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平家物語卷第一
祇園精舎
祇園精舎の鐘の聲、諸行無常の響あり。娑羅雙樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらはす。おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。遠く異朝をとぶらへば、秦の趙高、漢の王莽、梁の周伊、唐の禄山、是等は皆舊主先皇の政にもしたがはず、樂みをきはめ、諫をおもひいれず、天下のみだれむ事をさとらずして、民間の愁る所をしらざりしかば、久からずして亡じし者ども也。近く本朝をうかがふに、承平の將門、天慶の純友、康和の義親、平治の信頼、此等はおごれる心もたけき事も皆とりどりにこそありしかども、まぢかくは六波羅の入道、前太政大臣平朝臣清盛公と申し人のありさま、傳へうけたまはるこそ心も詞も及ばれね。
其先祖を尋ぬれば、桓武天皇第五の皇子、一品式部卿葛原親王九代の後胤讃岐守正盛が孫、刑部卿忠盛朝臣の嫡男なり。彼親王の御子、高親王無官無位にして、うせ給ひぬ。其御子高望の王の時始めて平の姓を給て、上總介になり給しより、忽に王氏を出て人臣につらなる。其子鎭守府將軍義茂後には國香とあらたむ。國香より正盛に至る迄、六代は諸國の受領たりし かども、殿上の仙籍をばいまだゆるされず。
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殿上闇討
しかるを忠盛備前守たりし時、鳥羽院の御願得長壽院を造進して三十三間の御堂をたて、一千一體の御佛をすゑ奉る。供養は天承元年三月十三日なり。勸賞には闕國を給ふべき由仰下されける。境節但馬國のあきたりけるを給にけり。上皇御感のあまりに内の昇殿をゆるさる。忠盛三十六にて始て昇殿す。雲の上人是を嫉み、同き年の十一月廿三日、五節豐明の節會の夜、忠盛を闇討にせむとぞ擬せられける。忠盛是を傳へ聞て、「われ右筆の身にあらず、武勇の家に生れて、今不慮の恥にあはむ事、家の爲、身の爲、こゝろうかるべし。せむずるところ、身を全して君に仕といふ本文あり。」とて、兼て用意をいたす。參内のはじめより大なる鞘卷を用意して束帶のしたにしどけなげにさし、火のほのくらき方にむかて、やはら、此刀をぬき出し、鬢にひきあてられけるが、氷などの樣にぞみえける。諸人目をすましけり。其上忠盛の郎等もとは一門たりし木工助平貞光が孫しんの三郎太夫家房が子、左兵衞尉家貞といふ者ありけり。薄青の狩衣の下に萠黄威の腹卷をき、弦袋つけたる太刀脇はさんで、殿上の小庭に畏てぞ候ける。貫首以下あやしみをなし、「うつぼ柱よりうち、鈴の綱のへんに布衣の者の候ふはなにものぞ。狼藉なり。罷出よ。」と、六位をもていはせければ、家貞申けるは「相傳の主、備前守殿今夜闇討にせられ給べき由承候あひだ、其ならむ樣を見むと て、かくて候。えこそ罷出まじけれ。」とて畏て候ければ、是等をよしなしとやおもはれけん、其夜の闇討なかりけり。
忠盛御前のめしにまはれければ、人々拍子をかへて「伊勢平氏はすがめなりけり。」とぞはやされける。此人々はかけまくもかたじけなく柏原天皇の御末とは申ながら、中比は都の住居もうと/\しく、地下にのみ振舞なて伊勢國に住國ふかかりしかば、其國の器に事よせて、伊勢平氏とぞ申ける。其うへ忠盛目のすがまれたりければ、加樣にはやされけり。いかにすべき樣もなくして、御遊もいまだをはらざるに、竊に罷出らるとて、よこたへさされたりける刀をば紫宸殿の御後にして、かたへの殿上人のみられける所にて、主殿司をめしてあづけ置てぞ出られける。家貞待うけたてまつて、「さていかゞ候つる。」と申ければ、かくともいはまほしう思はれけれども、いひつるものならば、殿上までもやがてきりのぼらんずる者にてある間、「別の事もなし。」とぞ答られける。
五節には、「白薄樣、こぜむじの紙、卷上の筆、鞆繪ゑがいたる筆の軸」なんどさま%\面白き事をのみこそうたひまはるるに、中比太宰權帥季仲卿といふ人ありけり。あまりに色のくろかりければ、見る人黒帥とぞ申ける。其人いまだ藏人頭なりし時、五節にまはれければ、それも拍子をかへて、「あなくろ/\、くろき頭かな。いかなる人のうるしぬりけむ。」とぞはやされける。又花山院前太政大臣忠雅公、いまだ十歳と申し時、父中納言忠宗卿におくれたてまつて孤にておはしけるを、故中御門藤中納言家成卿いまだ播磨守たりし時、 聟に執て、聲花にもてなされければ、それも五節に「播磨米はとくさか、むくの葉か、人のきらをみがくは。」とぞはやされける。上古には加樣にありしかども事いでこず。末代いかゞあらんずらむ、おぼつかなしとぞ人申ける。
