「それならいいけど」
「それより心配なのは、やっぱり君のことなんだ」工藤はいった。「僕が共犯でないことはいずれわかるだろう。でも刑事たちは、君に対する疑惑は捨てていない。これからも何かとうるさくつきまとってくるのかと思うと憂鬱になる」
「それは仕方ない。だって、富樫があたしのことを探してたのは事実みたいだから」
「全く、あの男も、何を思って今さら君にまとわりつこうとしたのか……。死んでもまだ君を苦しめるなんてなあ」工藤は渋面を作った。その後で改めて靖子を見た。「事件について、本当に君は何も関係していないよね。これは君を疑っているという意味じゃなくて、たとえわずかでも富樫と繋がりがあったのなら、僕にだけでも打ち明けておいてもらいたいんだけど」
靖子は工藤の端正な顔を見返した。彼が突然会いたいといってきた真意はここにあるのだなと思った。彼女に対する疑いを、全く抱いていないわけではないのだ。
靖子は微笑を作った。
「大丈夫よ。あたし、何の関係もないから」
「うん、そうとわかっていても、君の口からはっきりいってもらえると安心する」工藤は頷いてから腕時計を見た。「せっかくだから、食事でもどうだい? うまい焼鳥屋を知っているんだけど」
「ごめんなさい。今夜は美里に何もいってないから」
「そうか。じゃあ、無理に誘うわけにはいかないな」工藤は伝票を手にして、立ち上がった。
「行こうか」
彼が支払いをしている間、靖子はもう一度ざっとあたりを見回した。刑事らしさ人間は見当たらない。
工藤には悪いが、彼に共犯の疑いがかかっている間は大丈夫だろう、と彼女は思った。つまり警察が真相とは程遠いところを調べていることになるからだ。
とはいえ、工藤との仲をこのまま進展させていいものかどうか、彼女は迷っていた。もっと親密になりたいという希望はある。だがそれを実現した場合、何か大きな破綻を呼ぶことにならないだろうかと不安だった。石神の無表情な顔が浮かんだ。
「送っていくよ」勘定を済ませた工藤がいった。
「今日はいいです。電車で帰るから」
「いいよ、送っていくよ」
「本当にいいの。買い物に寄りたいし」
「ふうん……」釈然としない様子だったが、工藤は最後には笑みを見せた。「じゃあ、今日はここで。また電話するよ」
「ごちそうさま」靖子はそういって踵を返した。
品川駅に向かう横断歩道を渡っている時に、携帯電話が鳴りだした。彼女は歩きながらバッグを開けた。着信表示を見ると、『べんてん亭』の小代子からだった。
「はい」
「あっ、靖子。小代子だけど、今大丈夫?」声に妙な緊迫感があった。
「平気だけど、どうかした?」
「さっきあんたが帰った後、また刑事が来たのよ。それで変なことを訊いていったものだから、一応耳に入れておこうと思って」
携帯電話を握ったまま、靖子は目を閉じた。また刑事の話だ。彼等は蜘蛛の糸のように、彼女の周りにからみついてくる。
「変なことって、どういうこと?」不安を胸に靖子は訊いた。
「それがねえ、あの人のことなのよ。あの高校の先生。石神っていったっけ」
小代子の言葉に、靖子は電話を落としそうになった。
「あの人がどうかしたの?」声が震えた。
「刑事が訊いてきたのは、あんたに会うのが目的で弁当を買いに来てる客がいるそうだけど、どこの誰だってことだったのよ。どうも、工藤さんから聞いてきたらしいのよね」
「工藤さん?」
彼とどう繋がるのか、まるでわからなかった。
「そういえば以前あたし、工藤さんに話したことがあるのよね。靖子ちゃんに会いたくて、毎朝通ってくる客もいるって。工藤さん、そのことを刑事に話したみたい」
そういうことかと靖子は合点した。工藤のところへ行った刑事が、その確認をするために『べんてん亭』を訪れたということだ。
「それで小代子さん、何と答えたの?」
「隠すのも変だと思ったから正直に答えたわよ。靖子さんの隣に住んでいる学校の先生だって。でも、靖子目当てってことは、あたしたちが勝手にいっていることだから、本当のところはどうかわからないって釘は刺しておいたからね」
