平氏既に福原迄攻上て都へ歸り入べき由聞えしかば、故郷に殘とゞまる人々、勇み悦ぶ事斜ならず。二位僧都專親は、梶井宮の年來の御同宿也ければ、風の便には申されけり。宮よりも又常は音信在けり。「旅の空の在樣、思召遣るこそ心苦しけれ。都も靜まらず。」などもあそばいて、奧には一首の歌ぞありける。
人しれず其方をしのぶ心をば、傾く月にたぐへてぞやる。
僧都是を顏に推當て、悲の涙塞あへず。
さる程に小松三位中將維盛卿は、年隔り日重るに隨ひて、故郷に留め置給ひし北の方少き人々の事をのみ歎き悲み給ひけり。商人の便に、おのづから文などの通ふにも、北方の都の御在樣、心苦う聞給ふに、さらば迎へとて、一所でいかにも成らばやとは思へども、我身こそあらめ、人の爲痛くてなど、思召し忍びて、明し暮し給ふにこそ、責ての志の深さの程も露れけれ。
さる程に源氏は四日寄べかりしが、故入道相國の忌日と聞て、佛事を遂させんが爲に寄ず。 五日は西塞り、六日は道虚日、七日の卯刻一谷の東西の木戸口にて、源平矢合とこそ定めけれ。さりながらも四日は吉日なればとて、大手搦手の大將軍、軍兵二手に分て都を立つ。大手の大將軍には、蒲御曹司範頼、相伴ふ人々、武田太郎信義、加賀美次郎遠光、同小次郎長清、山名次郎教義、同三郎義行、侍大將には、梶原平三景時、嫡子源太景季、次男平次景高、同三郎景家、稻毛三郎重成、榛谷四郎重朝、同五郎行重、小山小四郎朝政、同中沼五郎宗政、結城七郎朝光、佐貫四郎大夫廣綱、小野寺前司太郎道綱、曾我太郎資信、中村太郎時經、江戸四郎重春、玉井四郎資景、大河津太郎廣行、庄三郎忠家、同四郎高家、勝大八郎行平、久下次郎重光、河原太郎高直、同次郎盛直、藤田三郎大夫行泰を先として、都合其勢五萬餘騎二月四日の辰の一點に都を立て、其日の申酉の刻に、攝津國昆陽野に陣を取る。搦手の大將軍は、九郎御曹司義經、同く伴ふ人々、安田三郎義貞、大内太郎惟義、村上判官代康國、田代冠者信綱、侍大將には土肥次郎實平、子息彌太郎遠平、三浦介義澄、子息平六義村、畠山庄司次郎重忠、同長野三郎重清、佐原十郎義連、 [3]和田小太郎義盛同次郎義茂同三郎宗實、佐々木四郎高綱、同五郎義清、熊谷次郎直實、子息小次郎直家、平山武者所季重、天野次郎直經、小河次郎資能、原三郎清益、金子十郎家忠、同與一親範、渡柳彌五郎清忠、別府小太郎清重、多々羅五郎義春、其子太郎光義、片岡太郎經春、源八廣綱、伊勢三郎義盛、奧州佐藤三郎嗣信、同四郎忠信、江田源三、熊井太郎、武藏坊辨慶を先として、都合其勢一萬餘騎、同日の同時に都を立て、丹波路に懸り、二日路を一日に打て、播磨と丹波と 境なる三草の山の東の山口、小野原にこそ著にけれ。
[3] NKBT reads 和田小太郎義盛。同次郎義茂。同三郎宗實、.
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三草合戰
平家の方には大將軍小松新三位中將資盛、同少將有盛、丹後侍從忠房、備中守師盛、侍大將には平内兵衞清家、海老次郎盛方を初として、都合其勢三千餘騎、小野原より三里隔てゝ三草山の西の山口に陣をとる。其夜の戌の刻ばかり、九郎御曹司、土肥次郎を召て、「平家は是より三里隔てて、三草山の西の山口に、大勢で引へたんなるは今夜夜討によすべきか、明日の軍か」と宣へば、田代冠者進み出でて申けるは、「明日の軍と延られなば、平家勢附候なんず。平家は三千餘騎、御方の御勢は一萬餘騎、遙の利に候。夜討好んぬと覺候。」と申ければ、土肥次郎、「いしうも申させ給ふ田代殿哉。さらば軈て寄せさせ給へ。」とて打立けり。兵共「暗さは暗し、如何せんずる。」と口々に申ければ、九郎御曹司「例の大たいまつは如何に。」と宣まへば、土肥次郎「さる事候。」とて、小野原の在家に火をぞ懸たりける。是を始て、野にも山にも草にも木にも火を付たれば、晝にはちとも劣らずして、三里の山をこえゆきけり。
此田代冠者と申は、父は伊豆國の先の國司、中納言爲綱の末葉也。母は狩野介茂光が娘を思うて設たりしを、母方の祖父に預けて、弓矢取にはしたてたりけり。俗姓を尋ぬれば、後三條院の第三の王子、資仁親王より五代の孫也。俗姓も好き上、弓矢を取ても好りけり。
