治承四年九月二十八日 太上天皇
とぞ遊ばされたる。
さる程に此人々は九重の都を立て、千里の東海に赴かれける。平かに歸上ん事も、まことに危き有樣共にて、或は野原の露に宿をかり、或は高峯の苔に旅寢をし、山を越え河を重ね、日數歴れば、十月十六日には、駿河國清見が關にぞ著給ふ。都をば三萬餘騎で出しかど、路次の兵召具して、七萬餘騎とぞ聞えし。前陣は蒲原富士川に進み、後陣は未手越宇津谷に支へたり。大將軍權亮少將維盛、侍大將上總守忠清を召て「只維盛が存知には、足柄を打越えて坂東にて軍をせん。」と早られけるを上總守申けるは、「福原を立せ給し時、入道殿の御定には、軍をば忠清に任せさせ給へんと仰候しぞかし。八箇國の兵共皆兵衞佐に隨ひついて候なれ ば、何十萬騎か候はん。御方の御勢は七萬餘騎とは申せども、國々の驅武者共也。馬も人も責伏せて候。伊豆駿河の勢の參るべきだにも未見えず候。只富士川を前に當てて、御方の御勢を待せ給ふべうや候らん。」と申ければ、力及ばでゆらへたり。
さる程に、兵衞佐は足柄の山を打越えて、駿河國黄瀬川にこそ著給へ。甲斐信濃の源氏ども馳來て一つになる。浮島が原にて、勢汰あり。廿萬騎とぞ記いたる。常陸源氏佐竹太郎が雜色、主の使に文持て京へ上るを、平家の先陣上總守忠清是を留て、持たる文を奪取り明て見れば、女房の許への文也。苦かるまじとて取せてけり。「抑兵衞佐殿の勢、いか程有ぞ。」と問へば、「凡そ八日九日の道に、はたとつゞいて、野も山も海も河も武者で候。下臈は四五百千迄こそ、物の數をば知て候へ共其より上は知らぬ候。多いやらう少いやらうをば知候はず。昨日黄瀬川にて、人の申つるは、源氏の御勢二十萬騎とこそ申候つれ。」上總守是を聞いて、「あはれ大將軍の御心の延させ給たる程、口惜い事候はず。今一日も先に討手を下させ給ひたらば、足柄の山越えて、八箇國へ御出候はゞ、畠山が一族、大庭兄弟、などか參らで候べき。是等だにも參りなば、坂東には靡かぬ草木も候まじ。」と、後悔すれども甲斐ぞなき。
又大將軍權亮少將維盛、東國の案内者とて、長井齋藤別當實盛を召て、「やや實盛、汝程の強弓精兵、八箇國に如何程有ぞ。」と問ひ給へば、齋藤別當あざ笑て申けるは、「左候へば、君は實盛を大矢と思召し候か。僅に十三束こそ仕り候へ。實盛程射候者は八箇國に幾らも候。大 矢と申す定の者の、十五束に劣て引は候はず、弓の強さも、したゝかなる者五六人して張り候。かゝる精兵共が射候へば、鎧の二三兩をも重ねて、容易う射て徹し候也。大名一人と申は勢の少い定、五百騎に劣るは候はず。馬に乘つれば落る道を知らず。惡所を馳れども、馬を倒さず。軍は又親も討れよ、子も討れよ、死ぬれば乘越々々戰ふ候。西國の軍と申は親討れぬれば孝養し、忌明て寄せ、子討れぬれば、其思ひ歎きに、寄候はず。兵粮米盡ぬれば春は田作り、秋は刈収て寄せ、夏は熱しと云ひ、冬は寒しと嫌ひ候。東國には、惣て其儀候はず。甲斐信濃の源氏共、案内は知て候。富士のすそより搦手にやまはり候らん。かう申せば、君を憶せさせ參せんとて申とや思召し候らん。其儀には候はず。軍は勢には依らず、策に依るとこそ申傳て候へ。實盛今度の軍に命生て再都へ參るべしとも覺候はず。」と申ければ、平家の兵共是を聞て、皆震ひわなゝきあへり。
さる程に、十月二十三日にもなりぬ。明日は源平富士川にて、矢合と定めたりけるに、夜に入て、平家の方より源氏の陣を見渡せば、伊豆駿河の人民百姓等が、軍に怖て、或は野に入り山に隱れ、或は舟に取乘て、海河に浮び、營の火見えけるを、平家の兵共「あなおびただしの源氏の陣の遠火の多さよ。げにも誠に野も山も海も河も、皆敵で有けり。如何せん。」とぞあわてける。其夜の夜半ばかり、富士の沼に幾らもむれ居たりける水鳥共が、何にか驚きたりけん、只一度にはと立ける羽音の、大風雷などの樣に聞えければ、平家の兵共、「すはやげんじの大勢の寄するは。齋藤別當が申つる樣に、定めて搦手もまはるらん。取籠められて は叶ふまじ。爰をば引いて、尾張河、州俣を防げや。」とて、取る物も取敢ず、我先にとぞ落行ける。餘に遽て噪いで弓取る者は矢を知らず、矢取る者は弓を知らず、人の馬には我乘り、わが馬をば人に乘らる。或は繋いだる馬に騎て株を繞る事限なし。近き宿々より迎へ取て遊びける遊君遊女共、或は頭蹴破れ、腰蹈折れて、喚叫ぶ者多かりけり。
あくる二十四日卯の刻に、源氏大勢廿萬騎、富士川に押寄て、天も響き大地も搖ぐ程に、閧をぞ三箇度作りける。
