明れば七月廿五日也。漢天既に開きて、雲東嶺にたなびき、明方の月白く冴て、鷄鳴又忙し。夢にだにかゝる事は見ず。一年都遷とて俄にあわたゞしかりしは、かゝるべかりける先表とも今こそ思知れけれ。
攝政殿も行幸に供奉して、御出なりけるが、七條大宮にて、髫結たる童子の、御車の前をつと走通るを御覽ずれば、彼童子の左の袂に、「春の日」と云ふ文字ぞ顯れたる。「春の日」と書ては「春日」と讀めば、法相擁護の春日大明神、大織冠の御末を守らせ給ひけりと、憑敷思召す處に、件の童子の聲と覺しくて、
いかにせん藤の末葉のかれゆくを、唯春の日に任せてや見ん。
御伴に候進藤左衞門尉高直を近う召て、「倩事の體を案ずるに行幸はなれ共、御幸も成ず、行末憑からず思召すは如何に。」と仰ければ、御牛飼に目を見合たり。やがて心得て、御車を遣りかへし、大宮を上りに飛が如くに仕り、北山の邊、知足院へ入せ給ふ。
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維盛都落
平家の侍越中次郎兵衞盛嗣是を承はて逐ひ留め參せんと頻に進み出けるが、人人に制せられて留まりけり。
小松三位中將維盛卿は、日比より思食設られたりけれ共、指當ては悲かりけり。北方と申は、故中御門新大納言成親卿の御娘也。桃顏露に綻び、紅粉眼に媚をなし、柳髮風に亂るゝ粧、又人有べし共見え給はず。六代御前とて、生年十に成給ふ若君、其妹八歳の姫君おはしけり。此人々皆後じと慕ひ給へば、三位中將宣ひけるは、「日比申し樣に、我は一門に具して、西國の方へ落行なり。何く迄も具足し奉るべけれ共、道にも敵待なれば、心安う通ん事も有難し。縱我討れたりと聞給ふ共、樣など替給ふ事は努々有るべからず。其故は、如何ならん人にも見えて、身をも助け、少き者共をも育み給ふべし。情を懸る人も、などか無かるべき。」と、慰め給へども、北方とかうの返事もし給はず引被てぞ臥給ふ。既に打立んとし給へば、袖にすがて「都には父もなし母もなし、捨られ參らせて後、誰にかはみゆべき。如何ならん人にも見えよなど承るこそ恨しけれ。前世の契り有ければ、人こそ憐み給ふとも、又人毎にしもや情を懸くべき。何く迄も伴ひ奉り、同野原の露とも消え、一つの底の水屑とも成らんとこそ契りしに、されば小夜の寢覺の睦語は、皆僞に成にけり。責ては身一つならば如何がせん。捨られ奉る身の憂さ、思知ても留まりなん。少き者共をば、誰に見讓り、如何にせよとか思 召す。恨しうも留め給ふ者哉。」と、且は恨み且は慕ひ給へば、三位中將宣ひけるは、「誠に人は十三、我は十五より見初奉り、火の中水の底へも、倶に入り倶に沈み、限ある別路迄も後れ先立じとこそ申しかども、かく心憂き有樣にて、軍の陣へ趣けば、具足し奉て、行方も知ぬ旅の空にて、憂目を見せ奉らんも、うたてかるべし。其上今度は用意も候はず。何くの浦にも心安う落著いたらば、其よりこそ迎へに人をも奉らめ。」とて、思ひ切てぞ立れける。中門の廊に出て、鎧取て著、馬引寄させ、既に乘らんとし給へば、若君姫君走出でて、父の鎧の袖、草摺に取附き、「是はされば何地へとて、渡せ給ぞ。我も參ん、我も行ん。」と面々に慕ひ泣給ふにぞ、浮世のきづなと覺えて、三位中將、いとゞ爲方なげには見えられける。
さる程に御弟新三位中將資盛卿、左中將清經、同少將有盛、丹後侍從忠房、備中守師盛、兄弟五騎馬に乘ながら、門の中へ打入り、庭にひかへて、「行幸は遙に延させ給ひぬらん、如何にや今迄。」と、聲々に申されければ、三位中將馬に打乘て出給ふが、猶引返し、縁の際へうち寄せて、弓の弭で御簾をさと掻揚げ、「是御覽ぜよ各、少き者共が餘りに慕ひ候を、とかうこしらへ置んと仕る程に、存の外の遲參。」と宣ひもあへず、泣かれければ、庭にひかへ給へる人々、皆鎧の袖をぞ濡されける。
こゝに齋藤五、齋藤六とて、兄は十九、弟は十七に成る侍あり。三位中將の御馬の左右のみづつきに取著き、何く迄も御とも仕るべき由申せば、三位中將宣ひけるは、「己等が父齋藤別當北國へ下し時、汝等が頻に伴せうと云しかども、存ずる旨が有ぞとて、汝等を留置き、北 國へ下て遂に討死したりけるは、かゝるべかりける事を、故い者で、兼て知たりけるにこそ。あの六代を留て行に、心安う扶持すべき者のなきぞ。誰理を枉て留まれ。」と宣へば、力及ばず、涙を押へて留りぬ。北方は、「年比日比、是程情なかりける人とこそ、兼ても思はざりしか。」とて臥まろびてぞ泣かれける。若君姫君女房達は、御簾の外迄まろびいで、人の聞をも憚らず聲をはかりにぞ喚叫び給ひける。此聲々耳の底に留て、西海の立つ浪の上、吹風の音迄も聞く樣にこそ思はれけめ。
