ちはやぶる神にいのりの叶へばや、しるくも色のあらはれにけり。
されば怨敵を目の前に平らげ、凶徒を唯今責落さむ事も、疑なしと悦で、又船に取乘て、竹生島をぞ出られける。
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火打合戰
木曾義仲自は信濃に有ながら、越前國火打城をぞ構ける。彼城郭に籠る勢、平泉寺長吏齋明威儀師、稻津新介、齋藤太、林六郎光明、富樫入道佛誓、土田、武部、宮崎、石黒、入善、佐美を始として、六千餘騎こそ籠けれ。火打本より究竟の城郭也。磐石峙ち廻て、四方に嶺を列ねたり。山を後ろにし、山を前にあつ。城郭の前には能美河、新道河とて流たり。二つの河の落合に、大木を伐て逆茂木に曳き、柵をおびたゞしうかき上たれば、東西の山の根に、水塞こうで湖に向へるが如し。影南山を浸して青くして滉漾たり。浪西日を沈めて紅にして隱淪たり。彼無熱池の底には、金銀の砂を敷き、昆明池の渚には、とくせいの 船を浮たり。此火打城の築池には、堤をつき、水を濁して、人の心を誑かす。船なくしては輙う渡すべき樣無ければ、平家の大勢、向への山に宿して、徒に日數を送る。
城の内に在ける平泉寺長吏齋明威儀師、平家に志深かりければ、山の根を廻りて、消息を書き、蟇目の中に入れて忍びやかに平家の陣へぞ射入たる。「彼湖は往古の淵に非ず、一旦山川を塞上て候。夜に入、足輕共を遣て柵を切落させ給へ、水は程なく落べし。馬の足立好所で候へば急ぎ渡させ給へ。後矢は射て參らせむ。是は、平泉寺長吏齋明威儀師が申状。」とぞ書たりける。大將軍大に悦び、やがて足輕どもを遣して、柵を切落す。おびたゞしう見えつれども、げにも山川なれば水は程なく落にけり。平家の大勢暫の [1]遲々にも及ばす、さと渡す。城の内の兵共暫し支へて防ぎけれ共、敵は大勢也、御方は無勢也ければ、叶べしとも見えざりけり。平泉寺長吏齋明威儀師、平家に附て忠をいたす。稻津新介、齋藤太、林六郎光明、富樫入道佛誓こゝをば落て、猶平家を背き加賀國に引退き、白山河内に引籠る。平家やがて加賀に打越て、林、富樫が城郭二箇所燒拂ふ。何面を向ふべしとも見ざりけり。近き宿々より飛脚を立て、此由都へ申たりければ、大臣殿以下殘り留まり給ふ一門の人々勇悦事なのめならず。
同五月八日、加賀國篠原にて勢汰へ在り。軍兵十萬餘騎を二手に分て大手搦手へ向はれけり。大手の大將軍は小松三位中將維盛、越前三位通盛、侍大將には越中前司盛俊を始として、都合其勢七萬餘騎、加賀と越中の境なる砥浪山へぞ向れける。搦手の大將軍は、薩摩守忠度、 參河守知度、侍大將には、武藏三郎左衞門を先として、都合其勢三萬餘騎、能登越中の境なる志保の山へぞ懸かられける。木曾は越後の國府に有けるが、是を聞て、五萬餘騎で馳向ふ。我が軍の吉例なればとて、七手に作る。先叔父の十郎藏人行家、一萬餘騎で志保山へぞ向ける。仁科、高梨、山田次郎、七千餘騎で北黒坂へ搦手に差遣す。樋口次郎兼光、落合五郎兼行七千餘騎で南黒坂へ遣しけり。一萬餘騎をば砥浪山の口、黒坂のすそ、松長の柳原、茱萸木林に引隱す。今井四郎兼平、六千餘騎で鷲の瀬を打渡し、日宮林に陣を取る。木曾我身は一萬餘騎で、をやべの渡をして、砥浪山の北のはづれはにふに陣をぞ取たりける。
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願書
木曾宣ひけるは、「平家は定めて大勢なれば、砥浪山打越て、廣みへ出で懸合の軍にてぞ有んずらむ。但し懸合の軍は、勢の多少による事也。大勢かさに懸て、取籠られては惡かりなん。先づ旗差を先だてゝ、白旗を差あげたらば平家是を見て、『あはや源氏の先陣は向たるは。定めて大勢にてぞ有らん。左右なう廣みへ打出て、敵は案内者、我等は無案内也、取籠られては叶まじ。此山は四方岩石であんなれば、搦手へはよも廻じ、暫下居て馬休ん。』とて、山中にぞ下居んずらん。其時義仲暫會釋ふ樣に持なして、日を待昏し、平家の大勢を倶利迦羅谷へ追落さうと思ふなり。」とて先白旗三十旒、先立てゝ黒坂の上にぞ打立たる。案の如く平家是を見て、「あはや源氏の先陣は向たるは、定めて大勢成らん。左右無う廣みへ打出なば、敵は 案内者、我等は無案内也。とりこめられては惡かりなん。此山は四方岩石であん也。搦手へはよも廻はらじ。馬の草飼水便共によげ也、暫下居て馬休ん。」