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知章最期
門脇中納言教盛卿の末子、藏人大夫成盛は、常陸國の住人土屋五郎重行に組で討たれ給ひぬ。修理大夫經盛の嫡子皇后宮亮經正は助け舟に乘らんと汀の方へ落給ひけるが、河越小太郎重房が手に取籠られて、討たれ給ひぬ。其弟、若狹守經俊、淡路守清房、尾張守清定、三騎つれて敵の中へ懸入、散々に戰ひ、分捕數多して、一所で討死してけり。
新中納言知盛卿は、生田森の大將軍にておはしけるが、其勢皆落失て、今は御子武藏守知明侍には監物太郎頼方、只主從三騎に成て助け舟に乘らんと、汀の方へ落給ふ。爰に兒玉黨と覺しくて、團扇の旗差いたる者ども、十騎計、をめいて追懸奉る。監物太郎は、究竟の弓の上手ではあり、眞先に進んだる旗差がしや頸の骨をひやうふつと射て、馬より倒に射落す。其中の大將と覺しき者、新中納言に組奉らんと馳竝べけるを、御子武藏守知明、中に隔たり、押竝べてむずと組で、どうとおち、取て抑へて頸を掻き、立上んとし給ふ處に、敵が童落合うて、武藏守の頸を討つ。監物太郎落重て、武藏守討奉たる敵が童をも討てけり。其後矢種の有る程射盡して、打物拔で戰ひけるが、敵餘た討とり、弓手の膝口を射させ、立も上らずゐながら討死してけり。此紛れに新中納言は、究竟の名馬には乘給へり、海の面廿餘町泳が せて、大臣殿の御船に著給ひぬ。御船には人多く籠乘て、馬立つべき樣も無りければ、逐返す。阿波民部重能、「御馬敵の者に成り候なんず。射殺候はん。」とて、片手矢はげて出けるを、新中納言、「何の物にも成ばなれ、我命を助けたらん者を。有べうもなし。」と宣へば、力及ばで射ざりけり。此馬主の別れを慕ひつゝ、暫しは船をも放れやらず、沖の方へ泳けるが、次第に遠く成ければ、空しき汀に泳歸る。足立つ程にも成しかば、猶船の方をかへり見て、二三度迄こそいなゝきけれ。其後陸に上て休みけるを、河越小太郎重房、取て院へ參らせたりければ、軈て院の御厩に立てられけり。本も院の御祕藏の御馬にて、一の御厩に立られたりしを、宗盛公内大臣に成て、悦申の時、給られたりけりとぞ聞えし。新中納言に預けられたりしを中納言餘に此馬を秘藏して、馬の祈の爲にとて、毎月朔日毎に、泰山府君をぞ祭られける。其故にや馬の命も延、主の命をも助けるこそ目出たけれ。此馬は信濃國井上だちにて有ければ、井上黒とぞ申ける。後には河越が取て參せたりければ、河越黒とも申けり。
新中納言、大臣殿の御前に參て、申されけるは、「武藏守に後れ候ぬ。監物太郎も討せ候ぬ。今は心細うこそ罷成て候へ。如何なる親なれば、子は有て親を扶けんと、敵に組を見ながら、いかなる親なれば、子の討るゝを扶けずして、か樣に逃れ參て候らん。人の上で候はば、いかばかり、もどかしう存候べきに、我身の上に成ぬれば、よう命は惜い者で候けりと、今こそ思知られて候へ。人々の思はれむ心の内どもこそ慚しう候へ。」とて、袖を顏に押當て、さめざめと泣き給へば、大臣殿是を聞給ひて、「武藏守の父の命に替はられけるこそありがたけれ。 手もきゝ心も剛に、好き大將軍にておはしつる人を、清宗と同年にて、今年は十六な。」とて、御子衞門督のおはしける方を御覽じて、涙ぐみ給へば、幾らも竝居たりける平家の侍ども、心有も心なきも、皆鎧の袖をぞぬらしける。
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落足
小松殿の末の子備中守師盛は、主從七人小船に乘て落給ふ處に、新中納言の侍、清衞門公長と云ふ者、馳來て、「あれは、備中守殿の御船とこそ見參て候へ。參り候はん。」と申ければ、船を汀にさし寄せたり。大の男の鎧著ながら、馬より船へがばと飛乘らうに、なじかは好かるべき。船は小し、くるりと蹈返してけり。備中守浮ぬ沈ぬし給ひけるを、畠山が郎等、本田次郎、十四五騎で馳來り、熊手に懸て引上奉り、遂に頸をぞ掻てける。生年十四歳とぞ聞えし。
越前三位通盛卿は、山手の大將軍にておはしけるが、其日の裝束には、赤地の錦の直垂に唐綾威の鎧著て、黄河原毛なる馬に白覆輪の鞍置て乘り給へり。内甲を射させて敵に押隔てられ、弟能登殿には離れ給ひぬ。靜ならん處にて、自害せんとて、東に向て落給ふ程に、近江國の住人佐々木木村三郎成綱、武藏國の住人玉井四郎資景、彼是七騎が中に取籠られて終に討たれ給ひぬ。其時迄は、侍一人附奉たりけれども其も最後の時は落合はず。
凡東西の木戸口時を移す程也ければ、源平數を盡いて討れにけり。櫓の前逆茂木の下には、 人馬のしゝむら山の如し。一谷の小篠原、緑の色を引替へて、薄紅にぞ成にける。一谷、生田森、山の傍、海の汀にて射られ斬られて死ぬるはしらず、源氏の方に斬懸らるゝ頸ども、二千餘人也。今度討れ給へるむねとの人々には、越前三位通盛、弟藏人大夫成盛、薩摩守忠度、武藏盛知明、備中守師盛、尾張守清定、淡路守清房、修理大夫經盛の嫡子皇后宮亮經正、弟若狹守經俊、其弟大夫敦盛、以上十人とぞ聞えし。
