六月九日、池大納言關東より上洛し給ふ。兵衞佐「暫くかくておはしませかし。」と申されけれども「都に覺束なく思ふらん。」とて、急ぎ上り給へば、庄園私領、一所も相違有べからず、竝に大納言に成し返さるべき由、法皇へ申されけり。鞍置馬三十疋、裸馬三十疋、長持三十枝に、羽、金、染物、卷絹風情の物を入て奉り給ふ。兵衞佐か樣に持成給へば、大名小名我も/\と引出物を奉る。馬だにも三百疋に及べり。命生給ふのみならず、徳付てぞ歸上られける。
同十八日、肥後守定能が伯父、平田入道定次を大將として、伊賀伊勢兩國の住人等、近江國へ打出たりければ、源氏末葉等發向して、合戰を致す。兩國の住人等、一人も殘らず打落さ る。平家重代相傳の家人にて、昔のよしみを忘ぬ事は哀なれども、思たつこそおほけなけれ。三日平氏とは是也。
さる程に、小松三位中將維盛卿の北方は、風のたよりの事つても、斷て久しく成ければ、「何と成ぬる事やらむ。」と心苦しうぞ思はれける。「月に一度などは必音信るゝ物を。」と待給へども、春過ぎ夏もたけぬ。「三位中將今は八島にもおはせぬものを。」と申す人ありと聞き給ひて、餘りの覺束なさに、とかくして八島へ人を奉り給ひたりければ、いそぎも立歸らず、夏過秋にもなりぬ。七月の末に彼使歸り來れり。北方、「さて如何にや/\。」と問給へば、「過にし三月十五日の曉八島を御出候て、高野へ參せ給ひて候けるが、高野にて御ぐしおろし、それより熊野へ參らせおはします。後世の事をよく/\申させ候ひ、那智の奧にて、御身を投させ給ひて候とこそ、御供申たりける舍人武里は語り申つれ。」と申ければ、北方、「さればこそ怪しと思ひつるものを。」とて引かついでぞ伏給。若君姫君も、聲々に泣き悲み給ひけり。若君の御乳母の女房、泣々申けるは、「是は今更驚かせ給ふべからず。日來より思食し設けたる御事也。本三位中將殿の樣に、生捕にせられて、都へかへらせ給ひたらば、如何ばかり心憂かるべきに、高野にて御ぐしおろし熊野へ參らせ給ひ、後世の事よく/\申させおはしまし、臨終正念にて失せさせ給ひける御事、歎の中の御悦也。されば御心安き事にこそ思しめすべけれ。いまは如何なる岩木の間にても少なき人々を生し立まゐらせんと思食せ。」とやう/\になぐさめ申けれども、思召しのびてながらふべしとも見え給はず。軈て樣を替へ、かたの 如くの佛事をいとなみ後世をぞ弔ひける。
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藤戸
是を鎌倉兵衞佐返り聞給ひて、「あはれ隔なう打向ておはしたらば、命ばかりは助奉てまし。小松内府の事は愚に思ひ奉らず。其故は、故池の禪尼の使として、頼朝を流罪に申宥られしは、偏に彼内府の芳恩也。其恩爭か忘るべきなれば、子息達は疎に思はず。まして出家などせられなん上は仔細にや及べき。」とぞ宣ひける。
さる程に、平家は讃岐の八島へ歸り給ひて後、「東國より荒手の軍兵數萬騎都に著て、攻下。」とも聞ゆ。「鎭西より、臼杵、戸次、松浦黨、同心して押渡る。」とも申あへり。彼を聞き、是を聞くにも、唯耳を驚し、肝魂を消より外の事ぞなき。今度一谷にて、一門の人々のこりすくなく討たれ給ひ、むねとの侍共半過ぎて滅ぬ。今は力盡果てて、阿波民部大夫重能が兄弟、四國の者共語ひて、「さりとも。」と申けるをぞ、高き山深き海とも頼み給ひける。女房達はさしつどひて只泣より外の事ぞなき。かくて七月二十五日にも成ぬ。「去年の今日は都を出しぞかし、程なく廻り來にけり。」とて淺ましうあわたゞしかりし事共宣ひ出して泣ぬ笑ひぬぞし給ひける。
同二十八日、新帝の御即位あり。内侍所神璽寶劔もなくして、御即位の例、神武天皇より以降八十二代、是始とぞ承る。八月六日、除目おこなはれて蒲冠者範頼、參河守に成る。九郎 冠者義經、左衞門尉に成さる。則使の宣旨を蒙て、九郎判官とぞ申ける。
去程に荻の上風もやう/\身にしみ、萩の下露もいよ/\滋く、恨る蟲の聲々に稻葉打そよぎ、木葉かつ散る氣色物思はざらむだにも深行く秋の旅の空は悲かるべし。まして平家の人々の心の中さこそはおはしけめと推量れてあはれ也。昔は九重の上にて、春の花を玩び、今は八島の浦にして、秋の月に悲む。凡さやけき月を詠じても、都の今夜如何なるらむと想像り、心を澄し涙を流してぞ明し暮し給ひける。左馬頭行盛かうぞ思ひつゞけ給ふ。
君すめばこれも雲井の月なれど、猶こひしきは都なりけり。
