「そりゃそうかもしれんが、今のところほかに怪しい人間が浮かんでこないんだよな。それに、事件の夜にたまたま映画やカラオケに行ってたなんて、都合がよすぎると思わんか」
「君の気持ちはわかるけど、理性的な判断も必要だぜ。アリバイ以外の部分に目を向けたほうかいいんじゃないか」
「いわれなくても、地道なこともやってるよ」草薙は椅子にかけたコートのポケットから、一枚のコピー用紙を取り出し、テーブルの上で広げた。そこには男の絵が描いてある。
「何だい、これ」
「被害者が生きていた時の格好をイラストにしてみたんだよ。これを持って、何人かの刑事が篠崎駅の周辺を聞き込みしてる」
「そういえば、衣類は燃え残ってたという話だったな。紺のジャンパーにグレーのセーター、黒っぼい色のズボンか。どこにでもいそうだな」
「だろ? こんな男を見たような気がするっていう話は、うんざりするほどあるらしい。聞き込みの連中は参ってるよ」
「すると、役に立ちそうな情報は今のところなしか」
「まあね。一つだけ、駅のそばでこれと同じ格好の怪しい男を見た、という情報はあるんだけどな。何をするでもなくぶらぶらしていたのをOLが目撃している。このイラストは駅に張ってあるから、それを見て通報してくれたんだ」
「協力的な人もいるものだな。そのOLからもう少し詳しく話を訊いたらどうだ」
「いわれなくてもそうしたさ。ところが、どうも被害者とは別人らしい」
「どうしてわかった」
「駅は駅でも篠崎じゃなくて、その一つ手前の瑞江《みずえ》駅で見たんだとさ。それに、顔も違うようだ。被害者の写真を見せたところ、もっと丸顔だったような気がするとかいってた」
「ふうん、丸顔か……」
「ま、俺たちの仕事はそういう空振りの繰り返しなんだけどさ。おまえたちみたいに、理屈が通れば認められるっていう世界とはわけが違うんだ」崩れたジャガイモを箸ですくいながら草薙はいった。だが湯川の反応は何もない。顔を上げると、彼は両手を軽く握り、宙を睨んでいた。
草薙がよく知る、この物理学者が思索にふけった時の表情だった。
湯川の目の焦点が徐々に合ってきた。その視線が草薙に向いた。
「死体は顔を潰されていたそうだな」
「そうだ。ついでに指紋も焼かれていた。身元をわからなくしたかったからだろう」
「顔を潰すのに使った道具は?」
草薙は周囲に聞き耳をたてている人間がいないことを確認してから、テーブルの上に身を乗り出した。
「発見はされてないが、おそらく犯人がハンマーか何かを用意していたんだろう。道具を使って、顔面を何度か叩いて骨を崩したんだろうとみられている。歯も顎もぐちゃぐちゃに崩れてるから、歯科医のカルテとの照合も不可能だ」
「ハンマーねえ……」湯川はおでんの大根を箸で割りながら呟いた。
「それがどうかしたのか」草薙は訊いた。
湯川は箸を置き、テーブルに両肘を載せた。
「その弁当屋の女性が犯人だとしたら、その日はどういう行動をとったと君は考えているんだ。映画館に行ったというのは嘘だと思っているんだろ」
「嘘だと決めつけてるわけじゃない」
「まあいいから、君の推理を聞かせてくれよ」そういって湯川は手招きし、もう一方の手でコップを傾けた。
草薙は顔をしかめ、唇を舐めた。
「推理というほどのものじゃないけど、俺はこう考えている。弁当屋の……面倒臭いからA子ってことにしておこう。A子が仕事を終えて店を出たのが六時過ぎだ。そこから浜町駅まで歩いて約十分。地下鉄に乗って篠崎駅までは約二十分。駅からはバスかタクシーを使い、現場の旧江戸川近くまで行ったとすれば、七時には現場に到着していたはずだ」
「その間の被害者の行動は?」
「被害者もまた現場に向かっていた。おそらくA子と会う約束を交わしていたんだ。ただし被害者は篠崎駅からは自転車を使っている」
「自転車?」
「そう。死体のそばに自転車が放置されていて、ついていた指紋が被害者のものと一致した」
「指紋? 焼かれてたんじゃなかったのか」
草薙は頷いた。
