饭饭TXT > 海外名作 > 《平家物语(日文版)》作者:[日]未知【完结】 > 平家物语.txt

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作者:日-未知 当前章节:15647 字 更新时间:2026-6-19 10:59

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清水寺炎上

山門の大衆、狼藉をいたさば、手向へすべき處に、心深うねらふ方もやありけん。一詞も出さず。御門かくれさせ給ひては、心なき草木までも、愁へたる色にてこそあるべきに、この 騒動のあさましさに、高きも賤きも、肝魂を失て四方へ皆退散す。同二十九日の午の刻ばかり、山門の大衆おびたゞしう下洛すと聞えしかば、武士、 檢非違使、西坂本に馳向て、防ぎけれども、事ともせずおしやぶて亂入す。何者の申出したりけるやらむ、一院、山門の大衆に仰せて、平家を追討せらるべしと聞えし程に、軍兵内裏に參じて、四方の陣頭を警固す。平氏の一類、皆六波羅へ馳集る。一院も、急ぎ六波羅へ御幸なる。清盛公其比、いまだ大納言にておはしけるが、大に恐れさわがれけり。小松殿「何によてか、唯今さる事あるべき。」と、しづめられけれども、上下ののしりさわぐことおびたゞし。山門の大衆、六波羅へは寄せずして、すずろなる清水寺におしよせて、佛閣僧房一宇も殘さず燒はらふ。是はさんぬる御葬送の夜の會稽の耻を雪めんがためとぞ聞えし。清水寺は、興福寺の末寺たるによてなり。清水寺燒けたりける朝、何者の態にや在けん、「觀音火坑變成池はいかに」と札に書て、大門の前にたてたりければ、次の日、又「歴劫不思議力不及」と、返しの札をぞ打たりける。

衆徒返り上りければ、一院六波羅より還御なる。重盛卿ばかりぞ、御ともには參られける。父の卿は參られず。猶用心のためかとぞ聞えし。重盛卿、御送よりかへられたりければ、父の大納言の給ひけるは、「一院の御幸こそ大きに恐れおぼゆれ。かねても思しめしより、仰せらるゝ旨のあればこそかうは聞ゆらめ、それにも打解給ふまじ。」とのたまへば、重盛卿申されけるは、「此事ゆめ/\御けしきにも、御詞にも出させ給ふべからず、人に心附けがほに、 中々惡しき御事なり。それにつけても叡慮に背き給はで、人のために御なさけを施させましまさば、神明三寶加護あるべし。さらんにとては、御身の恐れ候ふまじ。」とて、立たれければ「重盛卿は、ゆゝしく大樣なるものかな。」とぞ父の卿ものたまひける。

一院還御の後、御前にうとからぬ近習者達あまた候はれけるに、「さても不思議の事を申し出したるものかな。露もおぼし召よらぬものを。」と仰ければ、院中の切者に西光法師といふ者あり。境節御前近う候ひけるが、「天に口なし、人を以ていはせよと申す。平家以外に過分に候間、天の御計らひにや。」とぞ申しける。人々「この事よしなし。壁に耳あり、おそろしおそろし。」とぞ申あはれける。

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東宮立

さる程に、その年は諒闇なりければ、御禊大甞會も行はれず。同十二月二十四日、建春門院その比はいまだ東の御方と申しける御腹に、一院の宮まし/\けるが、親王の宣旨下され給ふ。

明くれば、改元ありて仁安と號す。同年の十月八日、去年親王の宣旨蒙らせ給し皇子、東三條にて春宮に立たせ給ふ。春宮は御伯父六歳、主上は御甥三歳、何れも昭穆に相叶はず。但し寛和二年、一條院七歳にて御即位。三條院十一歳にて東宮に立せ給ふ。先例なきにしもあらず。主上は二歳にて御禪を受けさせ給ひ、纔に五歳と申二月十九日、東宮踐祚ありしかば、 位をすべらせ給て、新院とぞ申ける。いまだ御元服もなくして、太上天皇の尊號あり。漢家本朝是やはじめならむ。

仁安三年三月二十日、新帝大極殿にして御即位あり。此君の位につかせ給ぬるは、いよ/\平家の榮花とぞ見えし。御母儀建春門院と申すは、平家の一門にてましますうへ、とりわき入道相國の北の方、二位殿の御妹なり。又平大納言時忠卿と申も、女院の御兄なれば、内の御外戚なり。内外につけたる執權の臣とぞ見えし。叙位除目と申すも、偏にこの時忠卿のまゝなり。楊貴妃が幸ひし時、楊國忠が盛えし如し。世のおぼえ、時のきら、めでたかりき。入道相國天下の大小事をのたまひあはせられければ、時の人平關白とぞ申しける。