同九月十二日、參河守範頼、平家追討の爲にとて、西國へ發向す。相伴ふ人々、足利藏人義兼、加賀美小次郎長清、北條小四郎義時、齋院次官親義、侍大將には、土肥次郎實平、子息彌太郎遠平、三浦介義澄、子息平六義村、畠山庄司次郎重忠、同長野三郎重清、稻毛三郎重成、榛谷四郎重朝、同五郎行重、小山小四郎朝政、同長沼五郎宗政、土屋三郎宗遠、佐々木三郎盛綱、八田四郎武者朝家、安西三郎秋益、大胡三郎實秀、天野藤内遠景、比氣藤内朝宗、同藤四郎義員、中條藤次家長、一品房章玄、土佐坊正俊、此等を初として、都合其勢三萬餘騎、都を立て播磨の室にぞ著にける。
平家の方には大將軍小松新三位中將資盛、同少將有盛、丹後侍從忠房、侍大將には飛騨三郎左衞門景經、越中次郎兵衞盛次、上總五郎兵衞忠光、惡七兵衞景清を先として、五百餘艘の兵船に取乘て、備前の小島に著と聞えしかば、源氏室を立て、是も備前國、西河尻、藤戸に 陣をぞ取たりける。
源平の陣の交ひ、海の面五町計を隔たり。舟無くしては輙う渡すべき樣無かりければ、源氏の大勢向の山に宿していたづらに日數を送る。平家の方よりはやりをの若者共小舟に乘て漕ぎいださせ、扇を上て、「こゝ渡せ。」とぞ招きける。源氏「安からぬ事也。如何せん。」と云ふ處に、同廿五日の夜に入て佐々木三郎盛綱浦の男を一人語て、白い小袖、大口、白鞘卷など取せ、すかしおほせて、「此海に馬にて渡しぬべき所やある。」と問ひければ、男申けるは、「浦の者共多う候へども、案内知たるは稀に候。此男こそよく存知して候へ。譬へば川の瀬の樣なる所の候が、月頭には東に候、月尻には西に候。兩方の瀬の交、海の面、十町計は候らん。此瀬は御馬にては、輙う渡させ給ふべし。」と申ければ、佐々木斜ならず悦で我が家子郎等にも知せず、彼男と只二人紛れ出て、裸になり、件の瀬の樣なる所を渡て見るに、げにも痛く深うはなかりけり。ひざ腰肩にたつ所も有り、鬢の濡る所も有り。深き所は游いで、淺き所に游ぎつく。男申けるは、「是より南は、北より遙に淺う候。敵矢先を汰へて、待ところに、裸にては叶はせ給ふまじ。是より歸らせ給へ。」と申ければ、佐々木「げにも。」とて歸りけるが、「下臈は、どこともなき者なれば、又人に語はれて、案内をも教へむずらん、我計こそ知らめ。」と思ひて、彼男を刺殺し、首掻切て棄てけり。
同二十六日の辰刻ばかり、平家又小船に乘て漕出させ扇を上て「源氏爰を渡せ。」とぞ招きける。佐々木案内はかねて知たり。滋目結の直垂に黒絲威の鎧著て、白蘆毛なる馬に乘り、家 子郎等七騎颯と打入て渡しけり。大將軍參河守、「あれ制せよ、留めよ。」と宣へば、土肥次郎實平、鞭鐙を合せて追付て、「如何に佐々木殿、物の著て狂ひ給ふか。大將軍の許されもなきに、狼藉也留まり給へ。」といひけれども、耳にも聞入れず、渡しければ、土肥次郎も制しかねて、やがて連てぞ渡しける。馬のくさわき胸懸づくし、太腹につく所も有り、鞍壺越す所も有り、深き所は游がせ淺き所に打あがる。大將軍參河守是を見て、「佐々木に謀られにけり。あさかりけるぞや。渡せや、渡せ。」と下知せられければ、三萬餘騎の大勢皆打入て渡しけり。平家の方には「あはや。」とて、船共押浮べ矢先を汰て、指詰引詰散々に射る。源氏の兵共、是を事共せず、甲のしころを傾け、平家の舟に乘移り/\をめき叫んで責戰ふ。源平亂れ合ひ、或は舟踏みしづめて死ぬる者もあり。或は引返されて遽ふためく者もあり。一日戰暮して夜に入ければ、平家の舟は沖に浮ぶ。源氏は小島に打上て、人馬の息をぞ休めける。あけければ平家は八島へ漕退く。源氏は心は猛う思へども、舟なければ、追て責め戰はず。「昔より今にいたるまで馬にて河を渡す兵はありといへども、馬にて海を渡す事、天竺震旦は知らず我朝には稀代のためし也。」とて、備前の小島をぞ佐々木に給はりける鎌倉殿の御教書にも載られたり。
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大嘗會沙汰
同二十七日、都には九郎判官義經、檢非違使五位尉になされて、九郎大夫判官とぞ申ける。 さる程に十月にも成ぬ。八島には浦吹く風も烈しく、磯打つ波も高かりければ、兵も攻來らず、商客の行通ふも稀なれば、都の傳も聞まほしく、何しか空かき曇り、霰打散り、いとゞ消入る心地ぞし給ひける。都には大嘗會あるべしとて御禊の行幸有けり。内辨は徳大寺左大將實定公、其比内大臣にておはしけるが勤められけり。おとゝし先帝の御禊の行幸には、平家の内大臣宗盛公、節下にておはせしが節下の幄屋につき、前に龍の旗立て居給ひたりし景氣、冠際、袖のかゝり、表袴のすそ迄も、殊に勝れて見え給へり。其外一門の人々三位中將知盛、頭中將重衡以下近衞司、御綱に候はれしには、又立竝ぶ人も無しぞかし。今日は九郎判官義經、先陣に供奉す。木曾などには似ず、京慣てはありしか共、平家の中のえりくづよりも猶劣れり。