平家の方には、其夜、夜討にせんずるをば知らずして、「軍は定めて明日の軍でぞ有んずら ん。軍にも睡たいは大事の事ぞ。好う寢て軍せよ。」とて先陣は自用心するもありけれども、後陣の者ども、或は甲を枕にし、或は鎧の袖箙などを枕にして、先後も知らずぞ臥たりける。夜半ばかりに、源氏一萬騎、おしよせて、鬨をどと作る。平家の方には、餘りに遽噪いで、弓取る者は矢を知らず、矢取る者は弓を知らず、馬に當られじと中を明てぞ通しける。源氏は落行く敵をあそこに追懸け、こゝに追詰め攻ければ、平家の軍兵矢庭に五百餘騎討れぬ。手負者ども多かりけり。大將軍小松新三位中將、同少將、丹後侍從、面目なうや思はれけん、播磨國高砂より舟に乘て、讃岐の八島へ渡給ひぬ。備中守は平内兵衞海老次郎を召具して、一谷へぞ參られける。
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老馬
大臣殿は安藝右馬助能行を使者で、平家の君達の方々へ、「九郎義經こそ三草の手を責落いて、既に亂入候なれ。山の手は大事に候。各向はれ候へ。」と宣ひければ、皆辭し申されけり。能登殿の許へ、「度々の事で候へども、御邊向はれ候なんや。」と、宣ひ遣されたりければ、能登殿の返事には「軍をば我身一つの大事ぞと思うてこそ好う候へ。獵漁などの樣に、足立ちの好らう方へは向はん、惡からん方へは向はじなど候はんには、軍に勝つ事よも候はじ。幾度でも候へ、強からん方へは教經承はて、向ひ候はん。一方ばかりは打破り候べし。御心安う思召され候へ。」と憑し氣にぞ申されける。大臣殿斜ならず悦で、越中前司盛俊を先とし て、能登殿に一萬餘騎をぞ附られける。兄の越前三位通盛卿相具して、山の手をぞ固め給ふ。山の手と申は、鵯越の麓也。通盛卿は能登殿の假屋に、北方迎へ奉て、最後の名殘惜まれけり。能登殿大に怒て、「此手は強い方とて、教經を向けられて候也。誠に強う候べし。唯今も上の山より源氏さと落し候なば、取る物も取あへ候はじ。縱弓を持たりとも、矢を番ずば叶ひがたし。縱矢を番たりとも、引ずば猶惡かるべし。ましてさ樣に打解させ給ては、何の用にか立せ給ふべき。」と諫められて、げにもと思はれけん、急ぎ物具して、人をば歸し給ひけり。五日の暮方に、源氏昆陽野を立て、漸々生田森に攻近づく。雀松原、御影の松、昆陽野の方を見渡せば、源氏手々に陣を取て、遠火を燒く。深行まゝに眺むれば山の端出る月の如し。平家も「遠火燒や。」とて、生田森にも形の如くぞ燒たりける。明行まゝに見渡せば晴たる空の星の如し。是や昔河邊の螢と詠じ給ひけんも、今こそ思ひ知れけれ。源氏は、あそこに陣取て馬休め、こゝに陣取て馬飼などしける程に急がず。平家の方には「今や寄する、今や寄する。」と安い心も無りけり。
六日の明ぼのに、九郎御曹司、一萬餘騎を二手に分け、先づ土肥次郎實平をば七千餘騎で一谷の西の手へ差遣はす。我身は三千餘騎で、一谷のうしろ鵯越を落さんと、丹波路より搦手にこそまはられけれ。兵共「是は聞ゆる惡所で有なり。同う死ぬるとも敵に逢うてこそ死たけれ惡所に落ては死たからず。あはれ此山の案内者やあるらん。」と面々に申ければ、武藏國の住人平山武者所進み出でて、申けるは、「季重こそ案内は知て候へ。」御曹司、「和殿は東 國生立の者の、今日始めて見る西國の山の案内者、大に實しからず。」と宣へば、平山重ねて申けるは、「御諚とも覺候はぬ者哉。吉野泊瀬の花をば歌人が知り、敵の籠たる城の後の案内をば剛の者が知候。」と申ければ、是又傍若無人にぞ聞えける。
又武藏國の住人別府小太郎清重とて、生年十八歳に成る小冠者進出て申けるは、「父で候し義重法師が教候しは、『敵にも襲はれよ、又山越の狩をもせよ、深山に迷ひたらん時は、老馬に手綱を打懸て、先に追立て行け、必道へ出うずるぞ。』とこそ教候しか。」御曹司、「優うも申たる者哉。雪は野原を埋めども、老たる馬ぞ道は知ると云ふ樣有り。」とて、白葦毛なる老馬に鏡鞍置き、白轡はげ、手綱結で打懸け、先に追立て、未知ぬ深山へこそ入給へ。比は二月初の事なれば、峯の雪村消て、花かと見ゆる所も有り。谷の鶯音信て、霞に迷ふ所も有り。上れば白雪皓々として聳え、下れば青山峨々として岸高し。松の雪だに消やらで、苔の細道幽なり。嵐にたぐふ折々は、梅花とも又疑はれ、東西に鞭を上、駒をはやめて行く程に、山路に日暮ぬれば、皆下居て陣をとる。武藏坊辨慶、老翁を一人具して參りたり。御曹司、「あれは何者ぞ。」と問たまへば、「此山の獵師で候。」と申。「さて案内は知たるらん。在の儘に申せ。」とこそ宣ひけれ。「爭か存知仕らで候べき。」「是より平家の城廓一谷へ落さんと思ふは如何に。」