平家都を落行に、六波羅、池殿、小松殿、八條、西八條以下、一門の卿相雲客の家々、二十餘箇所、次々の輩の宿所々々、京白川に四五萬の在家一度に火をかけて、皆燒拂ふ。
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聖主臨幸
或は聖主臨幸の地也。鳳闕空しく礎を殘し、鸞輿只跡を留む。或は后妃遊宴の砌也。椒房の嵐聲悲み、掖庭の露色愁ふ。粧鏡翠帳の基戈林釣渚の館、槐棘の座 えん鸞の栖、多日の經營を空うして、片時の灰燼と成果ぬ。況や郎從の蓬 篳に於てをや。況や雜人の屋舎に於てをや。餘炎の及ぶ所、在々所々數十町也。強呉忽に亡て、姑蘇臺の露荊棘に移り、暴秦既に衰て、咸陽宮の烟 へいけいを隱しけんも、かくやと覺て哀也。日來は函谷二 かうの嶮しきを固うせしか共、北狄の爲に是を破られ、今は江河 けい渭の深きを憑みしか共、東夷の爲に是を取られたり。豈圖きや、忽に禮儀の郷を攻出されて、泣々無智の境に身を寄んとは。昨日は雲 の上にて雨を降す神龍たりき。今日は肆の邊に水を失ふ枯魚の如し。禍福道を同うし、盛衰掌を反す。今目前にあり、誰か是を悲ざらん。保元の昔は春の花と榮しかども、壽永の今は秋の紅葉と落果ぬ。
去治承四年七月大番の爲に上洛したりける畠山庄司重能、小山田別當有重、宇都宮左衞門尉朝綱、壽永迄、召籠られたりしが、其時既に斬るべかりしを、新中納言知盛卿申されけるは「御運だに盡させ給ひなば、是等百人千人が頸を斬せ給ひたりとも、世を取らせ給はん事難かるべし。故郷には妻子所從等如何に歎き悲み候らん。若し不思議に運命開けて、又都へ立歸らせ給はん時は、有難き御情でこそ候はんずれ。只理を枉げて、本國へ返し遣さるべうや候らむ。」と申されければ、大臣殿、「此義尤然るべし。」とて暇を給ぶ。是等首を地に著け、涙を流いて申けるは、「去治承より今までかひなき命を扶けられ參せて候へば、何くまでも御供仕て行幸の御ゆくへを見參せん。」と頻に申けれ共、大臣殿、「汝等が魂は皆東國にこそあるらんに、ぬけがらばかり西國へ召具すべき樣なし。急ぎ下れ。」と仰られければ、涙を押へて下けり。是等も二十餘年の主なれば、別れの涙押へ難し。
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忠度都落
薩摩守忠度は、いづくよりか歸られたりけん、侍五騎、童一人、我身共に七騎取て返し、五條の三位俊成卿の宿所におはして見給へば門戸をとぢて開かず。忠度と名乘給へば、落人 歸り來たりとて、其内噪ぎあへり。薩摩守馬より下り、自高らかに宣ひけるは、「別の子細候はず、三位殿に申べき事有て、忠度が歸り參て候。門を開れず共、此際迄立寄らせ給へ。」と宣へば、俊成卿「さる事あるらん。其人ならば苦かるまじ。入れ申せ。」とて、門をあけて對面有り。事の體何となうあはれなり。薩摩守宣ひけるは、「年來申承はて後、愚ならぬ御事に思ひ參らせ候へ共、この二三年は京都の噪、國々の亂併當家の身の上の事に候間疎略を存せずといへども、常に參り寄る事も候はず。君既に都を出させ給ひぬ。一門の運命はや盡候ぬ。撰集の有るべき由承りしかば、生涯の面目に、一首なり共御恩を蒙らうと存じて候しに、やがて世の亂出で來て、其沙汰なく候條、唯一身の歎きと存ずる候。世靜まり候なば勅撰の御沙汰候はんずらん。是に候ふ卷物の中に、さりぬべきもの候はゞ、一首なりとも御恩を蒙て、草の蔭にても嬉しと存候はば、遠き御守りとこそ成參せ候んずれ。」とて、日來詠置れたる歌共の中に、秀歌と覺きを百餘首書集られたる卷物を、今はとて打立れける時、是を取て持れたりしが、鎧の引合せより取出でて、俊成卿に奉る。三位是をあけて見て、「かゝる忘れ形見を給り置候ぬる上は、努々疎略を存ずまじう候。御疑あるべからず。さても只今の御渡りこそ情も勝れて深う、哀れも殊に思ひしられて感涙抑へ難う候へ。」と宣へば、薩摩守悦で「今は西海の浪の底に沈まば沈め、山野に尸をさらさばさらせ、浮世に思置く事候はず。さらば暇申て。」とて、馬に打乘り、甲の緒をしめ、西を指いてぞ歩せ給ふ。三位後を遙に見送て立たれたれば、忠度の聲と覺しくて、「前途程遠し、思を雁山の夕の雲に馳。」と、高らかに口ずさ み給へば、俊成卿、いとゞ名殘惜しう覺えて、涙を抑てぞ入給ふ。其後世靜て、千載集を撰ぜられけるに、忠度のありし有樣、言置し言の葉、今更思出て哀なりければ、彼の卷物の中に、さりぬべき歌幾らもありけれど、勅勘の人なれば、名字をば顯されず、「故郷花」といふ題にて詠まれたりける歌一首ぞ、讀人しらずと入られける。