口の中が渇くのを靖子は感じた。警察はついに石神に目をつけたのだ。その根拠は工藤の話だけだろうか。それともほかに何か理由があって、彼に着目したのだろうか。
「もしもし靖子」小代子が呼びかけてきた。
「あ、はい」
「そんなふうに話したんだけど、それで大丈夫だったかな。なんか都合の悪いことあったかな」
都合が悪い、とは口が裂けてもいえない。
「うん、別に問題ないと思うよ。あの先生とは特に何の関係もないし」
「そうだよね。とりあえず、そのことだけ話しておこうと思って」
「わかった。わざわざありがとう」
靖子は電話を切った。胃がもたれるような感覚があった。軽い吐き気がする。
その感覚はアパートに帰るまで続いていた。途中、スーパーで買い物をしたのだが、何を選んだのか、自分でもよく覚えていなかった。
隣の部屋のドアが開閉される音がした時、石神はパソコンの前にいた。画面上には三枚の写真が映し出されていた。工藤を撮影した二枚と、靖子がホテルに入っていくところを掃った一枚だ。出来れば二人が一緒にいるところを撮りたかったが、今度こそ工藤に見つかりそうだったし、万一靖子に気づかれたりしたら面倒だと思い、自重しておいたのだ。
石神は最悪のケースを想定していた。その場合にはこれらの写真が役立つはずだが、無論、そのようなことは何としてでも避けたいと彼は思った。
石神は置き時計をちらりと見てから立ち上がった。午後八時近くになっていた。どうやら靖子が工藤と会っていたのは、さほど長い時間ではなかったようだ。そのことで安堵する気持ちがあることを、彼は自覚していた。
彼はテレホンカードをポケットに入れ、部屋を出た。いつものように夜道を歩いていく。自分を見張っている気配がないか、慎重に確認した。
草薙という刑事のことを思い出していた。彼の用件は、じつに奇妙だった。花岡靖子に関する質問をしながらも、湯川学について尋ねるのが主目的だったような気がした。彼等は一体どういうやりとりをしているのだろう。自分が疑われているのかどうか判断がつかず、石神としては次の手を打ちにくかった。
いつもの公衆電話で靖子の携帯電話にかけた。三度目の呼出音で、彼女は電話に出た。
「私です」石神はいった。「今、大丈夫ですか」
「はい」
「今日は何か変わったことがありましたか」
工藤と会って、どういう話をしたのか訊きたかったが、尋ねる言葉が見つからなかった。二人が会ったことを石神が知っていること自体、不自然なのだ。
「あの、じつは……」そういったきり、彼女は躊躇ったように黙り込んだ。
「何ですか。何かあったんですか」工藤から、何かとんでもないことでも聞かされたのだろうか、と石神は思った。
「お店に……『べんてん亭』に刑事が来たそうなんです。それで、あの、あなたのことを訊いていったそうです」
「私のことを? どんなふうに?」石神は唾を飲み込んだ。
「それが、ちょっと話がわかりにくいかもしれないんですけど、じつはうちの店の人が、前々から石神さんのことを噂してまして……あの、石神さんはお怒りになるかもしれませんけど……」
まどろっこしいな、と石神は苛立った。この人も数学は苦手に違いないと思った。
「怒りませんから、単刀直入におっしゃってください。どういう噂をされてたんですか」どうせ外見を馬鹿にしたような噂だろうと思いながら石神は訊いた。
「あのう、あたしはそんなことはないといってるんですけど、店の人が……あなたはあたしに会いたくて弁当を買いに来ているんだ、というようなことを……」
「え……」石神は一瞬、頭の中が白くなった。
「ごめんなさい。面白がって、冗談で、そんなことをいってるだけなんです。悪気はなくて、別に、実際にそうだとか本気で思っているわけじゃなくて」靖子は懸命に取り繕おうとしている。だがその言葉の半分も彼の耳には届いていなかった。
そんなふうに思われていた、彼女以外の第三者から――。