案のごとく五節はてにしかば、殿上人一同に申されけるは、「夫雄劍を帶して公宴に列し、兵仗を給て、宮中を出入するはみな格式の禮をまもる綸命よしある先規なり。しかるを忠盛朝臣或は相傳の郎從と號して布衣の兵を殿上の小庭にめしおき、或は腰の刀を横へさいて節繪の座につらなる。兩條希代いまだきかざる狼藉なり。事既に重疊せり。罪科尤ものがれがたし。早く御札をけづて闕官停任せらるべき由」おの/\訴へ申されければ、上皇大に驚きおぼしめし、忠盛をめして御尋あり。陳じ申けるは、「まづ郎從小庭に祗候の由、全く覺悟つかまつらず。但し、近日人々あひたくまるゝ旨子細ある歟の間、年來の家人、事をつたへきくかによて其恥をたすけむが爲に、忠盛にしられずして竊に參候の條力及ざる次第なり。若し猶其咎あるべくば、彼身をめし進ずべき歟。次に刀の事、主殿司に預け置をはぬ。是をめし出され刀の實否について咎の左右あるべき歟。」と申。しかるべしとて、其刀をめし出して叡覽あれば、上は鞘卷のくろくぬりたりけるが、中は木刀に銀薄をぞおしたりける。「當座の恥辱をのがれん爲に刀を帶する由あらはすといへども、後日の訴訟を存知して、木刀を帶しける用意のほどこそ神妙なれ。弓箭に携らむ者のはかりごとは尤かうこそあらまほしけれ。兼ては又郎從小庭に祗候の條且は武士の郎等のならひなり。忠盛が咎にあらず。」とて却て叡 感にあづかしうへは敢て罪科の沙汰もなかりけり。
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鱸
其子どもは諸衞の佐になり、昇殿せしに殿上のまじはりを人きらふに及ばず。
其比、忠盛、備前國より都へのぼりたりけるに、鳥羽院「明石浦はいかに。」と御尋ありければ、
あり明の月もあかしのうら風に、浪ばかりこそよると見えしか。
と申たりければ、御感ありけり。この歌は金葉集にぞ入られける。
忠盛又仙洞に最愛の女房をもてかよはれけるが、ある時、其女房のつぼねに、つまに月出したる扇をわすれて出られたりければ、かたへの女房たち「是はいづくよりの月影ぞや。出どころおぼつかなし。」などわらひあはれければ、彼女房、
雲井よりたゞもりきたる月なれば、おぼろげにてはいはじとぞ思ふ。
とよみたりければ、いとゞあさからずぞおもはれける。薩摩守忠度の母、是なり。にるを友とかやの風情に忠盛もすいたりければ、かの女房も優なりけり。かくて忠盛刑部卿になて、仁平三年正月十五日歳五十八にてうせにき。清盛嫡男たるによてその迹をつぐ。
保元々年七月に宇治の左府代をみだり給し時、安藝守とて御方にて勳功ありしかば、播磨守にうつて同三年太宰大貳になる。次に平治元年十二月、信頼卿が謀反の時、御方にて賊徒を うちたひらげ、勳功一にあらず、恩賞是おもかるべしとて、次の年正三位に敍せられ、うちつゞき、宰相、衞府督、檢非違使別當、中納言、大納言に歴あがて、剰へ丞相の位にいたり、左右を歴ずして内大臣より太政大臣從一位にあがる。大將にあらね共、兵仗をたまはて隨身をめし具す。牛車輦車の宣旨を蒙て、のりながら宮中を出入す。偏に執政の臣のごとし。「太政大臣は一人に師範として四海に儀刑せり。國を治め、道を論じ、陰陽をやはらげをさむ。其人にあらずば即ち闕けよ。」といへり。されば則闕の官とも名付たり。其人ならではけがすべき官ならねども、一天四海を掌の内ににぎられしうへは子細に及ばず。
平家かやうに繁昌せられけるも熊野權現の御利生とぞきこえし。其故は、古へ清盛公、いまだ安藝守たりし時、伊勢の海より船にて熊野へまゐられけるに、大きなる鱸の船にをどり入たりけるを、先達申けるは、「是は權現の御利生なり。いそぎまゐるべし。」と申ければ、清盛のたまひけるは、「昔、周の武王の船にこそ白魚は躍入たりけるなれ。是吉事なり。」とて、さばかり十戒をたもちて、精進潔齋の道なれども、調味して家の子、侍ともにくはせられけり。其故にや吉事のみうちつゞいて太政大臣まできはめ給へり。子孫の官途も龍の雲に上るよりは猶すみやかなり。九代の先蹤をこえ給ふこそ目出けれ。
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禿髮
