饭饭TXT > 海外名作 > 《平家物语(日文版)》作者:[日]未知【完结】 > 平家物语.txt

第 18 页

作者:日-未知 当前章节:15585 字 更新时间:2026-6-19 10:59

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海道下

さる程に、本三位中將をば、鎌倉前兵衞佐頼朝、頻に申されければ、さらば下さるべしとて、土肥次郎實平が手より、先九郎御曹司の宿所へ渡し奉る。同三月十日、梶原平三景時に具せられて、鎌倉へこそ下られけれ。西國より生捕にせられ、都へ返るだに口惜きに、今又關の東へ趣かれけん心の中、推量られて哀也。四宮河原に成ぬれば、爰は昔延喜第四の王子、蝉丸の、關の嵐に心を清し、琵琶をひき給ひしに、博雅の三位といひし人、風の吹日も吹ぬ日も、雨の降る夜も降ぬ夜も三年が間歩を運び、立聞て、彼の三曲を傳へけん藁屋の床の古へも、思遣られて哀也。逢坂山を打越えて、勢多の唐橋駒もとゞろに蹈ならし、雲雀あがれる野路の里、志賀の浦浪春かけて霞に曇る鏡山、比良の高峯をも北にして、伊吹の嵩も近附ぬ。心をとむとしなけれども、荒て中中優しきは、不破の關屋の板びさし、如何に鳴海の鹽干潟、涙に袖はしをれつゝ、彼在原のなにがしの、唐ころもきつゝなれにしとながめけん參河國 八橋にも成ぬれば、蛛手に物をと哀也。濱名の橋を渡り給へば、松の梢に風亮て、入江に噪ぐ浪の音、さらでも旅は物憂きに、心を盡す夕間暮、池田の宿にも著給ひぬ。彼宿の長者の湯屋が娘、侍從が許に、其夜は宿せられけり。侍從、三位中將を見奉て、「昔は傳にだに思召寄らざりしに、今日はかゝる所にいらせ給ふ不思議さよ。」とて、一首の歌をたてまつる。

旅の空埴生の小屋のいぶせさに、故郷いかに戀しかるらん。

三位中將返事には、

故郷もこひしくもなし旅の空、都もつひのすみかならねば。

中將「やさしうもつかまつたるものかな。此歌の主は如何なる者やらん。」と御尋在ければ、景時畏て申けるは、「君はいまに知召され候はずや。あれこそ八島の大臣殿の當國の守で渡らせ給候し時、めされ參せて、御最愛にて候しが、老母を是に留置、頻に暇を申せども、給はらざりければ、比は三月の始めなりけるに、

如何にせん都の春もをしけれど、馴しあづまの花や散らん。

と仕て、暇を給て下りて候ひし、海道一の名人にて候へ。」とぞ申ける。

都を出て日數歴れば、彌生も半過ぎ、春も既に暮なんとす。遠山の花は殘の雪かと見えて、浦々島々かすみ渡り、こし方行末の事共思續け給ふに、「されば是は如何なる宿業のうたてさぞ。」と宣ひて、唯盡せぬものは涙也。御子の一人もおはせぬ事を、母の二位殿も歎き、北の方大納言佐殿も本意なき事にして、萬の神佛に祈申されけれども、其驗なし。「賢うぞ無りけ る。子だに有ましかば、如何に心苦しかるらん。」と宣ひけるこそ責ての事なれ。佐夜中山にかかり給ふにも、又越べしとも覺えねば、いとゞ哀れの數添て、袂ぞいたく濕まさる。宇都の山邊の蔦の道、心細くも打越えて、手越を過て行けば、北に遠去て、雪白き山あり。問へば甲斐の白根といふ。其時三位中將、落る涙を押てかうぞ思ひ續け給ふ。

惜からぬ命なれども今日までに、強顏かひの白根をも見つ。

清見が關打過ぎて、富士のすそ野に成ぬれば、北には青山峨々として、松吹く風索々たり。南には蒼海漫々として、岸うつ浪も茫々たり。戀せばやせぬべし、こひせずとも有けりと、明神の歌はしめ給ひける足柄の山をも打越て、こゆるぎの森、鞠子河、小磯、大磯の浦、やつまと、砥上が原、御輿が崎をも打過て、急がぬ旅と思へども、日數やう/\重なれば、鎌倉へこそ入給へ。