同十一月十八日大嘗會遂行はる。去ぬる治承養和の比より、諸國七道の人民百姓等、源氏の爲に惱され平家の爲に亡され、家かまどを棄て山林にまじはり、春は東作の思を忘れ、秋は西收の營にも及ばず。如何にしてか樣の大禮も行はるべきなれ共、さてしもあるべき事ならねば、形の如くぞ遂られける。
參河守範頼、やがて續いて責給はゞ、平家は亡べかりしに、室、高砂に休居て、遊君遊女共召聚め、遊び戯れてのみ月日を送られけり。東國の大名小名多しといへども、大將軍の下知に從ふ事なれば力及ばず。唯國の費え民の煩のみ有て、今年も既に暮にけり。
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平家物語卷第十一
逆櫓
元歴二年正月十日、九郎大夫判官義經院御所へ參て、大藏卿泰經朝臣を以て奏聞せられけるは、「平家は神明にも放たれ奉り、君にもすてられ參せて、帝都を出で波の上に漂ふ落人となれり。然るを此三箇年が間、責落さずして多くの國々を塞げらるゝ事口惜候へば、今度義經に於ては鬼界、高麗、天竺、震旦までも平家を責落ざらん限りは王城へ歸るべからず。」と憑し氣に申されければ、法皇大きに御感有て、「相構へて夜を日に繼いで、勝負を決すべし。」と仰下さる。判官宿所に歸て東國の軍兵どもに宣ひけるは、「義經鎌倉殿の御代官として院宣を承はて、平家を追討すべし。陸は駒の足の及ばむを限り、海は櫓櫂の屆がん程責行べし。少しもふた心あらむ人々は、とう/\これより歸らるべし。」とぞ宣ける。
さる程に八島には、隙ゆく駒の足疾くして、正月も立ち二月にも成りぬ。春の草暮て、秋の風に驚き、秋の風やんで、春の草になれり。送り迎へて、既に三年に成にけり。「都には東國より荒手の軍兵、數萬騎著て責下る。」とも聞ゆ。「鎭西より、臼杵、戸次、松浦黨同心して、押渡る。」とも申あへり。彼れを聞き是れをきくにも、唯耳を驚し、肝魂を消より外の事ぞ なき。女房達は女院、二位殿をはじめまゐらせて差つどひて、「又如何なる浮目をか見んずらん。如何なる憂事をか聞かんずらん。」と歎きあひ悲みあへり。新中納言知盛卿宣ひけるは、「東國北國の者共も隨分重恩を蒙たりしかども、恩を忘れ、契を變じて、頼朝、義仲等に隨ひき。まして西國とてもさこそはあらむずらめと思ひしかば、都にて、いかんにもならんと思ひし者を。我身一つの事ならねば、心弱うあくがれ出でて、今日はかゝるうき目を見る口惜さよ。」とぞ宣ひける。誠に理と覺て哀なり。
同二月三日九郎大夫判官義經、都を立て、攝津國渡邊より舟ぞろへして、八島へ既に寄んとす。參河守範頼も同日に都を立て、攝津國神崎より兵船を汰へて、山陽道へ趣かんとす。
同十三日伊勢大神宮、石清水、賀茂、春日へ官幣使を立らる。「主上竝に三種の神器事故なう返入れさせ給へ。」と神祇官の官人、諸々の社司、本宮本社にて祈誓申すべき由仰下さる。
同十六日渡邊、神崎、兩所にて此日ごろ汰ける船ども、纜既に解んとす。折節北風木を折て烈う吹ければ、大浪に船共散々に打損ぜられて、出すに及ばず。修理の爲に、其日は留る。渡邊には大名小名寄合ひて、「抑船軍の樣は未調練せず、如何あるべき。」と評定す。梶原申けるは、「今度の合戰には船に逆櫓を立候はばや。」判官、「逆櫓とはなんぞ。」梶原、「馬は駈んと思へば、弓手へも馬手へも廻し易し。船はきと推もどすが大事候、艫舳に櫓を立違へ、わい楫を入て、どなたへも安う推す樣にし候ばや。」と申ければ、判官宣ひけるは、「軍と云者は一引も引じと思ふだにもあはひ惡ければ、引は常の習なり。本より逃まうけしてはなんのよかる べきぞ。先づ門出の惡さよ。逆櫓を立うとも返樣櫓を立うとも、殿原の舟には百丁千丁も立給へ。義經は本の櫓で候はん。」と宣へば、梶原申けるは、「好き大將軍と申は、駈べき所をかけ、引くべき所を引いて、身を全し敵を亡すを以て、よき大將軍とはする候。片趣なるをば、猪武者とて、好きにはせず。」と申せば、判官、「猪鹿は知らず、軍は唯平攻に攻て、勝たるぞ心ちはよき。」と宣へば、侍共梶原に恐れて高くは笑はねども、目引き鼻引きさゞめきあへり。判官と梶原と、已にどし軍あるべしとさざめきあへり。