「だから死体の身元が判明してから確認できたことだ。被害者が借りていたレンタルルームから採取された指紋と一致したという意味さ。おっと、おまえのいいたいことはわかるぞ。それだけでは、レンタルルームの借り主が自転車を使ったということは証明できても、死体本人とはかぎらないというんだろ。もしかしたらレンタルルームの借り主が犯人で、そいつが自転車を使ったのかもしれないからな。ところがどっこい、ちゃんと部屋に落ちていた毛髪も確認した。死体と合致したよ。ついでにいうとDNA鑑定も行われている」
草薙の早口に湯川は苦笑を浮かべた。
「今時、警察が身元確認でミスをするとは思っちゃいないよ。それより、自転車を使ったというのは興味深いな。被害者は篠崎駅に自転車を置いていたのか」
「いや、それがさ――」
草薙は盗難自転車にまつわるエピソードを湯川に話した。
湯川は金縁眼鏡の奥の目を見開いた。
「すると被害者は現場に行くのに、わざわざ駅で自転車を盗んだというのか。バスやタクシーを使わずに」
「そういうことになる。調べたところでは、被害者は失業中で、ろくに金を持ってなかった。バス代も惜しかったんだろうな」
湯川は釈然としない顔つきで腕を組み、鼻から大きく息を吐いた。
「まあいい。とにかく、そのようにしてA子と被害者は現場で会ったわけだな。後を続けてくれ」
「待ち合わせをしていたとしても、A子はどこかに隠れていたと思う。被害者が現れるのを見て密かに背後から近づく。手にした紐を被害者の首にかけ、思いきり絞めた」
「ストップ」湯川が片手を広げて出した。「被害者の身長は?」
「百七十センチ少々」草薙は舌打ちしたい気持ちを抑えて答えた。湯川が何をいいたいのかはわかっていた。
「A子は?」
「百六十ってところかな」
「十センチ以上の差か」湯川は頬杖をつき、にやりと笑った。「僕のいいたいことはわかっているよな」
「たしかに自分よりも背の高い人間を絞殺するのは難しい。首についた痕の角度からも、上方に引っ張り上げられるように絞められたことは明白だ。だけど、被害者が座っていたことも考えられる。自転車に跨った状態だったのかもしれない」
「なるほどね、屁理屈はつけられるわけか」
「屁理屈じゃないだろ」草薙は拳《こぶし》でテーブルを叩いた。
「それから? 服を脱がし、持参してきたハンマーで顔を潰し、ライターで指紋を焼く。服を燃やし、現場から逃走する。そういうことかい」
「錦糸町に九時に着くことは不可能じゃないだろ」
「時間的にはね。だけど、その推理にはずいぶんと無理がある。まさか捜査本部の人間全員が、君のその考えに同調しているんじゃないだろうな」
草薙は口を歪め、ピールを飲み干した。通りかかった店員におかわりを注文してから湯川のほうに顔を戻した。
「女には無理じゃないかっていう意見が多いよ」
「だろうな。いくら不意を襲ったところで、男に抵抗されたら絞殺なんてできっこない。そして男は絶対に抵抗する。その後の死体処理にしても女性には難しい。残念だが、僕も草薙刑事の意見には賛成しかねるな」
「まあ、おまえならそういうだろうと思ったよ。俺だって、この推理が当たりだと信じているわけじゃない。いろいろとある可能性のひとつだと思っているだけで」
「ほかにもアイデアがありそうな口ぶりだな。せっかくだから、けちけちしないで、別の仮説を開陳したらどうだ」
「もったいぶってるわけじゃない。今のは、死体の見つかった場所が犯行現場だと考えた場合の話だ。別の場所で殺して、あの現場に捨てたということも考えられる。捜査本部では、そっちの説をとる人間のほうが今のところは多い。A子が犯人かどうかはともかくとしてな」
「ふつうならそっちをとるだろうな。ところが草薙刑事はその説を第一には推さない。そのわけは?」
「簡単なことだ。A子が犯人ならそれはない。彼女は車を持ってないからな。それ以前に運転ができない。これでは死体を運ぶ方法がない」
「なるほど。それは無視できない点だな」
「それから現場に残された自転車のことがある。そこが犯行現場だと思わせるための偽装工作という考え方もできるが、指紋をつけておいた意味がない。死体の指紋のほうは焼いているわけだからな」