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千手前

兵衞佐急ぎ見參して申されけるは、「抑君の御憤を息め奉り、父の恥を雪めんと思ひたちし上は、平家を滅さん事は案の内に候へども、正しく見參に入るべしとは存ぜず候き。此のぢやうでは、八島の大臣殿の見參にも入ぬと覺え候。抑も南都を滅し給ける事は、故太政入道殿の仰にて候しか。又時に取て御計にて候けるか。以外の罪業にこそ候なれ。」と申されければ、三位中將宣ひけるは、「先づ南都炎上の事、故入道の成敗にも非ず、重衡が愚意の發起に もあらず。衆徒の惡行をしづめんが爲に罷向て候し程に、不慮に伽藍滅亡に及候し事、力及ばぬ次第也。昔は源平左右にあらそひて、朝家の御かためなりしかども、近比源氏の運傾きたりし事は事新しう初めて申べきにあらず。當家は保元平治より以來度々の朝敵を平げ、勸賞身に餘り、辱く一天の君の御外戚として、一族の昇進六十餘人、廿餘年の以來は樂み榮え申ばかりなし。今又運盡ぬれば、重衡捕らはれて是まで下候ぬ。それについて帝王の御敵を討たる者は、七代まで朝恩つきせずと申事は、究たる僻事にて候けり。目のあたり故入道殿は、君の御爲に既に命を失はんとする事度々に及ぶ。されども僅に其身一代の幸にて、子孫か樣に罷成るべしや。されば運盡きて都を出し後は、尸を山野にさらし、名を西海の波に流すべしとこそ存ぜしが、是迄下べしとは、かけても思はざりき。唯先世の宿業こそ口惜候へ。但殷湯は夏臺にとらはれ文王は いう里にとらはると云ふ文あり。上古猶かくの如し。況や末代においてをや。弓矢をとる習ひ敵の手にかゝて命を失ふ事、またく恥にて恥ならず。唯芳恩には、疾々かうべをはねらるべし。」とて、其後は物も宣はず。景時是を承て、「あはれ大將軍や。」とて涙を流す。其座に並居たる人々皆袖をぞぬらしける。兵衞佐も、「平家を別して私の敵と思ひ奉る事努々候はず。唯帝王の仰こそ重う候へ。」とぞのたまひける。「南都を亡たる大伽藍の敵なれば、大衆定て申旨在らんずらん。」とて、伊豆國の住人狩野介宗茂に預けらる。其體、冥土にて娑婆世界の罪人を、七日々々に十王の手へ渡さるらんも、かくやと覺て哀也。

されども狩野介、情なる者にて、痛く緊しうも當り奉らず、やう/\に痛り湯殿しつらひなどして、御湯引せ奉る。道すがらの汗いぶせかりつれば、身を清めて失はんずるにこそと思はれけるに、齡二十計なる女房の、色白う清げにて、誠に優に美しきが、目結の帷に、染附の湯卷して、湯殿の戸を推開て參りたり。又暫有て十四五許なる女の童の小村濃の帷きて髮は袙長なるが、楾盥に櫛入て持て參りたる。此女房介錯にて、良久湯あみ髮洗などしてあがり給ひぬ。さて彼女房暇申て歸りけるが、「男などはこちなうもぞ思召す。中々女は苦からじとて、參せられて候ふ。『何事でも思召さん御事をば、承はて申せ。』とこそ兵衞佐殿は仰られ候つれ。」中將、「今は是程の身になて、何事をか申候べき。唯思ふ事とては、出家ぞしたき。」と宣ひければ、歸參て、此由を申す。兵衞佐「其れ思ひも寄らず。頼朝が私の敵ならばこそ。朝敵として預り奉たる人也。努々有るべうもなし。」とぞ宣ひける。三位中將守護の武士に宣ひけるは、「さても唯今の女房は優なりつる者哉。名をば何といふやらん。」と問はれければ、「あれは手越の長者が娘で候を、眉目形、心樣優にわりなき者で候とて、此二三年召仕はれ候が、名をば千手前と申候。」とぞ申ける。

其夕雨少降て、萬物蕭しかりけるに、件の女房琵琶琴もたせて參たり。狩野介酒をすゝめて奉る。我身も家子郎等十餘人引具して參り、御前近う候けり。千手前酌をとる。中將少しうけて、最興なげにておはしけるを、狩野介申けるは、「且聞思されてもや候らん。鎌倉殿の『相構て能々慰參せよ。懈怠して頼朝恨むな。』と仰られ候 [1]宗茂は、伊豆國の者にて候間、鎌倉 では旅にて候へども、心の及ばん程は奉公仕候べし。何事でも申てすゝめ參させ給ヘ。」と申ければ、千手酌を差置て、「羅綺の重衣たる情ない事を機婦にねたむ。」と云ふ朗詠を一兩返したりければ、三位中將宣ひけるは、「此朗詠せん人をば、北野天神一日に三度翔て守らんと誓はせ給ふ也。されども重衡は此世では捨られ奉ぬ。助音しても何かせん。罪障輕みぬべき事ならば、隨べし。」とぞ宣ひければ、千手前軈て「十惡と云へ共引攝す。」と云ふ朗詠をして、「極樂願はん人は、皆彌陀の名號唱べし。」と云今樣を四五返うたひすましたりければ、其時盃を傾けらる。千手前給はて狩野介にさす。宗茂がのむ時に、琴をぞ引すましたりける。三位中將宣けるは「此樂をば普通には五常樂といへども、重衡が爲には、後生樂とこそ觀ずべけれ。やがて往生の急を引むと戯れて琵琶を取り、てんじゆをねぢて、皇 じやう急をぞ引れける。夜やう/\深て、萬づ心のすむ儘に、「あら思はずや、吾妻にも是程優なる人の有けるよ。何事にても今一聲。」と宣へば千手前又、「一樹の陰に宿り合ひ、同じ流を掬ぶも、皆是前世の契。」と云ふ白拍子を、誠に面白くかぞへすましたりければ、中將も、「燈暗しては數行虞氏の涙。」と云ふ朗詠をぞせられける。譬へば此朗詠の心は、昔唐土に、漢高祖と楚項羽と位を爭ひて、合戰する事七十二度、戰毎に項羽勝にけり。されども終には、項羽戰負て亡ける時、騅と云ふ馬の一日に千里を飛に乘て、虞氏と云ふ后と共に逃さらんとしけるに、馬如何思ひけん、足をとゝのへて動かず。項羽涙を流いて、「我が威勢既に廢れたり。今は逃るべき方なし。敵の襲ふは事の數ならず、此后に別なん事のかなしさよ。」とて終夜歎き悲み給ひけり。 燈暗成ければ心細うて虞氏涙を流す。夜深くる儘に、軍兵四面に閧を作る。此心を橘相公の賦に作るを、三位中將思ひ出されたりしにや、最優うぞ聞えける。