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殿下乘合

さる程に、嘉應元年七月十六日、一院御出家あり。御出家の後も、萬機の政をきこめしされし間、院内わく方なし。院中にちかくめしつかはるゝ公卿殿上人、上下の北面に至るまで、官位俸禄、皆身に餘るばかりなり。されども人の心の習なれば、猶飽きたらで、「あはれその人の亡びたらば、その國はあきなむ、その人失せたらば、その官にはなりなん。」など、疎からぬどちは、寄り合ひ寄り合ひさゝやきあへり。法皇も内々仰なりけるは、「昔より代々の朝敵を平ぐるもの多しといへども、いまだ加樣の事なし。貞盛、秀郷が、將門を討ち、頼義が貞任、宗任を亡し、義家が武平、家平を攻めたりしも、勸賞行はれしこと、受領には過ぎざり き。清盛がかく心のまゝにふるまふこそ然るべからね。これも世末になりて、王法の盡きぬる故なり。」と仰なりけれども、次でなければ御いましめもなし。平家も又別して、朝家を恨み奉ることもなかりしほどに、世の亂れそめける根本は、去じ嘉應二年十月十六日に、小松殿の次男新三位中將資盛卿、その時はいまだ越前守とて十三になられけるが、雪ははだれに降たりけり。枯野の景色まことに面白かりければ、わかき侍ども三十騎ばかりめし具して、蓮臺野や、紫野、右近馬場に打出でて、鷹どもあまたすゑさせ、鶉、雲雀をおたて/\、終日にかり暮し、薄暮に及んで六波羅へこそ歸られけれ。その時の御攝祿は、松殿にてましましけるが、中御門東洞院の御所より御參内ありけり。郁芳門より入御あるべきにて、東洞院を南へ、大炊御門を西へ御出なる。資盛朝臣、大炊御門猪熊にて、殿下の御出に鼻突に參りあふ。御供の人々「何者ぞ、狼藉なり。御出なるに、乘物より下り候へ/\。」と、云てけれども、餘に誇り勇み、世を世ともせざりける上、めし具したる侍ども、皆二十より内の若物共なり、禮義骨法辨へたる者一人もなし。殿下の御出ともいはず、一切下馬の禮義にも及ばず、驅け破て通らむとする間、暗さはくらし、つや/\入道の孫とも知らず。又少々は知たれども、空しらずして、資盛朝臣を始として、侍共皆馬より取て引落し、頗る耻辱に及びけり。資盛朝臣、はふ/\六波羅へおはして、祖父の相國禪門に、此由訴へ申されければ、入道大きに怒て、「縱ひ殿下なりとも、淨海があたりをば憚り給ふべきに、少者に左右なく、耻辱を與へられけるこそ遺恨の次第なれ。かゝる事よりして、人にはあざむかるゝぞ。 此事思ひ知らせ奉らでは、えこそあるまじけれ。殿下を恨奉らばや。」とのたまへば、重盛卿申されけるは「是は少しも苦しう候まじ。頼政、光基など申源氏共にあざむかれて候はんには、誠に一門の耻辱でも候ふべし。重盛が子どもとて候はんずるものの、殿下の御出に參りあひて、乘物より下候はぬこそ尾籠に候へ。」とて、その時事にあうたる侍共めしよせ、「自今以後も、汝等よく/\心得べし、誤て、殿下へ無禮の由を申さばやとこそ思へ。」とて歸られけり。

その後、入道相國小松殿には仰られもあはせず、片田舎の侍どものこはらかにて、入道殿の仰より外は、又恐しき事なしと思ふ者ども、難波妹尾を始として、都合六十餘人召し寄せ、「來二十一日、主上御元服の御定めの爲に殿下御出あるべかんなり。いづくにても待かけ奉り、前驅御隨身共が髻きて、資盛が耻雪げ。」とぞのたまひける。殿下、是をば夢にもしろしめさず、主上、明年御元服、御加冠、拜官の御定のために、御直盧に暫く御座あるべきにて、常の御出よりも引き繕はせ給ひ、今度は待賢門より入御あるべきにて、中御門を西へ御出なる。猪熊堀川の邊に、六波羅の兵ども、直冑三百餘騎待ち受け奉り、殿下を中に取りこめ參らせて、前後より一度に、鬨をどとぞつくりける。前驅御隨身共が今日を晴としやうぞいたるを、あそこに追かけ、こゝに追つめ、馬よりとて引落し、散々に陵礫して、一々に髻をきる。隨身十人が中、右の府生武基が髻もきられにけり。その中に、藤藏人大夫隆教が髻をきるとて、「是は汝が髻と思ふべからず、主の髻と思ふべし。」と、言ひ含めてきてけり。其後 に御車の内へも、弓の筈つき入れなどして、簾かなぐり落し、御牛の鞦、 胸懸切りはなち散々にし散して、悦のときをつくり、六波羅へこそ參りけれ。入道「神妙なり。」とぞのたまひける。御車副には、因幡のさい使、鳥羽の國久丸といふをのこ、下臈なれども、なさけある者にて、泣々御車つかまつて、中御門の御所へ還御なし奉る。束帶の御袖にて、御涙をおさへつゝ、還御の儀式あさましさ、申すもなか/\おろかなり。大織冠、淡海公の御事は、擧げて申すに及ばず、忠仁公、昭宣公より以降、攝政關白の、かゝる御目にあはせ給ふ事、未だ承り及ばず。是こそ平家の惡行の始なれ。

小松殿こそ大に噪がれけれ。行向ひたる侍共、皆勘當せらる。「たとひ入道如何なる不思議を下知し給とも、など重盛に夢をば見せざりけるぞ。凡は資盛奇怪なり、旃檀は二葉よりかうばしとこそ見えたれ。已に十二三歳にならむずる者が、今は禮義を存知してこそ振舞ふべきに、かやうに尾籠を現じて、入道の惡名を立つ、不孝のいたり、汝一人にありけり。」とて、暫く伊勢の國に追ひ下さる。さればこの大將をば、君も臣も御感ありけるとぞ聞えし。

