饭饭TXT > 海外名作 > 《平家物语(日文版)》作者:[日]未知【完结】 > 平家物语.txt

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作者:日-未知 当前章节:15454 字 更新时间:2026-6-19 10:59

故少納言入道信西の子息宰相長教、法皇の渡せ給ふ五條内裏にまゐて、「是は君に奏すべき事があるぞ。あけて通せ。」と宣へども、武士共許し奉らず。力及ばで、ある小屋に立ち入り、俄に髪剃下し、法師に成り墨染の衣袴著て、「此上は何か苦しかるべき、入よ。」と宣へば、其時許し奉る。御前へ參て、今度討れ給へる宗との人々の事共、具さに奏聞しければ、法皇、御涙をはら/\と流させ給ひて、「明雲は非業の死にすべき者とは露も思召しよらざりつる物を。今度はたゞ吾が如何にも成べかりける御命にかはりけるにこそ。」とて、御涙塞あへさせ給はず。

同二十一日木曾、家子郎等召集めて、評定す。「抑義仲一天の君に向ひ奉て、軍には勝ぬ。主上にや成まし。法皇にや成まし。主上に成らうと思へ共、童にならむも然るべからず。法皇に成らうと思へども、法師に成んもをしかるべし。よし/\さらば關白にならう。」と申せば、手書に具せられたる大夫房覺明申けるは、「關白は大織冠の御末、藤原氏こそ成せ給へ。殿は源氏で渡せ給に、其こそ叶ひ候まじけれ。」「其上は力及ばず。」とて院の御厩別當におし成 て、丹波國をぞ知行しける。院の御出家有ば法皇と申し、主上の未御元服もなき程は、御童形に渡らせ給ふを、知ざりけるこそうたてけれ。

前關白松殿の姫君取奉て、松殿の聟に押成る。同十一月二十三日、三條中納言朝方卿を始として、卿相雲客四十九人が官職を停めて、押籠め奉る。平家の時は四十三人をこそ停めたりしに是は四十九人なれば、平家の惡行には超過せり。

さる程に木曾が狼藉靜んとて鎌倉前兵衞佐頼朝、舎弟蒲冠者範頼、九郎冠者義經を差上せられけるが、既に法住寺殿燒拂ひ、院うち捕奉て、天下暗やみに成たる由聞えしかば、「左右なう上て軍すべき樣もなし。是より關東へ子細を申さん。」とて、尾張國熱田の大宮司が許におはしけるに、此事訴へんとて北面に候ける宮内判官公朝、藤内左衞門時成、尾張國に馳下り、此由一一次第に訴へければ、九郎御曹司、「是は宮内判官の關東へ下らるべきにて候ぞ。仔細知ぬ使は、返し問るる時、不審の殘るに。」とぞ宣へば、公朝、鎌倉へ馳下る。軍に怖れて下人ども皆落失たれば、嫡子の宮内ところ公茂が十五に成るをぞ具したりける。關東へ參て此由申ければ、兵衞佐大に驚き、「先づ鼓判官知康が不思議の事を申出して、御所をも燒せまゐらせ、高僧貴僧をも滅ぼし奉るこそ奇怪なれ。知康に於ては、既に違勅の者なり。召使せ給はゞ、重て御大事出き候なむず。」と都へ早馬を以て申されければ、鼓判官陳ぜんとて、夜を日に續で馳下る。兵衞佐「しやつに目な見せそ、會釋なせそ。」と宣へども、日毎に兵衞佐の館へ向ふ。終に面目なくして、都へ歸り上りけり。後には稻荷の邊なる所に命ばかり生て過 しけるとぞ聞えし。

木曾左馬頭、平家の方へ使者を奉て、「都へ御上り候へ、一つに成て東國せめむ。」と申たれば、大臣殿は悦ばれけれ共、平大納言、新中納言「さこそ世末に成て候とも、義仲に語らはれて、都へ歸り入らせ給はん事然るべうも候はず。十善の帝王三種神器を帶して渡せ給へば、甲を脱ぎ弓の弦を弛いて、降人に是へ參れとは仰候べし。」と申されければ、此樣を御返事ありしか共、木曾もちゐ奉らず。松殿入道殿の許へ木曾を召して、清盛公さばかり惡行人たりしかども、希代の善根をせしかば、世をも穩しう二十年餘保たりしなり。惡行ばかりで世を保つ事はなき者を、させる故なくて留めたる人々の官途ども、皆許すべき由仰せられければ、ひたすらの荒夷の樣なれ共、隨ひ奉て解官したる人々の官どもゆるし奉る。松殿の御子師家の殿の、其時は未だ中納言中將にてましましけるを、木曾がはからひにて、大臣攝政に成奉る。折節大臣あかざりければ、徳大寺左大將實定公の其比内大臣でおはしけるをかり奉て、内大臣に成奉る。何しか人の口なれば、新攝政殿をばかるの大臣とぞ申ける。

同十二月十日法皇は五條内裏を出させ給ひて、大膳大夫成忠が宿所、六條西洞院へ御幸なる。同十三日歳末の御修法在けり。其次に叙位除目行はれて、木曾がはからひに、人々の官ども、思樣に成おきけり。平家は西國に、兵衞佐は東國に、木曾は都に張行ふ。前漢後漢の間、王莽が世を討取て、十八年治たりしが如し。四方の關々皆閉たれば、公の御貢物をもたてまつらず、秋の年貢ものぼらねば、京中の上下の諸人只少水の魚にことならず。あぶなながら歳 暮て、壽永も三年になりにけり。

[1] Nihon Koten Bungaku Taikei (Tokyo: Iwanami Shoten, 1957, vol. 33; hereafter cited as NKBT) reads 仰ければ.