さる程に夜も明ければ、武士ども暇申て罷出づ。千手前も歸にけり。其朝兵衞佐殿折節、持佛堂に法華經讀でおはしける處へ、千手前參りたり。兵衞佐殿うちゑみ給ひて、「千手に中人をば面白もしたるもの哉。」と宣へば、齋院次官親義、折節御前に物かいて候けるが、「何事で候けるやらん。」と申。「あの平家の人々は甲冑弓箭の外は他事なしとこそ日比は思ひたれば、此三位中將の琵琶の撥音、口ずさみ、終夜立聞て候に、優にわりなき人にておはしけり。」親義申けるは、「誰も夜部承はるべう候しが、折節痛はる事候て、承らず候。このゝちは常に立聞候べし。平家は本より代々の歌人才人達で候也。先年此人々を花に譬へ候しに、此三位中將殿をば、牡丹の花に譬て候しぞかし。」と申されければ、「誠に優なる人にてありけり。」とて「琵琶の撥音朗詠のやう、後までも有難き事ぞ。」と宣ひける。千手前は中々に物思ひの種とや成にけん。されば中將南都へ渡されて斬れ給ひぬ、と聞えしかば、やがて樣をかへ、濃墨染にやつれ果て、信濃國善光寺に行すまして、彼後世菩提を弔ひ、我身も往生の素懷を遂けるとぞ聞えし。

[1] Nihon Koten Bungaku Taikei (Tokyo: Iwanami Shoten, 1957, vol. 33; hereafter cited as NKBT) has 。at this point.

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横笛

さる程に、小松三位中將維盛卿は、身がらは八島にありながら、心は都へ通れけり。故郷に 留置給し北方少き人々の面影のみ、身に立そひて、忘るゝ隙も無りければ、「有にかひなき我身かな。」とて、壽永三年三月十五日の曉、忍びつゝ八島の館を紛れ出で、與三兵衞重景、石童丸と云ふ童、船に心得たればとて武里と申舍人、是等三人を召具して、阿波國結城の浦より小舟に乘り、鳴門の浦を漕通り、紀伊路へおもむき給けり。和歌、吹上、衣通姫の神と顯はれ給へる玉津島の明神、日前國懸の御前を過て、紀伊の湊にこそ著給へ。是より山傳ひに都へ上て、戀しき人々を、今一度見もし見えばやとは思へ共、「本三位中將の生捕にせられて大路を渡され、京鎌倉恥をさらすだに口惜きに、此身さへ囚れて、父の尸に血をあやさん事も心うし。」とて、千度心は進め共、心に心をからかひて、高野の御山に參られけり。

高野は年比知給へる聖在り。三條の齋藤左衞門茂頼が子に、齋藤瀧口時頼と云ひし者也。本は小松殿の侍なり。十三の年本所へ參りたりけるが、建禮門院の雜仕横笛と云ふ女あり。瀧口是を最愛す。父是を傳聞いて、「世に有ん者の婿子になして出仕なんどをも、心安うせさせんとすれば、世になき者を思ひ初めて。」と強に諫めければ、瀧口申けるは、「西王母と聞えし人、昔は有て今は無し。東方朔と云し者も、名をのみ聞て目には見ず。老少不定の世の中、石火の光に異ならず、縱人長命といへども、七十八十をば過ず、其中に身の榮んなる事は、僅に廿餘年也。夢幻の世の中に、醜きものを、片時も見て何かせん。思はしき者を見んとすれば、父の命を背くに似たり。是善知識也。しかじ、浮世を厭ひ、實の道に入なん。」とて、十九の年髻切て、嵯峨の往生院に行なひすましてぞ居たりける。横笛是を傳聞いて、「我をこ そ捨め、樣をさへ替けん事の恨めしさよ。縱ひ世をば背くとも、などかかくと知せざらむ。人こそ心つよくとも尋ねて恨みむ。」と思ひつゝ、或暮方に都を出で、嵯峨の方へぞあくがれ行く。比はきさらぎ十日餘の事なれば、梅津の里の春風に、餘所の匂もなつかしく、大井河の月影も、霞にこめて朧也。一方ならぬ哀さも、誰故とこそ思ひけめ。往生院とは聞たれども、さだかに何れの坊ともしらざれば、こゝにやすらひ、かしこにたゝずみ、 [2]尋ねぬるぞ無慚なる。住荒したる僧房に念誦の聲しけり。瀧口入道が聲と聞なして、「わらはこそ是まで尋ね參りたれ。樣の替りておはすらんをも今一度見奉らばや。」と具したりける女を以て言せければ、瀧口入道、胸打噪ぎ、障子の隙より覗いて見れば、誠に尋かねたる氣色痛敷う覺えて如何なる道心者も、心弱くなりぬべし。やがて人を出して、「全く是にさる人なし。門違でぞあるらむ。」とて終に逢でぞかへしける。横笛情なう恨めしけれども、力なく、涙を押へて歸けり。瀧口入道、同宿の僧に逢て申けるは、「是も世に靜にて、念佛の障碍は候はねども、飽で別し女に、此住ひを見えて候へば、譬ひ一度は心強共、又も慕ふ事あらば、心も動き候べし。暇申て。」とて嵯峨をば出て高野へ上り、清淨心院にぞ居たりける。横笛も樣を替たる由聞えしかば、瀧口入道一首の歌を送けり。