それは誤解ではなかった。事実、彼は靖子の顔を見たくて、毎朝のように弁当を買いに行っているのだ。そんな自分の思いが彼女に伝わることは期待しなかった、といえば嘘になる。だが、他の人間にまでそんなふうに見られていたのかと思うと、全身が熱くなった。自分のような醜い男が、彼女のような美しい女に恋い焦がれる様子を見て、第三者たちは嘲笑していたに違いない。
「あの、怒っておられます?」靖子が尋ねてきた。
石神はあわてて咳払いをした。
「いえ……それで、刑事はどのようなことを?」
「ですから、その噂を聞きつけて、その客というのはどういう人か、店の者に尋ねたらしいです。店の者は、あなたの名前を出してしまったそうです」
「なるほど」石神は依然として体温が上昇したままだった。「刑事は誰からその時を聞いたんでしょうか」
「それは……ちょっとわかりませんけど」
「刑事が訊いていったのは、そのことだけですか」
「そうらしいです」
受話器を握ったまま、石神は頷いた。狼狽している場合ではなかった。どういう経緯でかはわからないが、刑事が彼に照準を合わせつつあるのは紛れもない事実だ。ならば、対応を考える必要がある。
「そこにお嬢さんはいますか」彼は訊いた。
「美里ですか。いますけど」
「ちょっと代わっていただけますか」
「あ、はい」
石神は目を閉じた。草薙刑事たちはどのようなことを企み、行動しているのか、次に何をしてくるか――精神を集中して彼は思考した。だがその途中で湯川学の顔が浮かんだ時、彼は少し動揺した。あの物理学者は何を考えているのか。
はい、という若い娘の声が耳に届いた。美里に代わったようだ。
石神です、と断ってから彼は続けた。
「十二日に映画の話をした相手はミカちゃんだったね」
「はい。そのことは刑事さんに話しましたけど」
「うん、それは前に聞いたよ。で、もう一人の友達のことだけど、ハルカちゃんといったかな」
「そうです。クマオカハルカちゃんです」
「その子とは、あれから映画の話はしたかい」
「いえ、あの時だけだと思います。もしかしたら、ちょっとしたかもしれないけど」
「彼女のことは刑事には話してないね」
「話してません。ミカのことだけです。だって、まだハルカのことは話さないほうがいいって石神さんが」
「うん、そうだったね。でも、いよいよ話してもらうことになった」
石神は周囲を気にしながら、花岡美里に細々と指示を与え始めた。
テニスコートの横の空き地から、灰色の煙が立ち上っていた。近づいてみると、白衣姿の湯川が袖まくりをして、一斗缶の中を棒でつついている。煙はその中から出ているようだった。
土を踏む足音で気づいたらしく、湯川が振り向いた。
「君はまるで僕のストーカーのようだな」
「怪しい人間に対しては、刑事はストーカーになるんだよ」
「へええ、僕が怪しいというわけか」湯川は面白そうに目を細めた。「久々に君にしては大胆な発想が生まれたようだな。そういう柔軟さがあれば、もっと出世するだろうさ」
「どうして俺がおまえのことを怪しいと思うのか、その理由を訊かないのか」
「訊く必要がない。いつの世も科学者というのは、人から怪しく思われる存在だからね」なおも一斗缶の中をつついている。
「何を燃やしてるんだ」
「大したものじゃない。不要になったレポートとか資料だ。シュレッダーは信用できないからね」湯川はそばに置いてあったバケツを持ち、中の水を缶に注いだ。しゆーつという音と共に、さらに濃く白い煙が上がった。
「おまえに話がある。刑事として質問させてもらう」
「やけに力んでるな」一斗缶の中の火が消えたことを確認したらしく、湯川はバケツを提げたまま歩きだした。
彼の後を草薙は追った。
「昨日、あれから『べんてん亭』に行った。あの店でじつに興味深い話を聞いた。知りたくないか」
「別に」
「じゃぁ勝手にしゃべらせてもらう。おまえの親友の石神は、花岡靖子に惚れている」
大股で歩いていた湯川の足が止まった。振り返った彼の眼光は鋭くなっていた。
「弁当屋の人間がそういっているのか」
「まあね。おまえと話しているうちにぴんとくることがあって、『べんてん亭』で確認を取ったというわけだ。論理も大事かもしれないが、直感も刑事には大きな武器だ」
