饭饭TXT > 海外名作 > 《嫌疑犯X的献身/容疑者Xの献身(日文版)》作者:[日]东野圭吾【完结】 > 容疑者Xの献身.txt

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作者:日-东野圭吾 当前章节:15385 字 更新时间:2026-6-19 10:46

「まあ、言い訳をさせてもらえるなら、そういうわけでいろいろと疲れてたものだからさ、少し癒《いや》されようと思って、靖子ちゃんの顔を見に行っていたということなんだ」彼は頭を掻き、鼻の上に皺を寄せた。

 靖子は依然として声が出なかった。彼女は自分が店を辞めた時のことを回想していた。今日で最後という日、工藤は花束を持ってきてくれた。

 がんばって幸せになれよ――。

 どんな気持ちで彼はあんな言葉をかけてきたのだろうか。自分のほうがもっと大きな苦労を背負っているというのに、そのことをおくびにも出さず、靖子の再スタートを祝ってくれた。

「湿っぽい話になっちゃったな」工藤は照れを隠すように煙草を出してきた。「要するに、そういう事情だから、もう僕の家庭についてあれこれ心配することはないといいたかったわけだ」

「あ、でも息子さんは? 今度、受験なんでしょ」

「息子は実家で面倒をみてもらっている。そっちのほうが高校には近いし、僕じゃあ、あいつのために夜食を作ってやることもできないからね。お袋は孫の世話を焼けてうれしそうだ」

「じゃあ、本当に今は一人で生活してるの?」

「生活といったって、家にはただ帰って寝るだけだけどね」

「この前はそんなこと、全然いわなかったじゃない」

「いう必要もないと思ったんだ。君のことが心配で、会いに行ったわけだからね。でもこういうふうに食事に誘った場合、君は僕の家庭のことを気にするだろ。だから、いっておいたはうがいいと思ってね」

「そうだったの……」靖子は目を伏せた。

 工藤の本心はわかっていた。彼は暗に、正式に付き合ってほしいと伝えてきているのだ。それも将来を見据えた交際にしたいと考えているのかもしれない。美里に会いたいといった理由も、そのあたりにあるように思えた。

 レストランを出ると、工藤は前と同様にアパートまでタクシーで送ってくれた。

「今日はどうもごちそうさまでした」車から降りる前に靖子は頭を下げていった。

「また、誘っていいかな」

 靖子は少し間を置いてから、「ええ」と微笑んだ。

「じゃあ、おやすみ。お嬢さんによろしく」

「おやすみなさい」答えながら、今夜のことは美里には話しにくいと思った。小代子たちと食事に行くから、と留守電には入れておいたのだ。

 工藤の乗ったタクシーを見送った後、靖子は部屋に戻った。美里は炬燵に入ってテレビを見ていた。やはりテーブルの上にはピザの空箱が載っていた。

「お帰りなさい」美里が靖子を見上げていった。

「ただいま。ごめんね、今日は」

 靖子は何となく娘の顔をまともに見られなかった。男性と食事をしてきたということで、負い目のようなものを感じていた。

「電話、かかってきた?」美里が訊いてきた。

「電話?」

「隣の……石神さんから」美里は小声になった。いつもの定時連絡のことをいっているらしい。

「ケータイの電源、切ってたから」

「ふうん……」美里は浮かない顔だ。

「どうかしたの?」

「ううん、そうじゃないけど」美里はちらりと壁の時計に目をやった。「石神さん、何度も部屋を出たり入ったりしてるよ。窓から見てると、通りのほうに行ってるみたいだけど、おかあさんに電話をかけに行ってるんじゃないかと思って」

「ああ……」

 そうかもしれない、と靖子は思った。じつは工藤と食事をしている間も、石神のことは気になっていたのだ。電話のこともあるが、それ以上に、『べんてん亭』で石神が工藤と鉢合わせしてしまったことが気がかりだった。もっとも工藤のほうは、石神を単なる客だとしか見ていなかったようだ。

 よりによって、なぜ今日にかぎって石神があんな時間に店に来たのか。友人だという人物が一緒だったが、今までには一度もなかったことだ。

 石神は工藤のことを覚えていたに違いない。先日、靖子をタクシーで送ってきた男が、またしても『べんてん亭』に現れたことに、特別な意味を感じているかもしれない。そう思うと、間もなくかかってくるに違いない石神からの電話に出るのが憂鬱だった。

