饭饭TXT > 海外名作 > 《平家物语(日文版)》作者:[日]未知【完结】 > 平家物语.txt

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作者:日-未知 当前章节:15702 字 更新时间:2026-6-19 10:59

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飛脚到來

木曽と云所は、信濃に取ても南の端、美濃境なれば都も無下に程近し。平家の人々漏れ聞て、「東國の背だに有に北國さへ、こは如何に。」とぞ噪れける。入道相國仰られけるは、「其者心にくからず。思へば信濃一國の兵共こそ、隨附と云ふとも、越後國には、餘五將軍の末葉、城太郎助長、同四郎助茂、是等は兄弟共に多勢の者也。仰下したらんずるに、安う討て參せ てんず。」と宣ひければ、「如何在んずらむ。」と内々はささやく者多かりけり。

二月一日、越後國住人、城太郎助長、越後守に任ず。是は木曽追討せられんずる謀とぞ聞えし。同七日大臣以下家々にて、尊勝陀羅尼、不動明王、書供養せらる。是は又兵亂の愼の爲也。

同九日、河内國石川郡に居住したりける武藏權守入道義基、子息石川判官代義兼、平家を背て、兵衞佐頼朝に心を通し既に東國へ落行べき由聞えしかば、入道相國やがて討手を遣す。討手の大將には源大夫判官末方、攝津判官盛澄、都合其勢三千餘騎で發向す。城内には武藏權守入道義基、子息判官代義兼を先として、其勢百騎許には過ざりけり。鬨作り矢合して、入かへ/\數刻戰ふ。城の内の兵共、手のきは戰ひ、打死する者多かりけり。武藏權守入道義基討死す。子息石川判官代義兼は、痛手負て生捕にせらる。同十一日義基法師が首都へ入て大路を渡さる。諒闇に賊首を渡さるゝ事、堀河天皇崩御の時、前對馬守源義親が首を渡されし例とぞ聞えし。

同十二日、鎭西より飛脚到來、宇佐大宮司公通が申けるは、九州の者共、緒方三郎を始として、臼杵、戸次、松浦黨 に至る迄、一向平家を背いて源氏に同心の由申たりければ、「東國北國の背だに有に、こは如何に。」とて、手を打てあざみ合へり。

同十六日に、伊豫國より飛脚到來、去年の冬比より、河野四郎通清を初として、四國の者共皆平家を背いて、源氏に同心の間、備後國の住人、額の入道西寂、平家に志深かりければ、 伊豫國へ押渡り、道前道後のさかひ、高直城にて、河野四郎通清を討候ぬ。子息河野四郎通信父が討たれける時、安藝國の住人奴田次郎は母方の伯父なりければ、其へ越えてありあはず。通信父を討せて安らぬ者也。如何にもして西寂を討取むとぞ窺ひける。額入道西寂河野四郎通清を討て後、四國の狼藉を鎭め、今年正月十五日に備後の鞆へ押渡り、遊君遊女共聚めて、遊戲れ酒もりしけるが、前後も知らず醉臥したる處に、河野四郎思切たる者共百餘人相語て、はと押寄す。西寂が方にも三百餘人有ける者共、俄の事なれば、思も設けず周章ふためきけるを、立合ふ者をば射伏せ切伏せ、先西寂を生捕して、伊豫國へ押渡り、父が討れたる高直城へさげて行き、鋸で頸を切たりとも聞えけり。又磔にしたりとも聞えけり。

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入道死去

其後四國の者共、皆河野四郎に隨附く。熊野別當湛増も、平家の重恩の身なりしが、其も背いて源氏に同心の由聞えけり。およそ東國北國悉く背きぬ。南海西海かくのごとし。夷狄の蜂起耳を驚し、逆亂の先表頻に奏す。四夷忽に起れり。世は唯今失なんずとて、必平家の一門ならねども、心有る人々の歎き悲まぬは無りけり。

同廿三日、公卿僉議あり。前右大將宗盛卿申されけるは坂東へ討手は向たりと云ども、させる爲出したる事も候はず。今度は宗盛大將軍を承て、向べき由申されければ、諸卿色代し て、「ゆゝしう候なん。」と申されけり。公卿殿上人も、武官に備り、弓箭に携らん人々は、宗盛卿を大將軍にて、東國北國の凶徒等追討すべき由仰下さる。

同二十七日前右大將宗盛卿源氏遂討の爲に、東國へ既に門出と聞えしが、入道相國違例の心地とて、留り給ひぬ。明る廿八日より重病を受給へりとて、京中六波羅「すは仕つる事を。」とささやけり。入道相國病附給ひし日よりして、水をだに喉へ入たまはず、身の内の熱き事火を燒が如し。臥給へる所、四五間が内へ入る者は、熱さ堪がたし。唯宣ふ事とては、「あたあた」とばかり也。少しも徒事とは見えざりけり。比叡山より、千手井の水を汲下し、石の船に湛へて、其に下て冷給へば、水夥う湧上て、程なく湯にぞ成にける。若や扶かり給ふと筧の水をまかせたれば、石や鐡などの燒たる樣に、水迸て寄附ず。自ら中る水は、ほのほと成て燃ければ、黒煙殿中に充滿て、炎渦巻いて上りけり。是や昔法藏僧都といし人、閻王の請に趣いて、母の生所を尋ねしに閻王憐み給ひて、獄卒を相副へて焦熱地獄へ遣さる。鐡の門の内へ差入ば、流星などの如くに、炎空へたちあがり、多百由旬に及びけんも、今こそ思知られけれ。