[2] NKBT has 。at this point.

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平家物語卷第九

生食之沙汰

壽永三年正月一日、院の御所は大膳大夫成忠が宿所、六條西洞院なれば、御所の體しかるべからずとて、禮儀行はるべきにあらねば拜禮もなし。院の拜禮無りければ、内裏の小朝拜もおこなはれず。平家は讃岐國八島の磯におくり迎へて、年のはじめなれども元旦元三の儀式事宜からず、主上わたらせ給へども、節會も行はれず、四方拜もなし。 はらか魚も奏せず。吉野のくずも參らず。「世亂れたりしかども都にてはさすがかくは無りし者を。」とぞ、各宣ひあはれける。青陽の春も來り、浦吹く風も やはらかに、日影も長閑に成行けど、唯平家の人々は、いつも氷に閉籠られたる心地して、寒苦鳥に異ならず。東岸西岸の柳遲速を交へ、南枝北枝の梅開落已に異にして、花の朝月の夜、詩歌管絃、鞠、小弓、扇合、繪合、草盡、蟲盡、樣々興有し事ども思出で語りつゞけて、永き日を暮しかね給ふぞ哀なる。

同正月十一日、木曾左馬頭義仲院參して、平家追討の爲に、西國へ發向すべき由奏聞す。同十三日既に門出と聞えし程に、東國より前兵衞佐頼朝、木曾が狼藉鎭んとて、數萬騎の軍兵を差上せられける。既に美濃國伊勢國に著と聞えしかば、木曾大に驚き、宇治勢田の橋を引 いて、軍兵どもを分ち遣す。折節勢も無りけり。勢田の橋は、大手なればとて、今井四郎兼平、八百餘騎で差遣す。宇治橋へは、仁科、高梨、山田次郎、五百餘騎でつかはす。芋洗へは、伯父の志太三郎先生義教、三百餘騎で向けり。東國より攻上る大手の大將軍は、蒲の御曹司範頼、搦手の大將軍は、九郎御曹司義經、むねとの大名三十餘人、都合其勢六萬餘騎とぞ聞えし。其比鎌倉殿にいけずき摺墨といふ名馬あり。いけずきをば梶原源太景頻に望み申けれども、鎌倉殿「自然の事あらん時、物具して頼朝がのるべき馬なり。する墨も劣ぬ名馬ぞ。」とて、梶原にはする墨をこそ給だりけれ。

佐々木四郎高綱が暇申に參たりけるに、鎌倉殿如何思食されけん、「所望の者はいくらもあれども、存知せよ。」とて、いけずきをば佐々木に給ぶ。佐々木畏て申けるは「高綱此御馬で、宇治川の眞先渡し候べし。宇治河で死で候ときこしめし候はゞ、人に先をせられてけりと思食し候へ。未だ生て候と聞食され候はゞ、定めて先陣はしつらんものをと思食され候へ。」とて、御前を罷り立つ。參會したる大名小名皆「荒凉の申樣哉。」と ささやきあへり。

各鎌倉を立て、足柄を歴て行もあり、箱根にかゝる人もあり、思ひ/\に上る程に、駿河國浮島原にて梶原源太景季、高き所に打上り、暫しひかへて、多の馬共を見ければ、思ひ/\の鞍置て、いろ/\の鞦かけ、或は乘り口に引かせ、或はもろ口に引かせ、幾千萬といふ數を知らず、引き通し/\しける中にも、景季が給はたるするすみに、勝る馬こそ無かりけれと、嬉しう思ひて見る處に、いけずきとおぼしき馬こそ出來たれ。

金覆輪の鞍置て、小總の鞦懸け、白沫かませ、舎人あまた附たりけれども、猶引もためず躍らせて出きたり。梶原源太打寄て、「其れは誰が御馬ぞ。」「佐々木殿の御馬候。」其時梶原「安からぬ者なり。おなじやうにめしつかはるゝ景季を佐々木におぼしめしかへられけるこそ遺恨なれ。都へ上て木曾殿の御内に四天王と聞ゆる、今井、樋口、楯、根井に組んで死ぬるか、然らずば西國へ向うて、一人當千と聞る平家の侍共と軍して死なんとこそ思つれども、此御氣色では、それも詮なし。爰で佐々木に引組み刺違へ、好い侍二人死で兵衞佐殿に損とらせ奉らん。」とつぶやいてこそ待懸たれ。佐々木四郎は何心もなく歩せて出來たり。梶原押竝べてやくむ、向うざまにやあて落すと思ひけるが、先詞を懸けり。「いかに佐々木殿、いけずき給はらせ給てさうな。」と言ひければ、佐々木「あはれ此仁も内々所望すると聞し物を。」ときと思ひ出して、「さ候へばこそ此御大事にのぼり候が、定て宇治勢田の橋をばひいて候らん。乘て河渡すべき馬はなし。いけずきを申さばやとは思へども、梶原殿の申されけるにも御許れないと承はる間、まして高綱が申すにもよも給らじと思つゝ後日には如何なる御勘當も有ばあれと存じて、曉立んとての夜、舎人に心をあはせて、さしも御秘藏候いけずきを盗みすまいて上りさうはいかに。」と言ひければ、梶原此詞に腹がゐて、「ねたい、さらば景季も竊むべかりける者を。」とて、どと笑て退にけり。