とて、砥浪山の山中、猿の馬場と云所にぞ下居たる。木曾は羽丹生に陣取て、四方をきと見廻せば、夏山の峯の緑の木の間より朱の玉垣ほの見えて、かたそぎ作の社有り。前に鳥居ぞ立たりける。木曾殿國の案内者を召て、「あれは何れの宮と申ぞ、如何なる神を崇奉るぞ。」「あれは八幡でまし/\候。軈て此所は八幡の御領で候。」と申す。木曾殿大に悦て、手書に具せられたる大夫房覺明を召て、「義仲こそ幸に新八幡の御寶殿に近附奉て、合戰を既に遂げむとすれ。如何樣にも今度の軍には相違なく勝ぬと覺ゆるぞ。さらんにとては、且は後代の爲、且は當時の祈祷にも願書を一筆書て參せばやと思ふは如何に。」覺明「尤然るべう候。」とて、馬より下て書んとす。覺明が爲體、あかぢの直垂に黒革威の鎧著て、黒漆の太刀を帶き、二十四差たる黒ほろの矢負ひ、塗籠籐の弓脇に挾み、甲をば脱ぎ高紐に懸け、箙より小硯疊紙取出し、木曾殿の御前に畏て願書を書く。あはれ文武二道の達者哉とぞ見えにける。此覺明は、本儒家の者也。藏人道廣とて、勸學院に在けるが、出家して最乘坊信救とぞ名乘ける。常は南都へも通ひけり。一とせ高倉宮の園城寺に入せ給ひし時、牒状を山奈良へ遣したりけるに、南都の大衆返牒をば此信救にぞ書せたりける。「清盛は、平氏の糟糠、武家の塵芥。」と書たりしを太政入道大に怒て「其信救法師めが、淨海を平氏のぬかゝす、武家のちりあくたと書くべき樣は如何に。其法師め搦捕て、死罪に行へ。」と宣ふ間、南都をば逃て北國へ落下り、木曾殿の手書して、大夫坊 覺明とぞ名乘ける。其願書に云、
歸命頂禮、八幡大菩薩は日域朝廷の本主、累世明君の曩祖也。寶祚を守らんが爲、蒼生を利せんが爲に、三身の金容を顯し、三所の權扉をおし排き給へり。爰に頻の年以來、平相國と云者あり、四海を管領して萬民を惱亂せしむ。是既に佛法の怨、王法の敵なり。義仲苟も弓馬の家に生れて、僅に箕裘の塵を續ぐ。彼暴惡を案ずるに、思慮を顧に能はず。運を天道に任せて、身を國家に投ぐ。試みに義兵を起して、凶器を退けんと欲す。然るを鬪戰兩家の陣を合はすと云へども、士卒未だ一致の勇を得ざる間、區々の心恐れたる處に、今一陣、旗を擧る戰場にして、忽に三所和光の社壇を拜す。機感の純熟明か也。兇徒誄戮疑なし。歡喜の涙こぼれて、渇仰肝に染む。就中に曾祖父前陸奧守義家朝臣、身を宗廟の氏族に歸附して、名を八幡太郎と號せしより以降、門葉たる者の歸敬せずといふことなし。義仲其後胤として、首を傾て年久し。今此大功を發す事、譬へば嬰兒の貝を以て巨海を量り、蟷螂が斧を怒かして隆車に向が如し。然ども國の爲、君の爲にして是を發す、家の爲身の爲にして是を起さず。志の至神感天にあり。憑哉。悦哉。伏て願くは、冥顯威を加へ、靈神力を戮て勝事を一時に決し、怨を四方に退け給へ。然則丹祈冥慮に叶ひ、玄鑑加護をなすべくば、先づ一の瑞相を見せしめ給へ。
壽永二年五月十一日 源 義仲 敬白
と書て、我身を始めて、十三人が上矢の鏑と拔き、願書に取具して、大菩薩の御寶殿にぞ納 めける。憑哉八幡大菩薩の眞實の志二なきをや遙に照覧し給けん、雲の中より山鳩三つ飛來て源氏の白旗の上に翩翻す。
昔神功皇后新羅を攻させ給ひしに、御方の戰弱く、異國の軍強して、既にかうと見えし時、皇后天に御祈誓ありしかば、靈鳩三つ飛來て、楯の面に顯れて、異國の軍敗れにけり。又此人人の先祖、頼義の朝臣、貞任、宗任を攻給ひしにも、御方の戰弱くして、凶徒の軍強かりしかば、頼義朝臣敵の陣に向て、是は全く私の火には非ず、神火なりとて火を放つ。風忽に夷賊の方へ吹掩ひ、貞任が館厨河の城燒ぬ。其後軍敗て貞任、宗任亡びにき。木曾殿か樣の先蹤を忘れ給はず、馬より下り、甲を脱ぎ、手水鵜飼をして、今靈鳩を拜し給ひけん心の中こそ憑しけれ。
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倶利迦羅落
さる程に源平兩方陣を合す。陣の交僅に三町許に寄せ合せたり。源氏も進まず、平家も進まず。源氏の方より、精兵十五騎楯の面に進ませて、十五騎が上矢の鏑を、平家の陣へぞ射入たる。平家又策とも知らず、十五騎を出いて、十五の鏑を射返す。源氏三十騎を出いて、射さすれば、平家三十騎を出いて、三十の鏑を射返す。五十騎を出せば、五十騎を出し合せ、百騎を出せば百騎を出し合せ、兩方百騎づゝ陣の面に進んだり。互に勝負をせんと疾りけれ共、源氏の方より制して、勝負をせさせず。源氏はか樣にして日を暮し、平家の大勢を倶利 迦羅谷へ追落さうとたばかりけるを、少しも悟らずして、共に會釋ひ日を暮すこそはかなけれ。