「たしかにその自転車は謎だな。あらゆる意味で」湯川はピアノを弾くようにテーブルの縁で五本の指を動かした。その動きを止めてからいった。「いずれにしても男の犯行、と考えたほうがいいんじゃないかな」
「それが捜査本部の主流意見だよ。だけど、A子と切り離して考えているわけじゃない」
「A子に男の共犯者がいるというわけか」
「今、彼女の周辺を洗っているところだ。元々はホステスだからな、男関係が全くないなんてことはないはずだ」
「全国のホステスが聞いたら怒りそうな発言だな」湯川はにやにやしてビールを飲んでから真顔に戻った。「さっきのイラストを見せてくれないか」
「これか」草薙は被害者の服装のイラストを差し出した。
湯川はそれを見ながら呟いた。
「犯人は何のために死体の服を脱がせたんだろう」
「そりゃあ身元をわからなくするためだろう。顔や指紋を潰したのと同じだ」
「それなら脱がした服を持ち去ればいいじゃないか。燃やそうとなんかしたから、中途半端に燃え残って、結局こういうイラストを作られてしまった」
「あわててたんだろ」
「そもそも、財布や免許証の類ならともかく、服や靴で身元が判明するだろうか。死体の服を脱がすなんていうのはリスクが大きすぎる。犯人としては一刻も早く逃げたいはずなのにさ」
「一体何がいいたいんだ。服を脱がした理由がほかにあるというのか」
「断言はできない。だけどもしあるとすれば、それがわからないかぎり、おそらく君たちは犯人を突き止められないだろうな」そういって湯川はイラストの上に、指で大きくクエスチョンマークを書いた。
期末試験における二年三組の数学の成績は惨憺《さんたん》たるものだった。三組にかぎらず、二年生全体の出来が悪い。年々、生徒たちは頭の使い方が下手になっている、と石神は感じていた。
答案用紙を返した後、石神は追試験の予定を発表した。この学校では、すべての科目について最低ラインが決められていて、それをクリアしないことには生徒は進級できない仕組みになっている。もちろん実際には追試験が何度も行われるから、落第生が出るのは極めて稀だ。
追試験と聞いて不満の声が上がった。いつものことだから石神は無視していたが、彼に向かって言葉を発した者がいた。
「先生さあ、受験に数学のない大学だってあるんだし、そういうところを受ける者は、もう数学の成績なんてどうだっていいんじゃないの?」
声のほうを石神は見た。森岡という生徒が首の後ろを掻きながら、なあ、と周りの者に同意を求めていた。小柄だが、クラスのボス的な存在であることは、担任ではない石神も承知していた。通学にこっそりバイクを使い、何度も注意を受けている。
「森岡はそういう大学を受けるのか」石神は訊いた。
「受けるとしたらそういう大学だよ。まあ、今のところ大学に行く気はねえし、どっちにしても三年になったら数学なんて選択しないからさ、もういいじゃんよ、数学の成績なんてどうでも。先生だって大変だろ、俺たちみたいな馬鹿に付き合うのはさあ。だからここはお互いに、何ていうか、大人の対応をしようぜ」
大人の対応といったのがおかしかったらしく、皆が笑った。石神も苦笑した。
「俺が大変だと思ってくれるんなら、今度の追試で合格してくれ。範囲は微分積分だけだ。どうってことない」
森岡は大きく舌打ちした。横にはみ出させた脚を組んだ。
「微分積分なんて一体何の役に立つんだよ。時間の無駄だろうが」
期末試験の問題に関する解説を始めようと黒板に向かいかけていた石神だったが、森岡の台詞に振り返った。聞き逃せない発言だった。
「森岡はバイクが好きだそうだな。オートレースを見たことあるか」
唐突な質問に、森岡は戸惑った顔で頷いた。
「レーサーたちは一定速度でバイクを走らせるわけじゃない。地形や風向きに応じてだけでなく、戦略的な事情から、たえず速度を変えている。どこで我慢し、どこでどう加速するか、一瞬の判断が勝負を分ける。わかるか」
「わかるけど、それが数学と何の関係があるわけ?」