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五節之沙汰
平家の方には、音もせず。人を遣はして見せければ、「皆落て候。」と申す。或は敵の忘たる鎧取て參りたる者も有り。或は敵の捨たる大幕取て參りたる者も有り。「敵の陣には蠅だにも翔り候はず。」と申す。兵衞佐、馬より降り、甲を脱ぎ、手水鵜飼をして、王城の方を伏拜み、「是は全く頼朝が私の高名にあらず、八幡第菩薩の御計也。」とぞ宣ひける。やがて打取る所なればとて、駿河國をば一條次郎忠頼、遠江をば安田三郎義定に預けらる。平家續いても攻べけれども後もさすが覺束なしとて浮島原より引退き、相摸國へぞ歸られける。海道宿々の遊君遊女ども、「あな忌々し。射手の大將軍の矢一つだに射ずして、逃上り給ふうたてさよ。軍には見逃と云事をだに心憂き事にこそするに、是は聞にげし給ひたり。」と笑ひあへり。落書共多かりけり。都の大將軍をば宗盛と云ひ、討手の大將をば權亮と云ふ間、平家をひら屋 によみなして、
ひらやなるむねもりいかにさわぐらん、柱とたのむすけをおとして。
富士河の瀬々の岩こす水よりも、はやくもおつるいせ平氏かな。
上總守たゞきよが、富士河に鎧を捨たりけるを讀めり。
富士河に鎧はすてつ、墨染の衣たゞきよ後の世のため。
たゞきよはにげの馬にぞのりにける、上總鞦かけてかひなし。
同十一月八日、大將軍權亮少將維盛、福原の新都へ上りつく。入道相國大に怒て、「大將軍權亮少將維盛をば鬼界が島へ流すべし、侍大將上總守忠清をば死罪に行へ。」とぞ宣ひける。同九日平家の侍共、老少參會して、「忠清が死罪の事、いかゞ有らん。」と評定す。中に主馬判官盛國進出でて申けるは、「忠清は昔より不覺人とは承り及ばず、あれが十八歳と覺え候、鳥羽殿の寶藏に五畿内の惡黨二人、迯籠て候しを、寄て搦めうと申す者候はざりしに、此忠清白晝に唯一人築地を越え、はね入て、一人をば討取り、一人をば生捕て、後代に名を揚たりし者にて候。今度の不覺は、徒事とも覺え候はず。是に附ても、能々兵亂の御愼候べし。」とぞ申ける。
同十日、大將軍權亮少將維盛、右近衞中將になり給ふ。「討手の大將と聞えしかども、させるし出たる事もおはせず。是は何事の勸賞ぞや。」と人々ささやき合へり。
昔將門追討の爲に、平將軍貞盛、田原藤太秀里、うけ給て坂東へ發向したりしかども、將門 容易う亡難かりしかば、重て討手を下すべしと、公卿僉議あて、宇治民部卿忠文、清原重藤、軍監と云ふ官を給て下られけり。駿河國清見關に宿したりける夜、彼重藤、漫々たる海上を遠見して、「漁舟火影寒うして浪を燒き、驛路鈴聲夜山をすぐ」と云ふ唐歌を高らかに口ずさみ給へば、忠文優に覺えて、感涙をぞ流されける。さる程に將門をば、貞盛秀里が終に討取てけり。其頭を持せて上る程に、清見關にて行逢うたり。其より先後の大將軍打連て上洛す。貞盛秀里に勸賞行はれける時、忠文重藤にも勸賞有べきかと、公卿僉議有り。九條右丞相師輔公の申させ給ひけるは、「坂東へ討手は向うたりと云へども、將門容易う亡ひ難き處に、此人共仰を蒙て、關の東へ赴く時、朝敵既に亡びたり。さればなどか勸賞無るべき。」と申させ給へども、其時の執柄小野宮殿、「『疑しきをば成す事なかれ』と禮記の文に候へば。」とて、遂になさせ給はず。忠文是を口惜事にして、「小野宮殿の御末をば、奴に見なさん。九條殿の御末には、何の世迄も守護神と成ん。」と誓ひつゝ、干死にこそし給ひけれ。されば九條殿の御末は、目出たう榮させ給へども、小野宮殿の御末には、然るべき人も坐さず、今は絶果給ひけるにこそ。
さる程に入道相國の四男、頭中將重衡、左近衞中將に成給ふ。同十一月十三日福原には、内裏造出して、主上御遷幸有り。大嘗會あるべかりしかども、大嘗會は十月の末、東河に御幸して、御禊有り。大内の北の野に齋場所を作て、神服神具を調ふ。大極殿の前、龍尾道の壇下に、迴立殿を建て、御湯をめす。同壇の竝に、大嘗宮を作て、神膳を備ふ。宸宴有り。御 遊有り。大極殿にて大禮有り。清暑堂にて御神樂有り。豊樂院にて宴會あり。然を此福原の新都には、大極殿も無ければ、大禮行ふべき處もなし。清暑堂無れば、御神樂奏すべき樣もなし。豊樂院も無れば、宴會も行はれず。今年は唯新嘗會五節許有るべきよし、公卿僉議有て、猶新嘗の祭をば、舊都の神祇官にして遂られけり。
五節は、淨見原の當時、吉野宮にして、月白く風烈しかりし夜、御心を澄しつゝ琴を彈給しに、神女あま下り、五度袖を飜す。是ぞ五節の始なる。