入道相國の北の方、二位殿の夢に見給ひける事こそ恐しけれ。譬へば、猛火の夥う燃たる車を門の内へ遣入たり。前後に立たる者は或は馬の面の樣なる者も有り、或は牛の面の樣なる者も有り。車の前には、無と云ふ文字ばかりぞ見えたる鐡の札をぞ立たりける。二位殿夢の心に、「あれは何よりぞ。」と御尋あれば、「閻魔の廳より平家太政入道殿の御迎に參て候。」 と申す。「さて、其札は何といふ札ぞ。」と問せ給へば、「南閻浮提金銅十六丈の盧遮那佛燒亡し給へる罪に依て、無間の底に堕給ふべき由、閻魔の廳に御さだめ候が、無をば書かれて、間の字をば未だ書れぬ也。」とぞ申ける。二位殿打驚き、汗水になり、是を人に語給へば、聞く人皆身の毛よだちけり。靈佛靈社に、金銀七寶を投げ、馬鞍鎧冑弓箭太刀刀に至る迄、取出し運出して祈られけれども、其驗も無りけり。男女の君達、跡枕に指つどひて、如何にせんと歎悲み給へども叶べしとも見えざりけり。

閏二月二日、二位殿熱う堪難けれども、御枕の上に寄て、泣々宣けるは、「御有樣見奉に、日に添て憑少うこそ見えさせ給へ。此世に思食おく事あらば、少し物の覺えさせ給ふ時、仰置け。」とぞ宣ひける。入道相國、さしも日來はゆゝしげに坐しかども、誠に苦げにて、息の下に宣ひけるは、「われ保元平治より以來、度々の朝敵を平げ、勸賞身に餘り、忝くも帝祖太政大臣に至り、榮花子孫に及ぶ。今生の望、一事も殘る所なし。但し思置く事とては、伊豆國の流人前右兵衞佐頼朝が頸を見ざりつるこそ安からね。我如何にも成なん後は堂塔をも立て孝養をもすべからず。やがて討手を遣し、頼朝が頭を刎て、我墓の前にかくべし。其ぞ孝養にて有んずる。」と宣ひけるこそ、罪深けれ。

同四日、病に責められ、せめての事に、板に水を沃て、其に臥轉給へ共、助る心地もし給はず。悶絶びやく地して、遂にあつち死にぞし給ひける。馬車の馳違ふ音天も響き大地も搖ぐほど也。一天の君萬乘の主の、如何なる御事在すとも是には過じとぞ見えし。今年は六十四にぞ 成給ふ、老死と云べきにはあらねども、宿運忽に盡給へば、大法秘法の効驗もなく、神明三寶の威光も消え、諸天も擁護し給はず。況や凡慮に於てをや。命に代り身に代らんと忠を存ぜし數萬の軍旅は、堂上堂下に竝居たれども、是は目にも見えず力にも關らぬ無常の刹鬼をば、暫時も戰返さず。又歸り來ぬ死出の山、三瀬川、黄泉中有の旅の空に、唯一所こそ赴き給ひけめ。日比作り置れし罪業計や、獄卒と成て、迎に來けん。哀なりし事共也。さても有べきならねば、同七日に、愛宕にて煙になし奉り、骨をば圓實法眼頸にかけて、攝津國へ下り、經島にぞ納ける。さしも日本一州に名を揚げ威を振し人なれども、身は一時の煙と成て、都の空に立上り、屍は暫やすらひて、濱の眞砂に戲つゝ、空き土とぞ成給ふ。

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築嶋

やがて葬送の夜不思議の事餘た有り。玉を磨き金銀を鏤て作られし西八條殿、其夜俄に燒ぬ。人の家の燒るは、常の習ひなれ共、淺間しかりし事共也。何者の所爲にや有けん、放火とぞ聞えし。又其夜六波羅の南に當て、人ならば二三十人が聲して、「嬉や水鳴は瀧の水」と云ふ拍子を出して、舞躍り、どと笑ふ聲しけり。去ぬる正月には、上皇隱させ給ひて、天下諒闇に成ぬ。僅に中一兩月を隔て、入道相國薨ぜられぬ。怪の賤の男賤の女に至る迄、如何が憂へざるべき。是は如何樣にも天狗の所爲と云ふ沙汰にて、平家の侍の中にはやりをの若者共、百餘人笑ふ聲について、尋行て見れば、院の御所法住寺殿に、此二三年は院も渡らせ 給はず、御所預備前前司基宗と云ふ者有り。彼基宗が相知たる者共、二三十人夜に紛れて來り集り酒を飲けるが、初はかゝる折節に音なせそとて飲む程に、次第に飲醉て、か樣に舞躍ける也。はと押寄せて、酒に醉たる者共一人も漏さず三十人ばかり搦て、六波羅へ將て參り、前右大將宗盛卿のおはしける坪の内にぞ引居たる。事の仔細を能々尋聞給ひて實も其程に醉たらんずる者をば斬るべきにもあらずとて皆許されけり。人の失ぬる跡には、恠しの者も朝夕に鐘打鳴し、例時懺法讀む事は、常の習ひなれども、此禪門薨ぜられぬる後は、供佛施僧の營と云ふ事もなし。朝夕は唯軍合戰の策より外は、他事なし。