さゝ浪や志賀の都はあれにしを、昔ながらの山櫻かな。
其身朝敵と成にし上は、仔細に及ばずと云ながら、恨めしかりし事共なり。
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經正都落
修理大夫經盛の子息、皇后宮亮經正、幼少にては、仁和寺の御室の御所に、童形にて、候はれしかば、かゝる怱劇の中にも、其御名殘きと思出て、侍五六騎具して、仁和寺殿へ馳參り、門前にて馬より下り、申入られけるは、「一門運盡て今日既に帝都を罷出候。浮世に思ひ殘す事とては、唯君の御名殘計也。八歳の時參り始め候て、十三で元服仕り候し迄は、相勞る事の候はぬ外は、白地にも御前を立去事も候はざりしに、今日より後西海千里の浪路に趣いて、又何の日、何の時、歸り參るべしとも覺えぬこそ口惜う候へ。今一度御前へ參て、君をも見參せたう候へども、既に甲冑を鎧ひ弓箭を帶し、あらぬ樣なる粧に罷成て候へば、憚存候。」とぞ申されける。御室哀に思召し、「唯其姿を改めずして參れ。」とこそ仰せけれ。經正其日は、紫地の錦の直垂に、萠黄匂の鎧著て、長覆輪の太刀を帶き、切斑の矢負ひ、滋籘 の弓脇に挾み、甲をば脱高紐にかけ、御前の御坪に畏る。御室やがて御出有て、御簾高く揚させ「是へ/\」と召されければ、大床へこそ參られけれ。供に具せられたる藤兵衞有教を召す。赤地の錦の袋に入たる御琵琶持て參たり。經正是を取次で、御前にさし置き申されけるは、「先年下し預て候し青山持せて參て候。餘りに名殘は惜しう候へども、さしもの名物を、田舎の塵に成ん事口惜う候。若不思議に運命開けて、又都へ立歸る事候はゞ、其時こそ猶下し預り候はめ。」と泣々申されければ、御室哀におぼしめし一首の御詠をあそばいて下されけり。
あかずして別るゝ君が名殘をば、後の形見につゝみてぞおく。
經正御硯下されて、
呉竹のかけひの水はかはれども、猶すみあかぬ宮の中かな。
さては暇申て出られけるに、數輩の童形、出世者、坊官、侍僧に至迄、經正の袂にすがり、袖を引へて、名殘を惜み、涙を流さぬは無りけり。其中にも經正幼少の時、小師でおはせし大納言法印行慶と申は、葉室大納言光頼卿の御子也。餘に名殘を惜みて、桂河の端迄打送り、さてもあるべきならねば其より暇請うて泣々別れ給ふに、法印かうぞ思續け給ふ。
あはれなり老木若木も山櫻、おくれ先だち花は殘らじ。
經正の返事には、
旅衣よな/\袖をかたしきて、思へば我は遠くゆきなん。
さて、卷て持せられたる赤旗、さと指上げたり。あそこ爰にひかへて待奉る侍共、「あはや」とて馳集まり、其勢百騎許鞭をあげ、駒を早めて、程なく行幸に逐つき奉る。
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青山之沙汰
此經正十七の年、宇佐の勅使を承てくだられけるに、其時青山を給て、宇佐へ參り、御殿に向ひ參り、祕曲を彈給ひしかば、いつ聞馴たる事は無れ共、供の宮人推竝て、緑衣の袖をぞ絞ける。聞知らぬ奴子迄も村雨とは紛はじな。目出かりし事ども也。
彼青山と申す御琵琶は、昔仁明天皇御宇、嘉祥三年の春、掃部頭貞敏渡唐の時、大唐の琵琶博士廉妾夫に逢ひ、三曲を傳へて歸朝せしに、玄象、獅子丸、青山、三面の琵琶を相傳して渡りけるが、龍神や惜み給ひけん、浪風荒く立ければ、獅子丸をば海底に沈めぬ。今二面の琵琶を渡して、吾朝の御門の御寶とす。