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宇治川先陣

佐々木四郎が給はたる御馬は、黒栗毛なる馬の、究めて太う逞いが、馬をも人をも傍をはらて食ければ、生食と附られたり。八寸の馬とぞ聞えし。梶原が給たる摺墨も、究めて太う逞きが、誠に黒かりければ、するすみとは附けられたり。何れも劣らぬ名馬なり。

尾張國より大手搦手二手にわかてせめ上る。大手の大將軍、蒲御曹司範頼、相伴ふ人々、武田太郎、加賀見次郎、一條次郎、板垣三郎、稻毛三郎、榛谷四郎、熊谷次郎、猪俣小平六を先として、都合其勢三萬五千餘騎、近江國、野路、篠原にぞつきにける。搦手の大將軍は、九郎御曹司義經同く伴ふ人々、安田三郎、大内太郎、畠山庄司次郎、梶原源太、佐々木四郎、糟屋藤太、澁谷右馬允、平山武者所を始として、都合其勢二萬五千餘騎、伊賀國を經て、宇治橋のつめにぞ押寄せたる。宇治も勢田も橋を引き、水の底には亂杭打て大綱張り、逆茂木つないで流し懸たり。比は睦月廿日餘の事なれば、比良の高峯、志賀の山、昔ながらの雪も消え、谷々の氷打解て、水は折節増りたり。白浪おびたゞしう漲り落ち、瀬枕大きに瀧鳴て、逆卷く水も疾かりけり。夜は既にほの%\と明行けど、河霧深く立籠て、馬の毛も、鎧の毛もさだかならず。爰に大將軍九郎御曹司、河の端に進み出で、水の面を見渡して、人々の心を見んとや思はれけん、「如何せん淀芋洗へや回るべき、水の落足をや待べき。」と宣へば、畠山は其比はいまだ生年廿一に成けるが、進出でて申けるは、「鎌倉にて能々此河の御沙汰は候ひしぞかし。知召さぬ海河の俄に出來ても候はばこそ。此河は近江の水海の末なれば、待とも/\水ひまじ。橋をば又誰か渡いて參らすべき。治承の合戰に、足利又太郎忠綱は、鬼神 でわたしけるか。重忠瀬蹈仕らん。」とて、丹の黨を宗として、五百餘騎ひし/\と轡を竝ぶる處に、平等院の丑寅、橘の小島が崎より、武者二騎引かけ引かけ出來たり。一騎は梶原源太景季、一騎は佐々木四郎高綱也。人目には何とも見えざりけれども、内々先に心をかけたりければ、梶原は佐々木に一段許ぞ進だる。佐々木四郎、「此河は西國一の大河ぞや。腹帶の延て見えさうぞ。しめ給へ。」と言はれて梶原さもあるらんとや思ひけん、左右の鎧を踏すかし、手綱を馬のゆがみに捨て、腹帶を解てぞ縮めたりける。その間に佐々木は、つと馳ぬいて、河へさとぞ打入たる。梶原謀れぬとや思ひけん、やがて續て打入たり。「いかに佐々木殿、高名せうとて不覺し給ふな。水の底には大綱あるらん。」といひければ、佐々木、太刀を拔き、馬の足に懸りける大綱共をふつ/\と打切打切、いけずきといふ世一の馬には乘たりけり、宇治川はやしといへども一文字にさと渡いて、向への岸に打上る。梶原が乘たりける摺墨は、河中よりのだめ形に押流されて遙の下より打上げたり。佐々木鐙蹈張立上り、大音聲を揚て名乘りけるは、「宇多天皇より九代の後胤、佐々木三郎秀義が四男、佐々木四郎高綱、宇治川の先陣ぞや。吾と思はん人々は高綱に組めや。」とておめいてかく。畠山五百餘騎で軈て渡す。向への岸より、山田次郎が放つ矢に、畠山馬の額を篦ぶかに射させて弱れば、河中より弓杖を突て下立たり。岩浪甲の手先へ颯と押上けれども事ともせず。水の底を潜て、向の岸へぞ著にける。上らむとすれば後に物こそむずと引へたれ。「誰そ。」と問へば、「重親。」と答ふ。「いかに大串か。」「さ候。」大串の次郎は、畠山には烏帽子子にてぞありける。「餘に水が疾うて、 馬は押流され候ぬ。力及ばで著參らせて候。」と言ひければ、「いつも和殿原は、重忠が樣なる者にこそ助られむずれ。」と云ふまゝに、大串を提て岸の上へぞ投上たる。投上られて、たゝ直て、「武藏國の住人大串次郎重親、宇治河の先陣ぞや。」とぞ名乘たる。敵も御方も是を聞いて一度にどとぞ笑ける。其後畠山乘替に乘て打上る。魚綾の直垂に緋威の鎧著て、連錢葦毛なる馬に、金覆輪の鞍置て乘たる、敵の眞先にぞ進だるを「爰にかくるは如何なる人ぞ。名乘れや。」と言ひければ、「木曾殿の家の子に、長瀬判官代重綱。」と名乘る。畠山今日の軍神祝はんとて、押竝てむずと捕て引落し、頸ねぢ切て、本田次郎が鞍のとつけにこそ附させけれ。是を始て、木曾殿の方より宇治橋固たる勢も、暫さゝへてふせぎけれども、東國の大勢渡いて攻ければ、散散に懸成され、木幡山、伏見を指いてぞ落行ける。勢田をば稻毛三郎重成が計らひにて、田上供御瀬をこそ渡しけれ。