軍破にければ、主上を始奉て、人々皆御船に召て、出給ふ心の中こそ悲しけれ、汐に引れ風に隨て、紀伊路へ趣く船も有り。葦屋の沖に漕出て、浪にゆらるゝ船も有り。或は須磨より明石の浦傳ひ、泊定めぬ梶枕、片敷袖もしをれつゝ、朧に霞む春の月、心を碎かぬ人ぞなき。或は淡路のせとを漕通り、繪島磯に漂へば、波路幽に鳴渡り、友迷はせる小夜千鳥、是も我身の類哉。行先未何くとも思ひ定ぬかと思しくて、一谷の沖にやすらふ船も有り。か樣に風に任せ、浪に隨ひて、浦々島々に漂よへば、互に死生も知難し。國を從ふる事も十四箇國、勢の附く事も十萬餘騎也。都へ近附く事も僅に一日の道なれば、今度はさりともと憑しう思はれけるに、一谷も攻落され、人々皆心細うぞなられける。
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小宰相身投
越前三位通盛卿の侍に、見田瀧口時員と云ふ者有り。北方の御船に參て申けるは、「君は湊河の下にて、敵七騎が中に取籠られて、終に討れさせ給ぬ。其中に殊に手を下て討參らせ候つ るは、近江國の住人佐々木木村三郎成綱、武藏國の住人玉井四郎資景とこそ名乘申候つれ。時員も一所で如何にも成り、最後の御供つかまつるべう候しかども、兼てより仰せ候ひしは、『通盛如何に成とも、汝は命を捨べからず、如何にもして長らへて、御向後をたづね參せよ。』と仰せ候し間、かひなき命生て、つれなうこそ是迄逃れ參て候へ。」と申けれども、北方とかうの返事にも及びたまはず、引覆いてぞ伏し給ふ。一定討れぬと聞給へども、若僻事にてもや有らん、生て還らるゝ事もやと、二三日は白地に出たる人を待つ心地しておはしけるが、四五日も過しかば、若やの憑みも弱果てゝ、いとゞ心細うぞ成れける。唯一人附奉りたりける乳母の女房も、同枕に伏沈にけり。かくと聞こえし七日の日の暮方より、十三日の夜までは、起も上り給はず。明れば十四日、八島へ著んとての宵打過ぐるまで臥給ひたりけるが、ふけゆくまゝに舟の中もしづまりければ、北方乳母の女房に宣ひけるは、「このほどは、三位討れぬと聞つれども、誠とも思はで有つるが、此暮程より、さも有らんと思定めて有ぞとよ。人毎に湊河とかやのしもにて討れにしとはいへども、其後生てあひたりといふ者は一人もなし。明日打出んとての夜、白地なる所にて行逢たりしかば、何よりも心細げに打歎いて、『明日の軍には、一定討れなんずと覺ゆるはとよ。我如何にも成なん後、人は如何がし給ふべき。』なんど云ひしかども、軍はいつもの事なれば一定さるべしと思はざりける事の悔しさよ。其を限りとだに思はましかば、など後の世と契らざりけんと、思ふさへこそ悲けれ。身のたゞならず成たる事をも、日比はかくして言はざりしかども、心深う思はれじとて、言出したり しかば、斜ならず嬉げにて『通盛既に三十になる迄、子と云ふ者の無りつるに、あはれ男子にて在れかし。浮世の忘形見にも思おくばかり。さて幾月程に成やらん。心地は如何有やらん。いつとなき波の上、船の中の栖ひなれば、閑かに身々と成ん時も如何はせん。』など言ひしは、はかなかりける兼言哉。誠やらん、女はさ樣の時、十に九は必死るなれば、恥がましき目を見て、空しう成んも心憂し。閑に身々と成て後、少き者をも生立て、無き人の形見にも見ばやとは思へども、少者を見ん度毎には、昔の人のみ戀しくて、思ひの數は勝るとも、慰む事はよもあらじ。終には逃るまじき道也。若不思議に此世を忍過すとも、心に任せぬ世の習ひは、思ぬ外の不思議も有ぞとよ。これも思へば心憂し。まどろめば夢に見え、覺れば面影に立ぞかし。生て居てとにかくに人を戀しと思はんより、只水の底へ入ばやと思定めて有ぞとよ。そこに一人留まて、歎かんずる事こそ心苦しけれども、わらはが裝束の有をば取て、如何ならん僧にもとらせ、無き人の御菩提をも弔ひ、わらはが後世をも助け給へ。書置たる文をば都へ傳てたべ。」など、細々と宣へば、乳人の女房涙をはら/\とながして、「幼き子をも振捨、老たる親をも留置き、はる%\是まで附參せて候ふ志をば、いか計とか思召れ候ふらむ。そのうへ今度一の谷にて討たれさせ給ひし人々の北方の御おもひども何れかおろかにわたらせ給ひ候ふべき。されば御身ひとつのことゝおぼしめすべからず。靜に身々と成せ給ひて後、少き人を生立參せ、如何ならん岩木の狹間にても、御樣を替へ、佛の御名をも唱てなき人の御菩提を弔ひ參させ給へかし。必一蓮へと思召すとも、生替らせ給ひなん後、 六道四生の間にて、何の道へか趣せ給はんずらん。行合せ給はん事も不定なれば、御身を投ても由なき事なり。其上都の事なんどをば、誰見續ぎ參せよとてか樣には仰せ候やらん。恨しうも承るものかな。」とて、さめざめと掻口説ければ、北の方此事惡うも聞れぬとや思はれけん、「それは心にかはりても推量給ふべし。人の別の悲さには大方の世の恨めしさにも身を投んなどいふは、常の習ひなり。されども左樣の事は、有難きためし也。げにも思立ならば、そこにしらせずしては有まじきぞ。夜も深ぬ。いざや寢ん。」と宣へば、めのとの女房此四五日は湯水をだに、はか%\しう御覽じ入給はぬ人の、か樣に仰せらるゝは、誠に思ひ立給へるにこそと悲くて、「大形は都の御事もさる御事にて候へ共、左樣に思召立せさせ給はば、千尋の底迄も引こそ具せさせ給はめ。おくれまゐらせて後片時もながらふべしともおぼえず。」なんど申して、御傍に在ながら、ちと、目睡たりける隙に、北方やはら舟端へ起出でて、漫漫たる海上なれば、いづちを西とは知ね共、月の入さの山の端を、そなたの空とや思はれけん、閑に念佛し給へば、沖の白洲に鳴く千鳥、天戸渡る楫の音、折から哀や勝けん、忍び聲に念佛百返計唱へ給ひて、「南無西方極樂世界教主、彌陀如來、本願誤たず、淨土へ導びき給ひつゝあかで別れし妹脊のなからひ、必一蓮に迎へ給へ。」と、泣々遙に掻口説き南無と唱る聲共に、海にぞ沈み給ける。