村上聖代應和の比ほひ、三五夜中の新月白く冴え、凉風颯々たりし夜半に、御門清凉殿にして、玄象をぞ遊されける。時に影の如くなる者、御前に參じて、優にけだかき聲にて、唱歌を目出たう仕る。御門御琵琶を差置かせ給て、「抑汝は如何なる者ぞ。何くより來れるぞ。」と御尋あれば、「是は昔貞敏に三曲を傳へし大唐の琵琶博士、廉妾夫と申す者で候が、三曲の中、祕曲を一曲殘せるに依て、魔道に沈淪仕て候。今御琵琶の御撥音妙に聞えて侍る間、參入仕る處也。願くは此曲を君に授け奉り、佛果菩提を證すべき」由申て、御前に立られたる青山 を取り、轉手をねぢて、祕曲を君に授け奉る。三曲の中に上玄、石上是也。其後は、君も臣も恐させ給て、此御琵琶を遊し彈く事もせさせ給はず、御室へ參せられたりけるを、經正の幼少の時御最愛の童形たるに依て、下し預りたりけるとかや。甲は紫藤の甲、夏山の嶺の緑の木間より、有明の月の出るを、撥面に書かれたりける故にこそ、青山とは附られたれ。玄象にも相劣らぬ希代の名物なりけり。
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一門都落
池の大納言頼盛卿も、池殿に火を懸て出られけるが、鳥羽の南の門に引へつゝ、「忘たる事あり。」とて、赤印切捨て、其勢三百餘騎都へ取て歸られけり。平家の侍越中次郎兵衞盛嗣、大臣殿の御前に馳參て「あれ、御覽候へ、池殿の御留まり候に、多の侍共の付參らせて、罷留まるが、奇怪に覺え候。大納言殿迄は恐れも候、侍共に矢一つ射懸候はん。」と申ければ。「年比の重恩を忘て、今此有樣を見果ぬ不當人をば、さなくとも有なん。」と宣へば、力及ばで留まりけり。「さて小松殿の君達は如何に。」と宣へば「未御一所も見えさせ給はず。」と申す。其時、新中納言殿、涙をはらはらと流いて「都を出て未だ一日だにも過ざるに、何しか人の心共の變行くうたてさよ。まして行末とてもさこそはあらんずらめと思しかば都の内で如何にも成らんと、申つる者を。」とて、大臣殿の御方を、世にも恨げにこそ見給ひけれ。
抑池殿の留まり給ふ事を如何にと云に兵衞佐頼朝、常は頼盛に情をかけて、「御方をば全く愚 に思ひ參らせ候はず。只故池殿の渡らせ給ふとこそ存候へ。八幡大菩薩も御照覽候へ。」など、度々誓状を以て申されける上、平家追討の爲に討手の使の上る度ごとに、「相構て池殿の侍共に向て弓引な。」と情を懸れば「一門の平家は運盡き既に都を落ぬ。今は兵衞佐に助られんずるにこそ。」と宣ひて、都へ歸られけるとぞ聞えし。八條女院の仁和寺の常磐殿に渡らせ給ふに參り籠られけり。女院の御乳母子宰相殿と申す女房に、相具し給へるに依てなり。「自然の事候はゞ、頼盛構へて助させ給へ。」と申されけれども、女院、「今は世の世にても有らばこそ。」とて、憑氣もなうぞ仰ける。凡は兵衞佐許こそ、芳心は存ぜらるゝとも、自餘の源氏共は如何あらんずらん。憖に一門には離れ給ひぬ。浪にも磯にも附ぬ心地ぞせられける。さる程に、小松殿の君達は三位中將維盛卿を始め奉て、兄弟六人其勢千騎許にて淀の六田河原にて、行幸に追附奉る。大臣殿待うけ奉り嬉げにて、「いかにや今迄。」と宣へば、三位中將、「少き者共が餘に慕ひ候を、とかうこしらへ置んと遲參仕候ぬ。」と申されければ、大臣殿、「などや心つよう六代殿をば具し奉給候はぬぞ。」と宣へば、維盛卿、「行末とても憑しうも候はず。」とて、問ふにつらさの涙を流されけるこそ悲しけれ。
落行く平家は誰々ぞ。前内大臣宗盛公、平大納言時忠、平中納言教盛、新中納言知盛、修理大夫經盛、右衞門督清宗、本三位中將重衡、小松三位中將維盛、新三位中將資盛、越前三位通盛、殿上人には、内藏頭信基、讃岐中將時實、左中將清經、小松少將有盛、丹後侍從忠房、皇后宮亮經正、左馬頭行盛、薩摩守忠度、能登守教經、武藏守知明、備中守師盛、淡路守清 房、尾張守清定、若狹守經俊、兵部少輔正明、藏人大夫成盛、大夫敦盛、僧には二位僧都專親、法勝寺執行能圓、中納言律師仲快、經誦坊阿闍梨祐圓、侍には受領、檢非違使、衞府、諸司百六十人、都合其勢七千餘騎、是は東國北國度々の軍に此二三箇年が間、討泄れて、僅に殘る所也。山崎關戸院に玉の御輿を舁居て、男山を伏拜み、平大納言時忠卿「南無歸命頂禮八幡大菩薩、君を始參せて、我等都へ歸し入させ給へ。」と祈れけるこそ悲しけれ。各後を顧給へば、霞める空の心地して、烟のみ心細く立のぼる。平中納言教盛卿
はかなしな主は雲井に別るれば、跡は煙とたちのぼるかな。
修理大夫經盛、
故郷をやけのの原にかへり見て、末もけぶりのなみぢをぞ行く。
誠に故郷をば、一片の烟塵に隔つゝ、前途萬里の雲路に赴れけん人々の心の中、推量られて哀也。