そるまではうらみしかども梓弓、眞の道にいるぞうれしき。

横笛返ごとに

そるとてもなにか恨みん梓弓、ひきとゞむべき心ならねば。

横笛は、其思ひの積にや奈良の法華寺に有けるが、幾程もなくて、遂にはかなく成にけり。瀧口入道か樣の事を傳へ聞、彌深う行澄して居たりければ、父も不孝を許けり。親しき者ども皆用て、高野の聖とぞ申ける。

三位中將是に尋あひて見給へば、都に候し時は、布衣に立烏帽子、衣文を引繕ひ、鬢を撫で、花やかなりし男士也。出家の後は、今日初て見給ふに、未だ三十にもならぬが、老僧姿に痩衰へ、濃墨染に同じ袈裟、思入れたる道心者、羨敷や思はれけん。晉の七賢、漢の四晧が栖けん商山竹林の有樣も、是には過じとぞ見えし。

[2] NKBT reads たづねかぬるぞ.

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高野之卷

瀧口入道、三位中將を見奉り、「こは現共覺え候はぬ者哉。八島より是迄は何として逃させ給て候やらん。」と申ければ、三位中將宣ひけるは、「さればとよ、人なみ/\に、都を出て、西國へ落下りたりしかども、故郷に留置し少者共の戀しさ、いつ忘るべしとも覺えねば、其物思ふ氣色の言ぬにしるくや見えけん、大臣殿も、二位殿も、此人は池大納言の樣に、二心有りなどとて思ひ隔て給ひしかば、有にかひなき吾身哉と、いとゞ心も留まらであくがれ出てこれまではのがれたるなり。如何にもして山傳ひに都へ上て戀しき者共を今一度見もし見えばやとは思へども、本三位中將の事口惜ければ其も叶はず。同くは是にて出家して、火の中水の底へも入ばやと思ふ也。但熊野へ參らんと思ふ宿願あり。」と宣へば、「夢幻の世の中は、 とてもかくても候なん。長き世の闇こそ心うかるべう候へ。」とぞ申ける。やがて瀧口入道先達にて、堂塔巡禮して、奧院へ參り給ふ。

高野山は帝城を去て二百里、京里を離て無人聲、晴嵐梢を鳴して、夕日の影靜也。八葉の峰、八の谷、誠に心も澄ぬべし。花の色は林霧の底に綻び、鈴の音は尾上の雲に響けり。瓦に松生ひ、墻に苔むして、星霜久く覺えたり。抑延喜帝の御時、御夢想の御告有て、檜皮色の御衣を參らせられしに、勅使中納言資澄卿、般若寺僧正觀賢を相具して、此御山に參り、御廟の扉を開いて、御衣を著せ奉らんとしけるに、霧厚く隔たて、大師拜まれさせ給はず。こゝに觀賢深く愁涙して、「我悲母の胎内を出て、師匠の室に入しより以來いまだ禁戒を犯せず。さればなどか拜奉らざらん。」とて五體を地に投げ、發露啼泣し給ひしかば、漸霧晴て、月の出が如くして、大師拜まれ給けり。時に觀賢隨喜の涙を流いて、御衣を著せ奉る。御ぐしの長く生させ給ひたりしかば、剃奉るこそめでたけれ。勅使と僧正とは拜み奉給へども、僧正の弟子石山の内供淳祐、其時は未童形にて供奉せられたりけるが、大師を拜み奉らずして、嘆き沈で御座けるが、僧正手をとて、大師の御膝に押當られたりければ、其手一期が間、香しかりけるとかや。其移り香は、石山の聖教に移て今に有とぞ承る。大師御門の御返事に申させ給ひけるは、「我昔薩 たに逢て、まの當り悉印明を傳ふ。無比の誓願を發して、邊地の異域に侍り。晝夜に萬民を哀んで、普賢の悲願に住す。肉身に三昧を證して、慈氏の下生を待つ。」とぞ申させ給ひける。彼摩訶迦葉の 鶏足の洞に籠て、翅頭の春の風を期し給ふらんも、かく やとぞ覺えける。御入定は承和二年三月二十一日寅の一點の事なれば、過にし方も三百餘歳、行末も猶五十六億七千萬歳の後、慈尊出世三會の曉を待せ給ふらんこそ久しけれ。