一谷より八島へ推渡る夜半ばかりの事なれば、舟の中靖て、人是をしらざりけり。其中に梶取の一人寢ざりけるが見つけ奉て、「あれは如何に、あの御船より、よにうつくしうまします女 房の只今海へ入せ給ひぬるぞや。」と喚ければ、乳母の女房打驚き、傍を探れども、おはせざりければ、「あれよ、あれ。」とぞあきれける。人數多下て、取上奉らんとしけれども、さらぬだに、春の夜の習ひに霞むものなるに、四方の村雲浮れ來て、かづけども/\、月朧にて見えざりけり。やゝあて上げ奉たりけれども、早此世になき人と成給ひぬ。練貫の二つ衣に白き袴著給へり。髮も袴もしほたれて、取上たれどもかひぞなき。乳母の女房手に手を取組み、顏に顏を押當てゝ、「などや是程に思召し立つならば、千尋の底までも引きは具せさせ給はぬぞ。恨しうも留め給ふ者哉。さるにても今一度もの一ことは仰られて、聞せさせ給へ。」とて、悶絶焦れけれども、 [4]一言の返事にも及はず、纔に通つる息も、はや絶果ぬ。
さる程に、春の夜の月も雲井に傾き、かすめる空も明行けば、名殘は盡せず思へども、さてしも有るべき事ならねば、うきもやあがりたまふと故三位殿の著背長の一領殘りたりけるに引纏ひ奉り、終に海にぞ沈ける。乳母の女房今度は後奉らじと、續いて入らんとしけるを、人人やう/\に取留めければ、力及ばず。せめての思ひの爲方なさにや、手づから髮をはさみ下し、故三位殿の御弟、中納言律師忠快に剃せ奉り、泣々戒持て、主の後世をぞ弔ひける。昔より男に後る類多と云へども、樣を替は常の習ひ、身を投迄は有難き樣也。忠臣は二君に仕へず、貞女は二夫に見えずとも、か樣の事をや申べき。
此北方と申は、頭刑部卿則方の女、上西門院の女房、宮中一の美人、名をば小宰相殿とぞ申ける。此女房十六と申し安元の春の比、女院法勝寺へ花見の御幸有しに、通盛卿其時は未だ 中宮の亮にて供奉せられたりけるが、此女房を只一目見て、哀れと思ひ初けるより、其面影のみ身にひしと立傍て、忘るゝ隙も無りければ、常は歌を詠み、文を盡して戀悲しみ給へど、玉章の數のみ積りて、取入給ふ事もなし。既に三年になりしかば、通盛卿今を限りの文を書て、小宰相殿の許へ遣す。をりふし取傳ける女房にも逢はずして、使空しく歸りける道にて小宰相殿は折ふし我里より御所へぞ參り給ひけるが、使道にて行會ひ奉り、空う歸り參らん事の本意なさに、御車のそばをつと走り通る樣にて、通盛の文を小宰相殿の乘給へる車の簾の内へぞ、投げ入ける。伴の者共に問ひ給へば、「知らず」と申す。さて此文を明て見給へば、通盛卿の文にてぞ有ける。車に置くべき樣もなし。大路に捨んもさすがにて、袴の腰に挾みつゝ、御所へぞ參給ひける。さて宮仕給ふ程に、所しもこそ多けれ、御前に文を落されけり。女院これを御覽じて、急ぎ取せおはしまし、御衣の御袂に引藏させ給ひて、「珍敷き物をこそ求めたれ。此主は誰なるらん。」と仰せければ、女房達、萬の神佛に懸て「知ず」とのみぞ申あはれける。其中に小宰相殿は顏打赤めて物も申されず。女院も通盛卿の申とはかねて知召れたりければ、さて此文を明けて御覽ずるに、妓爐の烟の匂ひ殊に馴しく、筆の立ども尋常ならず。あまりに人の心強きも中々今は嬉くてなんど、細々と書いて、奧には一首の歌ぞ有ける。
我戀は細谷川のまろきばし、ふみかへされて濕るゝ袖哉。
女院、「是は逢ぬを恨たる文や。餘りに人の心強きも中々怨と成るものを。」中比小野小町とて、 眉目容世に勝れ、情の道有難かりしかば、見る人聞く者、肝魂を痛ましめずといふ事なし。されども、心強き名をや取りたりけん、果てには人の思ひの積りとて、風を防ぐ便りもなく、雨を漏さぬ業もなし。宿にくもらぬ月星を、涙に浮べ、野邊の若菜、澤の根芹を摘てこそ、露の命を過しけれ。女院、「是は如何にも返しあるべきぞ。」とて、かたじけなくも御硯召寄せて自御返事あそばされけり。
只たのめ細谷川の丸木橋、ふみかへしてはおちざらめやは。
胸の中の思ひは富士の烟に露れ、袖の上の涙は清見が關の浪なれや。眉目は幸の花なれば、三位此女房を給て、互に志淺からず。されば西海の旅の空、浪の上、舟の中の住ひ迄も引具して、同じ道へぞ趣れける。門脇中納言は、嫡子越前三位、末子成盛にも後れ給ひぬ。今憑給へる人とては、能登守教經、僧には中納言律師忠快ばかり也。故三位殿の形見とも、此女房をこそ見給ひつるに、其さへか樣になられければ、いと心細ぞ成れける。
[4] NKBT reads 一言の返事にもおよばず.