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河原合戰

軍破れにければ、鎌倉殿へ飛脚をもて、合戰の次第を記し申されけるに、鎌倉殿先づ御使に、「佐々木は如何に。」と御尋有ければ、「宇治川の眞先候。」と申す。日記を披いて御覽ずれば、「宇治川の先陣、佐々木四郎高綱、二陣梶原源太景季。」とこそ書れたれ。

宇治勢田破れぬと聞えしかば、木曾左馬頭最後の暇申さんとて、院の御所六條殿へ馳參る。御所には法皇を始め參せて公卿殿上人「世は只今失せなんず。如何せん。」とて手を握り立て ぬ願もましまさず。木曾門前まで參たれども、東國の勢、既に河原迄責入たる由聞えしかば、さいて奏する旨もなくて、取てかへす。六條高倉なる所に始めて見そめたる女房のおはしければ、其へ打いり、最後の名殘惜まんとて、とみに出もやらざりけり。今參したりける越後中太家光と云ふ者有り、「如何にかうは打解て渡せ給候ぞ。御敵既に河原まで攻入て候に、犬死せさせ給なんず。」と申けれども、猶出でもやらざりければ、「さ候はば、先づ先き立參せて、死出の山でこそ待參せ候はめ。」とて、腹掻切てぞ死にける。木曾殿「我をすゝむる自害にこそ。」とて、やがて打立けり。上野國の住人那波太郎廣純を先として、其勢百騎ばかりには過ざりけり。六條河原に打出で見れば、東國の勢と覺くて、先三十騎計出來たり。其中に武者二騎進んだり。一騎は鹽屋五郎惟廣、一騎は勅使河原五三郎有直也。鹽屋が申けるは、「後陣の勢をや待つべき。」勅使河原が申けるは、「一陣破ぬれば殘黨全からず、唯懸よ。」とて、をめいてかく。木曾は今日を限りと戰かへば、東國の勢は、我討取んとぞ進ける。

大將軍九郎義經、軍兵共に軍をばせさせ、院御所の覺束なきに、守護し奉らんとて、先づ我身共に直甲五六騎、六條殿へ馳參る。御所には、大膳大夫成忠、御所の東築垣の上に上て、わなゝくわなゝく見まはせば、白旗さと差上、武士ども五六騎のけ甲に戰成て、射向の袖吹靡させ、黒煙蹴立て馳參る。成忠「又木曾が參り候、あなあさまし。」と申ければ、「今度ぞ世の失はて。」とて君も臣も噪がせ給ふ。成忠重て申けるは、「只今馳參る武士ども、笠驗のかはて候、今日始て都へ入る東國の勢と覺候。」と申も果ねば、九郎義經門前へ馳參て馬より下 り、門を扣かせ、大音聲を揚て、「東國より前兵衞佐頼朝が舎弟九郎義經こそ參て候へ。明させ給へ。」と申ければ、成忠餘りの嬉しさに、築垣より急ぎ跳りおるゝとて、腰をつき損じたりけれども、痛さは嬉さに紛て覺えず、這々參て、此由奏聞してければ、法皇大に御感在てやがて門を開かせて入られけり。九郎義經其日の裝束には、赤地の錦の直垂に、紫裳濃の鎧著て、鍬形打たる甲の緒しめ、金作の太刀を帶き、切斑の矢負ひ、滋籐の弓の鳥打を紙を廣さ一寸許に切て、左卷にぞ卷たりける。今日の大將軍の驗とぞ見えし。法皇は中門の櫺子より叡覽有て、「ゆゝしげなる者どもかな、皆名乘せよ。」と仰ければ、先づ大將軍九郎義經、次に安田三郎義定、畠山庄司次郎重忠、梶原源太景季、佐々木四郎高綱、澁谷右馬允重資とこそ名乘たれ。義經具して武士は六人鎧は色々也けれども、頬魂事柄何れも劣らず。大膳太夫成忠仰せを承て、九郎義經を大床の際へ召て、合戰の次第を委く御尋あれば、義經畏て申けるは、「義仲が謀叛の事、頼朝大に驚き、範頼義經を始めとして、むねとの兵三十餘人其勢六萬餘騎を參せ候。範頼は勢田より參り候が未參り候はず。義經は宇治の手を責め落いて、先づ此御所守護の爲に馳參じて候。義仲は河原を上りに落候つるを、兵共に追せ候つれば、今は定めて討取候ぬらん。」と、いと事もなげにぞ申されたる。法皇大に御感有て、「神妙也。木曾が餘黨など參て、狼藉もぞ仕る。汝等此御所能々守護せよ。」と仰ければ義經畏り承はて、四方の門を固めて待程に、兵共馳集て、程なく一萬騎許に成にけり。