漸々日暮れ夜に入ければ、判官宣ひけるは、「船の修理して新しうなたるに、各一種一瓶して祝給へ殿原。」とて、營む樣で船に物具いれ兵粮米積、馬共立させて、「疾々仕れ。」と宣ひければ、水主梶取申けるは、「此風は追手にて候へども、普通に過たる風で候。沖はさぞ吹候らん。爭か仕候べき。」と申せば、判官大に怒て宣ひけるは、「野山の末にてし、海河のそこにおぼれてうするも皆これせんぜの宿業也。海上にいで浮うだる時風強きとていかゞする。向ひ風に渡らんと言ばこそ、僻事ならめ。順風なるが、少し過たればとて、是程の御大事に、爭か渡らじとは申ぞ。船仕らずば一々にしやつ原射殺せ。」と下知せらる。奧州の佐藤三郎兵衞嗣信、伊勢三郎義盛、片手矢はげ進み出で、「何條子細を申ぞ。御定であるに、とく/\つかまつれ。舟仕つらずば一々に射殺さんずるぞ。」といひければ、水主梶取是を聞て、「射殺れんも同事、風強くば、只馳死に死ねや者共。」とて、二百餘艘の舟の中に、唯五艘出てぞ走りける。殘の船は風に恐るるか梶原に怖かして、皆留まりぬ。判官宣ひけるは、「人の出ねばとて留ま るべきにあらず、唯の時は敵も用心すらむ。かゝる大風大波に思も寄らぬ時におしよせてこそ思ふ敵を討ずれ。」とぞ宣ひける。五艘の船と申すは、先づ判官の船、田代の冠者、後藤兵衞父子、金子兄弟、淀江内忠俊とて、船奉行の乘たる船なり。判官宣ひけるは、「各の船に篝な燃そ。義經が船を本船として、艫舳の篝を守れや。火數多く見えば、敵も恐れて用心してんず。」とて終夜走る程に、三日に渡る所を、唯三時計に渡りけり。二月十六日の丑刻に、渡邊福島を出て、明る卯の時に、阿波の地へこそ吹著たれ。
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付大坂越">勝浦付大坂越
夜既に明ければ、なぎさに赤旗少々閃いたり。判官、是を見て、「あはや我等が祝設けはしたりけるは。舟平付につけ、踏傾けて馬下さんとせば、敵の的に成て射られなんず。なぎさにつかぬ先に馬ども追下/\船に引つけ/\游せよ。馬の足立、鞍爪ひたるほどに成ばひたひたと乘て、駈よ者共。」とぞ下知せられける。五艘の船に、物具入、兵粮米積んだりければ、馬唯五十餘疋ぞ立たりける。なぎさ近くなりしかば、ひた/\と打乘て、喚てかくれば、渚に百騎許有ける者共、暫もこらへず、二町計颯と引てぞのきにける。判官汀に打立て、馬の息休めておはしけるが、伊勢三郎義盛をめして、「あの勢の中に、然るべい者やある。一人召て參れ。尋ぬべき事あり。」と宣へば、義盛畏て承り、唯一騎かたきの中へ馳入り何とかいひたりけん、年四十計なる男の、黒皮威の鎧著たるを、甲を脱せ、弓の弦弛せて、具して參 りたり。判官、「何者ぞ。」と宣へば、「當國の住人坂西の近藤六親家」と申す。「何家にてもあらばあれ、物具な脱せそ。やがて八島の案内者に具せんずるぞ。其男に目放つな。迯て行かば射殺せ、者共。」とぞ下知せられける。「爰をば何くといふぞ。」と問はれければ「かつ浦と申候。」判官笑て、「色代な。」と宣へば、「一定かつ浦候。下臈の申やすいに付て、かつらとは申候へども、文字には勝浦と書て候。」と申す。判官、「是聞給へ、殿原。軍しに向ふ義經が、勝浦に著く目出度さよ。此邊に、平家の後矢射つべい者はないか。」「阿波民部重能が弟、櫻間介能遠とて候。」「いざさらば蹴散して通らん。」とて、近藤六が勢百騎許が中より、三十騎許すぐり出いて我勢にぞ具せられける。能遠が城に押寄て見れば、三方は沼、一方は堀。堀の方より押寄て、閧をどと作る。城の中の兵共、矢先をそろへて指つめ引つめ散々に射る。源氏の兵是を事ともせず。甲の錣を傾けをめきさけんで責入りければ、櫻間介叶はじとや思ひけむ。家子郎等に防矢射させ、我身は究竟の馬を持たりければ、打乘て稀有にして落にけり。判官防矢射ける兵共二十餘人が頸切懸て軍神に祭り、悦の鬨を作り、「門出よし。」とぞ宣ひける。判官近藤六親家を召て、「八島には平家の勢如何程有ぞ。」「千騎にはよも過候はじ。」「など少いぞ。」「かくのごとく四國の浦々島々に五十騎百騎づつ指置れて候。其上阿波民部重能が嫡子、田内左衞門教能は、河野四郎が、召せども參ぬを責めんとて、三千餘騎で伊豫へ越えて候。」「さてはよい隙ごさんなれ。是より八島へはいか程の道ぞ。」「二日路で候。」「さらば敵の聞ぬ先に寄よや。」とてかけ足に成つゝ、歩せつ、馳つ、引へつ、阿波と讃岐との境なる大坂越と いふ山を終夜こそ越られけれ。
夜半許に、立文持たる男に行連て物語し給。此男夜の事ではあり、敵とは夢にも知らず。御方の兵共の八島へ參ると思ひけるやらん。打解て細々と物語をぞしける。「其文はいづくぞ。」「八島の大臣殿へ參り候。」「誰かまゐらせらるゝぞ。」「京より女房の參らせられ候。」「何事なるらん。」と宣へば、「別の事はよも候はじ。源氏既に淀河尻に出向うて候へば、それをこそ告げ申され候らめ。」「げにさぞ有らん。是も八島へ參るが、いまだ案内を知らぬに、じんじよせよ。」と宣へば、「是は度々參て候間、案内は存知して候。御供つかまつらん。」と申せば判官、「其文取れ。」とて、文ばいとらせ「しやつからめよ。罪作に頸なきそ。」とて、山中の木に縛附てぞ通られける。さて文を明て見給へば、げにも女房の文とおぼしくて、「九郎はすゝどき男士にて侍ふなれば、大風大波をも嫌はず寄せ侍らんと覺えさぶらふ。御勢ども散さで用心せさせ給へ。」とぞ書かれたる。判官、「是は義經に天の與へ給ふ文也。鎌倉殿に見せ申さん。」とて深う納て置れけり。