「この、加速する度合いというのが、その時点での速度の微分だ。さらにいえば、走行距離というのは、刻々と変化する速度を積分したものだ。レースの場合は当然、どのバイクも同じ距離を走るわけだから、勝つには速度の微分をどうするか、というのが重要な要素になってくる。どうだ、これでも微分積分は何の役にも立たないか」
石神の話した内容が理解できないのか、森岡は困惑した表情を浮かべた。
「だけどさ、レーサーはそんなこと考えてないぜ。微分とか積分とかなんて。経験と勘で勝負してるんだと思うな」
「もちろん彼等はそうだろう。だけどレーサーをバックアップしているスタッフはそうじゃない。どこでどう加速すれば勝てるか、綿密にシミュレーションを繰り返し、戦略を練り上げる。その時に微分積分を使う。本人たちに使っている意識はないかもしれないが、それを応用したコンピュータソフトを使っているのは事実だ」
「だったら、そのソフトを作る人間だけが数学を勉強すりゃいいじゃねえか」
「そうかもしれないが、森岡がそういう人間にならないともかぎらないだろ」
森岡は大きくのけぞった。
「俺がそんなもんになるわけないよ」
「森岡じゃなくても、ここにいるほかの誰かがなるかもしれない。その誰かのために数学という授業はある。いっておくが、俺が君たちに教えているのは、数学という世界のほんの入り口にすぎない。それがどこにあるかわからないんじゃ、中に入ることもできないからな。もちろん、嫌な者は中に入らなくていい。俺が試験をするのは、入り口の場所ぐらいはわかったかどうかを確認したいからだ」
途中から石神は、クラス全員を見渡していた。数学は何のために勉強するのか――毎年、誰かがその質問を発する。そのたびに彼は同じようなことを話してきた。今回は相手がバイク好きだと知っていたからレースを例に出した。昨年は、ミュージシャン志望の生徒に音響工学で使われる数学について話した。その程度のことは石神にとって何でもなかった。
授業を終えて職員室に戻ると、机の上にメモが載っていた。携帯電話の番号が記してあり、『湯川という方からTELあり』と雑な字で書いてある。同僚の数学教師の筆跡だ。
あの湯川が何の用だろう――根拠のない胸騒ぎがした。
携帯電話を手に、廊下へ出た。メモの番号にかけてみると、一回の呼出音で繋がった。
「忙しいところ、申し訳ない」いきなり湯川がいった。
「何か急用でも?」
「うん、急用といえば急用かな。今日、これから会えないか」
「これからか……まだ少しやらなきゃならないことがある。五時以降なら会えないこともないが」先程の授業が六時限目で、すでに各教室ではホームルームが行われている。石神は担任クラスを持っていないし、柔道場の鍵の管理は、ほかの教師に任せることが可能だ。
「じゃあ、五時に正門の前で待っているよ。それでどうだい」
「構わないけど……今、どこにいるんだ」
「君の学校のそばだ。じゃあ、後で」
「わかった」
電話を切った後も、石神は携帯電話を握りしめていた。わざわざ訪ねてくるほどの急用とは一体何なのか。
試験の採点などをして帰り支度を済ませると、ちょうど五時になっていた。石神は職員室を出て、グラウンドを横切るように正門に向かった。
正門の前にある横断歩道の脇に、黒いコートを羽織った湯川の姿があった。石神を見て、にこやかに手を振ってきた。
「わざわざ済まなかったな」湯川が笑顔で声をかけてきた。
「何なんだ、突然こんなところまでやってきたりして」石神も表情を和ませて訊いた。
「まあ、歩きながら話そう」
湯川が清洲橋通り沿いに歩きだした。
「いや、こっちだ」石神は脇道を指した。「この道を真っ直ぐ行ったほうが、俺のアパートには近い」
「あそこに行きたいんだよ。例の弁当屋に」湯川はさらりといった。
「弁当屋……どうして?」石神は顔が強張るのを感じた。
「どうしてって、そりゃあ弁当を買うためだよ。決まってるじゃないか。今日、ほかにも寄るところがあって、ゆっくり食事をしている暇はなさそうだから、今のうちに晩飯を確保しておこうと思ってね。おいしいんだろ、そこの弁当は。何しろ、君が毎朝買ってるぐらいなんだから」