「努々叶ひ候まじ。三十丈の谷十五丈の岩崎など申處は人の通べき樣候はず。まして御馬などは思ひも寄り候はず。其うへ城のうちにはおとしあなをもほり、ひしをもうゑて待まゐらせ候らんと申。」「さてさ樣の所は鹿は通ふか。」「鹿は通ひ候。世間だにも暖に成候へば、 草の深いに臥うとて、播磨の鹿は丹波へ越え、世間だにも寒う成り候へば、雪の淺きに食んとて、丹波の鹿は播磨の印南野へかよひ候。」と申。御曹司「さては馬場ごさんなれ。鹿の通はう所を、馬の通はぬ樣や有る。軈て汝案内者つかまつれ。」とぞ宣ひける。此身は年老て叶うまじい由を申す。「汝は子は無か。」「候」とて、熊王と云童の生年十八歳になるをたてまつる。やがて髻取あげ父をば鷲尾庄司武久と云ふ間、是をば鷲尾三郎義久と名乘せ、先打せさせて、案内者にこそ具せられけれ。平家追討の後、鎌倉殿に中違うて、奧州で討れ給ひし時鷲尾三郎義久とて、一所で死ける兵也。
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一二之懸
六日の夜半ばかりまでは、熊谷平山搦手にぞ候ける。熊谷次郎、子息の小次郎を喚で云けるは、「此手は惡所を落さんずる時に、誰先といふ事も有まじ。いざうれ是より土肥が承はて向うたる播磨路へ向うて、一谷の眞先懸う。」と云ひければ、小次郎、「然べう候。直家もかうこそ申たう候つれ。さらばやがて寄せさせ給へ。」と申す。熊谷、「誠や平山も此手にあるぞかし、打込の軍好まぬ者也。平山が樣見て參れ。」とて、下人を遣はす。案の如く平山は、熊谷より先に出立て、「人をば知らず、季重に於ては一引も引まじい者を。」と、獨り言をぞし居たりける。下人が馬を飼ふとて、「憎い馬の長食哉。」とて、打ければ、「かうなせそ、其馬の名殘も、今夜ばかりぞ。」とて打立けり。下人走歸て、急ぎ此由告たりければ、「さればこそ。」とて、や がて是も打出けり。熊谷は、かちの直垂に、赤革威の鎧著て、紅の母衣を懸け、ごんだ栗毛と云ふ聞ゆる名馬にぞ乘たりける。小次郎は、澤潟を一しほすたる直垂に、節繩目の鎧著て、西樓と云ふ白月毛なる馬に乘たりけり。旗差はきぢんの直垂に、小櫻を黄にかへいたる鎧著て、黄河原毛なる馬にぞ乘たりける。落さんずる谷をば弓手になし、馬手へ歩ませゆく程に、年比人も通はぬ田井の畑と云ふ古道を經て、一谷の波打際へぞ出たりける。一谷の近く鹽屋と云ふ處に未だ夜深かりければ、土肥次郎實平、七千餘騎で引へたり。熊谷は波打際より夜に紛て、そこをつと打通り、一谷の西の木戸口にぞ押寄たる。其時は未だ夜ふかゝりければ敵の方にも靜返て音もせず。御方一騎もつゞかず。熊谷次郎子息の小次郎を喚で云ひけるは、「我も/\と先に心を懸たる人々は多かるらん。心狹う直實計とは思ふべからず。既に寄せたれども、未だ夜の明るを相待て、此邊にも引へたるらん。いざ名乘う。」とて、掻楯の際に歩ませ寄り、大音聲を揚て、「武藏國の住人熊谷次郎直實、子息の小次郎直家、一谷の先陣ぞや。」とぞ名乘たる。平家の方には、「よし/\音なせそ。敵に馬の足を疲かせよ。矢種をば射盡させよ。」とて、會釋ふ者も無りけり。
さる程に又後に武者こそ一騎續いたれ。「誰そ。」と問へば「季重」と答ふ。「問は誰そ。」「直實ぞかし。」「如何に熊谷殿はいつよりぞ。」「直實は宵よりよ。」とぞ答へける。「季重もやがて續て寄べかりけるを、成田五郎に謀れて、今迄遲々したる也。成田が死ば一所で死なうと契る間、『去らば。』とて打連寄る間『痛う平山殿、先懸早りなし給ひそ。先きを蒐ると云は、御方の勢 を後に置て、蒐たればこそ、高名不覺も人に知るれ。唯一騎大勢の中にかけ入て討れたらんは、何の詮か在んずるぞ。』と制する間、げにもと思ひ、小坂の有るを先に打上せ、馬の首を下樣に引立て、御方の勢をまつ處に、成田も續て出來たり、打竝て軍の樣をも言合せんずるかと思ひたれば、さはなくて、季重をばすげなげに打見て、やがてつと馳拔通る間、あはれ此者は謀て、先懸けうとしけるよと思ひ、五六段ばかり先立たるを、あれが馬は我馬よりは弱げなる者をと目をかけ、一 もみもうで追著て、『正なうも季重程の者をば謀り給ふ者哉。』と言ひかけ、打捨て寄つれば、遙に下りぬらん、よも後影をも見たらじ。」とぞ云ひける。