角て清盛公、仁安三年十一月十一日歳五十一にて病にをかされ、存命の爲に忽に出家入道す。 法名は淨海とこそなのられけれ。其しるしにや、宿病たちどころにいえて、天命を全す。人のしたがひつく事吹風の草木をなびかすがごとし。世のあまねく仰げる事ふる雨の國土をうるほすに同じ。
六波羅殿の御一家の君達といひてしかば、花族も英雄も面をむかへ肩をならぶる人なし。されば入道相國のこしうと、平大納言時忠卿ののたまひけるは「此一門にあらざらむ人は皆人非人なるべし。」とぞのたまひける。かゝりしかば、いかなる人も相構へて其ゆかりにむすぼほれんとぞしける。衣文のかきやう烏帽子のため樣よりはじめて何事も六波羅樣といひてければ、一天四海の人皆是をまなぶ。
又いかなる賢王聖主の御政も攝政關白の御成敗も世にあまされたるいたづら者などの、人のきかぬ處にてなにとなうそしり傾け申事は常の習なれども、此禪門世ざかりの程は聊いるかせにも申者なし。其故は入道相國のはかりごとに十四五六の童部を三百人そろへて、髮をかぶろにきりまはし、あかき直垂をきせて、めしつかはれけるが、京中にみち/\て、往反しけり。自ら平家の事あしざまに申者あれば、一人きゝ出さぬほどこそありけれ、餘黨に觸廻して、其家に亂入し資材雜具を追捕し、其奴を搦とて、六波羅へゐてまゐる。されば目に見、心に知るといへども、詞にあらはれて申者なし。六波羅殿の禿と云ひてしかば、道をすぐる馬車もよぎてぞ、通りける。禁門を出入すといへども姓名を尋らるゝに及ばず、京師の長吏これが為に目を側むとみえたり。
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吾身榮花
吾身の榮花を極るのみならず、一門共に繁昌して、嫡子重盛、内大臣の左大將、次男宗盛、中納言の右大將、三男知盛、三位中將、嫡孫維盛、四位少將、すべて一門の公卿十六人、殿上人三十餘人、諸國の受領、衞府、諸司、都合六十餘人なり。世にはまた人なくぞ見えられける。
昔奈良の御門の御時、神龜五年、朝家に中衞の大將をはじめおかれ、大同四年に中衞を近衞と改られしよりこのかた、兄弟左右に相並事僅に三四箇度なり。文徳天皇の御時は左に良房右大臣左大將、右に良相、大納言の右大將、是は閑院の左大臣冬嗣の御子なり。朱雀院の御宇には左に實頼、小野宮殿、右に師輔、九條殿、貞信公の御子なり。御冷泉院の御時は、左に教通、大二條殿、右に頼宗、堀河殿、御堂の關白の御子なり。二條院の御宇には左に基房、松殿、右に兼實、月輪殿、法性寺殿の御子なり。是皆攝 祿の臣の御子息、凡人にとりては其例なし。殿上の交をだにきらはれし人の子孫にて禁色雜袍をゆり、綾羅錦繍を身にまとひ、大臣大將になて、兄弟、左右に相並事、末代とはいひながら不思議なりし事どもなり。
其外御娘八人おはしき。皆とり/\に幸給へり。一人は櫻町の中納言重教卿の北の方にておはすべかりしが、八歳の時約束ばかりにて平治の亂以後ひきちがへられ、花山院の左大臣殿の御臺盤所にならせ給て君達あまたましましけり。
抑この重教卿を櫻町の中納言と申ける事はすぐれて心數奇給へる人にて、つねは吉野山をこひ、町に櫻をうゑならべ、其内に屋を立て、すみたまひしかば、來る年の春ごとに、みる人櫻町とぞ申ける。櫻はさいて七箇日にちるを、名殘を惜み天照御神に祈申されければ、三七日迄名殘ありけり。君も賢王にてましませば神も神徳を輝かし、花も心ありければ、二十日の齡をたもちけり。
一人は后にたゝせ給ふ。王子御誕生ありて皇太子に立ち、位につかせ給しかば、院號かうぶらせ給ひて、建禮門院とぞ申ける。入道相國の御娘なるうへ、天下の國母にてましましければとかう申におよばず。一人は六條の攝政殿の北政所にならせ給ふ。高倉院御在位の時御母代とて准三后の宣旨をかうぶり、白河殿とておもき人にてましましけり。一人は普賢寺殿の北の政所にならせ給ふ。一人は冷泉大納言隆房卿の北方。一人は七條修理大夫信隆卿に相具し給へり。又安藝國嚴島の内侍が腹に一人おはせしは、後白河の法皇へまゐらせたまひて女御のやうにてぞましましける。其外九條院の雜仕常葉が腹に一人。これは花山院殿に上臈女房にて廊の御方とぞ申ける。
日本秋津島は纔に六十六箇國、平家知行の國三十餘箇國、既に半國にこえたり。其外莊園田畠いくらといふ數をしらず。綺羅充滿して、堂上花の如し。軒騎群集して門前市をなす。楊州の金、荊州の珠、呉郡の綾、蜀江の錦、七珍萬寶一として闕たる事なし。歌堂舞閣の基、魚龍爵馬の翫物、恐らくは帝闕も仙洞も是にはすぎじとぞ見えし。