次第に闇うなりければ北南より廻れる搦手の勢一萬餘騎、倶利迦羅の堂の邊にまゐり會ひ、箙の方立打敲き、鬨をどとぞ作ける。平家後を顧みければ、白旗雲の如く差上あり。此山は四方巖石であんなれば、搦手よもまはらじとこそ思つるに、こは如何にとて噪ぎあへり。去程に木曾殿大手より鬨のこゑをぞ作合せ給ふ。松長の柳原、茱萸木林に一萬騎引へたりける勢も、今井四郎が六千餘騎で、日宮林に在けるも同う鬨をぞ作ける。前後四萬騎が喚く聲、山も河も唯一度に崩るるとこそ聞えにけれ。案のごとく平家。次第に闇うはなる、前後より敵は攻來る、「きたなしや返せや返せ。」と云ふ族多かりけれ共、大勢の傾立ちぬるは、左右なう取て返す事難ければ、倶利迦羅谷へ、我先にとぞ落しける。ま先に落したる者が見えねば、此谷の底に、道の有にこそとて、親落せば子も落し、兄落せば弟も續く。主落せば家子郎等落しけり。馬には人、人には馬、落重り落重りさばかり深き谷一つを、平家の勢七萬餘騎でぞ填たりける。巖泉血を流し、死骸岳を成せり。されば其谷の邊には、矢の穴刀の瑕殘て今に有りとぞ承はる。平家には宗と憑まれたりける上總大夫判官忠綱、飛騨大夫判官景高、河内判官秀國も、此谷に埋もれて失にけり。備中國住人瀬尾太郎兼康といふ聞ゆる大力も、そこにて加賀國住人藏光次郎成澄が手に懸て、生捕にせらる。越前國火打が城にて、返忠したりける平泉寺の長吏齋明威儀師も捕はれぬ。木曾殿「あまりに憎きに其法師をば先切れ。」と て、切られけり。平氏の大將維盛、通盛、希有の命生て加賀國へ引退く。七萬餘騎が中より、僅に二十餘騎ぞ遁たりける。
明る十二日奧の秀衡が許より、木曾殿へ龍蹄二匹奉る。一匹はつき毛一匹は連錢葦毛なり。やがて是に鏡鞍置て白山社へ神馬に立てられたり。木曾殿宣ひけるは、「今は思ふ事なし。但十郎藏人殿の、志保の戰こそ覺束なけれ。いざ行て見ん。」とて、四萬餘騎が中より、馬や人を勝て、二萬餘騎で馳向ふ。氷見湊を渡さんとするに、折節潮滿て深さ淺さを知ざりければ、鞍置馬十匹許追入たり。鞍瓜浸る程にて、相違なく向の岸へ著にけり。「淺かりけるぞ、渡せや。」とて二萬餘騎の大勢、皆打入て渡しけり。案のごとく十郎藏人行家、散々に懸なされ、引退いて、馬の息休むる處に、木曾殿「さればこそ」とて、荒手二萬餘騎、入かへて平家三萬餘騎が中へをめいて駈入り、揉に揉で、火出る程にぞ攻たりける。平家の兵共暫し支へて防ぎけれ共、こらへずして、そこをも遂に攻落さる。平家の方には大將軍參河守知度討れ給ぬ。是は入道相國の末子也。侍共多く亡にけり。木曾殿は志保山打越えて、能登の小田中、親王の塚の前に陣を取る。
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篠原合戰
そこにて諸社へ神領を寄せられけり。白山社へは横江、宮丸、菅生社へは能美の庄、多田の八幡へは蝶屋の庄、氣比社へは飯原庄を寄進す。平泉寺へは藤島七郷を寄せられけり。
一年石橋山の合戰の時、兵衞佐殿射奉し者共、都へにげ上て、平家の方にぞ候ける。宗との者には俣野五郎景久、長井齋藤別當實盛、伊藤九郎助氏、浮巣三郎重親、眞下四郎重直、是等は暫く軍の有ん時迄休まんとて、日毎に寄合々々、巡酒をしてぞ慰みける。先實盛が許に寄合たりける日、齋藤別當申けるは、「倩此世中の在樣を見るに、源氏の御方は強く、平家の御方は、負色に見えさせ給ひけり。いざ各木曾殿へ參う。」と申ければ、皆「さなう」と同じけり。次日浮巣三郎が許に寄合たりける時、齋藤別當、「さても昨日申し事は如何に、各。」其中に俣野五郎、進出でて申けるは、「我等はさすが、東國では皆人に知られて、名ある者でこそあれ。好きに附て彼方へ參り、此方へ參らう事も、見苦かるべし。人をば知參せず候。景久に於ては、平家の御方にて、如何にも成らう。」と申ければ、齋藤別當あざ笑て、「誠には各の御心共をがな引奉んとてこそ申たれ。其上實盛は今度の軍に討死せうと思切て候ぞ。二度、都へ參るまじき由、人々にも申置たり。大臣殿へも此樣を申上て候ぞ。」と云ひければ、皆人此議にぞ同じける。されば其約束を違じとや、當座に有し者共、一人も殘らず北國にて皆死けるこそ無慚なれ。