木曾は若しの事あらば、法皇を取參らせて、西國へ落下り、平家と一つに成らんとて、力者 廿人汰へて持たりけれども、御所には九郎義經馳參て、守護し奉る由聞えしかば、「さらば」とて、數萬騎の大勢の中へをめいて懸入る。既に討れんとする事度々に及ぶといへども、懸け破り懸け破り通りけり。木曾涙を流て、「かかるべしとだに知たらば、今井を勢田へは遣ざらまし。幼少竹馬の昔より、死ならば一所で死なんとこそ契しに、所々で討れん事こそ悲しけれ。今井が行末を聞かばや。」とて、河原を上りに懸る程に、六條河原と三條河原との間に敵襲て懸れば、取て返し取て返し、僅なる小勢にて、雲霞の如くなる敵の大勢を、五六度までぞ追返す。鴨河さと打渡し粟田口松坂にぞ懸ける。去年信濃を出しには、五萬餘騎と聞えしに今日四宮河原を過るには、主從七騎に成にけり。まして中有の旅の空、思ひやられて哀なり。

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木曾最後

木曾殿は信濃より、巴、山吹とて、二人の便女を具せられたり。山吹は痛はり有て、都に留りぬ。中にも巴は色白く髮長く、容顏誠に勝れたり。ありがたき強弓、精兵、馬の上、歩立、打物持ては鬼にも神にも逢うと云ふ一人當千の兵也。究竟の荒馬乘り、惡所落し、軍と云へば、實より鎧著せ、大太刀強弓持せて、先づ一方の大將には向けられけり。度々の高名肩を竝ぶる者なし。されば今度も多くの者ども落行討れける中に、七騎が中まで、巴は討れざりけり。

木曾は長坂を經て、丹波路へ趣くとも聞えけり。又龍華越に懸て、北國へとも聞えけり。かかりしかとも、「今井が行へを聞ばや。」とて、勢田の方へ落行程に、今井四郎兼平も、八百餘騎で勢田を固めたりけるが僅に五十騎許に打なされ、旗をば卷せて主の覺束なきに、都へとて歸す程に、大津の打出濱にて、木曾殿に行合奉る。互に中一町許より、其と見知て、主從駒を疾めて寄り合たり。木曾殿今井が手を取て宣けるは、「義仲六條河原で如何にも成べかりつれ共、汝が行末の戀しさに、多くの敵の中を懸け破て、是迄は逃たる也。」今井四郎、「御諚誠に忝なう候 [1]兼平も勢田で討死仕るべう候つれ共、御行末の覺束なさに、是迄參て候。」とぞ申ける。木曾殿「契は未だ朽せざりけり。義仲が勢は敵に押隔てられ林に馳散て、此邊にもあるらんぞ。汝が卷せて持せたる旗上させよ。」と宣へば、今井が旗を差し上たり。京より落る勢ともなく、勢田より落る者ともなく、今井が旗を見附けて、三百餘騎ぞ馳集る。木曾殿大に悦で「此勢あらば、などか最後の軍せざるべき。爰にしぐらうて見ゆるは、誰が手やらん。」「甲斐の一條次郎殿とこそ承候へ。」「勢は幾等程有やらん」「六千餘騎とこそ聞え候ヘ。」「さらばよい敵ごさんなれ。同う死なば、よからう敵に懸合て大勢の中でこそ討死をもせめ。」とて眞先にこそ進みけれ。

木曾左馬頭其日の裝束には、赤地の錦の直垂に、唐綾威の鎧著て、鍬形打たる甲の緒しめ、いか物作の大太刀帶き、石打の矢の、其日の軍に射て、少々殘たるを、首高に負なし、滋籐の弓持て、聞る木曾の鬼葦毛と云ふ馬の究て太う逞に金覆輪の鞍置て乘たりける。鐙蹈張 立上り、大音聲を揚て名乘けるは、「日比は聞けん物を、木曾冠者。今は見るらん、左馬頭兼伊豫守朝日將軍源義仲ぞや。甲斐の一條次郎とこそきけ。互に好い敵ぞ。義仲討て兵衞佐に見せよや。」とて喚いて懸く。一條次郎、「唯今名乘は、大將軍ぞ。餘すな、洩すな、若黨、討や。」とて大勢の中に取籠て、我討取んとぞ進ける。木曾三百餘騎、六千餘騎が中を堅ざま横ざま蜘蛛手十文字に懸破て、後へつと出たれば、五十騎許に成にけり。そこを破て行く程に、土肥次郎實平、二千餘騎で支たり。そこをも破て行く程に、あそこでは四五百騎、こゝでは二三百騎、百四五十騎、百騎ばかりが中を、懸け破り々々行く程に、主從五騎にぞ成にける。五騎が中迄、巴は討れざりけり。木曾殿「おのれは、とう/\、女なれば、何地へも落ゆけ。義仲は討死せんと思ふ也。若し人手に懸らば、自害をせんずれば、木曾殿の最後の軍に、女を具せられたりけりなど言れん事も、然るべからず。」と宣ひけれども、猶落も行ざりけるが、餘りに言はれ奉て、「あはれ好らう敵がな。最後の軍して見せ奉らん。」とて、引へたる處に武藏國に聞えたる大力、御田八郎師重、三十騎許で出來たり。巴其中へ懸入、御田八郎に押ならべ、むずと取て引き落し、我が乘たる鞍の前輪に押つけて、ちとも働かさず頸ねぢ切て捨てけり。其後物具脱棄て、東國の方へ落ぞ行く。手塚太郎討死す。手塚の別當落にけり。