凡は最後の所勞の有樣こそうたてけれ共、直人とも覺ぬ事共多かりけり。日吉社へ參り給ひしにも、當家他家の公卿多く供奉して、攝ろくの臣の春日御參詣、宇治入など云ふもとも、是には爭か勝るべきとぞ人申ける。又何事よりも福原の經島築いて今の世に至る迄、上下往來の船の煩なきこそ目出たけれ。彼島は去る應保元年二月上旬に築始められたりけるが、同年の八月に俄に大風吹き大浪立て、皆淘失ひてき。同三年三月下旬に、阿波民部重能を奉行にて、築かせられけるが、人柱立てらるべしなど、公卿僉議有しかども、罪業なりとて、石の面に一切經を書いて、築れたりける故にこそ、經島とは名づけたれ。

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慈心坊

古い人の申されけるは、清盛公は惡人とこそ思へども、誠は慈慧僧正の再誕也。其故は、攝 津國清澄寺と云ふ山寺あり。彼寺の住僧慈心房尊慧と申しけるは本は叡山の學侶、多年法華の持者也。然るに道心を發し離山して、此寺に年月を送りければ皆人是を歸依しけり。去ぬる承安二年十二月廿二日の夜、脇息に倚懸り法華經讀奉りけるに、丑刻ばかりに夢ともなく現ともなく、年五十計なる男の淨衣に立烏帽子著て、草鞋脛巾したるが、立文を持て來れり。尊慧「あれは何くよりの人ぞ。」と問ければ、「閻魔王宮よりの御使也。宣旨候。」とて、立文を尊慧に渡す。尊慧是を開いて見れば、

くつ請、閻浮提大日本國攝津國清澄寺の慈心房尊慧、來廿六日、閻魔羅城大極殿にして、十萬人の持經者を以て十萬部の法華經を轉讀せらるべき也。仍て參勤せらるべし。閻王宣に依てくつ請如件。

承安二年十二月廿二日   閻魔廳

とぞ書かれたる。尊慧いなみ申べき事ならねば、左右なう領承の請文を書て奉ると覺て、覺にけり。偏に死去の思なして、院主の光影房に此事を語る。皆人奇特の思ひをなす。尊慧口には彌陀の名號を唱へ、心に引攝の悲願を念ず。やう/\二十五日の夜陰に及で常住の佛前にいたり例の如く脇息に倚懸て念佛讀經す。子刻に及で眠切なるが故に、住房に歸て打臥す。丑刻許に又先の如くに淨衣裝束なる鬼二人來て、はや/\參らるべしと勸る間、閻王宣を辭せんとすれば、甚其恐有り。參詣せんとすれば、更に衣鉢なし。此思をなす時、法衣自然に身に纒て肩に懸り、天より金の鉢下る。二人の童子、二人の從僧、十人の下僧、七 寶の大車、寺坊の前に現ず。尊慧なのめならず喜で即時に車に乘る。從僧等西北の方に向て空を翔て、程なく閻魔王宮にいたりぬ。

王宮の體を見るに、外郭渺々として、其内曠々たり。其内に七寶所成の大極殿あり。高廣金色にして、凡夫の褒る所にあらず。其日の法會終て後、請僧皆歸る時、尊慧は南方の中門に立て遙に大極殿を見渡せば、冥官冥衆、皆閻魔法王の御前に畏る。尊慧あり難き參詣也。此次に後生の事尋申さんとて、大極殿へ參る。其間に二人の童子かいを指し、二人の從僧箱を持ち、十人の下僧列を引て、漸々歩近附く時、閻魔法王、冥官冥衆皆悉下迎ふ。多聞持國二人の童子に現じ、藥王菩薩勇施菩薩、二人の從僧に變ず。十羅刹女十人の下僧に現じて、隨逐給仕し給へり。閻王問て曰く、「餘僧皆歸去ぬ。御房來る事如何。」「後生の在所承はらん爲也。」「但し往生不往生は、人の信不信に有り云々。」閻王又冥官に勅してのたまはく、「此御房の作善の文箱南方の寶藏にあり。取出して一生の行、化他の碑の文見せ奉れ。冥官承て、南方の寶藏に行て、一の文箱を取て參りたり。即蓋を開て是を悉く讀聞す。尊慧悲歎啼泣して、「唯願くは我を哀愍して出離生死の方法を教へ、證大菩提の直道を示給へ。」其時閻王哀愍教化して、種々の偈を誦す。冥官筆を染て一々に是を書く。

妻子王位財眷屬  死去無一來相親常隨業鬼繋縛我  苦受叫喚無邊際

閻王此偈を誦し終て、即ち彼の文を尊慧に附屬す。尊慧なのめならず悦で、「日本の大相國 と申す人攝津國和田御崎を點じて、四面十餘町に屋を作り、今日の十萬僧會の如く持經者を多くくつ請して、坊ごとに一面に座につき、説法讀經、丁寧に勤行を致され候。」と申ければ、閻王隨喜感嘆して、「件の入道は、たゝ人に非ず、慈慧僧正の化身也。天台の佛法護持の爲に、日本に再誕す。故に、毎日に三度彼人を禮する文あり。則此文を以て彼人に奉るべし。」とて、