「ああ……そうか。わかった、じゃあ、行こう」石神もそちらに足を向けた。
清洲橋に向かって、二人並んで歩きだした。脇を大きなトラックが走り抜けていく。
「先日、草薙に会ってね。ほら、前も話した、君のところに行ったという刑事だよ」
湯川の言葉に石神は緊張した。嫌な予感が一層大きくなった。
「彼が何か?」
「まあ大したことじゃないんだ。彼は仕事に行き詰まると、すぐに僕のところに愚痴をこぼしに来る。しかも、いつも厄介な問題を抱えてるから始末が悪い。以前なんか、ポルターガイストの謎を解いてくれなんていいだしてね、大いに迷惑したものだ」
湯川はそのポルターガイスト談を話し始めた。たしかに興味深い事件ではあった。しかしそんなものを聞かせたくて、わざわざ石神に会いに来たわけではないはずだった。
石神が、彼の本来の目的を訊こうと思っているうちに、『べんてん亭』の看板が見えてきた。
湯川と二人で店に入っていくことに、石神は不安を覚えた。自分たちを見て、靖子がどんな反応を示すか予想できなかったからだ。こんな時間に石神が現れること自体、異例のことなのに、連れがいるとなれば、何か余計なことを深読みするかもしれない。彼女が不自然な態度をとらねばいいが、と願った。
彼のそんな思いなどお構いなしに、湯川は『べんてん亭』のガラス戸を開け、中に入っていった。仕方なく、石神も後に続いた。靖子は他の客の相手をしているところだった。
「いらっしゃいませ」靖子は湯川に向かって愛想笑いをし、次に石神のほうを見た。その途端、驚きと戸惑いの色が彼女の顔に浮かんだ。笑みが中途半端な形で固まった。
「彼が何か?」彼女の様子に気づいたらしく、湯川が訊いた。
「あ、いえ」靖子はぎこちない笑みのまま、かぶりを振った。「お隣さんなんです。いつも買いに来てくださって……」
「そうらしいですね。彼からこの店のことを聞いて、それで一度食べてみようと思ったんです」
「ありがとうございます」靖子は頭を下げた。
「彼とは大学の同窓生でしてね」湯川は石神のほうを振り返った。「つい先日も、部屋へ遊びに行ったんです」
ああ、と靖子は頷いた。
「彼からお聞きになりましたか」
「ええ、少しだけ」
「そうですか。ところで、お薦めの弁当はどれですか。彼はいつも何を買うんですか」
「石神さんは大抵おまかせ弁当ですけど、今日は売り切れてしまって……」
「それは残念だなあ。じゃあ、どれがいいかな。どれもおいしそうだなあ」
湯川が弁当を選んでいる間、石神はガラス戸越しに外の様子を窺っていた。どこかで刑事が見張っているかもしれないと思ったからだ。靖子と親しげにしているところなど、彼等に決して見られてはならない。
いやそれ以前に、と石神は湯川の横顔に目をやった。この男を信用してもいいのだろうか。警戒する必要はないのか。あの草薙という刑事と親友であるからには、今ここでの様子も、この男を通じて警察に伝わるかもしれないのだ。
その湯川はようやく弁当のメニューが決まったようだ。靖子がそれを奥に伝えている。
その時だった。ガラス戸を開けて、一人の男が入ってきた。何気なくそちらを見た石神は、思わず口元を引き締めた。
ダークブラウンのジャケットに身を包んだ男は、つい先日、アパートの前で見た人物に相違なかった。タクシーで靖子を送ってきた。二人が親しげに話しているのを、石神は傘をさして見つめていた。
男のほうは石神に気づかぬ様子だ。奥から靖子が戻ってくるのを待っている。
やがて靖子が戻ってきた。彼女は新たに入ってきた客を見て、あら、という顔をした。
男は何もいわない。笑顔で小さく頭を下げただけだ。話をするのは邪魔な客がいなくなってから、とでも考えているのかもしれない。
この男は何者だ、と石神は思った。どこから現れ、いつの間に花岡靖子と親しくなったのか。
タクシーから降りてきた時の靖子の表情を、石神は今もはっきりと覚えている。それまでに見たことのない華やいだ顔をしていた。母親でも弁当屋の店員でもない顔だった。あれこそが彼女の本当の姿ではないのか。つまりあの時彼女が見せたのは女の顔だったのだ。