今井四郎、木曾殿、主從二騎に成て宣けるは、「日來は何とも覺えぬ鎧が、今日は重う成たるぞや。」今井四郎申けるは、「御身も未疲れさせ給はず、御馬も弱り候はず。何に依てか一領の 御著背長を重うは思食候べき。其は御方に御勢が候はねば、臆病でこそ、さは思召候へ。兼平一人候とも、餘の武者千騎と思召せ。矢七八候へば、暫く防ぎ矢仕らん。あれに見え候は、粟津の松原と申。あの松の中で、御自害候へ。」とて、打て行く程に、又荒手の武者五十騎許出來たり。「君はあの松原へ入せ給へ。兼平は此敵防ぎ候はん。」と申ければ、木曾殿のたまひけるは「義仲都にて如何にも成べかりつるが、是迄逃れ來るは汝と一所で死なんと思ふ爲也。所々で討れんより一所でこそ討死をもせめ。」とて、馬の鼻を竝て、懸んとし給へば、今井四郎馬より飛下、主の馬の口に取附て申けるは「弓矢取りは、年比日比如何なる高名候へども、最後の時不覺しつれば、永き瑕にて候也。御身は疲させ給ひて候。續く勢は候はず。敵に押隔てられ、いふかひなき人の郎等に組落されさせ給て討れさせ給なば、さばかり日本國に聞えさせ給ひつる木曾殿をば、何某が郎等の討奉たるなど申さん事こそ口惜う候へ。唯あの松原へ入せ給へ。」と申ければ、木曾「さらば」とて、粟津の松原へぞ駈け給ふ。

今井四郎唯一騎、五十騎許が中へかけ入り、鐙蹈張立上り、大音聲揚て、名乘けるは、「日比は音にも聞きつらん、今は目にも見給へ。木曾殿の乳母子今井の四郎兼平、生年三十三に罷成る。さる者ありとは、鎌倉殿までも知召されたるらんぞ。兼平討て、見參に入よ。」とて、射殘たる八筋の矢を、指つめ引詰散々に射る。死生は知らず、矢庭に敵八騎射落す。其後打物ぬいであれに馳あひ、是に馳合ひ、切て回るに、面を合する者ぞなき。分捕餘たしたりけり。「唯射取や。」とて、中に取籠め雨の降樣に射けれども、鎧好れば裏かゝず、明間を射ねば手 も負はず。

木曾殿は唯一騎、粟津の松原へ駈給ふが、正月廿一日、入相許の事なるに、薄氷は張たりけり。深田有とも知らずして、馬を颯とうち入たれば、馬のかしらも見えざりけり。あふれども/\、打ども/\動かず。今井が行末の覺束なさに、振あふぎ給へる内甲を、三浦の石田次郎爲久追懸て、よ引てひやうと射る。痛手なれば、まかふを馬の首に當て俯し給へる處に、石田が郎等二人落合て、終に木曾殿の頸をとてけり。太刀の鋒に貫ぬき、高く指上げ、大音聲を揚て、「此日比日本國に聞えさせ給ひつる木曾殿をば、三浦石田次郎爲久が討奉たるぞや。」と名のりければ、今井四郎軍しけるが、是を聞き、「今は誰をかばはむとて軍をもすべき。是を見給へ、東國の殿原、日本一の剛の者の自害する手本。」とて、太刀の鋒を口に含み、馬より倒に飛落ち、貫かてぞ失にける。去てこそ粟津の軍は無りけれ。

[1] Nihon Koten Bungaku Taikei (Tokyo: Iwanami Shoten, 1957, vol. 33; hereafter cited as NKBT) has 。 at this point.

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樋口誅罰

今井が兄樋口次郎兼光は、十郎藏人討んとて、河内國長野城へ越たりけるが、其にては討漏しぬ。紀伊國名草に有りと聞えしかば、やがて續いて越たりけるが、都に軍有りと聞て、馳上る。淀の大渡の橋で、今井が下人行合たり。「あな心憂、是は何地へとて渡せ給ひ候ぞ。君は討れさせ給ぬ。今井殿は自害。」と申ければ、樋口次郎涙をはら/\と流いて、「是聞給へ、殿原、君に御志思ひ參せ給はん人人は、是より何地へも落行き、出家入道して、乞食頭陀の 行をも立て、後世をも弔參せ給へ。兼光は都へ上り討死して、冥途にて君の見參に入、今井四郎を今一度見んと思ふぞ。」と云ければ、五百餘騎の勢あそこに引へ、こゝに引へ、落ゆく程に、鳥羽の南の門を出けるには、其勢僅に廿餘騎にぞ成にける。樋口次郎今日既に都へ入と聞えしかば、黨も高家も、七條、朱雀、四塚さまへ馳向ふ。樋口が手に、茅野太郎と云ふ者有り。四塚に幾も馳向うたる敵の中へ馳入り、大音聲を揚て、「此御中に甲斐の一條次郎殿の御手の人やまします。」と問ければ、「強一條次郎殿の手で、軍をばするか、誰にも合へかし。」とて、どと笑ふ。笑はれて名のりけるは、「かう申す者は信濃國諏訪上宮の住人、茅野大夫光家が子に、茅野太郎光廣、必ず一條の次郎殿の御手を尋るには非ず、弟の茅野七郎それにあり。光廣が子共二人信濃國に候が、あはれ我父は、好てや死にたるらん。惡てや死にたるらんと歎かん處に、弟の七郎が前で討死して、子共にたしかに聞せんと思ふ爲也。敵をば嫌まじ。」とて、あれに馳合ひ、これに馳合ひ、敵三騎きて落し、四人に當る敵に押雙べ引組でどうと落ち刺違てぞ死にける。