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鹿谷

是によて主上御元服の御定め、その日は延させ給ぬ。同廿五日、院の殿上にてぞ、御元服の定めはありける。攝政殿さても渡らせ給ふべきならねば、同十二月九日、兼宣旨をかうぶり、十四日太政大臣にあがらせ給ふ。やがて同十七日慶申しありしかども、世の中はにが/\し うぞ見えし。

さる程に今歳も暮ぬ。明れば嘉應三年正月五日、主上御元服あり。同十三日朝覲の行幸ありけり。法皇、女院、待ち受け參らせさせ給て、初冠の御粧いかばかりらうたく思しめされけん。入道相國の御娘、女御に參らせ給ひけり。御歳十五歳。法皇御猶子の儀なり。

其比妙音院の太政のおほいとの、其時は未内大臣の左大將にてましましけるが、大將を辭し申させ給ふことありけり。時に徳大寺の大納言實定卿、その仁に當り給ふ由聞ゆ。又花山院の中納言兼雅卿も所望あり。その外、故中御門の藤中納言家成卿の三男、新大納言成親卿もひらに申されけり。院の御氣色よかりければ、樣樣の祈をぞ始められける。先づ八幡に百人の僧を籠て、眞讀の大般若を七日讀ませられける最中に、甲良の大明神の御前なる橘の木に、男山の方より山鳩三つ飛來て、食ひ合ひてぞ死にける。鳩は八幡大菩薩の第一の仕者なり。宮寺にかゝる不思議なしとて、時の 檢校匡清法印奏聞す。神祗官にして御占あり。天下の噪ぎと占申。「但し君の愼みにあらず、臣下のつゝしみ。」とぞ申ける。新大納言是に恐れをも致されず、晝は人目の滋ければ、夜な/\歩行にて、中御門烏丸の宿所より、賀茂の上の社へ七夜續けて參られけり。七夜に滿ずる夜、宿所に下向して、苦しさに、うちふし、ちと目睡給へる夢に、賀茂の上の社へ參りたると思しくて、御寶殿の御戸推開き、ゆゝしくけだかげなる御聲にて

櫻花賀茂の川かぜうらむなよ、散るをばえこそとゞめざりけれ。

新大納言猶恐れをも致されず、賀茂の上の社に、ある聖を籠て、御寶殿の御後なる杉の洞に壇を立てて、拏吉尼の法を百日行はせられけるほどに、彼の大杉に雷落ちかゝり、雷火おびただしく燃え上て、宮中已に危く見えけるを、宮人ども多く走り集て、これを打消つ。かの外法行ひける聖を、追出せんとしければ、「我當社に百日參籠の大願あり、今日は七十五日になる。全く出まじ。」とてはたらかず。此の由を社家より内裏へ奏聞しければ「唯法に任せて追出せよ。」と宣旨を下さる。その時神人白杖を以て、彼聖がうなじをしらけ、一條の大路より南へ追ひ出してけり。神は非禮をうけ給はずと申すに、この大納言、非分の大將を祈り申されければにや、かゝる不思議も出で來にけり。

其比の叙位除目と申は、院内の御はからひにもあらず、攝政關白の御成敗にも及ばず、唯一向平家のまゝにてありしかば、徳大寺、花山院もなり給はず、入道相國の嫡男小松殿、右大將にておはしけるが、左に移りて、次男宗盛、中納言におはせしが、數輩の上臈を超越して、右に加はられけるこそ、申すばかりもなかりしか。中にも徳大寺殿は、一の大納言にて華族、英雄、才覺雄長、家嫡にてまし/\けるが、越えられ給けるこそ遺恨なれ。定めて御出家などやあらむずらむと、人々内々は申あへりしかども、暫く世のならむ樣を見んとて、大納言を辭し申て、籠居とぞ聞えし。

新大納言成親卿宣ひけるは、「徳大寺、花山院に越えられたらむは、いかゞせん。平家の次男に越えらるゝこそ安からね。是も萬づ思ふさまなるがいたす所也。いかにもして平家を亡し 本望を遂げむ。」とのたまひけるこそ怖しけれ。父の卿は中納言までこそ至られしか。その末子にて、位正二位、官大納言にあがり、大國あまた給はて、子息所從朝恩に誇れり。何の不足に、かゝる心つかれけん。是偏に天魔の所爲とぞ見えし。平治にも、越後中將とて、信頼卿に同心の間、既に誅せらるべかりしを、小松殿やう/\に申て、首をつぎ給へり。然るにその恩を忘れて、外人もなき所に兵具をとゝのへ、軍兵を語らひおき、其營みの外は他事なし。