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平家物語卷第十
首渡
壽永三年二月七日、攝津國一谷にて討れし平氏の頸共十二日に都へ入る。平家に結ぼほれたる人々は、我方樣に、如何なる憂目をか見んずらんと歎きあひ悲みあへり。中にも大覺寺に隱れ居給る小松三位中將維盛卿の北の方殊更覺束なく思はれける。今度一谷にて一門の人々殘り少ううたれ給ひ、三位中將と云ふ公卿一人生捕にせられて上るなりと聞給ひ、此人離れじ物をとて、引覆てぞ伏給ふ。或女房の出來て申けるは、「三位中將殿と申は、是の御事にて候はず。本三位中將殿の御事也。」と申ければ、「さては頸共の中にこそあるらめ。」とて、猶心安も思ひ給はず。同十三日、大夫判官仲頼、六條河原に出向て、頸共請取。東洞院の大路を北へ渡して、獄門の木に懸らるべき由、蒲冠者範頼九郎冠者義經奏聞す。法皇此條いかがあるべからむと思召し煩ひて、太政大臣、左右の大臣、内大臣、堀河大納言忠親卿に仰合せらる。五人の公卿申されけるは、「昔より卿相の位に上るものの頸、大路を渡さるゝ事先例なし。就中、此輩は先帝の御時戚里の臣として、久く朝家に事つる。範頼義經が申状、あながち御許容有べからず。」とおの/\一同に申されければ、渡さるまじきにて有けるを、範頼義經重 ねて奏聞しけるは、「保元の昔を思へば、祖父爲義が讐、平治の古を案ずれば、父義朝が敵也。君の御憤を息め奉り、父祖の恥を雪めんが爲に命を棄て、朝敵を滅す。今度平氏の頸共、大路を渡されずば、自今以後何のいさみ有てか、凶賊を退けんや。」と、兩人頻に訴へ申間、法皇力及ばせ給はで、遂に渡されけり。見る人幾等と云ふ數を知らず。帝闕に袖をつらねし古へは、恐怖るゝ輩多かりき。巷に首を渡さるゝ今は哀み悲しまずと云ふ事なし。
小松三位中將維盛卿の若君六代御前に附たてまつたる齋藤五、齋藤六、あまりの覺束なさに、樣を窶して見ければ、頸共は見知り奉たれども、三位中將殿の御頸は見え給はず。されども餘に悲しくて、つゝむに堪へぬ涙のみ滋かりければ、餘所の人目も怖しさに、急ぎ大覺寺へぞ參ける。北方、「さて如何にやいかに。」と問給へば、「小松殿の君達には備中守殿の御頸ばかりこそ見えさせ給ひ候つれ。其外はそんぢやう其頸其御頸。」と申ければ、「いづれも人の上とも覺えず。」とて、涙に咽び給けり。良有て、齋藤五涙を抑へて申けるは、「此一兩年は隱居候て、人にもいたく見知れ候はず。今暫も見參すべう候つれども、よにくはしう案内知り參せたる者の申候つるは、『小松殿の君達は今度の合戰には、播磨と丹波の境で候なる三草山を固めさせ給ひて候けるが、九郎義經に破られて、新三位中將殿、小松少將殿、丹波侍從殿は、播磨の高砂より御船に召して、讃岐の八島へ渡らせ給て候也。何として離れさせ給ひて候けるやらん。御兄弟の御中に備中守殿ばかり一谷にて討れさせ給ひて候。』と申者にこそ逢ひて候つれ。『さて三位中將殿の御事は如何に。』と問候つれば、『其は軍已前より大事の御痛とて、 八島に御渡候間、此度は向はせ給候はず。』と、細々とこそ申候つれ。」と申ければ、「其も我等が事をあまりに思嘆き給ふが、病と成たるにこそ。風の吹日は今日もや船に乘り給らんと肝を消し、軍といふ時は、唯今もや討たれ給らんと心を盡す。ましてさ樣の痛なんどをも、誰か心安うも扱ひ奉るべき。委しう聞ばや。」と宣へば、若君姫君「など何の御痛りとは問はざりけるぞ。」と宣ひけるこそあはれなれ。
三位中將も、通ふ心なれば、「都に如何に覺束なく思ふらん、頸共の中にはなくとも、水に溺ても死に、矢に當ても失ぬらん、此世に在者とは、よも思はじ。露の命のいまだながらへたると知らせ奉らばや。」とて、侍一人したてて都へのぼらせけり。三の文をぞ書かれける。先北方への御文には、「都には敵滿々て、御身一の置所だにあらじに、幼き者共引具して、如何にかなしう覺すらん。是へ迎奉て、一所でいかにもならばやとは思へども、我身こそあらめ、御爲こゝろぐるしくて。」など、細々と書續け、奧に一首の歌ぞありける。
いづくとも知らぬ逢せの藻鹽草、かきおくあとを形見とも見よ。