樋口次郎は兒玉黨に結ほれたりければ、兒玉の人ども寄合て、「弓矢取習ひ我も人も廣い中へ入らんとするは、自然の事の在ん時の一まとの息をも休め、暫しの命をも續んと思ふ爲也。されば樋口次郎が我等にむすぼほれけんも、さこそは思ひけめ。今度の我等が勳功には樋口が命を申請ん。」とて使者を立てゝ、「日比は木曾殿の御内に、今井、樋口とて聞え給しかども、今は木曾殿討れさせ給ひぬ。何か苦かるべき、我等が中へ降人に成給へ。勳功の賞に申かへ て命ばかり助奉らん。出家入道をもして後世を弔ひ參せ給へ。」と云ければ、樋口次郎聞ゆる兵なれども、運や盡にけん、兒玉黨の中へ降人にこそ成にけれ。是を九郎御曹司に申す。御所へ奏聞して宥められたりしを傍の公卿殿上人、局の女房達、「木曾が法住寺殿へ寄せて、鬨を作り君をも惱し參らせ、火をかけて、多の人々を滅し失ひしには、あそこにもこゝにも、今井樋口といふ聲のみこそ有しか。これらを宥められんは口惜かるべし。」と、面々に申されければ、又死罪に定めらる。

同二十二日、新攝政殿とどめられ給ひ、本の攝政還著し給ふ。僅六十日の内に替られ給へば、未だ見果ぬ夢の如し。昔粟田の關白は、悦申の後唯七箇日だにこそおはせしか。是は六十日とは云へども、其間に節會も除目も行はれしかば、思出なきにもあらず。

同廿四日、木曾左馬頭、幵餘黨五人が頸、大路を渡さる。樋口次郎は降人なりしが、頻に頸の伴せんと申ければ、藍摺の水干立烏帽子で渡されけり。同廿五日、樋口次郎終に斬られぬ。範頼義經樣々に申されけれども、「今井、樋口、楯、根井とて、木曾が四天王の其一つ也。是等を宥められんは、養虎の愁有るべし。」と、殊に沙汰有て斬られけるとぞ聞えし。傳に聞く、虎狼の國衰て諸侯蜂の如く起し時、 はい公先に咸陽宮へ入と云へども、項羽が後に來らん事を恐て、妻は美人をも犯かさず、金銀珠玉をも掠めず、徒に凾谷の關を守て、漸漸に敵を滅して天下を治する事を得たりき。されば木曾左馬頭、先都へ入といふとも、頼朝朝臣の命に從がはましかば、彼 はい公が謀には劣らざらまし。

平家は去年の冬の比より、讃岐國八島磯を出て、攝津國難波潟へ押渡り、福原の舊都に居住して、西は一谷を城郭に構へ、東は生田森を大手の木戸口とぞ定めける。其内、福原、兵庫、板宿、須磨に籠る勢、是は山陽道八箇國、南海道六箇國、都合十四箇國を打隨へて、召るゝ所の軍兵也。十萬餘騎とぞ聞えし。一谷は北は山、南は海、口は狹くて奧廣し。岸高くして屏風を立たるに異ならず。北の山際より、南の海の遠淺迄、大石を重上げ、大木を伐て逆茂木にひき、深き所には大船どもを そばだてて掻楯にかき、城の面の高櫓には、一人當千と聞ゆる四國鎭西の兵ども甲冑弓箭を帶して、雲霞の如くになみ居たり。やぐらの下には、鞍置馬共、十重廿重に引立てたり。常に大皷を打て亂聲を爲す。一張の弓の勢は、半月胸の前に懸り、三尺の劍の光は、秋の霜腰の間に横へたり。高き所には赤旗多く打立たれば、春風に吹れて天に翻るは、火 焔の燃上るに異ならず。

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六箇度軍

平家福原へ渡給ひて後は、四國の兵ども隨ひ奉らず。中にも阿波讃岐の在廳ども、平家を背いて、源氏に付むとしけるが、「抑我等は昨日今日まで、平家に隨うたるものの、今日始めて源氏の方へ参りたりとも、よも用ゐられじ。いざや平家に矢一つ射懸て、其を面にして參らん。」とて、門脇中納言、子息越前三位、能登守父子三人、備前國下津井にましますと聞えしかば討たてまつらんとて、兵船十餘艘で寄せたりける。能登守是を聞き、「惡い奴原かな。昨 日今日迄、我等が馬の草切たる奴原が、既に契りを變ずるにこそ有なれ。其儀ならば、一人も洩さず討てや。」とて、小船共に取乘て、「餘すな、漏すな。」とて攻め給へば、四國の兵共、人目ばかりに矢一つ射て、退んとこそ思ひけるに、手痛う攻られ奉て、叶はじとや思ひけん、遠負にして引退き、都の方へ逃上るが、淡路國福良の泊に著にけり。其國に源氏二人有り、故六條判官爲義が末子、賀茂冠者義嗣、淡路冠者義久と聞えしを、西國の兵共大將に憑んで、城廓を構へて待處に、能登殿やがて押寄攻給へば、一日戰ひ賀茂冠者討死す。淡路冠者は痛手負て、自害してけり。能登殿、防ぎ矢射ける兵ども、百三十餘人が頸切て、討手の交名記いて、福原へ參らせらる。