さる程にしのゝめ漸明行けば、熊谷平山彼是五騎でぞ控たる。熊谷は先に名乘たれとも、平山が聞くに名乘んとや思ひけん、又掻楯の際に歩ませ寄り、大音聲を揚て、「以前に名乘つる武藏國の住人、熊谷次郎直實、子息の小次郎直家、一谷の先陣ぞや。我と思はん平家の侍共、直家に落合へや落合へ。」とぞのゝしたる。是を聞て、「いざや通夜名乘る熊谷親子をひさげて來ん。」とて、進む平家の侍誰々ぞ。越中次郎兵衞盛嗣、上總五郎兵衞忠光、惡七兵衞景清、後藤内定經、是を始めてむねとの兵廿餘騎、木戸を開いて懸出たり。こゝに平山滋目結の直垂に、緋威の鎧著て、二つ引兩の母衣をかけ、目糟毛と云ふ聞る名馬にぞ乘たりける。旗差は黒革縅の鎧に、甲猪頸に著ないて、さび月毛なる馬にぞ乘たりける。「保元平治兩度の合戰に先がけたりし武藏國の住人、平山武者所季重。」と名乘て、旗差と二騎馬の鼻をならべてをめいてかく。熊谷蒐れば、平山續き、平山蒐れば熊谷續く。互にわれ劣じと、入替々々、 もみ に もうで、火出る程ぞ攻たりける。平家の侍共、手痛うかけられて、叶はじとや思ひけん、城の内へさと引き、敵を外樣に成てぞ塞ぎける。熊谷は馬の太腹射させて、はぬれば、足をこえて下立たり。子息小次郎直家も、生年十六歳と名乘て掻楯の際に馬のはなを突する程責寄て戰ひけるが、弓手の肘を射させて、馬より飛び下、父と竝でぞ立たりける。「如何に小次郎手負たか。」「さ候。」「常に鎧つきせよ、裏掻すな、錣を傾よ、内甲射さすな。」とぞ教へける。熊谷鎧に立たる矢どもかなぐり捨て、城の内を睨まへ、大音聲を揚て、「去年の冬の比鎌倉を出しより、命をば兵衞佐殿に奉り、屍をば一谷で曝さんと思切たる直實ぞや。室山水島二箇度の合戰に高名したりと名乘る越中次郎兵衞はないか。上總五郎兵衞、惡七兵衞はないか。能登殿はましまさぬか。高名も敵に依てこそすれ。人毎に逢てはえせじ物を。直實に落合や落合へ。」とぞのゝしたる。是を聞いて、越中次郎兵衞、好む裝束なれば、紺村濃の直垂に、赤威の鎧著て、白葦毛なる馬に乘り、熊谷父子に目を懸て、歩ませ寄る。熊谷父子は中を破れじと、立竝んで、太刀を額に當て、後へは一引も引かず、彌前へぞ進みける。越中次郎兵衞叶はじとや思ひけん、取て返す。熊谷、是を見て、「如何に、あれは、越中次郎兵衞とこそ見れ。敵にはどこを嫌はうぞ。直實に押竝べて組や組め。」と云ひけれども、「さもさうず。」とて引返す。惡七兵衞是を見て、「きたない殿原の振舞やう哉。」とて、既に組んとかけ出けるを鎧の袖を引へて。「君の御大事是に限るまじ。有べうもなし。」と制せられて、組ざりけり。其後熊谷は乘替に乘て、喚いてかく。平山も熊谷父子が戰ふ紛れに、馬の息を休めて是も亦 續いたり。平家の方には馬に乘たる武者はすくなし、やぐらの上に兵ども矢先を汰へて雨の降樣に射けれども、敵はすくなし、御方は多し、勢にまぎれて矢にも當らず。「唯押竝べて組や組め。」と下知しけれども、平家の馬は、乘る事は繁く、飼事は稀なり、舟には久しう立たり、彫きたる樣なりけり。熊谷平山が馬は飼に飼たる大の馬どもなり、一當當ては皆蹴倒れぬべき間、押竝べて組む武者一騎も無りけり。平山は身に替て思ひける旗差を射させて敵の中へ破て入り、やがて其敵の頸を取てぞ出たりける。熊谷も、分捕あまたしたりけり。熊谷先に寄せたれど、木戸を開ねば懸入らず。平山後に寄たれど、木戸を開たれば懸入ぬ。さてこそ熊谷平山が、一二懸をば爭けれ。
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二度之懸
さる程に成田五郎も出來たり。土肥次郎眞先懸け、其勢七千餘騎色々の旗差上げ、をめき叫で攻戰ふ。大手生田森にも、源氏五萬餘騎で固たりけるが、其勢の中に、武藏國の住人、河原太郎、河原次郎といふ者有り。河原太郎弟の次郎を呼で云ひけるは、「大名は我と手を下さねども、家人の高名を以て名譽とす。我等は自手を下さずは叶ひがたし。敵を前に置ながら、矢一つだにも射ずして待居たるが、餘りに心もとなく覺ゆるに、高直は先づ城の中へ紛れ入て、一矢射んと思ふなり。されば千萬が一も生て歸らん事有がたし。わ殿は殘り留て、後の證人にたて。」と云ひければ、河原次郎涙をはら/\と流いて「口惜い事を宣ふ者哉。唯 兄弟二人有る者が兄を討せて、弟が一人殘り留またらば、幾程の榮花をか保つべき。所々で討れんよりも、一所でこそ如何にも成らめ。」とて、下人共呼寄せ、最後の有樣妻子の許へ、言遣はし、馬にも乘ず、げゞをはき、弓杖を突て、生田森の逆茂木を上こえ、城の中へぞ入たりける。