少き人々の御許へは、「つれ%\をば如何にしてか慰み給ふらん。急ぎ迎へ取らんずるぞ。」と、言の葉もかはらず書いて上せられけり。此御文共を給はて使都へ上り、北方に御文參せたりければ、今更又嘆き悲み給ひけり。使四五日候て暇申。北方泣々御返事かき給ふ。若君姫君筆をそめて、「さて父御前の御返事は何と申べきやらん。」と問給へば、「唯ともかうも和御前達の思はん樣に申べし。」とこそ宣ひけれ。「などや今まで迎へさせ給はぬぞ、あまりに戀しく 思ひ參せ候に、とくとく迎させ給へ。」と、同じ言葉にぞかゝれたる、此御文共を給はて、使八島に歸りまゐる。三位中將殿先少人々の御文を御覽じてこそ、彌詮方なげには見えられけれ。「抑是より穢土を厭ふに勇なし。閻浮愛執の綱つよければ、淨土を願ふも懶し。唯是より山傳ひに都へ上て戀き者共を今一度見もし見えて後、自害をせんにはしかじ。」とぞ、泣々語給ひける。
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内裏女房
同十四日、生捕本三位中將重衡卿、六條を東へわたされけり。小八葉の車に前後の簾を上げ、左右の物見を開く。土肥次郎實平、木蘭地の直垂に小具足許して、隨兵三十餘騎、車の前後に打圍で守護し奉る。京中の貴賤是を見て、「あないとほし、如何なる罪の報ぞや。いくらも在ます君達の中に、かく成給ふ事よ。入道殿にも二位殿にも、おぼえの御子にてましまししかば、御一家の人々も重き事に思ひ奉り給ひしぞかし。院へも内へも參り給ひし時は、老たるも若きも、所をおきて持成奉り給ひしものを。是は南都を滅し給へる伽藍の罰にこそ。」と申あへり。河原迄渡されて、かへて、故中御門藤中納言家成卿の八條堀河の御堂に居奉て、土肥次郎守護し奉る。院御所より御使に藏人左衞門權佐定長、八條堀河へ向はれけり。赤衣に劍笏をぞ帶したる。三位中將は、紺村濃の直垂に、立烏帽子引立ておはします。日頃は何とも思れざりし定長を、今は冥途にて罪人共が、冥官に逢る心地ぞせられける。仰下さ れけるは、「八島へ歸りたくば、一門の中へ言送て、三種神器を都へ返し入れ奉れ。然らば八島へ返さるべきとの御氣色で候。」と申。三位中將申されけるは、「重衡千人萬人が命にも、三種の神器を替參せんとは内府己下一門の者共一人もよも申候はじ。もし女性にて候へば、母儀の二品なんどや、さも申候はんずらん。さは候へども居ながら院宣を返し參らせん事、其恐も候へば、申送てこそ見候はめ。」とぞ申されける。御使は、平三左衞門重國、御坪の召次花方とぞ聞えし。私の文は容れねば、人々の許へも詞にて言づけ給ふ。北方大納言佐殿へも、御詞にて申されけり。「旅の空にても、人は我に慰み、我は人に慰み奉りしに、引別れて後、如何に悲しうおぼすらん。契は朽せぬものと申せば、後の世には必生れあひ奉らん。」と、泣泣言づけ給へば、重國も、涙を抑へて立にけり。
三位中將の年比召仕はれける侍に木工右馬允知時といふ者あり。八條女院に候けるが、土肥次郎が許に行向て、「是は中將殿に先年召仕れ候し某と申す者にて候が、西國へも御供仕べき由存候しかども、八條の女院に兼參の者にて候間、力及ばで罷留て候が、今日大路で見參せ候へば、目も當られず、いとほしう思奉り候。然るべう候はゞ御許されを蒙て、近附參候て、今一度見參に入り、昔語をも申て、なぐさめ參せばやと存候。させる弓矢取る身で候はねば、軍合戰の御供を仕たる事も候はず、只朝夕祇候せしばかりで候き。さりながら猶覺束なう思食し候はば、腰の刀を召置れて、まげて御許されを蒙候はばや。」と申せば、土肥次郎情ある男士にて、「御一人ばかりは何事か候べき。さりながらも。」とて、腰の刀を乞取て入てけり。 右馬允斜ならず悦で、急ぎ參て見奉れば、誠に思ひ入れ給へると覺しくて、御姿もいたくしをれ返て居給へる御有樣を見奉るに、知時涙も更に抑へ難し。三位中將も是を御覽じて夢に夢見る心地して、とかうの事も宣まはず。只泣より外の事ぞなき。稍久しう有て、昔今の物語共し給ひて後、「さても汝して物言し人は、未だ内裏にとや聞く。」「さこそ承り候へ。」「西國へ下りし時、文をもやらず、いひおく事だに無りしを、世々の契は、皆僞にて有けりと思ふらんこそ慚かしけれ。文をやらばやと思ふは如何に、尋て行てんや。」と宣へば、「御文を給て參り候はん。」と申す。中將斜ならず悦て、やがて書てぞたうだりける。守護の武士共、「如何なる御文にて候やらん。出し參せじ。」と申。中將「見せよ。」と宣へば、見せてけり。「苦しう候まじ。」とて、取らせけり。知時持て、内裏へ參りたりけれども、晝は人目の繁ければ、其邊近き小屋に立入て、日を待暮し、局の下口邊にたゝずんで聞けば、此人の聲と覺しくて、「いくらもある人の中に三位中將しも生捕にせられて大路を渡さるゝ事よ。