 そんなことを考えながらコートをハンガーにかけていると、玄関のドアホンが鳴った。靖子はぎくりとして美里と顔を見合わせた。一瞬、石神がやってきたのかと思った。しかし彼がそんなことをするはずがなかった。

 はい、と彼女はドアに向かって答えた。

「夜分申し訳ありません。ちょっとよろしいですか」男の声だった。聞き慣れない声だ。

 靖子はドアチェーンをつけたままドアを開けた。外には一人の男が立っていた。見覚えがあった。彼は上着から警察手帳を出してきた。

「警視庁の岸谷です。以前、草薙と一緒にお邪魔しましたが」

「ああ……」靖子は思い出した。今日は草薙はいないようだ。

 彼女は一旦ドアを閉め、美里に目配せした。美里は炬燵から出ると、黙って奥の部屋へ行った。

 襖が閉じられるのを見届けてから、靖子はチェーンを外し、再びドアを開けた。

「何でしょうか」

 靖子が訊くと岸谷は頭を下げた。

「すみません、また映画の件なんですが……」

 靖子は思わず眉をひそめていた。石神から、映画館へ行ったことについては警察にしつこく訊かれることになる、といわれていたのだが、まさにそのとおりだと思った。

「どういったことでしょうか。もう、あれ以上はお話しすることはないんですけど」

「お話はよくわかりました。今日は例の半券をお借りしたいと思いまして」

「半券? 映画館のチケットですか」

「そうです。前に見せていただいた時、草薙のほうから、大切に保管しておいてくださいとお願いしたと思うんですが」

「ちょっと待ってください」靖子は戸棚の引き出しを開けた。前に刑事たちに見せた時には、パンフレットの間に挟んであったのだが、その後引き出しに移したのだ。

 美里の分と合わせて二枚の半券を、彼女は刑事に差し出した。ありがとうございます、といって岸谷は受け取った。彼は白い手袋をはめていた。

「やっぱり、あたしが一番疑われているんですか」靖子は思い切って訊いてみた。

 とんでもない、と岸谷は顔の前で手を振った。

「容疑者を絞れなくて困っている状態です。だから怪しくない人はどんどん消去していこうとしているんです。半券をお借りするのもそれが目的です」

「半券で何かわかるんですか」

「それは何とも断言できませんが、参考にはなるかもしれません。あなた方があの日に映画館に行った、ということを証明できれば一番いいんですが……あれから何か思い出されたことはありますか」

「いえ、前に許した以上のことは何も」

「そうですか」岸谷は室内に目をやった。

「いつまでも寒いですね。おたくでは、毎年電気炬燵を使用されてるんですか」

「炬燵ですか。ええまあ……」靖子は後ろを振り返り、動揺を刑事に悟られまいとした。彼が炬燵を話題にしたことが偶然だとは思えなかった。

「この炬燵は、いつ頃から使っておられるんですか」

「さあ……もう、四、五年になると思います。それがどうしたんですか」

「いえ、別に」岸谷は首を振った。「ところで、今日は仕事の後、どこかに行っておられたのですか。お帰りが遅かったようですが」

 不意をつかれ、靖子はたじろいだ。同時に、刑事たちがアパートの前で待っていたらしいと察知した。ということは、タクシーを降りるところも見られているかもしれない。

 下手な嘘はつけない、と思った。

「知り合いの方と食事に行っていたんです」

 極力余分なことはしゃべらないでおこうと思ったのだが、刑事はこんな答えでは納得しなかった。

「タクシーであなたを送ってきた男性ですね。どういったお知り合いですか。差し支えなければ教えていただきたいのですが」岸谷は申し訳なさそうな顔でいった。

「そんなことまで話さなきゃいけないんですか」

「だから、差し支えがなければ、です。失礼なのはわかっているんですが、質問しないで帰ると、後で上司に文句をいわれるものですから。相手の方には決して迷惑をかけません。だから、ちょっと教えていただけませんか」

 靖子は大きくため息をついた。

「工藤さんという方です。以前、あたしが働いていたお店によく来てくださったお客さんで、今度の事件であたしがショックを受けているんじゃないかと心配して、様子を見に来られたんです」