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都歸
今度の都遷をば、君も臣も御歎有り。山奈良を始て、諸寺諸社に至る迄、然べからざる由一同に訴申間、さしも横紙を破るゝ太政入道も、さらば都還有るべしとて京中ひしめきあへり。
同十二月二日、俄に都還有けり。新都は北は山にそひて高く、南は海近くして下れり。波の音常は喧く、鹽風烈しき所也。されば新院いつとなく、御惱のみしげかりければ、急ぎ福原を出させ給ふ。攝政殿を始奉て、太政大臣以下の公卿殿上人我も/\と供奉せらる。入道相國を始として平家一門の公卿殿上人我先にとぞ上られける。誰か心憂かりつる新都に、片時も殘るべき。去る六月より屋ども壞よせ、資材雜具運び下し、形の如く取立たりつるに、又物狂はしう、都還有ければ、何の沙汰にも及ばず、打捨々々上られけり。各すみかも無く して、八幡、賀茂、嵯峨、太秦、西山、東山の片邊について、御堂のくわい廊、社の拜殿などに、立宿てぞ然るべき人々もましましける。
今度の都遷の本意を如何にと云ふに、舊都は南都北嶺近くして、聊の事にも春日の神木、日吉の神輿など言て亂りがはし。福原は山隔たり江重て、程もさすが遠ければ、左樣の事たやすからじとて、入道相國の計ひ出されたりけるとかや。
同十二月二十三日、近江源氏の背きしを攻んとて、大將軍には左兵衞督知盛、薩摩守忠度、都合其勢二萬餘騎で、近江國へ發向して、山本、柏木、錦古里など云ふ溢れ源氏共一々に皆攻落し、やがて美濃尾張へ越え給ふ。
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奈良炎上
都には又高倉宮園城寺へ入御の時、南都の大衆同心して、剩へ御迎に參る候、是以て朝敵なり。されば南都をも三井寺をも攻らるべしといふ程こそ在けれ、奈良の大衆おびただしく蜂起す。攝政殿より「存の旨あらば、幾度も奏聞にこそ及ばめ。」と仰下されけれ共一切用たてまつらず。有官の別當忠成を御使に下されたりければ、「しや乘物より取て引落せ、髻切れ。」と騒動する間、忠成色を失て迯上る。次に右衞門佐親雅を下さる。是をも「髻切れ。」と大衆ひしめきければ、取る物も取敢ず、逃上る。其時は勸學院の雜色二人が、髻切れけり。
又南都には大なる毬杖の玉作て、是は平相國の頭と名附て、「打て、踏め。」などぞ申ける。 「詞の漏し易は殃を招く媒也。詞の愼まざるは、破れを取る道也。」と云へり。此入道相國と申は、かけまくも忝く當今の外祖にて坐ます。其をか樣に申ける南都の大衆、凡は天魔の所爲とぞ見えたりける。
入道相國か樣の事共傳聞給ひて、爭か好しと思はるべき。且々南都の狼藉を靜めんとて、備中國の住人瀬尾太郎兼康、大和國の檢非所に補せらる。兼康五百餘騎で南都へ發向す。「相構て、衆徒は狼藉を致すとも、汝等は致すべからず。物具なせそ。弓箭な帶しそ。」とて向はれたりけるに、大衆かゝる内議をば知らず、兼康が餘勢六十餘人搦取て、一々に皆頸を斬て、猿澤の池の端にぞ懸竝べたる。入道相國大に怒て、「さらば南都を攻よや。」とて、大將軍には頭中將重衡、副將軍には中宮亮通盛、都合其勢四萬餘騎で南都へ發向す。大衆老少嫌はず七千餘人甲の緒をしめ、奈良坂、般若寺、二箇所の路を掘切て、堀ほり垣楯かき、逆茂木引て待かけたり。平家は四萬餘騎を二手に分て、奈良坂、般若寺、二箇所の城郭に押寄て、鬨をどとつくる。大衆は皆歩立打物なり。官軍は馬にてかけまはしかけまはし、あそここゝに追懸/\指つめ引つめ散々に射ければ、防ぐ所の大衆數を盡いて討れにけり。卯刻に矢合して一日戰ひ暮す。夜に入て、奈良坂、般若寺、二箇所の城郭共に破れぬ。落行く衆徒の中に、坂四郎永覺と云ふ惡僧あり。打物持ても弓箭を取ても力の強さも七大寺十五大寺に勝たり。萌黄威の腹巻の上に、黒絲威の鎧を重てぞ著たりける。帽子甲に五枚甲の緒をしめて、左右の手には茅の葉の樣に反たる白柄の大長刀、黒漆の大太刀持つまゝに、同宿十餘人前後にたて、 てがいの門より打て出でたり。是ぞ暫支たる。多くの官兵、馬の足薙れて討れにけり。されども官軍は大勢にて、入替入替攻ければ、永覺が前後左右に防ぐ所の同宿皆討れぬ。永覺只獨猛けれども、後あらはになりければ、南を指いて落ぞ行く。