さる程に平家は人馬の息を休めて加賀國篠原に陣をとる。同五月廿一日の辰の一點に、木曾、篠原に押寄せて鬨をどと作る。平家の方には、畠山庄司重能、小山田別當有重、去る治承より今迄召籠められたりしを「汝らは故い者共也。軍の樣をもおきてよ。」とて、北國へ向られたり。是等兄弟三百餘騎で陣の面に進んだり。源氏の方より今井四郎三百余騎でうちむか ふ。今井四郎、畠山始めは互に五騎十騎づゝ出し合せて、勝負をせさせ、後には兩方亂れ合てぞ戰ひける。五月二十一日午刻、草も ゆるがず照す日に、我劣じと戰へば、遍身より汗出て、水を流すに異ならず。今井が方にも兵多く亡にけり。畠山、家子郎等殘り少なに討成され力及ばで引退く。次に平家の方より、高橋判官長綱、五百餘騎で進んだり。木曾殿の方より、樋口次郎兼光、落合五郎兼行、三百餘騎で馳向ふ。暫支て戰ひけるが、高橋勢は、國々の驅武者なれば、一騎も落合はず、我先にとこそ落行きけれ。高橋心は猛く思へども、後あらはに成ければ、力及ばで引退く。唯一騎落て行處に越中國の住人入善小太郎行重、よい敵と目を懸け、鞭鐙を合て馳來り、押双てむずと組む。高橋、入善を掴うで鞍の前輪に押附け、「わ君は何者ぞ、名乘れ聞う。」といひければ、「越中國の住人入善小太郎行重、生年十八歳。」と名乘る。「あら無慚、去年おくれし長綱が子も今年はあらば、十八歳ぞかし。わ君ねぢ切て捨べけれども、助ん。」とて許しけり。吾身も馬より下り、暫く御方の勢待んとて休み居たり。入善「我をば助たれども、あはれ敵や、如何にもしてうたばや。」と思居たる所に、高橋打解て物語しけり。入善勝たる早わざの士で、刀を拔き、取て懸り、高橋が内甲を二刀さす。さる程に、入善が郎黨三騎後馳に來て落合たり。高橋心は猛く思へども、運や盡にけん、敵はあまた有り、痛手は負つ、そこにて遂に討たれにけり。
又平家の方より武藏三郎左衞門有國、三百騎許で喚てかく。源氏の方より、仁科、高梨、山田次郎、五百餘騎で馳向ふ。暫支て戰ひけるが、有國が方の勢多く討たれぬ。有國深入し て戰ふほどに、矢種皆射盡して馬をも射させ、歩立になり、打物拔て戰ひけるが、敵餘た討取り矢七つ八つ射立られて、立死にこそ死にけれ。大將か樣になりしかば、其勢皆落行ぬ。
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實盛
又武藏國の住人長井齋藤別當實盛御方は皆落行けども、只一騎返合返合防ぎ戰ふ。存ずる旨有ければ、赤地の錦の直垂に、萠黄威の鎧著て、鍬形打たる甲の緒をしめ、金作の太刀を帶き、切斑の矢負ひ、滋籐の弓持て、連錢葦毛なる馬に金覆輪の鞍置てぞ乘たりける。木曾殿の方より、手塚太郎光盛好い敵と目をかけ「あなやさし。如何なる人にてましませば、御方の御勢は皆落候に、唯一騎殘らせ給ひたるこそゆかしけれ。名乘らせ給へ。」と詞を懸ければ、「かう言ふわ殿は誰そ。」「信濃國の住人手塚太郎金刺光盛」とこそ名乘たれ。「さては互に好い敵ぞ。但わ殿をさぐるには非ず、存ずる旨があれば、名乘るまじいぞ。よれ組う手塚。」とて、押竝る處に、手塚が郎黨、後馳に馳來て、主を討せじと中に隔たり、齋藤別當にむずと組む。「あはれ己は日本一の剛の者にくんでうずな、うれ。」とて、取て引寄せ鞍の前輪に押附け、頸掻切て捨てけり。手塚太郎、郎等が討るゝを見て、弓手に廻りあひ、鎧の草摺引擧て、二刀刺し、弱る所に組で落つ。齋藤別當心は猛く思へども、軍にはしつかれぬ、其上老武者では有り、手塚が下に成にけり。又手塚が郎等後れ馳に出きたるに首取せ、木曾殿の御前に馳參りて、「光盛こそ奇異の曲者組で討て候へ。侍かと見候へば、錦の直垂を著て候。又大將 軍かと見候へば、續く勢も候はず。名乘々々と責候つれども、遂に名乘候はず。聲は坂東聲にて候つる。」と申せば、木曾殿「あはれ是は齋藤別當で有ござんなれ。其ならば、義仲が上野へこえたりし時、少目に見しかば、白髮の糟尾なりしぞ。今は定めて、白髮にこそ成ぬらんに、鬢鬚の黒いこそ怪しけれ。樋口次郎は、馴遊で、見知たるらん樋口召せ。」とて召されけり。樋口次郎唯一目見て、「あな無慚や、齋藤別當で候けり。」木曾殿、「其ならば、今は七十にも餘り、白髮にこそ成ぬらんに、鬢鬚の黒いは如何に。」と宣へば、樋口次郎涙をはら/\と流いて、「さ候へば其樣を申上うと仕候が、餘に哀で、不覺の涙のこぼれ候ぞや。弓矢とりは、聊の所でも、思出の詞をば兼て仕置くべきで候ける者哉。齋藤別當、兼光に逢て、常は物語に仕候し、『六十に餘て、軍の陣へ向はん時は、鬢鬚を黒う染て、若やがうと思ふ也。其故は若殿原に爭ひて、先を懸んも長げなし。又老武者とて人の侮らんも口惜かるべし。』と申候しが、誠に染て候けるぞや。洗はせて御覽じ候へ。」と申ければ、さも有らんとて、洗せて見給へば、白髮にこそ成にけれ。