東山の麓鹿の谷といふ所は、後は三井寺に續いて、ゆゝしき城郭にてぞありける。俊寛僧都の山庄あり。かれに常は寄りあひ/\、平家滅さむずる謀をぞ囘しける。或時法皇も御幸なる。故少納言入道信西が子息、淨憲法印御供仕る。その夜の酒宴に、此由を淨憲法印に仰あはせられければ、「あなあさましや、人あまた承候ぬ。唯今漏きこえて、天下の大事に及び候ひなんず。」と大に噪ぎ申ければ、新大納言氣色かはりて、さと立たれけるが、御前に候ける瓶子を、狩衣の袖にかけて引きたふされたりけるを、法皇「あれはいかに。」と仰せければ大納言立かへて、「平氏たふれ候ひぬ。」と申されける。法皇ゑつぼに入らせおはしまして、「物ども參て猿樂つかまつれ。」と仰ければ、平判官康頼參りて、「あゝ餘にへいじの多う候に、もて醉て候。」と申す。俊寛僧都「さてそれをいかゞ仕らむずる。」と申されければ、西光法師「頸を取るにはしかじ。」とて、瓶子の首を取てぞ入にける。淨憲法印餘りのあさましさに、つや/\物も申されず。返す/\も恐しかりしことどもなり。與力の輩誰々ぞ。近江中將入道蓮淨俗名成正、法勝寺の執行俊寛僧都、山城守基兼、式部大輔雅綱、平判官康頼、宗判官信房、 新平判官資行、攝津國源氏多田藏人行綱を始として北面の輩多く與力したりけり。

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鵜川軍

此法勝寺の執行と申すは、京極の源大納言雅俊の卿の孫、木寺の法印寛雅には子なりけり。祖父大納言させる弓箭を取る家にはあらねども、あまりに腹あしき人にて、三條坊門京極の宿所の前をば、人をもやすく通さず、つねは中門にたゝずみ、齒をくひしばり、怒てぞおはしける。かゝる人の孫なればにや、この俊寛も僧なれども、心も猛くおごれる人にて、よしなき謀反にも與しけるにこそ。新大納言成親卿は、多田の藏人行綱を呼て、「御邊をば、一方の大將に憑むなり。此事しおほせつるものならば、國をも庄をも所望によるべし。先づ弓袋の料に。」とて、白布五十端送られたり。

安元三年三月五日、妙音院殿、太政大臣に轉じ給へるかはりに、大納言定房卿を越えて、小松殿、内大臣になり給ふ。大臣の大將めでたかりき。やがて大饗行はる。尊者には、大炊御門左大臣經宗公とぞ聞えし。一のかみこそ先途なれども、父宇治の惡左府の御例憚あり。

北面は上古にはなかりけり。白河院の御時、始め置かれてより以降、衞府ども數多候けり。爲俊、盛重、童より千手丸、、今犬丸とて、是等は左右なき切者にてぞありける。鳥羽院の御時も、季教、季頼父子、共に朝家に召仕はれ傳奏する折もありなど聞えしかども、皆身の程をばふるまうてこそありしに、此時の北面の輩は、以外に過分にて、公卿殿上人をも物とも せず、禮儀禮節もなし。下北面より上北面にあがり、上北面より殿上の交を許さるゝ者もあり。かくのみ行はるゝ間、おごれる心どもも出きて、よしなき謀反にも與しけるにこそ。中にも故少納言入道信西が許に召使ける師光成景といふものあり。師光は阿波の國の在廰、成景は京の者、熟根賤しき下臈なり。健兒童、もしは恪勤者などにて被召仕けるが、賢々しかりしによりて、師光は左衞門尉、成景は右衞門尉とて、二人一度に靱負尉になりぬ。信西が事にあひし時、二人ともに出家して、左衞門入道西光、右衞門入道西敬とて、此等は出家の後も、院の御倉預にてぞ在ける。

かの西光が子に、師高といふ者あり。是も切者にて、檢非違使五位尉に歴上て、安元元年十二月廿九日、追儺の除目に加賀守にぞなされける。國務を行ふ間、非法非禮を張行し、神社佛寺、權門勢家の庄領を沒倒し、散々の事共にてぞありける。假令せう公が跡を隔つといふとも、穩便の政を行ふべかりしに、かく心のまゝにふるまひし程に、同二年夏の比、國司師高が弟、近藤判官師經、加賀の目代に補せらる。目代下著のはじめ、國府の邊に鵜川といふ山寺あり。寺僧どもが境節湯をわかいて浴びけるを、亂入しておひあげ、我身あび、雜人共おろし、馬洗はせなどしけり。寺僧怒をなして、「昔より此處は國方の者入部することなし。速に先例に任せて、入部の押妨をとゞめよ。」とぞ申ける。「先先の目代は、不覺でこそいやしまれたれ。當目代はその儀あるまじ。唯法に任せよ。」といふ程こそありけれ、寺僧どもは、國方の者を追出せむとす。國方の者共は次を以て、亂入せんとす。うちあひ張合ひしけ る程に、目代師經が秘藏しける馬の足をぞ打折りける。その後は互に弓箭兵仗をたいして、射合ひ截合ひ數刻戰ふ。目代かなはじとや思ひけむ、夜に入て引退く。其後當國の在廳ども催し集め、其勢一千餘騎鵜川に押寄せて、坊舎一宇も殘さず燒拂ふ。鵜川といふは、白山の末寺なり。この事訴へんとて進む老僧誰々ぞ。智釋、學明、寶臺房、正智、學音、土佐阿闍梨ぞ進みける。白山三社、八院の大衆、悉く起りあひ、都合その勢二千餘人、同七月九日の暮方に、目代師經が館近うこそ押寄せたれ。今日は日暮れぬ。明日の軍と定めて、その日はよせでゆらへたり。露ふき結ぶ秋風は、射向の袖を飜し、雲井を照す稻妻は冑の星を耀す。目代かなはじとや思ひけん、夜逃にして京へのぼる。明くる卯刻に押寄て、閧をどとつくる。城の中には音もせず。人を入れて見せければ、皆落て候と申す。大衆力及ばで引退く。然らば山門へ訴へんとて、白山中宮の神輿をかざり奉り、比叡山へふりあげ奉る。同八月十二日の午刻許、白山の神輿、既に比叡山東坂本につかせ給ふと云程こそありけれ。北國の方より雷おびたゞしく鳴て、都をさして鳴りのぼる。白雪くだりて地を埋み、山上洛中おしなべて、常葉の山の梢まで皆白妙になりけり。