敬禮慈慧大僧正  天台佛法擁護者示現最初將軍身  惡業衆生同利益

尊慧是を給はて、大極殿の南方の中門を出づる時、官士等十人門外に立て、車に乘せ、前後に隨ふ。又、空を翔て歸り來る。夢の心地して息出きにけり。尊慧是を以て、西八條へ參り、入道相國に參せたりければ、斜ならず悦て、樣々もてなし樣々の引出物共給で、其勸賞に律師に成されけるとぞ聞えし。さてこそ、清盛公をば、慈慧僧正の再誕也と人知りてけれ。

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祇園女御

又或人の申けるは、清盛公は忠盛が子には非ず、誠には白河院の皇子也。其故は、去る永久の比ほひ、祇園女御と聞えし幸人御座ける。件の女房のすまひ所は、東山の麓祇園の邊にてぞ有ける。白河院常は御幸なりけり。或時殿上人一兩人、北面少々召具して、しのびの御幸有しに、比は五月廿日餘のまだ宵の事なれば、目さすとも知ぬ闇ではあり、五月雨さへ掻暮し、誠にいぶせかりけるに、件の女房の宿所近く御堂あり。御堂の傍に光物出來たり。首 は銀の針を磨立たる樣にきらめき、左右の手と覺しきを差上たるが、片手には槌の樣なる物を持ち、片手には光る物をぞ持たりける。君も臣も「あな恐ろし、是は誠の鬼と覺る。手に持てる物は、聞る打出の小槌なるべし。如何せん。」と噪せ御座す處に、忠盛其比は未だ北面の下臈にて、供奉したりけるを召て、「此中にて汝ぞあるらん、あの者射もころし、斬も停なんや。」と仰せければ、忠盛畏まり承て行向ふ。内々思けるは、此者さしも猛き者とは見えず。狐狸などにてぞあるらん。是を射も殺し、斬も殺したらんは、無下に念なかるべし。生捕にせんと思て、歩倚る。と計有ては颯と光り、と計有ては颯と光り、二三度しけるを、忠盛走り寄て、むずと組む。組まれて、「こは如何に。」と騒ぐ。變化の者にては無りけり、はや人にてぞ在ける。其時上下手々に火をともいて、是を御覧じ見給ふに、六十計の法師也。譬へば御堂の承仕法師で有けるが、御明參せんとて、手瓶と云ふ物に油を入て、片手には土器に火を入てぞ持たりける。雨は沃にいて降る、濡じとて、かしらに小麥の藁を笠の樣に引結うでかついだり、土器の火に小麥藁耀て、銀の針の樣には見えける也。事の體一々に露れぬ。「是を射も殺し、切も殺したらんは、如何に念無らん。忠盛が振舞樣こそ思慮深けれ。弓矢取る身は優かりけり。」とて、其勸賞にさしも御最愛と聞えし祇園の女御を忠盛にこそ給だりけれ。

さて彼女房院の御子を孕み奉しかば、「産らん子、女子ならば朕が子にせん。男子ならば忠盛が子にして弓矢とる身に仕立よ。」と仰けるに即男を産めり。此事奏聞せんと伺ひけれど も、然るべき便宜も無りけるに、或時白河院熊野へ御幸なりけるが紀伊國絲鹿坂と云ふ所に、御輿かき居させ暫御休息有けり。藪にぬかごの幾らも有けるを、忠盛袖にもり入て、御前へ參り、

いもが子は這ふ程にこそ成にけれ。

と申たりければ、院やがて御心得有て、

たゞもりとりてやしなひにせよ。

とぞ附させ坐ける。其よりしてこそ、吾子とは持成ける。此若君餘に夜啼をし給ひければ、院聞食されて、一首の詠を遊して下されけり。

夜啼すとたゞもりたてよ末の代は、清く盛る事もこそあれ。

さてこそ、清盛とは名乘られけれ。十二の歳兵衞佐に成る。十八の歳四品して四位の兵衞佐と申しを、仔細存知せぬ人は、「華族の人こそかうは。」と申せば、鳥羽院も知召されて、「清盛が華族は、人に劣じ。」とぞ仰ける。

昔も天智天皇孕み給へる女御を、大織冠に賜ふとて、「此女御の産らん子女子ならば朕が子にせん、男子ならば臣が子にせよ。」と仰けるに、即男を産み給へり。多武峰の本願、定慧和尚是なり。上代にもかゝるためし有ければ、末代にも平大相國、誠に白河院の御子にておはしければにや、さばかりの天下の大事都遷などといふ輙からぬ事共、思立たれけるにこそ。