肥後守 [6]貞能ほ、川尻に源氏待と聞て、蹴散さんとて、五百餘騎で發向したりけるが、僻事なれば歸り上る程に、宇度野の邊にて行幸に參り合ふ。貞能馬より飛下り、弓脇挾み大臣殿の御前に、畏て申けるは、「是は、抑何地へとて落させ給候やらん。西國へ下せ給たらば、落人とて、あそこ爰にて討散らされ浮名を流させ給はん事こそ口惜う候へ。只都のうちでこそ、如何にも成せ給はめ。」と申ければ、大臣殿、「貞能は知ぬか。木曾すでに北國より五萬餘騎で攻上り、比叡山東坂本に滿々たんなり。此夜半ばかり法皇も渡らせ給はず。各が身ばかりな らば如何がせん、女院二位殿に目の當り憂目を見せ參せんも、心苦しければ、行幸をも成し參らせ、人々をも引具し奉て、一まともやと思ふぞかし。」と仰られければ、「左候はゞ、貞能は暇賜はて、都で如何にも成り候はん。」とて、召具したる五百餘騎の勢をば、小松殿の君達に附奉り、手勢三十騎許で都へ引かへす。
京中に殘り留まる平家の餘黨を伐んとて、貞能が歸り入由聞えしかば、池大納言「頼盛が身の上でぞ有らん。」とて、大に怖れ噪がれけり。貞能は、西八條の燒跡に、大幕ひかせ一夜宿したりけれども、歸り入給ふ平家の君達一所も坐ねば、さすが心細うや思ひけん、源氏の馬の蹄に懸じとて、小松殿の御墓掘せ、御骨に向ひ奉て、泣々申けるは、「あな淺まし、御一門の御果御覽候へ。『生ある者は必滅す。樂み盡て悲み來る。』と古より書置たる事にて候へ共、まのあたりかかる憂事候はず。君は斯樣の事を先づ悟せ給ひて、兼て佛神三寶に御祈誓有て、御世を早うせさせまし/\けるにこそ。有難うこそ覺え候へ。其時貞能も最後の御供仕るべう候ける物を、かひなき命を生て、今はかゝる憂目に逢候事こそ口惜う候へ。死期の時は、必一佛土へ迎へさせ給へ。」と泣々遙に掻口説き、骨をば高野へ送り、あたりの土をば賀茂川に流させ、世の在樣たのもしからずや思けん、主と後合に、東國へこそ落行けれ。宇都宮をば貞能が申預て、情有ければ、其好にや貞能又宇都宮を頼うで下られければ芳心しけるとぞ聞えし。
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福原落
平家は小松三位中將維盛卿の外は、大臣殿以下妻子を具せられけれ共、次樣の人共はさのみ引しろふに及ばねば、後會其期を知らず、皆打捨てぞ落行ける。人は何れの日、何れの時、必ず立歸べしと其期を定置だにも、久しきぞかし。況や是は今日を最後、唯今限の事なれば、行くも止まるも、互に袖をぞ濕しける。相傳譜代の好年比日比の重恩、爭か忘べきなれば、老たるも若きも、後のみ歸り見て、前へは進みもやらざりけり。或は磯邊の波枕、八重の潮路に日を暮し、或は遠きを分け、嶮しきを凌ぎつゝ、駒に鞭打人もあり舟にさをさす者もあり、思々心々に落行けり。
平家は福原の舊都に著て、大臣殿然るべき侍共老少數百人召て仰られけるは、「積善の餘慶家に盡き、積惡の餘殃身に及ぶ故に、神明にも放たれ奉り、君にも捨られ參らせて、帝都を出て旅泊に漂ふ上は、何の憑みか有るべきなれ共、一樹の蔭に宿るも、前世の契淺からず、同じ流を掬ぶも、他生の縁尚深し。如何に況や、汝等は一旦隨ひ付く門客にあらず、累祖相傳の家人也。或は近親の好他に異なるも有り、或は重代芳恩是深きも有り。家門繁昌の古へは、恩波に依て、私を顧みき。今何ぞ芳恩を酬ひざらんや。且は十善帝王、三種神器を帶して渡らせ給へば、如何ならん野の末山の奧迄も、行幸の御供仕らんとは思はずや。」と仰られければ老少皆涙を流いて申けるは、「怪しの鳥獸も、恩を報じ徳を酬ふ心は候なり。況や、人倫 の身として、いかが其理を存知仕らでは候べき。廿餘年の間、妻子を育み、所從を顧み候事、併ら君の御恩ならずといふ事なし。就中に弓箭馬上に携る習ひ、二心あるを以て恥とす。然ば則ち日本の外、新羅、百濟、高麗、契丹、雲の果海の果迄も、行幸の御供仕て、如何にも成候はん。」と、異口同音に申ければ、人々皆憑氣にぞ見えられける。