星明りに鎧の毛もさだかならず。河原太郎大音聲を揚て、「武藏國の住人、河原太郎私市高直、同次郎盛直、源氏の大手生田森の先陣ぞや。」とぞ名乘たる。平家の方には是を聞いて、「東國の武士程怖しかりける者はなし。是程の大勢の中へ唯二人入たらば、何程の事をかし出すべき。好好暫し愛せよ。」とて、射んと云ふ者無りけり。是等兄弟は究竟の弓の上手なれば、指詰引詰散々に射る間、「愛しにくし、討や。」と云程こそ有けれ、西國に聞えたる強弓精兵、備中國の住人、眞名邊四郎、眞名邊五郎とて兄弟有り、四郎は一谷に置れたり、五郎は生田森に有けるが、是を見て能彎てひやうふつと射る。河原太郎が鎧の胸板後へつと射拔れて弓杖にすがりすくむ所を、弟の次郎走り寄て、兄を肩に引懸け、逆茂木を上り越えんとしけるが眞名邊が二の矢に、鎧の草摺の外を射させて、同枕に臥にけり。眞名邊が下人落合うて、河原兄弟が頸を取る。是を新中納言の見參に入たりければ、「あはれ剛の者哉。是等をこそ一人當千の兵とも云べけれ、可惜者共を助て見で。」とぞ宣ひける。
其時下人ども、「河原殿兄弟唯今城の内へ眞先懸て討れ給ひぬるぞや。」とよばはりければ、梶原是を聞き、「私の黨の殿原の不覺でこそ河原兄弟をば討せたれ。今は時能く成ぬ、寄よや。」とて閧をどと作る。やがて續いて五萬餘騎、一度にときをぞ作りける。足輕共に逆茂木とり 除けさせ、梶原五百餘騎喚いてかく。次男平次景高餘に先を懸んと進みければ、父の平三使者を立てて、「後陣の勢の續ざらんに、先懸たらん者は、勸賞有まじき由、大將軍の仰せぞ。」と云ひければ、平次暫引へて、
「武士のとりつたへたる梓弓、ひいては人のかへすものかは。
と申させ給へ。」とて喚いてかく。「平次討すな、續けや者共。景高討すな、續けや者共。」とて父の平三、兄の源太、同三郎續いたり。梶原五百餘騎大勢の中へかけ入り散々に戰ひ、僅に五十騎計に討成され、颯と引いてぞ出たりける。如何したりけん、其中に景季は見ざりけり。「如何に源太は、郎等共。」と問ければ、「深入して討れさせ給ひて候ごさめれ。」と申。梶原平三是を聞き、「世にあらんと思ふも、子共がため、源太討せて命生ても、何かはせん、回せや。」とて取て回す。梶原大音聲を揚て名乘けるは、「昔八幡殿の後三年の御戰に、出羽國千福金澤城を攻させ給ひける時、生年十六歳で、眞先かけて、弓手の眼を甲の鉢附の板に射附られ、當の矢を射て、其敵を射落し、後代に名を揚たりし鎌倉權五郎景正が末葉、梶原平三景時、一人當千の兵ぞや。我と思はん人々は景時討て見參に入れよや。」とて、喚いてかく。新中納言「梶原は東國に聞えたる兵ぞ。餘すな、漏すな、討や。」とて、大勢の中に取籠めて責給へば、梶原先づ我身の上をば知らずして、源太は何くに有やらんとて、數萬騎の中を縱さま横さま、蛛手、十文字に懸破りかけまはり尋ぬる程に、源太はのけ甲に戰ひなて、馬をも射させ徒立になり、二丈計有ける岸を後に當て、敵五人が中に取籠られ郎等二人左右にたてて、 面もふらず命も惜まず、爰を最後と防ぎ戰ふ。梶原是を見付けて、「未討たれざりけり。」と、急ぎ馬より飛で下り、「景時こゝに有り、如何に源太死ぬるとも、敵に後を見すな。」とて、親子して、五人の敵を三人討取り、二人に手負せ、「弓矢取は懸るも引くも折にこそよれ、いざうれ源太。」とて、かい具してぞ出きたりける。梶原が二度の懸とは是也。
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坂落
是を初めて秩父、足利、三浦、鎌倉、黨には、猪俣、兒玉、野井與、横山、西黨、都筑黨、私黨の兵ども、惣して源平亂あひ、入替/\、名乘替/\、喚叫ぶ聲山を響かし、馬の馳違ふ音は雷の如し。射違る矢は雨の降にことならず。手負をば肩に懸け後へ引退くも在り。薄手負うて戰ふも有り。痛手負て討死するものもあり。或は押双べて組で落ち刺違て死ぬるも有り。或は取て押へて頸を掻もあり、掻かるゝもあり。何れ隙ありとも見えざりけり。かかりしかども、源氏大手ばかりでは叶ふべし共見えざりしに、九郎御曹司搦手に回て七日の日の明ぼのに、一谷の後、鵯越に打上り既に落さんとし給ふに、其勢にや驚たりけん、男鹿二つ妻鹿一つ、平家の城廓一谷へぞ落たりける。城の中の兵共是を見て、「里近からん鹿だにも、我等に恐ては山深うこそ入べきに、是程の大勢の中へ鹿の落合ふこそ怪しけれ。如何樣にも、上の山より源氏落すにこそ。」と騒ぐ處に、伊豫國の住人、武知の武者所清教、進み出で、「何んでまれ、敵の方より出來たらん者を、遁すべき樣なし。」とて、男鹿二つ射留 て、妻鹿をば射でぞ通ける。越中の前司、「詮ない殿原の鹿の射樣哉。唯今の矢一つでは、敵十人は防んずる物を、罪作りに、矢だうなに。」とぞ制しける。