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願立

神輿をば、客人の宮へ入れ奉る。客人と申は、白山妙理權現にておはします。申せば父子の御中なり。先沙汰の成否は知らず、生前の御悦、只この事にあり。浦島が子の七世の孫に遭へり しにも過ぎ、胎内の者の靈山の父を見しにも超えたり。三千の衆徒踵をつぎ、七社の神人袖を列ね、時々刻々の法施、祈念、言語道斷の事ども也。

山門の大衆、國司加賀の守師高を流罪に處せられ、目代近藤判官師經を禁獄せらるべき由奏聞す。御裁斷遲かりければ、さも可然公卿殿上人は、「あはれとく御裁許あるべきものを、昔より山門の訴訟は他に異なり、大藏卿爲房、太宰の權帥季仲は、さしも朝家の重臣たりしかども、山門の訴訟によて、流罪せられにき。況や師高などは、事の數にやはあるべきに、子細にや及ぶべき。」と申あはれけれども、「大臣は祿を重んじて諫めず、小臣は罪に恐れて申さず。」といふ事なれば、各口を閉ぢたまへり。「賀茂川の水、雙六の賽、山法師、これぞ我心にかなはぬもの。」と白河院も仰なりけるとかや。鳥羽院の御時、越前の平泉寺を、山門へつけられけるには、當山を御歸依淺からざるによて、「非を以て理とす。」とこそ、宣下せられて、院宣をば下されけれ。江帥匡房卿の申されし樣に、「神輿を陣頭へ振奉て、訴申さんには、君はいかゞ御計ひ候ふべき。」と申されければ、「げにも山門の訴訟はもだしがたし。」とぞ仰せける。

去じ嘉保二年三月二日、美濃守源義綱朝臣、當國新立の庄を倒す間、山の久住者圓應を殺害す。是によて日吉の社司、延暦寺の寺官、都合三十餘人、申文をささげて陣頭へ參じけるを後二條關白殿、大和源氏中務權少輔頼春に仰せてふせがせらる。頼春が郎等矢を放つ。矢庭に射殺さるゝ者八人、疵を被むる者十餘人、社司諸司四方へちりぬ。山門の上綱等、仔細を奏聞のために下洛すと聞えしかば、武士、檢非違使、西坂本に馳向て、皆おかへす。