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州俣合戰

同閏二月廿日、五條大納言國綱卿失せ給ぬ。平大相國と、さしも契深う志し淺からざりし人也。せめての契の深にや、同日に病附て、同月にぞ失せられける。此大納言と申は兼資中納言より八代の末葉、前右馬助守國が子也。藏人にだに成らず、進士の雜色とて候はれし、近衞院御在位の時、仁平の比ほひ、内裡に俄に燒亡出きたり。主上南殿に出御在しかども、近衞司一人も參ぜられず、あきれて立せおはしましたる處に、此國綱腰輿を舁せて參り、「か樣の時は、かかる御輿にこそ召され候へ。」と奏しければ、主上是に召て出御在り。「何者ぞ。」と御尋在ければ、「進士の雜色藤原國綱」と名乘り申。「かかるさか/\しき者こそあれ、召仕るべし。」と其時の殿下法性寺殿へ迎含られければ、御領餘た給ひなどして召仕はれける程に、同帝の御代に八幡へ行幸在しに、人長が酒に醉て水に倒れ入、裝束を濕し、御神樂遲々したりけるに、此國綱、神妙にこそ候はねども、人長が裝束は持せて候。」とて、一具取出されたりければ、是を著て御神樂調へ奏しけり。程こそ少しも推移たりけれども、歌の聲もすみのぼり、舞の袖、拍子に合て面白かりけり。物の身にしみて面白事は神も人も同心也。昔天の岩戸をおしひらかれけん神代の事わざ迄も今こそ思食知られけれ。

やがて此國綱の先祖に山蔭中納言といふ人おはしき。其子に如無僧都とて智慧才覺身に餘り、徳行持律の僧おはしけり。昌泰の比ほひ、寛平法皇、大井河へ御幸在しに、勸修寺の内大臣 高藤公の御子、泉の大將貞國、小倉山の嵐に烏帽子を河へ吹入られ袖にて髻を押へ、爲方なくてぞ立たりけるに、此如無僧都三衣箱の中より烏帽子一つとり出されたるけるとかや。彼僧都は、父、山蔭中納言、太宰大貳に成て鎭西へ下られける時、二歳なりしを、繼母惡であからさまに抱くやうにして、海に落し入殺さんとしけるを、死にける誠の母、存生の時、桂の鵜飼が鵜の餌にせんとて、龜を取て殺さんとしけるを著給へる小袖を脱ぎ、龜にかへ、放たれたりしが、其恩を報ぜんと、此若君落し入けるを水の上に浮び來て、甲に乘てぞ扶けたりける。其れは上代の事なれば如何有けん。末代に國綱卿の高名在がたき事共也。法性寺殿の御世に中納言になる。法性寺殿かくれさせ給ひて後入道相國存ずる旨ありとて、此人に語らひより給へり。大福長者にておはしければ、何にても必ず毎日に一種をば入道相國の許へ贈られけり。現世のとくいこの人に過べからずとて、子息一人養子にして、清國と名乘らせ、又入道相國の四男、頭中將重衡は彼大納言の聟になる。

治承四年の五節は福原にて行はれけるに、殿上人中宮の御方へ推參ありしが、或雲客の「竹湘浦に斑なり。」といふ朗詠をせられたりければ、此大納言立聞して、「あな淺間し、是は禁忌也とこそ承れ。かかる事きくとも聞じ。」とて、ぬき足して遁出られぬ。譬へば、此朗詠の心は、昔堯の帝に二人の姫宮ましましき。姉をば娥黄と云ひ、妹をば女英と云ふ。共に舜の御門の后也。舜の御門かくれ給ひて後、彼蒼梧の野邊へ送り奉り、烟となし奉る時、二人の后名殘を惜み奉り、湘浦といふ所迄隨ひつゝ、泣悲しみ給ひしに、其涙岸の竹に懸て斑にぞ染たり ける。其後も常には彼所におはして瑟を引て慰み給へり。今彼所を見るなれば、岸の竹は斑にて立けり。琴を調べし迹には雲たなびいて、物哀なる心を橘相公の賦に作れる也。此大納言はさせる文才詩歌麗しうおはせざりしか共、かゝるさかしき人にてか樣の事までも聞咎められけるにこそ。此人大納言までは思も寄らざりしを、母上賀茂大明神に歩みを運び、「願くは、我子の國綱一日でも候へ、藏人頭歴させたまへ。」と、百日肝膽を碎いて祈申されけるが、或夜の夢に檳榔の車をゐて來て、我家の車寄に立と夢を見て、是を人に語り給へば、「其れは、公卿の北方に成せ給ふべきにこそ。」とあはせたりければ、「我年已に闌たり。今更さ樣の振舞在べしとも覺えず。」と宣ひけるが、御子國綱藏人頭は事も宜し。正二位大納言に上り給ふこそ目出けれ。

同廿二日、法皇は院の御所法性寺殿へ御幸なる。彼御所は去ぬる應保三年四月十五日に造り出されて、新比叡、新熊野なども間近う勸請し奉り、山水木立に至る迄思召まゝなりしが、此二三年は平家の惡行に依て、御幸もならず。御所の破壞したるを修理して、御幸成し奉るべき由、前右大將宗盛卿奏せられたりければ、何の樣もあるべからず、唯とう/\とて御幸成る。先故建春門院の御方を御覧ずれば、岸の松、汀の柳年經にけりと覺て、木高くなれるに附ても、太液の芙蓉、未央の柳、是に向ふに如何が涙進ざらん。彼南内西宮の昔の跡、今こそ思召知れけれ。

三月一日南都の僧綱等、本官に復して末寺庄園もとの如く知行すべき由仰下さる。同三日大 佛殿造り始めらる。事始の奉行には藏人左少辨行隆とぞ聞えし。此行隆、先年八幡へ參り、通夜せられたりけるが、夢に御寶殿の内よりびんづら結たる天童の出て、「是は大菩薩の使なり。大佛殿奉行の時は是を持つべし。」と笏を賜はると云ふ夢を見て、覺て後見給へば、現に在けり。「あな不思議や當時何事あてか、大佛殿奉行に參るべき。」とて懷中して宿所へ歸り、深う納て置れけるが、平家の惡行に依て、南都炎上の間、此行隆、辨の中に選ばれて、事始の奉行に參られける宿縁の程こそ目出たけれ。