御曹司、城廓遙に見渡いておはしけるが、「馬ども落いて見ん。」とて、鞍置馬を追落す。或は足を打折てころんで落つ。或は相違なく落て行もあり。鞍置馬三匹、越中前司が屋形の上に落著て身振してぞ立たりける。御曹司是を見て、「馬共は主々が心得て落さうには、損ずまじいぞ。くは落せ。義經を手本にせよ。」とて、先三十騎ばかり眞先懸て落されけり。大勢皆續いて落す。後陣に落す人人の鎧の鼻は先陣の鎧甲に當る程なり。小石の交りの砂なれば、流れ落しに、二町許さと落いて、壇なる所に引へたり。夫より下を見くだせば、大磐石の苔むしたるが、釣瓶落しに、十四五丈ぞ下たる。兵どもうしろへとてかへすべきやうもなし、又さきへおとすべしとも見えず。「爰ぞ最後。」と申て、あきれて引へたる所に、佐原十郎義連、進出て申けるは、「三浦の方で我等は鳥一つ立ても、朝夕か樣の所をこそは馳ありけ。三浦の方の馬場や。」とて、眞先懸て落しければ、兵者みな續いて落す。えい/\聲を忍びにして、馬に力を附て落す。餘りのいぶせさに目を塞いでぞ落しける。おほかた人の爲態とは見えず、唯鬼神の所爲とぞ見えたりける。落しも果ねば、閧をどと作る。三千餘騎が聲なれど、山彦に答へて、十萬餘騎とぞ聞えける。村上判官代康國が手より火を出し、平家の屋形假屋を皆燒拂ふ。折節風は烈しゝ、黒煙おしかくれば、平氏の軍兵共、餘に遽て噪いで「若や助かる。」と、前の海へぞ多く馳入りける。汀にはまうけ舟どもいくらも有けれども、「我れ先に乘 らう。」と船一艘には物具したる者共が、四五百人ばかりこみ乘らうになじかはよかるべき。汀より僅に三町ばかり推出いて、目の前に大船三艘沈みにけり。其後は、好き人をば乘すとも雜人共をばのすべからずとて、太刀長刀でながせけり。かくする事とは知ながら、乘じとする船には取付きつかみ附き、或はうで打切れ、或はひぢ打落されて一谷の汀に、朱になてぞ並臥たる。能登守教經は度々の軍に、一度も不覺せぬ人の、今度は如何思はれけん、薄墨と云馬に乘り、西を指てぞ落給ふ。播磨國明石浦より船にのて、讃岐の八島へ渡り給ひぬ。
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越中前司最期
大手にも濱の手にも、武藏相摸の兵ども、命を惜まず攻戰ふ。新中納言は、東に向かて戰ひ給ふ處に、山のそばより寄ける兒玉黨使者を上て、「君は武藏國司でまし/\候し間、是は兒玉の者共が申候。御後をば御覽候ぬやらん。」と申。新中納言以下の人々、後を顧み給へば、黒煙推懸たり。「あはや西の手は破にけるは。」といふ程こそ有けれ、取る物も取敢ず、我先にとぞ落行ける。
越中前司盛俊は、山手の侍大將にて在けるが、今は落つとも叶はじとや思ひけん、引へて敵を待つ所に、猪俣の小平六則綱、好い敵と目を懸け、鞭鐙を合せて馳來り、押雙べてむずと組でどうと落つ。猪俣は八箇國に聞えたるしたゝか者也。鹿の角の一二の草かりをば、輒引裂けるとぞ聞えし。越中前司は二三十人が力態をする由人目には見えけれども内々は六七十 人して上下す船を、唯一人して推上おし下す程の大力也。されば猪俣を取て抑て働さず。猪俣下に伏ながら刀を拔うとすれども、指はだかて、刀の柄を握にも及ばず、物を言はうとすれども、餘に強う推へられて、聲も出でず。既に頸を掻れんとしけるが、力は劣たれども心は剛なりければ、猪俣すこしもさわがず、暫く息をやすめ、さらぬ體にもてなして申けるは、「抑名乘つるは聞給ひて候か。敵をうつと云ふは、我も名乘て聞せ、敵にも名乘せて、頸を捕たればこそ大功なれ。名も知ぬ頸取ては何にかはし給ふべき。」と云はれて、實もとや思ひけん、「是は本平家の一門たりしが、身不肖なるに依て、當時は侍に成たる越中前司盛俊と云ふ者也。和君は何者ぞ、なのれ聞う。」と云ひければ、「武藏國の住人猪俣小平六則綱」と名乘る。「倩此世中の在樣を見るに、源氏の御方は強く、平家の御方は負け色に見えさせ給たり。今は主の世にましまさばこそ、敵の頸取て參せて、勳功勸賞にも預り給め。理を枉て則綱扶け給へ。御邊の一門、何十人も坐せよ。則綱が勳功の賞に申替て、扶け奉らん。」と云ければ、越中前司大に怒て、「盛俊身こそ不肖なれども、さすが平家の一門也。源氏憑うとは思はず、源氏又盛俊に憑れうともよも思はじ。惡い君が申樣哉。」とて、やがて頸を掻んとしければ、猪俣「まさなや、降人の頸掻樣や候。」越中前司「さらば助けん。」とて引起す。前は畠の樣にひあがて、究て固かりけるが、後は水田のこみ深かりける畔の上に、二人の者腰打懸て、息續居たり。