明る十八日の寅刻に、讃岐國ひけ田と云ふ所に打下りて、人馬の息をぞ休めける。其より丹生屋、白鳥、打過/\、八島の城へ寄給ふ。又近藤六親家を召て、「八島の館の樣は、如何に。」と問ひ給へば、「知召されねばこそ候へ、無下に淺間に候。潮の干て候時は、陸と島との間は、馬の腹もつかり候はず。」と申せば、「さらばやがて寄よや。」とて、高松の在所に火を懸、八島の城へ寄せ給ふ。
八島には、阿波民部重能が嫡子、田内左衞門教能、河野四郎が、召せども參らぬを責んとて、三千餘騎で伊豫へ越えたりけるが河野をば討漏して家子郎等百五十餘人が首きて、八島の内裏へ參せたり。「内裏にて賊首の實檢せられん事然るべからず。」とて、大臣殿の宿所にて實檢せらる。百五十六人が首也。頸ども實檢しける處に、者共、「高松の方に火出來たり。」とてひしめきあへり。「晝で候へば手過ではよも候はじ。敵の寄せて火を懸たると覺候。定めて大勢でぞ候らん。取籠られては叶ふまじ。とく/\召され候へ。」とて、惣門の前のなぎさに船共つけならべたりければ、我も/\と乘給ふ。御所の御船には、女院北政所二位殿以下の女房達召されけり。大臣殿父子は、一つ船に乘給ふ。其外の人々思ひ/\に取乘て、或は一町許、或は七八段、五六段など漕出したる處に、源氏の兵共、直甲七八十騎、惣門の前のなぎさにつと出來たり。潮干がたの折節潮干る盛なれば、馬の烏頭、太腹に立つ所もあり。其より淺き所も有り。け上る潮の霞と共にしぐらうたる中より、白旗さと差上たれば、平家は運盡て、大勢とこそ見てんげれ。判官敵に小勢と見せじとて、五六騎七八騎十騎許、打群/\出來たり。
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嗣信 最期
九郎大夫判官其日の裝束には、赤地の錦の直垂に、紫裾濃の鎧著て、金作の太刀を帶き、切斑の矢負ひ、滋籐の弓の眞中取て、船の方を睨へ、大音聲を上て、「一院の御使、檢非違使五 位尉源義經」と名乘る。其次に伊豆國住人田代冠者信綱、武藏國住人金子十郎家忠、同與一親範、伊勢三郎義盛とぞ名乘たる。續いて名乘るは、後藤兵衞實基、子息新兵衞基清、奧州佐藤三郎兵衞嗣信、同四郎兵衞忠信、江田源三、熊井太郎、武藏坊辨慶と聲々に名乘てはせ來る。平家の方には、「あれ射取れや。」とて、或は遠矢に射る船も有り、或は差矢に射船も有り。源氏の兵共、弓手になしては射て通り、馬手になしては射て通り、上げ置いたる船の陰を、馬休め所にして、 [1]をめき叫んて責戰ふ。
後藤兵衞實基は、古兵にて有ければ、軍をばせず、先内裏に亂入、手々に火を放て、片時の煙と燒拂ふ。大臣殿、侍どもを召て、「抑源氏が勢如何程あるぞ。」「當時僅に七八十騎こそ候らめ。」と申。「あな心憂や。髮の筋を一筋づゝ分けて取るとも、此勢には足まじかりけるものを。中に取籠討ずして、あわてゝ船に乘て、内裏を燒せつる事こそ安からね。能登殿はおはせぬか、陸へ上て一軍し給へ。」と宣へば、「承て候ぬ。」とて、越中次郎兵衞盛次を相具して小船に取乘て燒拂ひたる惣門のなぎさに陣を取る。判官八十餘騎、矢比に寄て引へたり。越中次郎兵衞盛次舟の面に立出で大音聲を揚て申けるは、「名乘れつるとは聞つれども、海上遙に隔たて其假名實名分明ならず。今日の源氏の大將軍は誰人でおはしますぞ。」伊勢三郎義盛歩ませ出て申けるは、「事も愚かや、清和天皇十代の御末、鎌倉殿の御弟九郎大夫判官殿ぞかし。」盛次、「さる事あり。一年平治の合戰に、父討れて孤にて有しが、鞍馬の兒にて、後には金商人の所從になり、粮料背負て奧州へ落惑ひし小冠者が事か。」とぞ申したる。義盛、「舌の やはらかなる儘に、君の御事な申そ。さいふわ人どもは、砥浪山の軍に追落されて辛き命生て、北陸道にさまよひ、乞食して泣/\京へ上りたりし者か。」とぞ申ける。盛次重て申けるは、「君の御恩に飽滿て、何んの不足にてか、乞食をばすべき。さ言ふわどのこそ、伊勢の鈴鹿山にて山だちして、妻子をも養ひ、我身も過けるとは聞しか。」といひければ、金子十郎家忠「無益の殿原の雜言かな。我も人も虚言いひつけて雜言せんには誰か劣るべき。去年の春、一谷にて、武藏相模の若殿原の手なみの程は見てん物を。」と申所に弟の與一傍に有けるが、言せも果ず、十二束二ぶせよひいてひやうと放つ。盛次が鎧の胸板に、裏掻く程にぞ立たりける。其後は互に詞戰はとまりにけり。