夜軍に成て、暗は暗し、大將軍頭中將重衡、般若寺の門の前に打立て、「火を出せ。」と宣ふ程こそ在けれ。平家の勢の中に播磨國の住人福井庄の下司、次郎太夫友方と云ふ者、楯を破り續松にして、在家に火をぞ懸けたりける。十二月二十八日の夜なりければ、風は烈しゝ、火本は一つなりけれども、吹迷ふ風に、多くの伽藍に吹かけたり。恥をも思ひ、名をも惜む程の者は、奈良坂にて討死し、般若寺にて討れにけり。行歩に叶へる者は、吉野十津川の方へ落ゆく。歩も得ぬ老僧や、尋常なる修學者、兒ども、女童部は、大佛殿、山階寺の内へ我先にとぞ迯行ける。大佛殿の二階の上には、千餘人昇り上り、敵の續くを上せじと階をば引てけり。猛火は正う押懸たり。喚叫ぶ聲、焦熱、大焦熱、無間阿鼻のほのほの底の罪人も、是には過じとぞ見えし。
興福寺は淡海公の御願、藤氏累代の寺なり。東金堂に坐ます佛法最初の釋迦の像、西金堂に坐ます自然湧出の觀世音、瑠璃を竝べし四面の廊、朱丹を交へし二階の樓、九輪空に輝きし二基の塔、忽に煙となるこそ悲しけれ。東大寺は常在不滅、實報寂光の生身の御佛と思めし準へて、聖武皇帝、手ら親ら琢き立給ひし金銅十六丈の盧舎那佛、鳥瑟高く顯れて、半天の雲にかくれ、白毫新に拜れ給ひし滿月の尊容も、御頭は燒落て大地に有り、御身は鎔合 て山の如し。八萬四千の相好は、秋の月早く五重の雲に掩隱れ、四十一地の瓔珞は、夜の星空く十惡の風に漂ふ。煙は中天に滿々て、炎は虚空に隙もなし。親りに見奉る者、更に眼を當ず、遙に傳聞く人は、肝魂を失へり。法相三論の法門聖教、總て一巻も殘らず。我朝はいふに及ばず、天竺震旦にも、是程の法滅有るべしともおぼえず。優填大王の紫磨金を瑩き、毘首羯摩が赤栴檀を刻じも、纔に等身の御佛なり。況や是は南閻浮提の中には、唯一無雙の御佛、長く朽損の期あるべしとも覺えざりしに、今毒縁の塵に交て、久く悲を殘し給へり。梵釋四王、龍神八部、冥官冥衆も、驚き騒給ふらんとぞ見えし。法相擁護の春日大明神、如何なる事をか覺しけん。されば春日野の露も色變り、三笠山の嵐の音、恨る樣にぞ聞えける。ほのほの中にて燒死ぬる人數をしるいたりければ、大佛殿の二階の上には一千七百餘人、山階寺には八百餘人、或御堂には五百餘人、或御堂には三百餘人、具に記いたりければ、三千五百餘人なり。戰場にして討るゝ大衆千餘人、少々は般若寺の門に切かけ、少々は頸共持せて都へ上り給ふ。
二十九日、頭中將、南都亡して北京へ歸りいらる。入道相國ばかりぞ、憤晴て喜ばれける。中宮一院上皇攝政以下の人々は、「惡僧をこそ滅すとも、伽藍を破滅すべしや。」とぞ御歎有ける。衆徒の頸ども本は大路を渡いて、獄門の木にかけらるべしと、聞えしかども、東大寺興福寺の亡ぬる淺ましさに沙汰にも及ばず。あそここゝの溝や堀やにぞ捨置ける。聖武皇帝の宸筆の御記文には、「我寺興複せば、天下も興複し、我寺衰微せば、天下も衰微すべし。」 と遊されたり。されば天下の衰微せん事、疑なしとぞ見えたりける。淺ましかりつる年も暮れ、治承も五年に成にけり。
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平家物語卷第六
新院崩御
治承五年正月一日のひ、内裏には、東國の兵革、南都の火災に依て、朝拜停められ、主上出御もなし。物の音も吹鳴さず、舞樂も奏ぜず、吉野の國栖も參らず、藤氏の公卿一人も參ぜられず、氏寺燒失に依て也。二日のひ殿上の宴醉もなし。男女打ひそめて、禁中忌々しうぞ見えける。佛法王法ともに盡ぬる事ぞ淺ましき。一院仰なりけるは、「我れ十善の餘薫に依て萬乘の寶位を保つ。四代の帝王、思へば子也孫也。如何なれば萬機の政務を停められて、空う年月を送らむ。」とぞ御歎有ける。
同五日のひ、南都の僧綱等、闕官せられ、公請を停止し、所職を沒収せらる。衆徒は老たるも若きも、或は射殺され、或は斬殺され、或は煙の中を出でず、炎に咽んで多く亡にしかば、纔に殘る輩は山林に交り、跡を留る者一人もなし。興福寺別當花林院僧正永圓は、佛像經卷の煙とのぼりけるを見て、あな淺ましと、心打騒ぎ、心をくだかれけるより病附て、幾程もなく終に失給ぬ。此僧正は優に情深き人也。或時郭公の鳴を聞いて、
聞く度にめづらしければほとゝぎす、いつも初音の心地こそすれ。
と云歌を詠うで、初音僧正とぞ云れ給ける。