「それで?」湯川が向き直った。「彼が花岡靖子に惚れているとして、そのことが君たちの捜査にどういう影響を与えるのかな」
「この期《ご》に及んで、そんなふうにとぼけるなよ。おまえだって、どういうきっかけで勘づいたのかは知らんが、石神が花岡靖子の共犯者じゃないかと疑っているからこそ、俺に隠れてこそこそと動き回っているんだろうが」
「こそこそした覚えはないがね」
「とにかく、俺のほうには石神を疑う理由が見つかった。これからは奴を徹底的にマークする。そこで、だ。昨日は袂を分かつことになってしまったが、和平条約を結ばないか。つまり、こちらから情報を提供する代わりに、おまえが掴んでいることも教えてほしい。どうだ。悪くない提案だろ」
「君は僕を買い被っている。僕はまだ何も掴んじゃいない。ただ想像を巡らせているだけだ」
「だったら、その想像を聞かせてほしい」草薙は親友の目をじっと覗き込んだ。
湯川は目をそらし、そのまま歩きだした。「とりあえず研究室に行こう」
第十三研究室の奇妙な焦げ跡のついた机の前に草薙は座った。湯川が二つのマグカップをその上に置いた。相変わらず、どちらのカップも奇麗とはいいがたかった。
「石神が共犯だとして、彼の役割は一体どういうものだろう?」早速湯川が質問してきた。
「俺から話すのか」
「和平は君から提案してきたんだぜ」湯川は椅子にかけ、悠然とインスタントコーヒーを啜った。
「まあいいだろう。まだうちのボスには石神のことを話してないから、これは全部俺の推理だがもし殺害現場が別のところだったとしたら、死体を運んだのは石神だ」
「ほう、君は死体運搬説には否定的だったじゃないか」
「共犯者がいるなら話は別だといったぜ。だけど主犯、つまり実際に手を下したのは花岡靖子だ。もしかしたら石神も手伝ったかもしれないが、彼女がその場にいて、犯行に加わったのは間違いない」
「断定的だな」
「実際に手を下したのも、死体を処理したのも石神だとすると、それはもはや共犯じゃない。奴が主犯、さらにいうと奴の単独犯ということになる。いくら惚れているとはいえ、そこまでやるとは思えない。靖子に裏切られたらおしまいだからな。彼女にも、何らかのリスクは負わせたはずだ」
「じゃあ、殺したのは石神一人で、死体の処理を二人でやったとは考えられないか」
「可能性がゼロとはいわないが、低いと思う。花岡靖子の映画館でのアリバイは曖昧だが、その後のアリバイは比較的しっかりしている。たぶん時間を決めて行動したんだろう。となると、どれだけの時間を要するかわからない死体処理に彼女が加わったとは考えにくい」
「花岡靖子のアリバイが確定していないのは……」
「映画を見ていたという七時から九時十分の間だ。その後に入ったラーメン屋とカラオケボックスでは確認がとれた。ただ、一旦映画館に入ったのは間違いないと思う。映画館で保管されていたチケットの半券の中から、花岡母娘の指紋のついたものが見つかった」
「すると君は、その二時間十分の間に、靖子と石神によって殺害が行われたと考えているわけだ」
「死体遺棄も行われたかもしれないが、時間的に見て、靖子は石神よりも先に現場を立ち去った可能性が高い」
「殺害現場はどこだ?」
「それはわからない。どこにせよ、靖子が富樫を呼び出したのだろう」
湯川は無言でマグカップを傾けた。眉間に皺が刻まれている。納得している顔ではなかった。
「何かいいたそうだな」
「いや、別に」
「いいたいことがあるなら、はっきりいえよ。俺の意見はいったんだから、今度はおまえが話す番だ」
草薙がいうと、湯川はため息をついた。
「車は使われていない」
「えっ?」
「石神は車を使っていないはずだといったんだ。死体を運ぶには車が必要だろ――彼は車を持っていないから、どこかで調達してこなきゃならない。証拠の残らない車を、痕跡の残らない方法で調達する手段を、彼が持っているとは思えない。ふつうそんなものは、一般人の誰も持っていない」