錦の直垂を著たりける事は、齋藤別當最後の暇申に大臣殿へ參て申けるは、「實盛が身一つの事では候はねども、一年東國へ向ひ候し時、水鳥の羽音に驚いて矢一つだにも射ずして、駿河國の蒲原より迯上て候し事、老後の恥辱、唯此事候。今度北國へ向ひては、討死仕候べし。さらんにとては、實盛、本、越前國の者で候しかども、近年御領に就て、武藏の長井に居住せしめ候き。事の譬候ぞかし。故郷へは錦を著て歸れと云ふ事の候。錦の直垂御許し候 へ。」と申ければ、大臣殿、「優うも申たる物哉。」とて、錦の直垂を御免有けるとぞ聞えし。昔の朱買臣は、錦の袂を會稽山に翻し、今の齋藤別當は、其名を来た國の巷に揚とかや。朽もせぬ空き名のみ留め置き、骸は越路の末の塵と成るこそ悲しけれ。
去ぬる四月十七日、十萬餘騎にて都を立し事柄は、何に面を向ふべしとも見えざりしに、今、五月下旬に歸り上るには、其勢僅に二萬餘騎「流を盡して漁る時は、多くの魚を得と云へども、明年に魚なし。林を燒て獵る時は、多くの獸を得と云へども、明年に獸なし。後を存じて、少々は殘さるべかりける者を。」と、申す人々も有けるとかや。
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還亡
上總守忠清、飛騨守景家はをとゝし入道相國薨ぜられける時、ともに出家したりけるが、今度北國にて子ども皆亡びぬときいて其のおもひのつもりにや、終に歎き死にぞ死にける。是を始めて親は子に後れ、婦は夫に別れ、凡遠國近國もさこそ在けめ。京中には、家々に門戸を閉て、聲聲に念佛申し、喚叫ぶ事おびただし。
六月一日藏人右衞門權佐定長、神祇權少副大中臣親俊を、殿上の下口へ召て、兵革靖まらば、大神宮へ行幸成るべき由仰下さる。大神宮は高天原より天降せ給ひしを垂仁天皇の御宇、廿五年三月に、大和國笠縫の里より、伊勢國渡會の郡、五十鈴の河上、下津磐根に大宮柱をふとしきたて、祝初奉てより以降、日本六十餘州、三千七百五十餘社の、大小の神祗冥道の中 には無雙也。され共、代々の御門臨幸は無りしに、奈良の御門の御時左大臣不比等の孫、參議式部卿宇合の子、右近衞權少將兼太宰少貳藤原廣嗣と云ふ人有けり。天平十五年十月、肥前國松浦郡にして、數萬の凶賊を語らて、國家を既に危めんとす。是によて大野東人を大將軍にて、廣嗣追討せられし時、始めて大神宮へ行幸なりけるとかや、其例とぞ聞えし。彼廣嗣は肥前の松浦より都へ一日に下上る馬を持たりけり。追討せられし時も、御方の凶賊落行き、皆亡て後、件の馬に打乘て、海中へ馳入けるとぞ聞えし。其亡靈あれて、怖き事共多かりける中に、天平十六年六月十八日、筑前國御笠郡、太宰府の觀世音寺、供養せられし導師には、 [2]玄 ばう僧正とぞ聞えし。高座に上り敬白の鐘打鳴す時、俄に空掻曇り雷おびたゞしう鳴て、 [3]玄 ばうの上に落懸り、其首を取て雲の中へぞ入にける。是は廣嗣調伏したりける故とぞ聞えし。
此僧正は吉備大臣入唐の時、相伴て渡り、法相宗渡たりし人也。唐人が玄 ばうと云ふ名を笑て「玄ばうは還亡ぶと云ふ音あり。如何樣にも、歸朝の後事に逢ふべき人也。」と相したりけるとかや。同天平十九年六月十八日、髑髏に [4]玄 ばうと云ふ銘を書て、興福寺の庭に落し、虚空に人ならば千人許が聲にて、どと笑ふ事在けり。興福寺は法相宗の寺たるに依て也。彼僧正の弟子共是を取て、塚を築き、其首を納て、頭墓と名づけて、今に有り。是即廣嗣が靈の致す所也。是によて彼亡靈を崇られて、今松浦の鏡宮と號す。
嵯峨皇帝の御時は平城先帝、尚侍の勸に依て、世を亂り給ひし時、其御祈の爲に、御門第 三皇女祐智子内親王を、賀茂の齋院に奉らせ給けり。是齋院の始めなり。朱雀院の御宇には、將門純友が兵亂に依て八幡の臨時の祭を始めらる。今度もか樣の例を以て樣々の御祈共始められけり。
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木曾山門牒状