俺には決して見せない顔を、彼女はこの男には見せる。
石神は謎の男と靖子とを、交互に見つめた。二人が挟む空気が揺らいでいるように感じられた。焦りに似た感情が石神の胸に広がっていた。
湯川の注文した弁当が出来上がってきた。彼はそれを受け取って代金を支払うと、「お待たせ」と石神にいった。
『べんてん亭』を出て、清洲橋の脇から隅田川べりに降りた。そのまま川に沿って歩きだす。
「あの男性がどうかしたのかい」湯川が訊いてきた。
「えっ?」
「後から入ってきた男の人だよ。何だか君が気にしている様子だったから」
石神はぎくりとした。同時に、旧友の慧眼《けいがん》に舌を巻いた。
「そうだったかな。いや、全然知らない人だ」石神は懸命に平静を装った。
「そうか。それならいいんだ」湯川は疑った表情を見せなかった。
「ところで急用というのは何なんだ。弁当を買うのだけが目的じゃないだろう」
「そうだった。肝心のことをまだ話してなかった」湯川は顔をしかめた。「さっきも話したように、あの草薙という男は、何かというと僕のところに面倒な相談事を持ち込んでくる。今度も、弁当屋の女性の隣に君が住んでいると知って、早速やってきた。しかも、じつに不愉快なことを頼んできた」
「というと?」
「警察では、依然として彼女を疑っているらしい。ところが、犯行を立証するものは何ひとつ見つけられないでいる。そこで、彼女の生活を何とか逐一監視したいと考えている。でも、見張るといったって限界がある。で、目をつけたのが君のことだ」
「まさか俺にその監視役をやれとでも?」
湯川は頭を掻いた。
「その、まさか、だよ。監視といっても四六時中見張ってるわけじゃない。ただ、隣の部屋の様子に少し気をつけて、何か変わったことがあれば連絡してほしい、ということだ。要するにスパイをしろってことだ。全くもう図々しいというか、失礼なことをいう連中だ」
「湯川は、それを俺に依頼しに来たというわけか」
「もちろん、正式な依頼は警察からくるだろう。その前に打診してくれと頼まれたんだ。僕としては君が断っても構わないと思うし、断ったほうがいいとさえ思っているんだけど、これもまあ浮き世の義理というやつでね」
湯川は心底弱っているように見えた。しかし警察が民間人にそんなことを頼むだろうか、とも石神は思った。
「わざわざ『べんてん亭』に寄ったのも、それと関係があるのか」
「正直いうとそうなんだ。その容疑者の女性というのを、一度この目で見ておきたくてね。だけど、彼女に人を殺せるとは思えないな」
自分もそう思う、といいかけて、石神はその言葉を呑み込んだ。
「さあね、人は見かけによらないからな」逆に、そう答えた。
「たしかにね。それで、どうだい。警察からそういう依頼が来た場合、承諾できるかい」
石神は首を振った。
「正直なところ、断りたいな。他人の生活をスパイするなんて趣味に合わないし、そもそも時間がない。こう見えても忙しいんでね」
「だろうな。じゃあ、僕のほうから草薙にそういっておこう。この話はここまでだ。気を悪くしたなら謝る」
「別にそんなことはないさ」
新大橋が近づいてきた。ホームレスたちの仮住まいも見える。
「事件が起きたのは三月十日、とかいってたな」湯川がいった。「草薙の話では、その日、君はわりと早くに帰宅したそうだね」
「特に寄るところもなかったからな。七時頃には帰った、と刑事さんには答えたんじゃなかったかな」
「その後は例によって、部屋で数学の超難問と格闘かい?」
「まあ、そんなところだ」答えながら石神は、この男は俺のアリバイを確認しているんだろうか、と考えた。もしそうだとしたら、何らかの疑いを石神に対して抱いていることになる。
「そういえば、君の趣味について聞いたことがなかったな。数学以外に何かあるのかい」
石神はふっと笑った。
「趣味らしい趣味はない。数学だけが取り柄だ」
「気分転換はしないのか。ドライブとか」湯川は片手でハンドルを操る格好をした。
「したくともできない。車がないからな」
「でも免許は持っているんだな」