「レンタカー屋を虱潰しに当たるつもりだ」
「御苦労様。絶対に見つからないことを保証する」
この野郎、という思いで草薙は睨みつけたが、湯川は素知らぬ顔だ。
「もし殺害現場が別なら、死体運搬役は石神だろうといっただけだ。死体の見つかった場所が犯行現場だっていう可能性も十分あるさ。何しろ二人がかりだから、何でもできる」
「二人がかりで富樫を殺し、死体の顔を潰して指紋を焼き、服も脱がせて焼き、そうして二人して徒歩で現場を立ち去ったというわけか」
「だから時間差はあったかもしれない。とにかく靖子は映画が終わるまでに戻らなきゃいけないからな」
「君の説によれば、現場に残っていた自転車は、やはり被害者自身が乗ってきたもの、ということになるな」
「まあそうだな」
「で、それについた指紋を石神は、消し忘れたということになる。あの石神がそんな初歩的なミスを犯したのか。ダルマの石神が」
「どんな天才だって、ミスはするさ」
だが湯川はゆっくりとかぶりを振った。「あいつはそんなことはしない」
「じゃあ、どういう理由で指紋を消さなかったというんだ」
「それをずっと考えている」湯川は腕組みをした。「まだ結論は出ない」
「考えすぎじゃないのか。あいつは数学の天才かもしれんが、殺人には素人のはずだぜ」
「同じことさ」湯川は平然といった。「殺人のほうが彼にはやさしいはずだ」
草薙はゆっくりと頭を振り、薄汚れたマグカップを持ち上げた。
「とにかく石神をマークしてみる。男の共犯がいたという前掟が可能なら、捜査する内容も広がってくる」
「君の説によれば、犯行はずいぶんと杜撰《ずさん》に行われたことになる。事実、自転車の指紋の消し忘れ、被害者の衣服の燃え残しなど、手抜かりがずいぶんと散見される。そこで一つ質問したいんだが、犯行は計画的に行われたことだろうか。それとも、何らかの事情で、突発的に行われたのだろうか」
「それは――」草薙は、何かを観察するような湯川の顔を見返して続けた。「突発的なものだったのかもしれないな。たとえば靖子は、何らかの話し合いをする目的で富樫を呼び出した。石神はいわば彼女のボディガードとして同席した。ところが話がこじれて、結果的に二人は富樫を殺すことになってしまった――。そんなところじゃないか」
「その場合、映画館の話と矛盾するぜ」湯川はいった。「ただ話し合いをするためだけなら、アリバイを用意しておく必要がない。たとえ不十分なアリバイにせよ、な」
「じゃあ、計画的犯行だというのか。最初から殺すつもりで靖子と石神は待ち伏せしていたと」
「それも考えにくい」
「なんだよ、それ」草薙はげんなりした顔を作った。
「あの石神が計画を立てたのなら、そんな脆《もろ》いものになるわけがない。そんな穴だらけの計画を立てるわけがない」
「そんなことをいったって――」そういった時、草薙の携帯電話が鳴った。「失礼」といって彼は電話に出た。
相手は岸谷だった。彼からの情報は重大なものだった。質問しながら草薙はメモを取った。
「面白い話が飛び込んできたぜ」電話を切った後、草薙は湯川にいった。「靖子には娘がいて、美里というんだが、その娘のクラスメートから興味深い証言がとれたらしい」
「なんだ?」
「事件当日の昼間、そのクラスメートは美里から、夜に母親と映画に行くという話を聞いたらしい。
「本当か」
「岸谷が確認した。間違いないようだ。つまり靖子たちは、映画館に行くことを昼間の時点で決めていたということになる」草薙は物理学者に向かって頷きかけた。「計画的犯行、と考えて間違いないんじゃないか」
だが湯川は真剣な眼差しのまま首を振った。
「ありえない」重い口調でいった。
13
錦糸町駅から歩いて五分ほどのところに『まりあん』はあった。飲み屋が何軒か入っているビルの五階だ。建物は古く、エレベータも旧式だった。
草薙は腕時計を見た。午後七時を回ったところだ。まだ客はさほど来ていないだろうと見当をつけた。じっくりと話を聞くからには、忙しい時間帯は避けたい。もっとも、こんなところにある店がどの程度に混むかはわからないが、と錆の浮き出たエレベータの壁を見ながら彼は思った。