但しかたのやうにても御齋會は在べきにて僧名の沙汰在しに、南都の僧綱は闕官せられぬ、北京の僧綱を以て行はるべきかと公卿僉議あり。さればとて南都をも捨果させたまふべきならねば、三論宗の學生、成法已講が勸修寺に忍つゝ隱れ居たりけるを召出されて、御齋會形のごとくに行はる。上皇は、去去年法皇の鳥羽殿におしこめられさせ給し御事、去年高倉宮の討たれさせ給し御有樣、都遷とて淺間しかりし天下の亂れ、加樣の事共御心苦しう思食されけるより御惱つかせ給ひて、常は煩しう聞えさせ給ひしが、東大寺興福寺の亡びぬるよし聞召されて、御惱彌重らせ給ふ。法皇斜ならず御歎有し程に、同正月十四日六波羅池殿にて、上皇終に崩御成ぬ。御宇十二年、徳政千萬端、詩書仁義の廢ぬる道を興し、理世安樂の絶たる跡を繼給ふ。三明六通の羅漢も免れ給はず、幻術變化の權者も遁ぬ道なれば、有爲無常の習なれども、理過てぞ覺えける。やがて其夜東山の麓、清閑寺へ遷し奉り、夕の煙とたぐへ、春の霞と上らせ給ひぬ。澄憲法印御葬送に參會んと、急ぎ山より下られけるが、はや空しき煙と成らせ給ふを見參せて、
常に見し君が御幸をけふ問へば、かへらぬ旅ときくぞ悲き。
又或女房、君隱させ給ひぬと承て、かうぞ思ひつゞける。
雲の上に行末遠く見し月の、光きえぬときくぞかなしき。
御年廿一。内には十戒を保ち、外には五常を亂らず、禮義を正うせさせ給ひけり。末代の賢 王にて坐ましければ、世の惜み奉る事、月日の光を失へるが如し。かやうに人の願も叶はず、民の果報も拙き人間の境こそ悲けれ。
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紅葉
「ゆうに優う人の思附き參らする方も恐くは延喜天暦の帝と申すとも、爭でか是には勝るべき。」とぞ人申ける。大方は兼王の名を揚げ、仁徳の行を施させまします事も、君御成人の後清濁を分たせ給ひての上の返事にてこそ有るに、此君は無下に幼主の御時より、性を柔和に受させ給へり。去ぬる承安の比ほひ、御在位の始つかた、御年十歳許にも成せ給ひけん、餘に紅葉を愛せさせ給ひて、北の陣に小山を築せ、櫨楓の、色うつくしう紅葉したるを植させて、紅葉の山と名づけて、終日に叡覧有に、猶飽足せ給はず。然を或夜野分はしたなう吹て、紅葉を皆吹散し、落葉頗狼藉なり。殿守の伴の造朝ぎよめすとて、是を悉く掃捨ててけり。殘れる枝、散れる木葉をば掻聚て、風寒じかりけるあしたなれば、縫殿の陣にて、酒煖てたべける薪にこそしてんげれ。奉行藏人、行幸より先にと、急ぎ行て見るに、跡形なし。「如何に。」と問へば、「しか%\。」といふ。藏人大きに驚き、「あな淺まし。君のさしも執し思召されつる紅葉をか樣にしける淺ましさよ。知らず、汝等、只今禁獄流罪にも及び、我身も如何なる逆鱗にか預らんずらん。」と、歎く處に、主上いとゞしく夜のおとゞを出させ給ひも敢ず、かしこへ行幸成て、紅葉を叡覧なるに、無りければ、「如何に。」と御尋有に、藏人 奏すべき方はなし、有の儘に奏聞す。天氣殊に御心好げに打笑せ給ひて、「『林間に酒を煖めて紅葉を燒く』と云ふ詩の心をば、其等には誰が教へけるぞや。優うも仕りける物哉。」とて、却て叡感に預し上は、敢て勅勘無りけり。
又安元の比ほひ、御方違の行幸有しに、さらでだに鶏人曉唱聲、明王の眠を驚す程にも成しかば、何も御寢覺がちにて、つや/\御寢もならざりけり。況や冱る霜夜の烈きには、延喜聖代、國土の民共いかに寒るらんとて、夜のおとゞにして、御衣を脱せ給ける事などまでも思召し出して、我帝徳の至ぬ事をぞ御歎有ける。やゝ深更に及んで、程遠く人の叫ぶ聲しけり。供奉の人々は聞附られざりけれども、主上聞召て、「今叫ぶ者は何者ぞ。きと見て參れ。」と仰ければ、上臥したる殿上人、上日の者に仰す。走り散て尋ぬれば、或辻に、怪の女童のながもちの蓋提て泣にてぞ有ける。「いかに。」と問へば、「主の女房の、院の御所に侍はせ給ふが、此程やうやうにして、したてられつる御裝束が持て參る程に、只今男の二三人詣來て、奪取て罷りぬるぞや。今は御裝束が有ばこそ、御所にもさぶらはせ給はめ。はかばかしう立宿せ給ふべき親い御方も坐さず。此事思ひつゞくるに泣也。」とぞ申ける。さて彼女童を具して參り、此由奏聞しければ、主上聞召て、「あな無慚。如何なる者のしわざにてか有らん。堯の代の民は、堯の心のすなほなるを以て心とするが故に皆すなほ也。今の代の民は、朕が心を以て心とするが故に、かたましき者朝に在て罪を犯す。此吾恥に非ずや。」とぞ仰ける。「さて取られつらん衣は何色ぞ。」と御尋あれば、「然々の色。」と奏す。建禮門院の未中宮にておは しましける時なり。其御方へ、「さやうの色したる御衣や候。」と仰ければ、先のより遙に美きが參たりけるを、件の女童にぞ賜せける。「未夜深し、又さる目にもや逢ふ。」とて、上日の者をつけて、主の女房の局まで送せましましけるぞ忝き。されば怪の賤の男、賤の女に至る迄、只此君千秋萬歳の寶算をぞ祈り奉る。