「何をしている方ですか」

「印刷会社を経営していると聞いていますけど、詳しいことは知りません」

「連絡先はわかりますか」

 岸谷の質問に、靖子はまた眉をひそめた。それを見て刑事はぺこぺこと頭を下げた。

「余程のことがないかぎり、その方に連絡を取るようなことはいたしませんし、もしその必要が生じた場合でも、失礼のないように配慮いたしますので」

 靖子は不快感を隠そうとはせず、無言で自分の携帯電話を手に取ると、工藤から教わった番号を早口でしゃべった。刑事はあわててそれをメモした。

 その後も岸谷は恐縮している様子を見せながらも、工藤のことを根掘り葉掘り尋ねてきた。結局靖子は、工藤が最初に『べんてん亭』に現れた日のことも話す羽目になった。

 岸谷が帰ると、靖子はドアの鍵をかけた後、そのまま座り込んだ。ひどく神経を使ったような感覚があった。

 襖が開く音がした。美里が奥の部屋から出てきた。

「映画のこと、まだ何か疑ってるみたいだね」彼女はいった。「何もかも、石神さんの予想したとおりになってる。あの先生、すごいよ」

「そうね」靖子は立ち上がり、前髪をかきあげながら部屋に上がった。

「おかあさん、『べんてん亭』の人たちと御飯を食べに行ったんじゃなかったの?」

 美里にいわれ、はっとして靖子は顔を上げた。娘の咎め《とが》めるような顔があった。

「聞こえた?」

「当たり前じゃん」

「そう……」靖子は俯いたまま炬燵に両膝を入れた。刑事が炬燵のことをいっていたのを思い出した。

「どうしてこんな時に、そんな人と御飯食べに行ったりするの」

「断れなかったのよ。昔、すごくお世話になった人だから。それに、あたしたちのことを心配して、様子を見に来てくださったの。美里に黙ってたのは悪かったけど」

「あたしのことは別にいいけどさ……」

 その時、隣の部屋のドアが開閉する音が聞こえた。続いて足音が、階段の方へ向かっていった。靖子は娘と顔を見合わせていた。

「ケータイの電源」美里がいった。

「入ってる」靖子は答えた。

 それから数分後、彼女の携帯電話が鳴りだした。

 石神はいつもの公衆電話を使っていた。今夜、ここから電話をかけるのは三回日目だった。これまでの二回は、いずれも靖子の携帯電話に繋がらなかったのだ。今までそういうことは一度もなかったので、何かアクシデントでも起きたのかと心配したが、靖子の声を聞くかぎりでは、そういうことはなさそうだ。

 遅くになってから花岡母娘の部屋のドアホンが鳴るのを石神は聞いたのだが、やはり刑事だったようだ。靖子によれば、映画館の半券を貸してくれといわれたらしい。彼等の目的が、石神にはわかっていた。おそらく、映画館で保管されている、もう一方の半券と照合する気なのだ。彼女が渡したものと切り口の合致する半券が見つかれば、それに付いている指紋を調べるに違いない。そこに靖子たちの指紋がついていれば、映画を見たかどうかはともかく、映画館に入ったことだけは証明される。だがもし指紋がなければ、彼女たちへの疑惑は一層高まることになる。

 さらに靖子の話では、刑事は炬燵のことをあれこれと尋ねたらしい。それもまた、石神としては予想できたことだった。

「おそらく凶器が特定されたんでしょう」石神は電話口にいった。

「凶器というと……」

「電気炬燵のコードです。あなた方はあれを使ったわけでしょう?」

 電話の向こうで靖子は無言になった。富樫を絞殺した時のことを思い出したのかもしれない。

「絞殺すれば、凶器の痕がまず間違いなく首に残ります」石神は説明を続けた。婉曲《えんきょく》な表現を選んでいる場合ではなかった。「科学捜査は進んでいますから、どんなものが凶器として使用されたか、その痕からほぼ特定できるのです」

「それであの刑事さんは炬燵のことを……」

「そうだと思います。でも心配することはない。それについてはすでに手は打ってあるわけですから」

 警察が凶器を特定することは予想していた。だから石神は、花岡家の電気炬健を、自分の部屋のものと交換したのだ。彼女たちの電気炬燵は、現在は彼の部屋の押入にしまい込まれていた。