人は皆奈良を燒たる罪の報と言あへり。中將も、さぞ云し。『我心に起ては燒ねども、惡黨多かりしかば、手々に火を放て、おほくの常塔を燒拂ふ。末の露本の雫と成なれば、我一人が罪にこそならんずらめ。』といひしが、げにさと覺ゆる。」と掻口説きさめざめとぞ泣れける。右馬允、是にも思はれけるものをといとほしくおぼえて、「物申さう。」といへば、「いづくより。」と問給ふ。「三位中將殿より御文の候。」と申せば、年比は恥て見え給はぬ女房の、せめての思ひの餘にや「いづらやいづら。」とて走出でて、手づから文を取て見給へば、西國よりとられてありし有樣、 今日明日とも知らぬ身の行末など、細々と書續け、奧には一首の歌ぞ有ける。
涙川うき名をながす身なりとも、今一度のあふせともがな。
女房是を見給ひて、とかうの事をも宣はず、文を懷に引入て唯泣より外の事ぞなき。稍久しう有て、さても可有ならねば、御返事あり。心苦しういぶせくて、二年をおくりつる心の中を書き給ひて、
君ゆゑに我もうき名を流すとも、底のみくづとともに成なん。
知時持て、參りたり。守護の武士共、又「見參せ候はん。」と申せば、見せてけり。「苦しう候まじ。」とて奉る。三位中將是を見て、彌思や増り給ひけん、土肥次郎に宣ひけるは、「年比相具したりし女房に、今一度對面して、申たき事の有るは如何がすべき。」と宣へば、實平情ある士にて、「誠に女房などの御事にて渡らせ給ひ候はんはなじかは苦う候べき。」とて許し奉る。中將斜ならず悦て、人に車借て迎へに遣したりければ、女房取もあへず、是に乘てぞおはしける。縁に車をやり寄せてかくと申せば、中將車寄に出迎ひ給ひ、「武士共の見奉るに、下させ給べからず。」とて、車の簾を打かつぎ、手に手を取組み、顏に顏を推當てて、暫しは物も宣はず、唯泣より外の事ぞなき。稍久しう有て、中將宣ひけるは、「西國へ下し時も、今一度見參せたう候しかども、大形の世の騒さに申べき便もなくて、罷下り候ぬ。其後はいかにもして御文をも參らせ、御返り事をも承はりたう候しかども、心に任せぬ旅の習ひ、明暮の軍に隙なくて、空しく年月を送り候き。今又人知ぬ在樣を見候は再あひ奉るべきで候け り。」とて、袖を顏に推當てうつぶしにぞなられける。互の心の中、推量られてあはれ也。かくて小夜も半に成ければ、「此ごろは大路の狼藉に候に、疾々。」と返し奉る。車遣出せば、中將別れの涙を押へて泣々袖を引へつゝ、
あふ事も露の命も諸共に、今宵ばかりやかぎりなるらん。
女房涙を押つゝ、
かぎりとてたちわかるれば露の身の、君よりさきに消ぬべきかな。
さて女房は内裏へ參り給ひぬ。其後は守護の武士共ゆるさねば、力及ばず、時々御文計ぞ通ける。此女房と申は、民部卿入道親範の女也。眉目貌世に勝れ、情深き人也。中將南都へ渡されて、斬られ給ぬと聞えしかば、やがて樣を替へ、濃き墨染にやつれ果て、かの後世菩提を弔はれけるこそ哀れなれ。
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八島院宣
去程に平三左衞門重國、御坪の召次花方、八島に參て、院宣をたてまつる。大臣殿以下一門の月卿雲客寄合ひ給ひて、院宣を開れけり。
一人聖體、北闕の宮禁を出で、諸州に幸し、三種の神器、南海四國に埋れて、數年を歴、尤朝家の歎き、亡國の基なり。抑かの重衡卿は、東大寺燒失の逆臣なり。すべからく頼朝の朝臣申請る旨に任せて、死罪に行るべしといへども、獨親族に別て、既に生捕とな る。籠鳥雲を戀る思ひ、遙に千里の南海に浮び、歸雁友を失ふ心、定めて九重の中途に通ぜん乎。然則三種の神器を返しいれ奉らんに於ては、彼卿を寛宥せらるべき也者、院宣此の如し。仍執達如件。壽永三年二月十四日 大膳大夫成忠が奉進上平大納言殿へ
とぞ書かれたる。
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請文