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葵前
中にも哀成し御事は、中宮の御方に候はせ給ふ女房の召使ける上童、思はざる外、龍顏に咫尺する事有けり。唯尋常の白地にても無して主上常はめされけり。まめやかに御志深かりければ、主の女房も召使はず、却て主の如くにぞいつきもてなしける。そのかみ謠詠にいへることあり。「女を生でもひいさんする事無れ。男を生でも喜歡する事無れ。男は侯にだにも封ぜられず、女は妃たり。」とて、后に立つと云へり。此人女御后とももてなされ、國母仙院ともあふがれなんず。目出たかりける幸かなとて其名をば葵前と云ければ、内々は葵女御などぞささやきける。主上是を聞召て、其後は召ざりけり。御志の盡ぬるには非ず、唯世の謗を憚せ給ふに依て也。されば常に御詠がちにて、夜のおとゞにのみぞ入せ給ふ。
其時の關白松殿、御心苦しき事にこそあんなれ。申慰め參せんとて、急ぎ御參内有て、「さ樣に叡慮にかゝらせ坐さん事、何條事か候べき。伴の女房とく/\召さるべしと覺え候。品尋らるゝに及ばず、基房やがて猶子に仕り候はん。」と奏せさせ給へば、主上「いさとよ。そ こに申事はさる事なれども、位を退て後は、間さるためしもあんなり。正う在位の時、さ樣の事は後代の謗なるべし。」とて、聞召も入ざりけり。關白殿力及ばせ給はず、御涙を抑て、御退出有り。其後主上緑の薄樣の殊に匂深かりけるに、古きことなれ共、思召し出て遊れける。
しのぶれど色に出にけり我戀は、物や思ふと人のとふまで。
此御手習を冷泉少將隆房賜り續で、件の葵前に賜せたれば、顏打ち赤め、例ならぬ心地出來たりとて里へ歸り、打臥す事五六日して終にはかなく成にけり。「君が一日の恩の爲に妾が百年の身を誤つ。」ともか樣の事をや申べき。昔唐太宗の鄭仁基が娘を元觀殿に入んとし給ひしを、魏徴、「彼娘既に陸氏に約せり。」と諫申しかば殿に入るゝ事をやめられけるには、少も違はせ給はぬ御心ばせ也。
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小督
主上戀募の御思に沈ませおはします。申慰參せんとて、中宮の御方より小督殿と申す女房を參せらる。此女房は、櫻町中納言重教卿の御娘、宮中一の美人、琴の上手にておはしける。冷泉大納言隆房卿、未少將なりし時、見初たりし女房なり。少將初は歌を詠み文を盡し戀悲しみ給へども、靡く氣色も無りしが、さすが歎に弱る心にや、終には靡給ひけり。されども今は君に召れ參せて、爲方もなく悲さに、飽ぬ別の涙には、袖しほたれてほしあへず。 少將餘所ながらも小督殿見奉る事もやと、常は參内せられけり。御座ける局の邊、御簾のあたりを彼方此方へ行き通りたゝずみ歩き給へども、小督殿吾君に召されん上は、少將いかにいふとも、詞をもかはし文を見べきにもあらずとて、傳の情をだにも懸られず。少將若やと、一首の歌を詠で、小督殿のおはしける御簾の中へ投入たる。
思かね心は空にみちのくの、ちかの鹽釜近きかひなし。
小督殿、やがて返事もせばやと思はれけれども、君の御爲、御後めたうや思はれけん、手にだに取ても見給はず。やがて上童に取せて、坪の内へぞ投出す。少將情なう恨めしけれども、人もこそ見れと、空恐しう思はれければ、急ぎ是を取て懷に入てぞ出られける。猶立歸て、
玉章を今は手にだにとらじとや、さこそ心に思ひすつとも。
今は此世にて相見ん事も難ければ、生て物を思んより、死んとのみぞ願れける。
入道相國是を聞き、中宮と申も御女也、冷泉少將も聟也。小督殿に、二人の聟を取られて、「いやいや小督があらん限りは世の中好まじ。召出して失はん。」とぞ宣ひける。小督殿漏聞いて、「我身の事は爭でもありなん、君の御爲御心苦し。」とて或暮方に内裏を出て、行方も知ず失たまひぬ。主上御歎斜ならず、晝は夜のおとゞに入せ給ひて、御涙にのみ咽び、夜は南殿に出御成て、月の光を御覧じてぞ、慰せ給ひける。入道相國是を聞き、「君は小督故に思召し沈せ給ひたん也。さらむには。」とて、御介錯の女房達をも參せず、參内し給ふ臣下をも猜み給へば、入道の權威に憚て、通ふ人もなし。禁中彌忌々しうぞ見えける。