木曾、越前の國府について、家子郎等召集めて評定す。「抑義仲近江國を經てこそ、都へは入らんずるに、例の山僧共は防ぐ事もや有んずらん。懸け破て通ん事は安けれども、平家こそ當時は佛法とも云はず、寺を亡し、僧を失ひ、惡行をば致せ。其を守護の爲に上洛せん者が、平家と一つになればとて、山門の大衆に向て、軍せん事、少も違はぬ二の舞なるべし。是こそさすが安大事よ。如何にせん。」と宣へば手書に具せられたる大夫坊覺明進出て申けるは、「山門の衆徒は三千候、必一味同心なる事は候はず、皆思々心々に候也。或は源氏に附んと申す衆徒も候らん、或は平家に同心せんと云ふ大衆も候らん、牒状を遣して御覽候へ。事の樣返牒に見え候はんずらん。」と申ければ、「此議尤然るべし、さらば書け。」とて、覺明に牒状書せて、山門へ送る。其状に云、
義仲倩平家の惡逆を見るに、保元平治より以來、永く人臣の禮を失ふ。雖然、貴賤手を束ね、緇素足を戴く。恣に帝位を進退し、飽くまで國郡を掠領す。道理非理を論ぜず、權門勢家を追捕し、有罪無罪をいはず、卿相侍臣を損亡す。其資材を奪取て、悉く郎從に 與へ、彼庄園を沒収して、猥がはしく子孫に省む。就中、去治承三年十一月、法皇を城南の離宮に遷し奉り、博陸を海西の絶域に流し奉る。衆庶言はず、道路目を以す。加之同四年五月、二の宮の朱閣を圍み奉り、九重の垢塵を驚かさしむ。爰に帝子非分の害を逃れん爲に、竊に園城寺へ入御の時、義仲先日に令旨を給るに依て、鞭を擧げんとする處に、怨敵巷に滿て、豫參路を失ふ。近境の源氏、猶參候せず、況や遠境に於てをや。然るを園城は分限なきによて、南都へ趣かしめ給ふ間、宇治橋にて合戰す。大將三位入道頼政父子、命を輕んじ義を重んじて、一戰の功を勵すと云へ共、多勢の責を免かれず、形骸を古岸の苔にさらし、生命を長河の波に流す。令旨の趣肝に銘じ、同類の悲魂を消す。是によて東國北國の源氏等、各參洛を企て、平家を亡さんと欲す。義仲去年の秋、宿意を達せんが爲に、旗を擧げ劍を取て、信州を出でし日、越後國の住人、城の四郎長茂、數萬の軍兵を率して發向せしむる間、當國横田河原にして合戰す。義仲僅に三千餘騎を以て、かの數萬の兵を破り畢ぬ。風聞廣きに及て、平氏の大將十萬の軍士を率して、北陸に發向す。越州、加州、砥浪、黒坂、鹽坂、篠原以下の城郭にして、數箇度合戰す。策を帷幄の中に運らして、勝事を咫尺のもとに得たり。然を討てば必ず伏し、攻れば必ず降る。秋風の芭蕉を破るに異ならず。冬の霜の群葉を枯すに同じ。是偏に神明佛陀の助けなり、更に義仲が武略にあらず。平氏敗北の上は、參洛を企る者也。今叡岳の麓を過ぎて、洛陽の衢に入るべし。此時に當て、竊に疑殆あり。抑天台の衆徒、平家に同心か、源氏に與力か。若 しかの逆徒を助けらるべくば、衆徒に向て合戰すべし。若し合戰をいたさば、叡岳の滅亡踵をめぐらすべからず。悲哉、平氏宸襟を惱し、佛法を滅す間、惡逆を靜めんが爲に、義兵を發す處に、忽ち三千の衆徒に向て、不慮の合戰を致さんことを。痛哉、醫王、山王に憚り奉て、行程に遲留せしめば、朝廷緩怠の臣として、永く武略瑕瑾の謗を遺さんことを。猥しく進退に迷て、案内を啓する所なり。庶幾三千の衆徒神の爲、佛の爲、國の爲、君の爲に源氏に同心して兇徒を誅し、鴻化に浴せん。懇丹の至に堪へず。義仲恐惶謹白。
壽永二年六月十日 源 義仲
進上 惠光坊律師御房
とぞかいたりける。
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返牒
案の如く、山門の大衆此状を披見して、僉議區々也。或は源氏に附んといふ衆徒もあり、或は又平家に同心せんと云大衆もあり。思々異議區々也。老僧共の僉議しけるは、詮ずる所、我等專金輪聖主天長地久と祈奉る。平家は當代の御外戚、山門に於て歸敬を致さる。去れば今に至る迄彼繁昌を祈誓す。然りといへども惡行法に過て、萬人是を背く。討手を國々へ遣すと云へ共、却て異賊の爲にほろぼさる。源氏は近年より以降、度々の軍に討勝て、運命開けんとす。何ぞ當山獨宿運盡ぬる平家に同心して、運命開くる源氏を背かんや。須く平家 値遇の義を翻して、源氏合力の旨に任ずべき由、一味同心に僉議して、返牒を送る。木曾殿又家の子郎等を召集めて、覺明に此返牒を開かせらる。