暫しあて、黒革威の鎧著て、月毛なる馬に乘たる武者一騎、馳來る。越中前司怪氣に見けれ ば、「あれは則綱が親う候人見四郎と申者で候。則綱が候を見て、詣で來と覺え候。苦う候まじい。」といひながら、「あれが近附たらん時に、越中前司に組んだらば、さりとも、落合はんずらん。」と思ひて待處に一段ばかり近附たり。越中前司、始めは二人を一目づゝ見けるが、次第に近う成ければ馳來る敵をはたと守て、猪俣を見ぬ隙に、力足を蹈で衝立上り、えいと云ひて、もろ手を以て越中前司が鎧の胸板をばはと突て、後の水田へのけに突倒す。起上らんとする處に、猪俣上にむずと乘りかゝり、やがて越中前司が腰の刀を拔き鎧の草摺ひきあげて、柄も拳も透れ/\と、三刀刺て頸を取る。さる程に人見四郎落合たり。か樣の時は論ずる事も有と思ひ、太刀の先に貫き、高く指上げ、大音聲を揚て、「此日比鬼神と聞えつる平家の侍越中前司盛俊をば、猪俣小平六則綱が討たるぞや。」と名乘て、其日の高名の一の筆にぞ附にける。
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忠度最期
薩摩守忠度は、一谷の西手の大將軍にて坐けるが、紺地の錦の直垂に、黒絲威の鎧著て黒き馬の太う逞きに、沃懸地の鞍置て乘り給へり。其勢百騎ばかりが中に打圍れて、いと噪がず引へ引へ落給ふを、猪俣黨に岡部六彌太忠純、大將軍と目を懸け、鞭鐙を合せて追付奉り、「抑如何なる人でましまし候ぞ、名乘らせ給へ。」と申ければ、「是は御方ぞ。」とてふり仰ぎ給へる内甲より見入たれば、銕黒也。「あはれ御方には銕附たる人はない者を、平家の君達でお はするにこそ。」と思ひ、押竝てむずと組む。是を見て百騎ばかりある兵共、國々の假武者なれば一騎も落合はず、我先にとぞ落ゆきける。薩摩守「惡い奴かな。御方ぞと云はゞ云はせよかし。」とて熊野生立大力の疾態にておはしければ、やがて刀を拔き六彌太を馬の上で二刀、おちつく處で一刀、三刀迄ぞ突かれける。二刀は鎧の上なれば、透らず。一刀は、内甲へ突入られたれども、薄手なれば死なざりけるを、捕て押へ頸を掻んとし給ふ處を、六彌太が童、後馳に馳來て、討刀を拔き、薩摩守のかひなをひぢの本よりふと切り落す。今は角とや思はれけん、「暫退け、十念唱ん。」とて、六彌太を つかうで、弓長ばかり投除らる。其後西に向ひ高聲に十念唱へて、「光明遍照十方世界、念佛衆生攝取不捨。」と宣ひも果ねば、六彌太後よりよて、薩摩守の頸を討。好い大將討たりと思ひけれども、名をば誰とも知らざりけるに、箙に結び附られたる文を解て見れば、「旅宿花」といふ題にて一首の歌をぞ讀まれける。
ゆきくれて木の下陰を宿とせば、花やこよひの主ならまし。
忠度と書かれたりけるにこそ、薩摩守とは知てけれ。太刀の先に貫ぬき、高く差上げ、大音聲を揚て、「此日來平家の御方と聞えさせ給つる薩摩守殿をば、岡部の六彌太忠純討奉たるぞや。」と名乘ければ、敵も御方も是を聞いて、「あないとほし、武藝にも歌道にも達者にておはしつる人を。あたら大將軍を。」とて、涙を流し袖をぬらさぬは無りけり。
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重衡生捕
本三位中將重衡卿は、生田森の副將軍におはしけるが、其勢皆落失せて、只主從二騎になり給ふ。三位中將、その日の裝束にはかちんに白う黄なる絲をもて、群千鳥繍たる直垂に、紫下濃の鎧著て、童子鹿毛といふ聞ゆる名馬に、乘り給へり。乳母子の後藤兵衞盛長は、滋目結の直垂に、緋威の鎧著て三位中將の秘藏せられたる夜目無月毛に乘せられたり。梶原源太景季、庄の四郎高家、大將軍と目を懸け、鞭鐙を合せて追懸奉る。汀には助け船幾等も在けれども、後より敵は追懸たり、のがるべき隙も無りければ、湊河、苅藻河をも打渡り、蓮の池をば馬手に見て、駒の林を弓手になし、板宿、須磨をも打過て、西を指てぞ落たまふ。究竟の名馬には乘給へり。