能登守教經「船軍はやうある物ぞ。」とて鎧直垂は著給はず、唐卷染の小袖に、唐綾威の鎧著て、いか物作の大太刀帶き、二十四差たるたかうすべうの矢負ひ、滋籐の弓を持給へり。王城一の強弓精兵にておはせしかば、矢先に廻る者、射透さずと云ふ事なし。中にも九郎大夫判官を射倒さむとねらはれけれども、源氏の方にも心得て、奧州の佐藤三郎兵衞嗣信、同四郎兵衞忠信、伊勢三郎義盛、源八廣綱、江田源三、熊井太郎、武藏坊辨慶など云ふ一人當千の兵共、吾も吾もと馬の首を立竝て大將軍の矢面に塞りければ、力及び給はず。「矢面の雜人原そこのき給へ。」とて、差詰引詰散々に射給へば、矢場に鎧武者十餘騎計射落さる。中にも眞先に進んだる奧州の佐藤三郎兵衞が弓手の肩を馬手の脇へつと射拔れて、暫もたまらず、馬より、倒にどうと落つ。能登殿の童に、菊王と云ふ大力の剛の者あり、萌黄威の腹卷に、 三枚甲の緒をしめて、白柄の長刀の鞘を外し、三郎兵衞が首を取らんと、走りかゝる。佐藤四郎兵衞兄が頸を取せじと、よ引てひやうと射る。童が腹卷の引合せをあなたへつと射ぬかれて、犬居に倒れぬ。能登守是を見て、急て舟より飛んで下り、左の手に弓を持ながら、右の手で菊王丸を提て、船へからりと投られたれば、敵に頸は取られねども、痛手なれば死にけり。是は、本は越前の三位の童なりしが、三位討たれて後、弟の能登守に仕はれけり。生年十八歳にぞなりける。此童を討せて、餘に哀に思はれければ、其後は軍もし給はず。
判官は佐藤三郎兵衞を陣の後へ舁入れさせ、馬より下り、手をとらへて、「三郎兵衞如何覺ゆる。」と宣へば、息の下に申けるは、「今はかうと存じ候。」「思置事はなきか。」と宣へば、「何事をか思置候べき。君の御世に渡らせ給はんを見參せで、死に候はん事こそ口惜う覺候へ。さ候はでは、弓箭取ものの、敵の矢にあたり死なん事、本より期する所で候也。就中に源平の御合戰に、奧州の佐藤三郎兵衞嗣信と云ける者、讃岐國八島の磯にて、主の御命に替り奉て討れけりと、末代の物語に申さん事こそ弓矢取る身は今生の面目、冥途の思出にて候へ。」と申もあへず、唯弱りに弱りにければ、判官涙をはら/\と流し、「此邊に貴き僧やある。」とて、尋出し、「手負の唯今落入に、一日經書て弔へ。」とて、黒き馬の太う逞いに、金覆輪の鞍置て、彼僧に給にけり。判官五位尉になられし時、五位になして、大夫黒と呼れし馬也。一谷の鵯越をも此馬にてぞ落れたりける。弟の四郎兵衞を始として、是を見る兵共、皆涙をながし、「此君の御爲に命を失はん事、全く露塵程も、惜からず。」とぞ申ける。
[1] Nihon Koten Bungaku Taikei (Tokyo: Iwanami Shoten, 1957, vol. 33; hereafter cited as NKBT) reads をめきさけんでせめたゝかふ。.
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那須與一
さる程に、阿波讃岐に平家を背て、源氏を待ける者共、あそこの嶺、こゝの洞より、十四五騎廿騎、うちつれ/\參りければ、判官程なく三百餘騎にぞ成にける。「今日は日暮ぬ、勝負を決すべからず。」とて、引退く處に、沖の方より尋常に飾たる小船一艘、汀へ向ひて漕よせけり。磯へ七八段ばかりに成しかば、船を横樣になす。あれは如何にと見る程に、船の中より、年の齡十八九ばかりなる女房の誠に優に美しきが、柳の五衣に、紅の袴著て皆紅の扇の日出したるを、船のせがひに挾み立て、陸へ向てぞ招いたる。判官後藤兵衞實基を召て、「あれは如何に。」と宣へば、「射よとにこそ候めれ。但し大將軍の矢面に進んで、傾城を御覽ぜば手だれにねらうて、射落せとの計ごとと覺え候。左も候へ。扇をば射させらるべうや候らん。」と申。「射つべき仁は御方に誰かある。」と宣へば、「上手ども幾等も候中に、下野國の十人、那須太郎資高が子に與一宗高こそ、小兵で候へども、手ききて候へ。」「證據はいかに。」と宣へば、「かけ鳥などを爭うて、三に二は必射落す者で候。」「さらば召せ。」とて召されたり。與一其比は二十許の男士也。かちに赤地の錦を以て、おほくびはた袖色へたる直垂に、萌黄威の鎧著て、足白の太刀を帶き、切斑の矢の其日の軍に射て少々殘たりけるを首高に負ひ成し薄切斑に鷹の羽作交たるぬた目の鏑をぞ指副たる。滋籐の弓脇に挾み、甲をば脱ぎ高紐に懸け、判官の前に畏る。