だが『まりあん』に入ってみて驚いた。二十以上あるテーブルの三分の一ほどが埋まっていたからだ。服装を見るとサラリーマンが多いようだが、職業不明の人種の姿もある。
「以前、銀座のクラブに聞き込みに行ったことがあるんですが」岸谷が草薙の耳元で囁いた。「バブル時代に毎晩通ってた連中は、今はどこで飲んでるんだろうって、そこのママがいってました。こんなところに流れてたんですね」
「それは違うと思うぜ」草薙はいった。「一度贅沢をした人間は、なかなか物事の水準を落とせないもんだ。ここにいる人種は、銀座族とは別だよ」
黒服を呼び、責任者から話を聞きたいのだが、といってみた。若い黒服は愛想笑いを消して、奥に消えた。
やがて別の黒服が来て、草薙たちはカウンター席に案内された。
「何かお飲みになりますか」黒服は訊いてきた。
「ビールをもらおうかな」草薙は答えた。
「いいんですか」黒服が去ってから、岸谷が訊いてきた。「勤務中ですよ」
「何も飲んでないんじゃ、ほかの客が変に思うだろ」
「ウーロン茶でもいいじゃないですか」
「ウーロン茶を飲みに、大の男二人がこんな店に来るかよ」
そんなことを話していると、シルバーグレーのスーツを着た、四十歳ぐらいの女が現れた。化粧が濃く、髪をアップにしていた。痩せているが、なかなかの美人だ。
「いらっしゃいませ。何か御用がおありだとか」抑えた声で尋ねてきた。唇には笑みが滲んでいる。
「警視庁から来ました」草薙も低い声を出した。
横で岸谷が上着の内ポケットに手を突っ込んだ。草薙はそれを制してから、改めて相手の女性を見た。「証明するものをお見せしたほうがいいですか」
「いえ、結構」彼女は草薙の横に腰かけた。同時に名刺を置いた。『杉村園子』と印刷されていた。
「こちらのママさんですね」
「一応そういうことになっています」杉村園子は微笑んで頷いた。雇われの身であることを隠す気はなさそうだった。
「なかなか盛況ですね」草薙は店内を見回していった。
「見かけだけですよ。この店は社長が税金対策でやってるようなものなんです。来ているお客さんたちだって、社長と繋がりのある人ばっかり」
「そうなんですか」
「この店なんて、いつどうなるかわかったものじゃありませんよ。お弁当屋さんを選んだ小代子さんは正解だったのかも」
気弱なことをいっているが、前任者の名前をさらりと出すところに、彼女なりのプライドが込められているように草薙は感じた。
「先日も何度か、うちの刑事がお邪魔したと思うんですが」
彼の言葉に彼女は頷いた。
「富樫さんのことで、何度かいらっしゃいました。大抵は私がお相手をしています。今日もやっぱりそのことで?」
「すみません、しつこくて」
「前にいらした刑事さんにもいいましたけど、靖子さんを疑ってるんでしたら、見当違いだと思いますよ。だって、彼女には動機なんてないでしょ」
「いや、疑ってるというほどでは」草薙は笑顔を作り、手を振った。「捜査がなかなか進まないものですから、一から考え直そうということになったんです。それで、こうして伺ったわけでして」
「一からねえ」杉村園子は小さく吐息をついた。
「富樫慎二さんは三月五日に来ているそうですね」
「そうです。久しぶりだったし、何より、あの人が今さらここへ来るとは思わなかったから、びっくりしちゃいました」
「あなたは面識があったんですか」
「二度ほど。私も以前は赤坂で、靖子さんと同じ店で働いていたんです。その頃、会いました。当時はあの人も羽振りがよくて、ばりっとした格好をしていたんだけど……」
久しぶりに会った富樫からは、その面影は感じられなかった、という口調だ。
「富樫慎二さんは、花岡さんの居場所を知りたがっていたそうですね」