福原の舊里に、一夜をこそ明されけれ。折節秋の初の月は下の弦なり。深更空夜閑にして、旅寢の床の草枕、露も涙も爭ひて、唯物のみぞ悲き。何歸るべし共覺えねば、故入道相國の造り置き給ひし所々を見給ふに、春は花見の岡の御所、秋は月見の濱の御所、泉殿、松蔭殿、馬場殿、二階の棧敷殿、雪見の御所、萱の御所、人々の館ども五條大納言國綱卿の承て造進せられし里内裏、鴦の瓦、玉の甃、何れも/\三年が程に荒果てゝ、舊苔徑を塞ぎ、秋の草門を閉づ。瓦に松生ひ垣に蔦茂れり。臺傾て苔むせり、松風ばかりや通ふらん。簾絶え閨露は也、月影のみぞ差入ける。明ぬれば福原の内裏に火を懸て、主上を始奉て人々皆御船に召す。都を立し程こそ無れども是も名殘は惜かりけり。海士の燒藻の夕煙、尾上の鹿の曉の聲、渚々に寄する浪の音、袖に宿かる月の影、千草にすだく蟋蟀のきり/\す、惣て目に見耳に觸る事、一として哀れを催し、心を痛しめずといふ事なし。昨日は東關の麓に轡を竝べて十萬餘騎、今日は西海の浪に纜を解て七千餘人、雲海沈々として、青天既に暮なんとす。孤島に夕霧隔て、月海上に浮べり。極浦の浪を分け、鹽に引かれて行船は、半天の雲に泝る。日數歴れば、都は既に山川 程を隔て、雲井の餘所にぞ成にける。遙々來ぬと思ふにも、唯盡ぬ者は涙なり。浪の上に白き鳥のむれゐるを見給ひては、彼ならん、在原のなにがしの隅田川にて言問ひけん、名も睦敷き都鳥にやと哀也。壽永二年七月二十五日に、平家都を落果ぬ。
[1] Nihon Koten Bungaku Taikei (Tokyo: Iwanami Shoten, 1957, vol. 33; hereafter cited as NKBT) reads 遲々にも及ばず.
[2] NKBT reads 玄房.
[3] NKBT reads 玄房.
[4] NKBT reads 玄房.
[5] Our copy-text reads 大 噪いで. The character に was added to our text from the standard text in NKBT.
[6] NKBT reads 貞能は.
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平家物語卷第八
山門御幸
壽永二年七月廿四日夜半許、法皇は按察使大納言資方卿の子息右馬頭資時ばかり御伴にて、竊かに御所を出させ給ひ、鞍馬へ御幸なる。鞍馬寺僧ども、「是は猶都近くて惡う候なん」と申間篠の峯藥王坂など云ふ嶮き嶮難を凌がせ給て、横川の解脱谷寂場坊御所になる。大衆起て、「東塔へこそ御幸在べけれ。」と申ければ、東塔の南谷圓融房御所になる。かゝりしかば、衆徒も武士も、圓融房を守護し奉る。法皇は仙洞を出でて天台山に、主上は鳳闕を去て西海へ、攝政殿は芳野の奧とかや。女院宮々は、八幡、賀茂、嵯峨、太秦、西山、東山の片邊りに附て、迯隱させ給へり。平家は落ぬれど、源氏は未だ入替らず。既に此京は主なき里にぞ成にける。開闢より以來、かゝる事あるべしともおぼえず。聖徳太子の未來記にも、今日の事こそ床しけれ。
法皇天台山に渡せ給と聞えさせ給しかば、馳參らせ給ふ人々、其比の入道殿と申は、前關白松殿、當殿とは近衞殿、太政大臣、左右大臣、内大臣、大納言、中納言、宰相、三位、四位、五位の殿上人、すべて世に人とかぞへられ、官加階に望をかけ、所帶所職を帶する程の人の、 一人も漏るは無りけり。圓融房には、餘りに參りつどひて、堂上堂下門外門内、隙はさまなく充々たる。山門繁昌門跡の面目とこそ見えたりけれ。
同廿八日に法皇都へ還御なる。木曾五萬餘騎にて守護し奉る。近江源氏山本の冠者義高、白旗差て先陣に供奉す。此二十餘年見えざりつる白旗の、今日始めて都へ入る、珍しかりし事共なり。
去程に十郎藏人行家、宇治橋を渡て都へ入る。陸奧新判官義康が子、矢田判官代義清、大江山を經て上洛す。攝津國河内の源氏共雲霞の如くに同く都へ亂入る。凡京中には源氏の勢充々たり。勘解由小路中納言經房卿、檢非違使別當左衞門督實家院の殿上の簀子に候て、義仲行家を召す。木曾は赤地の錦の直垂に、唐綾威の鎧著て、いか物作の太刀を帶き、切斑の矢負ひ、滋籐の弓脇に挾み、甲をば脱ぎ高紐にかけて候。十郎藏人は、紺地の錦の直垂に、緋威の鎧著て、金造りの太刀を帶き、大中黒の矢負ひ、塗籠籐の弓脇に挾み、是も甲をば脱ぎ高紐にかけ、ひざまついて候ひけり。前内大臣宗盛公以下、平家の一族追討すべき由仰下さる。兩人庭上に畏て承る。各宿所のなき由を申す。木曾は大膳太夫成忠が宿所、六條西洞院を給はる。十郎藏人は、法住寺殿の南殿と申す萱の御所をぞ給はりける。法皇は主上外戚の平家に取らはれさせ給て、西海の浪の上に漂はせ給ふ事を、御歎き有て、主上竝に三種の神器、都へ返入れ奉るべき由、西國へ院宣を下されたりけれども、平家用ゐ奉らず。