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祇王
入道相國、一天四海をたなごゝろのうちににぎりたまひし間、世のそしりをもはばからず、人の嘲りをもかへり見ず、不思議の事をのみし給へり。たとへば其比都に聞えたる白拍子の上手、祇王祇女とて兄弟あり、とぢといふ白拍子が娘なり。姉の祇王を入道相國最愛せられければ、是によて妹の祇女をも世の人もてなす事なのめならず。母とぢにもよき屋つくてとらせ、毎月百石百貫をおくられければ、家内富貴してたのしい事なのめならず。
抑我朝に白拍子のはじまりける事は、昔鳥羽院の御宇に島の千歳和歌の前とてこれら二人がまひいだしたりけるなり。始めは水干に立烏帽子、白鞘卷をさいて、舞ひければ、男舞とぞ申ける。然るを中比より烏帽子、刀をのけられ、水干ばかりをもちゐたり、さてこそ白拍子とは名付けれ。
京中の白拍子ども祇王が幸の目出度きやうをきいてうらやむ者もあり、そねむ者もありけり。羨む者共は「あなめでたの祇王御前が幸や。おなじあそび女とならば、誰もみなあの樣でこそありたけれ。いかさま是は祇といふ文字を名についてかくはめでたきやらん。いざ我等もついて見む。」とて或は祇一と付き、祇二と付き、或は祗福祗徳などいふ者も有けり。そねむ者どもは「なん條名により、文字にはよるべき。幸はたゞ前世の生れつきにてこそあんなれ。」とてつかぬ者もおほかりけり。
かくて三年と申に又都にきこえたる白拍子の上手一人出來たり。加賀國のものなり。名をば佛とぞ申ける。年十六とぞきこえし。「昔よりおほくの白拍子ありしかども、かかる舞は、いまだ見ず。」とて京中の上下もてなす事なのめならず。佛御前申けるは「我天下に聞えたれども、當時さしもめでたうさかえさせ給ふ平家太政の入道殿へめされぬ事こそ本意なけれ。あそびもののならひ、なにかはくるしかるべき。推參して見む。」とて、ある時西八條へぞまゐりたる。人まゐて「當時都にきこえ候佛御前こそまゐて候へ。」と申しければ、入道「なんでうさやうのあそびものは人の召に隨てこそ參れ。左右なう推參する樣やある。祇王があらん處へは神ともいへ、佛ともいへ、かなふまじきぞ。とう/\罷出よ。」とぞの給ひける。佛御前はすげなういはれたてまつて、已にいでんとしけるを、祇王、入道殿に申けるは「あそび者の推參は常の習でこそ候へ。其上、年もいまだをさなう候ふなるが、たま/\思たてまゐりて候を、すげなう仰られてかへさせ給はん事こそ不便なれ。いかばかりはづかしうかたはらいたくも候ふらむ。わがたてし道なれば、人の上ともおぼえず。たとひ舞を御覽じ、歌をきこしめさずとも、御對面ばかりさぶらうてかへさせ給ひたらば、ありがたき御情でこそ候はんずれ。たゞ理をまげて、めしかへして御對面さぶらへ。」と申ければ、入道、「いで/\、我御前があまりにいふ事なれば、見參してかへさむ。」とてつかひを立てぞめされける。佛御前はすげなういはれたてまつて車に乘て既にいでんとしけるが、めされて歸參りたり。入道出あひ對面して「今日の見參はあるまじかりつるを、祇王が何と思ふやらん、餘りに申しすゝむる 間、か樣に見參しつ。見參する程にてはいかで聲をもきかであるべきぞ。今樣一つうたへかし。」とのたまへば、佛御前「承りさぶらふ。」とて今樣一つぞ歌うたる。
君をはじめて見るをりは、千代も歴ぬべし姫小松、
御前の池なる龜岡に、鶴こそ群れ居て遊ぶめれ。
とおし返し/\三返歌すましたりければ、見聞の人々みな耳目をおどろかす。入道もおもしろげに思ひ給ひて、「我御前は今樣は上手でありけるよ。此定では舞も定めてよかるらん。一番見ばや。鼓打めせ。」とてめされけり。うたせて一番舞たりけり。