かくて八月十日餘に成にけり。さしも隈なき空なれど、主上は御涙に曇りつゝ、月の光も朦にぞ御覧ぜられける。やゝ深更に及で、「人やある/\。」と召れけれども、御いらへ申す者もなし。彈正少弼仲國其夜しも御宿直にまゐて遙に遠う候が、「仲國」と御いらへ申たれば、「近う參れ。仰下さるべき事有り。」何事やらんとて御前近う參じたれば、「汝若小督が行方や知たる。」仲國「爭か知り參せ候ふべき。努々知り參らせず候。」「誠やらん、小督は嵯峨の邊に片折戸とかやしたる内に在りと申す者の有ぞとよ。主が名をば知らずとも、尋ねて參せなんや。」と仰ければ、「主が名を知り候はでは、爭か尋參せ候べき。」と申せば、「實にも。」とて、龍顏より御涙を流させ給ふ。
仲國つく%\と物を案ずるに、誠や、小督殿は、琴彈給ひしぞかし。此月の明さに、君の御事思出參せて、琴彈給はぬ事はよもあらじ。御所にて彈給ひしには、仲國笛の役に召されしかば、其琴の音は、何くなりとも聞知んずる物を。嵯峨の在家幾程かあるべき。打廻て尋ねんに、などか聞出ざるべきと思ひければ、「さ候はば、主が名は知らずとも、若やと尋ね參せて見候はん。但し尋逢參らせて候とも御書を給はらで申さんにはうはの空にや思召され候はんずらん。御書を賜はて向ひ候はん。」と申ければ、誠にもとて、御書をあそばいて給うだりけり。「寮の御馬に乘て行け。」とぞ仰ける。仲國寮の御馬給はて、明月に鞭を揚げ、そことも知らずあくがれ行く。小鹿鳴く此山里と詠じけん、嵯峨の邊の秋の比、さこそは哀にも覺けめ。折片戸したる屋を見附ては、此内にやおはすらんと、ひかへ/\聞けれども、琴彈く 所も無りけり。御堂などへ參り給へる事もやと、釋迦堂を始て、堂々見まはれども、小督殿に似たる女房だに見え給はず。空う歸參たらんは、中々參らざらんよりは惡かるべし。これよりもいづちへも迷行かばやと思へども、何くか王地ならぬ、身をかくすべき宿もなし。如何せんと思ひ煩ふ。誠や、法輪は程近ければ、月の光に誘れて、參り給へる事もやと、其方に向てぞ歩ませける。
龜山の傍近く、松の一村有る方に、幽に琴ぞ聞えける。峯の嵐か松風か、尋ぬる人の琴の音か、覺束なくは思へども、駒を早めて行く程に、片折戸したる内に、琴をぞ彈澄されたる。控へて是を聞ければ、少しも紛べうもなき小督殿の爪音也。樂は何ぞと聞ければ、夫を想て戀ふると詠む想夫婦と云ふ樂なり。さればこそ、君の御事思出でまゐらせて、樂こそ多けれ、此樂を彈給ひける優さよ。在り難う覺て腰よりやうでう拔出し、ちと鳴いて、門をほと/\と敲けば、軈て彈止給ぬ。高聲に「是は内裏より仲國が御使に參て候、開させ給へ。」とて、たゝけども/\、咎る人も無りけり。やゝ有て、内より人の出る音のしければ嬉う思て待つ所に、鎖子をはづし、門を細目に開け、いたいけしたる小女房、顏ばかり指出いて、「門違にてぞ候らん。是には、内裏より御使など給はるべき所にても候はず。」と申せば、中々返事して門たてられ、鎖子さゝれては惡かりなんと思ひて、押開てぞ入にける。妻戸の際の縁に居て、「いかにか樣の所には御渡候やらん。君は御故に思召沈ませ給ひて、御命も既に危うこそ見えさせ御坐し候へ。只うはの空に申とや思召され候はん。御書を給て參て候。」とて、取出 て奉る。有つる女房取次で、小督殿に參せたり。開て見給へば、誠に君の御書也けり。軈て御返事書き引結び、女房の裝束一重添て出されたり。仲國、女房の裝束をば肩にうちかけ申けるは、「餘の御使で候はば御返事の上はとかう申に及び候はねども、日比内裏にて御琴遊しし時、仲國笛の役に召され候し奉公をば爭か御忘候べき。直の御返事を承らで歸參らん事こそ世に口惜う候へ。」と申ければ、小督殿實もとや思はれけん、自ら返事し給ひけり。「其にも聞せ給ひつらん。入道相國の餘に怖き事をのみ申すと聞しかば淺ましさに、内裏をばにげ出て、此程はかゝる栖ひなれば、琴など彈く事無りつれども、さても有るべきならねば、明日よりは大原の奥に思ひ立つ事の候へば、主の女房の今夜ばかりの名殘を惜うで、今は夜も更ぬ、立聞く人もあらじなど勸れば、さぞな昔の名殘もさすが床くて、手馴し琴を彈く程に、安うも聞出されけりな。」とて、涙もせき敢給はねば、仲國も袖をぞ濕しける。やゝ有て、仲國涙を抑へて申けるは、「明日より大原の奥に思召立つ事と候は、御樣などを變させ給ふべきにこそ。努々あるべうも候はず。さて君の御歎をば何とかし參せ給べき。是ばし出し參すな。」