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維盛出家

「維盛が身の何となく、雪山の鳥の啼らんやうに、今日よ明日よと思ふものを。」とて、涙ぐみ給ぞ哀なる。鹽風に黒み、盡せぬ物思に痩衰て、其人とは見え給はねども、猶世の人には勝れ給へり。其夜は瀧口入道が庵室に歸て終夜、昔今の物語をぞし給ひける。聖が行儀を見給へば、至極甚深の床の上には、眞理の玉を磨くらむと見えて、後夜晨朝の鐘の聲には、生死の眠をさますらむとも覺えたり。のがれぬべくはかくてもあらまほしうや思はれけん。明ぬれば、東禪院の智覺上人と申ける聖を請じ奉て、出家せんとし給ひけるが、與三兵衞、石童丸を召て宣ひけるは、「維盛こそ人しれぬ思ひを身に副ながら、道狹う遁れ難き身なれば、空しうなるとも、此比は世に有る人こそ多けれ。汝等は如何なる有樣をしてもなどかすぎざるべき。我如何にもならぬ樣を見果て急ぎ都へ上り、各が身をも助け、且は妻子をも育み、且は又維盛が後生をも弔らへかし。」と宣へば、二人の者共、さめ%\と泣いて、暫は御返事にも及ばず、稍有て與三兵衞涙を押へて申けるは、「重景が父與三左衞門景康は、平治の逆亂の時、故殿の御供に候けるが、二條堀河の邊にて、鎌田兵衞に組んで、惡源太に討たれ候ぬ。重景もなじかは劣り候べき。其時は未二歳に罷成候ければ、少も覺え候はず。母には七歳で 後れ候ぬ。あはれをかくべき親しい者、一人も候はざりしかども、故大臣殿、『あれは我命にかはりたりし者の子なれば。』とて、御前にてそだてられ參せ、生年九と申し時、君の御元服候し夜、首を取上られまゐらせて、辱く『盛の字は家の字なれば五代につく。重の字をば松王に。』と仰候て、重景とは付られ參せて候也。其上童名を松王と申ける事も生れて忌五十日と申し時父がいだいてまゐりたれば此家を小松といへば祝うてつくるなりと仰候て松王とはつけられまゐらせ候也。父のようて死候けるも、我身の冥加と覺え候。隨分同隷共にも芳心せられてこそ罷過候しか。されば御臨終の御時も、此世の事をば思召捨て、一事も仰候はざりしかども、重景を御前近う召されて、『あな無慚や、汝は重盛を父が形見と思ひ、重盛は汝を景康が形見と思ひてこそ過しつれ。今度の除目に靱負尉になして、己が父景康を呼し樣に召ばやとこそ思つるに、空しうなるこそ悲しけれ、相構て、少將殿の心に違ふな。』とこそ仰せ候しか。されば日比はいかなる御事も候はむには見捨參せて落べき者と思召し候けるか。御心の中こそ慚しう候へ。『此比は世に有る人こそ多けれ。』と仰蒙り候は、當時の如くは、皆源氏の郎等共こそ候なれ。君の神にも佛にも成らせ給ひ候なむ後樂み榮え候とも、千年の齡を歴べきか。縱萬年を保つとも終には終りの無るべきか。是に過たる善知識何事か候べき。」とて、手づから髻切て、泣々瀧口入道に剃らせけり。石童丸も是を見て、髻際より髮をきる。是も八つより附奉て、重景にも劣ず、不便にし給ければ、同瀧口入道に剃らせけり。是等がか樣に先立てなるを見給ふにつけても、いとど心細うぞ思食す。さても有るべきならねば、 流轉三界中、恩愛不能斷、棄恩入無爲、眞實報恩者。」と三反唱給ひて、終に剃下し給てけり。「あはれ替ぬ姿を戀しき者共に今一度見えもし見えて後、かくもならば思ふ事あらじ。」と宣ひけるこそ罪ふかけれ。三位中將も與三兵衞も同年にて今年は廿七歳也。石童丸は十八にぞ成ける。

良有て、舍人武里を召て、「おのれはとう/\是より八島へ歸れ。都へは上るべからず。其故は、終には隱れあるまじけれ共、正しう此有樣を聞ては、やがて樣をも替んずらんと覺ゆるぞ。八島へ參て、人々に申さんずるやうはよな、『かつ御覽候し樣に、大方の世間も懶き樣に罷り成候き。萬づ無道さも數添て見え候しかば、各々にも知られ參せ候はでかく成候ぬ。西國で左中將失候ぬ。一谷で備中守うたれ候ぬ。我さへかく成候ぬれば、如何に各の便なう思召され候はんずらむと、それのみこそ心苦しう思ひまゐらせ候へ。抑唐皮と云ふ鎧、小烏と云ふ太刀は、平將軍貞盛より、當家に傳へて、維盛迄は嫡々九代に相當る。若不思議にて世も立なほらば六代に給ぶべし。』と申せ。」とこそ宣ひけれ。武里「君の如何にもならせおはしまさん樣を見參せて後こそ、八島へも參り候はめ。」と申ければ、「さらば。」とて召具せらる。瀧口入道をも善知識の爲に具せられけり。山伏修業者の樣にて高野をば出て、同國の内山東へこそ出られけれ。藤代の王子を始めとして、王子王子伏拜み參り給ふ程に、千里の濱の北、岩代王子の御前にて、狩裝束なる者七八騎が程行逢奉る。既に搦捕れなむずと思ひて、各腰の刀に手をかけて腹を切らむとし給けるが、近附けれども、過つべき氣色も無て急ぎ馬より 下深う畏て通りければ、「見知たる者にこそ、誰なるらん。」と怪くて、いとゞ足早にさし給ふ程に、是は當國の住人、湯淺權守宗重が子に湯淺七郎兵衞宗光といふ者也。郎等共「是は如何なる人にて候やらむ。」と申ければ、七郎兵衞涙をはらはらと流いて「あら事も辱なや、あれこそ小松大臣殿の御嫡子三位中將殿よ。八島より是までは何として逃させ給ひたりけるぞや。はや御樣を替させ給てけり。與三兵衞、石童丸も同く出家して、御供申たり。近う參て、見參にも入たかりつれども、憚もぞ思召すとて通りぬ。あなあはれの御有樣や。」とて、袖を顏に押あてて、さめ%\と泣ければ、郎等共も皆涙をぞながしける。