大臣殿、平大納言の許へは院宣の趣を申給ふ。二位殿へは御文細々と書いて進らせられたり。「今一度御覽ぜんと思めし候はゞ内侍所の御事を大臣殿によく/\申させおはしませ。さ候はでは此世にて見參に入べしとも覺え候はず。」などぞ書れたる。二位殿は是を見給ひてとかうの事も宣はず、文を懷に引入てうつぶしにぞなられける。誠に心の中さこそおはしけめと推量られて哀也。さる程に平大納言時忠卿をはじめとして平家一門の公卿殿上人寄合ひ給ひて御請文の趣僉議せらる。二位殿は中將の文を顏に推當てゝ、人々の並居給へる後の障子を引明て、大臣殿の御前に倒臥し、泣々宣ひけるは「あの中將が京より言おこしたる事の無慚さよ。げにも心の中にいかばかりの事をか思ひ居たるらん。唯我に思ひ許して内侍所を、都へ入奉れ。」と宣へば、大臣殿、「誠に宗盛もさこそは存候へども、さすが世の聞えもいふがひ なう候。且は頼朝が思はん事もはづかしう候へば、左右なう内侍所を返し入奉る事は叶ひ候まじ。其上帝王の世を保せ給ふ御事は、偏に内侍所の御故也。子の悲いも樣にこそ依候へ。且は中將一人に餘の子共親しい人々をば思食替させ給ふべきか。」と申されければ、二位殿、重て宣ひけるは、「故入道におくれて後は、かた時も命生て、在べしとも思はざりしかども、主上かやうにいつとなく、旅だゝせ給たる御事の御心苦しさ、又、君をも御代にあらせ參せばやと思ふ故にこそ今迄もながらへて在つれ。中將一谷で生捕にせられぬと聞し後は肝魂も身に副はず、如何にもして此世にて今一度あひ見るべきと思へども、夢にだに見えねば、いとどむねせきて、湯水も喉へ入れられず。今この文を見て後は、彌思ひ遣たる方もなし。中將世になき者と聞かば、我も同じ道に赴むかんと思ふ也。再び物を思はせぬ先に、唯我を失ひ給へ。」とて、喚き叫び給へば、誠にさこそは思ひ給らめとあはれに覺えて、人々泪を流しつゝ皆伏目にぞなられける。新中納言知盛の意見に申されけるは、「三種の神器を都へ返入奉たりとも、重衡を返し給らん事有がたし。唯憚なく其樣を、御請文に申さるべうや候らん。」と申されければ、大臣殿「此儀尤も然るべし。」とて、御請文申されけり。二位殿は泣々中將の御返事かき給ひけるが、涙にくれて、筆の立所も覺ねども、志をしるべにて御文細々と書て重國にたびにけり。北方大納言佐殿は、唯泣より外の事なくて、つや/\御返事もし給はず。誠に御心の中さこそは思ひ給らめと推量られてあはれ也。重國も狩衣の袖を絞りつゝ泣泣御前を罷り立つ。平大納言時忠は御坪召次花方を召て、「汝は花方か。」「さん候。」「法皇の 御使に、多くの浪路を凌いで、是迄參りたるに一期が間の思出一つあるべし。」とて花方が面に、浪方と云ふ燒驗をぞせられける。都へ上りければ、法皇是を御覽じて、「好々力およばず、浪方とも召せかし。」とてわらはせおはします。
今月十四日の院宣、同二十八日、讃岐國八島の磯に到來、謹以承る所如件。但し是に就て彼を案ずるに、通盛卿以下、當家數輩攝州一谷にして、既に誅せられ畢。何ぞ重衡一人が寛宥を悦べきや。夫我君は、故高倉院の御讓を請させ給ひて、御在位既に四箇年、堯舜の古風を訪處に、東夷北狄黨を結び、群をなして入洛の間、且は幼帝母后の御歎尤深く、且は外戚近臣の憤淺からざるに依て、暫く九國に幸す。還幸なからんにおいては、三種の神器、爭か玉體を放ち奉るべきや。それ臣は君を以て心とし、君は臣を以て體とす。君安ければ則ち臣安く、臣安ければ即ち國安し。君上に愁れば、臣下に樂まず。心中に愁れば、體外に悦なし。曩祖平將軍貞盛、相馬小次郎將門を追討せしより以降、東八箇國を鎭めて、子々孫々に傳へ、朝敵の謀臣を誅罰して代々世々に至るまで、朝家の聖運を守り奉る。然則亡父故太政大臣、保元平治兩度の合戰の時、勅命を重して私の命を輕す。偏に君の爲にして、身のためにせず。就中、彼頼朝は、去平治元年十二月、父左馬頭義朝が謀反に依て、頻に誅伐せらるべき由仰下さるといへども故入道相國慈悲のあまり、申宥められし處也。然に、昔の洪恩を忘れ芳意を存ぜず、忽に狼羸の身を以て猥に蜂起の亂をなす、至愚の甚しき事申も餘あり。早く神明の天罰を招き、竊に敗績の損滅を期する者歟。 夫日月は、一物のために其明なる事を暗せず。明王は、一人が爲に其法を枉ず。一惡をもて其善をすてず、少瑕をもて其功をおほふことなかれ。且は當家數代の奉公、且は亡父數度の忠節、思食忘れずば君忝なくも四國の御幸有るべき歟。時に臣等院宣を承はり、再舊都に歸て、會稽の耻を雪ん。若然らずば、鬼界、高麗、天竺、震旦にいたるべし。悲哉。人王八十一代の御宇に當て、我朝神代の靈寶、遂に空しく異國の寶となさんか。宜く是等の趣を以て、然るべき樣に洩し奏聞せしめ給へ。宗盛誠恐頓首謹言。壽永三年二月二十八日 從一位平朝臣宗盛が請文
とこそ書かれたれ。
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戒文