山門には、御裁斷遲々の間、七社の神輿を根本中堂に振上げ奉り、その御前にて、眞讀の大般若を七日讀で、關白殿を呪咀し奉る。結願の導師には、仲胤法印、その比はいまだ仲胤供奉と申しが、高座に上り、かね打ならし、表白の詞にいはく、「我等なたねの二葉よりおふし立て給ふ神達、後二條の關白殿に、鏑矢一つ放ち當て給へ、大八王子權現。」と高らかにぞ祈誓したりける。やがてその夜不思議の事あり。八王子の御殿より、鏑矢の聲いでて、王城をさしてなん行くとぞ、人の夢には見たりける。そのあした、關白殿の御所の御格子をあげけるに、只今山よりとてきたるやうに、露にぬれたる樒、一枝たたりけるこそ怖しけれ。やがて山王の御咎めとて、後二條の關白殿、重き御病をうけさせ給ひしかば、母上、大殿の北の政所大に歎かせ給つゝ、御樣をやつし、賤しき下臈のまねをして、日吉の社に御參籠あて、七日七夜が間祈申させ給けり。あらはれての御祈には、百番の芝田樂、百番の一物、競馬、流鏑馬、相撲各百番、百座の仁王講、百座の藥師講、一 ちやく手半の藥師百體、等身の藥師一體並に釋迦、阿彌陀の像、各造立供養せられけり。又御心中に、三つの御立願あり。御心のうちの事なれば、人いかで知り奉るべき。それに不思議なりし事は、七日に滿ずる夜、八王子の御社にいくらもありける參人どもの中に、陸奧より遙々と上りたりける童神子、夜半ばかりに俄にたえ入けり。遙にかき出して祈りければ、程なくいき出て、やがて立て舞ひかなづ。人奇特の思をなして是を見る。半時ばかり舞て後、山王おりさせ給て、やう/\の御託宣こそ恐しけれ。「衆生等確に承れ。大殿の北の政所、今日七日我が御前に籠らせ給たり。御立願三つあり。一つには今度殿下の壽命 を助けてたべ、さも候はゞ、下殿に候ふ諸のかたはうどに交て、一千日が間、朝夕宮仕申さんとなり。大殿の北の政所にて、世を世とも思し召さで、すごさせ給ふ御心に、子を思ふ道にまよひぬれば、いぶせきことも忘れて、あさましげなるかたはうどに交はて、一千日が間、朝夕宮仕申さむと仰せらるゝこそ、誠に哀に思しめせ。二つには、大宮の波止土濃より八王子の御社まで、囘廊作て參らせむとなり。三千人の大衆、降にも照にも、社參の時いたはしうおぼゆるに、囘廊作られたらば、いかにめでたからん。三つには今度の殿下の壽命を助させ給はゞ、八王子の御社にて、法花問答講毎日退轉なく行べしとなり。何れもおろかならねども、かみ二つはさなくともありなむ。毎日法花問答講は、誠にあらまほしうこそ思召せ。但今度の訴訟は、むげに安かりぬべき事にてありつるを、御裁許なくして、神人宮仕射殺され、疵を被り、泣く泣く參て訴申す事の餘に心憂て、如何ならむ世までも忘るべしともおほえず。その上かれらに當る處の矢は、しかしながら和光垂跡の御膚に立たるなり。誠か虚言か是を見よ。」とて、肩ぬいだるを見れば、左の脇の下、大なるかはらけの口ばかりうげのいてぞ見えたりける。「是が餘に心憂ければ、如何に申とも、始終のことは叶ふまじ。法花問答講一定あるべくば、三年が命を延べて奉らむ。それを不足に思し召さば、力及ばず。」とて山王あがらせ給ひけり。母上は御立願の事、人にも語らせ給はねば誰漏しつらむと、少しも疑ふ方もましまさず。御心の内の事どもを、ありのまゝに御託宣ありければ、心肝にそうて、ことに貴くおぼしめし、泣々申させ給けるは「縱ひ一日片時にて候ふとも、ありがたうこそ候ふべきに、まして三年 が命を延べて給らむ事しかるべう候ふ。」とて、泣々御下向あり。急ぎ都へ入せ給て、殿下の御領紀伊國に、田中庄といふ所を、八王子の御社へ永代寄進せらる。それよりして法花問答講、今の世に至るまで毎日退轉なしとぞ承る。

かゝりし程に、後二條關白殿、御病かろませ給て、もとの如くにならせ給ふ。上下喜びあはれし程に、三年の過ぐるは夢なれや、永長二年になりにけり。六月二十一日、又後二條の關白殿、御髮の際に惡しき御瘡出きさせ給て、打ち臥させ給ひしが、同二十七日、御年三十八にて終にかくれさせ給ぬ。御心の猛さ、理の強さ、さしもゆゝしき人にてましましけれ共、まめやかに事の急になりしかば、御命を惜ませ給ひける也。誠に惜しかるべし。四十にだにも滿たせ給はで、大殿に先立まゐらせ給こそ悲しけれ。必ずしも父を先立つべしといふことはなけれども、生死のおきてに順ふならひ、萬徳圓滿の世尊、十地究竟の大士達も、力及び給はぬ事どもなり、慈悲具足の山王、利物の方便にてましませば、御咎めなかるべしとも覺えず。

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御輿振

さる程に山門の大衆、國司加賀守師高を流罪に處せられ、目代近藤判官師經を禁獄せらるべき由、奏聞度々に及ぶといへども、御裁許なかりければ、日吉の祭禮を打ち留めて、安元三年四月十三日辰の一點に、十禪師、客人、八王子三社の神輿かざり奉りて、陣頭へ振奉る。下松、きれ堤、賀茂の川原、糺、梅たゞ、柳原、東北院の邊に、しら大衆、神人、宮仕、専當みち/\ て、幾らといふ數を知らず、神輿は一條を西へいらせ給ふ。御神寶天にかゞやいて、日月地に落給かと驚かる。是によて、源平兩家の大將軍、四方の陣頭を固めて、大衆防ぐべきよし仰下さる。平家には、小松の内大臣の左大將重盛公、其勢三千餘騎にて、大宮面の陽明、待賢、郁芳、三つの門をかため給ふ。弟宗盛、知盛、重衡、伯父頼盛、教盛、經盛などは、西南の陣を固められけり。源氏には、大内守護の源三位頼政卿、渡邊の省授をむねとして、その勢僅に三百餘騎、北の門、縫殿の陣を固め給ふ。處は廣し、勢は少し、まばらにこそ見えたりけれ。

大衆無勢たるによて、北の門、縫殿の陣より、神輿を入れ奉らんとす。頼政卿さる人にて、馬よりおり冑をぬいで、神輿を拜し奉る。兵ども皆かくの如し。衆徒の中へ使者を立てゝ、申送る旨あり。その使は、渡邊の長七唱と云者なり。唱その日は、きちんの直垂に、小櫻を黄にかへいたる鎧著て、赤銅作の太刀を帶き、白羽の箭負ひ、滋籐の弓脇にはさみ、冑をばぬぎ高紐に掛け、神輿の御前に畏て申けるは、「衆徒の御中へ源三位殿の申せと候。今度山門の御訴訟、理運の條勿論に候。御成敗遲々こそよそにても遺恨に覺え候へ。さては神輿入れ奉らむこと仔細に及び候はず。但頼政無勢に候ふ。その上明けて入れ奉る陣より入せ給て候はば、山門の大衆は目たりがほしけりなど、京童の申候はむこと、後日の難にや候はんずらむ。神輿を入れ奉らば、宣旨を背くに似たり。又防ぎ奉らば年來醫王、山王に首を傾け奉て候ふ身が、今日より後、弓箭の道に分れ候ひなむず。彼と云ひ、此といひ、旁難治のやうに候。東の陣は、小松殿大勢で固められて候。其陣より入らせ給ふべうもや候ふらむ。」と、いひ送たりければ、 唱がかくいふに防がれて、神人、宮仕暫くゆらへたり。