同三月十日、美濃國の目代、都へ早馬を以て申けるは、東國の源氏共すでに尾張國迄攻上り、道を塞ぎ、人を通さぬ由申たりければ、やがて討手を差遣す。大將軍には、左兵衞督知盛、左中將清經、小松少將有盛、都合其勢三萬餘騎で發向す。入道相國うせたまひて後、纔に五旬をだにも過ざるに、さこそ亂たる代といひながら、淺ましかりし事共也。源氏の方には十郎藏人行家、兵衞佐の弟卿公義圓、都合其勢六千餘騎、尾張河を中に隔て、源平兩方に陣をとる。

同十六日の夜半ばかり、源氏の勢六千餘騎河を渡て、平家三萬餘騎が中へをめいて懸入る。明れば十七日寅刻より矢合して、夜の明る迄戰ふに、平家の方には些も騒がず。「敵は河を渡いたれば馬物具も皆濡たるぞ、其を標にして討てや。」とて、大勢の中に取籠て、「餘すな、漏すな。」とて責め給へば、源氏の勢殘少なに討なされ、大將軍行家辛き命生て河より東へ引退く。卿公義圓は深入して討たれにけり。平家やがて河を渡て、源氏を追物射に射て行く。 源氏あそこ此で歸し合せ/\防けれ共、敵は大勢、御方は無勢也。かなふべしとも見ざりけり。『水澤を後にする事無れ。』とこそ云ふに、今度の源氏の策、愚なり。」とぞ人申ける。

去程に大將軍十郎藏人行家、參河國に打越て、矢矧川の橋を引き、垣楯掻て待懸たり。平家やがて押寄せ攻給へば、こらへずして、そこをも、又、攻落れぬ。平家やがて續て攻給はば、參河遠江の勢は、隨つくべかりしに大將軍左兵衞督知盛、勞有て參河國より歸上らる。今度も僅に一陣を破ると云へども、殘黨を攻ねば、し出たる事なきが如し。平家は去々年小松大臣薨ぜられぬ。今年又入道相國失給ひぬ。運命の末に成る事あらはなりしかば、年來恩顧の輩の外は、隨附く者無りけり。東國には草も木も皆源氏にぞ靡きける。

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嗄聲

去程に越後國の住人、城太郎助長、越後守に任ず。朝恩の忝さに、木曽追討の爲に、都合三萬餘騎同六月十五日門出して、明る十六日の卯刻にすでに討立んとしけるに、夜半許、俄に大風吹き、大雨降り、雷おびたゞしう鳴て、天晴て後雲井に大なる聲のしはがれたるを以て、「南閻浮提金銅十六丈の盧遮那佛燒亡し奉る平家の方人する者爰に有り、召取や。」と、三聲叫んでぞ通ける。城太郎を始として、是をきく者、皆身の毛よだちけり。郎等共、「是程怖しい天の告の候ふに、唯理を枉て留せ給へ。」と申けれども、「弓矢取る者の、其によるべき樣なし。」とて、明る十六日卯刻に城を出て僅に十餘町ぞ行たりける。黒雲一村立來て、助 長が上に掩ふとこそ見えけれ、俄に身すくみ心ほれて、落馬してけり。輿に舁乘せ館へ歸り、打臥す事三時許して、遂に死にけり。飛脚を以て、此由都へ申たりければ、平家の人々、大に噪がれけり。

同七月十四日改元有て、養和と號す。其日筑後守貞能、筑前肥後兩國を給はて、鎭西の謀反平げに、西國へ發向す、其日又非常の大赦行はれて、去ぬる治承三年に流され給ひし人々、召還さる。松殿入道殿下備前國より御上洛、太政大臣妙音院尾張國より上らせたまふ。按察大納言資方卿信濃國より歸洛とぞ聞えし。

同廿八日、妙音院殿御院參。去ぬる長寛の歸洛には、御前の簀子にして、賀王恩、還城樂を彈せ給しに、養和の今の歸京には、仙洞にして秋風樂をぞ遊しける。何も/\風情折を思召よらせ給けん御心の程こそ目出けれ。按察大納言資方卿も、其日院參せらる。法皇、「如何にや夢の樣にこそ思食。習ぬ鄙の住ひして、郢曲なども、今は跡方あらじと思召せども、先今樣一つ有ばや。」と仰ければ、大納言拍子取て、「信濃に有なる木曽路川。」と云ふ今樣を、是は見給ひたりし間、「信濃に有し木曽路川」と歌はれけるぞ時に取ての高名なる。