佛御前は髮姿よりはじめてみめ形うつくしく聲よく節も上手でありければ、なじかは舞もそんずべき。心も及ばず舞すましたりければ、入道相國舞にめで給ひて佛に心をうつされけり。佛御前「こはされば何事さぶらふぞや。もとよりわらはは、推參の者にていだされまゐらせさぶらひしを、祇王御前の申状によてこそ召返されても候に、加樣にめしおかれなば、祇王御前の思ひ給はん心のうちはづかしうさぶらふ。はや/\暇をたうで出させおはしませ。」と申ければ、入道、「すべて其儀あるまじ。但祇王があるをはゞかるか。其儀ならば祇王をこそいださめ。」と宣ひける。佛御前「それ又いかでかさる御事候べき。諸共にめしおかれんだに心うう候べきに、まして祇王御前を出させ給ひて、わらは一人めしおかれなば、祇王御前の心のうちはづかしう候ふべし。おのづから後までわすれぬ御事ならば、めされて又は參るとも、今日は暇を給らむ。」とぞ申ける。入道「なんでう其儀あるべき。祇王とう/\罷出で よ。」と御使かさねて三度までこそ立てられけれ。祇王もとよりおもひ設けたる道なれども、さすがに昨日今日とは思よらず。いそぎ出べき由頻にのたまふ間、はき拭ひ、塵ひろはせ、見苦しき物共とりしたためて出づべきにこそ定まりけれ。一樹の陰に宿り合ひ、同じ流をむすぶだに別はかなしき習ぞかし。まして此三年が間住なれし處なれば、名殘もをしう悲しくて、かひなき涙ぞこぼれける。さてもあるべき事ならねば、祇王すでに、今はかうとて、出けるが、なからん跡の忘れ形見にもとや思ひけむ、障子になく/\一首の歌をぞかきつけける。
萠出るも枯るゝも同じ野邊の草、何れか秋にあはではつべき。
さて車に乘て宿所に歸り、障子の内に倒れ臥し、唯泣くより外の事ぞき。母や妹是をみて「如何にやいかに。」ととひけれども、とかうの返事にも及ばず。具したる女に尋ねてぞさる事ありともしりてける。さる程に毎月に送られつる百石百貫をも今はとゞめられて、佛御前がゆかりの者共ぞ、始めて、樂み榮えける。京中の上下、「祇王こそ入道殿よりいとま給はて出でたんなれ。いざ見參して遊ばむ。」とて、或は文をつかはす人もあり、或は使を立つる者もあり。祇王さればとて今更人に對面してあそびたはぶるべきにもあらねば、文を取入るゝ事もなく、まして使にあひしらふ迄もなかりけり。是につけても悲しくていとゞ涙にのみぞしづみける。
かくて今年も暮れぬ。あくる春の比、入道相國、祇王が許へ使者を立てて、「いかに其後何事 かある。佛御前があまりにつれ/\げに見ゆるに、まゐて今樣をもうたひ、舞などをも舞て佛なぐさめよ。」とぞ宣ひける。祇王とかうの御返事にも及ばず。入道「など祇王は返事はせぬぞ。參るまじいか。參るまじくば、其樣を申せ。淨海もはからふ旨あり。」とぞ宣ひける。母とぢ是を聞くにかなしくて、 [1]いかなるべしともおぼえす、なく/\教訓しけるは、「いかに祇王御前、ともかくも御返事を申せかし、さやうにしかられ參らせんよりは。」といへば、祇王「參らんとおもふ道ならばこそやがて參るとも申さめ。參らざらんもの故に何と御返事を申すべしともおぼえず。此度めさんに參らずばはからふ旨ありと仰せらるゝは、都の外へ出さるゝか、さらずば命を召さるゝか、是二つによも過ぎじ。縱都を出さるゝとも、歎くべきにあらず。たとひ命を召さるゝとも、惜かるべき又わが身かは。一度憂きものに思はれ參らせて二度面をむかふべきにもあらず。」とて、なほ御返事をも申さゞりけるを、母とぢ重ねて教訓しけるは、「天が下に住ん程はともかうも入道殿の仰をば背くまじき事にてあるぞ。男女の縁宿世今にはじめぬ事ぞかし。千年萬年と契れども、軈て離るゝ中もあり。白地とは思へどもながらへ果る事もあり。世に定なきものは男女の習なり。それに我御前は此三年まで思はれまゐらせたれば、ありがたき御情でこそあれ。めさんに參らねばとて命をうしなはるゝまではよもあらじ。唯都の外へぞ出されんずらん。縱ひ都を出さるとも、我御前たちは年若ければ、如何ならん岩木のはざまにても過さん事安かるべし。年老い衰へたる母都の外へぞ出されんずらん。習はぬ旅の住居こそかねて思ふも悲しけれ。唯我を都の内にて住果させよ。 其ぞ今生後生の孝養と思はむずる。」といへば、祇王うしと思し道なれども、親の命を背かじと、なく/\又出立ける心の中こそ無慚なれ。一人參らむはあまりにものうしとて妹の祇女をも相具しけり。其外白拍子二人、惣じて四人一車に乘て、西八條へぞ參たる。さき/\召されたる處へはいれられずして、遙に下りたる處に座敷しつらうて置かれたり。祇王「こは、されば、何事ぞや。我身に過つ事は無けれども、すてられたてまつるだにあるに、座敷をさへ下げらるゝ事の心うさよ。いかにせむ。」と思ふに、知らせじと押ふる袖のひまよりも餘りて涙ぞこぼれける。佛御前是を見て、あまりにあはれに思ければ、「あれはいかに、日頃召されぬ所にても候はばこそ。是へ召され候へかし。さらずばわらはに暇を給べ。出でて見參せん。」と申ければ、入道「すべて其儀あるまじ。」と宣ふ間、力及ばで出でざりけり。其後入道は祇王が心の内をも知たまはず、「いかに其後何事かある。さては佛御前があまりにつれ/\げに見ゆるに、今樣一つ歌へかし。」とのたまへば、祇王參る程では、ともかうも入道殿の仰をば背くまじと思ひければ、落つる涙をおさへて、今樣一つぞ歌うたる。