 しかも都合のいいことに、元々彼が持っていた電気炬燵のコードは、彼女たちのものとはタイプが違うのだ。刑事が電気コードに注目していたなら、すぐにそのことに気づいたはずだった。

「ほかには刑事からどんなことを訊かれましたか」

「ほかは……」そういったきり、彼女は黙り込んだ。

「もしもし、花岡さん」

「あ、はい」

「どうかしたんですか」

「いえ、何でもないです。どんなことを刑事さんから質問されたか、思い出そうとしていたんです。ほかには特に何もありませんでした。映画館に行っていたことを証明できれば疑いは晴れる、という意味のことをいわれただけです」

「彼等は映画館にこだわるでしょう。そうなるように計算してプランを立てたのだから当然のことです。何も怖がることはありません」

「石神さんにそういっていただけると安心です」

 靖子の言葉に、石神は胸の奥に明かりが灯ったような感覚を抱いた。四六時中続いている緊張が、一瞬だけ緩んだように思った。

 そのせいか、あの人物のことを尋ねてみようか、と彼はふと思った。あの人物というのは、湯川と『べんてん亭』に行った時に、途中で入ってきた男性客だ。今夜も彼女があの男にタクシーで送ってもらったのを石神は知っていた。部屋の窓から見えたのだ。

「あたしから報告できることはそれだけですけど、石神さんのほうからは何かありますか」靖子から訊いてきた。彼が何もいわないからだろう。

「いや、特にありません。今までどおり、ふつうに生活してください。しばらくは刑事があれこれいってくるでしょうが、大事なことはうろたえないことです」

「ええ、わかっています」

「じゃあ、娘さんにもよろしく。おやすみなさい」

 おやすみなさい、と靖子がいうのを聞き、石神は受話器を置いた。テレホンカードが公衆電話から吐き出された。

 草薙の報告を聞き、間宮は露骨に失望の色を示した。自分の肩を揉みながら、椅子の上で身体を前後に揺すった。

「するとその工藤という男が花岡靖子と再会したのは、やっぱり事件の後っていうことか。それに間違いはないわけか」

「弁当屋の経営者夫妻の話を聞くと、そういうことのようです。彼等が嘘をついているとは思えません。工藤が初めて店に来た時、靖子も自分たちと同じように驚いていたといっています。もちろん、演技ということも考えられますが」

「何しろ、元ホステスだからな。演技はお手のものだろう」間宮は草薙を見上げた。

「とりあえず、その工藤という男のことをもう少し調べてみよう。事件の後、急に現れたというのもタイミングがよすぎる」

「でも花岡靖子によれば、事件を知ったからこそ、工藤は彼女に会いにきたようなんです。だから、特に偶然というわけでもないと思うのですが」

 草薙の隣にいた岸谷が、遠慮がちに口を挟んできた。

「それに、もし二人が共犯関係にあるなら、この状況下で、会ったり食事をしたりするでしょうか」

「大胆なカムフラージュということも考えられるぜ」

 草薙の意見に、岸谷は眉根を寄せた。

「それはそうですが……」

「工藤本人に当たってみますか」草薙は間宮に訊いた。

「そうだな。事件に関与していれば、何かぼろを出すかもしれんな。当たってみてくれ」

 わかりましたと答え、草薙は岸谷と共に間宮の前を離れた。

「おまえさ、思い込みで意見をいっちゃだめだぜ。犯人たちはそれを利用しようとしているのかもしれないんだからな」草薙は後輩刑事にいった。

「どういうことですか」

「工藤と花岡靖子は以前から深い仲だったけど、それを隠し続けていた、ということもありうるだろ。富樫殺しでは、それを利用したのかもしれない。関係を誰にも知られていない人間となれば、共犯者にはうってつけだからな」