三位中將是を聞て、「さこそは有むずれ。如何に一門の人々惡く思ひけん。」と、後悔すれどもかひぞなき。げにも重衡卿一人を惜みて、さしもの我朝の重寶三種の神器を、返し入れ奉るべしとも覺えねば、此御請文の趣は、兼てより思ひ設られたりしかども、未左右を申されざりつる程は、何となういぶせく思はれけるに、請文既に到來して、關東へ下向せらるべきに定まりしかば、何の憑も弱り果て萬心細う都の名殘も今更惜思はれける。三位中將土肥次郎を召て、「出家をせばやと思ふは如何あるべき。」と宣へば、實平此由を九郎御曹司に申す。院御所へ奏聞せられたりければ、「頼朝に見せて後こそ、ともかうも計らはめ。唯今は爭か許す べき。」と仰ければ、此由を申す。「さらば年來契りたりし聖に、今一度對面して、後世の事を申談ぜばやと思ふはいかゞすべき。」と宣へば、「聖をば誰と申候やらん。」「黒谷の法然房と申人也。」「さては苦しう候まじ。」とて許し奉る。中將斜ならず悦て、聖を請じ奉て、泣々申されけるは、「今度生ながら捕れて候けるは、再上人の見參に罷入べきで候けり。さても重衡が後生いかゞし候べき。身の身にて候し程は、出仕に紛れ、政務にほだされ、 驕慢の心のみ深して却て當來の昇沈を顧ず。況や運盡き世亂てより以來は、こゝに戰ひ、かしこに爭ひ、人を滅し身を助らんと思ふ惡心のみ遮て、善心はかつて起らず。就中に南都炎上の事は、王命といひ武命といひ、君に仕へ世に隨ふ法遁かたくして、衆徒の惡行を靜めんが爲に罷向て候し程に、不慮に伽藍の滅亡に及候し事、力及ばぬ次第にて候へども、時の大將軍にて候ひし上は、責め一人に歸すとかや申候なれば、重衡一人が罪業にこそなり候ぬらめと覺え候へ。且はか樣に人しれずかれこれ恥をさらし候もしかしながら其報とのみこそ思知れて候へ。今は首を剃り戒を持なんどして偏に佛道修行したう候へども、かゝる身に罷成て候へば、心に心をもまかせ候はず。今日明日とも知らぬ身の行末にて候へば、如何なる行を修しても、一業助かるべしとも覺えぬこそ口惜う候へ。倩一生の化行を思ふに、罪業は須彌よりも高く、善業は微塵ばかりも蓄へなし。かくて空く命終なば、火血刀の苦果、敢て疑なし。願くは上人慈悲を發し、憐を垂れて、かゝる惡人の助りぬべき方法候はば、示給へ。」其時上人涙に咽て、暫は物も宣はず。良久しう有て、「誠に受難き人身を受ながら、空しう三途に歸り給は ん事、悲しんでも猶餘あり。然るを今穢土を厭ひ、淨土を願はんに、惡心を捨てゝ善心を發しましまさん事、三世の諸佛も定て隨喜し給ふらん。それについて出離の道まち/\なりといへども末法濁亂の機には、稱名を以て勝れたりとす。志を九品に分ち、行を六字に縮めて、如何なる愚癡闇鈍の者も唱るに便あり。罪深ければとて、卑下したまふべからず。十惡五逆囘心すれば往生を遂ぐ。功徳少ければとて、望を絶べからず。一念十念の心を致せば、來迎す。專稱名號至西方と釋して、專名號を稱すれば、西方に至る。念々稱名常懺悔と演て、念々に彌陀を唱れば、懺悔する也と教へたり。利劔即是彌陀號を憑めば、魔縁近づかず。一聲稱念罪皆除と念ずれば、罪皆除けりと見えたり。淨土宗の至極、各略を存して、大略是を肝心とす。但往生の得否は、信心の有無に依べし。唯深く信じて努々疑をなし給ふべからず。もし此教を深く信じて行往座臥時處諸縁を嫌はず三業四威儀に於て、心念口稱を忘れ給はずば、畢命を期として、此苦域の界を出で、彼不退の土に往生し給はん事、何の疑かあらむや。」と教化し給ひければ、中將斜ならず悦て、「此次に戒を持ばやと存候は、出家仕らでは叶候まじや。」と申されければ、「出家せぬ人も、戒を持つ事は世の常の習ひ也。」とて、額に剃刀をあてゝそるまねをして、十戒を授けられければ、中將隨喜の涙を流いて、是を受保ち給ふ。上人も萬物哀に覺えて、掻暗す心地して、泣々戒をぞ説れける。御布施と覺しくて、年比常におはして遊れける侍の許に預置れける御硯を、知時して召寄て、上人に上り、「是をば人にたび候はで、常に御目のかゝり候はん所に置れ候て、某が物ぞかしと、御覽ぜられ候は ん度ごとに思食なずらへて御念佛候べし。御隙には經をも一卷、御廻向候はゞ然るべう候べし。」など泣々申されければ、上人とかうの返事にも及ばず、是を取て懷に入れ、墨染の袖を絞りつゝ泣々歸り給ひけり。此の硯は、親父入道相國砂金を多く宋朝の御門へ奉り給ひたりければ返報と覺しくて、日本和田の平大相國の許へとて、送られたりけるとかや。名をば松蔭とぞ申ける。