もみふせたる馬共、逐著べしとも覺えず、只延に延ければ、梶原源太景季、鐙踏張り立上り、若しやと遠矢によひいて射たりけるに、三位中將の馬の三頭を箆深に射させて弱る處に、後藤兵衞盛長「吾馬召されなんず。」とや思ひけん、鞭を上てぞ落行ける。三位中將是を見て、「如何に盛長、年比日比さは契らざりし者を、我を捨て何くへ行ぞ。」と宣へども、空きかずして、鎧に附たる赤印かなぐり捨て、唯逃にこそ逃たりけれ。三位中將敵は近付く、馬は弱し、海へ打入れ給ひたりけれども、そこしも遠淺にて沈べき樣も無りければ、馬より下、鎧の上帶切り、高紐はづし物具脱ぎ棄、腹を切んとし給ふ處を梶原より先に、庄の四郎高家鞭鐙を合せて馳來り、急ぎ馬より飛下り、「正なう候。何く迄も御供仕らん。」とて、我馬に掻乘せ奉り、鞍の前輪にしめ附て、我身は乘替に乘てぞ歸りける。
後藤兵衞はいき長き究竟の馬には乘たりけり。其をばなく迯延て、後には熊野法師、尾中法 橋を憑で居たりけるが、法橋死て後、後家の尼公訴訟の爲に京へ上りたりけるに、盛長供して上りたりければ、三位中將の乳母子にて、上下には多く見知れたり。「あな無慚の盛長や。さしも不便にし給ひしに、一所で如何にも成ずして、思もかけぬ尼公の供したる憎さよ。」とて、爪彈をしければ、盛長もさすが慚し氣にて扇を顏にかざしけるとぞ聞えし。
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敦盛最期
軍破れにければ、熊谷次郎直實、「平家の君達助け船に乘らんと、汀の方へぞ落ち給ふらん。哀れ好らう大將軍に組ばや。」とて、磯の方へ歩まする處に、練貫に鶴縫たる直垂に、萠黄匂の鎧著て、鍬形打たる甲の緒をしめ、金作の太刀を帶き、切斑の矢負ひ、滋籐の弓持て、連錢蘆毛なる馬に、黄覆輪の鞍置て乘たる武者一騎、沖なる船に目を懸て、海へさと打入れ、五六段計泳がせたるを熊谷、「あれは、大將軍とこそ見參せ候へ。正なうも敵に後を見せさせ給ふ者哉。返させ給へ。」と。扇を揚て招きければ、招かれて取て返す。汀に打上らんとする所に、押竝て、むずと組で、どうと落ち、取て押へて頸を掻んとて、甲を押仰けて見ければ、年十六七ばかりなるが、薄假粧して鐵醤黒也。我子の小次郎が齡程にて、容顏誠に美麗なりければ、何くに刀を立べしとも覺えず。「抑如何なる人にてましまし候ぞ。名乘せ給へ。扶け參せん。」と申せば、「汝は誰そ。」と問給ふ。「物其者では候はねども、武藏國の住人熊谷次郎直實。」と名乘申す。「さては汝に逢うては名乘まじいぞ。汝が爲には好い敵ぞ。名乘らずとも頸 を取て人にとへ、見知うずるぞ。」とぞ宣ひける「あはれ大將軍や、此人一人討奉たりとも、負くべき軍に勝べき樣もなし。又討たてまつらずとも、勝べき軍に負る事もよも有じ。小次郎が薄手負たるをだに直實は心苦しう思ふに、此殿の父、討れぬと聞いて、如何計か歎き給はんずらん。あはれ扶け奉らばや。」と思ひて、後をきと見ければ、土肥、梶原五十騎計で續いたり。熊谷涙を押て申けるは、「助け參せんとは存候へども、御方の軍兵雲霞の如く候。よも逃させ給はじ。人手にかけ參せんより、同くは、直實が手に懸參せて、後の御孝養をこそ仕候はめ。」と申ければ、「唯とう/\頸を取れ。」とぞ宣ひける。熊谷餘にいとほしくて、何に刀を立べしとも覺えず、目もくれ心も消果てゝ、前後不覺に思えけれども、さてしも有るべき事ならねば、泣々頸をぞ掻いてける。「あはれ弓矢取る身程口惜かりける者はなし。武藝の家に生れずば、何とてかゝる憂目をば見るべき。情なうも討奉る者哉」と掻口説き袖を顏に押當てゝ、さめ%\とぞ泣居たる。やゝ久うあて、さても在るべきならねば、鎧直垂を取て、頸を裹まんとしけるに、錦の袋に入たる笛をぞ腰に差されたる。「あないとほし、此曉城の内にて、管絃し給ひつるは、此人々にておはしけり。當時御方に東國の勢何萬騎か有らめども、軍の陣へ笛持つ人はよも有じ。上臈は猶も優しかりけり。」とて、九郎御曹司の見參に入たりければ、是を見る人涙を流さずといふ事なし。後に聞けば、修理大夫經盛の子息に太夫敦盛とて、生年十七にぞ成れける。其よりしてこそ、熊谷が發心の思ひはすゝみけれ。件の笛は、祖父忠盛、笛の上手にて、鳥羽院より給はられたりけるとぞ聞えし。經盛相傳せられ たりしを、敦盛器量たるに依て、持たれたりけるとかや。名をば小枝とぞ申ける。狂言綺語の理と云ながら、遂に讃佛乘の因となるこそ哀なれ。