「如何に宗高、あの扇の眞中射て平家に見物せさせよかし。」與一畏て申ける は、「射おほせ候はん事不定に候。射損じ候なば、ながき御方の御瑕にて候べし。一定仕らんずる仁に仰附らるべうや候らん。」と申。判官大に怒て、「鎌倉を立て、西國へ趣かん殿原は、義經が命を背べからず。少も仔細を存ぜん人は、とう/\是より歸るべし」とぞ宣ひける。與一重て辭せば惡かりなんとや思ひけん、「外づれんは知候はず、御諚で候へば仕てこそ見候はめ。」とて、御前を罷立、黒き馬の太う逞に、小房の鞦かけ、まろほや摺たる鞍置てぞ乘たりける。弓取直し、手綱かいくり、汀へ向いて歩ませければ、御方の兵共後を遙に見送て、「此若者一定仕り候ぬと覺候。」と申ければ、判官も憑し氣にぞ見給ひける。矢比少し遠かりければ、海へ一段ばかり打入たれども、猶扇の交ひ、七段ばかりは有るらんとこそ見えたりけれ。比は二月十八日の酉の刻ばかりの事なるに、折節北風烈くて、磯打浪も高かりけり。船はゆりあげゆり居ゑたゞよへば、扇も串に定らずひらめいたり。沖には平家船を一面に竝べて見物す。陸には源氏轡を竝べて、是を見る。何れも/\晴ならずと云ふ事ぞなき。與一目を塞いで、「南無八幡大菩薩、別しては我國の神明、日光權現宇都宮、那須湯泉大明神、願は、あの扇の眞中射させて給せ給へ。是を射損ずる物ならば、弓伐折自害して、人に二度面を向ふべからず。今一度本國へむかへんと思召さば、此矢はづさせ給ふな。」と、心の中に祈念して、目を見開いたれば、風も少し吹弱り、扇もいよげにぞ成たりける。與一鏑を取て番ひ、よ引いてひやうと放つ。小兵と云ふぢやう十二束三伏、弓は強し、浦響く程長鳴して、あやまたず扇の要際一寸許置いて、ひふつとぞ射切たる。鏑は海へ入ければ、扇は空へぞ擧 りける。暫は虚空に閃めきけるが、春風に一もみ二もみもまれて、海へさとぞ散たりける。夕日の輝いたるに皆紅の扇の日出したるが白波の上に漂ひ、浮ぬ沈ぬゆられければ、沖には平家ふなばたを扣て感じたり。陸には源氏箙を扣てどよめきけり。
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弓流
餘りの面白さに、感に堪ざるにやと覺しくて船の中より、年五十許なる男の、黒革威の鎧著て白柄の長刀持たるが、扇立たりける所に立てまひすましたり。伊勢三郎義盛、與一が後へ歩せ寄て、「御諚ぞ、仕れ。」と云ひければ、今度は中差取て打くはせ、よ引いてしや頸の骨をひやうふつと射て船底へまさかさまに射倒す。平家の方には音もせず、源氏の方には又箙を扣いて、どよめきけり。「あ射たり。」といふ人も有り、又「情なし。」と云ふ者もあり。平家是を本意なしとや思ひけん、楯ついて一人、弓持て一人、長刀持て一人、武者三人なぎさにあがり、楯を衝て「敵寄せよ。」とぞ招いたる。判官、「あれ、馬強ならん若黨共、馳寄せて蹴散せ。」と宣へば、武藏國の住人、三穗屋四郎、同藤七、同十郎、上野國の住人、丹生の四郎、信濃國の住人、木曾の中次、五騎つれて、をめいて駈く。楯の影より、塗箆に、黒ほろ作だる大の矢をもて、眞先に進だる三穗屋の十郎が馬の左の 胸懸づくしを、ひやうづばと射て筈の隱る程ぞ、射籠だる。屏風を返す樣に、馬はどうと倒るれば、主は馬手の足をこえ弓手の方へ下立て、軈て太刀をぞ拔だりける。楯の陰より、大長刀打振て懸りければ、三穗屋の十郎、 小太刀大長刀に叶はじとや思けむ、かいふいて迯ければ、軈て續て追懸たり。長刀でながんずるかと見る處に、さはなくして、長刀をば左の脇にかい挾み、右の手を差延て、三穗屋十郎が甲のしころをつかまむとす。つかまれじとはしる。三度つかみはづいて、四度の度むずとつかむ。暫したまて見えし。鉢附の板より、ふつと引切てぞ迯たりける。殘四騎は、馬を惜うでかけず、見物してこそ居たりけれ。三穗屋十郎は、御方の馬の陰に逃入て、息續居たり。敵は追ても來で長刀杖につき、甲のしころを指上げ、大音聲を上て、「日比は音にも聞つらん。今は目にも見給へ。是こそ京童部の喚なる上總惡七兵衞景清よ。」と名乘棄てぞ歸りける。