高倉院の皇子は、主上の外三所おはしき。二宮をば、儲の君にし奉らんとて、平家いざな ひ參らせて、西國へ落給ぬ。三四は都にまし/\けり。同八月五日、法皇此宮達を迎へ寄せ參らせ給て、先三の宮の五歳に成せ給ふを、「是へ/\」と仰ければ、法皇を見參させ給ひて大にむつがらせ給ふ間、「とう/\」とて出し參させ給ひぬ。其後四の宮の四歳に成せ給ふを、「是へ」と仰せければ少も憚らせ給はず、やがて法皇の御膝の上に參せ給ひて、世にも懷氣にぞ坐しける。法皇御涙をはら/\と流させ給ひて、「げにもすぞろならむ者は、か樣の老法師を見て何とてか懷氣には思ふべき。是ぞ我實の御孫にてぞまし/\ける。故院の少生に少も違せ給はぬ者哉。かゝる忘れ形見を、今迄見ざりける事よ。」とて、御涙塞あへさせ給はず。淨土寺の二位殿、其時は未丹後殿とて御前に候はせ給ふが、「さて御讓は此宮にてこそ渡らせおはしまし候はめ。」と申させ給へば、法皇「仔細にや。」とぞ仰ける。内々御占のありしにも、「四宮位に即せ給ひてば、百王迄も日本國の御主たるべし。」とぞ勘へ申ける。
御母儀は七條修理大夫信隆卿の御娘なり。建禮門院の未だ中宮にてまし/\ける時其御方に宮仕給ひしを、主上常は召れける程に、うち續き宮あまた出來させ給へり。信隆卿、御娘餘たおはしければ、如何にもして女御后にもなしたてまつらばやとねがはれけるに、人の家に白い鷄を千飼つれば、其家に必ず后出來たると云ふ事有りとて、鷄の白いを千そろへて飼はれたりける故にや、此御娘皇子數多生參せ給へり。信隆卿内々うれしうは思はれけれども、平家にも憚り、中宮にも恐れ參せて、もてなし奉る事もおはせざりしを、入道相國の北方八條の二位殿、「苦しかるまじ、我育て參せて、儲の君にして奉らむ。」とて、御乳母共あ また附て、そだて參せ給ひけり。
中にも四宮は、二位殿の兄法勝寺執行能圓法師の養君にてぞ坐ける。法印平家に具せられて、西國へ落し時、餘りに遽噪いで、北方をも宮をも京都に棄置參せて下られたりしが、西國より急ぎ人を上せて、「女房宮具し參せて、よく/\くだり給べし。」と申されたりければ、北方斜ならず悦び、宮いざなひ參せて、西の七條なる處まで出られたりしを、女房の兄紀伊守教光、「是は物の附て狂給ふか。此宮の御運は唯今開かせ給はんずる者を。」とて、取留參せたりける次の日ぞ、法皇より御迎の車參りたりける。何事も然べき事と申ながら四宮の御爲には、紀伊守教光は奉公の人とぞ見えたりける。されども四宮位に即せ給ひて後、其情をも思召し出でさせ給はず、朝恩もなくして年月を送けるが、せめて思ひの餘りにや二首の歌を詠うで、禁中に落書をぞしたりける。
一聲は思ひ出てなけほとゝぎす、老蘇の森の夜半の昔を。
籠の内も猶羨まし山がらの、身のほどかくす夕顏の宿。
主上是を叡覽あて「あな無慚や、されば未だ世に長らへてありけるな。今日まで是を思召寄らざりけるこそ愚なれ。」とて、朝恩蒙り、正三位に敍せられけるとぞ聞えし。
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名虎
同八月十日、院の殿上にて除目行はる。木曾は左馬頭に成て、越後國を給はる。其上朝日の 將軍と云ふ院宣を下されけり。十郎藏人は備後守に成る。木曾は越後をきらへば伊豫をたぶ。十郎藏人備後を嫌へば備前を給ぶ。其外源氏十餘人、受領、檢非違使、靱負尉、兵衞尉に成れけり。
同十六日、平家の一門百六十餘人が官職を停て、殿上の御札を削らる。其中に、平大納言時忠卿、内藏頭信基、讃岐中將時實、是三人は削られず。其は主上幵に三種の神器都へ返入れ奉るべき由、彼時忠卿の許へ度々院宣を下されけるに依て也。
同八月十七日、平家は筑前國御笠郡太宰府にこそ著給へ。菊池二郎高直は、都より平家の御供に候けるが、大津山の關開けて參らせんとて、肥後國へ打越えて、己が城に引籠り、召せ共/\參らず。當時は岩戸の諸卿大藏種直計ぞ候ける。九州二島の兵どもやがて參るべき由領状を申ながら參らず。平家安樂寺へ參て、歌詠み連歌して、宮仕し給ひしに、本三位中將重衡卿、
住なれし故き都の戀しさは、神も昔に思ひしるらん。
人々是を聞て、皆涙を流されけり。
同廿日、都には法皇の宣命にて、四宮閑院殿にて位に即せ給ふ。攝政は本の攝政近衞殿、替らせ給はず、頭や藏人成置きて、人々皆退出せられけり。三の宮の御乳母泣悲み後悔すれども甲斐ぞなき。天に二の日なし、國に二人の王なしとは申せども、平家の惡行に依てこそ、京田舎に二人の王は坐けれ。