「よりを戻したがっているんだなって思いました。でも、私は教えなかったんですよ。靖子さんがあの人に苦労をかけられてたってことは、よく知ってましたから。だけどあの人、ほかの女の子たちにも訊いて回ったんです。私、今いる女の子の中には靖子さんのことを知っている者はいないと思って油断していたんですけど、一人だけ、小代子さんの弁当屋さんに行ったことがあるって子がいたんです。その子が、そこで靖子さんが働いていることも富樫さんにしゃべっちゃったみたいで」
「なるほど」草薙は頷いた。人脈を頼りに生きていこうとすると、行方を完全にわからなくすることなど不可能に近いのだ。
「工藤邦明という人は、ここによく来ますか」彼は質問を変えた。
「工藤さん? 印刷会社の?」
「ええ」
「よくお見えになりますよ。あっ、でも、最近はあまりいらっしゃらないかな」杉村園子は首を傾げた。「工藤さんが何か?」
「花岡靖子さんがホステス時代、彼女を贔屓《ひいき》にしていたと聞いているんですが」
杉村園子は口元を緩めて頷いた。
「そうですね。彼女、ずいぶんとかわいがってもらったみたいです」
「二人は付き合ってたんでしょうか」
草薙が訊くと、彼女は首を曲げ、うーんと唸った。
「そういうふうに疑っていた者もいましたけど、たぶんそれはなかったと私は見ています」
「といいますと?」
「靖子さんが赤坂にいた頃は、一番二人の仲が接近していたと思うんです。でもちょうどその頃、靖子さんが富樫さんのことで悩んでて、どうやら工藤さんもそのことを知っちゃったみたいなんですよ。で、それからは工藤さんは靖子さんの相談役のような形になって、何となく男女の関係にまではならなかったようなんです」
「でも花岡さんは離婚したんだから、その後なら付き合うこともできたでしょう」
しかし杉村園子は首を振った。
「工藤さんはそういう人じゃないんです。靖子さんが旦那さんとうまくいくようにいろいろと相談に乗っておきながら、離婚したら付き合ったっていうんじゃ、元々それが目的みたいに思われちゃうでしょ。だから彼女が離婚した後も、いい友達みたいな関係を続けていこうと思ってたみたいですよ。それに、工藤さんも奥さんがいますしね」
杉村園子は彼の妻が亡くなっていることは知らないようだ。わざわざ教える必要もないと思い、草薙は黙っていることにした。
彼女のいっていることはおそらく当たっているだろう、と彼は思った。男女の関係に関して、ホステスたちの勘の鋭さは刑事のそれをはるかに凌駕《りょうが》する。
工藤はやはりシロだな、と草薙は確信した。となれば、次の用件に移ったほうがいい。
彼はポケットから一枚の写真を出し、杉村園子に見せた。
「この男性を知りませんか」
それは石神哲哉の写真だった。学校から出てくるところを岸谷が隠し撮りしたものだ。斜め方向から掃影したもので、本人は気づいておらず、どこか遠くに視線を向けている。
杉村園子は怪訝そうな顔をした。
「誰ですか、この人?」
「御存じないわけですね」
「知りません。少なくとも、うちに来るお客ではないです」
「石神という人なんですよ」
「イシガミさん……」
「花岡さんから、その名前を聞いたことがないですか」
「ごめんなさい。覚えがないです」
「この人は高校で教師をしているんですよ。花岡靖子さんの口から、何かそれに関係した話題が出たことはないですか」
「さあ」杉村園子は首を捻った。「彼女とは今でも時々電話で話をしますけど、そんな話を聞いたことはないです」
「じゃあ、靖子さんの男性関係についてはどうですか。何か相談されたとか、報告を受けたとかってことはないんですか」
草薙の質問に、杉村園子は苦笑を漏らした。
「そのことについては前に来た別の刑事さんにも話しましたけど、彼女からは何も聞いてません。もしかしたら付き合っている人がいて、私には隠してたのかもしれないけど、たぶんそうじゃないと思いますよ。靖子さんは、美里ちゃんを育てることで精一杯で、色恋に走ってる余裕なんてないんじゃないでしょうか。前に小代子さんもそんなことをいってたし」
草薙は黙って頷いた。石神と靖子の関係について、この店で何か大きな収穫を得られるとは元々あまり期待していなかったから、さほど落胆はしていない。しかし、靖子に特定の男性の影がなかったと断言されるのを聞くと、石神が靖子の共犯ではないかという推理にはやはり自信が持てなくなった。