「意外か」
「そんなことはない。忙しくても、教習所に通う時間ぐらいはあるだろうからな」
「大学に残ることを断念した後、大急ぎで取りに行った。就職に役立つかもしれないと思ってね。実際には、何の関係もなかったが」そういった後、石神は湯川の横顔を見た。
「俺が車を運転できるかどうかを確認したかったのか」
湯川は心外そうに瞬きした。「いや。どうして?」
「そんな気がしたからだ」
「別に深い意味はない。君でもドライブぐらいはするのかなと思っただけだ。それに、たまには数学以外の話をしたいと思ってね」
「数学と殺人事件以外の話、だろ」
皮肉のつもりだったが、はははと湯川は笑った。「うん、そのとおりだ」
新大橋の下にさしかかった。白髪頭の男が鍋をコンロに載せ、何かを煮ていた。男の脇には一升瓶が置かれていた。ほかにも何人か、ホームレスが外に出ている。
「じゃぁ、僕はこれで失礼する。不愉快なことを聞かせて申し訳なかった」新大橋の横の階段を上がったところで湯川はいった。
「草薙刑事に謝っておいてくれ。協力できなくてすまないと」
「謝る必要なんてない。それより、また会いに来てもいいかな」
「そりゃあ構わないが……」
「酒を飲みながら、数学の話をしよう」
「数学と殺人事件の話、じゃないのか」
湯川は肩をすくめ、鼻の上に皺を作った。
「そうなるかもな。ところで、数学の新しい問題をひとつ思いついた。暇な時に考えてくれないか」
「どういうのだ」
「人に解けない問題を作るのと、その問題を解くのとでは、どちらが難しいか。ただし、解答は必ず存在する。どうだ、面白いと思わないか」
「興味深い問題だ」石神は湯川の顔を見つめた。「考えておこう」
湯川はひとつ頷き、踵を返した。そのまま通りに向かって歩きだした。
9
手長エビを食べ終えた時、ちょうどワインのボトルが空になった。靖子は自分のグラスに残ったワインを飲み干し、小さな吐息をついた。本格的なイタリアンを食べるのはいつ以来だろうと思った。
「もう少し何か飲むかい」工藤が尋ねてきた。彼の目の下は、かすかに赤くなっていた。
「あたしはもう結構。工藤さん、何か頼めば」
「いや、僕も遠慮しておく。デザートを楽しむことにするよ」彼は目を細め、ナプキンで口元をぬぐった。
ホステスをしていた頃、靖子は工藤と何度か食事をした。フレンチでもイタリアンでも、彼が一本のワインだけで終わることなどなかった。
「お酒、あまり飲まなくなったの?」
彼女の問いに、工藤は何か考える表情をしてから頷いた。
「そうだな、以前よりは少なくなったね。歳のせいかな」
「そのほうがいいかもね。身体は大事にしなきゃ」
「ありがとう」工藤は笑った。
今夜の食事は、昼間に誘われた。靖子の携帯電話に工藤がかけてきたのだ。迷いながらも、彼女は承諾した。迷ったのは、無論、事件のことが気にかかっているからだ。こんな大事な時に、浮かれて食事になど行っている場合ではない、という自制心が働いた。警察の捜査に、靖子以上に怯えているに違いない娘に対し、申し訳ないという気持ちもあった。さらには、事件隠蔽に無条件で協力してくれている石神のことも気になった。
だが、こんな時だからこそ、ふつうに振る舞うことが大切ではないか、と靖子は思った。ホステス時代に世話になった男性から食事を誘われれば、何か特別な理由がないかぎりは、断らないのが「ふつう」ではないかと考えた。もし断ったりしたら、そちらのほうが不自然で、そのことが小代子たちの耳に入れば、かえって怪しまれることになる。
しかしそんな理屈も、じつは無理やりにこじつけたものにすぎないことに、彼女自身が気づいていた。食事の誘いに乗った最大にして唯一の理由は、工藤と会いたかった、ただそれだけだ。
といっても工藤に対して恋愛感情を持っているかどうか、自分でもよくわからなかった。先日再会するまで、殆ど思い出すこともなかったのだ。好意は持っているが、まだその段階にすぎない、というのがおそらく本当のところだろう。