「もしそうなら、今もまだ関係を隠し続けるんじゃないでしょうか」

「そうとはかぎらない。男女の関係なんて、いずれはばれるものだからな、どうせならこの機会に再会したふりをしたほうがいい、と考えたのかもしれない」

 岸谷は釈然としない顔つきのままで頷いた。

 江戸川署を出ると、草薙は岸谷と共に自分の車に乗り込んだ。

「鑑識の話だと、凶器に使われたのは電気コードである可能性が高いということでしたよね。正式名称は袋打ちコード」シートベルトを締めながら岸谷がいった。

「ああ、電熱器具によく使用されているんだろ。電気炬燵とか」

「コードの表面に綿糸が編み込んであって、その布目が絞殺痕に残っていたそうです」

「それで?」

「花岡さんの部屋の炬燵を見ましたが、袋打ちコードじゃなかったです。丸打ちコードといって、表面はゴムのものでした」

「ふうん。だから?」

「いえ、それだけのことです」

「電熱器具なんて、炬燵以外にもいろいろとあるだろ。それに凶器に使われたのが、ふだん身の回りにあるものだとはかぎらない。そのへんに落ちていた電気コードを拾ったのかもしれないしな」

「はあ……」岸谷は浮かない声を出した。

 草薙は昨日岸谷と共に、ずっと花岡靖子を見張っていたのだった。主な目的は、彼女の共犯者となりうる人間がいるかどうかを確かめることだった。

 だから彼女が閉店後に一人の男とタクシーに乗った時には、ある予感を持って尾行を開始した。

 汐留のレストランに二人が入るのを確かめた後も、辛抱強く出てくるのを待った。

 食事を終えた二人は、再びタクシーに乗った。着いたところは靖子のアパートだった。男が降りる気配はなかった。草薙は靖子に対する聞き込みは岸谷に任せ、タクシーを追った。尾行が気づかれている気配はなかった。

 男は大崎のマンションに住んでいた。工藤邦明という姓名までは確認している。

 実際のところ、今度の犯行は女一人の手では無理だろう、と草薙は考えていた。もし花岡靖子が事件に関与しているなら、やはり男の協力者――もしかするとそちらが主犯と表現すべきかもしれないが、そういう人物がいるとしか思えなかった。

 工藤こそが共犯者なのか。しかしあんなふうに岸谷を叱っておきながら、草薙自身がその考えに手応えを感じていなかった。まるで見当違いな方向に走っている感覚があった。

 草薙の頭には、全く別のことが引っかかっていた。昨日、『べんてん亭』のそばで張り込んでいた時に見た、思いもよらない人物のことだ。

 湯川学が、花岡靖子の隣に住む数学教師と現れたのだった。

  10

 午後六時を少し過ぎた頃、マンションの地下駐車場に緑色のベンツが入っていった。それが工藤邦明の車であることは、星間、彼の会社に行った時に確認してあった。マンションの向かい側にある喫茶店から見張っていた草薙は、二杯分のコーヒー代を用意しながら席を立った。二杯目のコーヒーは、一口啜っただけだった。

 道路を走って横切り、地下駐車場に駆け込んでいった。マンションには一階と地階に入り口がある。どちらもオートロックシステムになっていて、駐車場利用者は、まず間違いなく地階の入り口を利用する。草薙は、できれば工藤が建物に入る前に捕まえたかった。インターホンで名乗ってから部屋に向かうのでは、相手にいろいろと考える時間を与えてしまうからだ。

 幸い、草薙のほうが先に入り口に到着していたようだ。彼が壁に手をついて息を整えていると、スーツ姿の工藤が書類鞄を抱えて現れた。

 工藤がキーを取り出して、オートロックの鍵穴に差し込もうとする時、草薙は背後から声をかけた。「工藤さんですね」

 工藤はぎくりとしたように背筋を伸ばし、差し込みかけていたキーを引いた。振り返り、草薙を見た。顔に不審の色が広がっていた。

「そうですけど……」彼の視線が、素早く草薙の全身を舐めた。

 草薙は上着の下から、ほんの少しだけ警察手帳を覗かせた。

「突然申し訳ありません。警察の者なんです。少し御協力いただけないでしょうか」

「警察って……刑事さんですか」工藤は声を落とし、窺うような目をした。

 草薙は頷いた。

「そうです。花岡靖子さんのことで、ちょっとお話を伺えればと思いまして」

 靖子の名前を聞いて工藤がどういう反応を示すか、草薙は注視した。驚いたり、意外そうな顔を見せたりしたら、逆に怪しい。工藤は事件のことを知っているはずだからだ。

 だが工藤は顔をしかめた後、何かを合点したように顎を引いた。

「わかりました。じゃあ、私の部屋に来られますか。それとも、喫茶店かどこかのほうがいいでしょうか」

「いや、できればお部屋で」

「いいですよ。散らかっていますが」そういって工藤は、改めてキーを鍵穴に入れた。

 散らかっているといったが、工藤の部屋はむしろ殺風景だった。クローゼットが揃っているからか、余分な家具が殆どない。ソファも二人掛けと一人掛けが一つずつあるだけだ。草薙は二人掛けのほうに座るよう勧められた。