門脇中納言其より福原へ上り給ふ。子息達は伊豫の河野四郎召せども參らぬを責んとて、四國へぞ渡られける。先づ兄の越前三位通盛卿、阿波國花園城に著給ふ。弟能登守、讃岐の八島へ渡り給ふと聞えしかば、河野四郎通信は、安藝國の住人沼田次郎は母方の伯父 [2]なりけりば、一つに成んとて、安藝國へ推渡る。能登守是を聞き、やがて讃岐の八島を出でて追はれけるが、既に備後國蓑島に懸て、次の日沼田城へ寄せ給ふ。沼田次郎、河野四郎一つに成て、防ぎ戰ふ。能登殿やがて押寄て攻給へば、一日一夜ふせぎ戰ひ沼田次郎叶はじとや思ひけん、甲を脱いで、降人に參る。河野四郎は猶從ひ奉らず、其勢五百餘騎有けるが、僅に五十騎許に討成れ、城を出て行く程に、能登殿の侍、平八兵衞爲員二百騎許が中に取籠られて主從七騎に討成れ、助け船に乘んと、細道に懸て渚の方へ落行程に、平八兵衞が子息、讃岐七郎義 範、究竟の弓の上手ではあり、追懸て七騎を矢庭に五騎射落す。河野四郎只主從二騎になりにけり。河野が身に替へて思ひける郎等を讃岐七郎押竝べて組で落ち、取て押て頸を掻んとする所に、河野四郎取て返し、郎等が上なる讃岐七郎が頸掻切て深田へ投入、大音聲を揚て、「河野四郎越智通信、生年廿一、かうこそ軍をばすれ。我と思はん人々は留よや。」とて、郎等を肩に引懸け、そこをつと迯て小舟に乘り、伊豫國へぞ渡りける。能登殿河野をも打漏されたれども、沼田次郎が降人たるを召具して、福原へぞ參られける。

又淡路國の住人安摩六郎忠景、平家を背いて、源氏に心を通しけるが、大船二艘に兵粮米物具、積で都の方へ上る程に、能登殿福原にて、これをきゝ、小舟十艘計おし浮べて追はれけり。安摩六郎、西宮の沖にて返し合せて防戰ふ。手痛う責められ奉て、叶はじとや思ひけん、引退て和泉國吹飯浦に著にけり。紀伊國の住人園邊兵衞忠康、これも平家を背いて源氏につかんとしけるが、安摩六郎が能登殿に攻られ奉て、吹飯に有と聞えしかば、其勢百騎計で馳來て一つになる。能登殿やがて續いて攻給へば、一日一夜防ぎ戰ひ、安摩六郎、園邊兵衞、叶はじとや思ひけん、家子郎等に防矢射させ、身がらは迯て京へ上る。能登殿防矢射ける兵ども、二百餘人が頸切りかけて、福原へこそ參られけれ。又伊豫國の住人河野四郎通信、豐後國の住人臼杵次郎惟高、緒方三郎惟義、同心して都合其勢二千餘人、備前國へ押渡り、今木城にぞ籠ける。能登守是を聞き、福原より三千餘騎で馳下り、今木城を攻め給ふ。能登殿「彼奴原はこはい御敵で候。重て勢を給はらん。」と申されければ、福原より數萬騎の大勢を 向らるゝ由聞えし程に、城の内の兵ども、手のきは戰ひ、分捕高名し究て、「平家は大勢でまします也。我等は無勢也。如何にも叶まじ。こゝをば落て、暫く息を續がん。」とて、臼杵次郎、緒方三郎舟に取り乘り、鎭西へ押し渡る。河野は伊豫へぞ渡りける。能登殿「今は討つべき敵なし。」とて、福原へこそ參られけれ。大臣殿を始め奉て平家一門の公卿殿上人寄合ひて、能登殿毎度の高名をぞ一同に感じ合れける。

[2] NKBT reads なりければ.

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三草勢揃

正月廿九日、範頼義經院參して、平家追討の爲に西國へ發向すべき由奏聞しけるに、「本朝には神代より傳れる三の御寶あり。内侍所、神璽、寶劍是也。相構て事故なく都へ歸入れ奉れ。」と仰下さる。兩人畏り承て罷出でぬ。

同二月四日、福原には故入道相國の忌日とて、佛事形の如く行はる。朝夕の軍立に過行く月日は知らね共、去年は今年に回り來て、憂かりし春にも成にけり。世の世にて有ましかば、如何なる起立塔婆の企、供佛施僧の營みも有べかりしかども、唯男女の君達指し聚ひて、泣より外の事ぞなき。

此次でに叙位除目行はれて、僧も俗も皆司なされけり。門脇中納言、正二位大納言に成給ふべき由、大臣殿よりの給ひければ、教盛卿、

けふまでも有ばあるかの我身かは、夢の中にも夢をみるかな。

と御返事申させ給ひて、遂に大納言にもなり給はず、大外記中原師直が子、周防介師純大外記になる。兵部少輔正明、五位藏人になされて、藏人少輔とぞ云はれける。昔將門が東八箇國を討從へて、下總相馬郡に都を立て、我身を平親王と稱して百官をなしたりしには、歴博士ぞ無りける。是は其には似るべからず。舊都をこそ落給ふと云へども、主上三種神器を帶して、萬乘の位に備り給へり。叙位除目行れんも僻事にはあらず。

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