六月十日の牒状、同十六日到來、披閲の處に數日の欝念一時に解散す。凡平家の惡逆累年に及で朝廷の騒動止時なし。事人口にあり、遺失するに能はず。夫叡岳に至ては、帝都東北の仁祠として、國家靜謐の精祈を致す。然るを、一天久しくかの夭逆に侵されて、四海鎭に、その安全を得ず。顯密の法輪なきが如く、擁護の神威屡すたる。此に貴家適累代武備の家に生れて、幸に當時清選の仁たり。豫じめ奇謀を囘らして忽に義兵を起す。萬死の命を忘れて一戰の功をたつ。其勞未だ兩年を過ぎざるに、其名既に四海に流る。吾山の衆徒、且且以て承悦す。國家の爲、累家の爲、武功を感じ、武略を感ず。此の如くならば、則山上の精祈空しからざる事を悦び、海内の衞護怠りなき事を知んぬ。自寺、他寺、常住の佛法、本社、末社、祭奠の神明、定て教法の再び榮えんことを喜び、崇敬のふるきに復せんことを隨喜し給ふらむ。衆徒等が心中、唯賢察を垂れよ。然則、冥には十二神將、醫王善逝の使者として凶賊追討の勇士にあひ加り、顯には三千の衆徒、暫く修學鑽仰の勤節を止て、惡侶治罰の官軍を扶けしめん。止觀十乘の梵風は、奸侶を和朝の外に拂ひ、瑜伽三密の法雨は、時俗を堯年の昔に囘さん。衆議かくの如し。倩是を察せよ。
壽永二年七月二日 大衆等
とぞ書たりける。
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平家山門連署
平家は是を夢にも知らずして、興福園城兩寺は、欝憤を含める折節なれば、語ふとも靡じ。當家は未だ山門の爲に怨を結ばず、山門又當家の爲に不忠を存ぜず。山王大師に祈誓して、三千の衆徒を語らはばやとて、一門公卿十人、同心連署の願書を書いて、山門へ送る。其状に云、
敬白延暦寺を以て氏寺に准じ、日吉社を以て氏社として、一向天台の佛法を仰べき事右當家一族の輩、殊に祈誓する事あり。旨趣如何となれば、叡山は是桓武天皇の御宇、傳教大師入唐歸朝の後、圓頓の教を此所に廣め、遮那の大戒を其内に傳てより以降、專ら佛法繁昌の靈崛として、鎭護國家の道場に備ふ。方に今伊豆國流人、源頼朝、身の咎を悔いず、却て朝憲を嘲る。加之奸謀に與して、同心を致す源氏等、義仲、行家以下黨を結て數あり。隣境遠境數國を掠領し、土宜土貢萬物を押領す。これによて或は累代勳功の跡を逐ひ、或は當時弓馬の藝に任せて、速に賊徒を追討し、凶黨を降伏すべき由、苟くも勅命を含んで類に征伐を企つ。爰に魚鱗鶴翼の陣、官軍利を得ず、星旄電戟の威、逆類勝に乘に似たり。若神明佛陀の加被にあらずば、爭か反逆の凶亂を鎭めん。是を以て、一向天台の佛法に歸し、併せて日吉の神恩を憑み奉らまくのみ。何ぞ況や忝なく、臣等が曩祖を思へば本願の餘裔と云つべし。彌崇重すべし、彌恭敬すべし。自今以後、山門に悦 あらば一門の悦とし、社家に憤あらば一家の憤として、各子孫に傳へて永く失墜せじ。藤氏は春日社興福寺を以て氏社氏寺として、久しく法相大乘の宗に歸す。平氏は日吉社延暦寺を以て、氏社氏寺として、目の當り圓實頓悟の教に値遇せん。彼は昔の遺跡なり、家の爲榮幸を思ふ。是は今の誓祈なり、君の爲追罰を請ふ。仰ぎ願くは、山王七社、王子眷屬、東西滿山護法聖衆、十二上願醫王善逝、日光月光十二神將、無二の丹誠を照して、唯一の玄應を垂給へ。然る間邪謀逆心の賊、手を軍門につかね、暴逆殘害の輩、首を京土に傳へん。仍て當家の公卿等、異口同音に禮をなして祈誓如件。
從三位行兼越前守平朝臣通盛
從三位行兼右近衞中將平朝臣資盛
正三位行右近衞權中將兼伊豫守平朝臣維盛
正三位行左近衞中將兼播磨守平朝臣重衡
正三位行右衞門督兼近江遠江守平朝臣清宗
參議正三位皇太后宮大夫兼修理大夫加賀越中守平朝臣經盛
從二位行中納言兼左兵衞督征夷大將軍平朝臣知盛
從二位行權中納言兼肥前守平朝臣教盛
正二位行權大納言兼出羽陸奧按察使平朝臣頼盛
從一位平朝臣宗盛
壽永二年七月五日 敬白
とぞ書かれたる。
貫首是を憐み給ひて、左右なく披露せられず。十禪寺權現の御殿に籠て、三日加持して、其後衆徒に披露せらる。始は有とも見えざりし一首の歌願書の上卷に、出來たり。
平かに花咲く宿も年ふれば、西へ傾く月とこそなれ。
山王大師是に憐を垂れ給ひ、三千の衆徒力を合せよと也。されども年比日比の振舞、神慮にも違ひ、人望にも背きにければ、祈れども叶はず語へども靡ざりけり。大衆誠に、事の體を憐けれども、「既に源氏に同心の返牒を送る。今又輕々しく、其議を改るに能はず。」とて是を許容する衆徒もなし。