「お茶か何か」工藤はスーツも脱がずに訊いてきた。

「いえ、お構いなく。すぐに終わりますから」

「そうですか」そういいながらも工藤はキッチンに入ると、グラスを二つと、ウーロン茶のペットボトルを両手に持って戻ってきた。

「失礼ですが、御家族は?」草薙は訊いた。

「妻は昨年亡くなりました。息子が一人いますが、事情があって、私の実家で面倒を見てもらっています」工藤は淡々とした口調で答えた。

「そうでしたか。じゃあ、今はおひとりで生活を?」

「そういうことになります」工藤は頬を緩め、二つのグラスにウーロン茶を注いだ。ひとつを草薙の前に置いた。「富樫さんのこと……ですか」

 草薙はグラスに伸ばしかけていた手を引っ込めた。相手から切り出してくれたのなら、無駄か時間をかける必要はない。

「そうです。花岡靖子さんの元の旦那さんが殺された事件についてです」

「彼女は無関係ですよ」

「そうですか」

「だって、別れた相手ですよ。今は何の繋がりもない。殺す理由がないじゃないですか」

「まあ、我々としても、基本的にはそのように考えているわけですが」

「どういうことですか」

「世の中にはいろいろな夫婦がいますから、そういった形式論では片づかないことも多いということです。別れたから明日からは無関係。お互いに干渉し合わない。赤の他人に戻る。それで済めばストーカーなんてものは存在しないわけです。ところが現実はそうじゃない。一方が切りたくても、もう一方がなかなか切れてくれないということは、ざらにあるんです。たとえ離婚届を出した後でもね」

「彼女は、富樫さんとはずっと会っていないといってましたよ」工藤の目に敵意がこもり始めていた。

「事件について、花岡さんと話をされたんですか」

「しました。だって、そのことが気になって会いに行ったんですから」

 花岡靖子の供述と一致するようだ、と草薙は思った。

「つまり、花岡さんのことを相当気にかけておられた、ということでしょうか。事件が起きる前から」

 草薙の言葉に、工藤は不快そうに眉間に皺を作った。

「気にかけていた、という意味がよくわかりませんね。私のところに来られたぐらいだから、私と彼女の関係については御存じなわけでしょう? かつて彼女が働いていた店の常連だったんですよ私は。彼女の御主人とも、偶然にですが、会ったことがあります。富樫という名前もその時に聞きました。だからああいう事件が起きて、富樫さんの顔写真まで出ていたから、心配になって様子を見に行ったというわけです」

「常連さんだったということは聞きました。でもそれだけで、そこまでしますかね。工藤さんは社長さんでしょう? いろいろとお忙しいんじゃないんですか」草薙は、わざと皮肉を込めた言い方をした。職業柄、こうした口調を使うことがよくある。しかし元来彼は、こんな話し方は好きではなかった。

 草薙のテクニックは効果を示したようだ。工藤は明らかに色をなした。

「あなたは花岡靖子さんのことを訊きに来られたのじゃなかったのですか。でも私に関する質問ばかりしておられる。私を疑っているのですか」

 草薙は笑みを浮かべ、顔の前で手を振った。

「そういうわけじゃありません。気分を害されたのなら謝ります。ただ、現在花岡さんが特別親しくしておられるようだから、工藤さんについてもいくつかお尋ねしたかっただけです」

 草薙は穏やかに話したが、工藤が彼を睨む目は緩まなかった。大きく深呼吸すると、ひとつ息をついた。

「わかりました。いろいろと腹を探られるのは不愉快ですから、はっきりと申し上げておきましょう。私は彼女に気があるわけです。それは恋愛感情です。だから事件のことを知り、彼女に近づくチャンスだと思って会いに行った。いかがですか。このようにいえば納得していただけますか」