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熊野參詣

漸さし給ふ程に日數歴れば岩田河にも懸り給ひけり。此川の流を一度も渡る者は、惡業煩惱無始の罪障消なるものをと、憑敷うぞおぼしける。本宮に參りつき證誠殿の御前につい居給ひつゝ暫く法施參せて、御山の體を拜み給に、心も詞も及ばれず。大悲擁護の霞は、熊野山に たなびき、靈驗無雙の神明は、音無河に跡を垂る。一乘修行の岸には、感應の月曇もなく、六根懺悔の庭には、妄想の露も結ばず。何れも/\憑からずといふ事なし。夜深け人靜て、啓白し給ふに、父の大臣の、此御前にて、命を召して後世を扶け給へと、申されける事までも、思召出て哀也。「本地阿彌陀如來にてまします。攝取不捨の本願誤たず、淨土へ導給へ。」と申されける中にも、「故郷に留置し妻子安穩に。」と祈られけるこそ悲しけれ。浮世を 厭ひ眞の道に入給へども、妄執は猶盡ずと覺えて、哀なりし事共也。

明ぬれば、本宮より舟に乘り、新宮へぞ參られける。神藏を拜み給に、巖松高く聳えて嵐妄想の夢を破り、流水清く流て、浪塵埃の垢をすゝぐらんとも覺たり。明日の社伏拜み、佐野の松原さし過て、那智の御山に參給ふ。三重に漲り落る瀧の水、數千丈まで打上り、觀音の靈像は岩の上に顯れて、補陀落山とも謂つべし。霞のそこには法華讀誦の聲聞ゆ、靈鷲山とも申つべし。抑權現當山に跡を垂させまし/\てより以來、我朝の貴賤上下歩を運び首を傾け掌を合せて利生に關らずといふことなし。僧侶されば甍を竝、道俗袖を連ぬ。寛和の夏の比、花山法皇、十善の帝位を逃させ給ひて、九品の淨刹を行はせ給ひけん御庵室の舊跡には、昔を忍ぶと覺しくて、老木の櫻ぞ開にける。

那智籠の僧共の中に、此三位中將を能々見知奉たると覺くて、同行に語りけるは、「こゝなる修業者を如何なる人やらむと思ひたれば、小松大臣殿の御嫡子、三位中將殿にておはしけるぞや。あの殿の未だ四位少將と聞え給ひし安元の春の比、法住寺殿にて五十の御賀のありしに、父小松殿は内大臣の左大將にてまします。伯父宗盛卿は中納言右大將にて、階下に著座せられたり。其外三位中將知盛、頭中將重衡以下、一門の人々今日を晴と時めき給ひて、垣代に立給ひし中より、此三位中將殿櫻の花をかざして、青海波を舞ていでられたりしかば、露に媚たる花の御姿、風に飜る舞の袖、地を照し天も耀くばかり也。女院より關白殿を御使にて、御衣をかけられしかば、父の大臣座をたち是を給はて、右の肩にかけ、院を拜し奉り 給ふ。面目類少うぞ見えし。かたへの殿上人も、如何許羨敷う思はれけむ。内裏の女房達の中には、深山木の中の楊梅とこそ覺ゆれなど言れ給ひし人ぞかし。唯今大臣の大將待かけ給へる人とこそ見奉りしに、今日はかくやつれ果給へる御有樣、兼ては思寄ざりしをや。移れば替る世の習ひとは云ひながら、哀なる御事哉。」とて、袖を顏に推當て、さめ%\と泣ければ、幾等も並居たる那智籠りの僧共も、みなうち衣の袖をぞぬらしける。