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主上都落
同七月十四日、肥後守貞能、鎭西の謀反平げて、菊池、原田、松浦黨以下、三千餘騎を召具して上洛す。鎭西は、纔に平げども、東國、北國の軍如何にも靜まらず。
同二十二日の夜半許、六波羅の邊おびたゞしう騒動す。馬に鞍置き腹帶しめ、物共東西南北へ運び隱す。唯今敵の打入たる樣なり。明て後聞えしは、美濃源氏、佐渡衞門尉重貞と云ふ者有り。一年保元の合戰の時、鎭西八郎爲朝が、方の軍に負て、落人と成たりしを搦て出たりし勸賞に、本は兵衞尉たりしが、其時右衞門尉に成ぬ。是に依て一門にはあたまれて、平家 に諂ひけるが、其夜の夜半計六波羅に馳參て申けるは、木曾すでに北國より五萬餘騎で攻上り、比叡山東坂本に充滿て候。郎等に楯六郎親忠、手書に大夫坊覺明、六千餘騎で、天台山に競登り、三千の衆徒皆同心して、唯今都へ攻入る由申たりける故也。平家の人々 [5]大に噪いで、方々へ討手を向けられけり。大將軍には新中納言知盛卿、本三位中將重衡卿、都合其勢三千餘騎都を立て先づ山階に宿せらる。越前三位通盛、能登守教經、二千餘騎で宇治橋をかためらる。左馬頭行盛、薩摩守忠度、一千餘騎で淀路を守護せられけり。
源氏の方には、十郎藏人行家、數千騎で宇治橋より入るとも聞えけり。陸奧新判官義康が子、矢田判官代義清、大江山を經て上洛すとも申あへり。攝津河内の源氏等雲霞の如くに同う都へ亂入由聞えしかば、平家の人々此上は唯一所にて如何にも成給へとて、方々へ向られたる討手共都へ皆呼返れけり。帝都、名利の地鷄鳴て安き事なし。治れる世だにもかくの如し。況や亂たる世に於てをや。吉野山の奧の奧へも入なばやとは思はれけれども、諸國七道、悉く背きぬ。何れの浦か穩しかるべき。三界無安猶如火宅とて如來の金言一乘の妙文なれば、なじかは少しも違ふべき。
同七月廿四日の小夜更方に、前内大臣宗盛公、建禮門院の渡らせ給ふ六波羅殿へ參て申されけるは、「此世の中の在樣、さりともと存候つるに今はかうにこそ候めれ。唯都の内で如何にもならんと人人は申あはれ候へども、目のあたり浮目を見せ參せんも口惜候へば、院をも内をも取奉て、西國の方へ御幸行幸をも成し參せて見ばやとこそ思成て候へ。」と申されければ、 女院、「今は只ともかうもそこの計らひにてこそ有んずらめ。」とて御衣の御袂に餘る御涙塞あへさせ給ず。大臣殿も直衣の袖絞る許に見えられけり。
其夜法皇をば内々平家の取奉て、都の外へ落行べしといふ事を聞召されてや有けん、按察使大納言資方卿の子息右馬頭資時計御伴にて、竊に御所を出させ給ひ鞍馬へ御幸なる。人是を知らざりけり。平家の侍に橘内左衞門尉季康と云ふ者有り。さか/\しき士にて、院にも召使はれけり。其夜しも法住寺殿に御宿直して候けるに、常の御所の方よに噪がしうさゝめきあひて、女房達忍ねに泣などし給へば、何事やらんと聞程に、「法皇の俄に見えさせ給ぬは、何方へ御幸やらん。」といふ聲に聞なしつ。「あな淺まし。」とて、やがて六波羅へ馳參り、大臣殿に此由申ければ、「いで僻事でぞ有るらん。」と宣ひながら、聞もあへず、急ぎ法住寺殿へ馳參て見參させ給へば、げに見えさせ給はず。御前に候はせ給ふ女房達、二位殿、丹後殿以下、一人もはたらき給はず。「いかにや如何に。」と申されけれども「我こそ御行方知參せたれ。」と申さるゝ人、一人もおはせず、皆あきれたる樣也けり。
さる程に、法皇都の内にも渡らせ給はずと申す程こそ有けれ、京中の騒動斜ならず。況や平家の人々の遽て噪がれける有樣、家々に敵の打入たりとも、限あれば是には過じとぞ見えし。日頃は平家院をも内をも取參らせて、西國の方へ御幸行幸をも成したてまつらんと支度せられたりしに、かく打捨させ給ぬれば、憑む木の本に雨のたまらぬ心地ぞせられける。
さりとては行幸ばかりなり共成參せよとて、卯刻計に既に行幸の御輿寄たりければ、主上は 今年六歳、未幼なうましませば何心もなう召されけり。御母儀建禮門院御同輿に參らせ給ふ。「内侍所、神璽、寶劔、渡し奉る。印鑰、時札、玄上、鈴鹿などをも取具せよ。」と平大納言時忠卿下知せられけれども、餘りに遽噪いで、取落す物ぞ多かりける。晝の御座の御劔などをも取忘させ給ひけり。やがて此時忠卿、内藏頭信基、讃岐中將時實三人計ぞ、衣冠にて供奉せられける。近衞司、御綱佐、甲冑をよろひ弓箭を帶して、供奉せらる。七條を西へ朱雀を南へ行幸なる。