 草薙は苦笑した。それは演技でもテクニックでもなかった。

「まあ、そうむきにならないでください」

「だって、そういうことを聞きたいわけでしょう?」

「我々としては、花岡靖子さんの人間関係を整理したいだけなんです」

「それがよくわからない。どうして警察が彼女を疑うのか……」工藤は首を捻ってみせた。

「殺される直前、富樫さんは彼女を探していたんですよ。つまり、最後に彼女に会っていた可能性もあるわけです」このことは工藤に話してもいいだろうと草薙は判断した。

「だから彼女が富樫さんを殺したと? 警察の考えることは、いつも単純ですね」工藤はふっと鼻で息を吐き出し、肩をすくめた。

「すみません、芸がなくて。もちろん、花岡さんだけを疑っているわけではありません。ただ、今の時点では、彼女を容疑の対象から外すわけにはいかないんです。彼女本人でなくても、彼女の周囲に鍵を握る人物がいる可能性もありますし」

「彼女の周囲に?」工藤は眉をひそめてから、何事かを合点したように首を縦に振り始めた。

「ははあ、そういうことですか」

「何でしょうか」

「あなたは彼女が誰かに頼んで、元夫を殺してもらった、と考えているわけだ。それで私のところに来たんだ。私は殺し屋の第一候補ということですか」

「そのように決めつけているわけではありませんが……」草薙はわざと語尾をぼかした。工藤なりに何か思いついたことがあるならば、それを聞いておこうと思ったのだ。

「だったら、私のところだけでなく、ほかにも当たらなきゃいけないところはたくさんありますよ。彼女に惚れてた客は大勢いましたからね。何しろ、あれだけの美人だから。ホステス時代だけの話じゃない。米沢夫妻の話によれば、彼女に会いたくて弁当を買いに来る客だっているそうですよ。そういう人たち全員に会ってみたらいかがですか」

「氏名と連絡先がわかれば、無論、会いに行くつもりです。御存じの方はいますか」

「いいえ知りません。それに残念ながら、私はそういう告げ口はしない主義です」工藤は手刀を横に振った。「まあしかし、仮に全員に当たったとしても無駄足でしょう。彼女はそんなことを頼んだりする人じゃない。そんな悪女でもなければ馬鹿でもない。もう一つ付け加えれば、私も、好きな人間から頼まれたからといって人殺しをするほど馬鹿じゃない。草薙さんとおっしゃいましたね、わざわざ来ていただいたのですが、どうやら収穫は何もないようですよ」早口でまくしたてた後、彼は立ち上がった。さっさと帰れ、という意味のようだ。

 草薙は腰を上げた。だがメモを取る手はそのままだ。

「三月十日は、いつものように会社に出ておられましたか」

工藤は一瞬、虚をつかれたように目を丸くした。次にその目を険しくした。

「今度はアリバイですか」

「まあ、そういうことです」

 取り繕《つくろ》う必要はないと草薙は思った。どうせ工藤は腹を立てている。

「ちょっと待ってください」工藤は書類鞄の中から分厚い手帳を出してきた。それをパラパラしてめくり、吐息をついた。

「何も書いてないから、たぶんいつもと同じでしょう。六時頃に会社を出たと思います。疑うなら社員に訊いてみてください」

「会社を出た後は?」

「だから、何も書いてないから、たぶんいつもと同じです。ここへ帰ってきて、適当に何か食って寝たんでしょう。一人だから証人はいません」

「もう少しよく思い出していただけませんか。こちらとしても、容疑者リストの人数を減らしたいんですよ」

 工藤は露骨にげんなりした顔を作り、もう一度手帳に目を落とした。

「ああそうか、十日か。ということは、あの日だな……」独り言のように呟いた。

「何か?」

「取引先に出向いた日です。夕方行って……そうだ、焼き鳥を御馳走になったんだった」

「時間はわかりますか」

「正確には覚えてないな。九時ぐらいまで飲んでたんじゃなかったかな。その後は真っ直ぐに帰りました。相手はこの人です」工藤は手帳に挟んであった名刺を出してきた。デザイン事務所のようだった。