佛も昔は凡夫なり、我等も遂には佛なり、
何も佛性具せる身を、隔つるのみこそ悲しけれ。
と泣く/\二返歌うたりければ、其座にいくらも並居たまへる平家一門の公卿、殿上人、諸大夫、侍に至るまで皆感涙をぞ流されける。入道も面白げにおもひ給ひて「時にとては神妙に申したり。さては舞も見たけれども、今日は紛るゝ事いできたり。此後は召さずとも、常に參 て今樣をも歌ひ、舞などを舞て佛なぐさめよ。」とぞ宣ひける。祇王とかくの返事にも及ばず、涙を押へて出でにけり。
「親の命を背かじとつらき道におもむいて、二度、うき目を見つる事の心うさよ。かくて此世にあるならば、又憂き目をも見むずらん。今は只身を投げんとおもふなり。」といへば妹の祇女も「姉身を投げば、われもともに身を投ん。」といふ。母とぢ、是をきくに悲しくていかなるべしともおぼえず。泣々又教訓しけるは「誠に我御前の恨むるもことわりなり。さやうの事あるべしとも知らずして教訓して參らせつる事の心うさよ。但我御前身を [2]投げは、妹もともに身を投げんといふ。二人の娘共に後れなん後、年老衰へたる母命いきてもなにゝかはせむなれば、我もともに身を投げむとおもふなり。いまだ死期も來らぬ親に身を投げさせん事五逆罪にやあらんずらむ。此世は假の宿なり。慚ても慚ても何ならず。唯長き世の闇こそ心うけれ。今生でこそあらめ。後生でだに惡道へ趣かんずる事の悲しさよ。」とさめざめとかき口説ければ、祇王なみだをおさへて「げにもさやうにさぶらはゞ五逆罪疑なし。さらば自害は思ひ止まり候ひぬ。かくて都にあるならば、又うき目をも見むずらん。今は都の外へ出でん。」とて祇王二十一にて尼になり、嵯峨野の奧なる山里に柴の庵をひきむすび念佛してこそ居たりけれ。妹の祇女も「姉身を投げば、我も共に身を投げんとこそ契りしか、まして世を厭はむに誰かは劣るべき。」とて十九にて樣をかへ、姉と一所に籠居て後世を願ふぞあはれなる。母とぢ是をみて若き娘どもだに樣を替る世中に年老い衰へたる母白髮をつけても何にかはせ むとて四十五にて髮を剃り、二人の娘諸共に一向專修に念佛して、ひとへに後世をぞ願ひける。
かくて春過ぎ夏闌ぬ、秋の初風吹きぬれば、星合の空をながめつゝ、天のと渡る梶の葉に思ふ事かく比なれや。夕日の影の西の山の端に隱るゝを見ても、日の入給ふ所は西方淨土にてあんなり。いつか我等も彼處に生れて物を思はですぐさんずらんと、かゝるにつけても過ぎにし方の憂き事ども思ひ續けて、たゞ盡せぬ物は涙なり。黄昏時も過ぎぬれば竹の編戸を閉じ塞ぎ、燈かすかにかきたてて、親子三人念佛して居たる處に、竹の編戸を、ほと/\と打ちたゝく者出できたり。その時尼ども膽をけし「あはれ、是はいひかひなき我等が念佛してゐたるを妨げんとて、魔縁のきたるにてぞあるらん。晝だにも人の問ひ來ぬ山里の柴の庵の内なれば、夜深て誰かは尋ぬべき。僅の竹の編戸なれば、あけずとも推破んこと安かるべし。なか/\たゞあけていれんと思ふなり。それに情をかけずして、命を失ふものならば、年比頼たてまつる彌陀の本願を強く信じて、ひまなく名號を唱へ奉るべし。聲を尋ねて迎へ給ふなる聖衆の來迎にてましませば、などか引接なかるべき。相構へて念佛怠り給ふな。」と、互に心をいましめて、竹の編戸をあけたれば、魔縁にてはなかりけり、佛御前ぞ出できたる。祇王「あれはいかに。佛御前と見奉るは夢かや、うつゝか。」といひければ、佛御前涙をおさへて、「か樣の事申せば、事あたらしう候へども、申さずば、又思ひ知らぬ身ともなりぬべければ、始よりして申すなり。もとよりわらは推參の者にて、出され參らせ候ひしを、 祇王御前の申状によてこそ、召し返されても候ふに、女のかひなきこと、我身を心に任せずして、おしとゞめられまゐらせし事心うゝさぶらひしが、いつぞや又めされまゐらせていまやううたひ給ひしにも思しられてこそさぶらへ。いつか我身の上ならんと思へば、嬉しとは更におもはず。障子にまた、『いづれか秋にあはではつべき。』と書置給ひし筆の跡、げにもと思ひさぶらひしぞや。その後は在所をいづくとも知りまゐらせざりつるに、かやうにさまを替て、一處にと承はて後は、あまりに羨しくて常は暇を申しかども、入道殿さらに御用ゐましまさず。