昔文徳天皇は天安二年八月二十三日に隱れさせ給ひぬ。御子の宮達あまた位に望を懸て坐ますは内々御祈とも有けり。一の御子惟高親王をば、小原皇子とも申き。王者の才量を御心に懸け、四海の安危は掌の中に照し、百王の理亂は心の中にかけ給へり。されば賢聖の名をも取せ坐ぬべき君なりと見え給へり。二宮惟仁親王は、其比の執柄忠仁公の御娘、染殿の后の御腹也。一門公卿列して持成奉り給ひしかば、是も差置き難き御事なり。彼は守文繼體の器量有り。是は萬機輔佐の臣相有り。彼も是も痛はしくて、何れも思召煩れき。一宮惟高親王の御祈は、柿本紀僧正信濟とて、東寺の一の長者、弘法大師の御弟子也。二宮惟仁親王の御祈には、外祖忠仁公の御持僧、比叡山の惠亮和尚ぞ承はられける。互に劣らぬ高僧達也。とみに事行難うや有んずらんと人々ささやきあへり。御門隱させ給しかば、公卿僉議有り。「抑臣等が、慮を以て、選んで位に即奉ん事、用捨私有に似たり、萬人唇を反べし。しらず、競馬相撲の節を遂げて其運を知り、雌雄に依て、寶祚を授け奉るべし。」と議定畢ぬ。
同九月二日二人の宮達右近馬場へ行啓有り。爰に王公卿相、花の袂を粧ひ、玉の轡を竝べ、雲の如に重なり、星の如くに列り給ひしかば、此事希代の勝事、天下の壯なるみもの、日來心を寄奉りし月卿雲客、兩方に引分て、手を握り心を碎き給へり。御祈の高僧達、何れか疎略あらむや。信濟は東寺に壇を立て、惠亮は大内の眞言院に壇を立て行なはれけるに、惠亮は失たりと云ふ披露をなさば信濟僧正たゆむ心もやあるらんとて、惠亮和尚失たりといふ披露を成し、肝膽を碎いて祈れけり。既に十番の競馬始る。始め四番は一の宮惟高親王勝せ給 ふ。後六番は二の宮惟仁親王勝せ給ふ。やがて相撲の節有るべしとて、惟高の御方より、名虎右兵衞督とて、六十人が力現したるゆゝしき人をぞ出されたる。惟仁親王家よりは、能雄少將とて、背小うたへにして、片手に合べしとも見えぬ人、御夢想の御告有とて、申請けてぞいでられたる。名虎、能雄寄合うて、ひし/\とつま取して退にけり。暫し有て名虎、能雄少將を取てさゝげて、二丈許ぞ投たりける。たゞなほて倒れず。能雄又つと寄り、えい聲を上て名虎を取て伏むとす。名虎もともに聲をいだして能雄をとてふせむとす。何れ劣れりとも見えず。されども、名虎大の男、かさに廻る。能雄は危なう見えければ、二宮惟仁親王家の御母儀染殿后より、御使櫛の齒の如く、走り重て、「御方すでに劣色に見ゆ。如何せむ。」と [1]仰けれは、惠亮和尚、大威徳の法を修せられけるが、「こは心憂事にこそ。」とて、獨鈷を以て腦を撞碎き、乳に和して護摩に燒き、黒烟を立て、一揉揉まれたりければ、能雄相撲に勝にけり。親王位に即せ給ふ。清和御門是なり。後には水尾天皇とぞ申ける。其よりしてこそ山門には聊の事にも、惠亮腦を碎けば、二帝位に即き給ひ、尊位智劍を振しかば、菅相納受し給ふとも傳たれ。是のみや法力にても有けん。其外は皆天照大神の御はからひとぞ承はる。平家は西國にて是を傳聞きぬ。「安からぬ。三宮をも四宮をも取參せて落下べかりしものを。」と後悔せられければ、平大納言時忠卿、「さらむには木曾が主にしたてまつたる高倉宮の御子を、御乳母讃岐守重秀が、御出家せさせ奉り、具し參せて北國へ落下りしこそ、位には即け給はんずらめ」と宣へば、又或人々の申されけるは、「それは出家の宮をばいかゞ、位に即奉 るべき。」時忠「さもさうず、還俗の國王の樣、異國にも先蹤有らん、我朝には先天武天皇未だ東宮の御時、大伴皇子に憚からせ給て、鬢髮を剃り、芳野の奧に忍ばせ給せたりしかども、大伴皇子を亡して、終には位に即せ給ひき。又孝謙天皇も、大菩提心を發し、御飾をおろさせ給ひ、御名をば法基尼と申しかども、再位に即て、稱徳天皇と申しぞかし。まして木曾が主にし奉りたる還俗の宮、仔細在まじ。」とぞ宣ひける。
同九月二日の日、法皇より伊勢へ公卿の勅使を立らる。勅使は參議長教とぞ聞えし。太上天皇の伊勢へ公卿の勅使を立らるゝ事は、朱雀、白河、鳥羽三代の蹤跡ありといへども、是皆御出家以前なり。御出家以後の例はこれ始めとぞ承る。
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