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横田河原合戰

八月七日の日官の廳にて、大仁王會行はる。是は將門追討の例とぞ聞えし。九月一日、純友追討の例とて、鐵の鎧甲を伊勢大神宮へ參せらる。勅使は祭主神祇權大副大中臣定高、 都を立て近江國甲賀の驛より病附き、伊勢の離宮にして、死にけり。謀反の輩調伏の爲に、五壇の法承て行はれける降三世の大阿闍梨、大行事の彼岸所にして、ね死にしぬ。神明も三寶も、御納受なしと云ふ事いちじるし。又大元法承て修せられける安祥寺の實玄阿闍梨が御巻數を進じたりけるを、披見せられければ、平家調伏の由を註進したりけるぞ怖しき。「こは如何に。」と仰ければ、「朝敵調伏せよと仰下さる。當世の體を見候ふに、平家專朝敵と見え給へり。仍て是を調伏す、何のとがや候べき。」とぞ申ける。「此法師奇怪也。死罪か流罪か。」と有しが、大小事の怱劇に、打紛れて其後沙汰も無りけり。源氏の代と成て後、鎌倉殿「神妙なり。」と感じ思食して、其勸賞に、大僧正に成されけるとぞ聞えし。

同十二月廿四日、中宮院號蒙せ給ひて、建禮門院とぞ申ける。未幼主の御時、母后の院號是始とぞ承る。さる程に今年も暮て、養和も二年に成にけり。

二月廿一日、太白昴星を侵す。天文要録に曰、「太白昴星を侵せば、四夷起る。」と云へり。又「將軍勅令を蒙て、國の境を出。」とも見えたり。

三月十日、除目行はれて、平家の人々大略官加階し給ふ。四月十日、前權少僧都顯眞、日吉社にして、如法に法華經一萬部轉讀する事有けり。御結縁の爲に、法皇も御幸なる。何者の申出したりけるやらん、一院山門の大衆に仰て、平家を追討せらるべしと聞えし程に、軍兵内裏へ參て、四方の陣頭を警固す。平氏の一類、皆六波羅へ馳集る。本三位中將重衡卿、法皇の御むかへに其勢三千餘騎で日吉の社へ參向す。山門に又聞えけるは、平家山攻んとて、 數百騎の勢を率して登山すと聞えしかば、大衆皆東坂本へ降下て、「こは如何に。」と僉議す。山上洛中の騒動斜ならず。供奉の公卿殿上人色を失なひ、北面の者の中には餘にあわて噪いで、黄水つく者多かりけり。本三位中將重衡卿、穴太の邊にて、法皇迎取參せて還御なし奉る。「かくのみ有んには此後は御物詣なども今は御心に任すまじき事やらん。」とぞ仰ける。まことには山門大衆平家を追討せんといふ事もなし。平家山せめんといふ事もなし。是跡形なき事共也。「天魔の能く荒たるにこそ。」とぞ人申ける。同四月廿日、臨時に官幣あり。是は飢饉疾疫に依て也。

同五月二十四日改元有て、壽永と號す。其日又越後國の住人城四郎助茂、越後守に任ず。兄の助長逝去の間、不吉なりとて頻に辭し申けれども、勅令なれば力不及。助茂を長茂と改名す。

同九月二日、城四郎長茂木曽追討の爲に、越後、出羽、會津四郡の兵共を引率して、都合其勢四萬餘騎、信濃國へ發向す。同九日、當國横田河原に陣をとる。木曽は依田城に有りけるが、是を聞て依田城を出て三千餘騎で、馳向ふ。信濃源氏、井上九郎光盛が謀に、俄に赤旗七旒作り三千餘騎を七手に分ち、あそこの峯、こゝの洞より赤旗ども手に/\指揚て寄ければ、城四郎是を見て、「あはや此國にも平家の方人する人有けりと、力附ぬ。」とて、勇のゝしる處に、次第に近う成ければ、相圖を定めて、七手が一つに成り、一度に閧をどとぞ作ける。用意したる白旗、さと差揚たり。越後の勢共、是を見て、「敵何十萬騎有らん。如何せん。」と 色を失ひ、あわてふためき、或は河に追はめられ、或は惡所におひ落され、助る者は少う、討るゝ者ぞ多かりける。城四郎が頼切たる越後の山太郎、會津の乘丹房と云ふ聞ゆる兵共、そこにて皆討れぬ。我身手負ひ、辛き命生つゝ、河に傳うて越後國へ引退く。

同十六日、都には平家是をば事共し給はず前右大將宗盛卿、大納言に還著して、十月三日、内大臣に成給ふ。同七日悦申あり。當家の公卿十二人扈從して、藏人頭以下、殿上人十六人前駈す。東國北國の源氏共、蜂の如くに起合ひ、唯今都へ責上らんとするに、か樣に波の立つやらん、風の吹やらんも知ぬ體にて花やかなりし事共、中々云ふかひなうぞ見えたりける。

さる程に、壽永二年に成にけり。節會以下常の如し。内辨をば平家の内大臣宗盛公勤めらる。正月六日主上朝覲の爲に、院御所法住寺殿へ行幸なる。鳥羽院六歳にて、朝覲行幸、其例とぞ聞えし。二月廿二日、宗盛公從一位し給ふ。軈て其日内大臣をば上表せらる。兵亂愼の故とぞ聞えし。南都北嶺の大衆、熊野金峯山の僧徒、伊勢大神宮の祭主神官に至る迄、一向平家を背いて、源氏に心を通しける。四方に宣旨を成下し、諸國に院宣遣せども、院宣宣旨も、皆平家の下知とのみ心得て隨附く者無りけり。