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維盛入水

三の御山の參詣事故なく遂給ひしかば、濱宮と申王子の御前より、一葉の船に棹さして、萬里の蒼海に浮び給ふ。遙の沖に山成の島と云ふ所あり。それに船を漕寄せさせ、岸に上り、大なる松の木を削て、中將銘跡を書附けらる。「祖父太政大臣平朝臣清盛公法名淨海、親父内大臣左大將重盛公法名淨蓮、其子三位中將維盛法名淨圓、生年二十七歳、壽永三年三月廿八日、那智の奧にて入水す。」と書附けて、又舟に乘り、奧へぞ漕出給。思きりたる道なれども、今はの時に成ぬれば、心細う悲しからずといふ事なし。比は三月廿八日の事なれば、海路遙に霞渡り、哀を催す類也。唯大方の春だにも、暮行空は懶きに、況や今日を限の事なれば、さこそは心細かりけめ。沖の釣船の浪に消入る樣に覺ゆるが、さすが沈も果ぬを見給ふにも、御身の上とやおぼしけん。己が一行引連て、今はと歸る雁がねの、越路を差て啼行も、故郷へ言づけせまほしく、蘇武が胡國の恨まで、思ひ殘せるくまもなし。「さればこは何事ぞ。 猶妄執の盡ぬにこそ。」と思食返して西に向ひ手を合せ、念佛し給ふ心の中にも、「既に只今を限りとは都には爭か知べきなれば、風の便の音信も、今や/\とこそ待んずらめ。終には隱有まじければ、此世に無き者と聞いて如何ばかりかなげかんずらん。」など思ひ續け給へば、念佛を留めて、合掌を亂り、聖に向て宣ひけるは、「哀人の身に、妻子と云ふ物をば持まじかりける者哉。此世にて物を思はするのみならず、後生菩提の妨と成ける口惜さよ。唯今も思出るぞや。か樣の事を心中に殘せば、罪深からむ間、懺悔するなり。」とぞ宣ひける。聖も哀に覺えけれども、我さへ心弱くては [3]叶はじ。と思ひ、涙を押拭ひ、さらぬ體にもてなして申けるは「誠にさこそは思食され候らめ。高来も賤きも、恩愛の道は力及ばぬ事也。中にも、夫妻は一夜の枕をならぶるも、五百生の宿縁と申候へば、先世の契淺からず。生者必滅、會者定離は、浮世の習にて候也。末の露本の雫のためしあれば、縱遲速の不同はありとも、後れ先だつ御別れ、終に無てしもや候べき。彼驪山宮の秋の夕の契も、終には心を摧く端となり、甘泉殿の生前の恩も、終なきにしも非ず。松子梅生生涯恨あり。等覺十地猶生死の掟に隨ふ。縱君長生の樂みに誇り給ふ共、此御嘆は逃させ給ふべからず。縱百年の齡を保ち給ふ共、此御恨は唯同事と思召さるべし。第六天の魔王と云ふ外道は、欲界の六天を我物と領して、中にも此界の衆生の生死を離るゝ事ををしみ、或は妻となり、或は夫と成て、是を妨るに、三世の諸佛は、一切衆生を一子の如くに思召て、極樂淨土の不退の土に勸入とし給ふに、妻子と云者が無始曠劫より以來、生死に流轉するきづななるが故に、佛は重う戒しめ給ふ也。 さればとて、御心弱う思召べからず。源氏の先祖、伊豫入道頼義は、勅命に依て、奧州の夷安倍貞任宗任を責んとて十二年が間に人の頸を斬る事、一萬六千餘人。其外山野の獸、江河の鱗、其命を絶つ事、幾千萬と云ふ數を知らず。され共終焉の時、一念の菩提心を發ししに依て、往生の素懷を遂たりとこそ承れ。就中に出家の功徳莫大なれば、先世の罪障皆滅び給ひぬらむ。縱ひ人あて七寶の塔を立てん事、高さ三十三天に至る共、一日の出家の功徳には及ぶべからず。縱ひ又百千歳の間百羅漢を供養したらん功徳も一日の出家の功徳には及ぶべからずと説れたり。罪深かりし頼義も心の猛き故に、往生を遂ぐ。申さんや。君はさせる御罪業もましまさざるらんに、などか淨土へ參り給はざるべき。其上當山權現は、本地阿彌陀如來にて在ます。始め無三惡趣の願より、終り得三法忍の願に至る迄、一々の誓願衆生化度の願ならずと云ふ事なし。中にも、第十八の願には『説我得佛、十方衆生、至心信樂、欲生我國、乃至十念、若不生者、不取正覺』と説れたれば、一念十念の憑有り。唯深く信じて、努努疑をなし給ふべからず。無二の懇念を致して、若は一反、若は十反も唱へ給ふ物ならば、彌陀如來、六十萬億那由多恒河沙の御身を縮め、丈六八尺の御形にて觀音勢至、無數の聖衆、化佛菩薩、百重千重に圍繞し、伎樂歌詠して、唯今極樂の東門を出て來迎し給はむずれば、御身こそ蒼海の底に沈むと思召るゝとも、紫雲の上にのぼり給ふべし。成佛得脱して、悟を開き給なば、娑婆の故郷に立歸て、妻子を引導き給はん事『還來穢國度人天』少しも疑あるべからず。」とて、金打鳴して念佛を勸奉る。中將然るべき知識かなと思召し、忽に妄念を 翻して西に向ひ手を合せ、高聲に念佛百返計唱へつゝ、「南無」と唱る聲共に、海へぞ入給ひける。與三兵衞入道も石童丸も、同く御名を唱へつゝ、續いて海へぞ入りにける。

[3] NKBT reads かなはじとおもひ、.

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三日平氏

舍人武里も、同く續て入らんとしけるを、聖取留めければ力及ばず。「如何にうたてくも、御遺言をば違へ奉らんとするぞ。下臈こそ猶もうたてけれ。今は唯後世を弔ひ奉れ。」と泣々教訓しけれ共、後たてまつる悲しさに、後の御孝養の事も覺えず、船底に伏しまろび、をめき叫ける有樣は、昔悉達太子の檀特山に入せ給し時、舍匿舍人がこんでい駒を給はて、王宮に還りし悲も、是には過じとぞ見えし。暫は船を推廻して浮もや上給と、見けれども、三人共に深く沈んで見え給はず。いつしか經讀み念佛して、「過去聖靈一佛淨土へ。」と囘向しけるこそ哀なれ。