平家是に心地なほして、「惡七兵衞討すな。續けや者共。」とて又二百餘人なぎさに上り、楯を雌羽につき竝べて「敵寄よ。」とぞ招いたる。判官是を見て「安からぬ事なり。」とて、後藤兵衞父子、金子兄弟を先に立て、奧州の佐藤四郎兵衞、伊勢三郎を弓手馬手に立、田代冠者を後に立てゝ、八十餘騎をめいてかけ給へば、平家の兵ども、馬には乘らず、大略歩武者にてありければ、馬に當られじと引退いて、皆船へぞ乘りにける。楯は算を散したる樣に、散散に蹴散さる。源氏の兵共勝に乘て、馬の太腹ひたる程に、打入々々責戰ふ。判官深入して戰ふ程に船の中より熊手を持て、判官の甲の錣に、からり/\と二三度迄打懸けるを、御方の兵共、太刀長刀で打のけ/\しける程に、如何したりけん、判官弓をかけ落されぬ。うつぶして鞭をもて掻寄て、取う/\とし給へば、兵共、「唯捨させ給へ。」と申けれども、終に取 て、笑うてぞ歸られける。おとな共、爪彈をして、「口惜き御事候かな。縱千疋萬疋に替させ給べき御寶なりとも、爭か御命に替させ給ふべき。」と申せば、判官、「弓の惜さに取らばこそ。義經が弓といはゞ、二人しても張り、若は三人しても張り、伯父の爲朝が弓の樣ならば、態も落して取すべし。 わう弱たる弓を、敵取持て、『是こそ源氏の大將九郎義經が弓よ。』とて嘲哢せんずるが口惜ければ、命に代て取るぞや。」と宣へば、皆人是をぞ感じける。
さる程に日暮ければ、平家の船は沖に浮めば源氏は陸に引退いて、むれ高松の中なる野山に、陣をぞ取たりける。源氏の兵共、此三日が間は臥ざりけり。一昨日渡邊福島を出づるとて、其夜大浪にゆられて目睡まず、昨日阿波國勝浦にて軍して終夜中山越え、今日又一日戰くらしたりければ、皆疲果てゝ或は甲を枕にし、或は鎧の袖、箙など枕にして、前後も知らず臥たりけり。其中に、判官と伊勢三郎は寢ざりけり。判官は高き所に登上て、敵や寄ると遠見し給へば、伊勢三郎はくぼき所に隱れ居て、敵寄せば、先づ馬の太腹射んとて待懸たり。平家の方には、能登守を大將にて、其勢五百餘騎夜討にせんと支度しけれども、越中次郎兵衞盛次と、海老次郎守方と先陣を爭ふ程に、其夜も空しくあけにけり。夜討にだにもしたらば源氏なじかはたまるべき。寄せざりけるこそ、責ての運の究めなれ。
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志度合戰
明ければ、平家舟に取乘て當國志度浦へ漕退く。判官三百餘騎が中より馬や人をすぐて八十 餘騎、追てぞかゝりける。平家是を見て、「敵は小勢なり。中に取籠て討や。」とて、又千餘人なぎさに上りをめき叫で責戰ふ。さる程に、八島に殘留たる二百餘騎の兵共、後馳に馳來る。平家是を見て、「すはや源氏の大勢の續くは。何十萬騎か有るらん。取籠られては叶ふまじ。」とて又船に取乘て潮に引かれ風に隨て、何くを指共なく、落行ぬ。四國は皆大夫判官に追落されぬ、九國へは入られず、唯中有の衆生とぞ見えし。
判官志度浦に下居て、頸共實檢しておはしけるが、伊勢三郎義盛をめして、宣ひけるは、「阿波民部重能が嫡子、田内左衞門教能は河野四郎通信が、召せども參らぬを責んとて、三千餘騎にて、伊豫へ越えたりけるが、河野をば打泄して家子郎等百五十人が頸斬て昨日八島の内裏へ參せたりけるが、今日是へ著ときく。汝行向て、ともかくもこしらへて具して參れかし。」と宣へば、畏て承り、旗一流給はてさす儘に、其勢僅に十六騎、皆白裝束にて馳向ふ。義盛教能に行合たり。白旗赤旗、二町許を隔てゝゆらへたり。伊勢三郎義盛使者を立て申けるは「是は源氏の大將軍九郎大夫判官殿の御内に、伊勢三郎義盛と申者で候が、大將に申べき事有て、是まで罷向て候。軍合戰の料でも候はねば、物具もし候はず、弓矢ももたせ候はず、あけて入させ給へ。」と申ければ、三千餘騎の兵共、中を開てぞ通しける。義盛教能に打雙て、「且聞給ても有るらん、鎌倉殿の御弟九郎大夫判官殿院宣を承て、平家追討の爲に、西國へ向はせ給て候が、一昨日阿波國勝浦にて、御邊の伯父櫻間介殿討たれ給ぬ。昨日八島に寄せて御所内裏皆燒拂ひ、大臣殿父子生捕にし奉り能登殿は自害し給ひぬ。その外の君達或は討 死に或は海に入り給ひぬ。餘黨の僅に有つるは志度の浦にて、皆討たれぬ。御邊の父阿波民部殿は、降人に參せ給ひて候を、義盛が預り奉て候が、あはれ田内左衞門が是をば夢にも知らで、明日は軍して討れ參らせんずる無慚さよと、通夜歎き給ふが、餘に最愛て此事知らせ奉らんとて是まで罷向て候。其上は軍して討死せんとも降人に參て父を今一度見奉らんともともかうも御邊が計ぞ。」といひければ、田内左衞門、聞ゆる兵なれども運や盡にけん。「且聞く事に少も違ず。」とて、甲を脱弓の弦を弛いて、郎等にもたす。大將がか樣になる上は、三千餘騎の兵ども皆此の如し。僅に十六騎に具せられ、おめおめと降人にこそ參りけれ。「義盛が策誠にゆゝしかりけり。」と判官も感じ給ひけり。やがて田内左衞門をば物具めされて、伊勢三郎に預けらる。「さてあの勢共は如何に。」と宣へば、遠國の者共は、「誰を誰とか思ひ參せ候べき。唯世の亂れをしづめて國を知し召さんを君とせん。」と申ければ、尤然るべしとて、三千餘騎を、皆我勢にぞ具せられける。