つく%\物を案ずるに、娑婆の榮花は夢の夢、樂み榮えて何かせん。人身は受け難く、佛教には遇ひ難し。此度泥梨に沈みては、多生昿劫をば隔つとも、浮み上らんこと難し。年の若きを憑むべきにあらず。老少不定のさかひ、出づる息の入るをも待つべからず。かげろふ稻妻よりも猶はかなし。一旦の樂に誇りて、後生を知らざらんことの悲しさに、今朝まぎれ出でゝ、かくなりてこそ參りたれ。」とて、かつぎたる衣を打ちのけたるを見れば、尼になてぞ出できたる。「かやうに樣をかへて參りたれば、日比の科をば許し給へ。許さんと仰せられば、諸共に念佛して、一蓮の身とならん。それに猶心行かずば、是よりいづちへも迷ひ行き、如何ならん苔の席、松が根にも倒れ臥し、命のあらんかぎり念佛して、往生の素懷を遂げんとおもふなり。」とさめざめとかきくどきければ、祇王涙をおさへて、「誠にわごぜの是ほどに思ひ給ひけるとは。夢にだに知らず、憂き世の中のさがなれば、身の憂とこそおもふべきに、ともすれば、わごぜの事のみうらめしくて往生の素懷を遂ん事かなふべしともおぼ えず、今生も後生も、なまじひに仕損じたるこゝちにてありつるに、かやうにさまをかへておはしたれば、日比の咎は露塵ほども殘らず、今は往生疑ひなし。此度素懷を遂げんこそ何よりも又嬉しけれ。我等が尼になりしをこそ世にためしなきことのやうに、人もいひ我身にも又思ひしか。それは世を恨み身を恨みて成しかば、樣を替るも理なり。今 わこぜの出家にくらぶれば事の數にもあらざりけり。わごぜは恨もなし歎もなし。今年は纔に十七にこそなる人の、かやうに穢土を厭ひ、淨土を願はんと、深く思ひいれ給ふこそ、まことの大道心とはおぼえたれ。嬉しかりける善知識かな。いざ諸共に願はん。」とて、四人一所に籠り居て、朝夕佛前に花香を供へ、餘念なく願ひければ、遲速こそありけれ、四人の尼共皆往生の素懷を遂けるとぞ聞えし。されば、後白河の法皇の、長講堂の過去帳にも、祇王、祇女、佛、とぢ等が尊靈と四人一所に入れられけり。あはれなりし事どもなり。
[1] Nihon Koten Bungaku Taikei (Tokyo: Iwanami Shoten, 1957, vol. 32; hereafter cited as NKBT) reads いかなるべしともおぼえず。.
[2] NKBT reads なげば.
[3] NKBT reads わごぜ.
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二代后
昔より今に至るまで、源平兩氏朝家に召しつかはれて、王化に隨はず、自朝權を輕んずる者には、互に誡を加しかば、代の亂れもなかりしに、保元に爲義きられ、平治に義朝誅せられて後は、末々の源氏ども、或は流され、或は失はれ、今は平家の一類のみ繁昌して、頭をさし出す者なし。如何ならん末の代までも、何事かあらむとぞ見えし。されども鳥羽院、御晏駕の後は、兵革打ち續き、死罪、流刑、闕官、停任、常に行はれて、海内も靜かならず。 世間も末落居せず。就中に永暦應保の比よりして、院の近習者をば、内より御誡あり、内の近習者をば、院より誡めらるゝ間、上下おそれをのゝいて、安い心もなし。只深淵にのぞんで薄氷をふむに同じ、主上上皇、父子の御間には何事の御隔かあるべきなれども、思の外の事どもありけり。是も世澆季に及んで、人梟惡を先とする故なり。主上院の仰を常に申かへさせおはしましける中にも、人耳目を驚し、世以て大きに傾け申すことありけり。
故近衞院の后、太皇太后宮と申しは大炊御門右大臣公能公の御娘なり。先帝に後れ奉らせ給ひて後は、九重の外、近衞川原の御所にぞ移り住ませ給ひける。前の后の宮にて、幽なる御在樣にて渡らせ給ひしが、永歴のころほひは、御年二十二三にもやならせたまひけん、御盛りも少し過させおはしますほどなり。されども、天下第一の美人の聞えまし/\ければ、主上色にのみ染める御心にて、竊に高力士に詔して、外宮に引き求めしむるに及んで、この大宮へ御艶書あり。大宮敢て聞食しもいれず。されば、ひたすらはやほに現はれて、后御入内あるべきよし、右大臣家に宣旨を下さる。此事天下に於て、異なる勝事なれば、公卿僉議あり、各意見をいふ。「先づ異朝の先蹤をとぶらふに、震旦の則天皇后は、唐の太宗の后、高宗皇帝の繼母なり。太宗崩御の後、高宗の后に立ち給へることあり。それは異朝の先規たる上、別段の事なり。然れども我朝には、神武天皇より以降、人皇七十餘代に及まで、いまだ二代の后に立たせ給へる例を聞かず。」と、諸卿一同に申されけり。上皇も然るべからざるよし、こしらへ申させ給へば、主上仰なりけるは、「天子に父母なし、我十善の戒功によて、萬乘の寶 位をたもつ、是程のこと、などか叡慮に任せざるべき。」とて、やがて御入内の日、宣下せられける上は、力及ばせ給はず。