さる程に、夕陽西に傾むき、海上も闇く成りければ、名殘は盡せず思へども、空しき船を漕歸る。とわたる船の櫂の滴、聖が袖より傳ふ涙、わきて何れも見えざりけり。聖は高野へ歸り上る。武里は泣々八島へ參けり。御弟新三位中將殿に御文取出して參せたりければ、「あな心憂や、我たのみ奉る程は人は思ひ給はざりける口惜さよ。池大納言の樣に頼朝に心を通して、都へこそおはしたらめとて、大臣殿も二位殿も我等にも心を置給ひつるに、さては那智の沖にて、御身を投てましますごさんなれ。さらば引具して一處にも沈み給はで處々に伏さ む事こそかなしけれ。御詞にて仰られし事はなかりしか。」と問給へば「申せと候ひしは西國にて左中將殿失させ給ひ候ぬ。一谷で備中守殿討たれさせ給候ぬ。我さへかくなり候ぬれば、いかに便なう思召され候はんずらんと、其のみこそ心苦しう思參せ候へ。」唐皮小烏の事迄も細々と申たりければ、「今は我とてもながらふべしとも覺えず。」とて、袖を顏に推當て、さめざめと泣給ふぞ誠に理と覺えてあはれなる。故三位中將殿にゆゝしく似給たりければ、見る人涙を流しけり。侍共さしつどひて唯泣より外の事ぞなき。大臣殿も二位殿も、「此人は池大納言の樣に、頼朝に心を通して、都へとこそ思ひたれば、さは坐ざりけるものを。」とて、今更又嘆き悲み給ひけり。

四月一日、鎌倉の前兵衞佐頼朝正下の四位し給ふ。本は從下の五位にてありしに、忽に五階を越え給ふこそ優々しけれ。是は木曾左馬頭義仲追討の賞とぞ聞えし。

同三日、崇徳院を神と崇め奉るべしとて、昔御合戰ありし大炊御門が末に、社を立て宮遷あり。是は院の御沙汰にて、内裏には知召れずとぞ聞えし。

五月四日、池大納言頼盛關東へ下向、兵衞佐殿使者を奉て、「御方をば全く愚に思參らせ候はず。只故池殿の渡せ給ふとこそ存候へ。故尼御前の御恩をば大納言殿に報じ奉らん。」と、度々誓状を以て申されければ、一門をも引別れて落留り給ひたりけるが、「兵衞佐ばかりこそかうは思はれけれ共、自餘の源氏共は、如何あらんずらん。」と肝魂をけすより外の事なくておはしけるが、鎌倉より、「故尼御前を見奉ると存じて、疾々見參に入候はん。」と申されたりけれ ば、大納言下り給けり。

彌平兵衞宗清と云ふ侍あり。相傳專一の者なりけるが、相具してもくだらず。「如何に。」と問ひ給へば、「今度の御供はつかまつらじと存候。其故は、君こそかくて渡らせ給へども、御一門の君達の西海の波の上に漂せ給ふ御事の、心苦しう覺えて、いまだ安堵しても存候ねば、心少し落すゑて、追樣に參り候べし。」とぞ申ける。大納言にがにがしう慙かしう思ひ給て、「誠に一門を引き別れて殘留りし事をば、我身ながらいみじとは思はねども、さすが身も捨難う、命も惜ければ憖に留りにき。其上は又下らざるべきにも非ず。遙の旅に赴くに、爭か見おくらであるべき。うけず思はゞ、落留まし時はなどさはいはざりしぞ。大小事一向汝にこそ言ひ合せしか。」と宣へば、宗清居直り畏て申けるは、「高きも賤きも、人の身に命程惜き物や候。又世をば捨つれども身をば捨てずと申候めり。御留を惡とには候はず、兵衞佐も、かひなき命を助けられ參せて候へばこそ、今日はかゝる幸にもあひ候へ。流罪せられ候し時は故尼御前の仰にて、篠原の宿まで打送て候ひし事などいまに忘ずと承り候へば、定て御供に罷下りて候はば、引出物饗應などもし候はんずらむ。其に附けても心憂かるべう候。西國に渡らせ給ふ君達、もしは侍共の還聞かん事返々慚しう候へば、まげて今度計は罷留るべう候。君は落留せ給て、かくてわたらせ給ふ程ではなどか御下りなうて候べき。遙の旅に趣かせ給ふ事は、誠に覺束なう思參せ候へども、敵をも攻に御下り候はゞ、先一陣にこそ候べけれども、是はまゐらずとも、更に御事闕候まじ。兵衞佐尋申され候はば、相勞る事あてと仰候べ し。」と申ければ心ある侍共は、是を聞いて皆涙をぞ流しける。大納言もさすが慚しうは思はれけれども、されば留るべきにもあらねば軈て立ち給ひぬ。

同十六日、鎌倉へ下つき給。兵衞佐急ぎ見參して先づ「宗清は御供して候か。」と申されければ、「折節勞る事候て下り候はず。」と宣へば、「如何に、何を勞候けるやらん。意趣を存候にこそ。昔宗清が許に候ひしに、事に觸て有がたうわたり候し事今に忘れ候はねば、定めて御供に罷下候はむずらん。疾く見參せばやなど戀しう存て候に、恨めしうも下候はぬ者哉。」とて、下文あまた成設け、馬鞍物具以下樣々の物ども給ばんとせられければ、然るべき大名ども、我も我もと引出物ども用意したりけるに、下らざりければ、上下本意なき事に思ひてぞ有ける。

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