とて、供に召具したる馬部吉上など留置き、其屋を守護せさせ、寮の御馬に打騎て、内裏へ歸參りたれば、ほの%\と明にけり。「今は入御もなりぬらん。誰して申入べき。」とて、寮の御馬繋せ、ありつる女房の裝束をばはね馬の障子に打掛け、南殿の方へ参れば主上は未夜邊の御座にぞまし/\ける。「南に翔北に嚮、寒温を秋鷹に付難し。東に出で西に流れ、唯瞻望を曉の月に寄す。」と、打詠めさせ給ふ處に、仲國つと參りたり。小督殿の御返事をぞ參せた る。主上なのめならず御感なて、「汝やがてよさり具して參れ。」と仰ければ、入道相國の還聞給はん所は怖しけれども、是又綸言なれば、雜色牛飼牛車清げに沙汰して、嵯峨へ行向ひ、參るまじき由やう/\に宣へども、樣々に拵へて、車にとり乘奉り、内裏へ參たりければ、幽なる所に忍せて、夜々召されける程に、姫宮御一所出來させ給ひけり。此姫宮と申は坊門の女院の御事なり。入道相國何としてか漏聞たりけん。「小督が失たりといふ事は、跡形もなき虚言也けり。」とて小督殿を捕へつつ、尼に成てぞ放たる。小督殿出家は元よりの望なりけれども、心ならず尼に成されて、歳二十三、濃墨染にやつれ果てて嵯峨の邊にぞすまれける。うたてかりし事ども也。主上はか樣の事共に、御惱はつかせ給て、遂に御隱れありけるとぞ聞えし。
法皇は打續き御歎のみぞ繁かりける。去る永萬には第一の御子、二條院崩御なりぬ。安元二年の七月には御孫六條院かくれさせ給ぬ。天に栖まば比翼鳥、地にすまば連理枝と成んと、漢河の星を指て、御契淺からざりし建春門院、秋の霧に侵されて、朝の露と消させ給ひぬ。年月は重なれ共、昨日今日の御別の樣に思召して、御涙も未盡せぬに、治承四年五月には、第二皇子高倉宮討たれさせ給ひぬ。現世後生たのみ思召されつる新院さへ先立せ給ぬれば、とにかくに、かこつ方なき御涙のみぞ進ける。「悲の至て悲きは、老て後子に後たるよりも悲きはなし。恨の至て恨しきは、若うして親に先立よりも恨しきはなし。」と、彼朝綱相公の、子息澄明に後て、書たりけん筆のあと今こそ思召し知られけれ。さるままには彼一乘妙典の 御讀誦も、怠らせ給はず、三密行法の御薫修も、積らせ給けり。天下諒闇に成しかば、大宮人も推竝て、華の袂や窶けん。
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廻文
入道相國、か樣に痛う情なう振舞おかれし事を、さすが怖とや思はれけん、法皇慰め參せんとて、安藝の嚴島の内侍が腹の御娘、生年十八に成給ふが、優に花やかにおはしけるを法皇へ參らせらる。上臈女房達餘た選ばれて、參られける。公卿殿上人多く供奉して、偏に女御參の如くにてぞありける。上皇隱させ給て後、僅に二七日だにも過ざるに、然るべからずとぞ人々内々はささやきあはれける。
さる程に、其比信濃國に、木曽冠者義仲と云ふ源氏有りと聞えけり。故六條判官爲義が次男帶刀先生義方が子なり。父義方は、久壽二年八月十六日鎌倉の惡源太義平が爲に誅せらる。其時義仲二歳なりしを、母泣々抱へて信濃へ越え、木曽中三兼遠が許に行き、「是如何にもして育て、人に成て見せ給へ。」と云ひければ、兼遠請取てかひ/\しう二十餘年養育す。漸長大する儘に、力も世に勝れてつよく、心も雙なく甲なりけり。ありがたき強弓精兵、馬の上、かちたち、都て上古の田村、、利仁、餘五將軍、致頼、保昌、先祖頼光、義家朝臣と云ふ共、爭か是には勝べきとぞ人申ける。
或時乳母の兼遠を召てのたまひける。「兵衞佐頼朝既に謀反を起し、東八箇國を討從へて、東 海道より上り、平家を追落んとするなり。義仲も東山北陸兩道を從へ、今一日も先に平家を責落し、譬へば日本國に、二人の將軍と云はればや。」とほのめかしければ、中三兼遠大きに畏り悦で、「其料にこそ、君をば今迄養育し奉れ。かう仰らるゝこそ誠に八幡殿の御末とも覺えさせ給へ。」とて、やがて謀反を企てけり。
兼遠に具せられて常は都へ上り平家の人々の振舞在樣をも見伺ひけり。十三で元服しけるも、八幡へまゐり八幡大菩薩の御前にて「我が四代の祖父義家朝臣は此御神の御子と成て名をば八幡太郎と號しき。且つは其跡を追べし。」とて八幡大菩薩の御寶前にて髻取上げ、木曽次郎義仲とこそ付たりけれ。兼遠、先めぐらし文候べしとて、信濃國には、禰井小彌太滋野行親を語ふに、背く事なし。是を始て、信濃一國の兵共、なびかぬ草木もなかりけり。上野國には故帶刀先生義方が好にて田子郡の兵共、皆隨附にけり。平家の末に成る折を得て、源氏の年來の素懷を遂んとす。