新たな客が入ってきた。杉村園子はそちらのほうをちょっと気にする素振りを見せた。
「花岡さんとは、よく電話で話をしているとおっしゃいましたね。最近では、いつ頃話をされましたか」
「富樫さんのことがニュースになった日だと思います。びっくりして電話をかけたんです。そのことは前に来た刑事さんにも話しましたけど」
「花岡さんの様子はどうでしたか」
「特に変わったところはなかったですよ。もうすでに警察の人が来たっていってました」
その警察の人というのは自分たちだ、とは草薙はいわなかった。
「富樫さんが花岡さんの行方を調べにこの店に来たことについて、あなたは彼女に話してなかったのですか」
「話してませんでした。というより、話せなかったんです。彼女を不安にさせたくなかったし」
すると花岡靖子としては、富樫が自分を探していることを知り得なかったことになる。つまり彼が訪ねてくることも予想できなかったわけで、当然、殺害計画を練る余裕もないことになる。
「話そうかとも思ったんですけど、その時は彼女のほうが楽しそうにいろいろとしゃべるものだから、いいだすきっかけを失ったというのもあるんですけど」
「その時は?」杉村園子の言葉に、草薙は引っかかりを覚えた。
「その時って、いつのことですか。一番最近に話をした時……ではなさそうですね」
「ああ、ごめんなさい。それは、その前の時。富樫さんがうちに現れて、三日か四日後だったと思います。彼女のほうから留守電が入っていたので、私からかけたんです」
「それは何日のことですか」
「何日だったかなあ」杉村園子はスーツのポケットから携帯電話を出してきた。着信や発信の履歴を調べるのかと草薙は思ったが、彼女はカレンダーを画面に表示させた。それを見てから顔を上げた。
「三月十日ですね」
「えっ、十日?」草薙は声を上げ、岸谷と顔を見合わせていた。「たしかですか」
「ええ、間違いないと思いますけど」
十日といえば、富樫慎二が殺されたとみられている日だ。
「何時頃ですか」
「そうですねえ、私が自宅に帰ってからかけたから、たぶん午前一時前後だったと思いますけど。彼女は十二時前に電話をくれたようですけど、まだ店が終わってなかったので、出られなかったんです」
「どのぐらい話しておられましたか」
「あの時は、たぶん三十分ぐらいだったんじゃないでしょうか。いつもそれぐらいです」
「あなたのほうからかけたんですね。彼女の携帯電話に」
「いえ、ケータイじゃなかったです。家の電話にかけたんです」
「あの、細かいことをいうようですが、するとそれは十日ではなく、十一日の午前一時頃という意味ですね」
「ああ、そういうことですね。正確にいうと」
「花岡さんの留守電が入っていたということですが、どういった内容だったんですか。差しつかえがなければ、教えていただきたいんですが」
「だからそれは、用があるから、お店が終わったら電話がほしいというものでした」
「で、その用件というのは?」
「大した内容ではなかったですよ。以前、私が腰痛の治療で通っていた指圧治療院を教えてほしいというようなことで……」
「指圧ねえ……。その程度の用件で彼女から電話がかかってくることは、これまでにもあったんですか」
「用件なんて、いつも大したものじゃないんです。ただおしゃべりがしたいだけです。私にしても、彼女にしても」
「そんな夜中に話すのも、いつものことなんですか」
「珍しくはないですよ。私がこんな仕事をしているから、どうしても夜中になってしまうし。まあ、ふつうはなるべく休日を選ぶんですけど、あの時は彼女のほうから連絡があったわけですから」
草薙は頷いた。しかし釈然としない思いが消えたわけではなかった。
店を出て、錦糸町駅に向かいながら、草薙は考えを巡らせた。杉村園子の最後の話が気にかかっていた。三月十日の夜中に、花岡靖子は電話で話している。しかも自宅の電話に出たという。