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平家物語卷第七

清水冠者

壽永二年三月上旬に、兵衞佐と木曾冠者義仲、不快の事ありけり。兵衞佐木曾追討の爲に、其勢十萬餘騎で、信濃國へ發向す。木曾は依田城に有けるが、之を聞て、依田の城を出て信濃と越後の境熊坂山に陣を取る。兵衞佐は同信濃國、善光寺に著給。木曾、乳母子の今井四郎兼平を使者で、兵衞佐の許へ遣す。「如何なる子細のあれば義仲討むとは宣ふなるぞ。御邊は東八箇國を打隨へて、東海道より攻上り、平家を追おとさむとし給ふ也。義仲も東山北陸兩道を從へて、今一日も先に平家を攻落さむとする事でこそ有れ。なんの故に、御邊と義仲と中を違て、平家に笑れんとは思ふべき。但十郎藏人殿こそ、御邊を恨むる事有りとて、義仲が許へおはしたるを、義仲さへすげなうもてなし申さむ事、如何ぞや候へば、打連申たり。全く義仲に於ては、御邊に意趣思ひ奉らず。」と云遣す。兵衞佐の返事には、「今こそさ樣には宣へ共、たしかに頼朝討つべき由謀反の企有りと、申者あり。其にはよるべからず。」とて、土肥、梶原を先として、既に討手を差向らるゝ由聞えしかば、木曾眞實意趣なき由を顯さむが爲に、嫡子清水冠者義重とて、生年十一歳に成る小冠者に、海野、望月、諏訪、藤 澤など云ふ聞ゆる兵共をつけて、兵衞佐の許へ遣す。兵衞佐は、「此上は誠に意趣無りけり。頼朝未成人の子を持たず。好々さらば子にし申さむ。」とて、清水冠者を相具して、鎌倉へこそ歸られけれ。

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北國下向

さる程に、木曾、東山北陸兩道を隨がへて、五萬餘騎の勢にて既に京へ攻上る由聞えしかば、平家は去年よりして、「明年は、馬の草飼に附て、軍有べし。」と披露せられたりければ、山陰、山陽、南海、西海の兵共、雲霞の如くに馳參る。東山道は近江、美濃、飛騨の兵共は參たれ共、東海道は遠江より東は參らず、西は皆參りたり。北陸道は若狹より北の兵共一人も參らず。先木曾冠者義仲を追討して其後兵衞佐を討んとて、北陸道へ討手を遣す。大將軍には小松三位中將維盛、越前三位通盛、但馬守經正、薩摩守忠度、參河守知度、淡路守清房、侍大將には、越中前司盛俊、上總大夫判官忠綱、飛騨大夫判官景高、高橋判官長綱、河内判官秀國、武藏三郎左衞門有國、越中二郎兵衞盛嗣、上總五郎兵衞忠光、惡七兵衞景清を先として、以上大將軍六人、しかるべき侍三百四十餘人、都合其勢十萬餘騎、壽永二年四月十七日辰の一點に都を立て、北國へこそ趣きけれ。片道を給はてければ、相坂の關より始て、路次にもて逢ふ權門勢家の正税官物をも恐れず、一々に皆奪取る。志賀、唐崎、三河尻、眞野、高島、鹽津、貝津の道の邊を、次第に追捕して通ければ、人民こらへずして、山野に皆逃散 す。

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竹生島詣

大將軍維盛、通盛は進給へ共、副將軍經正、忠度、知度、清房なんどは、未近江國鹽津、貝津に引へたり。其中にも經正は、詩歌管絃に長じ給へる人なれば、かゝる亂の中にも、心を澄し、湖の端に打出て、遙に澳なる島を見渡し伴に具せられたる藤兵衞有教を召て、「あれをば何くと云ぞ。」と問はれければ、「あれこそ聞え候ふ竹生島にて候へ。」と申。「げにさる事あり。いざや參らん。」とて、藤兵衞有教、安衞門守教以下、侍五六人召具して、小船に乘り、竹生島へぞ渡られける。比は卯月中の八日の事なれば、緑に見ゆる梢には、春の情を殘すと覺え、 澗谷の鶯舌の聲老て、初音床しき郭公、折知顏に告渡る。松に藤なみさきかゝて誠に面白かりければ、急ぎ船より下り、岸に上て此島の景色を見給ふに、心も詞も及れず。彼秦皇、漢武、或は童男丱女を遣はし、或は方士をして不死の藥を尋ね給ひしに、蓬莱を見ずばいなや歸らじと云て、徒に船の中にて老い、天水茫々として求る事を得ざりけん蓬莱洞の有樣もかくや在けんとぞ見えし。或經の文に云く、「閻浮提の内に湖有り、其中に金輪際より生出たる水精輪の山有り、天女住む處。」と云り。即此島のこと也。經正、明神の御前につい居給ひつゝ、「夫大辯功徳天は、往古の如來、法身の大士なり。辯才妙音二天の名は、各別なりとは云へ共、本地一體にして、衆生を濟度し給ふ。一度参詣の輩は、所願成就圓滿すと承は る。憑しうこそ候へ。」とて、しばらく法施參らせ給に、漸々日暮れ、居待の月指出て、海上も照渡り、社壇も彌輝きて、誠に面白かりければ、常住の僧共、「聞ゆる御事なり。」とて、御琵琶を參らせたりければ、經正是を彈給ふに、上原石上の秘曲には、宮の中も澄渡り、明神感應に堪ずして、經正の袖の上に、白龍現じて見え給へり。忝なく嬉しさの餘りに、なくなくかうぞ思續け給ふ。

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