若大衆共は、「何でうその義あるべき、只此陣より神輿を入れ奉れ。」といふ族多かりけれども、老僧のなかに、三塔一の僉議者と聞えし、攝津の堅者豪雲進み出て申けるは、「尤もさいはれたり。神輿を先立て參らせて、訴訟をいたさば、大勢の中をうち破てこそ、後代の聞えもあらむずれ。就中にこの頼政の卿は、六孫王より以降、源氏嫡々の正統、弓矢を取て未だ其不覺を聞かず。凡武藝にも限らず、歌道にも勝れたり。近衞院御在位の時、當座の御會ありしに、『深山花』といふ題を出されたりけるに、人々讀煩ひしに、此頼政卿、

深山木のその梢とも見えざりし、櫻ははなにあらはれにけり。

といふ名歌仕て、御感に預る程のやさしき男に、時に臨んで、いかがなさけなう耻辱をば與ふべき。此神輿かき返し奉れや。」と僉議しければ、數千人の大衆、先陣より後陣まで、皆尤々とぞ同じける。さて神輿を先立てまゐらせて、東の陣頭待賢門より入れ奉らむとしければ、狼藉忽に出來て、武士ども散々に射奉る。十禪師の御輿にも、矢どもあまた射立たり。神人宮仕射殺され、衆徒多く疵を被る。をめき叫ぶ聲梵天までも聞え、堅牢地神も驚くらんとぞ覺えける。大衆神輿をば、陣頭に振り棄て奉り、泣く/\本山へ歸り上る。

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内裏炎上

藏人の左少辨兼光に仰せて、殿上にて、俄に公卿僉議あり。保安四年七月に、神輿入洛の時は座主に仰せて、赤山の社へ入れ奉る。又保延四年四月に、神輿入洛の時 は、祇園の別當に仰せて、祇園の社へ入れ奉る。今度は保延の例たるべしとて、祇園の別當權大僧都澄兼に仰て、秉燭に及で、祇園の社へ入奉る。神輿に立つ所の箭をば、神人してこれを拔かせらる。山門の大衆、日吉の神輿を陣頭へ振奉ること、永久より以降、治承までは六箇度なり。毎度に武士を召てこそ防がれけれども神輿射奉ること、是始とぞ奉る。「靈神怒をなせば、災害岐に滿つといへり。怖し怖し。」とぞ人々申合はれける。

同十四日夜半ばかり、山門の大衆、又下洛すと聞えしかば、夜中に主上腰輿に召して、院の御所法住寺殿へ行幸なる。中宮は御車に奉て、行啓あり。小松の大臣、直衣に箭負て供奉せらる。嫡子權亮少將維盛、束帶に平胡録負て參られけり。關白殿を始め奉て、太政大臣以下の公卿、殿上人、我も/\と馳せ參る。凡京中の貴賤、禁中の上下、噪ぎのゝしること夥し。山門には神輿に箭立ち、神人宮仕射殺され、衆徒多く疵を被りしかば、大宮、二宮以下、講堂、中堂、すべて諸堂一宇も殘さず皆燒拂て、山野にまじはるべきよし、三千一同に僉議しけり。是によて大衆の申す所、御はからひあるべしと聞えしかば、山門の上綱等、子細を衆徒に觸れむとて、登山したりけるを、大衆おこて西坂本より皆おかへす。

平大納言時忠卿、その時はいまだ左衞門督にておはしけるが、上卿に立つ。大講堂の庭に三塔會合して、上卿を取てひはらんとす。「しや冠打ち落せ、その身を搦めて、湖に沈めよ。」などぞ僉議しける。既にかうと見えけるに、時忠卿、「暫くしづまられ候へ。衆徒の御中へ申すべきこ と有り。」とて、懷より小硯疊紙を取出し、一筆書いて大衆の中へ遣す。是を披いて見れば、「衆徒の濫惡を致すは魔縁の所行なり。明王の制止を加ふるは、善逝の加護なり。」とこそ書かれたれ。是を見て、ひはるに及ばず、皆尤々と同じて、谷々へおり、坊々へぞ入にける。一紙一句をもて、三塔三千の憤をやすめ、公私の耻を逃れ給へる時忠卿こそゆゝしけれ。人々も山門の大衆は、發向のかまびすしきばかりかと思たれば、理も存知したりけりとぞ、感ぜられける。

同廿日、花山院權中納言忠親卿を上卿にて、國司加賀守師高つひに闕官せられて、尾張の井戸田へ流されけり。目代近藤判官師經禁獄せらる。又去る十三日神輿射奉し武士六人獄定せらる。左衞門尉藤原正純、右衞門尉正季、左衞門尉大江家兼、右衞門尉同家國、左兵衞尉清原康家、右兵衞尉同康友、是等は皆小松殿の侍なり。