「結構です。ありがとうございました」草薙は一礼し、玄関に向かった。

 彼が靴を履いていると、「刑事さん」と工藤が声をかけてきた。

「いつまで彼女のことを見張っているつもりですか」

 草薙が黙って視線を返すと、彼は敵意をこめた表情で続けた。

「見張っていたから、私と彼女が一緒にいるところを目撃したわけでしょう? そうして、おそらく私のことを尾行した」

 草薙は頭を掻いた。「参りましたね」

「教えてください。いつまで彼女を追いかけ回すつもりですか」

 草薙はため息をついた。笑顔を作るのはやめて工藤を見つめた。

「それはもちろん、その必要がなくなるまで、です」

 まだ何かいいたそうにしている工藤に背を向け、お邪魔しました、といって草薙は玄関のドアを開けた。

 マンションを出ると、彼はタクシーを拾った。

「帝都大学へ」

 運転手が返事をして車を発進させるのを確認してから、草薙は手帳を開いた。自分の走り書きを見ながら工藤とのやりとりを反芻した。アリバイの裏づけを取る必要はある。しかし彼としては結論は出ていた。

 あの男はシロだ。本当のことをいっている――。

 そして、本気で花岡靖子に惚れている。さらに、彼がいったように、花岡靖子に協力しようとする人間がほかにいる可能性は大いにある、と思った。

 帝都大学の正門は閉じられていた。ところどころに照明灯があるので、真っ暗ではなかったが、夜の大学には不気味な空気が籠もっているようだった。草薙は通用門から中に入り、守衛室で来訪の目的を告げてから奥に進んだ。「物理学科第十三研究室の湯川助教授と会うことになっている」と守衛には説明したのだが、じつはアポイントメントは取っていなかった。

 学舎内の廊下はひっそりとしていた。しかし無人でないことは、いくつかのドアの隙間から漏れている室内の明かりでわかった。おそらく何人かの研究者や学生たちが、黙々とそれぞれの研究に没頭しているに違いない。そういえば湯川もしばしば大学に泊まり込んでいるという話を、草薙は以前聞いたことがあった。

 湯川に会いに行こうということは、工藤の部屋に行く前から決めていた。方向が同じだということもあるが、ひとつだけ確認しておきたいことがあったのだ。

 なぜ『べんてん亭』に湯川は現れたのだろうか。大学の同窓である数学教師と一緒だったが、彼と何か関係があるのか。もし事件のことで何か気づいたことがあるのなら、なぜ草薙にいわないのか。それとも、数学教師と懐かしい昔話に花を咲かせたかっただけで、『べんてん草』に寄ったことには特に意味はないのか。

 だが草薙には、湯川が何の目的もなく、未解決事件の容疑者が働いている店にわざわざ行くとは思えなかった。余程のことがないかぎり、草薙が担当している事件には極力関わらないようにする、というのが湯川のこれまでのスタンスだったからだ。面倒に巻き込まれたくないのではなく、草薙の立場を尊重してくれているからだ。

 第十三研究室のドアには行き先表示板が吊されていた。ゼミの学生や大学院生の名前と並んで、湯川の名前もあった。表示板によれば、外出、となっていた。草薙は舌打ちした。外出先からそのまま帰宅するだろうと思ったからだ。

 それでも一応ドアをノックしてみた。表示板によれば、大学院生二人が在室のはずだ。

 どうぞ、太い声で返事があったので、草薙はドアを開いた。見慣れた研究室の奥から、トレーナー姿の眼鏡をかけた若者が現れた。何度か見たことのある大学院生だ。

「湯川はもう帰ったのかな」

 草薙の質問に、大学院生は申し訳なさそうな顔をした。

「ええ、ついさっき。携帯電話の番号ならわかりますが」

「いや、それは知っているから大丈夫。それに、特に用があるわけでもないんだ。近くまで来たから寄っただけで」

「そうですか」大学院生は表情を緩めた。草薙という刑事が、時々油を売りに来ることは、湯川から聞いて知っているに違いなかった。

「あいつのことだから、遅くまで研究室にこもっているんじゃないかと思ってね」

「いつもならそうなんですけど、ここ二、三日は早いですね。特に今日は、どこかに寄るようなことをおっしゃってました」

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