何ともないんだよ。大した用じゃないなら、わざわざ来るんじゃなかったな。研究室に電話をかけたんだけど、おまえは体育館にいるっていうしさ」

「まあせっかくだから、一緒に飯でも食おう。それに用があるのは事実だし」湯川は入り口で脱ぎ捨ててあった靴に履き替えた。

「一体何の用だ」

「その件だよ」歩き始めながら湯川はいった。

「その件って?」

 湯川は立ち止まり、草薙のほうにラケットを突き出した。「映画館の件だ」

 大学のそばにある居酒屋に入った。草薙が学生時代にはなかった店だ。二人は一番奥のテーブルについた。

「容疑者たちが映画に行ったといっているのが、事件発生の今月十日だ。で、容疑者の娘が十二日にそのことを同級生に話している」湯川のコップにビールを注ぎながら草薙はいった。「ついさっき、その確認をしてきた。俺が映画を見たのは、その下準備だ」

「言い訳はわかったよ。それで同級生から話を聞いた結果はどうだった」

「何ともいえないな。その子によると不自然なところはなかったらしい」

 上野実香というのが、その同級生の名前だ。彼女はたしかに十二日に、花岡美里から母親と映画に行った話を聞かされたという。その映画は実香も見たので、二人で大いに盛り上がったとのことだった。

「事件の二日後というのが引っかかるな」湯川がいった。

「そうなんだ。映画を見た者同士で盛り上がりたいなら、翌日すぐに話をするのがふつうだろ。それで俺はこう考えてみた。映画を見たのは十一日じゃないか、とね」

「その可能性はあるのか」

「ない、ともいいきれない。容疑者は仕事が六時までだし、娘もバドミントンの練習を終えてすぐに帰れば、七時からの上映に間に合う。実際、そういうふうにして十日は映画館に行ったと主張しているわけだし」

「バドミントン? 娘はバドミントン部か」

「最初に訪ねていった時、ラケットが置いてあったんで、すぐにわかったんだ。そう、そのバドミントンというのも気になっている。おまえももちろん知ってるだろうけど、あれはかなり激しいスポーツだ。中学生とはいえ、クラブの練習をすればくたくたに疲れる」

「君のように要領よくさぼれば話は別だがね」おでんのコンニャクに辛子を塗りながら湯川はいった。

「話の腰を折るなよ。要するに俺がいいたいのは」

「クラブの練習でくたくたになった女子中学生が、その後で映画館に行くのはともかく、夜遅くまでカラオケボックスで歌っていたというのは不自然だ――そういいたいわけだろ」

 草薙は驚いて友人の顔を見た。まさにそのとおりだった。

「でも一概に不自然とはいえないぜ。体力のある女の子だっているわけだし」

「それはまあそうだけど、痩せてて、見るからに体力がなさそうなんだよな」

「その日は練習がきつくなかったのかもしれない。それに、十日の夜にカラオケボックスに行ってたことは確認できてるんだろ」

「まあな」

「カラオケボックスに入った時刻は?」

「九時四十分」

「弁当屋の仕事は六時までだといったな。現場は篠崎だから、往復の時間を引いて、犯行に使えるる時間は二時間ほどか。まあ、不可能ではないか」湯川は割り箸を持ったまま腕組みした。

 その様子を見ながら、容疑者の仕事が弁当屋だという話をしたかなと草薙は思った。

「なあ、どうして急に今度の事件に興味を持ったんだ。おまえから、捜査の進捗《しんちょく》状況を教えてくれというなんて珍しいじゃないか」

「興味というほどのことはない。何となく気になっただけさ。鉄壁のアリバイとかっていう話は嫌いじゃない」

「鉄壁というか、確認しにくいアリバイだから弱ってるんだ」

「その容疑者は、君たちがいうところのシロじゃないのか」

目录
设置
设置
阅读主题
字体风格
雅黑 宋体 楷书 卡通
字体大小
适中 偏大 超大
保存设置
恢复默认
手机
手机阅读
扫码获取链接,使用浏览器打开
书架同步,随时随地,手机阅读
首 页 < 上一章 章节列表 下一章 > 尾 页