同四月二十八日亥刻ばかりに、樋口富小路より火出來て、辰巳の風烈しう吹きければ、京中多く燒にけり。大なる車輪の如くなるほむらが、三町五町を隔てゝ、戌亥の方へすぢかへに、飛び越え/\燒け行けば、怖しなどもおろかなり。或は具平親王の千種殿、或は北野の天神の紅梅殿、橘逸勢のはひ松殿、鬼殿、高松殿、鴨居殿、東三條、冬嗣の大臣の閑院殿、昭宣公の堀川殿、これを始めて、昔今の名所三十餘箇所、公卿の家だにも、十六箇所まで燒にけり。その外殿上人、諸大夫の家々は注すに及ばず。はては大内に吹きつけて、朱雀門より始めて、應天門、會昌門、大極殿、豐樂院、諸司、八省、朝所、一時がうちに灰燼の地とぞなりにける。家々の日記、代々の文書、七珍萬寶さながら塵灰となりぬ。その間の費如何ばかりぞ。人の燒 け死ぬること數百人、牛馬の類は數を知らず。これ徒事にあらず、山王の御咎とて、比叡山より大なる猿共が、二三千おりくだり、手に手に松火をともいて、京中を燒くとぞ、人の夢には見えたりける。大極殿は清和天皇の御宇、貞觀十八年に始めて燒けたりければ、同十九年正月三日、陽成院の御即位は、豐樂院にてぞありける。元慶元年四月九日事始ありて同二年十月八日にぞ造り出されたりける。後冷泉院の御宇、天喜五年二月二十六日、又やけにけり。治歴四年八月十四日事始ありしかども、造りいだされずして、後冷泉院崩御なりぬ。後三條院の御宇、延久四年四月十五日造り出して、文人詩を作り奉り、伶人樂を奏して遷幸なし奉る。今は世末になて、國の力も皆衰たれば、その後はつひに造られず。

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平家物語卷第二

座主流

治承元年五月五日、天台座主明雲大僧正、公請を停止せらるゝ上、藏人を御使にて如意輪の御本尊を召返て、御持僧を改易せらる。既使廳の使を附て、今度神輿内裏へ振奉る衆徒の張本をめされける。加賀國に座主の御坊領あり。國司師高是を停廢の間、その宿意に依て、大衆を語らひ訴訟をいたさる。既に朝家の御大事に及ぶ由、西光法師父子が讒奏によて、法皇大に逆鱗ありけり。殊に重科に行はるべしと聞ゆ。明雲は法皇の御氣色惡かりければ、印鎰をかへし奉て、座主を辭し申さる。同十一日鳥羽院七の宮、覺快法親王、天台座主にならせ給ふ。これは青蓮院の大僧正行玄の御弟子也。同じき十二日先座主所職を停めらるゝうへ、檢非違使二人を附て、井に蓋をし、火に水をかけ、水火のせめに及ぶ。是に依て、大衆猶參洛すべき由聞えしかば、京中又噪ぎあへり。

同十八日太政大臣以下の公卿十三人參内して、陣の座につき、先の座主罪科の事議定あり。八條中納言長方卿、其時はいまだ左大辨宰相にて、末座に候はれけるが、申されけるは、「法家の勘状に任せて、死罪一等を減じて、遠流せらるべしと見えて候へ共、前座主明雲大僧正は、顯 密兼學して、淨行持律の上、大乘妙經を公家に授奉り、菩薩淨戒を法皇に持せ奉る。御經の師、御戒の師、重科に行はれん事は、冥の照覽測り難し。還俗遠流を宥らるべきか。」と、憚る處もなう申されければ、當座の公卿皆長方の議に同ずと申あはれけれ共、法皇の御憤深かりしかば、猶遠流に定らる。太政入道も此事申さんとて、院參せられたりけれ共、法皇御風の氣とて、御前へも召され給はねば、本意なげにて退出せらる。僧を罪する習とて、度縁をめし返し、還俗せさせ奉り、大納言大輔、藤井松枝と俗名をぞ附られける。此明雲と申は、村上天皇第七の皇子、具平親王より六代の御末、久我大納言顯通卿の御子也。誠に無雙の碩徳、天下第一の高僧にて坐たれば、君も臣も尊み給ひて、天王寺、六勝寺の別當をもかけ給へり。されども陰陽頭安倍泰親が申けるは、「さばかりの智者の明雲と名乘給ふこそ心得ね。うへに月日の光を竝て、下に雲有。」とぞ難じける。仁安元年二月廿日、天台の座主にならせ給ふ。同三月十五日御拜堂あり。中堂の寶藏を開かれけるに、種々の重寶共の中に、方一尺の箱有り。白い布で包まれたり、一生不犯の座主、彼箱を開けて見給ふに、黄紙に書る文一卷有り。傳教大師、未來の座主の名字を兼てしるし置れたり。我が名の有所迄は見て、それより奧をば見ず、元の如く卷返して置るゝ習也。されば此僧正も、さこそ坐けめ。貴き人なれども、先世の宿業をば免れ給はず。哀なりし事ども也。

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