だが食事の誘いを受けた直後から、華やいだ気分になったのは紛れもない事実だった。あの浮き浮きとした気分は、恋人とデートの約束をした時のものに限りなく近かった。体温がほんの少し上昇したような気さえした。浮き立った勢いで、小代子に頼んで仕事を抜けさせてもらい、家へ着替えに帰ったくらいだった。
もしかしたらそれは、現在自分が置かれている息の詰まるような状態から、たとえ一時でも抜け出し、辛いことを忘れたいという欲求があったせいかもしれない。あるいは、長い間封印してきた、女性として扱われたいという本能が目を覚ましたからかもしれない。
いずれにせよ靖子は、食事に来たことを後悔していなかった。短い時間だったし、後ろめたさは常に頭の隅にこびりついていたが、久しぶりに楽しい気分を味わえた。
「今夜、お嬢さんの食事はどうしたの?」コーヒーカップを手に、工藤が訊いてきた。
「店屋物をとってちょうだいって留守電に入れておいたの。たぶんピザにすると思う。あの子、ピザが好きだから」
「ふうん。なんだかかわいそうだな。こっちは御馳走を食べてるっていうのに」
「でも、こういうところで食べるより、テレビを見ながらピザを食べてるほうがいいっていうと思う。気の張る場所って嫌いだから」
工藤は顔をしかめて頷き、鼻の横を掻いた。
「そうかもしれないな。おまけに知らないおじさんと一緒じゃ、ゆっくりと味わうこともできないしな。今度は少し考えよう。回転寿司か何かのほうがいいかもしれない」
「ありがとう。でも気を遣わないで」
「気を遣ってるわけじゃない。僕が会いたいんだ。君の娘さんにさ」そういうと工藤はコーヒーを飲みながら、上目遣いに彼女を見た。
食事に誘ってきた時、お嬢さんも是非一緒に、と彼はいってくれたのだった。本心からの言葉であるように靖子には感じられた。誠意を示してくれているようで嬉しかった。
とはいえ、美里を連れてくるわけにはいかなかった。こういう場を彼女が好きでないというのは事実だ。だがそれ以上に、今の美里には必要以上に他人と接触させたくなかった。万一話題が事件に関することに及んだ場合、平静を保っていられるかどうかがわからない。それにもう一つ、工藤の前では女性に戻っているかもしれない自分の姿を、娘に見せたくなかった。
「工藤さんのほうこそどうなの? 御家族と一緒に食事をしなくても平気なの?」
「僕のほうか」工藤はコーヒーカップを置き、テーブルに両肘をついた。「そのことを話しておきたくて、今日、食事に誘ったようなものなんだ」
靖子は首を傾げ、彼の顔を見つめた。
「じつはね、今、独り身なんだ」
えっ、と靖子は声を漏らした。目を見張っていた。
「女房がガンにかかってね。膵臓ガンだ。手術をしたんだけど、手遅れだった。それで、去年の夏、息を引き取った。若かったから、進行が早かった。あっという間だったよ」
淡々とした口調だった。そのせいか、話の内容が実感を伴っては靖子の耳に伝わってこなかった。彼女は数秒間、ぼんやりと彼の顔を見ていた。
「それ、本当?」ようやくそれだけいった。
「冗談では、こんなことはいえない」彼は笑った。
「そうだろうけど、何といえばいいのか」彼女は俯き、唇を舐めてから顔を上げた。「それはあの……御愁傷様でした。大変だったでしょう?」
「いろいろとね。でも今もいったように、本当にあっという間だったんだ。腰が痛いとかいって病院に行ったかと思うと、突然医者から呼ばれて病気のことを知らされて。入院、手術、看病――まるでベルトコンベアに載せられているみたいだった。無我夢中で時間が過ぎて、そうして逝ってしまった。本人が病名を知っていたかどうかは、今となっては永遠に謎だ」そういって工藤はグラスの水を飲んだ。
「病気のこと、いつわかったの?」
工藤は首を傾げた。「一昨年の暮れ……かな」
「じゃあ、まだあたしが『まりあん』にいた頃じゃない。工藤さん、お店に来てくれてたよね」
工藤は苦笑し、肩を揺すった。
「不謹慎な話だよな。女房が生きるか死ぬかって時に、亭主が飲みに行ってちゃあいけないよな」
靖子は身を固くしていた。いうべき言葉が思いつかなかった。店で見せていた、工藤の明るい笑顔が蘇っていた。