大宮かくと聞しめされけるより、御涙に沈ませおはします。先帝に後させ參らせにし久壽の秋のはじめ、同じ野原の露と消え、家をも出、世をも遁れたりせば、かゝる憂き耳をば聞かざらましとぞ、御歎ありける。父の大臣、こしらへ申させ給ひけるは、「世に從はざるを以て、狂人とすと見えたり。既に詔命を下さる。仔細を申すにところなし。只速に參らせ給ふべきなり。もし皇子御誕生ありて、君も國母といはれ、愚老も外祖と仰がるべき瑞相にてもや候ふらむ。是偏に愚老をたすけさせおはします御孝行の御至なるべし。」と、申させ給へども、御返事もなかりけり。大宮その比、なにとなき御手習の次に、
うきふしにしづみもやらで河竹の、世にためしなき名をやながさん。
世にはいかにして漏れけるやらん、哀にやさしきためしにぞ人々申しあへりける。
既に御入内の日になりしかば、父の大臣供奉の上達部、出車の儀式など、心ことにだしたて參らせ給ひけり。大宮ものうき御出立なれば、とみにもたてまつらず。遙に夜も深け、小夜も半になて後、御車に抜け乘せられ給ひけり。御入内の後は、麗景殿にぞまし/\ける。ひたすら、朝政をすゝめ申させ給ふ御在樣なり。彼紫宸殿の皇居には、賢聖の障子を立てられたり。伊尹、第伍倫、虞世南、太公望、 ろく里先生、李勣、司馬、手長、足長、馬形の障子、鬼の間、李將軍が姿をさながら寫せる障子もあり。尾張守小野道風が、七囘賢聖の障子と書 けるも、理とぞ見えし。かの清凉殿の畫圖の御障子には、昔金岡が書きたりし遠山の在明の月もありとかや。故院の未幼主にてましましけるそのかみ、何となき御手まさぐりの次に、かきくもらかさせ給ひしが、ありしながらに少しもたがはぬを御覽じて、先帝の昔もや御戀しくおぼし召されけん。
思ひきや憂き身ながらにめぐり來て、おなじ雲井の月を見むとは。
その間の御なからへ、いひしらず哀にやさしかりし御事なり。
さる程に、永萬元年の春の比より、主上御不豫の御事と聞えさせ給ひしが、夏の初になりしかば、事の外に重らせ給ふ。是によて、大藏の大輔伊吉兼盛が娘の腹に、今上の一の宮の二歳にならせ給ふがまし/\けるを、太子にたてまゐらせ給ふべしと聞えし程に、同六月二十五日、俄に親王の宣旨下されて、やがてその夜受禪ありしかば、天下何となうあわてたるさま也。その時の有職の人々申しあはれけるは、本朝に、童帝の例を尋ぬれば、清和天皇九歳にして、文徳天皇の御禪を受けさせ給ふ。それは彼周公旦の成王に代り、南面にして、一日萬機の政を治め給ひしに准へて、外祖忠仁公、幼主を扶持し給へり。是ぞ攝政のはじめなる。鳥羽院五歳、近衞院三歳にて踐祚あり。かれをこそいつしかなりと申しに、是は二歳にならせ給ふ。先例なし。物さわがしともおろかなり。
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額打論
さる程に、同七月廿七日、上皇竟に崩御なりぬ。御歳二十三。蕾める花の散れるが如し。玉の簾、錦の帳のうち、皆御涙に咽ばせ給ふ。やがて、その夜、香隆寺の艮、蓮臺野の奧、船岡山にをさめ奉る。御葬送の時、延暦寺、興福寺の大衆、額打論といふ事しいだして、互に狼藉に及ぶ。一天の君崩御なて後、御墓所へわたし奉る時の作法は、南北二京の大衆悉く供奉して、御墓所の廻に、わが寺々の額をうつことあり。先づ聖武天皇の御願、爭ふべき寺なければ、東大寺の額をうつ。次に淡海公の御願とて、興福寺の額をうつ。北京には、興福寺に向へて延暦寺の額をうつ。次に天武天皇の御願、教待和尚、智證大師の草創とて、園城寺の額をうつ。然るを山門の大衆、いかがおもひけん、先例を背て、東大寺の次ぎ、興福寺のうへに、延暦寺の額を打つ間、南都の大衆、とやせましかやうせましと僉議するところに、興福寺の西金堂の衆、觀音房、勢至房とて聞えたる大惡僧二人ありけり。觀音房は黒絲威の腹卷に、白柄の長刀くきみじかに取り、勢至房は、萠黄威の腹卷に、黒漆の大太刀もて、二人つと走出で、延暦寺の額をきて落し、散々に打わり、「うれしや水、なるは瀧の水、日はてるとも、絶えずとうたへ。」とはやしつゝ、南都の衆徒の中へぞ入りにける。